2021年10月8日金曜日

20211008 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 pp.244-246より抜粋

 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻

pp.244-246より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4334733433
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334733438

われわれは、教育期間中に数回、堀江隊長の精神訓話を聞かされた。その精神訓話は、すべて「勅諭」の無味乾燥な祖述、月なみな忠君愛国説話であった。「一つの誠心」という語句が、たいそう彼の気に入っていて、精神訓話のおりにも、そのほかのおりにも、彼は、バカの一つ覚えのようにその語句を反復力説していた。この「一つの誠心」の出典もまた「勅諭」であって、そこには「右の五カ条ハ軍人たらんもの暫も忽にすべからず。さてこれを行ハむには一つの誠心こそ大切なれ。抑此五カ条ハ我軍人の精神にして一つの誠心ハ五カ条の精神なり。」と書かれていた。

 ある日の精神訓話中、めずらしいことに堀江隊長は、「君がためいのち死にきと世の人に語り継ぎてよ峯の松風」という和歌一首を感慨無量の朗詠調で引用してから、「この歌を作ったのは誰か。答えられる兵は、手を挙げよ。」と求めた。しばらく誰も手を挙げなかったが、さらに堀江隊長が「誰もおらないのか。誰かおるだろう?」とうながしたあと、やがて谷村「帝大出」二等兵が、名告り出て、「「万葉集」の大伴家持であります」と臆面もなく言明し、堀江隊長は、「む、そのとおり「万葉集」、尊王攘夷の忠臣の歌じゃ。」とこれまた臆面もなく谷村の答えを確認した。幕末の一志士が残したその短歌に多少の愛着を持っていた私は、ひとしお彼らの問答が愉快でなかった。

 こういうふうに、堀江隊長の精神訓話は、くだらなかった。しかし、ただ一つだけ、第一回の精神訓話において、彼が開口一番「軍人は死してのち「おのれ」である」と引導を渡すように断定したのを、私は肝に銘じた。彼は、その後の精神訓話時にも何度かおなじ言葉を口に出したけれども、それに直接の注釈を加えようとはしなかった。私は、彼の低級陳腐な精神訓話一般中で特別例外的に神妙独自なその警句の意味をあれこれと思案し、結局それを「没我」とか「滅私」とかにかかわらせて解釈した。・・・(義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。」とは「勅諭」の説くところである。軍人には「私」も「おのれ」も存在するべきではない、軍人は死んでのち初めて「自己」を問題にすることができる、軍人は生きている限り滅私無欲の忠節を尽くさねばならない、-そういう内容に、彼は、「死してのち「おのれ」」という非凡な詩人表現を与えたのであろう。・・・私は、それでもまだちょっと変な気がしながらも、そのように無理納得をしていた。

 私は長い間だまされていたのであった。そのうち私は、堀江隊長がわれわれ以前の入隊兵たちにも年来その文句を授けてきたという事実を(神山、村崎その他から)おいおい聞き知ってもいた。ところが、教育期間の後半、三月二日(月曜)の精神訓話時に、堀江隊長は、その警抜な金言をみずから訂正した。「いつぞや隊長が「軍人は死してのち「おのれ」である。」といったのは隊長のあやまりであったから、ここに訂正する。あれは「軍人は死してのちやむである。」と言うほうが正しい。いいか。」と堀江隊長は、いかめしく宣言したのである。堀江隊長は、ただ「死してのち已む。」ないし「死而後已。」の「已」を「己」と取り違えていたに過ぎなかったのである。かつて彼は、書物の中か何かで、その文句を見たのでもあったろうか(私は、「曾子曰ク、士ハ以テ弘毅ナラザルベカラズ、任重クシテ道遠シ、仁以テ己ガ任ト為ス、亦重カラズヤ、死シテ後已ム、亦遠カラズヤ。」を思い出したが、堀江隊長が「論語」を読んだ、とは私に信ぜられなかった)。その時期どういう内情が彼の長年の蒙を啓いたのか、私は知り得なかった。その無知無学の所産からまんまと一杯食わせられていた私自身も、なにしろ好い面の皮であったのであろう。

