2024年8月3日土曜日

20240803 手書きとキーボード入力による文章作成について

 先月に続いて8月に入っても暑い日が続いておりますが、当ブログの方は去る5月末に2200記事に到達してから、さらに30記事以上更新しており、十分に休息を取らずになし崩し的に記事作成を再開している様な感がぬぐい得ません。そのため「もっと休息を・・」と思うこともあるのですが、以前にも述べましたように、とりあえず来年の6月22日のブログ開始から丸10年になるまでは、どのようなペースであれ、その時々の自分の意思に従って記事作成を継続したいと思っています。ある程度、こうした行為を継続していますと、引用記事であれ、オリジナルのものであれ、ともかくブログ記事を作成することが基本となりますので、自分の意思のなかで「ブログ記事作成を止める」といった選択肢は考えられなくなります。しかし、10年間継続することにより、その後の更なる継続も、あるいはまた完全に止めることも、ごく自然にできるのではないかと思われるのです。そして、そのためにも、9年間を越えた現時点では、面倒に思い、また時々は辛いと感じることがあっても、継続する以外にないのではないかと思われるのです。また、ここ最近は相対的に書籍からの引用記事を多く作成してきましたが、そこで自らによる文章作成が困難になったのではないかと思い、ブログ開始初期の頃のように時間を見つけてノートに思い付いたことなどを走り書きしてきましたが、この記入に際して「ああ、これは懐かしい感覚だ・・」と感じることがありました。そして、この感覚があればまた、特に困難でなく、また自らの文章を作成出来ると信じられるのです。そして、この文章を作成しています。また、さきの走り書きには、こうしたことは全く書いていません。つまり、ノートへの記入と、ここでのキーボードでの文章の入力は、それぞれの文章作成時における感覚が異なり、おそらく、ブログ開始当初の頃であれば、それ以前から優勢であった手書きでの文章の感覚か強く、それがブログの継続に伴い、経時的に、キーボード入力での文章作成の感覚が優勢になっていったのではないかと思われます。そして、現在「自らによる文章作成の感覚が停滞しているのでは?」という危惧から、ジタバタともがく一環として、原点に戻り、手書きでのノートへの文相作成を試み、しばらくしていますと、さきの「ああ、これは懐かしい感覚だ・・」といった様子になり、そして、そこから、こうした、理路整然としたものではないものの、文章を作成することが出来ていますので、そこから、手書きでの文章作成といった、現在では古くなってしまった感のある行為を、敢えて採ることにより、かつての文章作成を日々行っていた身体感覚が甦り、そして、それをキーボードでの文章作成に転換することが出来るようになるのではないかと思われました。結論として、キーボードでの文章作成をされる方々は、スランプ気味になりましたら、しばらく手書きでの文章作成をしてみますと、多少は事態が好転するのではないかと思われました。

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2024年8月2日金曜日

20240801 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻 pp.79-81より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻
pp.79-81より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309227368
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309227368  

 歴史が安定した規則に従わず、将来どのような道をたどるか予期できないとしたら、なぜ歴史を学ぶのか?科学の主たる目的は、未来を予測することであるように思える場合が多い。気象学者は明日雨が降るか晴れるか予想することを期待されているし、経済学者は通貨の平価を切り下げると経済危機を避けられる引き起こすかを知っていて当然だし、優れた医師は肺癌の治療には化学療法と放射線療法のどちらのほうが有効かを予見できる、という具合だ。同様に歴史学者は、私たちが祖先の賢明な決断に倣い、誤りを避けられるように、祖先の行動を詳しく調べることを求められる。だが、思いどおりにうまくいくことは、まずない。現在は過去と違い過ぎるからだ。第三次世界大戦が起こったた真似るために、第二次ポエニ戦争におけるハンニバルの戦術を学んでも時間の無駄だ。騎兵戦では成功した戦術も、サイバー戦争ではたいして役に立たないだろう。

