2021年5月1日土曜日

20210430 新機器に対しての分野毎の反応の違いにはじまり自分について思ったこと

昨今、文系・理系と分けるのはよくないとは云われますが、双方分野を見てきた私としましては、やはり、さまざまな場面から「どうも性質が異なるのではないか」と思われることが多々ありました・・。

もちろん一般化は出来ませんが、それらの中で、最も端的であると思われたのは、スマホなどを含む新しい電子機器に対しての反応、感受性であると云えます。文系の方々は、概して、そうしたモノに対するこだわりは希薄であると云え、おそらく、未だ普通にガラケーを用いていると思われます。それに対して理(歯)系の方々は、師匠をはじめとして概ね、さまざまな新製品に対し興味を示し、入手すると特筆すべき新機能や、既存・他社製品との相違点などを手に取り、色々と操作して検証するといった、実験好きの延長とも云えるような顕著な性質があると云えます。

また、たしかに実験での観察や測定においては、新機器で行うことにより、よりクリアな観察画像を得ることが出来たり、また、比較的容易に試料の測定項目の値を得ることが出来ることが多いと云えますので、さきに述べたような性質自体は、むしろ自然であり、ある程度は必要であるようにも思われます。

こうしたことに関して文系の方々は、前述の通り、特に経済的事情に因らなくとも、やはり無頓着であると云え、講義やゼミなどにおいては板書が基本であり、パワー・ポイントを用いての講義などは、半ば邪道であると考えているようなフシもあり、見様によれば身体性を重視する伝統主義とも云えますが、私見としては、これはこれで少なくとも間違いではないように思われます。

そして、私個人に関しましては、基本的には文系寄りであり、そうした機器の操作性よりも、面白く、興味深い書籍を見つけて読みたいといった願望の方が強いと云えますが、他方で、理(歯)系分野の方々と話している際は、そうした機器のハナシが出てきても、それなりに興味深く聞くことが出来ていると思われますので、こうしたことにも情念引力のようなものが少なからず作用しているのではないかと思われるところです・・(笑)。

あるいはまた、当時の実験での環境が再現出来れば、たとえ機器などが変わっても、コツコツと試料を作製したり、また試料観察を行うことも出来るような感じがしてくるのですが、果たしてどうなのでしょうか・・。

しかし、そのように考えてみますと、私の場合、これに関しては、突如として実験を行う研究室の環境が大きく変化したと云えます・・。それは現在思い返してみても「何故だろうか・・?」と未だに納得も理解も出来ませんが、しかし、もしも無理をしてでも納得しなければならないのであれば「絆や相手の人柄は自分が転落した時に分かる」を身を以て体験出来たということと、その経験があることから、2015年から現在に至るまでブログ記を継続出来ているということで、どうにか落ち着くことが出来ると云えます。

この前者に関しましては、以前投稿した記事にも書きましたが、色々と経験させて頂いたと思われます。中には同分野他大学研究者による信じられないような行為などもありました・・。そしてまた、そうした環境の中に数年いますと、そこでの目標としていた学位取得は別としても、その後は「もういいや・・」となるのは、そこまでオカシイことではないようにも思われるのです・・。

そしてまた、それをテコとして私のことを責められる方々は、是非とも、これと同様の経験をして頂くのが良いと思われるところです・・。

とはいえ、こうした被害者意識のようなものを強く前面に出すことは、それを読む側からしますと、必ずしも適切とは思われないことから、後者の、その経験をまさしく「バネ」として、当ブログは続けられていることを主張してみたくなるのです・・。そうしますと、何やら当時から現在に至るまでの私は「当ブログ」に集約されているような感じをも受けますが、それはそれで間違いではなく、また、それを今後の私の活動(記事作成)によって検証していくというのが妥当なところではないかと思われます。今後、どこまで書き進めるか未だ分かりませんが、とりあえず次は1600記事を目標として、また書き進めて行こうと思います。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2021年4月29日木曜日

20210429 手書きからPCへの直接入力によるブログ記事作成の変化にあるもの・・

去る3月23日に自身による記事作成、投稿を行ってから一カ月以上経ちました。その間、何度かオリジナルの記事作成を思い立ちましたが、そうした場面では「敢えて記事作成をせずに休むことも大事」と考え、記事作成は行いませんでした・・。

