2022年1月27日木曜日

20220127 岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻 pp.48-52より抜粋

岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻
pp.48-52より抜粋
ISBN-10 : 4006003919
ISBN-13 : 978-4006003913

著者は現在のところ。19世紀初めからの欧米キリスト教列強の世界進出は、一つの世界的システムを形成しながら遂行されたととらえており、それを「不平等条約世界体制」と呼ぶことにしている。

 この世界体制はフランス革命、ナポレオン戦争、イギリスを原動力とする産業革命の複雑な絡み合いの中から成立し、資本主義的大量生産商品の販路を全世界に求め拡大する資本(ただし金融資本は未成立の段階)の欲求の中から成立していった。進出する欧米キリスト教世界では、対等・平等な主権国家間の国際関係がつくられていたとはいえ、ロシアのツァーリ専制国家にしろ、プロイセン王国、オーストリア・ハンガリー帝国にしろ、今日我々が国民国家という名称で安易に、一括してイメージするには相当異質な諸国家も含みこんだ複雑な国際関係がそこには存在していたのである。

 この欧米キリスト教列強が非キリスト教世界に外交と軍事を武器に進出し、商品の販売と資本の投資、現地生産物の安価購入を可能にするためには、非キリスト教世界に適用されるべき国際的な法体制がつくりあげられなければならなかった。

 その第一が治外法権である。欧米主権国家が自国民支配の法的枠組みを、非キリスト教国家の内部にそのままそっくり持ち込むことであり、持ち込まれた場、すなわち居留地においては非キリスト教国家の国家主権が否定される。当然、領事裁判権が行使されるとともに、この居留地を根拠地として、外国人商人の内地自由旅行権と内地での商業活動の自由、キリスト教内地布教の権利等々が相手国にさらに次々と要求されていくのである。

 第二が協定低率関税である。主権国家においては関税を設け、その輸出入税額を決定することは、国家主権行為の最も重要な構成要素でありつづけた。しかし非キリスト教世界に対する商品市場の開放要求は、非常に多くの場合、軍事力か軍事力を背景とした外交交渉においてしか実現されえない。この際の通商条約締結時、関税率が双方の協議の中で決定され、特に敗戦の結果の通商条約においては低い関税率が押し付けられる。明白な国家主権の侵犯である。

 第三が片務的最恵国条款の挿入である。治外法権と協定関税を骨子とする条約締結の際、欧米諸国がこの条款を挿入することにより、相手国にその後認める特権条款を、自国側のなんらの譲歩もなしに自動的に自国に均霑させる権利を獲得することとなる。この条款は、非キリスト教世界に適用させられる時、きわめて強力な威力を発揮するのである。

 この不平等条約世界体制はキリスト教世界とイスラム世界の古くからの接触地オスマン帝国を起源としているカピチュレーション(capitulation)とよばれるものである。最盛期のオスマン帝国は17世紀にはウィーン攻略寸前の状況(1683年)をつくり出すほどの勢力を誇り、キリスト教地域であったバルカン地域をも帝国内に包み込み、帝国内のキリスト教徒を二等国民とし、正式の帝国臣民たるイスラム教徒と差別した支配体制をつくっていった。

 他方、西洋との交易をおこなう必要から、帝国内に来航し、商業を営む諸国との間に、カピチュレーションとよばれる協定を締結していった。フランスとは早くも1535年に結んでおり、オランダとは1680年に締結している。本来的にオスマン帝国側からの特恵的条約であり、いつでも帝国側から停止し廃棄可能なものとされていた。

 注意すべきことは、カピチュレーションの締結主体である。1675年にイギリスはこの条約を結ぶが、その主体はレヴァント会社という貿易会社なのである。同会社はインドでの東印度会社と同様、重商主義段階特有の特徴をもった独占会社であり、法的権限をイギリス王国から賦与され、オスマン帝国貿易に関する全権を保持し、紛争に備え各地・各港に領事を置き、貿易をおこなうすべての英国商船から税金を徴収する権限を有していた。

