先日6月2日投稿分記事の『ラッセルにはじまりコンラッドに至るまで・・M2病の妄想?』は、どうしたわけか投稿後数日を経た現在に至るまで読まれ続けております。
これには何か深い意味があるかは分かりませんが、それでも自身からしますと、書籍からの抜粋引用およびその援用ではなく、まあ『本歌取り』のようなカタチではあり、また、これまでとは多少趣向を変えて作成した文章が比較的多くの方々に読まれていることには、何かしらの『意味』はあるのかもしれません・・。
これは、今後引き続きある程度記事作成を行うことによって、あるいは、その『意味』といったものを明瞭化、言語化することが出来るようになるのかもしれません・・(笑)。
また、そのようなことを書いておりますと、つい先日5日の投稿記事『文章を作成する際のフィラー(充填材)とマトリックス(母材)帰納と演繹?』において『思考モデルの援用』について書きましたが、多少大雑把に考えてみますと、さきの『本歌取り』と、この『思考モデルの援用』とは意味合い的に類似しているのではないかと思われたのですが如何でしょうか・・?
そして、そのように考えてみますと、さきのブログ記事に書いたように、こうした文章であれ、何かしらの作品であっても、それが形式、内容の全てにおいてオリジナルというものを創造することは困難であり、また同様に創造されたもののどこからがコピーであり、どこからがオリジナルであるのかとは、その明瞭な判断もまた困難ではないかと思われるのです・・。
また、我々の現実的な経済活動、競争とは、さきに述べた『思考モデルの援用』『本歌取り』さらに平たく云えば『真似』そして、それに加えた幾ばくかの改善の連鎖、応酬により為されていると云っても良く、こうしたことはさまざまな研究においても同様ではないかと思われます・・。
また、漸進的な進化発展とは、概ねそのような感じで為されていくのが通例ではないでしょうか?
しかしながら、昨今においては、さまざまな事物の作成・製作技術の進化発展により、以前に比べかなり容易に『新たな』事物を作成することが出来るようになりました・・。
そして、そうした事情により経済活動・研究などでの競争(連鎖、応酬)も激化し、どうにも収拾がつかないことから、著作権・知的財産などが声高に叫ばれるようになってきたのかもしれません・・。
とはいえ、そうした規制的な傾向が強まっても、我々の創造活動全般が鈍化しなければ良いのですが、果たして、その先には如何なる展開が待ち受けているのでしょうか・・?
ともあれ、何れにせよ、それを制御することが出来るのは、おそらく技術あるいは法律的な規制などではなく『生きた思想・哲学あるいは固有の歴史・文化』といったものではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか・・?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。
2017年6月8日木曜日
20170607 本日久しぶりに野球観戦をして思ったこと・・
A「本日は仕事も兼ねて朝から神宮球場に行き、野球を観戦しました・・。
野球観戦はかなり久しぶりではありましたが、途中、野球部のOBでもあり文系院時代の知人に、これまたかなり久しぶりにお目に掛かり、しばらくお話をすることが出来ました・・。
それは、あまり強くなかった野球部がどのような経緯を経て強くなってきたかという内容であり、説明する彼は至って冷静な様子で話されてはいましたが、それを聞いていた私は途中、先日読んだ柔道を題材とした小説と何かしらリンクする、重なるものを見出しました・・。
ちなみにその説明してくださった方は、院生時代より『文武両道』というコトバを重視されていたと記憶していますが、大変面白いことに、この傾向とは、歯科理工学の師匠においても類似したものが見出され、そのことから師匠自らが先頭になり、弟子共を引き連れ山登りをされることが多々あったのではないかと思われます・・。
また師匠の方は高校時代サッカー部に所属されていたとのことであり、あるいは後年の山登りにおける健脚ぶりとは、この当時に培われたものであるのかもしれません・・。
さて、昨今の御時世においては、さまざまな面においてそうであるのかもしれませんが、運動もしくは勉強といった、どちらかに特化し練習、強化する方が、その特性、才能を効率よく伸ばすことが出来るという考えが一般論になりつつあるのではないかと思われます。
そしてその一方で、さきに挙げた文武両道的なハナシを聞いたり、また思い出したりしますと、果たして我々人間とは、何かに特化して効率よく才能を伸ばす方が良いのであろうか、あるいは幸せなのであろうか?とも考えさせられるのです・・。
とはいえ、こうしたことは、おそらく欧米においては、かねてより議論され続けたことであり、先日抜粋引用したミルの著した文章もまた、その背景には、こうした大きな疑問があったのではないかと思われるのです・・。
そして、欧米においては、こうした議論の際に多く出てくるのが『一般教養の重要さ』であるのですが、近代以降の我が国の場合、後発工業国という事情もあってか、どうも一般教養の重要さといった議論が出てくること自体が少なく、またそれ以前に『その一般教養とは何であるか?』といったことにおいても、実はコンセンサスはないのかもしれません・・(これも近代以降に欧米化を遂げた我が国としては難しい問題であるのかもしれませんが・・)。
ともあれ、では『一般教養』と、さきの『文武両道』がどこで結節するのかと考えてみますと、それは根源における『能動性』ではないかと思われます・・。
またそれを異言しますと『自らの内からの力によって、元からのセンスの良し悪しはともかく、何を選び、そしてどのようなことを行ってきたか』ということではないでしょうか・・?