また、一カ月以上、記事作成を行わなかったことから、現在の記事作成が困難になっていることはないようであり、今現在において、キーボード上の指は比較的速やかに動いてくれています・・。

くわえて文章作成と云えば、先月1500記事到達をしてからすぐの頃、休日に神保町界隈を歩いていますと、文房具店の特価品コーナーにて手帳らしきものを見つけ、そこには「memorandum」と記されていました。

そこから以前読んだ書籍に「田中メモランダム」(田中上奏文とも)というコトバがあったことが思い出され「なるほど、こういうものも良いかもしれない・・。」と思いつつ、手に取って開いてみますと、以前、鹿児島在住の頃、こうした日付を特に定めない手帳・日記をようなものを(当初は実験ノートの延長で)書き付けていた時期があったことが思い出され、また、後のブログ記事のネタにでもなるのではないかとも思われ、さらには値引きされていたということもあり、これを購入して、何か思いついたときにすぐに書き付けるようにしました。

一般に我々の発想・思い付きは、水中にて底から湧いてくる泡のようなものでもあり、しばらく経つと、泡が弾けるように忘れてしまうことが殆どであると云えます。そこで、それらを忘れないように書き付けることには、それなりの意味があるのではないかと思い、今現在まで続けていますが、これはたしかに書いている時には、比較的スムーズに文章が出て来るのですが、その書き付けた文章をいざ、ネット上に移そうとPCを開きますと、どうもその書き付けた文章が、公表を前提とするネット上の文章としてはどうも稚拙であるように思われてきて、躊躇ってしまうのです・・。

とはいえ、以前にも書いたことがありましたが、当ブログ開設当初は、ノートにて手書きで作成した記事の下書きをキーボードで手打ちしてPC上に移していましたので、このブログを継続していた期間に、手書きとPC入力の慣れの度合いが逆転し、いつのまにかPCへの直接入力の方が主流になってきたのだと云えます。

これも自身としては面白い変化であると思われましたが、ともあれ、今後しばらくは、さきのメモランダムに書き付けることを続けていきますと、また何か新たな面白い発見が見つかるのではないかとも思われます。

くわえて、そこから関連して思い出されたことがありましたが、これは次回の記事のネタにしたいと思います。

*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設



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2021年4月25日日曜日

20210425 中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.117-120より抜粋

中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.117-120より抜粋

ISBN978-4-12-150715-0

 ヒトラーの原体験は、志願して出征した第一次世界大戦です。英軍と戦い、敗走します。大戦末期には米軍とも遭遇します。敗戦でヒトラーが心に刻んだのは、米英両軍の圧倒的な強さでした。ヒトラーは米英を妬み、憎みます。

 心の底にあったのは、対照的に、ドイツの弱さについての悲嘆です。そこから妄想混じりの信念が作られます。

 ドイツの最も良質な国民たちは祖国を見限って米国に移民し、米国を豊かにし、戦争になれば兵士となって祖国を負かしにやってくる。彼らが祖国から出て行くのは、領土の不足するドイツには自分たちを養う余地がないと判断するからだ。最良のドイツ人の流出をくい止める喫緊の対策は、東欧にドイツの「生存圏」を確保することだー。

 この東方拡大はヒトラーの対ソ観も反映していました。ヒトラーの目には、ソ連は帝政ロシア崩壊の混乱を引きずり、共産主義という病に患っているように映じたのです。ソ連は軍事的脅威ではなく、ドイツの東方拡大の支障にはならないだろう、と。

 ドイツには米英を負かす力はありません。そのことはヒトラーも承知していました。当初は英国に対し、帝国主義を認める代わりに、ドイツの東欧支配・生存圏確保を認めさせる腹積もりでした。結局、ドイツは英国と対立し、1939年、ポーランドに侵攻します。「手術しなければ死が必至となる場合、成功の確率が5%でも手術は受ける」という物言いをヒトラーはしています。その後は坂道を転がるように、北欧、フランス、バルカン半島、北アフリカ、ソ連などへ戦線を広げることになります。

 話は前後しますが、ヒトラーは30年代後半、日本の戦略的重要性に気付きます。日本の存在によって米英の注意が極東にそれることを期待します。そうなれば、欧州戦線でドイツは有利になる。ヒトラーはドイツと日本、そしてイタリアを一つにまとめる理屈を見出します。世界は米英を中心とする「(富を)持つ国」と独日伊に代表される「持たない」国に分裂し、対立しているー。

