2022年12月28日水曜日

20221227 ある程度時間をかけて理解出来るようになることの意味について・・

昨日までの総投稿記事数は1913であり、他方で、年内の目標としている総投稿記事数は1920であることから、今年中に当記事を含め、あと7記事の投稿が必要となります。そして今年は残りあと5日となりますので、目標到達のためには、そのうちの2日は1日に2記事投稿することになりますが、果たして、ことは上手く進むでしょうか。

あるいは書籍からの引用記事を充てることにより、多少容易に到達出来ると思われることから、この年内残りの数日も、引用記事を投稿するものと思われます。しかし、先日投稿のブログにて述べましたが、ここしばらくの期間、オリジナルでのブログ記事の投稿がなかったことから、再開初日であった一昨日での記事作成ではいくらか苦労しました・・。とはいえ深刻なものではなく、実際に一昨日、昨日は無事にオリジナルの記事作成、投稿をすることが出来ましたので、おそらく、これまでのブログ記事作成の継続があったことから、どうにか出来たのではないかと思われます。そこから、たとえブログ記事の作成であっても継続が大事であることが分かりました・・。

また、ここ2日間の投稿記事にて挙げた人文社会科学系研究者の先生に、その旨をお知らせするためメールを出しましたが、その返信がまた考えさせるものであり、10年以上前の文系院生時代に友人と一緒にこちらの先生の研究室に初めて訪問した時のことが思い出されました。

その時はマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(通称「プロ倫」)を輪読しており、その中の、ある文章についての見解を巡り議論をしていました。そして、その議論の裁定を求めて研究室を訪問した次第ですが、この時に何故か私はとても緊張していました。

先生の前でそれまでの経緯を友人と二人で説明し、さらに双方自らの見解を述べたわけですが、この時が私にとって人文系分野での議論の出発点であったのかもしれません。ともあれ、その結果は判然としませんでしたが、しかし何と云いますか、その記述についての理解は深まった(自分なりに腹落ちした)と記憶しています。

その後、こうした議論が度々あり、さらに、その後、私を含む院生数人で始めた院生自主研究発表会においても先生は教員代表として度々ご出席頂き、また、私もそこで、これまであまり知らなかった分野での、いくらか突っ込んだ議論に触れることが出来ました。

そして私もここで発表させて頂き、その際も先生から質問をいくつか頂きましたが、当時、先生は着任後おそらくまだ数年程度であり、何と云いますか、いまだ「院生のノリ」のようなものが少なからず残っておられたのかもしれません・・。

そして、それは去る秋に開催された久しぶりの勉強会において、かつての研究発表会にご参加頂いた当時と比べ、より聞き役に回り、出席者から無理なく自然に意見を引きだすような傾向が強くなられていたと感じられました。こうした態度は決して簡単なことではないと思われますので、それを自然に出来るようになることが、人文社会科学分野の教育研究者の一つの成熟の在り方であると思われました。

また、以前にも当ブログにて述べたことがありますが、医師や歯科医師など医療系分野での優れた研究者と、さきの先生のような人文系の研究者では、それぞれ優れた研究者であっても、そこから生じる「凄味」のようなものは異なり、人文社会科学系のそれは、以前の投稿記事にて「その仰るところには、分厚い教養の層を濾過されたとも云える、ある種の深み・含蓄があり」と表現していましたが、これはある程度、その分野を勉強なり研究していると、何となく知覚することが出来るようになるといった性質があるように思われます。

つまり、人文社会科学系の研究者の深みとは、ある程度時間をかけて、はじめて理解出来るようになるといった性質があるのではないかと思われるのです・・。

その点、医療系など自然科学分野の研究者は、何と云いますか、その見た目、外見からも「凄味」(黒光り?)が比較的に理解、看取し易いといった性質があるのではないかと私には思われます。

その意味で、先述のように、人文社会科学系研究者の明晰さや見識の深さを理解するためには、ある程度の期間を要すると思われますが、その研究分野から離れた普段、我々が生きている社会においては、そうした人文系研究者に対する判断などは特に必要ではなく、他方で比較的看取され易い、医療系分野の先生方の「凄み」のみが「大物」らしさとして感じさせられ、これに自然と追随するようになるといった一種の事大主義的な傾向が、我が国の社会全般にあるように思われるのですが、実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