 もっとも、科学は未来を予測するだけのものではない。どの分野の学者も、私たちの視野を拡げようとすることが多い、それによって私たちの目前に新しい未知を切り拓いてくれる。これは歴史学にはなおさらよく当てはまる。歴史学者はときおり予言を試みるものの(ろくに成功しない)、歴史の研究は、私たちが通常なら考えない可能性に気づくように仕向けることを何にもまして目指している。歴史学者が過去を研究をするのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ。

 私たちは一人残らず、特定の歴史的現実の中に生れ、特定の規範や価値観に支配され、特定の政治経済制度に管理されている。そして、この現実を当り前と考え、それが自然で必然で不変だと思い込んでいる。私たちの世界が偶然の出来事の連鎖で生み出されたことや、歴史が私たちのテクノロジーや政治や社会だけでなく、思考や恐れまでも形作ったことを忘れている。過去の冷たい手が祖先の墓から伸び出てきて、私たちの首根っこをつかみ、視線をたった一つの未来に向けさせる。私たちは生まれた瞬間からその手につかれてているので、それが自分というものの自然で逃れようのない部分であるとばかり思い込んでいる。したがって、身を振りほどき、それ以外の未来を思い描こうとはめったにしない。

 歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始めることができる。私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。

 世界を変えようとする運動は、歴史を書き換え、それによって人々が未来を想像し直せるようにすることから始まる場合が多い。労働者にゼネストを行わせることであれ、女性に自分の体の所有権を獲得させることであれ、迫害されている少数者集団に政治的権利を要求させることであれ、あなたが何を望んでいようと、第一歩は彼らの歴史を語り直すことだ。あなたの語る新しい歴史は、次のように説く。「私たちの現状は自然でも永続的でもない。かつて、状況は違っていた。今日、私たちが知っているような不当な世界が誕生したのは、一連の偶然の出来事が起こったからにすぎない。私たちが賢明な行動を取れば、その世界を変え、はるかに良い世界を生み出せる」。だからマルクス主義者は資本主義の歴史を詳述する。フェミニストは家父長制社会の形成について研究する。アフリカ系アメリカ人は奴隷貿易というおぞましい行為を振り返る。彼らは過去を永続させることではなく、過去から解放されることを目指しているのだ。

2024年8月1日木曜日

20240731 中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.270‐272より抜粋

中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.270‐272より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412160153X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601537

