2021年6月7日月曜日

20210606 ブログ記事作成の意味と人生の創造的な期間について

 本日こそは記事作成をせずに、出来るだけ早く休もうと考えていましたが、他方で、これまでの総投稿記事数は1546であり、そして、今月内の出来るだけ早くに1550記事まで到達しておきたいと考えたことから、本日もまた、さきほどから記事作成を始めた次第です・・(苦笑)。

それに加えて、今月の22日にて、当ブログをはじめて丸六年になりますので、遅くともそれまでには、1550+α程度の投稿記事数にはしておきたいとも考えています。

そうして、これまで当ブログを継続してきた丸六年間を均してみますと、10日のうち7日は記事作成を行ってきたことになりますので「まあ、それなりには頑張ったのではないか」とは云えるのではないかと考えます・・。

くわえて、我がことながら、これまでに何度か不思議に思われたことは「よく、これまでの期間続けることができたな・・」ということであり、そこから新たに「では、今後はどこまで続けることになるのだろうか?」という疑問も生じてくるわけですが、これについては、ここ最近では「とりあえず、無理をしないで続けられるところまでは続ける」といったスタンスにて、あまり考えないで良いのではないかと思うに至りました・・。

とはいえ、30~40代の期間、数年にわたり、ブログ記事の作成を続けてきたということは、どこかで何かの意味を持つことになるのでしょうか・・?残念ながら、これまでのところでは「有意な意味」らしきものを感知・認識することはありませんでしたが、それでも、自身による文章であれ、書籍からの引用記事であっても、それらをブログ記事として積み重ねていくことを通じ、そこに記されている思想や考えなどを、以前と比べて、具体的なものとして考え、感じ、そして取り扱うことが出来るようにはなった実感のようなものはあります・・。これを異言しますと「形而上的な面の視野の明瞭化」あるいは「自身が持ち、扱える観念的諸道具の品目整理」といった感じになりますが、これに関しては、この先にどのような内面における展開があるのかとは、多少興味深く思われるところと云えます。

あるいは、人によりますと、30代後半から40代が人がもっとも創造的になれる時期であるとのことですので、その視座からは、当ブログもまた、今しばらく続けてみますと、何かしら自分にとって面白いことも生じるのではないかとも思われてきますが、それでも、現時点においては1600以上の1700、そしてさらに先の2000記事への到達などは「夢のまた夢」といった感があります・・。とりあえず、目先のこととしては、来る6月22日までに1550記事には到達しておきたいと考えています・・。そして、今回の記事投稿により、1547記事に到達します。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。








2021年6月5日土曜日

20210605 ツイッター連携記事への反応から思ったこと(文章に対する身体感覚に近い理解について)

 ここしばらくの間、昭和20年8月15日(終戦・敗戦記念日)周辺の出来事が書かれた文章をいくつか引用し、ブログ記事としてきましたが、おかげさまで、これら記事も比較的多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

とはいえ、こうした記事の投稿を続け、さらに現在のリアル・タイムのニュースなどを見聞きしていますと、よく分からない感じにて消耗するようであり、昨日は夕刻頃より少しグッタリとしていました。また、書籍からの引用記事が主であれ、一週間以上、しばらくの期間、継続的に記事投稿を行ってきたことによる疲労もあったのかもしれません。

そこから、本日も新たな記事作成を行わず、早めに休もうと考えていましたが、当ブログと連動しているツイッターにて、大変興味深い反応があったことから「何かしら記事を作成しておこう・・」と思い立ち、先ほどから記事作成を行っている次第です・・。

そういえば、ここで「作成」と云う言葉を用いましたが、これは手書きであれ、キーボード入力であれ、共通して用いることが出来る言葉と云えますが、キーボード入力での文章作成の場合「書く」という言葉は適切ではないと云えます。

他方、先日来から用いているメモランダムに文章を書き、記事(の下書き)を作成している時は、まさしく「書く」という表現が適切と云えます。そして、そこで大変興味深いと思われることは、手書きにて文章作成をしている時は、あまり滞ることなく、手が動き続け、ともかく、何かしらの文章を作成出来ていることです・・。この点、現在のキーボードによる文章の入力は、スピード的に手書きと比べ、大分遅いと云えます。