20211007 本日の書店での立読みと物色から思ったこと・・

10月に入り首都圏もさらに秋めいてきましたが、本日は久しぶりに都心の大型書店に出向き、しばし、立読みを伴う書籍の物色をしてきました。そうしたなか、偶然に面白そうな書籍を手に取り見つけた時は、現在でも気分が高揚するものであり、そしてまた、それは何と云いますか、その時の自分の心持ちによって(気分が高揚する)対象となる書籍の種類が変わることから、果てが見つからず、また、どうも飽きがこないようにも思われるのです・・。

ともあれ、考えてみますと、私はこの行動をこれまでに、どのくらいの期間続けてきたのでしょうか・・?それはおそらく、本格的に書籍を読むようになった大学院修士課程の頃からであると思われますので15年程度になると云えます。

そして、この行動はその後、何処に住んでいようとも、あまり変化することはなく、また、地域によっては、大規模書店に出向くことが、それなりの距離の散歩にもなっていたことから、この立読みを伴う書籍の物色は運動ともなって、心身の健康にも幾分かは寄与したのだと云えます。

くわえて、本日に関しては、スマートフォンを自宅に忘れて出て来てしまったため、久しぶりに、スマホの検索機能に頼らず、手にした書籍の情報を入手する必要性が生じましたが、大変面白いことに、検索機能に頼らず、自ら頁を広げ、その書籍の吟味をしている時の方が、得られる充実感は大きいと感じられました。

そういえば、当ブログをはじめた2015年の頃、私はスマホを所持しておらず、そしてまた、当ブログの過去の複数記事にて、スマホの危険性を述べていたことがありましたが、たしかにそれは、少なくとも全面的な間違いではなく、また、ある程度普遍的なことであるようにも思われました。そしてまた、その感覚を受けたあとに電車に乗り、車両内を眺めてみますと、目に付く乗客の半分程度がスマホ画面を見ていることに、ある種の驚きをもって気が付かされるのです・・。

とはいえ、おそらく、そうした機器をより多くの人が持つことによって、社会全体にとって有益なことも少なからず生じるとは思われるものの、他方で、さきの述べたような、ある種の情報の入手、および能動的な価値判断のもとになる「感覚」の知覚ついては、その機能を退化、減衰させるような性質もまた、あるように思われるのです・・。

そうして、これまでのスマホを用いた書籍情報の入手の仕方が、それ以前と比べて安逸であり、あまり感覚に訴えないものになってしまっていたことを悟るわけですが、それでも、今後もやはり、必要であれば、スマホの機能を用いるものと思われます。しかし、その頻度などを意識して出来るだけ変えて行きたいとも思いました。我々には、ある道具の使用法に慣れますと、それに馴染んでやがては始終使うようになるといった性質(福沢諭吉の云う「惑溺」にも近いものであるのでしょうか?)もあると思われますので、こうしたことをあらためて考えることにも意味があるのではないかと思われました。

しかし、以前にスマホの危険性を述べておきながら、その本人が数年後には、そうした状態に普通に浸かっていることは、恐ろしくもありますが、同時に何だか滑稽にも思われます・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





















2021年10月5日火曜日

20211004 これまで続いたブログ記事作成について思ったこと

仕事を終えてからすぐに犬の散歩に出かけ、その帰りに食材を購入し、帰宅し、夕食をつくり食べますと、大体20:30は過ぎていることが多いようです。そして、一休みしてから記事作成を始めようとしますと、面白いことに、日中に思い付いたことや散歩の途中にて考えていたことが、あたかも逃げ水のように消えてしまっているのです・・(苦笑)。

しかし、少し以前に気が付いたのですが、それは、精確には単に消えているのではなく、未だPCのキーボード操作によって文章化出来るにまでには至っていない状態であると思われるのです。