 かつ日本政府は露、独、仏三国の運動が、或いは清国を誘引して条約の批准を拒止せしめついに再び砲火相間見ゆるの已むを得ざるに陥らんことを恐る、かかる出来事はなるべく未発に防遏するため内密に米国の友誼協力を望まざるを得ず、との旨を米国政府に告ぐべし、と命じたり。しかるに同月二十七日、露京発西公使の回電にいう、四月二十五日の電訓に基づき、本官は昨日露国外務大臣と長時間の弁論を費やし、力を尽くして露国政府をしてわが請求に対し都合よき回答をなさしめんとしたり、同大臣の顔色やや感動するところあるもののごとく見受け、今一応露国皇帝の叡慮を伺うべしと約せり、しかるに今日に至り、露国皇帝は日本の請求は露国の勧告を翻さしむるに足るべき十分の理由あらずとのゆえをもって、これを容納し給わずとの旨を述べたり、目下露国政府は運槽船をオデッサに派遣し軍隊回槽の準備中なりと風聞す、ゆえに露国の干渉は重大なるべきものと予期して覚悟しおかるる方安全なるべし、と。余は露国の回答は大概かくのごときものなるべしとは予期せしところなり。而して英国はいかにわが請求に対し回答せしか。あたかも西公使の回電と同日、倫敦発加藤公使の電報はこのときに到来せり、加藤公使はさきに余の電訓に接するや直ちに英国外務大臣に両見を求め具にわが政府の希望を述べたるに、キンバリー伯爵はすこぶる日本に対し好情を抱き居る様子なれども、諸大臣は、この事件に関し英国政府は一切干渉せざることに決定しおれり、而して今英国が日本に協力することはそもそもまた一の干渉にほかならず、事体一新面目を開くことなるをもって、内閣総理大臣ローズベリー伯爵と相談のうえにあらざればなにごとも回答し難し、との旨を述べ、かつ、露、独、仏三国にはたしてなにほどまでその異議を主張するやは確知せざれども、形勢すこぶる容易ならざるゆえに、日本はこれに対し十二分に覚悟するを得策とすべし、英国は平和を望むをもって日本が欧州各国と交戦に至るを欲せざるはもちろん、日清戦争の継続することもまたはなはだ好まざるところなれば、目下の葛藤を解除すべき機会あれば必ず尽力することを怠らざるべし、ただし英国は日本に対し友情を抱くといえど、露、独、仏三国もまた友邦のことなれば、英国はこの際彼此酌量してその威厳上自己の決断と責任とをもって運動するのほかなし、と付言したり。加藤公使はこのときすでに在伊国高平公使の電照にて伊国政府の意見を推知し居たるにより、英国外務大臣に向かい、暗にこの際事局を了結すべき名案なきやと問いたれども、同大臣は否と答えたるのみ。なおわが請求に対する英国政府の確答あり次第さらに電稟すべしといい越し、ついで二十九日、倫敦発同公使の電報によれば、英国外務大臣は同公使に対し、英国政府はうちに局外中立を守ることに一決したれば、今回もまた同一の意向を維持せんと欲す、英国は日本に対しもっとも昵懇なる友情を抱き居れども、同時に自国の利益をも考えざえるを得ず、ゆえに今日本の提議に協同して日本を助力する能わず、ただし露国は真実に決心するところあるがごとしといい、深く注意を与えたり、と報じ来たれり。これを要するに、英国は半呑半吐の間にわが請求を謝絶したるに過ぎず、また同日栗野公使の来電によれば、米国国務大臣は局外中立の主意と矛盾せざる限りは日本と協力することを承諾せり、而して講和条約の批准の件は在北京米国公使に電訓して、速やかなる実行することを清国に勧告せしむべしといえり、とあり。米国の政綱よりいえばこの回答は実に相当の語詞にして、そのわが国に対する友情の薄からざるを視るべし。さりとて局外中立の範囲内における協力といえばその極端の援助を望むに足らず。

2024年7月30日火曜日

20240729 株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 pp.149‐151より抜粋

株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」
pp.149‐151より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063

 ナチス・ドイツの勢威の絶頂において開かれた一九三九年の国家の祝典において宣伝相ゲッベルスは彼らの文化指導原理を繰りかえし述べ「主智主義は国民の聡明を害する」として演説した。竹山は同年五月二日のDeutsche Allgemeine Zeitung紙から次のように訳出した、 

 「デモクラシーは、独裁国家に於いては精神の自由が抑圧されている、と言うが、かかる主張もわがナチス独逸に於ては、もはや何の印象をも喚起せぬのである。確かに独裁国家に於ては、精神の自由は、それが国家的利益と相容れぬ場合には、制限を受けるのである。デモクラシーに於いては、精神の自由はこの点では制限を受けぬかも知れぬが、しかし資本家の利益と相容れぬ場合には確かに制限を受けるのです、されば、ここに一つの疑問を呈出したいと思う、-そもそも精神的労働に従事する者にとって、彼の精神的労働を全民族の国民的幸福に従属せしむるのと、あるいは姿も見せぬ少数の金権閥族の資本主義的利益に従属せしむるのと、いずれがより快くまた栄誉あることであるか?…

 吾人は断じて主智主義を以て国民的聡明と同一視してはならぬ。…過去数年間に於て、われらが国民的聡明は公共生活のあらゆる領域に於て真の奇蹟を成就した。今日わが国に於てなお僅かばかり生き残っている、リベラル・デモクラティックな主智主義がこの時期に於て為したところは、単に批評するのみであった。そうして、単に政治的のみならず、精神的にも、芸術的にも、文化的にも、とっくに任を終えた筈の西欧のデモクラシーにその範を求むるのみであった」