手書きでの文章作成は、紙とペンという、昔ながらの道具を用いての作業であり、他方のキーボードによるPCでの文章作成は、その用いる道具の実在性というのでしょうか、そうしたものが、未だイマイチ身体感覚としてシックリ来ていないのではないかと思われるのです・・。

またこれは、同じ文章を読むに際しても、実在の紙媒体のものを読まないと、イマイチ理解した気にならないというのと、何かしら類縁関係にあるのではないかと思われます。

さて、そこで、さきに述べましたツイッターでの興味深い反応について書いていきますと、それは一昨日の平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」投稿直後に、5年前の2016年に作成・投稿し、そして去る4月19日に当ツイッターにて連携した照屋佳男著「コンラッドの小説」pp.117-119に「いいね」が押されていたことです・・。

これは、少し後になって気が付きましたが、正直、ここまで深く当ブログを読んでくださっている方がいらっしゃることに感激と共にある種の畏怖をも覚えました・・。

しかし、であるからといって、そこから当ブログの文章が急激に良くなるということはなく、それもまた、こうしてブログ記事の題材となってゆくのです・・(苦笑)。

ともあれ、こうした反応を得た体験を後になって想起出来るように、それを記事として書いたことにも、わずかではあるかもしれませんが、価値のようなものがあるのではないかとも思われるのです・・。

そして、ここで大事なことは、さきに文章作成の手法についてで述べました「身体感覚にてシックリきているかどうか」であると思われます。

つまり、両著作引用部各々の主旨・主張を、しっかりと身体感覚(に近いもの)として理解出来ていないと、そうした反応を(即座に)することは困難であると思われるのです・・。

また、こうしたことを述べますと「そうした主張は衒学的ではないか?」という批判を受けるかもしれませんが、しかしながら、本当の円満な博学・博識とは、たとえ周囲の人々(特に女性・・)から疎まれようとも、少しおかしくなっている衒学的な期間を通じて辿り着くことの方が多いのではないでしょうか・・(苦笑)。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


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2021年6月3日木曜日

20210603 株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 pp.176‐178より抜粋

株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」
pp.176‐178より抜粋

ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063

昭和20年5月25日には学校の三分の一が焼失した。年配の先生は次々と辞職して田舎へ引っ込んだので、竹山世代が学校運営の責に任じた。東京はもはや大部分が潰滅したが、鉄筋コンクリートの第一高等学校寄宿寮は健在である。7月22日日曜は文化祭でオーケストラの演奏があり、全寮晩餐会で竹山は「若い世代」と題してスピーチした。

 若い人たちは今後、どういう運命を辿るのであろうかー、いま安倍校長はそういわれたが、このことは私もたびたび思いました。中寮の三階にいて、ストームの音をききながら、よくそんなことを考えたものです。

 「若い世代」ヤンガー・ジェネレーションという言葉は、いまから一昔前にある特別な意味をもっていわれた一つの流行語でありました。前の欧州大戦の後に、ヨーロッパの若い人たちはオールド・ジェネレーションとはまったくちがった思想や感情をもって、前大の人間には理解に苦しむような新しい生活をはじめ、これが大きな社会問題となったのです。戦争中に若い人たちは、あるいは前線に出て戦い、あるいは工場や農園に働いていたが、それが復員して帰ってきて、社会的に大きな発言権をもつようになりました。それから戦後の混乱の中にあって、これまでの秩序を保っていた権威は仆され、堅実な階級の家庭生活も破壊されたところから、かれらは無秩序の中に抛り出され、古い世代に反抗し、まったくあたらしいところから出発すべく、あたらしい理想を求めてあがき苦しみました。ここに思想的にも、あまたの変態的な現象が続出し、このころのいわゆる「若い世代」は大人たちからは怪訝嫌悪、ほとんど畏怖をもって見られるものとなりました。

 この「若い世代」という問題が蔵するさまざまな契機が、あるいはある形で解決され、あるいは未解決のまま、もちこされて、今度の欧州大戦までつづき、あたらしい危機の大きな部分を形づくりました。いまわれわれの行く手を考えるためにも、この問題は回顧さるべき大きな意味があると思います。

