~勉強会の御案内~
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社会思想社刊 森浩一企画・編集 田中幸人著「日本の遺跡発掘物語7 古墳時代Ⅲ(西日本)pp.256-238より抜粋
ISBN-10 : 4390602470竹原古墳は、北部九州の福岡県鞍手郡若宮町の諏訪神社の境内にある。この古墳には九州の装飾古墳の中で特異なことが二つある。その一つは、それら九州の装飾古墳群の中で位置的に北限にあるということである。近年、さらに北の宗像古墳群の中から桜京古墳(同県玄海町)がみつかったため、最北端ではなくなったが、桜京古墳が貧弱な同心円しか描かれていないのにくらべ、装飾の進展性や規模からいって、竹原は、王塚古墳とならび北部九州の代表的な装飾古墳であることは誰も異論がないであろう。
その二は、古墳の図柄が特異なことである。九州の装飾古墳の装飾文様は、北上するに従って幾何学文様から具象的図柄へと変化していくのが特徴である。南部の熊本県・緑川・白川・菊池川水系の古墳群が、同心円、三角文あるいは直弧文を主体とする幾何学文中心であるのにくらべ、北上するに従って、馬、鳥、船、波など具象的図柄が加わっていく。筑後川水系になると珍敷塚(福岡県吉井町)や鳥船塚(同)、五郎山古墳(筑紫野町)のように図柄は互いに組合され被葬者を黄泉国へといざなう世界観のようなものを現す物語的要素を帯び始める。そして、王塚や綾塚(京都郡)に至っていっそう複雑化し、そしてこの竹原へくると完全な具象絵画が完成するのである。もっとも、その展開は、畿内の高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村)が発見されるまでの流れではあるが、九州独自の装飾古墳文化の中では、この竹原古墳は具象的図柄の極点ということができる。
さて、竹原古墳は、この古墳を特徴づける図柄の意味と、奇妙な因縁のもとで発掘された。昭和31年のことである。
古墳のある諏訪神社は、毎年春になると村相撲が開かれる。この年、春祭りの土俵を補修しようと氏子たちが境内の南側の崖に鍬を入れようとしたところ、羨道入口付近の天井石にぶつかたのが発見の事始めだった。それまで諏訪神社が前方後円墳(前方の部分はほとんど短く円墳に近い変形)の上にあるとは村人はもちろん氏子たちの誰も気づいていたものはなかった。古墳に関する伝説も所伝も伝っていなかったのである。
開けてみっくり。そこには異様な”怪獣”が見事な筆致で三つも描かれていたからである。発掘がスタートした時、地元郷土史家の清賀義人(故人)をはじめ地元の福丸高校、中学の先生や生徒の手で遺物集収などが行われた。しかし調査するにつれ、それまでの日本の古墳発掘史上例のない壁画が出るに及んで、町教育委員会は県に連絡、あわてて森貞次郎氏(九州産業大学)が派遣され緊急調査が行われたのだった。
岩波書店刊 金関丈夫著「発掘から推理する」pp131-134より抜粋
ISBN-10 : 4006031300竹原古墳奥壁の壁画の主題について語る前に、いま一ついっておかねばならぬ重要なことがある。九州地方の、多くのいわゆる装飾古墳の壁画を見ると、竹原古墳以外のものは、その手法においては、もし信仰的な象徴性というものを考えなければ、例外なく、きわめて自由な、児童画に類するものであって、その手法の伝統を語るものは、縦にも横にも、何もない。いずれも絵画以前のものであり、芸術的価値を云々するべきものではない。全体としての画面構成に考慮を払われたあとはなく、描かれた個々の物象がそれぞれ自由に場所を占めている。表されているものは、全体としての一つの情景ではなく、単独の観念のよせ集めである。そこにはひまをかけた鄭重さが、幼稚さをカバーしているところはあっても、手練からくる奔放さというものはない。
これに対して、竹原古墳の壁画(図版参照)は、まずその全体の絵画的なまとまり、壁画に対する絵の占める面と、その位置のつり合いが、毫も間然するところがない。これだけを見てもこの画の作者の練達さがはっきりわかる。
両側に大きく描かれた一対の翳(さしば)が、全体を強く引き締めて、中に一つの絵画的空間をはさむ。さしばの大きさは装飾的な拡大ともみられるが、下方の立波と共に近景の位置を占め、動物、人物などが、やや遠景的に取り扱われているーとも見える、ということから、このさしばの大きさの不調和があまり苦にならない。中央の空間の下半は、描かれた個々の像の位置が、相互間の調和をとり、実に的確に、ぴったりと嵌め込まれている。これに対して上方の獣形象は、右方にかたよっているが、その空間的波調によって、かえって全体の平板に陥ることが救われている。ひとり絵画とはいわず、一般芸術を通じて、この種の波調は不可欠な要素である。それと同時に、怪獣の姿体の躍動が、これで一層強められる。跳り上がった前肢をおろす次の動きが、それをおろす空間を前にのこしておくことで、実に活き活きと感取される。心憎い手際といわねばならない。新思索社刊 ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著 由良君美・富山太佳夫訳 「影の獄にて」pp.19-23より抜粋
