株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.76-78より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873
地方信仰の内容は、先祖が空から山頂に降って来た、ということであったにちがいない。第三のタチハヤヲの場合には、天孫降臨との関係が切れている。天から降って松の木に居た神が、その方へ向いて大小便をする近所の人々に祟る。そこで祭をして、近所迷惑だから山の方へ行ってくれと頼むと、納得して山上へ移った、という。この話は、祭(ここでは中央から専門家が来て祭をしたことにしている)の機能の一つが、祟りの統御にあったということを、示しているだろう。またこの種の神は、おそらく無数に居たであろうことを、その多くが天から降ったとされていたであろうことも、想像させるのである。あるいは祖先神として、あるいは祟りの神として、雨の如く、霰の如く、国中に降ってきた神々の多くは、降臨を天孫一本にしぼった「記」・「紀」の体系に組み込まれることで、ほろび、忘れ去られたのであろう。その体系以前を、「風土記」の記述は辛うじて窺わせるのである。
神々と係らぬ世俗的な伝説や民話は、「常陸国風土記」に多いが、「出雲国風土記」や「播磨国風土記」にも出ていて、その多くは地名の由来を説明するという形式で語られている。そこには儒・仏の影響がほとんどない。わずかに「播磨国風土記逸文」の浦嶋の話は、話の全体に蓬莱山という神仙思想の影響がみられる。しかし後述するように浦嶋の話は、話の全体が大陸に由来すると思われるから、一般に神仙思想の影響を誇張して考えることはできない。
「常陸国風土記」には、「くず」を征伐する話がある。そのなかでも、那賀の国造の祖というタケカシマノミコトが、城砦に拠って抵抗する「くず」を、七日七晩の歌舞によって誘い出し、出て来たところへ騎兵を放って、みな殺しにするという話は、大化改新以後権力の集中へ向かった王権のイデオロギーを反映しているだろう。「記」・「紀」においても、伝説的王は、手強い相手を、だまし討ちにすることに長けていた。しかしこのような征伐の話は、むしろ例外であって、「風土記」の伝説と民話の世界は、しばしば人間化した神を登場させながら、その神とさえも係りのない人間と身近な動物との小さな紛争や和解の話にみちている。
動物は、蛇、白鳥、鹿、兎、鮫などである。人間の女の生んだ蛇が長じて雷になったり(「常陸」、那賀郡)、白鳥が少女になったり(「常陸」、香島郡)、天女が白鳥になったりする(「近江」逸文。「帝王編年記」所引)。鹿(「豊後」、速水郡)や兎(「塵袋」第10所引の「因幡記」は、人間の言葉を喋る。羽衣を盗られた天女が人間になって地上に住み得ること(上記白鳥となった八人の天女のうちの一人)はいうまでもない。そのなかでも鮫に娘を食われた父親が、怒り、歎いて、神々に祈ると、1000匹以上の鮫が一匹の鮫をかもんで岸まで連れて来た、という話は、典型的である。
父親がその鮫を殺して割くと、娘の脛が出てくる(「出雲」、意宇郡)。神々の助けがなければ、父親は娘を食った鮫を発見して捉えることができなかったはずだろう。神々の介入は、他の多くの場合と同じように、話のすじの必要である。しかし話の迫力は、父親の怒りと歎きにあり、話の強い印象は、割かれた鮫の腹から出てきた女の脛である。親子の情と、感覚的な細部。「今昔物語」(本朝世俗篇)の徹底した現実主義が、まだここにあるわけではない。しかしそれは全く別の世界の話ではない。主人公の行動的な性格、状況の実際的な判断、全く人間的な感情、鮮明な感覚、-そしてその他の何ものも排除されているか、二次的な添物にすぎない世界が、すでに「風土記」のなかにはあった。
0 件のコメント:
コメントを投稿