 竹山は「若い世代」を描いた文学作品を引くことで説明した。フランスからは「魅せられた魂」「チボー家の人々」「贋金つくり」「おそるべき子供たち」など、そしてドイツからはレマルクや一高生のよくよむヘッセの「デーミアン」の名をあげ、これらの作品の主人公の特色は「頭のいい不良」で、その思想は破壊的で反抗的、その生活は本能的で衝動的でアモラルな行動を誇りとする。ニーチェがあたらしい目で見直され、頭のいい青年が辛辣な社会批判をやる。竹山はこの時代の人間の気持の特色を三つあげた。

第一は憎悪、左翼は憎悪の体系といわれるが、一方右翼もヒトラーやゲッベルスの演説は悪口雑言を並べたものだった。

第二に原始主義、若者は権威に反抗理知的に構成されて人を規範するものを破壊しようとする。

第三に途方もない大きな誇大妄想的なプランをたてて自ら酔う傾向ーナチスは「おれたちは世界を征服するか、しからずんばこれを絶滅させる」ganz oder gar nichtといったが、こうした調子が若い世代に訴えた。

そして竹山は「この戦争が終わった後は」日本でもこの若い世代が問題となるだろう、と述べた。今度の戦争は「精神と物質」の戦争だといわれたが「感情と理性」の戦争といった方が当っているのではないか。日本人は貴い立派な徳性も具えているが、それがまだはっきりした反省を経ていない。

「たとえば自己犠牲とか義理人情とかいったような立派な徳性も、それが自覚の中に基礎づけられていないために、一たび他から一応の論理を具えた主張に襲われると、一たまりもなく薙ぎ仆されてしまいます。論理的に根をかためた自分の判断ということがなく、その上に立った徳性でないからです。ちょうど体は健康でも予防注射がしていないようなものです。物をよく考えて自覚の中に根をおろすことー、これがきたるべき混乱に処してあたらしく築いてゆくために、もっとも大切な一つの事と思います。」

そして戦後を見通した講演にはこんな軍国主義的精神主義を否定する教訓もまじる。「この戦争がいかなる形で結末をつげるにせよ、その後われわれが他国との間に伍してゆく上に、理知という武器がなく、この点で素手であったならば、所詮存立はできないことになります」。

 第一次世界大戦後のヨーロッパを回顧し、戦後日本に起るべき混乱を見越し、日本人の中にある徳性と、その欠陥を指摘して、「非合理主義なるものの、痴愚と、おろかさと、悲惨さを経験しおえたその後には、かならずや、より新しいより深められた合理主義に帰るより他には、道がない」というシュヴァイツァーの言葉をもって竹山は結びとした。

20210602 株式会社筑摩書房刊 山本七平著「洪思翊中将の処刑」上巻 pp.195‐200より抜粋

株式会社筑摩書房刊 山本七平著「洪思翊中将の処刑」上巻
pp.195‐200より抜粋

ISBN-10 : 4480422692
ISBN-13 : 978-4480422699

武藤参謀長は八月十五日夜の出来事を次のように記している。

「午後十時半。東京放送で左の件を承知した。停戦の大詔渙発、鈴木総理告示、阿南陸相の自刃。感度不良で大体の意味しか諒解できなかったが、昨日聞いたサンフランシスコ放送を裏書きするものであった・・」。興味深いことは、このときもまた武藤参謀長は、ポツダム宣言受諾を一種の「停戦協定」の成立のように見ているのである。まず停戦、つぎに講和が当時の常識だったからであろう。山下大将と武藤参謀長だけは、十四日夜の放送傍受で敗戦を覚悟し、その基本的な準備についてはすでに相談ずみであったので、以後の処置は、少なくとも司令部内では割合スムーズに行っている。とはいえ、当時の日本の政府・統帥権の分立(統帥権の独立)と、さらに陸海軍の統帥の分立は、最後の最後まで、常識では少々判断しかねるような事態と問題を招来した。そしてこれが武藤参謀長のもう一つの「腹に据えかねる」件であった、日本国政府はポツダム宣言を受領し、確かに日本は降伏したのである。しかし政府が降伏したからといって、軍が自動的に降伏するわけにはいかない―今にしてみればまことに奇妙であろうが、統帥権独立の建前からいえば、それが当然であった。とはいえ政府がポツダム宣言を受諾した以上、現地の軍は、実際には戦闘を続けるわけに行かず、建前は「別命あるまで戦闘続行」、実際は「降服準備」という奇妙な形にならざるを得なかった。