 そしてゲッベルスは断言する、”Kultur hat ihrem Wesen nach nichts Wissen und vor allen niches mit kalrer Intellektualiat zu tun."「そもそも、文化とは、その本質に於て知識、なかんずく冷やかなる知性とは何の関係もないものである。文化は民族性のもっとも深くもっとも純粋なる生命の表現である。文化は民族の国民的威力と結合して、はじめてその真の意義を獲得する」。そして新聞人の使命も定義される。「ナチス・ドイツに於てはジャーナリストは国家と民族とその利益とに奉仕する者であるが故に、彼等は職業的に兵士及び官吏と同一視さるべき、光栄ある任務を荷なっている。デモクラシー国家に於ては、ジャーナリストは姿も見せぬ資本強権の文筆苦力にすぎない。…リベラルな国家に於ける精神の自由とは、単なる架空な作り話であって、インテリ愚衆をして、事実存在せざるある状態を存在するかに思い込ませるべく、暗示にかけるだけの役に立っている」。

 教育の使命も同様に定義される。ヒトラーも自己の抱懐する世界観に則って若者を教育すべき旨を演説した、ヒトラーは年配の者に反対者のいることを知るがゆえに青年層に向って働きかける。「いわゆる自由なるものを排除することあるは当然である。次のように言う人間がいるであろう、「己の息子が何故労働奉仕なんかしなくてはならないのか。もっと高尚な仕事をしに生れたのだ。シャベルなんか担ぎ廻ってどうするのだ?何か精神的な仕事をしたらいいではないか」だが、おお君と、その君のいう精神とは一体何であるか!(Was Du, mein lieber Freund, schon unter Geist verstehst!)(再度、数十万の嵐の如き哄笑が支配する)。今、君の息子が西部地方で六カ月間ドイツの為に働いているのは、これは、君の全精神が一生の間ドイツの為になしえたよりも、事実に於てより大いなる事業である(群集は湧き上がる喝采を以て総統に賛意を表する)。しかも君の息子は、民族の内的分裂という最悪の迷妄をも排除すべく働いているのだ」。そしてヒトラーは脅迫をもまじえる、「吾人は勿論「働きたくないなら、働かぬでもよい」とは言わないのだ!」。

 竹山は演説の文言が行動に移されたドイツの文化状況を「ルネサンス以来ヨーロッパの人本主義文化を開展せしめる原動力となった原理、-個人、その自由、その知性ーの否定」と規定し、「英仏側が勝てば、思考の自由は救われ得る。ドイツが勝てばそんなものはわれらから根底的に奪われるであろう」と結論した。日本は昭和十一年来日独防共協定を結び、十五年は九月には日独伊三国同盟が結ばれようとしていた。大胆な発言であった。

2024年7月29日月曜日

20240728 株式会社岩波書店刊 金関丈夫著 大林太良編「新編 木馬と石牛」pp.68‐70より抜粋

株式会社岩波書店刊 金関丈夫著 大林太良編「新編 木馬と石牛」pp.68‐70より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003319710
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003319710

結論をさきにいえば、スサノオのオロチ退治の話は、外婚的双分制社会における通婚形式のー少なくともその記憶上の伝承のーまだ遺っている時代における、農耕民に一般的だった神婚の祭事から起こり、後世にいたって、それがいろいろと変化した結果、その一部を遺す伝説となり、民話となり、子供ばなしとなったと同様に、一つの神話となって遺された物語だ、というのである。話は一種の英雄神話に変化したが、その中にも原型は部分的に、かすかに遺っている。いまそれらの断片を手がかりにして、できたらもとの姿に復元して見ようというのである。