 ヒトラーの戦略的過ちはソ連の力を極めて過少に評価したことです。

 日本の41年の対米英開戦を受けて、米国が参戦した結果、ヒトラーの憂慮は現実のものになりました。欧州の空と陸で米軍を指揮した二人の司令官はいずれもドイツ系移民の子孫でした。ヒトラーは45年4月、敗戦を覚悟して自殺します。

 今日、「持つもの」と「持たないもの」を分断する、グローバル資本主義のあり方に批判があるまり、反ユダヤ主義が再び台頭しています。移民問題も深刻です、ポピュリストらの主張に耳を貸すと、ヒトラー流の言説が響いてきます。ヒトラーの影が現代まで伸びてきているとの印象を受けます。私たちはこれからも不断にヒトラーを打ち負かす必要があるのです。

 45年以降、欧州の平和は三つの事業で保たれてきました。第一はナチスドイツの打倒です。これは米英とソ連が主体になりました。第二は東西冷戦下でのソ連の介入の阻止。これは米英、特に米国が北大西洋条約機構(NATO)を組織して実現しました。第三は欧州諸国間の戦争の否定です。これは仏独を核とした欧州統合という枠組みで実現しました。このうち平和の構築と維持に最も貢献したのはNATOです。2012年のノーベル平和賞はEUに与えられましたが、本来ならNATOです。ただ、米国はオバマ前政権以来、欧州関与を減じています。

私の見果てぬ夢はEUが真の平和事業へと進化することです。そのためには政治統合を果たし、軍事力を整えることが必須です。しかし、EUは既に政治統合を放棄しています。

 確かにEUは対象国に経済制裁を発動し、罰を与えることはできますが、例えばロシアを抑止するような政治力・軍事力は持ち合わせていません。EUは威圧できません。私見では、単独の国家として威圧できるのは英国だけです。

 ドイツは経済大国ですが、軍事小国です。89年の東西冷戦崩壊後、軍事力を更に落としている。軍事的な役割を担うことに極めて臆病です。ここにもヒトラーの影が差しています。ためらう気持ちは理解できますが、欧州の安全保障上、ドイツの振る舞いは問題です。

 英国のEU離脱問題を巡り、英国と大陸欧州の関係がねじれています。

 欧州側は「英国はEUの外に出れば、国際的な発言力を失う」と主張しますが、英国は歴史的に発言力を維持してきました。欧州側は英国がEUを離脱した場合、早晩、英国の力を必要とするはずです。英国の力を欧州に組み込む、新たな枠組みを見いだせるのか否か、それが欧州側の課題になると私は考えます。

2021年4月24日土曜日

20210424 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.322-323より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻pp.322-323より抜粋

ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

西行は、俗名を佐藤則清といい、もと武士の出、若くして剃髪(1140)の後、全国に旅したことで知られる。家集は「山家集」(成立年代不明)、千数百首を含み、『新古今和歌集』はその歌を多く採る。歌風は定家流の手のこんだ技法に走らず、単純で平易であり、しばしば当人の感情と経験を直接伝える。

 浮れ出づる心は身にも叶はねば如何なりとても如何にははせん(『山家集』中、雑)

儚しなちとせ思ひし昔をも夢のうちにて過ぎにける代は(『山家集』下、無常十首)

心がみずから統御できない、どうなっても勝手にしろ、というのは、「幽玄」でも「有心」でもない。「ちとせ思ひし昔」は、おそらく西行の「春宵一刻」であり、『新古今集』流の古典をふまえるよりは、換え難い経験をふまえた独特の語気を示しているだろう。

 しかし西行の旅の歌の圧倒的多数は、『古今集』以来の月なみの主題による。花鳥風月。旅の自然をほとんど自分の眼でみていないという点では、平安朝の宮廷知識人と変わらない。

 この時代には、画家でさえも、名所を描くのに、名所を見てはいなかった。重要なのは、画題の歌枕であって、現実の風景でなない。たとえば後鳥羽院が新築の寺(最勝四天王院)の障子に四人の画家の名所絵を注文し、定家が名所を選んだとき(1207)、画家の一人が、割りあてられた須磨・明石を一度行って見てきたいと申出たということがある。おそらくその画家は例外であり、遠い名所は、見たこともないのに描くのが当然であった。いわんや歌人をや。春は花、花は桜、というのは、貴族文化の月なみであって、日本国の植物分布とは全く関係がない。他のどんな花も、貴族の眼にはみえなかったのであり、だから貴族文化に組みこまれた西行にも見えなかったのである。

 ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃(『山家集』上)

これこそはすでに彼の同時代から、西行の歌のなかでもっとも有名なものである。おそらくこの歌が北面の武士の貴族文化への降伏の証言に他ならなかったからであろう。

2021年4月14日水曜日

20210414 中央公論新社刊 池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」トーマス・マンの亡命日記 pp.44-48より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」トーマス・マンの亡命日記
pp.44-48より抜粋

 
ISBN-10 : 4121024486
ISBN-13 : 978-4121024480

1936年12月、ボン大学はトーマス・マンの名誉博士号を剥奪した。7年前のノーベル賞受賞にあたり、大学当局みずからが申し出たものを、みずからで取り消した。

『トーマス・マン日記」 1935-1936』では1936年12月25日付、クリスマス当日の記述に出てくる。

「-うっかり忘れるところだったが、国籍剥奪の結果として名誉博士号を剥奪する旨、ボン大学哲学部から通告があった。-回答を考慮」

「うっかり忘れるところ」となるのは、その日、クリスマス・ケーキの朝食に始まって、おりしも来訪中の友人たちと森を散歩し、そのあとコーヒーを飲みながらジッドの『贋金つくり』、ジョイスの『ユリシーズ』、自作『魔の山』などをめぐり小説の危機について語り合った。ほかにも執筆中の短編、まぢかに迫ったプラハ、ブダペストへの講演旅行の連絡などと、いろいろ用があったせいだろう。

 とともに大学からの通告に対する意味合いもこめてのこと、自分のほうから申し出て与えたものを、国家による「国籍剥奪」を理由づけにして取り消しを言い立てる愚かしさ。

 ナチス政府によるトーマス・マンのドイツ国籍否認の告示は1936年12月2日付で、翌日のナチ党新聞「フェルキシャー・ベオーバハター』に発表された。マン夫人、および4人の子供を含むもので、活動家の長女エーリカと長男クラウスは、その前から国籍を剥奪されていた。

 マンはナチス内務省の動きを早くに察知していて、先立つ11月にチェコスロバキアの国籍を取得しており、剥奪を通告された時点で、すでにドイツ国籍を持っていなかった。12月2日の日記に記している。「ミュンヘンからハインスの電話(中略)先手が取れるよう是非とも事実を公表せよという」。公表して相手のハナをあかす予定のところに党新聞の情報が入り、マンは多少くやしい思いがしたらしい。12月4日に書いている。「・・やはりこれは不意打ちだし、先手をとられたのが腹立たしい」

 ともあれ法的には国籍剥奪に何の意味もない。むしろすでになくなっているものを、やっきになって取り消す側の滑稽さが浮かび出る。

 それだけではなかった。すぐさまこの一件に飛びついて、ものものしく、名誉博士の剥奪を伝えてくる、もう一つの滑稽集団がいた。通告文は日記の注に再録してある。ボン大学は通称で、正式にはライン州フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学哲学部、12月19日付。

 ボン大学総長の合意を得て余は貴下に対して、貴下が国籍を剥奪されたる以上、哲学部としては貴下を名誉博士名簿から抹殺するのやむなきに到れる旨、通告せざるをえざるものなり。本称号を帯びる貴下の権利は、本学学位授与規則第8条により消滅せり。

                       (署名判読不能)学部長

 著作家トーマス・マン殿

 文中の「抹殺するのやむなき」といった言葉から、大学当局がこころならずも決定したように受けとる人がいるかもしれないが、ドイツ語原文はネガティヴなことを伝えるときの常套句であって、いたって事務的な通告文である。学費滞納の学生に退学を伝えるときと、まったく同じ文面である。

 権力が大きくふくれ上がったとき、さまざまな喜劇がかいま見えるものだが、ボン大学による名誉博士号剥奪もその一つだろう。ヒトラーが政権についてほぼ4年になる。全面的な国家一元化が完成して、「党と国家の一体の保障のための法律」により、大学教授団もまたヒトラー・ユーゲントやナチス婦人団と同様に「ナチスの肢体」の一つとなった。