 軍の行動は、奉勅命令に依らねば発動できないが、夜半、宇都宮参謀副長と久米川参謀を私の部屋に招致して、奉勅命令受領後採るべき処置の大綱を示して準備を命じた。大綱は次の通りである。(一)全比島にある日本軍に命令を徹底せしむること、(二)軍紀、風紀を厳正にして皇軍最後の面目を発揮すること、(三)患者・一般邦人を洩れなく山岳地帯より救出すること、(四)兵器・弾薬・機密文書の処置、(五)停戦期間中に於ける食糧(の確保・補給)の措置。

 まことに奇妙な話だが、この日から降伏調印まで実に半月以上が空費され、そのうち最後の十日間は参謀たちまで野草しか食えないという状態におかれ、さらに洪中将たちが実際にアメリカ軍に収容されたときには、一カ月が経過していたのである。その間に力つきて死んだ者も多かったであろう。これはルソン北辺にした私も同じであり、八月二十七日に停船命令を受け取り、十五日にすでに戦争が終わっていたことを知ったとき、何をグズグズしてたんだ、なぜもっと早く伝達してくれなかったのだ」という気持ちになったことを憶えている。だがいま調べてみるとこれは軍司令部の責任でも怠慢でもなく、最後には、命令の到着を待たずに山下大将が独断で降伏文書に調印してこの有様だったのである。武藤参謀長もしばしば嘆声を発している。日本の官僚機構なるものの、救いがたい非能率性と形式主義のためだろう。

 翌朝(十六日朝)山下大将は参謀一同に集合を命じて、次の要旨の訓示を与えられた。「未だ大命に接せざるも、ラジオの報ずるところは恐らく真実であって局面は急転した。この際諸士は悠久なる皇国の生命を信じて、区々たる眼前の事象や感情に眩惑され、事を誤ってはならない。皇国再生のため全力を傾倒せねばならぬ。当面する仕事は繁忙だ。最善を尽くすことを望む」。山下大将が心配されたのは、血気の将兵中には、降伏を嫌って何かしでかす者がありはしないかということであった。私は全力をつくして御趣旨を実現する旨を答えた。午後は各部隊長を集めて、大命到着後になすべき事項を説明した、それぞれ準備するように命じた。

 洪中将のところへ連絡が来たのはもう夕方近かった。参謀長帯同で軍司令部へ出頭せよとの連絡であり、斉藤副官は留守番として残った。すっかり暗くなってから、洪中将は自分の小屋に帰ってきた。帰りが遅くなったのは、前に記したように武藤参謀長と二人だけで懇談し、日本人兵士と韓国系軍人軍属との間にトラブルが起らぬよう努力してほしいと特に依頼されたためであろう。ジャングルの中には灯火はない。私たちのところだけでもローソクややし油、しまいには携帯していた軟膏まで灯火につかったが、それらは所詮、ぼんやりとその周辺を照らすだけであった。従って、終戦を聞き、前記の会談を終えて帰ってきた洪中将がどんな表情をしていたか、斉藤副官もわからなかったという。ただいつもと全く変わらない態度・雰囲気の語調で「ポツダム宣言受諾にきまったぞ」と言っただけであった。ポツダム宣言といわれても斉藤副官には何のことかわからない。そしてその内容は山下大将も武藤参謀長も知らなかったのだから、洪中将も知るわけがなかった。だが、それが何やら戦争の終わりを意味するらしいことは斉藤副官にもわかったので「停戦ですか」と聞いた。洪中将は、「無条件降伏だ、だが大本営から命令が来るまでだれにも言うな」と言っただけであった。

