2022年6月18日土曜日

20220617 中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」 pp.414-416より抜粋

中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」
pp.414-416より抜粋
ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

 古代日本はその政治的勢力が一時、朝鮮半島に進出して、半島の勢力均衡にたいしてある重量的な影響を及ぼしたことは事実である。また日本の特殊な物産、おそらく砂金などの貴金属が交易のために、大陸に向かって輸出されたであろうことも推測されるが、そのほかには、ことに文化的にはもっぱら大陸の文化を輸入するだけで、日本の文化が大陸に逆流する場合はほとんどなかったものと考えられる。もっとも平安時代に日本製の紙が中国貴族に喜ばれ、中国になくなった古書が宋の朝廷へ逆輸入されたなどのことがあるが、これを中国文化が日本へ流入した量とくらべれば、物の数でもなかったであろう。

 しかしこのことは、日本の文化がまったく中国の文化に隷属したことを意味するのではない。中国から流入した大陸文化は日本へ落ちつくとそのまま土着して、日本的なものに変化させられたのである。日本文化が中国へ逆流しなかったということは、文化水準において中国がはるかに高度であったとともに、日本の文化の基底が早くから中国とは異質的に発達してきたためである。中国人は朝鮮では箕子の井田の跡した問題にせず、日本にたいしては秦の始皇帝によって派遣された徐福の墓の外には興味をもたず、ごく近世に入ってから後でも、日本における中国を追求するかが、日本における日本そのものを研究する意図をもたなかったのである。

 大陸における政変、民族移動のたびごとに、多数の人民が安住の地を求めて日本へ渡来した。その中には文字を解する知識人もあって、かれらは史部として、朝廷における書記の職を世襲した。日本に輸入された漢字は、最初のうちはその音・訓ともに、本来の漢字のままに用いられたのであろうが、ただ地名・人命などの固有名詞を写すさいには、いきおい中国でもしばしば行われるように、漢字をたんなる字音として用い、いい換えれば一種の音符としてのみ使用した。また逆にあまりしばしば繰り返して使用する文字は、漢字音のほかに、やがて日本字訓が与えられてそれが固定するようになった。ここにおいて文章をつづるのに、漢字法によらずに、日本語そのものを漢字音と日本字訓とあわせ用いて写すことができるようになってきた。「祝詞:「万葉集」「古事記」のような日本古文学はこのようにして出現できたのである。

 いわゆる万葉仮名は、漢字はたんなる音価として用いるが、そこに一定の法則がなかったために、一音を写すに手あたりしだいに無数の漢字を選び出して用いた結果、書くにも読むにも多大の不便を伴わなければならなかった。ここにおいて、つぎの段階に入って、まず日本語の発音を整理し、これに相当する漢字を特定なものに限り、さらにこの漢字の形を省略して仮名を発明することができた。この光栄ある発明者はふつう弘法大師の業績とされるが、実際は確かなことはわからない。ただ五十音図はじつはインドの声明という発音字の影響によって日本で組織されたものであるという。もちろんこの声明も、中国を経過し仏教とともに日本に流入したものであるが、声明は中国において反切の方法を発明させたに止まり、ついに普遍的な音符の製作を見ないで終わったのに反し、日本においては東アジア諸国にさきがけて、この便利な音符文字を発明したことは、まことに誇るにたる業績といってよい。生活程度の低い日本において、教育が比較的下層階級に普及することができたのは、仮名の功徳による点が多いのである。日本ではその後もついに中国のような士大夫階級を発生させないですんだのは、ここにその位置原因が求められるであろう。

2022年6月17日金曜日

20220616 祥伝社刊 山本七平著「日本人とは何か。」ー神話の世界から近代まで、その行動原理を探るーpp.70‐72より抜粋

祥伝社刊 山本七平著「日本人とは何か。」ー神話の世界から近代まで、その行動原理を探るー
pp.70‐72より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4396500939
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4396500931

いずれにせよ韓国の成立史は、中国へのレコンキスタを連想させるから、日本にはその種の記録がないとはいえる。韓国では紀元前108年に漢が進出してきて楽浪郡以下四郡を置いたが、やがて三韓が生じ、ついて北で高句麗、南東部で新羅、南西部で百済が台頭し、313年に高句麗が楽浪郡を攻略し、つづいて帯方郡の北半を併合し、同じころ百済は帯方郡の南西部、新羅が南東部を取り、ここで三国は急激に発展してそれぞれの古代国家を形成した。

