2023年11月21日火曜日

20231121 株式会社光文社刊 阪本浩著「古代ローマ帝国の謎」 pp.102‐105より抜粋

株式会社光文社刊 阪本浩著「古代ローマ帝国の謎」
pp.102‐105より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334706363
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334706364

共和政期も末、ポンペイウスという男は「予がどこであろうとイタリアの土地を一踏み踏めば、たちどころに歩兵、騎兵の軍勢が躍り出るであろう」(プルタルコス)「ポンペイウス伝」57吉村忠典訳)と豪語したという。共和国の中でなぜこんなことがいえたのだろうか。ローマの共和政は一体どうなってしまったのだろう。

 第一にクリエンテラについて考えねばなるまい。ローマでは、古くから社会的に有力な者と非力な者の間を「信義」(フィデス)で結ぶ一種の親分・古文関係が存在していた。これが「庇護関係」(クリエンテラ)とよばれるものであり、親分はパトロヌス、子分たちはクリエンテスと呼ばれた。親分は経済的、政治的に子分たちを助け、保護してやる。一方子分たちはその見返りに選挙のときなど、民会で親分のために組織票を投じたりするのである。有力政治家とこれから世に出ようとする若手政治家の間でならば、親分は選挙の時子分をバック・アップするなどして政界での出世を助け、一方子分は親分の手先となって働く。子分が政務官にでもなれば、親分にとって役に立つような法案を民会に出したりするわけである。ローマ社会にはこのような関係が上から下まで網の目のように張り巡らされていた。とくに共和制後期にそうなる「帝国」の拡大とともに有力な政治家たちはこの関係をローマの外にも拡大していく。例えば、ある軍指揮官がどこかの町を落としたとする。彼にはその住民を殺すか奴隷にする権限がある。しかしまたそうせずに、命を救ってやる代わりに自分の子分にしてしまうこともできたといわれる。むろん住民たちは喜んで忠誠を尽くすわけである。戦争で負けたわけでなくとも、地中海世界での自己の立場を考えて、ローマの有力者に私的に従属し、子分となる独立国の王侯も少なくなかった。

 共和政後期にはこれらの網の目が統合されていき、いわば親分たちの上に立つ大親分、クリエンテラのピラミッドの頂点に立つ大パトロヌスが出現した。民会には彼の子分たちが群を成して出席し、元老院では彼の手先が活躍し、政務官の中にも彼の息のかかかった何人もいる。海外にも、彼のためなら一肌脱いでやろうという王侯たちがいる。共和制末期の内乱には、こうした大親分同士の戦いという側面があるのである。そしていわゆる「三頭政治」というのはこうした大親分たちの取り決めともいえるのである。例のポンペイウスはその大ボスの一人だった。

 第二に、これは第一のクリエンテラと直結するのだが、ローマ正規軍が半ば私兵化した点にも注目しなければならない。「帝国」の拡大はローマ市民共同体の分解をもたらし、一部の有力者が広大な土地を「占有」し、そこに戦争によってもたらされた安価な奴隷の労働力を大量に投下し、大規模な商品生産を展開するに至る。一方ローマ国家の、そして国軍の中核であったはずの土地所有農民はその圧迫や、長びく従軍などによって没落し、土地を失っていった。彼らは従軍能力のない貧困市民となってしまうのである。これでは正規軍が維持できない。それに対処するために取られた処置が有名なマリウスの兵制改革であった。すなわち、武装自弁の原則を捨て、土地所有農民をあてにするのをやめて、貧困市民の中から将軍が自らの判断と出費によって志願兵を集め、軍団を編成するという方式である。当然その将軍が兵士たちを養うのであり、さらに退役後はどこかにその将軍が自分の出費でもって植民市を建設して、退役兵たちに土地と家を与えてやるという約束もされた。マイホームの夢、いやそれどころか忠勤すれば一文無しから生産手段を所有する自作農にしてもらえるかもしれないのである。したがって彼らは「愛国心」や「国防意識」をもって戦う市民軍の兵士などではなく、自分を金持ちにしてくれる有能で頼りがいのある親分のために戦う、半ば私兵的存在であった。こうしてローマの軍隊は、将軍である、頼りがいのある親分たちの軍隊になってしまったのである。先に述べた大親分たちは、これによって正規のローマ軍をも自分のために動員できるようになったわけである。それに外国の王侯たちも地中海世界各地から手勢を率いて馳せ参じてくれるかもしれない。そして元老院や民会では、子分たちがなんとかやりくりして、この軍隊を指揮するための「法的権限」を引き出し、自分に正当性を与えてくれるだろう。こうした大親分の最大の者が例のポンペイウスであり、そしてユリウス・カエサルだった。親分同士の流血の闘い、それが共和制末期の「内乱」の一側面だったのである。