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ISBN978-4-263-46420-5

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2022年12月27日火曜日

20221226 昨日の続き、事物の洗練の方向性そして歴史を実感する契機について

おかげさまで昨日投稿分の記事は投稿翌日としては比較多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。さて、この記事の最後に述べた「洗練の方向性について」は銅鐸などの青銅製祭器や古墳などを具体例として示すことが出来ると述べましたが、もう少し考えてみますと、こうしたことは殆ど全ての人類による文化的事物においても当て嵌まるのではないかと思われます。私がこうしたことに関心を持つ契機となったものは各国の兵器への興味であったと記憶していますが、そこから興味の対象である兵器の歴史を遡りますと、兵士の持つ刀や槍などに辿り着くわけですが、そのように考えますと、我が国の所謂、彎曲した刀身を持つ日本刀は、平安時代中期頃から造られるようになったそうですが、その拵えも当初はものものしい太刀でしたが、時代を経る毎に簡素化されていき、帯びるような打ち刀拵えに変化していきました。そしてまた、その過程において地方色のようなものが加味され、地域独特の刀装、拵えが誕生していったものと思われます。そして、こうした経緯は、先述のとおり、何も武器である刀剣や槍のみに云えることではなく、農具など当時の日常的な道具においても同様であると云えます。むしろ、そうした地方に古くから日常的に使用されてきた道具などの方が、長く形を変えずに用い続けられているものが多いと思われます。そして、こうしたことを述べていて思い出されたのが、以前に当ブログにて書いた「紀州鉈」です。この「紀州鉈」は紀伊半島のほぼ全域にて見られる独特の形状をした山林作業などに用いる鉈であり、特徴的な点は、鉈の刃と柄木の接続が刃の部分とオフセットに鍛着された帯状のヒツと呼ばれる部位の中空部に柄木を差し込み、固定する点と、刃部の先端にハナと呼ばれる鋭利な突起がある点です。しかし、この刃部先端の突起があるのは紀州鉈に限られず、西日本を中心とした各地にて見受けられます。ただ、この突起のハナが尖っている地域と、そうでない地域があったと記憶していますが、その地域的な分布には何らかの傾向や特徴があったかについては、未だによく分かりません。

しかし、そもそも、何故この「紀州鉈」に興味を持つに至ったかについては、これまた以前の投稿記事にて述べましたが、南紀白浜在住時に、海開き前の浜掃除が私を含めて勤務ホテルのスタッフ何人かと、白良浜近隣に立地する他のホテルスタッフや自治体職員などにより行われましたが、その中には本職の植木職人の方々もおられました。その出で立ちは、色の褪せた綿パンに、ふくらはぎの半分以上までを覆うようなゴム底の地下足袋を履き、作業用のシャツを着て、そして手には、おそらく1mほどの長さがありそうな柄木の紀州鉈を持たれていたのですが、この光景が何やらとても新鮮に映ったのです。つまり、日常生活の中で槍とも見紛うような鉈を当り前のようにしてめいめい手に持ち、煙草を喫いながら、互いに何やら話しておられる光景は、都市部などでは、なかなかお目に掛かることはないと思われるのです。そしてまた、それを初めて見た私は「何だ、あの武器のような道具は?」と思い、周囲の方々に訊ねたところ、それは樹木の枝などを掃うためなどに使う鉈とのことであり、そこで、この道具については記憶に残り、その後、当地の大学院に進み、地域学研究の一環として、この「紀州鉈」について調べていたところ「それを題材にして地域誌の記事を書いてみてはどうか?」と仰って頂き、作成したのが、私の作成した文章ではじめて活字になったものであると云えます。ともあれ、その記事では、紀州鉈を主題としているにも関わらず、ドイツの哲学者、社会学者であるゲオルグ・ジンメルによる、ある主張に被せて、この紀州鉈について述べていたと記憶していますので、この時も、やはり多少おかしくなっていたのだと思われます・・(苦笑)。

そして、その後になり、数カ月ほど前のことになりますが、紀州鉈や鉈などとはあまり関係ない、ある民俗学関連の著作を読んでいた際に不図、さきの白良浜の掃除の際に見かけた光景が思い出されてきたのです。この記述は、現在でも憶えており、また、その著作も手近にあることから、後日また引用記事として作成してみたいと考えています。ともあれ、現在において、ホンモノのその国や地域の歴史を実感する契機とは、何らかの、こうした体験のようなものがあるように思われるのですが、さて、これも実際のところはどうなのでしょうか?