 オスマン帝国がレヴァント会社と結んだカピチュレーションは、①英国人同士の争いと事件には帝国は介入しない、②英国人と他のキリスト教国民との争いと事件は帝国法廷が裁く、③英国人と帝国臣民との争いと事件は帝国法廷が裁く、と述べ、その第42条に、②③の場合、英国公使あるいは領事はその裁判の場に出席し、審理を聞きともに決定する、としていた。ただし、英文では”They shall hear and decide it together"となっている箇所は、トルコ語テキストでは単に「イスチマ」(「聞く」の意味)となっていたため、両者間の力関係に応じて裁判のあり方は大きく変化する。とりわけ英国人がイスラム教徒のトルコ人殺害ないし重傷を負わせたケースは微妙となった。オスマン帝国の勢力が衰えてくると、イギリス側は訴訟手続き・証拠法・判決の量刑等すべてにわたって英国法システムに従っておこなわれない場合には反対を強く主張するようになってくる。

 イギリスにおいて産業革命が展開し、商業資本家が階級として成立する中で自由主義イデオロギーが確立していった。この思想は一方で自己認識として文明対未開、あるいは文明国対半開国(semi-civilized country)という他者・自者の対立関係軸を創り出すとともに、他方で自由貿易のための独占を廃止すべきだ、との主張を生み出していった。1825年、レヴァント会社は廃止され、オスマン帝国貿易の独占権が消滅し、同会社のカピチュレーションはイギリス王国はそのまま継承され、同時に同会社の領事システムは、イギリス外務省の在外官吏体系の中に編入されることとなった。

 ところで、この領事システムは欧米列強の進出に不可欠なものであったことは留意してよいことである。不断に発生する貿易上の紛争を裁き、在留邦人をはじめとする自国民の保護に当たる領事・総領事とその体制が創られる過程でこそ、商品の大量で安定した販売が実現されていく、商品の安価さだけで単一の資本主義世界市場が形成されたわけでは決してないのである。

2022年1月26日水曜日

20220125 1600記事から現在に至るまでの進捗から思ったこと

当記事を含めて、あと3記事の投稿により当面の目標としていた1700記事に到達します。また同時に、特に無理をすることなく、今月内での達成が可能であるとも思われます。しかしながら、こうした状況から気が緩んだのか、あるいは、季節によるものであるのか、ここ数日間は、あまり記事作成への意欲が湧いてきません。他方で、これまでの経験から、そうした状況においては、無理にでも記事作成を始めることにより、概ね解決できると知っているつもりでしたが、この「無理にでも記事作成を始める」がどうも困難に感じられるのが昨今の状況であると云えます。

とはいえ、そうしたこと自体を記事題材として作成してみますと、どうやらこの程度までは書き進めることが出来ていますので、やはり、さきの方法にて、こうした不調はある程度まで解決することが出来るのかもしれません・・。

そういえば、かつての1000記事到達以前は、上記のようなことをあまり考えずにブログ記事作成を(ほぼ)毎日のルーティンとしていましたが、そこから1000記事の到達、さらにまた700記事近く追加した状況になりますと、さきの初心、あるいはストイックさといった「心の構え」は変わってくると云えるのかもしれません・・。こうした、ある程度の期間にわたる「心の構え」の変容には、何か普遍的なモデルがあるのか不明ではありますが、それでもこれは、ここまで(どうにか)続けることが出来ていることから、さきの「変容」なども作成者からしますと、決して愉快なものではありませんが、実感として理解することが出来るのだと云えます。

現在の目標である1700記事の到達以前の目標であった1600記事は、去る2021年8月2日に到達していましたが、そこから、ほぼ6カ月、半年後に100記事追加したことになり、また概ね2日に1記事を投稿してきたことになりますので、さらに以前の1500記事から1600までの100記事は、概ね4カ月にて達成していましたので、その期間は大体6日のうち5日は新規投稿を行ってきたことになります。

そのように考えますと、やはり以前と比べますと、さきの「愉快ではない変容」をあらためて知らされることになります・・。そして、後日、1700記事に到達して、次に1800記事まで作成することを目標とするのであれば、それは、さきの6カ月、半年以上の期間を要することになるのでしょうか・・しかし、そうであれば、当ブログ開始丸7年となる今年の6月22日までの到達は困難になるものと思われます・・。