2023年11月19日日曜日

20231119 「自分が比較的得意なこと」から思ったこと・・

昨日はオリジナルの文章によるブログ記事を投稿したため、本日は引用記事を作成しようと考えていましたが、昨日の投稿記事の閲覧者数が思いのほかに伸びていたため、少し気が大きくなったものか、さきほどから、本日分の投稿記事をオリジナルにて作成し始めました・・。

以前の投稿記事で述べたことではありますが、ここ最近は引用記事の作成が多かったものの、同時にオリジナルの文章作成自体も行っていたことから、昨日そして本日と、あまりブログ記事の作成に逡巡することはありません。しかし、肝心の記事テーマは未だ決まっておらず、先日来より「このことを書いてみたいな・・」とボンヤリ考えていたことをブログ記事にしてみたいと思います。

その「考えていたこと」は「自分が比較的得意なこと」です。私は幼い頃より兄弟と比較して成績全体としては多少低く、また科目毎での成績のバラツキも大きく、そして歴史系や現代文などは科目としてはとても好きでしたが、決して注目されるほどの良い成績でもなく、むしろ「好きではあるものの凡庸である」という評価が適切であったと云えます。

そしてまたおそらく、そうした性質とは、多くの場合、放置しておけば、そのまま自然に埋没していくのでしょうが、その時に「自分はその科目が得意である。」といった肯定的な認識があれば、自分なりに考えて自然に埋もれさせないように、意識した行動をとるのしょうが、私の場合、2013年に歯学分野(歯科生体材料学)にて、どうにか博士の学位取得にまで至りましたが、その後、その専門性はあまり活かされることなく、他方で、色々と生きるために活動をしていますと、次第にメッキが剥げて地金が出てくるものであるのか、歯学分野のことよりも、それまでの人生で、より長く興味を持ち続けてきたと云える人文社会科学分野の方に能動的な興味を憶えるようになり、そして現在に至っては、書店などで手に取って読む書籍の多くは、歴史や人文社会科学分野での書籍となりました・・(苦笑)。

こうした状況から「専門分野を忘れてしまったのか?」と思われ、あるいは非難される方々もいらっしゃるかもしれませんが、私の場合、指導教員不在の中でまさに薄氷を踏むような状況を経て(どうにか)学位取得に至り、またその後も学位を頂いた分野にて就職する機会は結果的になかったことから、おそらく学位取得から1~2年ほどで、先述のように人文系の地金が徐々にあらわれて、そしてまた、それによりブログ記事の文章も(どうにか)作成することが出来るようにもなり、2013年から2年後の2015年より当ブログが始まったのだと云えます・・。

しかしまた面白いもので、2015年から現在に至るまで、ブログ記事の作成を継続してはきましたが、それによって文章作成が上手になったかという自覚は皆無と云え、ただ、何かしらの文章を作成することは、以前と比べて出来るようになった実感はあるものの、それが自信などに結び付くといったことは残念ながらありません・・。

そのため、未だに当ブログのテーマなどを設けるようなことはなく、暗中模索の状況が続いているのですが、それでも8年間ほど続けていますと、当ブログに対して、ある種の思い入れも生じるものであり、現在となっては、当ブログそして、それを連携投稿するエックス(旧ツイッター)こそが、現時点での、私の主要な発信の場であるのではないかと考えるようになりました。しかし、それで「何かが変る」ということはなく、ただ、今しばらく続けようといった感じになります・・(苦笑)。年内での投稿記事数の目標は2100と以前に書きましたので、師走の来月になるまでに2080記事を越えるところまでは作成したいと願うところですが、さてどうなるでしょうか・・?

