2021年5月20日木曜日

20210519 株式会社平凡社刊 平凡社ライブラリー 白川静+梅原猛著「呪の思想」pp.131‐134より抜粋

株式会社平凡社刊 平凡社ライブラリー 白川静+梅原猛著「呪の思想」pp.131‐134より抜粋

ISBN-10 : 4582767338
ISBN-13 : 978-4582767339


梅原(猛)それから先生、孔子と孟子とは人間も思想も大分違うんでしょうか。

白川(静)うん、大分違う。これは時代環境が違うんですね。僕はやはり「思想」というものはね、社会的なものであって、それぞれの社会の中で理想を求めていく訳ですね。だから同じ「国家」というものを考えても、ギリシャの都市国家で考える「国家」と、中国のような広大な地域で、多民族でしかも分割されずに一緒くたに、ごった煮ですわな、そういう状態になっている、その中で「国家」を考えると、一品料理で考えるのと、料理の仕方が違うんですな。だから孔子なんかの場合、そういう歴史的伝統の中で考えている。しかし戦国期の思想家は、「天下」という。彼等は「国家」という言い方をしないんです。複数の国家を含んだ天下なんです。そういう中での秩序を考える訳ですから、全然基盤が違うんです。

梅原 私は孟子が「後車数十乗」を連ねて諸国を廻ったと、先生の本で初めて知りましたが、孔子みたいに失敗したのと大分違いますね。

白川 あれは一種の政治運動なんです。もし適当な待遇をしなければ、別の国へ行ってこっちの国の不利なところをみんなばらすとか何とか言ってね、策動するんです。だから一種の政治集団みたいなものですよ。そして諸国を巡遊するんです。戦国時代ですから。

梅原 あの時代はそういうのが多かった訳ですね。

白川 あの時代はまた国家にしてもね、すぐれた思想家を集めて文化力でやろうとか。例えば斉の国は都を臨淄(りんし)というんですが、鄒衍(すうえん)とか、荀子、韓非子など、当時の思想家は斉の都へ集まったんです。都城の西方に稷門という門があって、斉の学堂があった。その付近に高級な住宅を与えて、学問研究をさせるため良い待遇をした。そこで、この稷門に栄えた学問を「稷下学」という。その時代が、斉の国が文化的に天下を支配する力を持った時代なんです。だから当時の学者というのは、単なる研究者じゃない、学問は同時に政治力であり、文化力であった。そういう形で学者も研究するし、政治家も利用する、そういう時代であった。

孔子と墨子ー職能集団、葬送と技術

白川 ところが孔子の時代は思想はまだ萌芽的な状態でね、教団としての組織を持ったものは孔子がかろうじて作った儒教と、墨子集団と、この二つしかない。両方とも一種の社会階級的な性格を持った集団です。儒家というのは、葬式からお祭までを含めた、宗教的な行事を担当する伝統を持った階層であった。墨子の方は、「墨」というのは入れ墨という意味ですがね、入れ墨を入れた受刑者がね、当時は罪というのは神に対する穢れであるという考え方であって、受刑者は神の徒隷として、神をお祀りする場所に奉仕させた。そこで色んな仕事をさせる訳ですね。だから墨子というのはね、あなたの言う、「ものつくり」として、兵器も造るし、城壁も造る。中国の城は大きな城壁を持っていますから、城を攻撃する雲梯という何段階にもなる梯子が要る。今の起重機みたいに、するすると伸びて城壁を越したり潰したりする機械を造る。

梅原 技術屋ですね。

白川 技術集団です。それが周王朝が滅びると雇ってくれる人がいませんから、独立して諸国を廻る訳です。「我々はこの城を潰すことが出来ますよ」とやる訳やね。だから彼等は初めから結束していなければ、力を発揮出来ない。儒家のようにね、個人の人格形成が基本であるというのとは、全然違う。

2021年5月18日火曜日

20210518 株式会社平凡社刊 宮崎市定著「東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会」pp172-176より抜粋

株式会社平凡社刊 宮崎市定著「東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会」pp172-176より抜粋

ISBN-10 : 4582805086
ISBN-13 : 978-4582805086

 欧州にて最初に科学文明の花の咲きたるは、かつてのイスラム帝国の遺址たるスペイン、ポルトガルの二国である。彼等はイベリア半島北部に残存せるキリスト教国にして、やがて南下してサラセン人をアフリカに追い、彼等の科学知識を取って自ら利用することによりて繁栄を来し、西は大西洋を越えて新大陸を発見し、東は喜望峰を廻りて旧大陸に渡来した。