 斉藤副官は「そういわれても、それが何か、何が起こるのか、どうなるのか、どうすればよいのか、全くわからなかった。しかし一応、わかったような顔をして質問を打ち切った」そうである。人間は慣習の動物である。翌日斉藤副官は、洪中将の小屋の前に、防空壕を一つ掘った。降伏は、秘密にしていても意味はなかった。アメリカ軍はすぐさま前線一帯にビラをまいたからである。穴掘り作業は逆に心を静めてくれた。それを見、またビラをまく米軍機を眺めつつ洪中将は、何か懐古しているようであった。そして不意に、ひとり言のようなまた斉藤副官に話しかけるような調子で言った。「戦争が終わってわしも故郷に帰ることになるだろうが、何をするかなあ。そうだ数学の先生をやるか。小学校の先生でもいいが、中将にまでなったんだから、小学校ではちょっとかわいそうかな。中学校の先生がちょうどいいかな・・」

 この言葉を斉藤副官は、三十年後もなお、昨日のことのように憶えている。氏は驚いてその顔を見た。洪中将はそういう個人的感慨が決して口にせず、家族のことも故郷すなわち韓国のことも絶対に言わない人だったからである。その顔は文字通り晴れ晴れとし、何の緊張感もなく、一切の桎梏がとれたような、安堵感に満ち満ちた何の屈託もない顔であった。そこには何やら洪中将らしからぬうきうきした調子さえ見られたという。生涯、自分を圧していたものが急に消えて、長い長い緊張から解放されたのであろう。

斉藤氏は、そのときの洪中将の素顔を忘れ得ないという。

「中学校の先生」という言葉をちょっと奇異に感ずる人もいるかもしれない。しかし洪中将の軍歴を見ると必ずしもそれは不思議ではない。千葉の歩兵学校の教官、公主嶺の教導学校の教官等、軍隊内のいわば教育畑で活動した時期は相当に長かった。性格的には軍人よりも教師に向いていたのかもしれない。後に米軍人から「ジェネラル洪はプロフェッサー(教授)だったそうだが・・」と言われた人がいるが、何となくそういった印象をもっていた人が多かったらしい。そして洪中将自身も「自分は教育者向き」と感じていたのではないかと思われる。

 終戦と同時に洪中将は韓国軍の創設を考えていたという記述もあるが、これはおそらく、一部の人の想像であり、また後に韓国系日本軍軍人の多くが韓国軍の幹部になったことから「洪中将が生きていたらおそらく最高幹部になったであろう」という推定から生まれたのであって、洪中将にその野心があったとは思えない。だがたとえ無事に故国に帰っても、朝鮮戦争は、洪中将を中学校の先生にしておかなかったであろう。

2021年6月1日火曜日

20210601 株式会社岩波書店刊 藤原彰著「中国戦線従軍記」-歴史家の体験した戦場-pp.183‐186より抜粋

 株式会社岩波書店刊 藤原彰著「中国戦線従軍記」

-歴史家の体験した戦場-pp.183‐186より抜粋

ISBN-10 : 4006004079
ISBN-13 : 978-4006004071

八月十五日昼、聯隊の幹部は本部に集合して、天皇の放送を聴くことになった。前の晩から降伏のニュースは秘かに流れていたが、やはり信じたくない気持ちが強かったのである。天皇の声は雑音がまじって聴きとりにくかった。しかし「忍び難きを忍び」などという言葉がところどころわかったので、私はポツダム宣言受諾だとわかった。集まった多くの人も敗戦の予想をもっていたはずで、降伏の放送と判明したはずである。

 連隊長の片岡中佐は、放送が終わったあと、短い訓示をした。別命があるまで従来どおりの方向で進むというもので、明日からの九州への出発は予定どおりということだった。敗戦、降伏という事実は、時間が経つにつれ明らかになった。兵士たちの動揺も大きかったに違いない。だが当座は、とにかく軍隊としての秩序は保たれていた。

 翌日聯隊主力はあわただしく九州へ出発していき、私の大隊だけが残された。新聞とラジオは、堰を切ったように敗戦の実相を報道しはじめた。1000人以上の部下をもつ大隊長として、敗戦という事態にどう対処すべきか迷うばかりだった。師団長も連隊長も九州へ発ってしまって、指揮を仰ぐ上級者には、まったく連絡がつかなかったのである。そこで私は独断で鉄道当局に要求して臨時列車を編成させ、八月十八日に九州に向けて出発した。あとで考えれば、何もわざわざ九州へ行かなくても、姫路で復員の手つづきをしてしまえばよかったのだが、そこまでの考えはおこらなかった。部下の中隊長たちのだれ一人も、そうした意見を述べなかった。まだ戦争中の威光が残っていたのか、鉄道も素直に私の要求をいれて、列車を仕立ててくれた。

