~勉強会の御案内~
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Kに住むようになり早や一週間近くが過ぎた。入学式まではあと数日あり、また東京から送った引越荷物も無事に届き、それらの開封・整理を行い、どうにか生活出来る状態にはなった。この時季のKは既にして暖かく、日中、家電などの配置のための力仕事を行っていると、思いのほかに汗をかいてしまうほどであった。
部屋の片付けを行い、一人暮らしで初めての自炊を行ったが、その献立は納豆ご飯に豚汁といった至極質素なものであったが自身の作としては悪くなく、その献立の残りは翌日に持ち越されたが特にイヤだと思うこともなかった。
また、Kに発つ直前に父から教えてもらった遠い親戚を挨拶のため訪問しようと、その住所をグーグルマップにて調べると、現在地から徒歩や市電やバスを乗り継いで1時間ほどかかるとのことであった。
書かれた住所は診療所のようであり、そこに冠された苗字は私のそれと同じであった。市電とバスを乗り継いでK市内の郊外と云えそうな場所、地域の小中学校の近くに診療所はあり、個人事業としては決して小さくはなく、またそのすぐ近くには診療所が併設したと思しきデイケア施設や訪問看護ステーションがあった。
どうやら、この診療所は当地域では古い存在であるようで、デイケアからは元気そうな声が聞こえてきた。私は決して新しいとは云えない造作の診療所に入ると、受付窓口にいる女性に「すみません***と申しますが、***(同じ苗字)先生はいらっしゃいますでしょうか?と、父から預かった名刺を差し出して訊ねると、その女性は名刺を両手で受取り、しばらく怪訝そうな顔をした後「ああ、院長先生ですね。ちょっと待ってください。」と云って、さらに後ろにある事務方の机の間を通り、その途中で何か会話をしていたが、やがて事務室のドアから出て、私のいる待合ロビーまで来て、そのまま診療所玄関の右手にある階段で二階に通された。二階に上がると、消毒臭というのだろうか、いかにも病院らしい匂いがしてきて、さらに廊下には白衣を着た医療職と思しき方々が歩いていたが、私は古風にも「院長室」と書かれた部屋に通され、そこで待つようにと慇懃な調子で云われた。
この「院長室」はまさに前世代、いや、より精確には昭和後期の「院長室」といった趣が濃厚で、あるいは、ひと昔前のドラマに登場する医学部教授室といった感じであった。とはいえ、室内に置かれている調度品や絵画がそれなりに格式があり、品良く思われたため、時代遅れで悪趣味といった感じは受けなかった。
やがて、さきとは別のスタッフの方がお茶を運んで来てくれて「院長先生はもうじき診察が終わって来ますので、もうしばらくお待ちください。」と云って去って行った。
さらにしばらく待っていると、やがてあまり身長が高くなく、どちらかといえばズングリした体型に白衣を着た、初老少し前、私の父とほぼ同年輩の精悍な感じの男性が入ってきた。この男性を見て直観的に思い出したのは、父と少し似たところがある沼津在住の親戚であり、肌の色合が何となく似ているように思われた。頭髪は額から後退気味であるものの整えられ、オシャレ感の乏しい銀縁の眼鏡をかけ、そして白衣の下には白のワイシャツを着て、ダークブラウンのニットタイを締めていた。おそらく毎日そのような感じであるのだろう。
院長はさきほど私が受付女性に渡した父の名刺を見て「ああ***さんの息子さんか。こっちの市民病院近くの新設の専門職大学に入るんだって・・。学部、いや学科はどこかね?」と訊ねてきた。
その感じは一種、鷹揚な快活さがあり、この後の経験で知ったことだが、開業医にはこうしたタイプは割合多いように思われる。
私はソファから立ち上がり、院長と相対していたが、この質問を聞くと「・・はい、あの口腔保健工学科というところでして、歯科技工士を養成するところです。」と若干緊張気味に返事をすると、院長は手振りで、私に座るように促され、そして自分も座り、おもむろに机上の電話機を取り、おそらく内線電話であろう相手に「ああ、私だが今日はここで昼食を摂るから、お弁当を二つこっちに持って来てくれないか?」と云い、さらに「あと、私にもお茶を持って来てくれないか?うん、それで良いよ、ありがとう。」と付け加えて受話器を置いた。
そのやりとりを見つつ、ボンヤリとキャビネットの上に置かれた木製彫刻に嵌め込まれた重厚な感じの置時計を見ると、丁度正午を15分ほど過ぎていた。