 明末ポルトガル人がその船に科学を載せて、古き東洋の文明国に訪れたることは、さすがに甚深の影響を中原の文明社会に及ぼした。もしも明廷が十分に西洋科学の価値を認識してこれを中原に移植せしむるに努めたならば、恐らく社稷を滅ぼさずしてすんだことだろう。しかも余りに古き文明社会は彼等の眼を曇らせていた。彼等は僅かに紅毛砲の威力や、世界図の正確さを認識したるに過ぎなかった。むしろ西洋宣教師の異常なる努力にも拘らず科学は単に輸入せられるのみにて、移植せられずに終わった。清朝の康熙帝はさすがに科学に対して正確なる認識を有していたらしい。素朴民族出身の帝の眼に曇りはなかった。しかも帝は中原の経営だけにて手いっぱいであった。凡てが明朝滅亡後の後始末を前提として割り出されていた。帝の英邁をもってして、結局、西域の科学文明に接しこれを打擲したる蒙古人の態度に比して、満州人は何程の優越さも表し得ざる結果となりたるは惜しむべき極みである。これも亦。数千年来積り来れる中原文明社会の迷信的なる因習が作用せる当然の帰結と考うべきであろう。

 中原の文明社会に対して、幸いに東洋には一個の素朴主義社会が存在した。そは日本である。世人或いは日本の文明の古きことをもって誇とするも、単に古きのみにて何等の価値もない。幸いにして日本は古き文明を有しつつも、一方において素朴主義を捨てざりしことが世界に向って誇るに足る事実である。日本精神とは建築や文学に表れる文飾ではない。むしろ言わず語らずして行動する素朴主義精神でなければならぬ。その他のものは飾りでこそあれ、むしろ本質とは縁遠き存在に属する。

 日本人の素朴にして謙虚なる、正を正とし邪を邪とし、一点の曇なき明鏡のごとき天真は、西洋の科学文明に対して驚くべき判断の正確さを示した。吾人は便宜上、西洋の科学というが、実は科学には西洋もなく、東洋もない。ただ人類の科学あるのみた。いわゆる西洋の科学も、その源を尋ぬれば西アジアではないか。子が親に学び、後輩が先輩に学ぶことが自然なれば、後進国が先進国に学ぶのもまた自然すぎるほど自然である。これをもし嫌忌する者があれば、それこそ夜郎自大なる文明主義の弊害であり、貴族主義の悪徳である。後進国たるは些かも恥辱でなく、後進にして先進を学ばず、学んで出藍の誉を得ざるこそ大なる恥辱である。

 江戸時代の日本には一人の西洋宣教師もなく、欧州学は動もすれば国法に抵触するの虞れさえあった。この時に当って、前野良沢、杉田玄白等を中心とする蘭学社中が、医書の翻訳を企て、「譬へば眉といふものは、目の上に生じたる毛なりとあるやうなる一句、彷彿として長き春の一日には諦められず、日暮る迄考へ詰め、互ににらみ合って、僅か一二寸の文章、一行も解し得る事ならぬことにてはあり、鼻は面中にありて推しの一句を訳し得たる時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり」という。言々句々辛苦の状察すべきである。かくして解体新書の成りたるは後桃園天皇の御代安永三年、清では乾隆帝の三十九年、西暦一七七四年にしてアメリカ独立戦争の前年であった。

 科学に対する日本と清との態度の相違が、その後の両国の運命を決定した。余は科学そのものとは言わない。科学に対して何等の偏見なき素朴なる態度を取り得たことが、取りも直さず、わが国の社会が素朴主義の根底に立ちたるものなるを立証し得た。そしてその素朴主義たるや、満州人、蒙古人のそれと異なって、発展性を有しおることも同時に知り得たることえを言うのである。かくしてわが国民は、科学の移植に成功し、文明生活と素朴主義とを如何にして調和せしむべきかの鍵を握るに至ったのだ。

