2022年11月19日土曜日

20221118 しばらく引用記事を作成していて思ったこと(思い出したこと)

おかげさまで昨日投稿分の引用記事は、投稿翌日としては、かなり伸びました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、ここ最近数日間は、波に乗ったのか、自らの文章による記事作成を試みることもなく、そのまま引用記事を作成していました。先日、司馬遼太郎について書かれた著作を読み、またその文脈を確かめるために、司馬遼太郎自身による文章、あるいは、その著作への評価などが書かれた他の文章を読んでいますと、面白いことに、何やら思考が動き出し「あるいは、この記述とも関連があるのではないか?」などと思い出すようになり、そしてまた、他の著作へと手を伸ばしていくのです・・。

そのため、現在、当ブログを作成しているPCが置いてあるデスクの上には、かねてよりのものを合わせて、15~20㎝ほどの高さに積まれた書籍が5つほどある状態となっています・・(苦笑)。ともあれ、そうしますと、やはり私は司馬遼太郎の著作には何か特別な思い入れがあるのかもしれません・・。また、それと併せて今回の件で面白いと感じたことは、先日、加藤周一による「日本文学史序説」下巻内にある、三島由紀夫と司馬遼太郎について書かれた記述を思い出し、その箇所を開き、引用記事の作成を試みましたが、その際に、引用部のみならず、ほかの記述も知らず知らずのうちに読んでしまっていたことです・・。

思い返してみますと、この加藤周一著「日本文学史序説」上下巻は、私にとって印象深い著作の一つであり、当著作を購入したのは2012年の鹿児島在住の頃でした。とはいえ、その当時はなかなか、こうした比較的硬質ともいえる他分野(人文系)の著作を読む活力や元気はなく「どうにか学位取得にまで至ったら、その後じっくりと読んでみよう。」と積読状態にて放置していました・・。

そして、その翌年、どうにか学位取得にまで至り、帰郷の後は就職活動をしながらアルバイトをしつつ生活をしていましたが、この時期に至り、比較的熱心に読んでいた著作が、さきに述べた在鹿児島時代に積読状態であった「日本文学史序説」上下巻でした。やがて、当著作は英訳版が刊行されていることを知り、こちらはたしか全三巻でしたが古本にて購入して、これらもまた自分なりに熱心に読んでいた記憶があります・・。

ほかにも加藤周一の著作は、以前から読み続けており、納得出来ない見解の記述などもしばしばありましたが、全体としては、その記述の明晰さに惹かれていたと云えます・・。

そしてまた「このような文章は私でも作成出来るのだろうか・・?」と思うことも度々あり、そうした経緯もあってか、当ブログ開始当初の頃は特に当著作(「日本文学史序説」上下巻)からの引用記事が多かったのだとも思われます。

そのように考えてみますと、去る2012年に当著作を購入し、そして翌2013年9月に学位取得に至り、帰郷してから当ブログをはじめる2015年6月までの2年に満たないほどの期間、この「日本文学史序説」上下巻)を日本語・英語版にて読んでいたことが思い返され、そして、さきに述べた同著作内の三島由紀夫と司馬遼太郎について書かれた記述も、どうにか機に応じて思い出されたのです・・。

書籍からの引用記事であっても、ある程度継続していますと、時には引用した記述が、丁度同時代での世間の出来事と何やら興味深い関連性を示すことが時折ありますが、あるいはそうしたことの背景には、現時点の私には理解出来ないものの、何らかの摂理といったものがあるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


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ISBN978-4-263-46420-5

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2022年11月17日木曜日

20221117 株式会社講談社刊 加藤周一著「日本人とは何か」 pp.161-163より抜粋

株式会社講談社刊 加藤周一著「日本人とは何か」
pp.161-163より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061580515
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061580510

明治の天皇制権力は、文明開化の必要を痛感していた。急速に官吏を養成する必要があり、大規模に技術を輸入する必要があった。すなわち明治政府は官立の高等学校を作り、それぞれの目的に従って文科と理科とを分け、官立大学をつくって能率的な教育を実行した。その改革が驚くべきものであったことをわれわれは知っている。有能な役人と技術者が養成され、組織された。知識人の動員は、何も戦時に限られたことではなく、明治維新以来、敗戦まで大筋としては一貫していたといえるだろう。理想が富国強兵にあるとき、どうして役人に音楽を聴く必要があろうか。また技術者に社会問題を考える時間があろうか。世界最大の戦艦を造った日本の技術者は、小説を読んで自ら楽しむどころか、一台の乗用車さえ国民のために作る余裕がなかったのである。専門領域以外の人事一般に対して知識人の関心がうすいのは、富国強兵をめざして行われた知識人の動員が徹底していたということであろう。