昼食時に訪問した非礼を詫びようと、少し口ごもると、院長はそれを制するように「うん、あの大学は最近出来て、ようやく去年あたりから卒業生が出るようになったのかな?私もあの大学の設置には少し働いたのだがね、まあ私が知っているのは看護学科だけかな?残念だが口腔だから歯科系の先生では知っているのはいないなあ・・。まあ、しかし、君のお父さんとは法事でこれまでに何度か会って、あと若い頃は会社の出張の時に会ったこともあるけれど、君はその息子さんかあ・・。と両手を組んで感慨深げにこちらを眺めた。
入学後しばらく経ち、GWも終わり、ようやく異郷の地での新たな学生生活にも慣れてきたある日、顎顔面解剖学の講義の後、休み時間に次の教養科目講義の準備をしていると、後ろから「今週の金曜日にクラスの皆で「飲み方」をしようと思うのだけれど、参加しますか?」とクラスメートが訊ねてきた。
その後ろの少し遠巻きに、さらに何人かのクラスメートが、この様子をそ知らぬ風で窺っているようであったが、当時の私としては、そうした集まりに呼んでもらえること自体がどうにも嬉しく「ええ、金曜日は空いていますので参加できます。」とほぼ間を置かずに返事をすると「ええ、分かりました。じゃあ、詳細はまた後でお知らせしますので・・。」と云い、去って行った。
小規模な大学での二年次編入とは、さきの一年の間に既にグループや、ある程度フィックスされた学生同士の交友関係などが出来上がりつつあるところに途中から入るわけであり、くわえて私の場合、多くの同期学生とは年齢が四つほど離れ、さらに利用できるような地縁も殆どないことから、入学当初は、自身の持つK独特の苗字からか、わずかに話しかけて来られる方々もいたが、しばらく経ち、私が余所者であることが周知になると、私は学科内で少し浮いた存在となっていることに気が付いた・・(笑)。
とはいえ、元来私はあまり好んで友達を作ろうとする性分でもないことから、そのままのいわば膠着した状態にて、この時期まで来たわけである・・。
さて、その日の講義が全て終わり、学生等が三々五々帰って行くなか、さきほど訊ねてきた同期の方が「あの、さきほどの「飲み方」のハナシですが、今週金曜日にT文館の「***」というお店で18:30開始の予定です。***さんは編入された新入生ですので支払いは結構です。」と、四つ程年下と思われる同期の方に告げられて少し困ってしまった。「あの、もちろん参加したいとは思うのですが、自分の分の会費はお支払いしたいのですが、それは可能でしょうか?」と訊ねてみたところ、彼女はしばらく考えてから「・・そうですか、分かりました。それは可能ですが、通常の会費の半額の1500円ということでお願いします。」とのことであった・・。こうしたやりとりから、そこまで杓子定規で頭が硬いわけではないようであり、他方で、そうしたことを考え、差配しようとする二十歳(はたち)そこそこの女性の実行力には少し頭が下がった・・。
GW後にして梅雨前、5月下旬のKの気候は充分に暖かく、日によっては夏を思わせることもあり「飲み方」の当日は、講義後に一度帰宅し着替えてから市電でT文館に向かった。この日も良い陽気であったため、少し色落ちしたネイビーのチノ生地のショーツの上に細いブルーのストライプが入った白シアサッカー地の半袖プルオーバーボタンダウンシャツを着て、その上にベージュ色のこれまた少し色褪せたラルフ・ローレンのチノ生地のブルゾンを羽織り、靴はネイビーのサッカニーのジャズを履いて行った。また、久々に帽子を被ることにした。それはあまりつば広でない、ベージュコットンのブーニーハットであった。
集合時間少し前に「飲み方」会場の全国チェーンの飲み屋さんの前に着くと、既に半数ほど集まっていた。私は多少遠慮気味にそちらの方に行くと、先日訊ねてきた同期の方が「ああ、もう大分集まってきましたので「お店の中に入ってください。」と云ったところです。」と話しかけてきた。
たしかに皆、会場のお店の中に入って行っているところであったが、こうして、その様子を傍から眺めてみると、彼等彼女等はいかにも若く、どうも高校生の様にも見えるように思われた・・。
どうしたわけか、ここ最近、当ブロガーにて作成している【架空の話】に書かれている内容に関する、具体的には自身の本当の出自であるとか、家族構成あるいは経歴などについてのご質問を頂くことが度々あります。とはいえ、それらのご質問全てが【架空の話】を読んで頂いたことによるものであるとも云えないため、もちろん、それらご質問に対しては自身に基づいて返答させて頂いています。