 前野、杉田無かりしも、わが素朴主義社会は必ずやこれに代る者を出したことであろう。しかもかかる推測によって先覚者の功労は毫も光輝を減ずるものでない。もしも世人が日本精神発揚の偉人として国学者を顕彰するならば、吾人は同時にいわゆる洋学者をも忘れざらんことを切望する。

 東方における清朝衰微は、吾人をして西方におけるトルコ帝国の頽廃を想起せしむる。西暦十五、六世紀、トルコ帝国が西アジアの旧文明の廃墟に、溌剌たる新興の意気に燃え、東ローマ帝国を滅ぼしてバルカンを席捲し、ドイツ帝国を震撼せしめたる頃、その科学、その技術においてもまた優秀なるものがあった。彼等は戦勝によっても慢心せず、オランダにオルテリウスの地図書現るれば、直ちにこれを翻訳するを忘れなかったのである。その末葉に至っては、安逸を貪って徒らに自大、他に向って国境を鎖して目を塞げば、自己と共に外界もまたその進歩を停止すると考えた、極東のトルコは正に清朝であり、かつては満州八旗六万の健児が内には厖大なる中原の社会を整頓し、外には天山の北に準噶爾の強豪を圧倒してなお余裕ありしものが、長髪賊の叛乱以来、一掬の数に満たざる英仏、欧州諸国の暴兵の前に叩頭して和を乞わざるべからざるに立ち至った。

 然りと雖も日本の社会もまた常に順風の舟路のみを辿ったのではない。せっかく民間に溌剌たる素朴主義の躍動を示しつつも、その指導階級はいつの間にか、文明化しおおせていた。僅か四杯の蒸気船にても夜も寝られぬ醜態を演じたるは、吾人たるも正に心肝に銘記すべきた。幸いにして王政復古成就し、日本は本来の面目に立ち返り、これと共に指導層の入り替りも行われて、後ればせながらも素朴主義国家の力強き一歩を踏み出したのである。

2021年5月17日月曜日

20210517 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 梶田昭著「医学の歴史」 pp.123-126より抜粋

株式会社講談社刊 講談社学術文庫 梶田昭著「医学の歴史」

pp.123-126より抜粋

ISBN-10 : 4061596144
ISBN-13 : 978-4061596146

 周王朝は、前八世紀の中頃から名目の存在になり、前三世紀中頃、秦に滅ぼされるまで群雄が割拠する春秋戦国時代が続いた。諸侯の間を遊説して歩く諸子百家が現れたのがこの時代で、孔子も孟子もその中に姿を見せるし、扁鵲のような遍歴医もいた。この時代の文献に鍼灸治療が現れる(山田慶児)。いくつか例を拾ってみよう。

「孟子」離婁上篇に「今の王たらんと欲する者は、なお七年の病に三年の艾(もぐさ)を求むるがごときなり」。七年越しの病に、たった三年した乾かしていない艾を使うとは何事、「仁」は即効薬ではないぞ、というのである。孟子は前三七二~前二八九年の人。「荘子」雑篇の盗跖篇では孔子が、「病い無くして自ら灸するものなり」、この自分は余計なことをして痛い目にあう愚か者だった、こういって嘆く。孔子は孟子と同時代人であった。しかし、「荘子」の外篇、雑篇は後世に加えられたものらしい。

 この二つから見ると、孟子も孔子も灸を知っていたのである。もっともこのどちらも、実際に灸を据えた話ではない。

鍼療法については「春秋左氏伝」(「左伝」)に記載がある。

「左伝」成公十年(前五八一)に、病膏盲に入る話がある。晋公の病床に招かれた医師が、「この病気は治療できない。膏の上、盲の下は灸も使えず、鍼も届かず、薬も効きません」と診断する。膏は心臓の下、盲は横隔膜の上と解釈されており、つまり「体のいちばん奥深いところ」である。

 山田慶児によると、中国医学の特徴は、「第一に、鍼灸という特異な治療法が発達したこと、第二に、この鍼灸療法と結びついて医学理論が形成されていったこと、第三に、鍼灸医学とともに生まれた理論が薬物療法を中心とする医学の全体系の基礎理論へと発展していった」(中国医学の起源)岩波書店、1999)ことである。そうして「鍼灸を推力とする中国医学の形成過程は、戦国時代(前四○三~前二二一)から後漢(二五~二二〇)にかけて進行」した。