 これが三国時代で、その初期に日本は南部の任那に日本府を置いていたが、やがて駆逐された。6世紀末に隋が高句麗の征討をはじめ、ついで唐もこれを行ったが共に失敗した。ついで唐は新羅と協力して660年に百済を滅ぼし、つづいて668年に高句麗を滅ぼしたが、両国が滅びると新羅は唐と戦って百済・高句麗の故地を占領し、ここに半島の統一が形成された。

 津田左右吉博士がいわれているのは、このような「国家形成史」がなかったということを、それが「制なき時代」が出現する前提であったろう。

 以上のようにして、ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、それがそのまま統治体制となったのが「骨(かばね)の代」であろう。

「骨の代」の氏族体制とは

 一体「骨」(かばね)とは何であろうか。それは大体氏族の首長もしくは中心的人物をいうと定義してよいであろう。これは韓国語の「骨」の用法を用いたと見るのが定説で、韓国では「真骨」もしくは「第一骨」といえば王族のこと、「第二骨」といえば貴族のこと、これが日本に伝わり、たとえば「武烈天皇紀」に「百済国守之骨族」という語が見える。この用法で、氏の首長すなわち「氏上」「伴造」「伴緒」の尊号を「骨」(かばね)といったものと思われる。

 となると問題は「氏」である。氏とは「うみすじ」(産筋)の意味、または「うち(内)」すなわち同一の一族の意、氏の韓音「チー」に「う」音を添えたもの等、さまざまな説があるが、大体「同一の一族」を示すと考えてよい。そして氏の長の名称が姓(かばね)である。

 そしてこの氏族が土地・人民を所有して半独立国のようになっており、時にはそれらが相争って「倭国の内乱」となるわけだが、その中のおそらく最大の氏族が天皇であり、他の氏族と違う点はおそらく祭儀権を持っていたことであろう。

 魏の記録を見ると、祭儀権を持つのは女王で、その弟か夫が諸氏族の争いを調整するのが統治で、その実態は多く古代の国に見られた宗教連合に似たものであったと思われる。

 そして大氏族は天皇の下で何らかの職務を行うことで、氏族連合政権のようなものを構成していたらしい。

 そして祭儀権者が亡くなり、この連合が崩壊すると混乱して内乱状態となる。こういう場合、中国から張政のような者が来て、祭儀権者の後楯となって混乱を収束させたものと思われる。この、女帝が祭儀権をもち、皇太子その他が統治権を行使するといった形態は、推古女帝と聖徳太子、皇極女帝と中大兄皇子、その他の例に見られる。

 では氏族体制の内部はどのようになっていたのか。これは明確にはわからないが、天皇も一氏族だからほぼこれと同じような形で、ただ全体を統一する祭儀権はなかったものと考えればよいであろう。

2022年6月15日水曜日

20220615 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 大林太良著 「神話の系譜―日本神話の源流をさぐる」

株式会社講談社刊 大林太良著 「神話の系譜―日本神話の源流をさぐる」
pp.114‐116より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061589571
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061589575

「古事記」や「日本書紀」によれば、天皇家の遠祖は高天原の主神で太陽の女神であるアマテラスであったし、その孫のニニギが筑紫の日向の高千穂峰に天降り、それ以来、子孫がこの国土の支配者となった。ここに見られる考えは、王権ないし天皇の神聖性の根源が天にあるという考えである。

ところがその一方では、これほど強調されてはいないが、海に王権の根源があるという考えも、記紀神話には見られる。つまり、アマテラス自身も筑紫の日向橘の小門でイザナキがみそぎをしたときに生まれたのであったし、また、天神の子孫(ヒコホホデミとウガヤフキアエズ)が海神の娘トヨタマビメやタマヨリヒメと結婚し、ヒコホホデミとウガヤアエフキアエズの子)が初代の天皇神武になったと記されているのである。

 王権の海との関連は、神話ばかりでなく、儀礼にも見られる。つまり八十嶋祭であって、文献上は850年から1232年までの400年近くの間に22回記録されているが、その起源はもっと古いものらしく、岡田精司によると、おそらく5世紀までさかのぼると思われる。この八十嶋は即位儀礼の一環をなすもので、イザナキ、イザナミの国生み神話と密接な関連をもち、難波津において《大八洲》を新たに即位した天皇に付着させ、国土の支配者としての神聖性を付与するものだったのである。