 大部分は動員されていた。しかし、勿論全部ではなかった。そして、敗戦とともに当然、戦前の少数者は、その数を増したのである。しかし天皇の名のもとに富国強兵の理想を無条件に受け入れないとすれば、意識的にそれを批判しなければならない。日本の知識人の関心が専門領域の技術問題以外に出る時には、主として社会問題へ向うのがまったく当然だろうと思われる。東京の知識人は、宗教を語らない。個人の生と死、また救いの問題は、今ではほとんど例外的な少数者の注意しか引かなくなっている。芸術は娯楽にすぎない。しかし娯楽としては、むろん活動写真の迅速簡便には及ばないだろう。

 教養の内容について言えば、明治以来の大学の伝統は、一切をよく象徴している。医学部や工学部の教授は、その講義の途中に英語や独逸語の単語を用いることで学問的雰囲気を作り上げることに巧みであった。事はもとより枝葉末節にすぎない。大学の教授の能力は、総じて非常に秀れたものであって、さればこそ日本の技術も今日まで発展して来たのである。学問にとって教授が外国語を好もうと好まないと大きな問題ではなかった。しかし、その枝葉末節に現れている心理的傾きそれ自身は、必ずしも枝葉末節ではない。その心理的傾きのある限り、日本の学問がどれほど西洋の水準に近づいてもも、おそらく全体としてそれを抜くことはないだろう。それは学者の責任ではない。広く知識人全体の問題である。

 自国の文化に対する関心は、たびたび反動を経験しながら、自然確実にうすれていった。しかし、輸入された外国文化の特徴は、そこに歴史的厚みがないということである。新しい技術の輸入を主眼とする以上、当然だろうが、とにかく輸入された限りでの西洋文化にはなかった。したがって、もし日本の知識人に文化を歴史的なものとしてうけとる機会があったとすれば、それは日本の文化との接触を通じてでしかなかったであろう。ところがそういう機会は少なかった。自国の伝統文化に対する無関心は、そのまま歴史的感覚の鈍さに通ぜざるをえない。ところが、その名に価するあらゆる文化は、深く歴史的なものである。明治以来の日本の思想的、文学的、芸術的貧困の根本的な理由は、おそらくそこにあると思われる。


2022年11月16日水曜日

20221116 株式会社文藝春秋刊 大岡昇平著「対談 戦争と文学と」 pp.283-284より抜粋

pp.283-284より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4168130509
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4168130502

司馬 歩兵は肉体一つですから敗勢の場合でも、斬り込みをやって死ぬとか、ある意味では変化の可能性がたくさんあるわけですかれど、戦車隊ですと機械力が劣弱の場合、それが絶対的なもので、運命についての可能性などは少しもありません。暗いものでした。ただ鋼板の厚みで、国家の力がからだで否応なしにわかってしまうという、そういうわかり方はあの戦車に入っていますとありました。敵の鋼板は、とても厚くて、自分の小さな大砲ではタドンを投げたようでカスリ傷もあたえることができない。日本のほうは、体裁はととのっているけれど、いざ戦場に出ると豆腐みたいに砲弾で貫かれてしまう。あの97式中戦車は、できあがったときには国際的水準に近い戦車だったようですが、しかしすぐ時代遅れになっています。昭和12年のことでしたか、戦闘機が7万円、爆撃機が20万円のとき、戦車は35万円だったそうですから、日本の国力ではモデルチェンジができないわけです。ノモンハンが終わったころに量産のコースにのったシロモノで、独ソ戦を経た欧米のレベルからみればとても・・。太平洋戦争の初期のマレー作成のときは、駐留英軍が装甲車程度しか持っていませんでしたから、相対的に威力はありませんでしたけれど・・、あとはずっと、役立たずでした。