鍼灸医学は最初の理論体系として「黄帝内経」(「素問」と「霊枢」)と黄帝八十一難経」(「難経」を持っている。いずれも後漢末(二〇〇年前後)に成立した。「黄帝内経」のうち、「素問」が医学の基礎理論、つまり生理学乃至一般病理学であり、「霊枢」に鍼灸の理論がある。

 薬物療法(湯液)の古典は「傷寒雑病論」(「傷寒論」と「金匱要略」である。これらは張仲景(二世紀の人)の著である。

 ほかに「神農本草経」がある。これは「本草」といって、薬用植物学の書物であり、神仙思想、つまり道教の色彩が強い。 

 これらも「黄帝内経」とほぼ同じ時期に成立した。漢代は戦国の百花斉放が実を結び、中国文明の基礎があらゆる方面で作り上げられた時期である。医学もその一つであった。

 小川鼎三「医学の歴史」(中公新書、一九六四)はおおよそ次のようにいう。-「内経」の医学(つまり鍼灸医学)は黄河流域の北方民族のものであった。中国北部は不毛の地が多くて薬用とすべき植物は少ないので、鍼灸のような物理的な刺激療法が用いられたのであろう。これに対して、張仲景の「傷寒論」は南方の揚子江(長江)付近に発達した医学なのである。

 中国の地理的風土と文明・思想については、岡倉天心(「茶の本」第三章、岩波文庫、一九六一)の興味深い解釈を聞こう。

 道教は、・・・南方シナ精神の個人的傾向を表していて、儒教という姿で現れている北方シナの社会思想とは対比的に相違があるということである。中国はその広漠たることヨーロッパに比すべく、これを貫流する二大水系によって分かたれた固有の特質を備えている。揚子江と黄河はそれぞれ地中海とバルト海である。幾世紀かの統一を経た今日でも南方シナはその思想、信仰が北方の同胞と異なること、ラテン民族がチュートン民族とこれを異にすると同様である。

 北方黄河の流域と南方揚子江流域が、前者は「内経」医学、後者は「傷寒論」医学を生んだ。それがバルト海と地中海の沿岸に相当する、と考えると、私たちの想像は大いに刺激され、イメージがふくらむ。


2021年5月15日土曜日

20210515 昨日の続き「誤配」・「セレンディピィティ」への見解の微妙な変化

昨日の投稿記事はまた、思いのほか多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。さて、この記事では「誤配」および「セレンディピィティ」について書きましたが、私自身のこれまでを省みますと「セレンディピィティ」はともかく「誤配」については少なくなかったように思われます・・。

とりわけ、2010年の指導教員(師匠)の退職は、これまでにも何度か書きましたが、まさに私にとっては「誤配」としてしか認識出来ないものであり、これにより、その後の私の生き方は大きく変化したと云えます。いや、私のみならず、当時の研究室におられた方々皆の人生も大きく変わったと云えます。

当時、同じ研究室におられた先輩院生で、その後、首都圏にて開業された先生がいますが、この方と話していますと、毎度ではありませんが、度々「あれで人生変わったなぁ・・。」といったハナシになります。しかし、ここ直近の数年においては、それ以前とくらべ、その後に、あまり後悔や恨み言とはならずに「まあ、考えてみると、納得は出来ないにしても、あれはあれで仕方がなくて、また、そうしたことがあったからこそ、お互いに色々な経験が出来たとも云えるのかもしれないな・・。」といった方向にハナシが流れていくことが多くなったと云えます・・。(案外、こうした経緯については、同業である大学などの教育研究機関さまよりも、関連会社さま、専門書出版社さまなどの方が、深いところから御存知であることが多いように思われます・・。)

ともあれ、師匠が退職された後は、以前にも少しだけ触れましたが、さまざまな出来事があり、くわえて、歯科医師ではない私などは、学位取得後も、生きるために、色々なことを行うことになりましたが、そうした時に助けてくださったのは、同じ研究室におられた先生方、また、変わらずに勉強会に誘ってくださり、(ほぼ)夜通しの議論をした文系院時代の先生、友人の方々でした・・。