 ところで、王権の根源が天にあるという考え方と、海にあるという考え方は両方とも朝鮮にも存在する。

 まず第一の考えに関しては、喜田貞吉、三品彰英、岡正雄らの諸氏が指摘したように、日本の天孫降臨神話は朝鮮古代の諸王朝の始祖神話と密接な関係をもっている。つまり、日本神話ではニニギが筑紫の日向の高千穂のソホリの峰、あるいはクシフルの峰に天降ったように、古朝鮮の檀君神話では、天神の子桓雄が太伯山の山頂の神檀樹の下に天降ったし、また駕洛国の開国神話では、同国王の始祖首露は聖峰亀旨に天降った。

 このように支配者が山上に降臨するという点で日本と朝鮮の神話は類似しているばかりでない。そのほかにも、たとえば桓雄の場合、日本のニニギが天からもたらした三種の神器に相当する三種の宝器を持参しているし、また、ニニギにつき従った五伴緒に相当する三職能神が彼に従って天降っている。 またさらに、日本の天孫ニニギがマトコオフフスマに包まれた嬰児の形で天降ったよう
に、朝鮮でも駕洛国の始祖王首露、新羅の初代王赫居世、金氏の始祖閼智なども嬰児の姿で天降り、首露と赫居世は最初の統治者になったと伝えられている。しかも首露の場合、この天降りった神人は海浜の乙女と結婚したことになっており、ちょうそニニギが天降って後、笠沙の御前でコノハナサクヤビメと結婚したのと対応している。

20220614 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.76-78より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.76-78より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

地方信仰の内容は、先祖が空から山頂に降って来た、ということであったにちがいない。第三のタチハヤヲの場合には、天孫降臨との関係が切れている。天から降って松の木に居た神が、その方へ向いて大小便をする近所の人々に祟る。そこで祭をして、近所迷惑だから山の方へ行ってくれと頼むと、納得して山上へ移った、という。この話は、祭(ここでは中央から専門家が来て祭をしたことにしている)の機能の一つが、祟りの統御にあったということを、示しているだろう。またこの種の神は、おそらく無数に居たであろうことを、その多くが天から降ったとされていたであろうことも、想像させるのである。あるいは祖先神として、あるいは祟りの神として、雨の如く、霰の如く、国中に降ってきた神々の多くは、降臨を天孫一本にしぼった「記」・「紀」の体系に組み込まれることで、ほろび、忘れ去られたのであろう。その体系以前を、「風土記」の記述は辛うじて窺わせるのである。

 神々と係らぬ世俗的な伝説や民話は、「常陸国風土記」に多いが、「出雲国風土記」や「播磨国風土記」にも出ていて、その多くは地名の由来を説明するという形式で語られている。そこには儒・仏の影響がほとんどない。わずかに「播磨国風土記逸文」の浦嶋の話は、話の全体に蓬莱山という神仙思想の影響がみられる。しかし後述するように浦嶋の話は、話の全体が大陸に由来すると思われるから、一般に神仙思想の影響を誇張して考えることはできない。

「常陸国風土記」には、「くず」を征伐する話がある。そのなかでも、那賀の国造の祖というタケカシマノミコトが、城砦に拠って抵抗する「くず」を、七日七晩の歌舞によって誘い出し、出て来たところへ騎兵を放って、みな殺しにするという話は、大化改新以後権力の集中へ向かった王権のイデオロギーを反映しているだろう。「記」・「紀」においても、伝説的王は、手強い相手を、だまし討ちにすることに長けていた。しかしこのような征伐の話は、むしろ例外であって、「風土記」の伝説と民話の世界は、しばしば人間化した神を登場させながら、その神とさえも係りのない人間と身近な動物との小さな紛争や和解の話にみちている。

動物は、蛇、白鳥、鹿、兎、鮫などである。人間の女の生んだ蛇が長じて雷になったり(「常陸」、那賀郡)、白鳥が少女になったり(「常陸」、香島郡)、天女が白鳥になったりする(「近江」逸文。「帝王編年記」所引)。鹿(「豊後」、速水郡)や兎(「塵袋」第10所引の「因幡記」は、人間の言葉を喋る。羽衣を盗られた天女が人間になって地上に住み得ること(上記白鳥となった八人の天女のうちの一人)はいうまでもない。そのなかでも鮫に娘を食われた父親が、怒り、歎いて、神々に祈ると、1000匹以上の鮫が一匹の鮫をかもんで岸まで連れて来た、という話は、典型的である。