これは、当ブログの継続を通じて分かるようになってきたことであり、また、ブログ記事であれ、こうした文章の作成のためには、その土台として、より多くの関連する、あるいは類似した主題の文章を作成する必要があり、それらの上に新たに作成された文章が置かれ、そして後に、その文章自体もまた、新たな土台の一部となっていくのです。

その意味で、これまで書籍からの引用、対話形式、そして独白形式など、いくつかの手法にて記事作成を行ってきましたが、それでも、未だに「自身の文体を確立した」という実感はなく、また、ツイッターにて他の方々による投稿を読み「これは敵わないな・・」と否応なく痛感させられることは多々あり、(今更ながら)自らの浅学菲才ぶりに落ち込むこともありますが、そうであっても、現在に至るまで、どうにか否定しないで済むことは、これまで6年以上にわたり、どうにか、1600記事程度の投稿をしてきたことであり、あるいは、これがなければ、端的に、私はどこかで、精神を病んでか、体を壊していたかで斃れていたと思われます・・。

また一方で、この6年間、生きるために、いくつかの仕事についてきましたが(失礼ながら)どれも私としては、そこまで熱心になれるものではなく、あるいは、現在に至って思うことは、既にその期間において、当ブログに熱心の軸足を置いていたのかもしれません・・。

しかし、その熱心の軸足を置いたブログは未だに収益化することが出来ておらず、時折お目に掛かる院の先輩に「そのあたり(収益化)のことをもう少し考えた方が良いよ・・」と、何度か、その話題に際して云われたことがありましたが、それはまさしく、その通りであると考えています・・。とはいえ、詳しくはわかりませんが、収益化の方法は少なくないと思われ、また今現在は、以前にも書いたとおり気力も充実していないことから、よりブログ実体の充実の方に軸足を置いていた方が良いと思われるのです。

また、それと同時に、現時点で収益化が出来ていなくとも、6年程度、毎日近く、公表を前提とした文章を作成していますと、紆余曲折があり、今現在もまた、良い状態ではありませんが、それでも、それが(どうにか)続いていることは、収益化以前にあると云える、精神衛生にとって、大きな意味を持っているのではないかと思われるのです・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。









2021年10月3日日曜日

20211002 既投稿記事をいくつかまとめたもの⑧

おかげさまで、今回の記事投稿により、総投稿記事数が1630に到達します。そして、あと残り70記事の投稿によって1700記事へと至るわけですが、これは、毎日記事作成・投稿をしたとしても2カ月以上を要し、現在の投頻度にて進めますと、おそらく、来年の1、2月頃に達成出来る見込みとなりますが、他方で以前から述べています通り、以前と比べて記事作成の意欲が湧かないことから、どうにかそれを免れつつも記事作成が出来る方法を考えていますが、そうした中、去る8月末頃、いくつかの既投稿記事をまとめて作成・投稿した記事が、比較的多い文量であったにも関わらず、自身作の記事としては多くの方々に読んで頂いたことには驚かされました。

また、投稿後に手直しなどをしつつ、当記事をあらためて眺めていますと、不図、自作文章と引用文とを示しつつ先に進める書き方は、以前に読んだ大西巨人による「神聖喜劇」という作品に、それがあったことが思い出されました。

この「神聖喜劇」は、和歌山在住期間の末頃に読みはじめ、その後、市川に戻り歯科技工専門学校に通っている頃にかけて読んでいた記憶があります。また、当ブログ記事にも「神聖喜劇」からの引用記事がいくつかありますが、しかし「当作品全てをまたあらためて精読にて通読しろ」と云われますと、それは不可能ではないと思われるものの、読了に至るまでは、かなりの時間を要するものと思われます。

また「日本人としての古今を通じた教養とはどのようなものか?」とお考えになる方がいらっしゃいましたら、試しに当作品を読まれてみますと、何やら、それらしきものは以前と比べ、分かるようになるのではないかとも思われます。