 姫路から熊本まで、一日以上かかった。関西の各地出身の兵たちにしてみれば、戦争が終わったのに故郷から遠ざかっていくのは不安だっただろう。すでに姫路にいるときから動揺がはじまり、脱走者が出るようになっていた。列車の途中で逃げ出す者もあった。やっとの思いで熊本に着くと、聯隊本部は熊本平野北方の温泉町山鹿にあり、私の大隊はその東方のこれも温泉のある来民町が宿舎として配当されていた。結局この来民の町で、半月近く過ごすことになった。

 九月の初めになって、ようやく武装解除と復員の命令がきた。武器を返納したうえで、部隊は姫路まで輸送し、そこで復員するというのであった。大隊本部の置かれていた来民の小学校の校庭で、大体全員を集めて武器の返納と大隊旗の焼却式をおこなった。私は故郷に帰って祖国の復興につくすようにとの訓示をし、副官が大隊旗に石油をかけて火をつけた。終わってから大隊長室としていた校長室に戻ると、校長先生が部屋に入ってきて、「御心中お察し申し上げます」といってぽろぽろと涙をこぼした。何の感想もなかった私は一瞬虚をつかれた感じを受けた。天皇の詔書放送からはじまり、九州への転送、武装解除、復員というはじめての経験を、大隊長として責任をもって対応しなければならず、涙を流すということはなかったので、校長先生の落涙に驚いたのである。

 聯隊は姫路へ輸送されることになっていたが、交通事情が悪く列車の目途が容易に立たなかった。待ちかねた兵たちのなかから脱走者が次々に出るようになった。もはや軍隊としての統制もとれなくなってきたのである。九月十七日ようやく熊本から列車で出発したが、おりから西日本一帯を襲った枕崎台風に遭遇することになった。線路が不通になって復旧が遅れ、下関から姫路まで三日もかかった。

 九月二三日姫路で聯隊は復員した。内地の各部隊は、被服や食糧など山のような荷物を分配して復員し、悪評を受けていた。わが部隊は長途の輸送のあとの解散なので、解散する兵士たちに支給する荷物は何もなかった。しかし兵たちは故郷へ近づいたので一目散に家族のもとに帰っていった。

 兵たちを送り出したあと連隊長以下の幹部には、復員関係の書類を作る仕事が残っていた。聯隊本部付下士官の一人が加古川上流の滝という町に縁故のある旅館があるというので、そこにこもって書類作りをすることになった。新設部隊なので復員関係の書類作りは、簡単に終わった。この町を流れている加古川では、滝を飛び上がろうとする鮎を網ですくうのが名物だという。おりからそのシーズンだったので、私も試みて一尾をすくった。

 一〇月初め復員業務も終わって聯隊本部も解散した。私は本籍が奈良県だったので、奈良聯隊区司令部付の命令を受けて奈良の司令部に出頭した。そこには何の仕事もなく、予備役編入だから、もう家に帰れということだった。もはや用ずみで、これで軍との縁も切れたのである。

2021年5月31日月曜日

20210531 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.149‐150より抜粋

 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.149‐150より抜粋

ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

 三人は無言で待っていた。この時間は異常に長く感じられたが、せいぜい20分ぐらいで、それ以上のはずはない。遠くで何か笛の音がした。聞いたことのない音であった。私は窓からその方をながめた。青い戦闘服の一将校が、駆け足でこちらへ向かってくる。その周辺を5、6人のフィリピン人が、跳ねるような踊るような足つきで、同じように駈けて来る。一団はずんずん近づき、笑いさざめく声がきこえる。その将校は手に水牛の角で作った手製らしい角笛をもち、面白そうにそれをプーッと吹く。間の抜けたような音がし、周囲のフィリピン人はキャッキャッと笑っていた。一同は窓の下で止まった。将校は皆を制し、手に水牛の角笛をもったまま、一人の日本兵をつれて、身軽に梯子を駆けあがり、ずかずかと部屋に入ると、いきなり私の前の椅子にかけ、傍らの村長をどかせて日本兵を座らせた。この日本兵は三井アパリ造船所の社員で、現地召集され、旅団司令部にいたIさんで、英語がうまかった。以前から知っていたが、人相が変わり果てていたのでわからなかった。彼も私がわからなかったらしい。