しかし他方で、それらのご質問のうちの幾らかは【架空の話】を読んで頂いたことによるものとも十分に考えられます。また、そうしますと、これまでに作成した【架空の話】は、ある程度、真に迫っていたとも云えるのかもしれません・・(笑)。
以前にも書きましたが、この【架空の話】では、未だkでの在住期間すら始まっておらず、またそれは、自身のKでの記憶のうちのほんのごくわずかであると云えます。そしてまた、それを時系列順に書き進めて行くことは、思いのほかに大変であるように思われるため、今後の【架空の話】の書きぶりについては、これまで通り時系列順に述べていくよりも、印象深い複数の出来事をある程度の期間を掛けて書き連ね、そして、後日、それらを時系列順に配置し直し、そして配列され全体となった文章の書きぶりについて随時調整していくのが適当であるのではないかと考えました。
これも、実際に行ってみないと、上手くそのように進むかは分かりませんが、とりあえずしばらくの間は、この手法を試みていきたいと考えています。
さきほど見たところ、これまでに1434記事作成していました。また、以前、(20201108)「年内に1430記事投稿することを目標とする」と書いていましたので、それはどうにか達成されていたようです。そして今後は、その目標を1440記事に更新しようと思います。そうしますと、あと当記事を含めて6記事の投稿により達成されることになりますが、それは、これまでの投稿頻度からしますと、そこまで困難ではないように思われます。他方で、ここ最近は、また多少スランプ気味であると云え、しばらく記事作成を休もうと考えています。
そしてまた、休息後には再度書き進めていきたいと考えていますが、その背景にある「意欲」は明らかに以前、1000記事を目指して作成していた頃と比べますと減衰していると云えます・・。かつて設定した、ある程度大きな目標(1000記事)の到達後、また新たに目標を立て、そこに向けて進める際は、当初と同様の「意欲」ではなくなるようです。また同時に、おそらく今後、ある程度の時間を掛かければ、1500記事に到達することは不可能ではなく、それなりに現実味があるとは思われるのですが、しかし、これが2000記事になりますと、決してそのようにはなりません。それは現在の私にとって未だ現実味に乏しく、あるいは「そこまでは作成しないのでは?」といった思いの方が強いと云えます・・。しかしまた他方で、それは実際に今後1500記事にまで到達した際に変化する可能性も十分にあるため、あくまでもそれは現時点でのハナシにはなるのですが・・。
ともあれ、如上のようにして、これまでどうにか記事作成を継続してきましたが、未だに自分の書いた文章に自信が持てる、あるいは自身の文体を獲得したといった、ある種、充実を伴う感覚や認識を得るには至っていません。それでも、これを継続している理由は、記事作成を行っていますと時折「楽しい」と思われることがあったり、あるいはまた、面白い偶然のような出来事が生じるからであると云えますが、他方で、それらをあまり考えずに、とりあえず記事作成を行っている方が、変に注意過多にならず継続し易くなるのではないかとも思われるのです。そして、そうした言語による意識の層のようなものに慣れることが、思いのほかに重要であるように思われるのです・・。
くわえて、それと同時に、自身の知見を上回るような記述がある書籍に慣れておくことも重要であると思われます。自身に即してみますと、それは現在読み進めている宮地正人著「幕末維新変革史」であり、読んでいますと昔の日本語での記述があるかと思いきや、来航してきた外国使節からの通達文の抜粋などもあり、それらの関連性などを理解しながら読み進めていくのは、自身にとっては多少骨が折れることではありますが、それを通じ、何となく、その記述が「理解出来た」と思えるようになりますと、漠然とではありますが、これまでとは異なった歴史像のようなものが見えてくるように思われるのです・・。
おそらく、こうした経験は、どの分野であれ、ある程度共通しており、またこれこそが、そこまでお手軽ではないものの、一つの重要な何かであり、そしてまた、さきに書きました自身の文章作成に対してボディ・ブローのように徐々に効いてくるのではないかとも思われるのです・・。