また、さきに述べた「自分が比較的得意なこと」につきましては、まだ書きたいことがありますので、本日はこのくらいで一端書き止めて、次に繋ぎたいと思います。

*そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2023年11月18日土曜日

20231118 「必ずしも好転が見込めるとは云えない現実」について思ったこと・・・内憂外患のさきにあるもの

書籍からの引用記事でなく、自らの文章によるブログ記事の投稿は、大体2週間ぶりとなりますが、特に気負うことも、気圧されることもなく、さきほどから書き進めている次第です。これはたしかに、久しぶりと云えば久しぶりであるのですが、しかし同時に、ブログ記事以外の文章を作成する機会は度々あったことから、ここでも比較的スムーズに書き進めることが出来ているのだと思われます。

また、さる10月7日の地中海東岸、中東のパレスチナ・ガザ地区のイスラム教スンニ派の民族・原理主義組織ハマースによる隣接するイスラエルへの越境・奇襲攻撃に端を発する現今の世界情勢の緊張は変わらず、そして「また世界の何処かで新たな大規模な戦闘が始まってしまうのではないか・・?」という危惧を抱きつつ報道動画を視聴する日々が続いています。

そういえば先日、おそらくは急な陽気の変化により、風邪をひいてしまいましたが、その時はさすがに体調が悪く、PCもスマホを見ませんでしたが、その際に報道動画を見ない方が気分が軽くなることに気付き、風邪が治りかけてきた先日、久しぶりにウクライナ・中東関連の報道動画を視聴しますと「必ずしも好転が見込めるとは云えない現実」に引き戻されるような感覚を憶えました。

しかしこの「必ずしも好転が見込めるとは云えない現実」は国際情勢のみならず、国内においてもまた同様であり、たとえば昨今の芸能界でのスキャンダルは、今なお解決の糸口をも見出すことが困難であり、そして、それだけに、この問題の我が国社会での根の深さを示しているのではないかと思われるのです・・。

その意味において、以前にも当ブログにて述べたことがありますが、近年は「内憂外患」というコトバが、すぐには思いつかないほどにまで日常的になってきたように感じられます・・。おそらく、我が国が平和の中で経済的繁栄を誇っていた記憶は既に過去のものとなり、そして、今後の我が国は、その記憶を傍らに置きつつ、国際・国内共に、それまでの過加工によって、新たに改変することが難しくなってしまった社会や各種制度に対して、対症療法的に、騙し騙し、少しづつ手を加えて、どうにか機能して延命をはかるようになっていくのではないかと思われますが、おそらく、そうしたフェーズもあまり長くは続かず、その先にさらに大きな東アジア全体をも巻き込むような出来事が生じるのではないかと思われるのです・・。北朝鮮のミサイルによる威嚇、韓国による継続的な実効支配下にある竹島の領土問題、西太平洋南部にて中国との領土問題を抱える台湾、フィリピン、ベトナムそして我が国といった事情は、おそらく、すべての当事国が納得するカタチで解決に至ることは、きわめて少ないと思われますので、これらが全てではないにしても、流血の事態、すなわち国際間の紛争が生じてしまう蓋然性をも念頭に置きつつ、より流血の事態を避けた施策を検討するのが良いのではないかと思われます。

*そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


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2023年11月16日木曜日

20231115 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」pp.128‐131より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」pp.128‐131より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106037866
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037863

「サイクス=ピコ協定」がここまで人口に膾炙しているのも、実は世界史の教科書よりも、映画「アラビアのロレンス」で描かれたことが大きいのではないか。この映画が終盤に差し掛かる頃、ロレンスはカイロ駐在のドライデンという役名のイギリス植民地行政官から、サイクス=ピコ協定の存在を知らされる。ドライデンは、「サイクス=ピコ協定はイギリスの行政官であるサイクス氏と、フランスの行政官であるピコ氏が、イギリスとフランスが戦後にオスマン帝国の領土を分け合うことで合意した。そこにはアラビア半島も含まれる。二人は合意に署名した「協定」であって「条約」ではない」と嘯く。もちろん結果として戦後の現実はそのようなものになると分かっていながら、それは決して船中に結んだ正式な条約ではないのだから、それ以前にハーシム家のフサインに与えていた約束を破ったことにはならないのだ・・という帝国主義の詭弁を、この映画は実にいやらしく再現している。

 ドライデンは架空の人物だが、ケンブリッジ出の植民地行政官でアフリカや中東で要職を歴任したロナルド・ストーズや、フサイン=マクマホン書簡でハーシム家のフサインにアラブ人の独立王国を約束したエジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホン、ロレンスと同様にオックスフォード大学の中東学者・考古学者で戦時にカイロで諜報部門を率いた、ロレンスの上司・先輩格であるデイヴィッド・G・ホガースなどがモデルになっていると言われる。