しかしながら、目前の1700記事まで(どうにか)到達することが出来ましたら、さすがにしばらくの期間、当ブログから離れて休みたいとと考えているのですが・・。さて、どうなるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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2022年1月23日日曜日

20220122 親戚の師匠について思い出されたこと

これまでの投稿記事に何度か出てきました「当時、松山市在住であった親戚(故人)」は、私がホテル会社(三井観光開発株式会社)にいた頃より、勤務先であったそれぞれのホテルに宿泊して頂き、またその後、和歌山にて人文系の大学院生となった時も、関西方面にて開催された学会の際に和歌山まで足を延ばしてくださいました。

そして当時、私が住んでいたアパートにも来て頂き、室内のデスクおよび、その周辺に積まれた書籍を見て、いくつかを手に取り「いやあ、これは面白そうだね・・。」とか、積んであったいくつかの書籍の内容について質問をされましたが、その返答の様子から、いくらか納得されたのか、あるいは、この危なっかしい甥がどうやら、そこまで怠けることもなく書籍を読み、何やら考えている様を知り安心されたのか、修論のテーマなどについて、いくつかの質問をされた後「わかった。まあ首尾よくいくことを願っているよ。頑張りなさい。」と宣われ、そこからアパートを出立し、私の運転にて次の目的地である高野山に向かいました。

その後、無事に修士課程を修了し、実家に戻り、すぐに親戚宅に報告のために訪ねますと、ご自宅近くの飲み屋に連れて行ってくださり、お酒を飲みつつ「いやあ、本当に良かった。」と実家の家族よりも喜んでくださいました。この喜び様は、社交辞令的なものではなかったようであり、その後、何か機会がある際には度々自宅に呼んでくださるようになりました。

そして、そこから2年後の2009年、歯科技工専門学校を出て、鹿児島に移り住んでからは、先日投稿のブログ記事にて書きました柳川市にて開催された夏季勉強会後の松山訪問の際と、同年11月に兄が亡くなり、その葬式のために帰郷した際にお目に掛かってからは、しばらくお目に掛かる機会はありませんでした。しかし、電話やメールなどでは連絡を取り続け、とりわけ翌2010年に歯科理工学の師匠が退職されることになってからは、不安からか色々と連絡を取っていた記憶があります・・。

その後、この親戚と実際にお会いしたのは、2011年の2度めの松山市訪問の際であり、この時のことにつきましては、またあらためてブログ記事にしたいと考えていますが、そこから更に2年後、2013年9月に(どうにか)学位取得にまで至り、帰郷してからの報告の際には、2010年の出来事(歯科理工学の師匠の退職)の際に愚痴や不満などをぶつけたこともあってか、以前、2007年の修士課程修了の際よりもさらに喜んでくださり、少し泣かれていたと記憶しています・・。

また、2013年に帰郷してからは、市川市内にてアルバイトをしつつ、実家クリニックに隣接するアパートの部屋を利用したクリニックの書庫兼倉庫にて、しばらく暮らしていましたが、その頃、親戚宅のマンションの階下の部屋が丁度空き、また同時に親戚の体調が徐々に思わしくない方へ行っていたことから「何かあった時のために」と、私に階下の空いた部屋にしばらく住むことを提案され、そこからしばらくここに住まわせて頂きましたが、この時は、階下ということもあり、それまでで最も頻繁にお目に掛かる機会がありました。

それは、一緒に食事をとり、しばし雑談をするといったものでしたが、その時の会話は何故か印象的なものが多く、それらのうちのいくつかは、多少形を変え、当ブログ初期の対話形式の記事となっています・・。

また、不思議なもので、こうしたことをブログ記事として作成していますと、また他の記憶が想起されてきましたが、それらにつきましては、また後日、当記事を一つの材料、要素として作成してみたいと思います。

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2022年1月22日土曜日

20220121 ブログ記事作成時の新たな試みについて・・

当ブログ開始の頃から、概ね周囲の物音を静かにして記事作成を行ってきました。また、これまでに何度か、音楽をかけながらの作成を試みたことがありましたが、そうした環境下では、どうも上手く記事作成が進みません。そのため「記事作成時は、出来るだけ静かにしておいた方が良いのだろう。」と思うに至り、冒頭に述べた状況にて記事作成を行うのが通常となっています。