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2022年12月26日月曜日

20221225 分野横断と文化事物の洗練の方向性について

ここ2週間ほど、自らの文章によるブログ記事の作成をしませんでした。これほどの期間、オリジナルのブログ記事を作成しなかった理由は、体調によるものに加え、他の原稿作成に関与してきたからであると云えます。それがようやく昨日に一区切りがついたことから、本日は、かなり久しぶりに自分の文章での記事作成をしたいと思い、さきほどより当記事を作成しています。

さて、さきに述べた「他の原稿作成」について、それらは私が作成するものではなく、他の先生方に執筆依頼をさせて頂いたものですが、それら原稿の進捗状況などを先生方に伺いつつ、入手した原稿に加筆などをさせて頂き、そして、それら箇所についてのやり取りをメールや電話などを通じて相談しつつ進めさせて頂いていましたが、さきに述べましたように、昨日、どうにか一段落着きました。お預かりした原稿は、総じてそれぞれの先生方の特徴や個性がよく出ていると思われ、とりわけ、長くアカデミアにおられた先生方の作成された記事原稿は、当然であるのかもしれませんが、こちらで手を加える必要はほとんどなく、文章として明晰であり、そして内容も総じて大変に興味深いものであったと云えます。

こうした表現は社交辞令やリップサービス、あるいは悪く表現すると「おべっか」であろうと思われる方々もいらっしゃるかもしれませんが、他方で私も一応、いくらかは、そうした種類の文章を読んできました。また、それらに対する自分なりの正直な評価は、文章や口にすることは多くありませんが毎回してきたと云えます。その視座から、今回の執筆頂いた原稿は、端的に「プロの文章」であると云えます。そこから、あるいは他分野の方々が、この原稿を読まれたら、どのように思われるのかと、執筆された先生から許可を頂き、かねてよりお世話になっている、ある人文系研究者の先生に原稿を試し読みして頂いたところ「すばらしいことですね。社会科学領域でもこのような可能性はあるだろうと思います。」とのことであり、概ね肯定的なお返事を頂きました。

しかし、ここで「肯定的なお返事」以上に大事であると思うことは、人文系の研究者が、歯科医療関係者向けの文章を理解しつつ普通に読むことが出来たことです。しかし、もう少し考えてみますと、こちらの原稿の内容は、歯科医療関係者向けではありつつも、特別に専門性が高い内容ではないとも思われることから、こうした種類の文章は、他分野の方々でも比較的容易に読むことが出来、ある意味で汎用性があるのではないかと思われました。ともあれ、そこまで考えが進みますと、昨今、電車内の広告にて医療分野の研究者の方々が執筆された他分野あるいは一般の方々向けに解説した著作を度々目にしたことが思い出されました。こうした著作は我々の健康に対する興味を反映して出版されるのでしょうが、その意味で、近年以降、現在に至るまで、我々の健康に対する興味の波は継続して寄せて来ていると云え、そして、それは人工知能をはじめとするデジタル・テクノロジーなどの周辺技術の進化発展により、さらに増幅されているのが現在と云えるでしょう。

ともあれ、そのように考えてみますと、今後はまた、これまでとは異なった種類の分野横断的な著作や記事が面白いものとして認知されていくのではないかとも思われました。具体的にはジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなどの著作から、さらに洗練させたものであるように予測されますが、しかし、この「洗練」が、どのような方向のものとなるのかについては、いまだよく分かりません。

とはいえ、この「事物の洗練の方向性」には、国や地域毎である種の特徴や傾向のようなものがあり、それは、簡潔に文章化することは困難ではありますが、具体例としては、弥生時代の銅鐸など青銅製祭器の形状や装飾の時代毎の変化が、その一つであるとは云えます。そしてまた、後に続く古墳の造営においても、そうした傾向は認められます。さらに千年ほど経った頃に南蛮から渡来した火縄銃もまた、その後の進化の過程を博物館や写真などで眺めていますと、どうやら、我が国での火縄銃の洗練の仕方は、殺傷兵器としての能力や操作性を高めるためというよりも、その見た目の華麗さに主眼を置いたのではないかと思われるのです。もちろん例外もあるとは思いますが、全体としては、そうした傾向が認められるのではないかと思われます。