そして、そうした紆余曲折の経緯があり、どうにか現在に至っていると云えますが、これはその期間全体を通じ眺めてみますと、幸運を基調とした「セレンディピィティ」と認識出来るものではなく、未だに全体としては幸運ではなく、凹みの要素の方が強いと云えるのですが、それでも、さきに述べましたように、以前と比べますと、いくらかは前向きになりつつあるようにも感じられるのです・・。他方で、私が前向きになることに対して、否定的な見解を持たれる方々もいらっしゃるかもしれませんが、それでも、能動的(前向き)な活動と云えるブログ記事の作成、投稿は、どうにか5年以上続けることができていますので、今しばらく6年間の更新、そして当面の目標である1600記事への到達までは、そうした見解を保留して頂ければと願うところです。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~

ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: tsurukiclinic2001@gmail.com 

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。











2021年5月14日金曜日

20210514 あってもなくても問題ないブログで意味があること・・「誤配」と「セレンディピィティ」

 今回の記事投稿によって総投稿記事が1530に到達します。また、さきの1525記事の投稿からは書籍からの引用部を記事として充ててきましたが、おかげさまで、これらの閲覧者数も思いのほかに伸びています。これらを読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。そして、それらの中で、一つでも興味を惹かれるものがありましたら幸いと云えます。

そして、本日もまたさきほどまで書籍からの引用を記事としようと考えていましたが、ある程度は自身の文章での記事作成を行わないと、文章作成の腕が鈍るのではないかと思い、また、今回の記事投稿によって、1530に到達し、多少は区切りが良いと思われることから、自身の文章にて記事を作成することにした次第です・・。

さて「自身の文章にて」と書いてはみましたが、実際、このように書き進めてみても、今現在に至るまで特に記事の主題は思い浮かばず、ここにきて、キーボード上の両手は、何やら突如として動きが鈍くなりましたが、それでも、この辺りまで書き進めることが出来たのであれば、とりあえず、どうにか先も書き進めることが出来るように思われます・・。

ここ数日間は、主に新書からの引用にて、中国、そして同国の伝統的な特産品のひとつである茶について扱いましたが、そこから本日は、この茶から敷衍して、中国地域内で特産品に相違があるのと同様、伝統的な医療についても、地域的な相違があることを言及した記述を充てようと考えていました。さらには、それとも関連して、地域における鉱工業や、それを基盤とした軍事組織の相違などについても、いくらか関連した記述を見出すことが出来るのではないかと考えていましたが、そうしたなかで、こうした自身の手による記事を挟むことにより、計画通りの記事作成とはならずに、ある種の「誤配」のようなものが生じ、さらに違った面白い方向に進んで行くのではないかとも思われるのです。

あるいは、こうしたことを事後的には「セレンディピィティ」と云うのかもしれませんが、ともあれ、こうしたブログのような、いわば「あってもなくても特に問題がない営み」においては、まさに、そうした「誤配」を敢えて忍ばせることに「問題がない」なりの意味が認められるのではないかと思われるのです・・。

もしくは、少し大きく見ますと、当ブログがいくつかの偶然によって2015年に始まり、現在、この文章の作成にまで至っていることも、まさに「誤配」や「セレンディピィティ」の賜物であり、またさらに、そこが今現在において当ブログの「問題がない」なりの意味であり、そして、さらに続けることにより、その後において、あるいはその意味や重さも変わってくることもあるのではないかと思われるのです・・。

ともあれ、ここまで書いてみますと、昨日までの「茶」の記事との時代背景の近似(16世紀半ば~17世紀初頭)、あるいは同じ嗜好品であるといった関連からか、芥川龍之介による「煙草と悪魔」という短編が思い出されてきました。あの短編もまた、解釈によれば「誤配」と「セレンディピィティ」について扱った話とも云えますので・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。そして、今後もまた、どうぞよろしくお願いいたします!


日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 2020年4月開設


一般社団法人大学支援機構

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20210513 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」pp.32-37より抜粋

 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史」pp.32-37より抜粋

ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966

イギリス人が最初に茶に言及しているのは。日本の平戸へ来航したイギリス東インド会社の駐在員R・ウィッカムが、ミヤコの同会社駐在員に宛てた1615年6月27日付の手紙であって、そのなかで彼は、ミヤコから良質の茶を一壺送って欲しいと述べている。