 その手がかりはまず、川上から流れてくる箸である。他の話では、これが杖であったり、丹塗りの矢であったり、あるいは桃であったり、瓜であったりする。水にかづく斎女が、これを迎えて神とし、その一夜妻としてこれと交わる伊勢や賀茂の神事では、流れ寄る神木をミアレギといっている。「御生れ木」の意である。多くの伝説では、水辺の女がこれと交わって、英雄を生むことになる。あるいは、流れ寄ったものの中に、すでに小さ子が孕まれていて、これがのちに英雄となる。四世紀の「華陽国志」などに見える、夜郎国の英主竹王も、流れきたって洗濯する女の脚にまといつく竹幹の中にはらまれていた。女のこれと交わって英雄を生む話の方が、既生の小さ子の流れ寄るモーゼ説話の形よりは、原の形だったと思われる。

 中国の浣女という話も、中唐あたりの感応的な詩の材料にしばしば用いられているが、何か思想上の前歴があったと思われる。桃太郎や瓜姫ばなしでは、川下の洗濯婆さんになってくる。ホトタタライススキヒメも、これはいまでは「あわてふためく」の意と解されているが、やはり濯ぎ女であったにちがいない。斎女が機を織り、水を潜いで、流れ下るミアレギを待つという形が、このような変化を見せている。

 この流れ寄る棒が、竜蛇神を表すものだ、ということについては、それを傍証する多くの事例があって、すでに明らかになっている。かくして竜種の英雄神が誕生する。『日本霊異記』や中国の神怪譚に見える多くの話では、蛇子そのものを生むことにもなる。賀茂の伝説の雷神は、蛇神の顕現であり、蛇神はかくて天上につながる。華胥が雷沢の水辺に夢みて、蛇身人面の太皡を生む話は、この話の一部の脱落の姿であろう。

 雷と竜とは同一物であり、これた年の稔りを左右する、という考え方は中国にもあり、神は雷となって山上に降り、蛇となって渓を下る。斎女のこれと交わることによって、天地の和合を求める、という考え方にも、いくらか中国風のスペキュラティーフな匂いがある。川上から流れくる箸の表象する世界はこれであるが、それ以前に、も少し素朴な、直截な、地上的な儀礼があったであろう、と私は考えている。天などには必ずしも関しない、地上の男女神の媾交によって、穀霊を刺激し、穀粒を孕ませようという、純然たる擬制呪法に基づく祭事が、あったにちがいない、と思っている。

 第二の手がかりは櫛である。スサノオはクシイナダヒメを小形に変化させて、頭に挿したとなる。これは櫛をさしたことであり、女装したことである。ヤマトタケルや後世の岩見重太郎も、クマソやヒヒを退治するときに女装する。これらの英雄は、なぜ女装の必要があったか。

 水辺の異物から、あるいはこれと交わった川下の女から生まれた小さな女の子は、からだの人なみに達しない、弱々しい姿をとる。それだからこそ、かくれた霊力が具わったので、桃太郎が子供の姿であるのは、必ずしも子供ばなしになり終わった後の変化ではない。元来が若童の形だったのだ。私の想像する祭事の場面で、一人まえの男がこれを演ずる場合には、女装をした優さ男、すなわち男女双性神の神の姿を彼はとる。けっしていま考えられているスサノオやヤマトタケルのような、荒あらしい英雄の姿ではなかった。それが一人まえの男の姿ではなかったにもかかわらず、非常な力をふるう、というところから、微賤であったり、怠けものであったりする主人公が、果報のもちぬしであるという、多くの民話が生れてくる。

 第三の手がかりは霊剣である。スサノオはオロチの尾中に宝剣を得る。宋の「中呉紀聞」には、蛇尾が剣に化す話が見える。剣が元来山のものであり、山より下った蛇神に属していることについては、後にもふれるつもりである。

2024年7月28日日曜日

20240727 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻  pp.209-212より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」下巻 
pp.209-212より抜粋
ISBN-10 : 4309227376
ISBN-13 : 978-4309227375

 データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象やものの価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるとされている。これは突飛で傍流の考え方だという印象を受けるかもしれないが、じつは科学界の主流をすでにおおむね席捲している。データ至上主義は科学における二つの大きな流れがぶつかり合って誕生した。チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を出版して以来の一五〇年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングがチューリングマシンの発想を形にしてからの八〇年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。データ至上主義はこれら二つをまとめ、まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまることを指摘する。 