他方で先日、歯科理工学の師匠との会話にて「わしゃ、ラジオを聴きながら色々書いとるで、この「ながら」の方がええんや・・」と仰られたことから、気になり、また自分なりにこれを理解しようと試み、今回作成の記事では、背景にニュース解説動画の音声を流しています。

案の定、こうした環境下での記事作成は、不慣れであることから、その進み具合は、普段と比べいくらか遅いと云えますが、しかしながら、この程度まで進みますと、背景音声も当初と比べ、あまり気にならなくなるようであり「もうしばらく、これで作成し続けてみよう・・」と思うに至りました。

また他方で、以前に視聴した手塚治虫の日常や漫画作成過程を特集した番組の動画では、作成する漫画のテーマに合わせた音楽を流したり、放映されているテレビ番組を観ながら漫画作成を行っている様子が映されていましたが、これを観て「文章と漫画との違いはあるが、この様にして創作活動が出来ることはスゴイな・・」と思い、そして、これがさきに述べた師匠との会話の記憶に結節したと云えます。

そこから、このあたりまでどうにか作成していますと、背景の動画音声が終わりましたので「さて、次は何か音楽でも・・」と思い、そこで不図想起された昨日ツイッターにて投稿したモーリス・ラヴェルによる「ボレロ」を流してみることにしました。

さて、ここからの文章では作成する背景に「ボレロ」が流れてから既に4分ほど経過しています。

そのように考えてみますと、さきのニュース解説動画が30分ほどであり、また、現在流れている「ボレロ」は17.5分程の動画であることから、50分に至らずに、この程度までブログ記事を作成することが出来たことが明らかになりましたが、面白いことに、このことを認識した時には、冒頭の「静かな方が記事作成には良いのでは」は既に意識上になく、文章全体の整理のために冒頭文章を読んで気が付かされました。

そうしますと「記事作成時は静かな方が良い」はおそらく「当初の感覚にのみ」基づく感覚であると云え、背景音声によって、当初はあまり気が進まずとも、構わずに続けていますと案外と、この程度までは(どうにか)作成することが出来ることが分かりました・・。

今後、この作成方法が恒常的なものになるかは、未だ不明ではありますが、今しばらく、この体験を楽しんでみようと思います。

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2022年1月20日木曜日

20220120 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「民衆政治家・大隈重信」pp.74-78より抜粋

 岩波書店刊 岡義武著「近代日本の政治家」内「民衆政治家・大隈重信」pp.74-78より抜粋

ISBN-10 : 4003812654
ISBN-13 : 978-4003812655

大隈は天保9年(1838年)2月佐賀に生まれた。その家格は上士であった。肥前藩の藩校・弘道館で経書を学び、のち藩の蘭学寮において蘭学を勉強し、その後長崎で英学を修めた。そして、これら洋学の勉学にあたっては、とりわけ大砲・築城など軍事方面のことに力を注いだ。

彼ははじめ尊攘思想を抱いていたが、蘭学の修行、長崎への往来、西洋兵制の勉強などの結果、開国論者になった。生来覇気にもえていた若き大隈は、めまぐるしい幕末動乱の政局に肥前藩を登場させようとして、実に焦慮した。しかし、藩主・鍋島直正(閑叟)は公武合体の立場に立ち、終始自重的態度を持して動かず、変革の過程は、大隈の焦燥をよそに肥前藩とは関係なく薩長両藩を中心として進展して、ついに明治維新となった。

 慶応4年(1868年)3月、大隈は参与・外国事務局判事に任じられて、長崎在勤を命ぜられ、こうして彼は明治新政府に仕えることになった。ついで、官命によって京都に赴くが、それは当時外交上の大問題となっていた浦上切支丹宗徒処分問題について外国側との交渉の局に当たるためであった。30歳を越えたばかりの若き大隈は、この折衝においてイギリス公使パークス(sir H. Parkes)に単独で立ち向い、烈しい論争を交えて屈せず、その縦横の才略と毅然たる態度とは、新政府要路のひとびとに大隈の存在を強く印象づけることになった。そもそも維新の主たる推進力は薩長二藩であった関係から、明治新政府においては周知のようにこの両藩の出身者が巨大な勢力を擁してわが世の春を謳歌することになった。これに対して、維新の変革を無為の中に傍観した肥前藩出身者の肩身は甚だ狭く、大隈の前途も亦、おのずから光明に乏しいものにみえた。けれども、浦上問題についてのこの折衝を糸口として、「運命の星」は彼の上に光を投げかけることになった。