 オランダ人についで、イギリス人も日本を通じて茶を知るようになったということは興味深い。だから当時は、今日のように福建語系の「ティ」と発音せずに、「チャ」または「チャ」に近い「チョオ」と発音していた。しかも彼らにとって「チャ」といえば、日本の抹茶つまり茶葉を粉末にしたものに熱湯を注いで飲むことを意味したようである。このことはさきに述べたマンデルスロが「東インド旅行記」の中でものべていたことである。それでは、いつごろからイギリス人は茶のことを「ティ」と呼ぶようになったのか。だいたいそれは1644年以後のことではないかと思われる。というのは、この年イギリス商人が厦門(アモイ)に拠点を築き、ここで中国人から直接福建語の「テー」を知りtoe→teaになってゆくのである。だから1671年に出版された「英語用語解」(グロサリ)にはまだchaという綴りで表されていた。

 ところで、いつから茶がイギリスに入ってきたか。正確なところはわからない。しかしオランダ、フランス、ドイツへ入ったのとほぼ同じころ、すなわち1630年代中頃にオランダをつうじてイギリスへも入ったと考えておいてよいだろう。ただイギリスで茶が一般的に市販されたのはかなり後の1657年、トーマス・ギャラウェイというロンドンのタバコ商でコーヒー・ハウス店主が、茶の葉を売り出し、店で茶を飲ませたのが最初であるといわれる。買ったのは上流階級であったから、値段もベラ棒に高く、一ポンド(重量)で6~10ポンドという高価な値がついていた。コーヒー・ハウスで茶が売られたといえば、ちょっと奇妙にきこえるかもしれないが、じつはコーヒーの方が茶よりも数年早く販売されていたからで、舶来の珍奇な飲み物としては、コーヒーも茶も大したちがいはなかったから、一足さきにできていたコーヒー・ハウスで茶が売り出されたのである。

 コーヒー・ハウスはいまのクラブの前身で、商人や貴族の社交場であり、海外貿易にたずさわる商人をはじめあらゆる階層の人たちが、入場料一ペンス、一杯二ペンスのコーヒーや茶を飲みながら論じあい語りあった情報交換センターであった。それは17世紀後半から18世紀はじめが最盛期であった。コーヒー・ハウスから新聞・週刊誌などのジャーナリズムや、文筆によって生計をたてる人びと、また文壇なるものも生まれたし、さらにはかの王立科学院もここから生まれた。

 このことからも知られるように、コーヒー・ハウスはイギリスの知的生産力の発展にきわめて大きな役割を果たした。最初のコーヒー・ハウスが1650年オクスフォードにできて以来、その数は急速に増加し、1683年のロンドンには、コーヒー・ハウスが約300軒もあったといわれている。コーヒー・ハウスのすべてが茶を扱っていたわけではないことはいうまでもないが、茶に関してはとくに有名であったのが「ギャラウェイ」である。「ギャラウェイ」はシティのロンバード街とコーンヒル通りに挟まれた裏通りエクスチェイジ・アレイの一角、今日バークレー銀行になっている場所であった。

 「ギャラウェイ」で売られた茶は、病気の予防と治療にとくに効くというので有名であったが、店主は1660年、片面刷りのポスターに茶の効用を記して茶の宣伝広告をはじめた。このポスターは近世イギリス広告史の草分けを飾る意味においても、重要な意味をもつものである。同時に茶に関する最初のポスターである意味でも注目すべきものである。

 現在のポスターは、簡単明瞭、一目瞭然を旨としているが、当時のものは紙面いっぱいにくどくどと効能を書き並べているのが特徴で、いまここに全文を翻訳するのはいたずらに紙面をとるだけでわずらわしい。だから要点だけの紹介にとどめるが、広告文は茶に関する一般的紹介にあたる前半と、茶の特効を記した後半の二つの部分から成っている。

 まず前半において、「茶は、古い歴史とすぐれた知能で有名な諸国民(注・・中国及び日本を指す)の間では、しばしばその重さの二倍の銀と交換されている。茶からつくられる飲み物は高い評価をうけており、これら東洋諸国へ旅行した各国の知識人の間で、茶の性質に関する調査が行われてきた。あらゆる方法で厳密に検査した結果、茶を飲めば完全に健康を保って驚くほど長生きができると、識者たちは茶の利用を勧めているのである」とした。

