株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ青春記」pp.147‐149より抜粋
ISBN-10 : 410113152XISBN-13 : 978-4101131528
トーマス・マンが告白しているが、彼もまた若いころ観念主義のトリコとなって精神的なものをより重視し、政治にいわば背を向けていた。現在の、国家の実際面を担当するには、そのために専門の政治家や軍人がいるではないか。自分は自己の内面のみを見つめ芸術作品を書いていればよいと思っていた。しかるに見よ、いつしかナチスはドイツ自体を代表し、気づいたときには彼の国家は泥沼に落ちこみ、彼の著作は発禁となり、彼は国籍を剥奪されアメリカに亡命しなければならなかった。
マンがボン大学の名誉教授号を剥奪されたとき、彼がスイスから学部長あてに送った公開書簡はわれわれの胸を打つ。この中でマンは正面きってナチスを弾劾しているが、その末尾にこう記している。
「学部長殿、実のところ、私は貴殿にあてて書いているのだということをまったく忘れておりました。しかし私は、貴殿がもうおそらくかなり前から私の文章を読んでおられはしないことと考えて、安心することができます。ドイツではすでにその習慣を失ってしまったこうした言葉に驚き、人があえて自由なドイツ語を語ることに呆然自失されたことでしょう。おお、私をしてこんなふうに語らしめているのは、傲慢ではなくして、むしろ身を切るような苦痛の念なのです。貴殿の指導者たちは、私をもはやドイツ人ではないと決定したときにも、この苦痛の念から解放することはできませんでした。私の言葉は、魂と精神との苦痛から生まれたものです。・・・人間は、宗教的な羞恥心から、あの至高なおん名をみずから進んで口にしたり筆にしたりしないものであるとしても、自分の思いをすっかり表現するためには、それを抑えることのできがたい深刻な感動の時があるものです。それゆえー私はもうこれ以上言うことができないのですからーこの手紙を次のような祈りの言葉で結ぶことを許して頂きます。
神よ、憂いに閉ざされ、道をあやまれるわれらが国を救わせたまえ、他の国々とも自国とも平和を結ぶことを教えさせたまえ」
かくしてやがて、かつては自らを非政治的人間と称したマンは、第二次大戦中、敢然と言葉を通じてファシズム打倒のために立上がり、アメリカ中を講演してまわり、相手国家むけの放送をする。戦後、マンはデモクラシー擁護の戦士としてわが国に再紹介されたが、これはもともと彼の本質とは微妙に異なるものであった。
ついでながら、私たちが三年のとき、望月先生は戦時中のマンの講演「デモクラシーの勝利」をテキストに使った。もちろん古い答案用紙の裏側に謄写版で刷ったものである。あたかもその折、この論文の訳が某雑誌に載った。なんたるタイミングのよさ、と私たちは大喜びをし、みんなその雑誌を買い、これで大丈夫と教場に出てゆくと、なんとその訳があちこち誤っており、みんな叱られてしまうのであった。翻訳というものが間違うこともあることを、私はそのときはじめて知った。
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