ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873
浮れ出づる心は身にも叶はねば如何なりとても如何にははせん(『山家集』中、雑)
儚しなちとせ思ひし昔をも夢のうちにて過ぎにける代は(『山家集』下、無常十首)
心がみずから統御できない、どうなっても勝手にしろ、というのは、「幽玄」でも「有心」でもない。「ちとせ思ひし昔」は、おそらく西行の「春宵一刻」であり、『新古今集』流の古典をふまえるよりは、換え難い経験をふまえた独特の語気を示しているだろう。
しかし西行の旅の歌の圧倒的多数は、『古今集』以来の月なみの主題による。花鳥風月。旅の自然をほとんど自分の眼でみていないという点では、平安朝の宮廷知識人と変わらない。
この時代には、画家でさえも、名所を描くのに、名所を見てはいなかった。重要なのは、画題の歌枕であって、現実の風景でなない。たとえば後鳥羽院が新築の寺(最勝四天王院)の障子に四人の画家の名所絵を注文し、定家が名所を選んだとき(1207)、画家の一人が、割りあてられた須磨・明石を一度行って見てきたいと申出たということがある。おそらくその画家は例外であり、遠い名所は、見たこともないのに描くのが当然であった。いわんや歌人をや。春は花、花は桜、というのは、貴族文化の月なみであって、日本国の植物分布とは全く関係がない。他のどんな花も、貴族の眼にはみえなかったのであり、だから貴族文化に組みこまれた西行にも見えなかったのである。
ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃(『山家集』上)
これこそはすでに彼の同時代から、西行の歌のなかでもっとも有名なものである。おそらくこの歌が北面の武士の貴族文化への降伏の証言に他ならなかったからであろう。
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