 データ至上主義はこうして、動物と機械を隔てる壁を取り払う、そして、ゆくゆくは電子工学的なアルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える動きをすることを見込んでいる。

 データ至上主義は、政治家や実業家や一般消費者に革新的なテクノロジーと計り知れない新しい力を提供する。学者や知識人にも、何世紀にもわたって私たちを寄せつけなかった科学の聖杯を与えることを約束する。その聖杯とは、音楽学から経済学、果ては生物学に至るまで、科学のあらゆる学問領域を統一する、第一の包括的な理論だ。データ至上主義によると、ベートーヴェンの交響曲第五番と株価バブルとインフルエンザウィルスは三つとも、同じ基本概念とツールを使って分析できるデータフローのパターンにすぎないという。この考え方はきわめて魅力的な。すべての科学者に共通の言語を与え、学問上の亀裂に橋を架け、学問領域の境界を越えて見識を円滑に伝え広める。音楽学者と経済学者と細胞生物学者が、ようやく理解し合えるのだ。

 その過程で、データ至上主義は従来の学習のピラミッドをひっくり返す。これまでは長い一連の知的活動のほんの第一段階と見なされていた。人間はデータを洗練して情報にし、情報を洗練して知識に変え、知識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた。ところがデータ至上主義者は、次のように見ている。もはや人間は膨大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識や知恵にすることなど望むべくもない。したがってデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきだ。このアルゴリズムの処理能力は、人間の脳の処理能力よりもはるかに優れているのだから。つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ。

 データ至上主義者は、母体である二つの学問領域にしっかりと根差している。その領域とは、コンピューター科学と生物学だ。両者を比べると生物学がとりわけ重要だ。生物学がデータ至上主義を採用したからこそ、コンピューター科学における限定的な躍進が世界を揺るがす大変動になったのであり、それが生命の本質そのものを完全に変えてしまう可能性が生れたのだ。生き物はアルゴリズムで、キリンもトマトも人間もたんに異なるデータ処理の方法にすぎないという考えに同意できない人もいるかもしれない。だが、これが現在の科学界の定説であり、それが私たちの世界を一変させつつあることは知っておくべきだ。

 今日、個々の生き物だけではなく、ハチの巣やバクテリアのコロニー、森林、人間の都市などさまざまな形の社会全体もデータ処理システムと見なされている。経済学者はしだいに、経済もまたデータ処理システムだと解釈するようになっている。経済は、小麦を栽培する農民や、衣服を製造する労働者、パンや肌着を買う消費者から成ると素人は考える。ところが専門家にしてみれば、経済とは欲望や能力についてのデータを集め、そのデータをもとに決定を下す仕組みなのだ。

 この見方によれば、自由主義資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ。資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する。資本主義は、すべての生産者と消費者を直接結びつけ、彼らに自由に情報を交換させたり、各自に決定を下されたりすることでデータを処理する。自由主義ではどのようにしてパンの価格を決めるのか?じつのところ、どのベーカリーも好きなだけパンを作り、いくらでも高い値段をつけられる。消費者も同じく自由に、買えるだけのパンを買うこともできれば、他の店で買うこともできる。バゲット一本に一〇〇〇ドルの値えおつけても違法ではないが、それでは買う人はいないだろう。

 今度はずっと大きなスケールで考えよう。投資家はパンの需要増加を予測すると、遺伝子操作によって収穫量の多い小麦の品種を作り出すバイオテクノロジー企業の株を買うだろう。すると、そうした企業に投資が流れ込み、研究が加速し、小麦が前より多く、遠く供給され、パン不足が回避できる。たとえバイオテクノロジーの大手一社が間違った理論を採用して行き詰ったとしても、おそらく競争相手のなかにはもっとうまくやる企業もあり、期待どおりの大躍進を遂げるだろう。このように、自由主義資本主義のでは、データ分析と意思決定の作業が、独立してはいても互いにつながっている多くの処理者に分散している。オーストリアの経済学者の大家フリードリヒ・ハイエクはこれを次のように説明している。「当該の事実に関する知識が多くの人の間に分散しているシステムでは、価格はさまざまな人の別個の行動を調整する働きをなしうる」