 すべては一切の儀礼なしに、全く事務的にテキパキと進められた。「私は軍医だ」と彼は自己紹介し、いきなり「歩けない病人と負傷者は何名いるか」と言った。私には返事ができない。地区隊が全員で何名かも知らないのに、歩行不能者の数などわかるわけがない。「50名ぐらいだと思う」、出まかせを言った。「米軍の戦車道の端までその50名を担送するのに何日かかるか」「約二週間」「では九月十日正午までに担送を終えるように。そこからは米軍の水陸両用兵員輸送車で運ぶ」「わかった」「歩行不能者の兵器弾薬も同時にそこに運ぶように。絶対フィリピン人に交付したり放置したりしないように」「わかった」「東海岸へ行った者と連絡はとれないか」「とれない」「方法はないか」「ない」「よろしい、では観測機でビラをまく、何名ぐらいそこにいるか」「生存者は皆無と思う」「よろしい、では歩ける者は、担送の終わり次第、九月十日二時までに、このダラヤに集結するように」「わかった」「では・・」と言って彼は立ち上がった。私も立ち上がって敬礼をした。彼は答礼をするとすぐ梯子を下り、また面白そうに水牛の角笛をふくと、半ば駆け足で去って行った。言葉つきは軍隊的で事務的だが、非常に落ち着いた温厚な感じの人であった。これが戦後、私がはじめて目にしたアメリカ人であった。

 私はしばらく茫然と腰を下していた。一切の緊張感が一気に去って、全身の力が抜けて行くような気がした。村長の姿はいつの間にか消えていた。A上等兵も黙然と座っている。「これが負けたということか・・行こう」私は立ち上がって彼をうながした。完全武装で決死の覚悟で私たちは来た。一方彼は、全くの丸腰でただ一人、笛をふきながらやって来た。その対照はあまりにはげしかった。二人は逃げるようにダラヤを離れ、後も見ずに歩度を速めた。しかし、少し離れると、異常な疲労感と脱力感が二人を襲い、目がたえずくらくらして歩けなくなった。極端な弛緩と紫外線の中毒だったのだろう。しかし雨季はもう目前に迫り、夕方のスコールも次第に早く、また長くなっており、空はすでに雲が出はじめていた。二人は全く無言で、雨の降りだす前に分哨までつこうと、ただそれだけを考えて、足をひきずるようにして歩きつづけた。もう何も考えず、何も用心せず、何も目に入らなかった。「戦場の定め」も「ジャングルの常識」も、かき消すように私たちから消えて行った。

2021年5月30日日曜日

20210530 中央公論社刊 会田雄次著「アーロン収容所」 ー西欧ヒューマニズムの限界ー pp.7‐11より抜粋

中央公論社刊 会田雄次著「アーロン収容所」
ー西欧ヒューマニズムの限界ー
pp.7‐11より抜粋

ISBN-10 : 4121800036
ISBN-13 : 978-412180003

この「安」師団の兵力は、昭和19年夏に内地から補充をうけたころは総数2万にちかかったようである。それが終戦時には3千たらずに減っていた。とくに歩兵は全滅に近く、たとえば、3百人以上いた私たちの中隊は、終戦時14、5名、後になってタイなどから帰って来た者を合わせても17名ぐらいにしかならなかった。比較的生存者が多かったのは、野戦病院や経理・防疫給水隊などの、まったくの第二線部隊だけであった。

 こういう状態では、戦争が終わると聞いてやれやれと思ったのも仕方がなかったろう。全面降伏なら私たちも英軍に投降することになるが、いわゆる捕虜の汚名をきないですむだろう。殺されるかもしれないが、生きられる可能性の方がやはり大きそうである。そうすると、もう完全に近いほど諦めていた日本の土がふたたびふめるかもしれない。父や母や家族と会えるかもしれない。日本全体は焼土と化しているかもしれないが、家族のものは何だか昔のままの姿で生きて待っていてくれるような気がする。