2 メディアと国際政治

 脚本の作り込みの精緻さに賛嘆させられるのは、主人公のロレンスを決して高潔な英雄として描かず、むしろ虚像を纏った人物としていることだ。時にはロレンス自身がその虚像を演じることを楽しんだ面があったとも示唆している。そのようなロレンスの心の揺れはそれ自体興味深いが、しかしより重要なのは「アラビアのロレンス」は当時の国際政治の中で求められた虚像であって、ロレンスはそれを演じるしかなかった、というところである。そのこともこの映画では描いている。

 第一次世界大戦では総力戦が戦われ、一般市民の士気を高め、内外の世論を味方につけることがより重要になった。世論を方向づけるメディアの役割は高まった。大戦中にロシアでは革命が生じ、新世界でアメリカが台頭し、英・仏の政府間の合意だけでは物事が決められなくなっていた。大戦中の報道で、「アラブの反乱」とその背後で暗躍したイギリス人連絡将校ロレンスに関心が高まったのも、イギリス市民の士気を維持し、アメリカ参戦を支持する世論を喚起する、格好の素材となったからといえよう。このことも映画「アラビアのロレンス」は冷静に見つめている。

 映画のハイライトはアラビア半島やシリアでの戦闘の場面である。しかし同時に、「アラブの反乱」はまさに「幕間の余興」に過ぎなかった、とイギリスの植民地行政官が語る。これは客観的には正しい。第一次世界大戦の主戦場はドイツとフランスの間の西部戦線であり、ドイツとロシアの間の東部戦線だった。イギリスは主戦場から敵の勢力を分散させるために、ドイツと同盟したオスマン帝国のアラブ地域を攪乱する戦法を採った。そしてアラブ地域での戦線も、より重要なのは、インド植民地から派遣されたイギリス軍がバスラからバグダードに攻め上がったイラクでの戦闘だった。アラビア半島の紅海沿岸での「アラブの反乱」は、作戦上それほど大きな意味を持たなかっただろう。

 アラブの世界のその後を決定づけたのは、アラビア半島やシリアでの戦闘よりもむしろ、カイロの植民地統治の指導部の密室の協議であり、ロンドンやパリの列強の首都の閣議や会議であった。

 ロレンスには、そのような重要な会議で決定を行う権限はなかった。しかしロレンスは「アラビアのロレンス」として、別の重要な役割を負わされることになった。ロレンスそのものよりも、そしてアラビア半島での戦闘そのものよりも重要だったのは、「アラビアのロレンス」というイメージであり、それによって喚起された国際世論である。民族の独立が大国間の秘密外交に左右されざるを得ない状況への批判や、しかしその現実を受け入れざるを得ない諦めなど、複雑な、相互に矛盾する多くのものを集約したシンボルとして、「アラビアのロレンス」が、当時の主要媒体である新聞やニュース映画といったメディア上で作られていった。ロレンスの性格の「複雑さ」とは、彼個人に由来するよりも、ロレンスが体現した国際社会の複雑さを読み込んで、反映した部分が大きいのではないだろうか。

2023年11月15日水曜日

20231114 株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」 pp.438-441より抜粋

株式会社プレジデント社刊 ボリス・ジョンソン 著 石塚雅彦・小林恭子 訳 「チャーチル・ファクター」
pp.438-441より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4833421674
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4833421676

イギリスは可能な範囲内で最良の意図と動機をもって、第一次世界大戦中に一連の約束をした。しかし戦争が終わってみると、これらの約束は互いに矛盾し、現実と折り合いをつけることが困難であることが露呈した。約束した当時、イギリスは極端な苦難のなかにあり、ドイツの潜水艦作戦によって国民を飢餓に陥れるリスクさえあった、と言えば多少は大目に見てもらえるだろうか。