 

2024年7月26日金曜日

20240725 本日の慶應義塾史展示館での企画展示室の拝観から想起されたこと

 以前、当ブログにて述べたことがありますが、祖父母が住んでいた伊東市の家に主がいなくなって以降、そこに時々、伯父が行って泊りがけで草刈りなど庭の手入れなどをしていました。そして丁度同じ頃、私は和歌山から実家に戻り、歯科技工専門学校に通っていました。そうした状況もあり、夏季に伯父から「庭の手入れの手助けに来てほしい」との要望を受けて行ったことが何度かありました。実際、庭とは云ってもそこまで広くはありませんが、気候温暖な伊豆であると植物、樹木などの生育の具合も良いのでしょうか、盛夏の日中での庭の手入れは、頭と首にタオルを巻いて、防災用ヘルメットを被り、エンジン式の芝刈り機を用いて庭一面に生えた雑草を刈ったり、あるいは樹に登り余分な枝を払ったりなどで、それなりに時間を要する作業となり、雑談混じりではありましたが、日中は始終作業をしていました。やがて日が暮れてくると「そろそろ今日は終わろうか?」となり、18:00頃には作業を終えて道具を片付け、そして自動車で近くのスーパーマーケットまで夕食の買い出しに出かけました。そして戻ってから交替で入浴をして、買ってきた食材を卓上に並べ、伯父は好物のお酒を飲みながら、夕食(多くは地の魚の刺身)を食べつつ様々な話をされるのです。また、その際にテレビを点けていることが多く、時々、それを話題にして話を展開されることもあり、それらも興味深いものが多かったです。そうしたなか、敗戦記念日周辺での特集の一環であるのか、人間魚雷「回天」を題材とした横山秀夫原作、佐々部清監督による映画「出口のない海」が放映されており、二人とも、そうした題材には興味があることから、飲食をしつつではあれ意識を向けて鑑賞していますと、しばしば伯父が学生・院生時代に先輩や指導教員からお聞きしたと思しき戦時中の大学での話をされるのですが、それも興味深いものが多く、私の方は既にごく少量の飲酒により良い気分になっており、時には頷き、また時には不遜とも云える態度で疑問をぶつけていましたが、伯父もまた酔って良い気分になり、あるいは日中の肉体労働による達成感のためであったのか、鷹揚に受け答えをされていました。やがて映画も終盤に近づき、主要な登場人物である学徒出身の回天搭乗員たちが出撃による戦死、あるいは事故死などといった場面が続くようになると、二人とも言葉が少なくなり、やがて映画が終り、有名女性歌手によるエンディングテーマが流れてくると、伯父はティッシュペーパーで鼻をかみ「お酒を飲んでまた汗をかいちゃったからお風呂に入ってくるよ・・」と云って立ち上がり、タオルなどを取ってから、おもむろに私に「いやあ、悲しい映画だったね・・。しかし、当時、私がどこかの学生だったら特攻に志願していたかな?」と尋ねてきました。私は数秒間をおいて「・・ええ、伯父さんが当時の大学生でしたら、多分志願していたと思います。」と返事をすると「やっぱりそうかね・・。」と云って、もう一度ティッシュで鼻をかみ、こちらをちょっと見てから、風呂場の方に行きました。こちらを見た時の伯父の両目は少し赤くなっており、泣かれていたのかと思われましたが、態度や声色だけでは判然とはしませんでした。しかし、現在になり思い返し考えてみますと、あの時伯父は、やはり、少し泣かれていたのではないかと思われます。そしてまた、そのことは「弱さ」とも評されるような不名誉なことではないと私は考えます。
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