ISBN-10 : 4783511934
ISBN-13 : 978-4783511939
むろん、ハラも拷問に加わることがあったが、それは彼の同国人の一団や群れの行うことにはすべて従うという、ほとんど神秘的な、深い必然の感覚が、否応なしに彼を、目の前の出来事と一体のものにさせるときにかぎられていた。まるで彼らは、個人のことは、何一つ経験することができない人間のようだった。まるで、ある人間の考えや行いが、たちまちにして他人に伝染し、黒死病や黄死病のように、残虐行為という悲運の疫病が、あっという間に彼等個人の抵抗心を抹殺してしまうかのようだった。
つまるところ、ハラは、彼等のなかでも最も日本人だったのだ。だから彼は拷問に加わらざるを得なかったが、しかし、彼は一度たりとも拷問の音頭をとったことはなかった。ハラという男は、長時間延々と人を拷問にかけるより、ひと思いに殺すことを好む人間だということが、ロレンスには何となくわかっていた。こういうことをすっかり念頭にしながら、彼はハラをもっと仔細にながめてみた。すると彼の目が常になく輝いており、頬も紅潮しているのに気づいた。
「奴さん飲んできたな」と彼は思った。というのは、ハラの頬には、隠そうにも色にでた赤らみがあった。飲むと日本人はすぐ赤くなる。「これで彼の目の輝きのことも説明がつく。これは用心したほうがいいぞ。」
しかし、頬の赤らみにかんしては彼の考えは正しかったが、目の輝きのほうにかんしては、違っていたことがわかった。というのは、突然、ハラがこう言ったからなのだ。出かかった笑いが押し殺されていたためであろう。唇をちょっとひきつらせて、「ろーれんすさん、ふぁーぜる・くりーすます。知っとるかな?」(さん)づけをして言われようとは予期していなかった。それだけに、ロレンスはほとんど全身の力が抜けてしまいそうになり、ハラの言ったふしぎな(ふぁーぜる・くりーすます)という言葉のことが本気に考えてみることができなかった。とうとうハラの短気な眉に、あまり返事がおそいための、無理解の雲がかかるのを彼はみた。この雲は、たいてい、激怒の前触れになる、そのとき、やっと彼には納得がいったのだ。「知ってますとも、ハラさん」と彼はゆっくり答えた。
「ファーザー・クリスマス(サンタクロースのこと)ですね、知ってますよ。」
「エヘーヘッ!」とハラは、かなり満足げに、歯の間からきしるような叫び声をあげた。一瞬、彼のながい唇の間で、金縁の歯がキラリと輝いた。それから椅子にふんぞり返ると、彼はこう申し渡すのだった。
「今夜、わたし、ふぁーぜる・くりーすます!」三・四回、ハラはこの驚くべき言葉を述べたのである。しかも大声で笑いながらなのだ。
ほんとうは何のかことかわからないままに、ロレンスも声を合わせた。あまりにも長い間、営倉でたった一人ぼっちで、死刑を宣告されたまま横たわっていたために、いつも夜の今頃になれば、恒例の拷問の時間だと思うのが精一杯で、ほかにはほとんど何も考えなかった。今日は何月何日かという観念をなくしてしまっていた。実際きょうがクリスマスだったとは、考えていなかったことだった。
おのれの言葉と、それを聞いた、ロレンスのあからさまな当惑の表情とですっかり悦に入ってしまったハラは、特権を一方的に楽しめるこの一瞬を、できればもっと引き延ばしたかったところだろう。あいにく、ちょうどそのとき、ひとりの衛兵が戸口に現れ、背の高い髯面のイギリス人を部屋の中に連行してきた。そのイギリス人は、英国空軍航空隊長の色あせた制服を着ていた。とっさに、ハラは笑いをぴたりと止め、戸口に立ったヒックス=エリスのひょろ長い姿に目を走らせるその表情には、ほとんど憎悪に似た、よそよそしさが宿った。このロレンスの話を聞いていると、わたしには、そのときのハラの姿が、ありありと目に見えるような気がした。