父親がその鮫を殺して割くと、娘の脛が出てくる(「出雲」、意宇郡)。神々の助けがなければ、父親は娘を食った鮫を発見して捉えることができなかったはずだろう。神々の介入は、他の多くの場合と同じように、話のすじの必要である。しかし話の迫力は、父親の怒りと歎きにあり、話の強い印象は、割かれた鮫の腹から出てきた女の脛である。親子の情と、感覚的な細部。「今昔物語」(本朝世俗篇)の徹底した現実主義が、まだここにあるわけではない。しかしそれは全く別の世界の話ではない。主人公の行動的な性格、状況の実際的な判断、全く人間的な感情、鮮明な感覚、-そしてその他の何ものも排除されているか、二次的な添物にすぎない世界が、すでに「風土記」のなかにはあった。

2022年6月13日月曜日

20220613 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 谷川健一著「埋もれた日本地図」 pp.58‐60より抜粋

株式会社講談社刊 谷川健一著「埋もれた日本地図」
pp.58‐60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065249430
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065249437

私が連綿とした家系に驚嘆したのは安曇氏ばかりではない。埼玉県の入間郡の高麗本郷というところで高麗神社を祀っている高麗氏がある。58代目と称する当代の高麗明津氏は77歳の高齢であるが、会ったとき、その柔和な面ざしに朝鮮の血がながれていると、私は思わずにはいられなかった。もっともこのうち10代は兄弟が継いだのだから、じっさいは48代という説明だったけれども、それにしてもその祖先の高句麗亡命人若光がこの地に移住したのが、「諸国の高句麗人をあつめ、武蔵国に高麗郡をおく」とある元正天皇の716年であるから、奈良時代の初めごろの話である。

 高句麗(前37~668)は高麗とも呼ばれた。高麗人1800人をあつめ高麗郡をつくったが、その首長が若光であった。

 この若光は高麗郡に移るまえに神奈川県の大磯にいたという伝承がある。大磯には高麗山の地名がのこり、また高来神社の下の宮は高麗王若光を祭っている。高来神社はいうまでもなく高麗神社の呼び方を変えたものだ。この神社の一年越しにおこなわれる夏の大祭で舟子たちがとなえる祝歌の一部に、「俄かに海上騒がしく、浦の者共怪しみて、遥かに沖を見てあれば、唐船急ぎ八の帆を上げ・・・この船の中よりも、翁一人立ち出でて、艪に登り声をあげ、汝らそれにてよく聞けよ、われは日本の者にあらず、諸越の高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て、大日本に志し、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁昌と守るべし」とある。この翁が若光であったのである。

 こうした歌が歌が今日まで歌いつがれること自体ふしぎとは思わざるを得ない。しかも埼玉の高麗郷に本拠をすえた若光の子孫は代々高麗氏を名のり、鎌倉幕府の執権北条泰時のころまでは、親族や重臣とばかり縁組してきたということが高麗神社伝来の系図に明記されており、高麗本郷一帯の帰化人のあいだで高麗氏の血が保たれてきたことがはっきりする。この系図は正元元年(1259年)に火災で焼けたが、そのとき一族老臣など高麗百苗があつまって諸家の故記録をとりしらべ、高麗氏の系図をあたらしく書きのこすことにしたと記してあるのをみると、鎌倉時代の中期までは同族意識はきわめて強固であったことがうかがえる。じっさいこの高麗本郷には、若光の墓と称する朝鮮式の多重塔があり、付近に高麗川が流れていて、日本のなかの、朝鮮特別区という趣がある。そうした雰囲気を奈良時代このかた途切れることなく持ちつたえてきたのがこの一帯であったにちがいない。高麗郷近くの飯能は朝鮮語のハンナラ、つまり「韓の国」という意味だそうだ。東京都下に狛江があることは誰でも知っている。

 私は狛江、調布、八王子と多摩川ぞいに引かれるラインを北上させて、八王子と高崎をむすぶ八高線の沿線に朝鮮文化を想定してみた。つまり関東平野の西部ぞいに古代朝鮮人が定着し、開拓をおこない、養蚕をひろめ、ひいては機織りをさかんにしたと考えてみた。すると、あきらかに高句麗系文様の金銅飾板を出す狛江の古墳群のまわりに当時の一大集落が浮かび上がる。そこは多摩川とつい目と鼻のあいだである。多摩川は「万葉集」に多麻と書き、麻に関係があると思われる「和名抄」には多婆と書いてあるから白栲の栲を意味するタバかも分からない。そして近くに調布や砧(布板のつづまった語)などの集落があるところをみれば、多摩川に布をさらし、それを木や石の上において叩いてやわらかにしていた当時の光景が眼前に出現する。それは高麗本郷や流れる高麗川でもみられた風景だったにちがいない。