そして、それを自らの内からの力によって行うその根源には、何かしら思想、哲学(思い込みかもしれないが・・)といったものがなければ疲弊、枯渇してしまうのではないでしょうか・・?
(その意味では、現在の社会とは過度に科学的ともいえ、思想、哲学あるいは思い込みを抱き難い社会であるのかもしれません・・)。
無論、こうしたことは自身のブログについても同様であり、ある意味これを継続して作成していることとは、そうしたことの自問自答の一形態であるとも云えるのです・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被害を受けた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
野球観戦はかなり久しぶりではありましたが、途中、野球部のOBでもあり文系院時代の知人に、これまたかなり久しぶりにお目に掛かり、しばらくお話をすることが出来ました・・。
それは、あまり強くなかった野球部がどのような経緯を経て強くなってきたかという内容であり、説明する彼は至って冷静な様子で話されてはいましたが、それを聞いていた私は途中、先日読んだ柔道を題材とした小説と何かしらリンクする、重なるものを見出しました・・。
ちなみにその説明してくださった方は、院生時代より『文武両道』というコトバを重視されていたと記憶していますが、大変面白いことに、この傾向とは、歯科理工学の師匠においても類似したものが見出され、そのことから師匠自らが先頭になり、弟子共を引き連れ山登りをされることが多々あったのではないかと思われます・・。
また師匠の方は高校時代サッカー部に所属されていたとのことであり、あるいは後年の山登りにおける健脚ぶりとは、この当時に培われたものであるのかもしれません・・。
さて、昨今の御時世においては、さまざまな面においてそうであるのかもしれませんが、運動もしくは勉強といった、どちらかに特化し練習、強化する方が、その特性、才能を効率よく伸ばすことが出来るという考えが一般論になりつつあるのではないかと思われます。
そしてその一方で、さきに挙げた文武両道的なハナシを聞いたり、また思い出したりしますと、果たして我々人間とは、何かに特化して効率よく才能を伸ばす方が良いのであろうか、あるいは幸せなのであろうか?とも考えさせられるのです・・。
とはいえ、こうしたことは、おそらく欧米においては、かねてより議論され続けたことであり、先日抜粋引用したミルの著した文章もまた、その背景には、こうした大きな疑問があったのではないかと思われるのです・・。
そして、欧米においては、こうした議論の際に多く出てくるのが『一般教養の重要さ』であるのですが、近代以降の我が国の場合、後発工業国という事情もあってか、どうも一般教養の重要さといった議論が出てくること自体が少なく、またそれ以前に『その一般教養とは何であるか?』といったことにおいても、実はコンセンサスはないのかもしれません・・(これも近代以降に欧米化を遂げた我が国としては難しい問題であるのかもしれませんが・・)。
ともあれ、では『一般教養』と、さきの『文武両道』がどこで結節するのかと考えてみますと、それは根源における『能動性』ではないかと思われます・・。
またそれを異言しますと『自らの内からの力によって、元からのセンスの良し悪しはともかく、何を選び、そしてどのようなことを行ってきたか』ということではないでしょうか・・?
そして、それを自らの内からの力によって行うその根源には、何かしら思想、哲学(思い込みかもしれないが・・)といったものがなければ疲弊、枯渇してしまうのではないでしょうか・・?