こうした洗練の方向性などは、国や地域にて特有の文化事物の歴史的な変遷を辿っていきますと、徐々に知覚することが出来るようになるのではないかと思われます。

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ISBN978-4-263-46420-5

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2022年12月25日日曜日

20221224 株式会社筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「ウクライナ戦争」pp.138-141より抜粋

株式会社筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「ウクライナ戦争」pp.138-141より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480075283
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480075284

 ここで、停戦交渉の行き詰まりをもたらしたブチャでの出来事について簡単に述べておきたい。

 前述した3月25日のロシア軍撤退表明後、ブチャを奪還したウクライナ軍が目にしたのは、酸鼻を極める虐殺の痕であった。後ろ手に縛られた拷問の跡だらけの遺体、性的暴行を受けたとおぼしき裸の女性の遺体、下水溝に投げ込まれた遺体ー街は陰惨な姿の遺体で埋め尽くされ、中心部の教会や町のはずれには集団墓地が作られていた。いずれも、ロシアによる戦争犯罪の明白な証拠であった。

国際社会はともかくとして、筆者自身がこの光景にショックを受けたといえばナイーヴとの謗りは免れまい。二度のチェチェン戦争でロシア軍がどれほどの非人道行為を働いたか、2015年に始まったシリアへの軍事介入でロシア航空宇宙軍の無差別爆撃がどれほどの殺戮をもたらしたかを、ロシア軍事研究を生業とする筆者はよく知っていたからである。2月以降のウクライナに対する侵略においても、ロシア軍は全くすることなく市街地に無差別爆撃を加えてきた。

 それでも、この情景はやはりショッキングであった。しかも殺害されたブチャの住民たちは、戦闘の巻添えになったわけではない。のちにジャーナリストたちが明らかにしているように、ブチャの住民たちは、戦闘の巻き添えになったわけではない。のちにジャーナリストたちが明らかにしているように、ブチャの占領自体はほど無血で行われたものの、虐殺、性的暴行、略奪はその後に始まったのである。そこには何の軍事的合理性もなかた。

 全くの言いがかり、酔った兵士の狼藉、ただの気まぐれによって人々は暴行され、犯され、殺されたいった(真野・三木、2022年5月5日、国末、竹花、2022年4月14日)。ウクライナ軍に協力している見なした人々を組織的に拷問。処刑していたこともわかっている(Peuchot,2022.4.5.)。

 今回の戦争に関しては「ウクライナを無垢の絶対的善として描くだけでよいのか、ロシアは絶対悪なのか」といった議論が度々提起されてきた。この主張を筆者は一概に否定するものではない。

 第一章で描いたように、ゼレンスキーは正義のヒーローではないし、ウクライナという国家自体も深刻な腐敗など多くの問題を抱えている。また、ウクライナ軍も戦争犯罪(捕虜の虐待やこれを晒し者にあうることなど)や住民の巻き添え被害とは無縁ではなく、これらの点はそれぞれに検証され、批判の対象とされるべきだろう。

 しかし、ブチャやその他多くの占領地域(ロシア軍の戦争犯罪はブチャに限られたものではなく、むしろ氷山の一角であった)にける振る舞いは、どう考えてみても「悪」と呼ぶほかないだろう。さらに言えば、今回の戦争はロシアによるウクライナへの侵略戦争であり、この点においてもロシアは明確に国際的な規範を犯している、これらの点を無視して、ロシアにもウクライナにも同程度に非がある、と論じるならば、それは客観性を装った悪しき相対主義でしかないのではないか。また、相対的に論じるというのなら、戦争犯罪や腐敗がより深刻なのはロシアであるが、これらの事情を以てロシアが外国の軍事侵攻を受けてもしかたないのだということにはなるまい。

 ちなみに、ブチャの虐殺を、ロシア政府は「挑発」と呼んでいる(例えば前述したプーチンの4月12日発現)。つまり、虐殺や拷問や性的暴行はウクライナ軍がブチャを奪還した「後」に起こった出来事であり、ロシアに罪を着せるために仕組まれたものだという主張である。