 同じ年の12月外国官副知事に任じられたが、その彼は贋造貨幣問題というこれ亦当時の外交上の難問題について外国側と交渉を試みることになった。そして、その問題は財政と深く関連することもあって、会計官副知事も兼任した。彼が財政に関係したのは、実にこのときからである。大隈は後年に回顧して、当時の自分は財政のことには「真個の門外漢」であったが、外交との関係上やむを得ず財政に手を染めることになった。と語っている。臨機に策を立てて果断、決行する性格の彼はやがて財政の根本的立直しを企てるとともに、外国側と交渉を重ねて、幣制度早急の改革を約束して、ついに局面を収拾した。大隈は明治2年4月から会計官副知事専任となった。

 明治3年には参議兼大蔵大輔となった。このとき参議に列していたのは、大久保利通(薩摩藩)、木戸孝允(長州藩)、広沢真臣(同)、佐々木高行(土佐藩)、斎藤利行(同)であった。それ故に、維新の変革にあたって活躍することのなかった藩の出身で参議になったのは、当時は大隈ただ一人であった。この異例の昇進は何に因るか。それは外交・財政が国政の重要な分野でありながらもその処理には本来特殊の能力・知識を必要とし、曽ての「尊攘の志士」たちの必ずしも得意としない特殊の領域であった。そのような分野で、大隈が機略・闘志をもって難局に当り、臨機・迅速な解決を与えたことに原因する。当時木戸は大隈のこの才略を「義弘、村正の名剣」に喩えた。

 明治6年予算編成問題で時の大蔵大輔井上馨が辞職すると、大隈は大蔵省事務総裁を兼任することになり、困難な予算の編成を達成して、その手腕を示した。ついで、同年征韓論争で西郷隆盛以下の征韓派諸参議が連袂辞職したあと、政府の陣容立直しが行われ、その結果、彼は大久保のあとを襲って参議兼大蔵卿に就任した。そして、大久保は爾後参議兼内務卿として岩倉具視(右大臣)の下で政府の中核となるが、大隈は伊藤博文とともに大久保の羽翼として彼を補佐することになった。なお、伊藤はこの政府再建の際に工部大輔から参議兼工部卿に昇任したのであった。大隈は、このように新政府内に次第にその地歩を築いた。但し、それにもかかわらず、枢機は岩倉具視、三条実美(太政大臣)を別とすれば依然として薩長出身者の手に掌握されていた。それ故に、陸奥宗光が指摘したように、廃藩置県、征韓論争、大阪会議など新政府が当面した重要段階においては大隈はつねに単に第二義的な役割を演じるに止まるか、又は局外に置かれたのであった。

明治10年に西南戦争が勃発すると、大蔵卿たる彼は財政困難の中で不換紙幣の発行に訴えて戦費の調達を行い、その才幹を大いに評価された。ところで、この西南戦争下において木戸孝允は歿したが、翌11年には大久保利通が紀尾井坂の変に倒れた。そうなったとき、大隈の前途ははからずもここに大きくひらけた形になった。もはや上から彼を制御するものはなくなり、且つ彼は今や参議首席ということになった。大隈は伊藤とともに政府の中枢を形づくるにいたったのである。明治11年には彼は41歳であった。


2022年1月18日火曜日

20220118 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.143‐147

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.143‐147

江戸幕府が日米和親条約を締結し、200年以上もつづいた鎖国が終わった1854年からの14年間は、日本の歴史のなかでの激動の時代だった。むりやり開国させられた結果生じたさまざまな問題に、江戸幕府はどうにか対処しようとした。だが、最終的に徳川将軍家はその対処に失敗する。開国が引き金となった日本社会や江戸幕府の変化は、もはや止めようがなかったのだ。それらの変化は今度は、国内の対抗勢力による討幕につながっていき、さらにその対抗勢力によってたてられた新政府のもと、広範囲にわたる変化が起った。