そういえば書店にて思ったことですが、昨今、題名に「教養」を冠する書籍が少なからず刊行されているようですが、本来、書籍とは題名に、その書籍の効能(たとえば「教養が身につく」など)を謳うようなものではなく、あるいは現在、そうした題名を冠する大半の書籍は、その効能については、疑問符がつくものが多いのではないかと思われます。そして、そうした中、さきの大西巨人による「神聖喜劇」は、我が国にて知名度が顕著に高いとまでは云えませんが、それでも、さきの「教養」については何かしら感知し得るものがあるように思われるのです・・。

くわえて、当作品がもしも英語をはじめ外国語に精確に翻訳されますと、より我々日本人のあまり諸外国に知られたくないような性質が明らかになってしまうといった危惧も生じてきますが、他方で、ある程度文化的な発展を遂げた国々においては、大抵、そうした種類の文学作品といったものがあるのかもしれません・・。何故ならば、そうした出版業界の様相こそが文化的な発展を担保する「自由」を象徴するとも見ることが出来るからです。

ともあれ、件の大西巨人による「神聖喜劇」ですが、その文章の書きぶりについて度々「似ている」と思ったのが夢野久作でしたが、では、それら双方にて類似・共通する特徴的な要素について考えてみますと、それは、我々人類が古くから変わらずに持ち続けていると内面では実感しつつも、同時に、それを表出することは、進化発展を遂げた現代の我々にとっては相応しくなく、あるいは躊躇されるような、恐ろしくも残忍な要素を敢えて描いていることであるように思われるのです。

そして、科学的ではありませんが、そこから思ったことは、あるいは、こうした要素を文章にて抉り出し、露見させたがるような性質とは、あるいは、九州北部御出身の文章表現者の中において、ある程度広く認められることであるのかもしれないということであり、また、たしかにそこに「何か」があるのだとしますと、それは、おそらく地域独特の口語、文語を含めた言語世界にあるのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。







2021年10月1日金曜日

20211001 既投稿記事をいくつかまとめたもの⑦

あるいは異言すると、鉄器文化のメソポタミア(両河地方)からの伝播が、青銅器文化よりも2000年ほど遅かったことから、我が国においては青銅、鉄器文化の双方が、ほぼ同時期(紀元前400年頃)に齎されたのだとも云える。

さて、紀元前400年頃(弥生時代前期末)のほぼ同時期に我が国に齎された青銅、鉄による金属文化は、その後、列島各地へと伝播していった。また、これら金属は、齎された当初から、その用途により使い分けられていた傾向が認められ、祭祀に用いる銅鐸、銅矛、銅戈、銅剣、銅鏡などの場合は主に青銅(成分比は変化する傾向があるが)が材料として用いられ、他方で実用的な武器や農工具に関しては鉄が用いられることが多かった。

しかしながら同時に、武器や農工具といった実用道具すべての材料を鉄としていたわけではなく、以前に述べた精錬・加工に用いる高温の炎を制御する技術が確立し、さらに、材料となる鉄が安定して供給されるようになるまでは青銅も材料として供されていた。

具体的には、1999年に和歌山県御坊市にて発掘された堅田遺跡にて紀元前200年代頃とされる青銅の溶融に用いた溶炉遺構、そしてヤリガンナの鋳型が、西日本各地、朝鮮半島系の様式を持つ土器、遺物類を伴い出土、発掘されたが、このヤリガンナは祭器ではなく実用道具と考えられ、また、同地域は、同時代の銅鐸祭祀文化圏に含まれていることから、その当時の社会様相の一端が理解出来るのではないかと思われる。