大岡 ノモンハンのときに、だめだということは証明されているわけだからねえ。あれより大型は作らなかったのですか。

司馬 日本の国内鉄道が狭軌でしょう。ですから日本の貨車の幅で戦車の幅が決まるわけですから大型はだめだったんですね。

大岡 レイテにも戦車はきましたが、もっぱら、大砲を引っぱたり、連絡に使うつもりでもってきたらしい。馬はすぐ死んじゃうのでね。ところが、戦車ってのは、すぐ飛行機に見つかっちゃうんで、昼間は広いところには出られない。夜だけ動き回っていたらしい。

司馬 沖縄でもそうです。沖縄にも、戦車隊が一個連隊おりましたが、実際には使いものにならない。飛行機や相手の戦車にどんどんやられちゃいますから。そうすると、温存されてきて、他がみんなやられたのに戦車だけが残っては申しわけないというので、夜襲をかけた。戦車で夜襲はできないというのは、常識ですけれど、大きな音がしましてね、それに、夜襲には、無線が使えない。無線による指揮ができないとなると、バラバラになるおそれがある。であるのに夜陰いっせいに動きだして、敵の方角へ進んだんです。全滅しなければ申しわけないという非戦術的理由だけで。むろん相手の大砲にドカドカと迎え撃たれて、20分ほどで全滅したしたという。ここらへんがなにか、日本の旧国家のすがたですね。

大岡 レイテ島でも、ペリリュー島でも、敵があがった晩、やはり夜襲をかけて全滅してしまう。戦車隊はおいといても、すぐ見つかっちゃうし、邪魔になるばかりなんです。ほかにやることがないから、潰してしまう。終末的思想とでもいうほかないですねえ。

2022年11月15日火曜日

20221114 株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」 pp.11-15より抜粋

株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」
pp.11-15より抜粋
ISBN-10: 4006032056
ISBN-13: 978-4006032050

 動物の場合は、死んで往くものと生まれてくるものに殆ど差はないから、集団の質はほぼ一定である。しかし文化を身につけている人間は、死んで往くものが身につけていた文化と異なった文化を身につける子供が生まれてくるから、集団の質は変わってくる。

 しかし欧米諸国では文化の変化はそれほど大きくない。自国内での自発的な変化が大部分であり、よそから文化を移入するとしても、その「よそ」もまた欧米文化の伝統の中にあるから、移入による文化の変化は大きくない。(ただし旧植民地帝国では大きい変化があった。)

 だが日本の場合、死んで往く老人が、伝統的な日本文化を身につけており、生まれてきたものは欧米文化をより多く身につけるとするならば、出生と死亡がもたらす文化交替は集団の質を激変させることになる。特に敗戦後、戦前、戦中の国粋的な文化が、戦後のアメリカ文化によって置き換えられることによって、日本の人口の質は急変してきた。

 特別な考察をすべきは、戦後の教育改革である。それは日本の人口の質に画期的な変化を引き起こす筈だと考えられていた。戦前は忠君愛国、挙国一致を促進させるような教育が行われた。国民道徳の規範は政府によって、一方的に定められ、学校は産業側の労働需要に応じるように、多様化されており、高等教育も高給職に将来就く人を供給するだけに制限されていた。だから大学はエリートを育成するためのものだった。

 こういう教育体制は、占領軍によって破壊された。中等教育は複線路線でなく、特殊な職業に適した専門化された学校を最小限にしか許さない単線路線のものにさせられた。その上高等教育期間はエリート養成のための専門教育ではなく、市民のため国民のための高い水準の教育をつける所と考えられるようになった。国家が必要とする高い知識を生徒や学生に教え込むという姿勢は教育の場から一掃され、自由主義、個人主義が教育の根幹となった。

 こうして国家主義的教育を受けた年長者と自由主義教育を受けた若年者が、戦後日本に共存するようになったが、彼らの中間には戦前教育を幼い時に受け、後に戦後教育に切り替えられた過渡期の人が介在した。これらの人の中には、殆どが戦前教育で、その後僅かに戦後教育を受けたというような、種々の年齢層の人が混在した。戦後教育は1946年に始まり(完全な戦後教育を受けたのは1939年に生まれた人からである)戦前教育(旧制大学教育)は1953年に終了した。(1930年生まれの学生が最後の卒業生である)から、過渡期は8年ということになる。