 日米和親情弱と、イギリス、ロシア、オランダが結んだ同様の条約では、日本との貿易をはじめるという西洋諸国の目的はかなえられていない。その初代アメリカ総領事が公称をし、より広範な条項を含む日米修好通商条約を1858年に締結した。この条約には貿易に関する条項がしっかり入っていた。今回もアメリカとの条約締結につづいて、イギリス、フランス、ロシア、オランダとの類似の条約が締結された。やがて日本国内では、これらの条約が屈辱的だとみなされるようになり、「不平等条約」と呼ばれるようになった。そこには、日本は西洋列強諸国のような扱いを受ける価値がない、という西洋諸国の意識が具現化されていたからである。たとえば、西洋諸国に領事裁判権が認められておち、西洋人は日本で裁かれなかった。つぎの半世紀の日本の政策の最優先目標は、この不平等条約を改正することとなった。

 1858年当時の日本の軍隊はまだ脆弱で、この目標を達成できるのは、はるか未来のことのように思われた。そこで江戸幕府はもっと控えめな中間目標を設定する。それは西洋人による介入、その思想の侵入や影響を最小限に食い止めることだった。その目標を達成するために、日本は、その条約を遵守する姿勢をみせつつ、実際はじりじりと先延ばししたり、合意内容を一方的に変えたり、西洋人が日本の地名をあやふやに覚えていることを利用したり、西洋各国を競わせたりしていた。1858年に各国と結んだ条約では、日本は貿易をおこなえる「条約港」を5港に限定させることと、外国人の居住や外出を港の周辺地区に制限し、その範囲を超えた移動の禁止に成功する。

 時間稼ぎが、1854年以降の江戸幕府の基本戦略だった。これは、西洋列強を(できるだけ少ない譲歩で)満足させつつ、西洋の知識、設備、技術を手に入れ、軍事力と軍事力以外の国力を増強し、できるだけ早い時期に西洋列強に抵抗できる能力を身に着けるためだ。幕府と、薩摩藩や長州藩などの有力諸藩は、西洋の船舶や大砲を購入して軍の近代化を図り、欧米に留学生を派遣した。学生たちは、西洋の航海術や造船、工業、土木、科学技術といった実際的な学問ばかりでなく、西洋の法律、言語、憲法、経済、政治学、文字なども学んだ。幕府は、蕃書和解御用を発展させて蕃書調所を設立して、西洋の書物を翻訳したり、英語の文法書や辞書の制作を援助したりした。

 このように幕府と有力大名は力を蓄えていったが、西洋人との接触により、日本国内ではさまざまな問題が生じつつあった。幕府も薩長も、武器の購入や留学生の派遣にともなう出費のため、外国人から多額の借金をしていた。物価が上昇し、生活費を圧迫する。幕府は独占的に外国との貿易をおこなおうとしていたが、それに反対する武士や商人も多かった。一度目のペリー来航の際に対応をめぐって幕府から下問を受けた諸大名のなかには、これまでのように幕府がすべてを決めるのではなく、もっと諸大名が国の政策や計画策定にかかわるべきだと思うようになった者もいた。西洋列強と交渉し、条約を結んだのは幕府だったが、条約に反する行動をとる諸大名を抑え込むことができなくなっていた。

 その結果、各所で衝突が起こった。まず西洋列強と日本のあいだに、開国の規模をめぐる争いが起きていた。西洋列強は、より開国を促進したかったし、日本の多数派意見は、出来るだけ開国を小規模に抑えることだった。昔から幕府に敵対心を持っていた薩長は討幕姿勢を鮮明化させ、西洋の装備や軍事知識を取り入れ、薩長同盟を結んで幕府と争った。大名同士の争いも増えた。本来朝廷の意に沿って行動することになっている幕府と、名目上の国主だった天皇とのあいだにまで対立が起った。たとえば、朝廷は日米修好通商条約の内容に勅許を与えなかったが、幕府はそのまま条約を調印してしまったのだ。