くわえて、以下に引用する記述からは、紀元前後の弥生時代中期当時に、青銅を用いた武器が実際に戦闘に用いられていたことが理解出来る。

「前線で戦死した巫女ーヤジリがささった頭骨」
「昭和25年(1950)の秋、長崎県平戸島の根獅子という所で発見された、弥生時代中期のはじめころの女性人骨は、頭骨のてっぺんに、銅の鏃がつきささっていた。
上から見ると、その折れ口が、長さ6.5ミリ、幅3ミリの、緑色の長い菱形を作り、その尖は頭骨の内面に達して、そこに小さな孔をのこしている。
レントゲンで透写すると、骨の中に埋もれているのは、鏃のさきの部分で、三角形に写り、その形や折れ口の形から、矢の全形もほぼわかった。
また、同じような銅鏃は、壱岐や北九州の弥生時代の遺跡から、他にも出土していることがわかった。
しかし、このように人骨につきささったままで、銅鏃が発見されたのは、これがはじめてだった。その時代には貴重品だったろうと想像されていた銅鏃が、このように実戦に使われていたことも、これでわかる。骨から推定すると、成年の女性で、上アゴの左右の犬歯、下アゴの切歯の全部が若いときに抜かれたあとがある。同じ所から出た他の人骨にも同様の抜歯のあとがあるから、風習的なものだということがわかる。この風習は縄文時代からあるが、日本の先史時代では、これが今まで知られているうちで、最も新しい時代の風習的抜歯である。鏃がささって損傷された部分には、頭骨の表面にも、わずかながら生前の変化があり、おそらく負傷後十数日は生きていたらしく、またおそらく、この傷のために起った、脳膜や脳の化膿性の炎症が原因で死亡したと思われる。しかし、女性がこのように鏃で負傷したということ、つまり、女性が戦場の前線にでたということは、どう解釈したらいいだろうか。いろいろの推理は成り立つが、しかし最もありそうな、そして最も興味ある推理は、この女性がこの地の小さい集団の中での統率者であり、いわば女酋長だっただろう、戦争ともなれば、全集団の先頭に立って敵に向っただろうという想像である。しかし、そのとき彼女が持ってでたのは、けっして刀や槍ー少なくとも実用目的のーではなかった。何であったかはわからないが、霊力あらたかな呪いの道具であったに違いない。武力よりもまず呪力で、戦争を有利に導こうというのが、当時一般の戦法であったのだろう。これは今からほぼ二千年前の、平戸島の内部で起った、地方的な小さな事変の犠牲者であるが、こうした呪力をもつ女酋長が、大集団を統治した例は「魏志」の倭人伝にあるヤマト国を支配した、有名な女王のヒミコや、その娘のイヨがある。
ヒミコは鬼道に従事するもの、すなわちマジシアンだと書かれている、これは三世紀のはじめごろの日本の国情を伝えた記録である。また、これに近いころ、女性の身で水軍を統率して、朝鮮に出兵したと伝えられる神功皇后の例にも、その匂いがある。皇后もそうした霊力をもつ女性として記録されている。「崇神紀」にはタケハニヤスビコの叛乱のとき、巫女であったその妻アタヒメが、一部の軍を率いて、帝京(みやこ)を襲わんとするが、大阪で戦死したことがみえる。また、神功皇后のころにも、またその前に景行天皇が九州を征伐したときにも、女土蜘蛛が九州各地、ことに肥前にはたくさんいたことが、「風土記」などにみえている。女土蜘蛛というのも、やはりこうした巫術でもって、部民を統率していた女酋長とみていい。これらの例からみると、それより少し以前の、肥前の平戸島に、こうした女酋長がいて、政治もやり、戦争も指導したということは、きわめてあり得ることである。しかし、それにしても、彼女らは戦場で自ら傷つくほどの、第一線の活躍をしたかどうか。だが、これにも例がある。琉球というところは、今でもそうした巫女の勢力が幾らかのこっている所だが、そこでは古い諺に「ウナグヤ、イクサノ、サキハイ(女や戦の先駆)というのがある。また現に明の弘治十三年(1500)、八重山のアカハチ(赤蜂)が叛いたとき、その討伐軍には、久米島の祝女キミハエ(君南風)という者が従軍して功を建てた有名な例がある。この戦争では叛軍のほうでもたくさんの巫女が戦死している。近年複製出版された寛元二年(1244)の漂流記「漂到琉球国記」には、この漂流船の乗員と一戦を交えようとして、小舟を艤して出動する琉球軍の活動がいきいきと描かれているが、弓や刀や盾を持った琉球戦士の中に、ただ一人、額に日蔭のかつらをつけ呪具とおぼしき飾りつきの矛をもった女性の、先頭とはいえないが、最も近景の舟上に立つ者が描かれている。この絵ははなはだ写実的で、祝女従軍の光景はこれで遺憾なくわかる。
銅鏃を頭に受けた平戸の女性は、このようにして戦った巫女の女酋長であったと推理する。」
「発掘より推理する」
ISBN-10: 4006031300
ISBN-13: 978-4006031305
金関丈夫