 法律の施行より早く、新しい権力者への迎合が始まった。ドレスデン工科大学教授だったヴィクトール・クレンペラー『私は証言する/ナチ時代の日記 1933-1945』(大月書店、1999年)が、同僚たちのうろたえぶりと変節のもようを克明に書きとめている。非アーリア系官吏の罷免を含む新官吏法が出されるやいなや、てのひらを返すように態度を一変させ、ユダヤ人言語学者を大学から追放した。フライブルグ大学哲学教授マルティン・ハイデガー教授はケルン大学公法学教授カール・シュミットに「ナチへの協力」を勧め、シュミットは一週間後にナチスに入党した。

 通告に対してマンの日記に「回答を考慮」とあるのは、まるで椋鳥が飛び込んできたような気がしたからではあるまいか。相手方の出方を利用して、存分にナチス批判ができる。素竿を当の相手が提供してくれた。学部長カール・オーベナウアーへの返書については12月30日の日記に見える。「コーヒーの後、鉛筆で学部長宛ての書簡を書き上げる」。かなりの長文であって、実際は誰に宛てたものかいうまでもない。

「わたくしは夢にも思いませんでした」

中年すぎて亡命者となり、祖国に背き、やむにやまれぬ政治的抗議のなかで過ごすとはーそんな書き出しのあと、ナチズムと呼ばれるものの実態、我が世の春を謳歌している権力者の欺瞞と虚構を克明に語っていった。

「学部長殿、わたくしはうっかり、あなた宛てに書いていることを忘れておりました」しかし、まあ、いいだろうと、辛辣な皮肉がまじえてある。「あなたはとっくに読むのをやめておられるでしょうから」

 私的書簡ながら広く伝わることを図って書かれ、「ある往復書簡」のタイトルで翌年1月『新チューリヒ新聞』に掲載。すぐさまチューリヒの出版社が学部長の通告文つきで仮綴じ本に仕立て、またたくまに二万部を売り上げた。オーベナウアー学部長がいかなる人物かは不明だが、幕間狂言の愚かしいメッセンジャーとして歴史に名をとどめている。

2021年4月13日火曜日

20210413 株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ青春記」pp.147‐149より抜粋

株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ青春記」pp.147‐149より抜粋

ISBN-10 : 410113152X
ISBN-13 : 978-4101131528

 トーマス・マンが告白しているが、彼もまた若いころ観念主義のトリコとなって精神的なものをより重視し、政治にいわば背を向けていた。現在の、国家の実際面を担当するには、そのために専門の政治家や軍人がいるではないか。自分は自己の内面のみを見つめ芸術作品を書いていればよいと思っていた。しかるに見よ、いつしかナチスはドイツ自体を代表し、気づいたときには彼の国家は泥沼に落ちこみ、彼の著作は発禁となり、彼は国籍を剥奪されアメリカに亡命しなければならなかった。

 マンがボン大学の名誉教授号を剥奪されたとき、彼がスイスから学部長あてに送った公開書簡はわれわれの胸を打つ。この中でマンは正面きってナチスを弾劾しているが、その末尾にこう記している。

「学部長殿、実のところ、私は貴殿にあてて書いているのだということをまったく忘れておりました。しかし私は、貴殿がもうおそらくかなり前から私の文章を読んでおられはしないことと考えて、安心することができます。ドイツではすでにその習慣を失ってしまったこうした言葉に驚き、人があえて自由なドイツ語を語ることに呆然自失されたことでしょう。おお、私をしてこんなふうに語らしめているのは、傲慢ではなくして、むしろ身を切るような苦痛の念なのです。貴殿の指導者たちは、私をもはやドイツ人ではないと決定したときにも、この苦痛の念から解放することはできませんでした。私の言葉は、魂と精神との苦痛から生まれたものです。・・・人間は、宗教的な羞恥心から、あの至高なおん名をみずから進んで口にしたり筆にしたりしないものであるとしても、自分の思いをすっかり表現するためには、それを抑えることのできがたい深刻な感動の時があるものです。それゆえー私はもうこれ以上言うことができないのですからーこの手紙を次のような祈りの言葉で結ぶことを許して頂きます。

 神よ、憂いに閉ざされ、道をあやまれるわれらが国を救わせたまえ、他の国々とも自国とも平和を結ぶことを教えさせたまえ」

 かくしてやがて、かつては自らを非政治的人間と称したマンは、第二次大戦中、敢然と言葉を通じてファシズム打倒のために立上がり、アメリカ中を講演してまわり、相手国家むけの放送をする。戦後、マンはデモクラシー擁護の戦士としてわが国に再紹介されたが、これはもともと彼の本質とは微妙に異なるものであった。