 イギリスの約束は三つあった。第一は1915年のマクマホン=フセイン書簡のかたちをとった、アラブ人に対するものだ。これはイギリスの在エジプト高等弁務官サー・ヘンリー・マクマホンからのハシミテ家のフセイン王へのかなり迎合的な一連の書簡である。フセインは、預言者ムハンマドの直系を自任する家柄に属する、あごひげを生やした老いた名士だった。両者間の書簡の内容の大筋は、イギリス政府は、パレスチナからイラク、そしてペルシャとの境界までを擁する新しい大アラブ国家を全面的に支持する。そしてその国の王座にはフセインと彼の一族が就くというものだった。イギリスの望みは、この約束によってアラブ人に、当時ドイツと同盟関係にあったトルコへの反抗をけしかけることだった。実際に反トルコ暴動が起こったという意味では、これらの書簡には効果があった。映画「アラビアのロレンス」で伝説化され、その重要性がむやみに誇張された出来事だが、戦略的としては無意味に等しかった。

 第二の約束は、西部戦線でおびただしい数の犠牲者に苦しんでいたフランスに対するものだった。これは、戦争が終わった暁にフランスが手にするであろう栄光の土地をニンジンとしてぶらさげるという作戦だった。こうして1916年の密約、サイクス・ピコ協定に基づき、フランスはシリアからイラク北部まで伸び、バグダッドを含む地域を勢力圏として得ることになった。ついでながら、この細長い地域は2014年、イラクとシリアのイスラム国(ISIS)の狂信者が宣言したカリフが統治する帝国とも多少重なるところがある。フランスに対するこの秘密の約束がアラブ人に対するより公の約束とどうやって折り合いをつけたのかはまったくはっきりしない。率直に言えば、そもそも折り合いがついたのかどうかもわからない。

 第三の、そして最も悲喜劇的で支離滅裂な約束が、いわゆるバルフォア宣言である。これは実際には、外相A・J・バルフォアからのユダヤ系貴族院議員ロスチャイルド卿宛ての1917年11月2日付の書簡で、次のような官僚的技巧を駆使した傑作ともいえるくだりを含んでいる。
 
 イギリス政府は、パレスチナに現存する非ユダヤ人の市民的、宗教的権利、あるいはパレスチナ以外の国に暮らすユダヤ人が享受する権利や政治的地位が侵害されないことを明確に了解したうえで、パレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土の設立について好意的見解を有し、その目的の実現を促進するために最大限の努力をする。

 別の言い方をすれば、イギリス政府はユダヤ人が一つのケーキを食べることを好意的に眺めるが、それは非ユダヤ人がその同じケーキを同時に食べる権利を損なわないことえお条件としてということだった。

 この奇怪な宣言の後押しをしたのは何だったのだろうか? 一つには理想主義だった。19世紀のロシアにおける卑劣なユダヤ人虐殺以来、ユダヤ人に安住の地を与えようという運動が起りつつあった。イギリス政府は、ウガンダに土地を見つけることさえ考えたこともあったが、最も有力な候補地は旧約聖書の地であるパレスチナだった。パレスチナはまだ比較的に人口が希薄だった。バルフォアは「人のいない土地を土地の無い人に与えよう」という合唱にイギリスの公式のお墨付きを与えただけの話なのである。

 バルフォアはより実利的な考えに動かされていたのかもしれない。第一次世界大戦中、ユダヤ人の心情はドイツに傾きかねないという不安が強かった。戦争前のロシアにおける反ユダヤ主義に報復するにはそれが一番効果的だったからだ。チャーチルがのちに認めたように、バルフォア宣言には部分的にはユダヤ人、とくにアメリカのユダヤ人の支援を得ようとする意図もあった。その一方で、イギリス帝国部隊が大きく依存していた数百万人のイスラム教徒(とくにインドの)をつなぎとめておくという、矛盾した狙いがあり、この宣言の明白な混乱はそこから引き起こされたのである。
 これら三つの約束を同時に目てみると明らかなことがある。イギリスは一頭のラクダを三度売ったのだ。
 これこそチャーチルが処理しなければならない混乱だった。そして1921年3月、彼は重要な関係者全員をカイロの豪華ホテル、セミラミスに呼び寄せた。ここももちろん当時の大英帝国の非公式な一部だった。

2023年11月13日月曜日

20231113 中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.220-223より抜粋

中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.220-223より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120039153
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120039157

リデルハートの大きな功績の一つは、核兵器を用いたアメリカとソ連の冷戦構造の下で、誰よりも早く非通常戦争、そしてゲリラ戦争の可能性に気付いていた事実である。これは、彼が第一次世界大戦でのイギリスの国民的ヒーロー、「アラビアのロレンス」と親交が深かったこととも関係している。リデルハートは、「戦略論」のなかでゲリラ戦争について次のように述べている。