 切り替えは円滑でなかった。戦後の思想教育ー自由主義と個人主義ーは、それまでの全体主義、国家主義の教育をしていた教師によって教えられたからである。自由主義や個人主義が履き違えられることが多く、誤解されたこれらの主義は、好ましくない影響を被教育者に及ぼす。だから欧米の学校では自由主義、個人主義とは何であって、何でないかについて徹底的な議論が教室で生徒相互間、生徒と教師の間で行われるのに、日本ではそういうことは殆ど行われなかったと言える。教師自身がそれらについて無知に近かったからである。小学一年から大学を卒業するまで16年の間、戦後教育のみを受けた純粋戦後教育派の場合でも、しっかりとした思想的核心を持ちえなかったと言ってよい。

 戦後の第一年は純粋戦後期に属する一年分の人がいた他は、全員それまでの戦前教育に一年分の戦後教育を付加した過渡期の人であった。戦後17年目に純粋戦後教育に完全に受けた人が初めて現れた。(大学に進学せず高等学校限りで就職する人は13年目に純粋戦後派が出現した。)いま64歳までを労働人口とすると、純粋戦前派が労働人口から消滅してしまうのは、戦後49年経った時ーいまから4年前ーである。そのうえ過渡期の人々が労働人口から消え去るのは、今から更に4年経った後である。教育改革は日本国民を洗脳したのである。それは極めて徐々の洗脳であっただけに、完了するのに非常に長い時間を要したのである。

 日本のいわゆる高度成長期(1950~70年)の労働人口(ただし全員が大学を卒業したと仮定して22歳から64歳までの人)のうち、戦前派、過渡期、戦後派の階層への割り振りは次のようになっている。1950年には全員が戦前の教育を受けた人である。1960年には35年分の高年者層が戦前派、7年分の若年者層が過渡期、純粋戦後派はゼロである。高度成長最後の年には、25年分の高年者層が戦前派、8年分の中間層が過渡期の教育を受けた人達で、9年分の若年者層が戦後派の教育を受けた人達である。このように見れば高度成長に貢献した労働人口の大部分は戦前教育を受けた人だといえる。

 これに反してバブルの絶頂期の1990年は、60歳から64歳までの人は戦前に教育を受けている。続いて8年分が過渡期の人で占められ、29年分の若年者は戦後に教育を受けている。このように日本の労働人口が受けている教育の内容は、時間と共に変化してきた。教育改革は占領軍司令部(GHQ)の命令で一挙に行われたから、教育内容は即座に変えられたが、戦前のイデオロギーは教育を受けた人の頭脳の中に体化された形で、長い期間にわたって効力を保った。このような形で、旧体制は新体制の世界の中で抵抗しつづけたのである。革新は急進的であっても、体制には、効果を弱め保守化してしまう緩衝装置が備わっていたのである。

2022年11月13日日曜日

20221113 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.525-527より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.525-527より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480084886
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480084880

三島はまた、大衆社会の商業主義を利用することでも、またそれに利用されることでも、おそらくもっとも徹底していた作家である。彼は、美的密室に閉じこもっているどころか、居合い抜きや、裸の写真展覧会や、仲間をひきつれての自衛隊の訓練への参加や、大衆伝達機関の注意を引く行動をつぎつぎに思いつき、実行した。1912年の乃木将軍の切腹は、偶然に発見されるまでは、誰にも知られないようなし方で行われた。1970年に三島が自衛隊に乗り込んで切腹したときには、放送局も新聞社も、本人からあらかじめその時と場所を予告されていたのである。戦後の大衆社会のなかで、何人かの小説家は「有名人」になり、俳優や歌手や運動選手と同じように、TVの画面で商品の広告をするようになった。しかし三島ほど絶えず「センセイショナル」な「ニューズ」の中心であり続けた作家は他にない。それが彼の第二の面である。