20220612 中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.49-52より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス 竹山道雄著「昭和の精神史」pp.49-52より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412160122X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601223

青年将校の運動は、封建時代このかた持続された支配階層たる「天皇制ファッショ」が、自己の本質を一直線に実現していった過程の一齣ではなかった。その代表者を殺すことによってその真の姿を生かしたのだという「呼出し役」説は、堅白同異の詭弁であり、歴史を都合よく体制化して考えるためにつくりだされた便宜の仮想にすぎない。これによって組み立てられた全体を、歴史としてうけとることはできない。

旧勢力の人びとも国の一員だから、国の保全とか国勢伸張とかいうことは、当然願っていた。願いすぎた人もたくさんあった。これは幣原外相も高橋蔵相も考えていた。しかし、国の隆盛を欲すること自体がすなわちファッショなのではなく、ファッショといわれるためには特定の形態をもち理念をもち方法をもったものでなくてはなるまい。「かれらが一見ファッショと対立して見えるのはただ手段の緩急についての意見の差にすぎず、本質的には同一利害の上に立っていた」。故に、かれらもファッショだった、ということはできない。これは極端な「部分的真理の一般化」であり、もしこのような論理を用いるならどんな体系もたてることができる。

 青年将校の運動は既成秩序に対する真向からの反撃だったが、しかし階級闘争ではなかった。上からの革命でもなく、下からの反抗でもなかった。かれら自身はおおむね中産階級の出で、実社会から離れた生活をしていた(極端ないい方をするなら、これもこの三十年来いまもつづいている、社会の不正に対する若い世代の反撥の一齣だった。)檄文にも見るように、かれらはみずから革命の前衛をもって任じていて、後から国民大衆がつづいてかれらのはじめた仕事を完成することを期待していた。かれらの動機は自分の階級の利益のためではなくて、観念の情熱からだった。階級は一つの権力の主体であるが、階級のみがそれなのではない。階級の悪を否定しようとする情熱もそれとなりうる。軍縮時代の軍人が肩身がせまかったから、それへの怨恨が軍隊の中にあったし、これが軍人の政党嫌いの一因をなしていたのにちがいないが、かれら自身はもっと若く、その根本の動機は檄文に表明されたとおりのものと思われる。

 しかし、このように主観的動機を重視することは、はたして歴史の闡明になるだろうか?歴史をうごかすのは、もっと「根本的」な要素なのであり、証明は経済ないし階級的利害によって裏づけられなければならないのではないだろうか?青年将校の運動は、独占資本にあやつられたか、農民の反抗であったか、あるいは苦しんでいる小市民のあがきであったか、とにかくそのような観点に基礎づけられなくてはならないのではないだろうか?観念の情熱ー?そんな頼りのない話ではなくて、もっと「実質的な」要素に還元して、そこの上からの演繹をするのでなかれば、すべては非科学的な「むなしい唯心論」なのではないだろうか?

 人間のすべてをその根本的と想定される一元的要素の因果関係に還元したときのみ、科学的実証となるとする考え方は、前世期の固定観念だった。これは必然の立証がすなわち科学であるとして、それに対して自立する人間の主体的意思を認めない。

 しかし、「哲学は世界を解釈するのではなくて、改造すべきものである」と説いて、歴史解釈にすら主体性を要求しながら、その歴史の中に行動する人間には主体性を認めないのは、ふしぎである。

 歴史は人間の行動によってうごく、そして、この行動から主体的意思をのぞいて考えることはできない。人間は外界によって機械的に反射的に規定されるものではない。

 もともと、人間の行動と外界とは直接につながっているのではなく、その間に心がある。これはその後の学問によって確認されたことであり、もしこの事実を認めないならそれは非科学的である。人間の行動は、外界によって直接に条件づけられるのではなく、むしろ外界について彼がいだいているイメージによって条件づけられる。故に人間の行動はしばしば外界とズレるのであり、たとえ彼が外界に対して正しく反応したときにも、彼はなお彼がいだいている外界像にしたがって行動したのである。

2022年6月12日日曜日

20220611 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」 pp.487-489より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」
pp.487-489より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163646701
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163646701