 だが、ブチャ事件が明るみに出た後、米国の衛星画像サービス企業Maxarが同地上空の衛星画像を公開し、路上の遺体や集団墓地はロシア軍占領当時に出現したことを暴露した。宇宙からの眼を現地住民の証言と照らし合わせて考えるならば、ロシア側の主張には全く信憑性がないことは明らかであろう。

2022年12月23日金曜日

20221222 株式会社KADOKAWA刊 増田俊也著「七帝柔道記」 pp.215-218より抜粋

株式会社KADOKAWA刊 増田俊也著「七帝柔道記」
pp.215-218より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4041103428
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041103425

 私が紹介すると、和泉さんがいつもの目つきでじろじろと峠を見た。

「あんた一年目かいね?」

「あ、はい」

峠が一歩下がった。

「座りんさい。これ食いんさい」

和泉さんがホッケの開きなどを指して「後藤君、峠君にビールを持ってきちゃってくれ」と言った。後藤さんは「はあい」とご機嫌で言って、水鉄砲で口に焼酎を発射しながらテントの裏に回り、缶ビールを持ってきた。峠が不安そうに座った。

「いま、やきそば焼いてあげるから」

私は言って奥に入り、やきそばを二つ作った。峠のぶんにはキャベツや豚肉をたっぷり入れてやった。さすがに詐欺的やきそばは悪いと思った。

やきそばを持ってテーブルに戻ると、峠が嬉しそうに私を見上げた。

和泉さんが腹を抱えて笑っていた。

「この峠君、偽カイセイじゃのうて本物の開成じゃ言いよるんよ。あんたと一緒じゃけ、おかしゅうて。うちの本間なんて偽ガオカじゃけえの」

 松浦さんが和泉さんの肩を叩いて「増田、唯信のこのバカ笑いなんとかしてやってくれんか」と言った。

「クソトシがなに言いよる、年寄りのくせしてからに」

和泉さんが急に真面目な顔になって松浦さんの肩を力いっぱい拳で殴り、立ち上がって松浦さんの背中側から裸絞めをかけた。松浦さんは「苦しい苦しい」としばらく笑っていたが、そのうち本当に絞まってきたようで地面に転がってもがきだした。そして必死になって絞めを外し、逆に和泉さんを横四方で抑え込んだ。今度は和泉さんが大暴れしてそれを外し「年寄りの横四方は甘いのう」と言って、体中についた土を払いながら椅子に座った。

「誰が年寄りだ。このフラレ男が」

 松浦さんがそう言って立ち上がると和泉さんが言い返した。

「あんたの方がフラレ男きゃないか。五回はフラレとるであんた。増田君、あんた知っとるかね。トシ、入部したときパンチパーマで来たんで」

 そしてまたかかかと大笑いしだした。

「おかしいと思わんか、二浪でパンチパーマで耳が潰れとるんで。そんなやつが新入生で来たんで。カラオケ行ったら「黒の舟唄」歌うけえの。わしゃ、おかしゅうておかしゅうて」

 そこに末岡さんが両手に袋を提げてやってきた。

「おお、みんな頑張ってるか」

「なにしに来たん、この風邪男は」

和泉さんがまた真面目な顔になって末岡さんを見上げた。

「一年目の激励に決まっとるやろが」

そう言って袋から大きな箱をいくつか出して開いた。正本の梅ジャンが何人分か入っていた。

風邪男が来たらみんなに風邪が伝染ってしまうじゃないか」

和泉さんが怒った口調で言った。

末岡さんが笑いながら和泉さんを見た。

うるさいやつやな。早よ広島帰って寺継いで坊主になれや」

うるさいのはあんたじゃ。南海のくせしてからに。なんで清風の下に南海じゃいうてつけにゃならんのじゃ」

末岡さんは大阪の南海清風高校出身だった。なにが面白いのか和泉さんは末岡さんを「風邪男」の他に「南海」とも呼んでいた。松浦さんに「年寄りのトシという渾名をつけているように、和泉さんの渾名の付け方には法則がなかった。飛雄馬のことは「ボッコバケツ」と呼んでいた。和泉さんによるとバケツに棒を突き刺したような顔だからだそうだ。広島弁で棒のことをボッコというらしい。

 その和泉さんの後ろでは後藤さんが水鉄砲で焼酎を飲み続けていた。


2022年12月21日水曜日

20221221 ダイアモンド社刊 P.F.ドラッカー著 上田惇生編訳 【エッセンシャル版】「イノベーションと起業家精神」pp.86-87より抜粋

ダイアモンド社刊 P.F.ドラッカー著 上田惇生編訳
【エッセンシャル版】「イノベーションと起業家精神」pp.86-87より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478066507
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478066508