 しかし小説家としての三島は、「仮面の告白」(1949)から「金閣寺」(1956)まで、売るためにのみ書いたのではない。彼の価値観は、その美学も政治的信条も、高度成長社会の大衆のそれではなかった。何十万の読者に訴えるためには、小説の根底にある価値観が、大衆のそれと一致するか、少なくとも一致しているかのような印象を大衆に与えなければならない。中里介山や大仏次郎や吉川英治は、それぞれの時代に、その条件をみたしていた。経済的膨張の時代に、その条件をみたしたのは、司馬遼太郎(1923~96)である。司馬の主人公は、もはや「剣豪」ではなくて、知的英雄であり、もはや架空の役者ではなくて、実在の人物に近く、幕末や維新や日露戦争の、綿密に考証された歴史的状況のなかで動いている。その小説の英雄=主人公は、私生活においては型破りで、仕事においては正確な状況判断と強い意志により優れた指導性を発揮する実際家である。管理社会のなかで型にはめられた「モーレツ社員」の分裂した夢―型からの脱出と型のなかでの成功の願望は、鮮やかにもここに反映していた。しかも読者はその小説を通じて「歴史」を知る、あるいは少なくとも波瀾万丈の小説を愉しみながら「歴史」を学ぶと信じることができるのである。

20221112【架空の話】・其の102 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇⑰】

E先生は早々に一杯目のビールを飲み干していたためジョッキを下げようと取りつつ「E先生、次は何を注文しますか?」と訊ねた。すると「ああ、ちょっと焼酎があるか聞いてみて、あれば芋焼酎をロックでください。」とのことであった。すると、このやり取りを聞いていたTO先生が「E先生、ここには熊本に多い米焼酎も鹿児島に多い芋焼酎も置いてありますが、銘柄はあまり多くはありません。」とアドバイスを頂いたが、これにより彼が北隣の熊本県の御出身であることが思い出された。

お酒が入り、しばし時間が経つと、皆よく話すようになった。さきに到着した理工学のMA先生と院生は、CH先生をはじめとするクリニックとの共同研究を進めているとのことであったが、その内容の詳細は秘密保持契約(NDA)を締結しているとのことで、あまり教えて頂けなかったが、画像など医療情報についての研究開発とのことであった。

理工学研究者のMA先生の外見は、前述のように強面な感じであったが、宴席ということもあり、熊本ご出身のTO先生と、もう一人の同席者である副院長のHR先生とで、何やら話が盛り上がっていた。

内容は、こちらに聞こえたところによると、MA先生は酒に弱く普段は飲酒の習慣はないが、こちらの料理が美味しいため、普段よりもお酒が進んでいるといった内容であった。

すると傍らのCH院長が「MA先生はお酒はあまり強くはないのですね・・。分かりました。でしたら、このコース料理の〆でデザートが出るのですが、これにお酒を使ったものを出してみたいと思うのですが如何でしょうか?」と訊ねられた。

対してMA先生は「・・そうですか、お酒を使ったデザートですか。それは具体的にどのようなものですか?」と返事をされた。すると、これまでMA先生との一連の会話に入っていたHR副院長が「院長、それは私も気になりますね。どういったデザートですか?」とかぶせてきた。

CH院長は「ああ、先日、このお店で出して頂いたもので、そこまで手の込んだものではないのですが、抹茶アイスにペドロヒメネスのシェリー酒を垂らしたもので、これであればお酒が苦手な方でも、おそらく美味しく頂けると思います。」とのことであった。

私やE先生などは当時、お酒と云えば焼酎とビールぐらいしか知らなかったことから、このやり取りを聞いていて興味が昂進したようであり、CH院長の隣席にいたE先生は「CH先生、そのシェリー酒というものを飲んだ経験がないのですが、出来ましたら私も、そのデザートを頂いてみたいのですが・・?」と若干控えめなトーンで申出ると「そうですか、分かりました・・。でしたら、皆さん、本日のデザートは、この卓上のコースメニューによると、高知柚子のシャーベットということになっていますが、これを抹茶アイスのペドロヒメネスのシェリー酒をかけたものに変更することは可能か、お店側に訊ねてみますか?」とCH先生はE先生を含めて皆に訊ねた。続けて「このデザートは、もうしばらくで到着されるKA顧問からも高評価を頂いて、最近は、ご自宅での食事のデザートに、市販のアイスクリームにペドロヒメネスのシェリー酒を垂らしたものを召し上がっているとのことです。」と付け加えると、少し間を置いてから、MA先生が代表した感じとなって「対応が可能であれば、皆さん、そちらに変更しましょうか・・。」との返事をされると、早速、CH院長はお店のスタッフに問い合わせた。