この空軍将校が入ってきた刹那、急に固くなったハラの姿がまのあたりに見えるように思ったのだ。われわれ捕虜のなかでも、ハラは、この背の高い呂律のまわらぬヒックス=エリスを、いちばん、にくんでいるように思えたものだ。「この空軍大佐はな」とハラはいかにも軽蔑しきったように、大佐に向かって手を振りながら、日本語でロレンスに言った。「この収容所の所長だ。さ、おまえはこの男と一緒にもう大部屋に帰ってよろしい。」わが耳を疑う思いで、ロレンスは一瞬ためらった。ロレンスの顔にわれ知らず浮かんだ信じかねるような表情を見て、自分のふるまいの寛大さを確認したのか、ハラはふんぞりかえると、ことさらに笑うのだった。ハラが大笑いしているのをもう一度たしかめてから、はじめて冗談ではなかったことがわかったロレンスは、歩いて大佐のところへ行った。一言もかわさずに二人がいっしょに扉のところまで行ったとき、突然、ハラは恐ろしく鋭い、観兵式の号令のような声で呼んだ。
「ろーれんす!」
絶望に目をつむる思いで、ロレンスはふりむいた。こうくるだろうと予期していてもよかった筈だ。拷問をうけるはずのことが、こんなにいきなり釈放されるなんて、あまり話がうますぎて、ほんとうにできない気が、どこかしていたからなのだ。これもまた、あるいは拷問の一部なのかもしれない。秘密警察の心理学者かなにかが、単純なハラに入れ知恵して、やらせたことかもしれない。しかし、ふりむいてハラの顔を見たとき、彼はホッと安堵の胸をなでおろした。ハラはあいかわらず、いつくしみぶかげに、ニコニコ顔をしたままだったから。謎のようなその顔の、短気そうなひねった唇と金縁をはめた黄色い歯とのあいだに、不可解なよじれたような微笑を浮かべたままだった。ロレンスの視線をとらえると、ハラは、ものすごく力んで、鋭くつんざくような声で呼びかけた。「ろーれんす、めりい・くりーすますぅ!」
(めりい・くりーすます)と(ふぁーぜる・くりーすます)という二つの言葉。これがロレンスにとって、ハラが口にするのを聞いたただ二つの英語だった。たぶんこれ以外には知らなかったのだろう。この言葉を言おうとして、ハラの顔面は、もう一度、ピンクの度を増した。それから、猫のように喉の奥をゴロゴロ鳴らし、司令官の椅子の上で、くつろいだ態度に返った。
これまでどうにか1400記事以上作成してきたから、こうした文章を作成するのが楽になってくるというわけでもなく、自身の記憶と感覚に基づきますと、それは波があると云えます。
また、継続して作成している記事の様式があれば、それに則り、そこまで労せずに記事作成が出来るとは云えますが、そこでもまた別種の波のようなものがあるように思われます。
これまでの【架空の話】は、概ね自身の記憶に基づいて作成していますが、その作成に際しても「そういえばこんなことがあった・・。」といった記憶が、書いているうちに沸々と湧いてくる時と、そうでない時があり、後者である場合は、何故だかとても眠たくなってきます。そうした時は、まさに寝落ちしそうになりながら作成しています。対して前者である場合は、調子が良いと、本当にスルッと1時間も経たずに、ある程度キリが良く、そしてまた適当な文量になっています。
しかしながら、こうした日は決して多くはなく、大半は後者に近いのが現状と云えます。こうした違いが何により生じているのかを明らかにすれば、もう少し効率的な記事の作成に繋がるように思われますが、しかし、それを明らかにする前に次の記事作成を行っていると云えることから、未だにそれは改善されていません・・(苦笑)。
おそらくそれは、今後首尾よく1500記事に到達して1カ月程、新規の記事作成を休止している時に何か良いアイデアが浮かんでくるのではないかと捕らぬ狸のなんとやらを行っています・・(苦笑)。
また、昨今よく聞くハナシで10000時間の法則というものがあるとのことで、何かの技芸の上達のためには、それを10000時間継続する必要があるとのことです。その伝で考えてみますと、1記事の作成に2時間を要する場合、5000記事の投稿が必要であり、3時間であれば3333記事程となります。
そうしますと、所用作成時間が2・3時間の何れの場合であれ、未だ現在半分にも至っていないこととなり、途方に暮れてしまいます・・(苦笑)。しかし他方で、もしも、当ブログ記事作成を始める以前の、さまざまな文章作成に費やした時間をも加算することが妥当であるのならば、感覚的にではありますが「半分以上までには至っているのではないか?」とも思われてきます・・。
とはいえ、そうしたものは、何かの拍子にパッと気付くものであるのか、あるいは加齢の様に、気が付かないうちに、徐々に進行していくものか分かりませんが、そうしたことが起きるのをボンヤリと期待し、気に留めつつ、その都度の記事作成を続けるのが、最も堅い進め方ではあるように思われます・・。
そして、もしもそのようになったら、一体自身の文体はどのようなものになるのでしょうか・・?あるいは「何でも文章で表現できる!」といった自信にでもなるのでしょうか?そして、さらに、それは何に生かすことが出来るのだろうか?