必要な知識のすべてが用意されない限り、知識によるイノベーションは時期尚早であって、失敗は必然である。イノベーションが行われるのは、ほとんどの場合、必要なもろもろの要素が既知のものとして利用できるようになり、どこかで使われるようになったときである。1865年から75年にかけてのユニバーサル・バンクがそうだったし、第二次世界大戦後のコンピュータがそうだった。

 もちろん、イノベーションを行おうとする者が、欠落した部分を認識し、自らそれを生み出すこともある。ジョゼフ・ピューリッツァー、アドルフ・オクス、ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、近代的な広告を生み出すうえで主役を演じた。そこから、今日われわれがメディアと呼ぶもの、すなわち情報と広告の結合としてのマスコミが生れた。ライト兄弟も知識の欠落、特に数学的な理論の欠落を認識し、自ら風洞をつくって実験することによって欠落していた知識を手に入れた。

 このように、知識によるイノベーションは、そのために必要な知識のすべてが出そろうまでは行われない。それまでは死産に終わる。

 例えば、当時飛行機の発明者となることが期待されていたサミュエル・ラングレーは、科学者としてライト兄弟よりもはるかに力量があった。しかも当時、アメリカ最高の科学研究機関だったワシントンのスミソニアン研究所の責任者として、アメリカ中の科学的資源を利用できる立場だった。

 しかし彼は、すでに開発されていたガソリンエンジンを無視し、蒸気エンジンにこだわった。そのため彼の飛行機は、飛ぶことはできてもエンジンが重すぎて何も積むことができなかった。パイロットさえ乗せられなかった。実用的な飛行機をつくるには力学とガソリンエンジンの結合が必要だった。

すべての知識が結合するまでは、知識によるイノベーションのリードタイムは始まりさえしない。

2022年12月20日火曜日

20221220 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.78-79より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.78-79より抜粋 ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

しかし、このような中で1850年代末に入ると、反動の濃霧はようやくうすれ出し、19世紀前半以来の現状変革の諸運動は諸国において次第に復活して動きはじめるのである。その点で特に注目すべきものは、イタリアおよびドイツ地方における民族的統一運動の進展であった。前者はサルディニア王国の中心として、後者はプロイセン王国を中心として行われることになったが、しかも、両者はその過程において幾つかの民族解放戦争をひき起こしつつ、それらを通して進展することになった。

 そもそも、ウィーン会議以後19世紀前半期においては、バルカン半島を除くヨーロッパは久しきにわたって平和が保たれてきた。ヨーロッパにかくも長く平和が維持されたのは、1494年以来未だかつてなかったといわれている。それは一つには、ウィーン会議前後において将来の国際平和の永続が願望された既述の諸事情がその後維持したことに起因するといってよい。しかし、1848年にいたってプロイセンとデンマークがシュレスヴィッヒ=ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)問題で戦火を交え、またサルディニアがイタリアの民族的統一を意図してオーストリアに宣戦するに及んで、久しきにわたって保たれてきたヨーロッパのこの平和も遂に破れたのであった。そして、その後1854年から56年にかけてクリミア戦争(Crimean War)が行われたが、それはヨーロッパ史上ナポレオン戦争以後で最大の戦争であった。ところで、このクリミア戦争の惨害は久しきにわたって大戦争を経験しなかったヨーロッパの人心に深い印象を与えた。そして、この戦争に終止符をうつことになったパリ平和会議(1856年)は、このような人心を背景として、次のような言葉を含む議定書を採択したのであった、「各全権委員会は各自の政府の名において以下のごとき希望を表明することを躊躇しない。すなわち、重大な紛争に陥った国家は、武器をとるに先だち事情の許すかぎり友邦に斡旋を求めることが望ましい。各全権委員はこの会議に列していない諸国もまたこの議定書の精神に同意することを希望するものである」。

 しかし、その後の歴史の進行は、パリ会議の以上のような希望の表明も一片の空文にすぎないことを証拠だてるに終わった。すなわち、クリミア戦争の後、イタリアおよびドイツの民族的統一を目標とした民族解放戦争が次々に爆発することになった。