 ついでながら、私たちが三年のとき、望月先生は戦時中のマンの講演「デモクラシーの勝利」をテキストに使った。もちろん古い答案用紙の裏側に謄写版で刷ったものである。あたかもその折、この論文の訳が某雑誌に載った。なんたるタイミングのよさ、と私たちは大喜びをし、みんなその雑誌を買い、これで大丈夫と教場に出てゆくと、なんとその訳があちこち誤っており、みんな叱られてしまうのであった。翻訳というものが間違うこともあることを、私はそのときはじめて知った。

2021年4月10日土曜日

20210410 中央公論社刊 吉田裕著「日本軍兵士」-アジア・太平洋戦争の現実 pp.42‐45より抜粋

ISBN-10 : 4121024656
ISBN-13 : 978-4121024657

【太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑」によれば、海没死者の概数は、海軍軍人・軍属=18万2千人、陸軍軍人・軍属=17万6千人、合計で35万8千任に達するという。日露戦争における日本陸海軍の総戦没者数、8万8133人(「日露戦争の軍事史的研究」)と比較すれば、この35万8千人という海没死者の重みが理解できるだろう。なお、船舶輸送軍医部は、「船舶輸送中における戦死は溺水死その半ばを占むべし」としている(「船舶輸送衛生」)。つまり「溺れ死に」である。

 多数の海没死者を出した最大の要因は、アメリカ海軍の潜水艦作戦の大きな成功による。第二次世界大戦で、米海軍は52隻の潜水艦を喪失したが、1314隻・500万2000トンの枢軸側商船を撃沈している。潜水艦一隻の喪失で25隻もの商船を撃沈していることになる。ドイツ海軍は781隻喪失、撃沈が2828隻・1400万5000トン、一隻の喪失で3.6隻を撃沈しているが、米海軍には大きく水をあけられている。ところが日本海軍の場合は、127隻喪失、撃沈が184隻・90万トン、一隻の喪失でわずか1.4隻を撃沈しているにすぎない。

 米海軍の対日潜水艦作戦では1943年半ばが大きな画期となった。米海軍は、この頃までに不発や早発が多かった米軍魚雷の欠陥を是正しただけでなく、日本商船の暗号解読に成功した。これにより、船団に対する待ち伏せ攻撃が可能になったのである。(「研究ノート 対日通商破壊戦の実相」)

 多数の兵士たちが海没死した日本側の要因としては、日本軍の輸送艦の大部分が徴傭し、船倉を改造した狭い居住区画に多数の兵員を押し込めたことがあげられる。そのため沈没の際に全員脱出することは不可能であった。また、多数の喪失によって船舶の不足が深刻になり、一輸送船あたりの人員や物資の搭載量が過重となったことも犠牲者を増大させた(前掲、「アジ化・太平洋戦争の戦場と兵士」)。

 先にあげた船舶輸送軍医部「船舶輸送衛生」は。船舶輸送に特有の環境の一つとして、居住区画の「狭隘」さをあげ、軍隊輸送では坪あたり3ないし4人の兵士が適当だが、温度が高い熱帯地の輸送では坪当たり2.5人を理想とする、しかし、船腹の関係や作戦上の要求から、「坪当たり5人の多きに達すること」があると指摘している。

 一坪に完全武装の兵士5人が押し込まれれば、横になることさえ不可能である。1944年7月、フィリピンに向かう輸送船の船内の状況を軍医(見習士官)の福岡良男は、「まるで奴隷船の奴隷のように、定員以上の兵が輸送船の船倉に詰め込まれ、自由に甲板に出られぬ兵が、船倉の異常な温度と湿度の上昇のため、うつ熱病(熱射病)となり、体温の著しい上昇、急性循環不全、全身痙攣などの中枢神経障害を起こし、多くの兵が死亡した。その都度、私は水葬に立ち会い、肉親に見送られることなく、波間に沈んでゆく兵を、切ない悲しい思いをして見送った」と回想している。(「軍医のみた大東亜戦争」)。

 入隊したばかりの初年兵など、甲板に出られない兵士が多かったのは、福岡によれば甲板の出入口付近に涼を求めて古手の古参兵たちが我が物顔でたむろしているからだった。