 後半の部分では、茶の適応症として、精力増進、頭痛、不眠、胆石、倦怠、胃弱、食欲不振、健忘症、壊血病、肺炎、下痢、風邪など十四の症状をあげている。今日のわれわれからみれば、誇大広告もいいところであるが、当時のイギリス人にとって中国や日本はすぐれた文化をもった神秘的な先進国で、茶はまさにその代表的な文化にほかならなかった。だから金持連中はもとより、誰もがいくら高い代価を支払っても、東洋の霊験あらたかな神秘的飲み物を手に入れたいと思ったであろう。当時イギリスをはじめヨーロッパ各国にほぼ同時に入ってきた舶来の飲み物として、チョコレート、コーヒー、茶の三種があるが、くすりとしての効果からいえば、カフェインの含有量の多いコーヒーの方がナルコティックスの作用が大きく、覚醒剤としての効果では茶に決してヒケをとらなかったであろうにもかかわらず、茶だけがこんなにヨーロッパ人にもてはやされたのは、彼等の東洋文化に対するコンプレックスからきているのである。茶には760年頃に書かれた陸羽の「茶経」から、日本の「茶の湯」を中心とする芸能文化、さらに茶碗、茶器などの美術工芸品から茶の入れ方、飲み方、マナーにいたるまで、長い歴史的伝統文化の輝きがある。これに対してチョコレートやコーヒーにはこうした文化の背景がない。少なくとも彼らのコンプレックスをかきたてる文化の重みに欠けていたという点が、茶と根本的に異なる点である。ついでにいえば、イギリス近代史はまさにこのコンプレックスから出発し、東洋のすぐれた文化・物産の模倣、製造、ついには東洋への攻撃的進出というかたちで展開してゆくのである。

2021年5月12日水曜日

20210512 中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」pp.374-378より抜粋

中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」

pp.374-378より抜粋

ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

 広東に近いマカオは明代、ポルトガルの海上勢力のはなやかなころ建設された植民地であり、はじめ地方官との了解の下に借地して商館を設けたのであったが、いつの間にか、それがポルトガルの領土のように変化した。オランダがかつてこの地を奪おうとして成功せず、最後までポルトガルの植民地として残り、清朝に入っても中国沿岸における唯一のヨーロッパ人居留地であった。ヨーロッパ人は広東にきて貿易することを認められたが、家族をともなって定住することは許されなかったので、貿易が終わるとマカオへ引き上げなければならなかった。

 広東における貿易は厳重な政府の統制の下に置かれた。西洋人の貿易の相手は、行商とよぶ特許商人に限られ、十三行の名があったが、この十三行商は同時に西洋人の広東滞在間の宿舎を提供した。広東の外国貿易が隆盛になるにつて行商は巨富を積み、その宿舎は豪壮な西洋式に建築されて、中国人に驚異の眼をみはらせた。

 イギリスの東インド会社がインドで覇権を獲得すると、マカオを通じてイギリスの対中国貿易が盛大になった。もっともイギリスは浙江省寧波付近に独自の根拠地を獲得しようとしたが、清朝の弾圧にあって果さず、やむなくその貿易を広東に限らなければならなくなったのである。そしてイギリスが海上を制圧し、本国の工業と植民地の資源をあわせて大産業国となると、ポルトガルが絶好の位置にマカオをもっているにもかかわらず、広東貿易でイギリスが首位を占めるようになった。そしてイギリスが中国にたいするヨーロッパ貿易の指導権を掌握するようになると、それとともに、ヨーロッパ人全体に代わって貿易方法改善の責任を負わねばならなくなった。

 中国政府の厳重な外国貿易統制、ことに行商の独占権はもっとも外国商人に不便さを感じさせた。貿易の利益は行商の独占するところとなり、さらに中国官憲にも多大の贈与を行わなければならなかった。事実、行商の一人である伍氏などは、十九世紀初頭において世界最大の富豪といわれたほどである。西洋商人と行商との間に紛争が起きても、マカオ駐在の外国官吏は中国官憲と対等の交渉を行う権利はなく、中国人民と同じ立場でわずかに歎願書を提出することが認められているにすぎなかった。