 戦争とは組織化された行為であり、混乱状態のなかで継続することは不可能である。しかしながら、核抑止力は巧妙なタイプの侵略に対して抑止力として機能し得ないし、それゆえ、抑止力を発揮できない。核抑止力がこのような目的に対して不適切であるため、巧妙なタイプの侵略の生起を刺激し、助長する傾向にある。筆者の金言「平和を欲すれば戦争に備えよ」のリデルハート自身の修正である「平和を欲すれば戦争を理解せよ」に必要な敷衍を加えると、「平和を欲すれば戦争を理解せよ。とりわけゲリラ方式と内部攪乱方式の戦争を理解せよ」となろう。

 この問題をさらに広範かつ深遠に取り扱った著作が、クラウゼヴィッツより一世紀後に登場したが、それがT・E・ロレンスの「知恵の七柱」である。同書は、ゲリラ戦理論に関する名著であるが、ゲリラ戦の攻防上の価値に焦点を当てたものである。

「アラビアのロレンス」として知られるトマス・エドワード・ロレンスは、オクスフォード大学で考古学や中世の十字軍史を学んだ後、大英博物館の中東遺跡発掘調査に参加したが、第一次世界大戦が勃発するとイギリス陸軍情報将校、そして同外務省「アラブ局」の一員として、ドイツの同盟国であるトルコの後方を攪乱する目的で、トルコの支配下にあったアラブ民族の反乱を指導し、その独立運動に献身した人物である。

 第一次世界大戦におけるロレンスの活動については、当時、イギリス国民の士気を高めるためのヒーローの存在を求めていたイギリス政府の思惑のため、そして、その後のロレンスに対するリデルハートの過度な思い入れのため、過大に評価されているのが実情であろう。周知のように、ロレンスを主人公としる映画「アラビアのロレンス」は今日にいたるまで戦争映画の傑作の一つとして高く評価されている。実際、2007年末にイギリスで放映されたテレビ番組「アメリカ映画の名選100点」では第7位にランクされていた。また、ロレンスの著書「知恵の七柱」やその要約版ともいえる「砂漠の反乱」は邦訳されており、そのほかにも彼の評伝が日本語で多数出版されている。著者は個人的に戦車の発展や機甲戦理論に興味があるため、イギリス南部の町ボーヴィントンをしばしば訪問する。ここには「戦車博物館」があるからであるが、この博物館の近郊にロレンスのコテージ「クラウズ・ヒル」があり、ここには今日でも多くの観光客が訪れている。

「アラビアのロレンス」
ロレンスはその著「砂漠の反乱」のなかで、「アラブ人たちがなぜファイサルとともに戦いを続けているかと考えてみれば、彼らの目的はただ一つ、アラビア語を話す人間の住む土地からトルコ人を立ち去らせることにあるのだ。平和な自由を求める理想を彼らをして銃をとらせているのだ。トルコ軍が穏やかにアラビアから立ち去れば、戦いは終わり、血を見る必要もない。立ち去らなければさらに説得の試み、それが無駄なら戦わねばならぬ。その時において初めて、血を見ることになるのだが、人命の損失は最小限に留めねばならぬ。なぜなら、アラブ人は自由を得るために戦うのであり、死んでしまったのではせっかく得た自由を楽しむことができないからだ」と述べている。

 またゲリラ戦争の戦略としてロレンスは、例えば「メディナをおとしいれてはならぬ。あそこをあのままにしておいてやること、本当にかろうじてという程度にである」と述べているが、こうした記述から、なぜリデルハートがロレンスの示した戦略概念に共感を抱いたかが理解できるはずである。 
 リデルハートが高く評価したロレンスの活動であるが、そもそも「アラブの反乱」の目的は、当時のオスマン・トルコ帝国内のアラビア語地域と呼ばれていたところからトルコ人を追い出すことであり、彼らの殺害そのものはまったく無意味なことであった。ロレンスにとっては、犠牲は小さければ小さいほど都合がよいのである。そして、こうしたゲリラ戦争では「重心」を作らないことが重要となってくる。ロレンスが的確に表現したように、砂漠におけるゲリラ戦争はあたかも海上での戦いに類似したものであり、そこでは兵力の温存で損害の最小化が重要とされ、いわゆる「ヒット・エンド・ラン」といった方策が用いられたのである。