 日本国内でもっとも先鋭化したのは、日本の基本的戦略におけるジレンマをめぐる対立だった。今、外国人に抵抗し、排斥すべきか?それとも、日本がもっと国力を充実させてからにするべきか?幕府による不平等条約の調印は、日本国内に反発を引き起こした。日本を侮辱した外国人への怒り、日本が侮辱されるのは許した将軍や諸大名への怒りに火をつけたのだ。1859年頃はすでに、一途な若い武士たちが、怒りに駆られ血気にはやって刀をひっさげ、外国人を追い出すために、暗殺を繰り返すようになっていた。彼らは「志士」と呼ばれるようになる。彼らは、自分たちが伝統的な日本の価値観だと信じるものに訴え、自分たちは年寄りの政治家たちよりも倫理的に優れた存在だと考えていた。

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻
ISBN-10: 4532176794ISBN-13: 978-4532176792

2022年1月17日月曜日

20220116 新年に入りしばらく経ちましたが「今年の目標について」

先ずはじめに、過日発生の南太平洋トンガ沖での海底火山大噴火の影響による、津波からの各地の被害が出来るだけ軽微であることを願っています。

さて、年があらたまり、早や2週間以上経過しましたが、特に心が躍るようなニュースもなく、また、2020年初頭以来の新型コロナ禍は引き続き、私見としては、新春の晴れ晴れしさは乏しく、欝々とした日々が続いているように思われます・・。他方、当ブログは、残り当記事を含めて8記事の投稿により、当面の目標としている1700記事に到達することが出来ます。そして、1000記事を折り返し地点として、この程度まで継続することが出来たことは、私としては驚くべきことであり、もちろん、自分の努力のみに帰するものとは思いませんが「多少は頑張った」と云えるのではないかとも思われます。

あるいは、以前のキリの良い1500記事にて止めておいた方が良かったのではないかと思うことも、未だ度々ありますが、このあたりにまで(どうにか)至りますと、目前とも云える1700記事到達の次にある1800記事まで(どうにか)継続することが出来るのではないかと、ある程度現実的に認識出来るのかと思いきや、1800記事への到達に関しては、現実感は皆無と云え、あるいは、今後さらに3カ月ほど継続し、1750記事あたりにまで到達出来れば、また異なった観念的視野がひらけるのではないかといった、いわば希望的観測をボンヤリと持っているのが実状と云えます・・。

そして、視点を当ブログから転じて、今後、そして今年の目標について考えてみますと、もちろん「新型コロナ禍が多少落着いてから」という前提に基づいてではありますが、鹿児島と和歌山へ訪問してみたいと考えています。また、ここ数年間閲覧することがなかったJREC-INや他の求人サイトなどで週2日程度のパート・タイムの職を見つけて応募したいとも考えています。そして、その具体的な内容とは、さきの鹿児島、和歌山への訪問の願望とも被りますが、定期的にそうした西南日本地域への訪問を要し、職務内容は、それら地域にある複数大学での新たな面白い取組みを取材し、記事としてネット上にて発信するといったものを考えています。こうしたことは既にどなたかが事業として行っているのかもしれませんが、定期的に首都圏からの他者が訪問し、取材をして記事を作成するというスタイルは、あまり多くはないと思われます。

しかし、もう少し考えてみますと、こうしたことは、わざわざそうした職に就かなくとも、大学への理解と学識があり、そうしたことに興味を持っているほかの方々との連携によっても、何かしら出来るのではないかとも思われてきました・・。

また、そうしますと、その分野は私の場合、歯科医療分野に限定されがちとなりますが、しかし、近年、多職種連携が積極的に実践されつつあると云える歯科医療分野において、私のような歯科医療分野に多少縁があり、且つ専門分野的には、海のものとも山のものともつかない人間を情報発信のインター・フェイスとして用いてみるのは、それなりに時宜に適っているのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?そして、そうであれば、ハナシは冒頭に戻り、これまで(どうにか)継続してきました当ブログにも、何かしら付加的な意味を見出すことも出来るのではないかとも思われる次第です・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

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