上掲引用文にて「銅の鏃」と記述されていたが、これは精確には「鏃」ではなく「銅戈」あるいは「銅剣」であるということであるが、何れにせよ、紀元前200年代の弥生時代の我が国ではさきに述べたように「青銅も実用的な道具の材料として供されていた」ことは理解出来るのではないかと思われる。

さて、他方の鉄については、2世紀頃の我が国(西日本)の様子を記述したとされる「魏志倭人伝」にて「倭人は朝鮮半島南部にて産する鉄を求めに来る」と記されており、そこから、2世紀当時の我が国における鉄とは、国内では求めることが出来ない貴重な材料であったことが理解出来、また、その後の古墳時代においても、特に初期、4世紀代の古墳には、材料段階である板状(鉄鋌)の鉄が、被葬者の権威、財を示す副葬品として北部九州~畿内の古墳においてに多く出土している。

そして、その後、6世紀代に至ると、半島経由で齎された製鉄技術が定着、一般化し、その道具としての使用は、さらに広汎に、そして一般的なものとなっていった。


鉄を農具の材料として用いることにより、それ以前よりも深く、そして広く土を耕すことが可能となり、また、武器として用いた場合、それ以前と比べ殺傷能力は向上し、また、その武器を多く装備したクニは、更なる版図の拡大を為し得たものと考えられる。

そこから、近畿にて成立したヤマト王権は、その当初において、朝鮮半島から齎される鉄材料のルートの占有・確保に腐心したものと考えられ、また、以前より朝鮮半島との交易ルートを持つ技術的な先進地域との間には、少なからず争いもあったものと考えられる。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2021年9月29日水曜日

20210928 既投稿記事をいくつかまとめたもの⑥

一般的に金属製品は鍛造・圧延・切削などの方法によって加工・成形されるが、材料である金属の本質である優れた機械的強度により、その加工等には、かなり多くの労力が必要とされる。また、金属加工開始当初の時代にあっては、複雑な形状を持つものを作成することは、極めて困難であったと思われる。

そして、この機械的強度が優れた金属を材料として所望の形状を付与することを可能にする技術が鋳造であり、鋳造においては金、銀、銅、鉄、亜鉛、錫、アルミニウムなどの金属を単独にて、あるいは、それら複数を合金化して用いる。人類が鋳造に用いた金属、合金として最も古いと考えられているのが銅、そして銅と錫の合金である青銅である。

鋳造の起源は紀元前3500~4000年の頃のメソポタミア(両河地方)にあると考えられている。青銅を加熱し、液相状態となったものを鋳型に鋳込むこの方法は、我々人類のモノづくりの歴史のなかでも、かなり古いものであり、また、その当時にあっては画期的な方法であったと云える。

そこから鋳造技術は時間をかけて東西へ伝播していった。西に位置する古代エジプトにおいては、紀元前2000年頃には定着しており、そして、東に位置する古代中国においては、殷、周の時代、紀元前1500年頃以降が青銅器時代とされている。

他方、世界史の区分にて青銅の次にくる「鉄」については、その融点・液相点が銅、青銅よりも相当に高いことから、精錬や加工に用いる炎を制御する技術が、その水準に発展するまでに時間を要し、さきの銅・青銅での鋳造発祥の地であるメソポタミア(両河地方)においては、紀元前1200年頃、またエジプトでは紀元前1100年頃、そして中国においては紀元前600年頃に鉄器時代へと移行したものと考えられている。