やがて、さきほど我々を案内した黒のギャルソン・エプロンを着けたスタッフがやって来て、しばしCH先生と話すと、すぐに「はい、デザートの変更は可能であると思いますので、早速調理スタッフにその旨を伝えてきます。」と云い、入口で一礼をして足早に去っていった。

あとで聞いた話によると、シェリー酒は、スペイン南部のアンダルシア地方で醸造されている当初は航海中での保存のためにアルコールを強化した白ワインの一種とのことで、その中でも特に、通常の葡萄よりも甘さが凝縮されている干葡萄からつくられるペドロヒメネスは、その飲み口は極甘であり、アルコール飲料といった感じが乏しく、たとえるならば、液状にしたプルーンといった感じであり、これをバニラや抹茶などのアイスクリームに少量かけて食べると、シェリー酒とアイスクリームとの味が止揚された感があり、たいへんに美味しいものであった。


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2022年11月12日土曜日

20221111 【架空の話】と独白形式での記事作成との間にある違いから思ったこと

おかげさまで、今回の記事投稿により、総投稿記事数が1885に到達します。そして、あと15記事の投稿により、当面の目標としている1900記事に到達します。おそらく、現在の調子にて記事作成を継続すれば、今月内での1900記事到達も夢ではありません。そして、次の目標は2000記事ということになりますが、これは早くて来年の本格的に春の陽気となる前、そして遅い場合であれば、当ブログ開始から丸8年となる来年の6月22日までにどうにか達成出来ればと考えています。これを換言しますと、およそ170日にて100記事の作成を要するということになりますが、そのように考えてみますと、この設定はそこまで辛いものではないとも思われますが、しかし、先日罹患した新型コロナウィルス感染症のようなことが、今後はないとも云えませんので、記事作成の頻度が遅くとも、どうにか目標に到達出来そうな状態であっても気を抜かずに、出来るだけ多くの記事を作成をしていきたいと思います。

さて、本日は【架空の話】の続きを作成しようと考えており、その話の展開も時折、考えてはいましたが、いざ作成の段に至ると、特にイヤでも、また着想がないわけでないのですが「本日も普通の独白形式にて作成しよう」と思い直し、こうして先ほどより記事作成を始めました。そして、このあたりまで作成してみますと「あるいは【架空の話】の続きを作成してみても、大体同じような感じであったのでは?」とも思い、少し後悔するのですが、それでも、たとえ、同程度の文字数の文章であっても、こうした独白形式の記事と【架空の話】では、作成時に入る心のギアのようなものが異なり、独白形式の場合は、現在もまた、そうですが、ひたすら逡巡しながら作成することが多いのに対し、【架空の話】では、話の筋となる記憶が励起されている状態であれば、それを言語化していくことは、あまり難しいものではなく、あるいは気が乗って集中しつつ【架空の話】を作成している自分に気が付くこともあります。そうした時は大体、文章の作成は早いものであり「知らぬ間にここまで作成していたのか・・」といった感を受けることがしばしばあります。

しかし、であるからといって、記憶が励起されてさえいれば【架空の話】は速やかに作成出来るといったものでもないようで【架空の話】では、概ね半分以上が自らの記憶に基づいていますが、そうした記憶とは、もとより時間的に一つながりの出来上がった物語のようなものではなく、時間軸の中に散在する記憶の断片を組合せ、そして新たな物語【架空の話】を作成していくのです・・。そして、ここまで書き連ねていて不図思い出しましたが、こうしたパッチ・ワーク的とも云える物語の作成方法は、以前に作成したブログ記事にてそれと知らずに言及していましたが、本邦神話の物語としての構造に類似しているように思われるのです。

本邦神話においては、大雑把な時間軸としては、古いところから新しいところへ流れていると云えますが、それに散りばめられた挿話や登場人物などに関しては、必ずしも新旧の順がさきと同様と云うわけでもなく、あるいは登場人物に関しては、複数の人物を一人格に統合したとされるような登場人物もいます。

こうしたことを【架空の話】の作成においても、特に意識せずに、半ば無意識にて行っていたことに対して、上述のように意識を向けてみますと、自分の精神にあるものと、我が国の神話によって示される物語の構造との共通性が見出されたようで、それはそれで興味深く思われてきます。

こうしたところには、何か説明出来るような要因といったものはあるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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