馬鹿らしいかもしれませんが、そうした期待のようなものは思いのほかに大事ではないかと考えますが、さて、如何でしょうか?
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
おかげさまで、前回の記事投稿により総投稿記事数が1440に到達しました。また、以前に、年内での目標記事投稿数を1440と述べましたが、その目標には到達し、次はその目標を1445に更新しようと思います。
年内残り10日あまりにて5記事を追加投稿することは、そこまで困難とは感じられず、また、これまで書き続けている【架空の話】の続きも作成したいと考えています。
この【架空の話】ですが、直近投稿の「其の55」は、投稿後4日にしては、思いのほか多くの方々に読んで頂きました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
他方で、専門職大学の編入試験からKでのアパート探しまでを概ね時系列的に書いた、其の1~其の52から少し時間が進み、GW後、学科にて開催の「飲み方」について書いた「其の53」も、さきと同様、自身の作成記事としては多くの方々に読んで頂いていたことから、次回投稿の【架空の話】は、この「飲み方」(「其の53」)の先を書いてみようと考えています。
しかし同時に、いずれであれ、これらを更に今後、書き進めていくためには、実際に現地を訪れ自身の記憶を励起させるか、あるいは取材的に現地での見聞を更新する必要があるのではないかと思われましたが、現今状況下では、それは叶いませんので、今しばらくは現在の環境下にて書き続けてみようと思います・・。
また、その際に多少役立つと思われたものは、自身の歯科技工学校時代のノートであり、これは先日、本箱の中から探し出しました。
当時、2007年頃の私は、文系院の修士を修了した直後のためか、変に理屈っぽくなっており、一方で、自らの手があまり器用に動かないことに、苛立ちのようなものを覚え、焦燥感のようなものを抱いていました。しかし、そうであっても初めて見聞する歯科医療分野の知識は大変新鮮であり、特に歯科材料学(歯科理工学)は、それまで文系院にて取組んだ、主に紀南地域の地域性検討のための一要素として定めた弥生時代の青銅製祭器「銅鐸」の作成手法が、原理的には、歯科医療分野での合金製歯冠修復物(メタルクラウン)と同じであったことから興味を持ち、自分なりに色々と取組んだ結果、その分野での大学院に歯科技工士として進むことになりました・・。
現在では、こうした歯科技工士の方々がいらっしゃることは知っていますが、当時(2009年)はかなり珍しかったのではないかと思われます・・。あるいは巨視的に見ると、これは一つの社会実験であったのかもしれませんが、その意味においては、私は「失敗した試作機」と云えなくもないです・・(苦笑)。
しかし他方で、そうした背景を持つ人間(そこでは私が歯科技工士であるということは背景の一要素となる。)が、これまたヘンテコにもブログ記事の作成をどうにか5年以上続け、そしてまた、書籍からの抜粋記事が少なからずあるものの、どうにか1400記事程度まで作成出来ていることは、直接的な社会有用性にはあまり寄与していないのかもしれませんが、それでも、何らかの新たな可能性を社会に示唆しているのではないかと、自惚れではありましょうが提示し、主張してみたくもなるのです・・(笑)。
ともあれ、年内に1445記事まで到達出来ればと思います。