2023年11月7日火曜日

20231107 中央公論新社刊 池内恵著「アラブ政治の今を読む」pp.151‐153より抜粋

中央公論新社刊 池内恵著「アラブ政治の今を読む」pp.151‐153より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120034917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120034916

陰謀論の背景は錯綜しているのだが、ここで大まかな整理を試みてみたい。まず、アラブ世界の場合には固有の歴史的経緯からもたらされた一つのパターンがある。重要なのはアラブ近現代史において情報の発信地として有力なエジプトでの展開である。エジプトがナセル大統領の指導のもと、民族主義を旗印にアラブ世界全体をイデオロギー的に主導した時代(1950~60年代)、しばしば政権の失政を外部勢力の陰謀に帰する形で責任を外部に転嫁する議論が国家の側から流された。このことが現在に至る陰謀論による国際政治解釈の一つの根源となっていると見られる。陰謀説が有効に機能する背景には、実際にある種の「陰謀」による脅威をアラブ世界が受けてきたことがある。1956年の第二次中東戦争でイギリス・フランス・イスラエルが共謀してエジプトを侵略した。これは「外部の陰謀勢力に迫害されるエジプト」という心境を醸成し定着させた(しかしその時、侵略行為を激しく非難して撤退に追い込んだのはアメリカだった)。

 現在のムバーラク政権(1981年ー)になってからはプラグマティックな政治手法が重視され、国家の側が積極的に陰謀論を主張することは少ない。むしろ社会から自発的に陰謀論が産出される場合が多い。陰謀論が宗教的な終末論やオカルト思想と合体するのも、この時期から始まった現象である。

 しかし社会の側からの陰謀論の発生は、国家によるメディア統制によって間接的に支えられているともいえよう。エジプトを含め大部分のアラブ諸国では新聞やテレビは検閲や厳しい規制の対象となり、国民に伝えられる政治情報は限定されている。そこから情報の伝達は透明なものではなく、なんらかの意図がその背後にある、と考える心性が国民に根強く定着している。「嘘の情報の背後から真実を読み取る」ことがごく当たり前の習慣になっているのである。しかし限られた情報を限られた視野から解釈してその裏を探る以上、常に真実に到達できるとは限らない。むしろ願望や固定観念によって一面的な解釈をしてしまいがちである、

 そして、自国の批判が許されないがゆえに、「外部」勢力を「敵」として特定する類の陰謀慧遠のみが表出を許されることになる。陰謀論が外部勢力に責を帰している限りにおいて、国家の側は意に介さない。国家によって用意された情報環境の中で、特定の種類の陰謀論が野放しにされて増殖を果たすというメカニズムがある。

しかし陰謀論はアラブ世界に限られたものではない。アメリカのポピュラー・カルチャーは多くの陰謀論の発祥の地であり、西欧は反ユダヤ主義的陰謀論を生み出しただけでなく、最近では反米的な陰謀論も現れている。

 アメリカの場合、冷戦状況が陰謀論の流布を促進したと見られよう。ソ連との間の軍拡競争、特に核・ミサイル開発や航空宇宙技術の競争は、常に敵と味方の双方に対する疑心暗鬼を生んだ。冷戦期の軍拡競争というのは、兵器の実際の使用ではなく、兵器の性能と配備状況に関する情報によって一進一退を繰り返す神経戦である。「相手はより進んでいるのでは」という恐怖は常に拭い去ることができず、「少なくとも同等以上の開発を」という焦りがつきまとう。

 開発の進み具合を誇示して相手を威嚇する一方で、開発していながら隠匿することも、敵に先んじるための有効な手段となる。すると「相手は隠している」ことを前提として、よりいっそうの開発が急がれるだけでなく、自分の側も隠す必要が感じられてくる。アメリカ国民にとってソ連の脅威だけでなく、自国政府に対しても不信感を抱く素地がここにある。また肥大化した官僚機構への不信、近代的国家機構に対するカフカ的な恐怖心が軍・諜報機関に向けられるという事情もある。

 ここから「CIA」や「軍中枢部」の「陰謀」を措定する心性が胚胎したといえよう。「自国政府は何かを隠しているのではないか」という発想は、極端な例では「UFO」「宇宙人」が到来したにもかかわらず「軍がそれを隠蔽している」というオカルト的陰謀論に結実している。