私がこのとき和気藹々たる(米軍捕虜収容所 に収容された日本軍の)閣下たちに感じた異常な違和感の背後には、このことがあった。この閣下たちのうちのだれかは、おそらくだれかを自決させるか自決に追い込んでいるかは、しているであろう。そして、情況のほんのわずかな変化で、それは私であったろう。「ではこの人たちはたとえオレを自決させておいても、平気で、こうやって和気藹々と句会をやっていけるわけか」という言うに言われぬ異様な感じである。それは人びとが、獄中の永田洋子から受けたであろう感じとは、到底比較にならない、一種、もう表現しきれないような異様な感じであった。

 和気藹々はその日だけではなかった。そしてそれが二、三日つづくと、今度はこちらが、肩すかしをくったような妙な虚脱感をおぼえ、閣下なんぞについて何かを考えるのはもう面倒だ、最初に気をつかったこっちが馬鹿正直だっただけだ、といった、一種投げやりの無関心になっていった。そしてそれを過ぎたとき、私はやっとこの将官たちを、一応そのままの姿で「見る」余裕を獲得した。そして見れば見るほど、それは、不思議な存在に思われた。

 なぜあの人たちが指揮官でありえたのだろう。なぜあの人たちの命令で人びとが死に得たのであろう。なぜ自決を命ぜられて人が自決し得たのであろう。前述のように、将官たちは互いに「○○閣下」「××閣下」と呼び合う。閣下がお互いに閣下閣下と呼び合うものだとはこのときはじめて知ったが、鉄柵の中でのその呼びかけが逆に妙に空虚にひびき、そこにいるのは結局、それ以前にも今と同様、そう呼びあっていただけの、二等兵以上に自己の意志を持ち得なかった無個性無性格者の集団だったとしか思えなかった。

 終戦前と比較すれば、この人たちは、一瞬にして変ったように見える。確かに、満期除隊となれば兵士は瞬間的に地方人(一般市民)に変わり、幹部候補生の将校は翌日から背広姿のサラリーマンにヘンシンする。それはその人たちが兵役という「お役目」から解放され、「気魄演技」も「要領演技」も必要のない本来の姿にもどっただけで別に不思議ではない。また本職の中堅将校にもそういう人はいた。しかしその人とて、これからは一市民として生活していくという努力感が、その変化の前提にあったろう。だがこの人たちは、別のはず、解放されてそれへ戻る本来の姿が別にあった人びとではないし、将来の生活のための努力もないはずだ。それがこうなるとはどういうわけなのか。結局これが、この人たちの本来の姿で、将官は演出の「お役目」だったのであろうか。

 一体これは、どういうことなのか。選び抜かれて将官となり、部下への生殺与奪の権を握っていたこの人たち、この人たちに本当に指揮者の素質があるなら、今でも何か感ずるはずだが、それは感じられない。

 野戦軍の「将」であったのか、それならば、たとえこうなっても「檻の中の虎」に似た精悍さを感ずるはずだが、それもない。では何かの責任者だったのか、それならば最低限でも「部下の血」に対する懊悩から、こちらが顔をそむけたくなるような苦悩があるはずだ。私が最初、師団長の顔を見たくないと思ったのはそれで、具体的にいえば彼の部下である砲兵隊の最後も砲の処置も、砲兵出身である彼に語りたくないのが理由だったが、そういう苦悩があるとさえ感じられない。

 一体この人たちは何なのだろう。まるで解放されたかのように、この現在を享受しているかに見えるこの人たち。この人たちの頭脳の奥に、本当にリアリティをもつ存在があるとすれば、それは一体何なのであろうか。私にはただただ不思議であった。

 彼らが「世界的定義」における軍人ではなかったことは確かである。従って米軍は日本軍を「軍隊として」尊敬していなかった。ロンメルのような形で敵軍にすら称揚され、世界的水準で一定の評価を得ている伝説的将軍は日本軍にはいないし、いるはずもない。もちろん、お家芸の「仲間ぼめ」は今でもある。また「日本軍は強かった」という表現で、その強い日本軍に勝ち得た自分はさらに偉大なのだと暗に自慢しているマッカーサー型の、間接的自己称揚のための日本軍称揚もありうる。それらを除き、彼らが真から例外的に高く評価していたのは自暴自棄のバンザイ突撃に最後まで反対し、冷徹な専守持久作戦で米軍に出血を強い続けた沖縄軍の八原高級参謀だけであったろう。