 イギリスがインドでフランスを圧倒して覇権を握った後十年、イギリス国王の特派使節マカートニーは乾隆帝のもとに派遣されて、貿易方法の改善を提議しようとした。ところが乾隆帝はこれを、イギリス王が新しく朝貢国の列に加わろうと申し込んだものと解し、その忠誠をたたえる褒詞を与えて引きさがらせた。中国の皇帝が夷狄の臣下にたいし、朝儀において寛容な措置をとってまで拝謁したのは、莫大な恩恵を施したものと思っていた。ついでナポレオン戦争の終了後、イギリスはアマーストを嘉慶帝のもとに派遣して交渉を開こうとしたが、この時清朝は謁見の際にあくまでも朝貢使として三跪九叩頭の礼を行うことを強要したので、アマーストは北京に入りながら、謁見も行わず憤然として退去したのであった。

 いろいろの不便や屈辱をこうむりながら、イギリスその他のヨーロッパ諸国が広東貿易を見切ることができなかったのは、中国には独自の特産品があったからである。なかでも中国茶は急激にヨーロッパおよび植民地に普及し、日常飲料として欠くことのできない商品となっており、貿易上の利益だけでなくこれに課する消費税が政府収入の中で巨額を占めていたことは、それがアメリカ合衆国の独立戦争の一原因になったことによって知られよう。

 イギリスの東インド会社は対中貿易においては、つねに輸入超過であり、中国の茶、絹等を購うために莫大な現銀を支払わなければならなかった。この現銀が清朝乾隆時代の全盛を現出させた原動力となって働いたことは注意すべき事実である。そこでイギリスはインドに産する綿花をもって中国貿易に対する見返り品としたが、勤勉な中国労働者はこの綿花をもって綿布を織って再輸出し、かえって大きな利益をあげることができた。これが十九世紀初頭における広東貿易の大勢であったが、まもなくヨーロッパ産業革命の波は東アジアにおし寄せて、この形勢を逆転させる時がきた。

アヘン戦争と南京条約

 広東を中心とする中国の紡績工業は、手工業的なものにすぎなかったので、イギリスのランカシャ機業が発達するとたちまちこれに圧倒されてしまった。これとともに、イギリス東インド会社が対中国貿易品として新しく輸出しはじめたアヘンは、中国人の嗜好になって急激に需要が増大した。アヘンは健康に害があるので、嘉慶年間に中国政府はしばしば禁令を出してアヘン販売を禁止したが、沿海の人民はイギリス商人と密貿易を行い、これを内地に転売するための秘密結社が勢力勢力をのばし、政府はさらにこれを取り締まるために苦心を払わなければならなかった。やがてアヘンの盛行は従来の貿易関係を逆転させ、銀塊は年々多量にアヘン購入のために流出し、中国内部には深刻な不況がおとずれ、多数の失業者を出し、このことはますます密貿易者の活躍をうながす結果を招いた。

 道光年間、政府はふたたびアヘンの禁令を厳重にしたが、中国人民を取り締まるだけでは実効をあげにくいことを悟り、広東に渡来する外国人にも禁令を及ぼそうとした。ここに林則徐の強硬手段によるアヘン商人弾圧となったが、その結果、不幸にしてイギリスとの戦争に発展し、清朝は破れて和を請わねばならなくなった。

 これまで清朝は中国だけでなく、全世界の皇帝であると自任し、中国の外国貿易は、物資が貧弱でひとりだちできない夷狄朝貢国にたいする恩恵であると自負していた。ところがこの政策を実施するにあたって乾隆帝の時には優になしえたことであっても、道光帝の時にはすでにとうていできなくなっていた世界の変化を清朝は知らなかった。そしてこの変化は清朝側における実力衰微のためばかりでなく、この間にヨーロッパには産業革命と政治革命とがあいついで行われ、ヨーロッパの威力は百年前と比較にならないほど強化されていたことからきているのであった。蒸気機関によって航行するイギリス軍艦はたやすく中国沿岸に集結され、その大砲は中国の砲台を沈黙させ、イギリス艦隊は揚子江を遮断して、中国南部より中国北部へ送る穀物輸送の途を断つことができた。半身不随となった清朝は、イギリスの提出する条件を鵜呑みにして南京条約に調印しなければならなかったのである。(1842年)

 南京条約は香港をイギリスに割譲することを約したが、ここにおいて広東湾外には、西方のマカオにたいして東方に香港が自由港として開かれ、イギリスの努力・経営によって、しだいにマカオの繁栄を奪い、イギリスの商権を極東に推進する根拠地となった。日本がアメリカ使節ペリーにたいして通商条約を締結して開国したのは、これより十年後であり、アヘン戦争の結果を考慮することがあってのことであった。