 私たちは急に狂ったように激しい郷愁にとらわれた。寺の床に寝ながら、みな昂奮していた。家の思い出が口々に語られる。ふと誰かが、もうすぐ大文字の送火だ、今年などはとてもやれないだろうがと口にした。それを聞いたとたん、私の脳裏に家族一同二階からそれを見たときのこと、それも幼いときの思い出が突然目にしみるような鮮烈さで浮かびあがってきた。涙がどっとあふれてきて、ポタポタと床の上に流れ落ちた。 

 おなじ気持ちであったろう。兵隊たちはいつか小声で軍歌に口をそろえていた。

霜は軍営に満ち満ちて

秋気清しと詠じける

昔のことのしのばるる

今宵の月のしずけさよ

台場を屠り城を抜き

千辛意万苦へたる身の

不思議にいのちながらえて

我が父母や同胞は

我を案じて暮すらむ・・

題は忘れてしまったが、この頃よく仮小屋のなかでうたう歌である。この哀調にみちた軍歌は、あまりに頽廃的で士気を沮喪するものとしてうたうことを禁じられていたように思う、しかし、このごろは絶望的になった戦場の気分によく合い、兵隊に好まれてひそかにうたいつづけられていた。何度もうたい合ってみな、なかなか眠れなかった。ながいその文句をふと忘れて合唱がとぎれると、誰が覚えているものがやや声を大きくしてつづけ、みなが思い出してまた合唱となるのである。

 翌日、食料の塩干魚や砂糖やせっけんなどを受け取って夜おそく私たちはふたたびこの寺へ辿り着いた。8月15日の夜である。気がつくとあたりは死のような静けさである。きのうまでのドカンドカン、バリバリと狂気のような大砲の咆哮も、ドッドッドッドという絶え間のない重機の唸りも嘘のように聞こえない。雨季の最中だから、雨の音がやかましかったはずで、現に下帯までぐっしょりと濡れ、それを焚き木でかわかしながら砲声をつかもうとして耳をかたむけた記憶ははっきりある。しかし雨の音はまったく聞こえず、静まりかえっていたという思い出しかない。おそらく、私たちにとって雨の音は安全の印であり、ないに等しいものだったからかもしれない。銃砲声の聞こえぬ夜というものは何とこのように静かなものだったのか。情報は本当だったのだ。戦争はたしかに終わったのだ。

 しかし私たちの心は昨日よりも急に重くなった。無条件降伏という意味が重くのしかかってきたのだ。私たちは降伏する。武装解除、捕虜、収容所、それまではたしかだ。それからどうする。敵兵の復讐や私刑にあうかもしれない。強制労働は間違いない。私たちがビルマへ輸送されるとき見たやつれはてた英軍捕虜の姿が目に浮かぶ。おとろえきったこの身体で、銃剣で追いまわされる労働にたえることができるだろうか。うまくゆけば日本へ帰れるかもしれないが、帰れる日本があるだろうか。

 私はこの春見たマンダレー市の廃墟を思い出していた。京都に似たこの市は王城の城壁が残り、堀の水は青く澄んでいて、私たちはそこで飯盒炊さんをやった。しかしもと人口数十万といわれた町は文字どおり潰滅し、見わたすかぎり瓦礫の原野と化していた。日本のように焼夷弾による破壊でなく、爆弾によるものだから、煉瓦建てもコンクリートのビルも何一つ残っていない。焼けただれたタイプライターが瓦礫のなかに残っていたのを見て、この堀ばたの商社に毎日通ったであろう若いビルマ女性の姿を思い浮かべたりしたのだが、日本もあのとおりだとしたら、木と紙でできた日本の都市などあとかたもないだろう。そう思うと、いままでのような絶望そのものの暗さではないが、こうしてはいられないという焦燥感の加わったなんともいえぬ不快な不安が新しく心をしめはじめた。

いまから考えると、このとき芽生えた、こんなことしていられないという焦りは、捕虜生活中ますます激しくなっていったようである。