そして、さきの金属加工技術の発祥の地とされるメソポタミア(両河地方)やエジプトからすると、東の果てとも云える当時の日本列島では、国外最新の事物は、主に中国や朝鮮半島を経由して齎され、さきの青銅、鉄などの金属加工技術もまた、中国や朝鮮半島から、あるいは戦乱を避けるためであったのか、ともあれ波状的に我が国に齎されたものと思われる。

また、我が国での青銅や鉄による金属器文化の受容の様相も、さきに述べた我が国の地理的な事情から特徴的であり、遥か西域のメソポタミア(両河地方)において、かなりの時間差があり始まった青銅、鉄器文明が伝播し、そして我が国に齎されたのは、青銅と鉄、双方が、ほぼ時を同じくした紀元前400年頃であった。

すなわち、メソポタミア(両河地方)から日本列島まで青銅器文化が伝播するのに3000年ほどかかったが、鉄器文化の方は約1000年で同じ路程を踏破したのだと云える。
あるいは異言すると、鉄器文化のメソポタミア(両河地方)からの伝播が、青銅器文化のそれよりも2000年ほど遅かったことから、我が国においては青銅、鉄器文化の双方が、ほぼ同時代(紀元前400年頃)に齎されたのだとも云える。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。













2021年9月28日火曜日

20210928 記事作成のための「意欲」を支えるもの・・

徐々に季節も秋めいてきていますが、未だ私の記事作成意欲は湧いてきません。そこから、やはり今年中は当ブログのことをキレイに忘れた方が良いのではないかとも思われましたが、他方でSNS(ツイッター)の方をしばらく眺めていますと、どうしたわけか、半ば惰性のように、新たなブログ記事の作成をはじめているのです・・(苦笑)。

作成するのであれば作成する、しないのであればしないと、ハッキリと決めてしまえばよいのでしょうが、PC前に座り、記事作成に至るまでには、何やら、グダグダとはしつつも、どこかで記事作成を意識しており、やがて、機が熟してか、満を持してか、記事作成をはじめることが多いため、そう簡単に短時間で「作成する・しない」を決めてしまうのは、ある意味、勿体ないようにも思われるのです・・。

とはいえ、実際に、短時間で決めたり、あるいは、予めスケジュールを定め、それに沿って日々の記事作成「する・しない」を決めるのも効率的で良いと思われ、また実際に、以前はそのようにして作成していましたが、ある程度の期間、記事作成を続けて多少疲れているとも云える私からしますと、そうした過去を振り返り、現状、あるいは将来の記事作成に役立つ「何か」を見出そうとすることは、それなりに大事なことであるようにも思われるのです。

そう、はじめに、ある種の意欲のようなものがあってこそ、記憶は自然に想起されるのだと思われますが、その「はじめの意欲」がなかなか湧かないのです・・。あるいは、この意欲枯渇気味の状況とは、1000記事到達以降より徐々に減衰していった結果であるのかもしれませんが、そうであっても今後しばらくは記事作成を続け、1700記事まではどうにか到達したいと考えていますが、現時点では、未だ遠くに感じられます・・。

つまり、現在の私としては1700記事へもまだ遠く、さらに2000記事への到達などは、実感どころか想像すら出来ません・・。しかしまた一方で「2000記事まで作成すると何かが明確に以前と比べて変わるのかもない・・」といった興味もあり、これに関しては、以前に述べた「青臭い功名心」とは異なり、未だ、いくらかの好奇心が働くことが、こうして文章を作成しているさ中に気が付きました・・。とはいえ、これはあくまでも仮説であり、後刻、更に検証の必要がありますが・・。

また、そのように考えてみますと、ある程度の期間での継続的な活動の背景にある「意欲」もまた「青臭い功名心」や「自分の変化に対する興味」といった、単一ではなく複数の要素によって支えられているのではないかとも思われてきましたが、案外と、このあたりから考え直し、記事作成のための最適な自分を検討してみるのも悪くないのかもしれません・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。