(その意味では、現在の社会とは過度に科学的ともいえ、思想、哲学あるいは思い込みを抱き難い社会であるのかもしれません・・)。
無論、こうしたことは自身のブログについても同様であり、ある意味これを継続して作成していることとは、そうしたことの自問自答の一形態であるとも云えるのです・・(笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被害を受けた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
2017年6月6日火曜日
20170606 先月5月30日の続き【現地栄養ドリンクの誘い】
A「本日は以下に、先月30日に書いたインドネシアでの出来事の続きを書いてみようと思います・・。
『到着翌日のレセプションは夜半過ぎ(21:00頃)に閉会となり、私ははじめて飲んだ現地のビールに気をよくして、閉会後に独りでホテルから出て近隣のコンビニ?何でも屋?のようなお店に行き、ペットボトル飲料を数本購入し、部屋に戻り風呂に入り少し酔いを醒ましてから、昨日と同様、独り予演を何回か行った後、歯磨きをして床に就いた・・。
翌朝目を覚ますと、目ざまし時計代わりにテレビを付け、無造作にチャンネルを回すと耳慣れた日本語、それも当時日本で放送され昼食時に講座のテレビにて(大体)欠かさず観ていた連続ドラマの登場人物たちの声が聞こえたため、掛布団を跳ね除けて画面を見ると、なんと、そのドラマが放映されていた。
私はそのドラマを横目で見ながら、洗面所に行き、顔を洗い、ひげを剃り、歯を磨き、用意してきたワイシャツ、背広に着替えて、テレビを消し少し早めに朝食会場に向かった・・。
ちなみに当時は写真からもお分かり頂ける通り坊主頭に近い髪型であったため、寝グセの心配もなければ、髪をセットするという面倒もなかった・・。
昨日と同様、朝食会場では装飾された鍵盤打楽器の演奏が行われており、それがまた雰囲気に合っていると感じられたことから、内心で「ははあ、この演奏は、よく日本のホテルの和食堂で演奏されていたり、有線で流れている琴の演奏みたいなものだろう・・。」と一人合点をした・・(笑)。
同行の先輩方も本日が発表本番ということは無論承知していただろうが、特に(表立って)緊張しているといった気配は見せず、本日の朝に放映されていた、さきのテレビドラマの話題にてしばし盛り上がった・・。
また、一人が客室冷蔵庫内に日本でも有名な栄養飲料【通称:赤ベコ飲料】の現地版が置いてあったことを指摘し、別の一人が『発表前に飲んでみようか・・』と冗談めかしていったところ、また別の一人が真剣な顔つきで『いや、それは止めておいた方がいいだろう、発表前にお腹でもこわしたらコトだから、飲むのであれば発表後にしよう・・。』といった、もしここでこうした意見が真剣なトーンで出なければ、おそらく誰かは飲んでいたのではないかと思われる・・(笑)。
朝食後は一旦部屋に戻り、荷物を準備し、少し早めに部屋を出た、すると近くの部屋からドアは閉まっているものの、話し声などが割合はっきりと聞こえることに気が付いた・・。
これは発表前の緊張で過度に聴覚が研ぎ澄まされていたからであったのあろうか・・。
就寝時は隣り合わせの部屋から物音が聞こえるということはなかったので、特に壁が薄いということはなかったはずであるのだが・・。
ともあれ、そのような感覚をおぼえつつ用意されたバスに乗車し、昨日同様、学会場に向かった・・。
一人の先輩が各々発表前に会場外のベランダに呼び出し師匠へのコメントを収録していたが、こうした状況においてもマメに記録を撮り続けるのは、やはり理系的な心性、行為態度ではないかと思われる・・(笑)。
さて、自身の発表の番になると、やはり大変緊張するものであり、一応独り予演通りに発表は出来たものの、発表後の質疑応答では(案の定)ボロが出て、いやメッキが剥げて、シドロモドロ振りを存分に発揮していたことを記憶している・・(苦笑)。
とはいえ、最終的にはどうにか主客共に意は通じ合ったようであり、発表、質疑応答を終え、まさしく冷汗をかきながら演壇を降りた。
私以外の先輩方も発表・質疑応答共に大過なく終え、また他の方々の発表を聞き、休憩時間では他の国々からの出席者に質問をしたりして、どうにかこの日も無事に閉会を迎えることができた・・。
そして、この日の夕食は野外でのビュッフェ形式とのことであり、その後、さらに移動し、本格的な伝統舞踊演劇を観てといった、かなり行事が盛り沢山な一日であった。
また、そうしたことから、この日の晩は発表を無事終えた安心感をはじめとする一日の疲れから、またスムーズに寝入ることが出来た。
その翌日は、観光ツアーが組まれている予定であったが、翌朝、目を覚ましてホテルロビーに行ってみると、どうもただならぬ様子であったので、既にこの場所に来て様子をうかがっていた先輩に事情、状況を尋ねてみると『いや、前々から懸念されていた火山の噴火が起きてね、この周囲も相当灰が降っているよ、うん、これはさすがに桜島の降灰とはワケが違うね・・もしかしたら、帰りの飛行機にも影響が出るかもしれない・・。』とのことであり、このことから先の我々の予定に、まさしく暗雲が垂れ込みはじめたのであった・・。』
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
『到着翌日のレセプションは夜半過ぎ(21:00頃)に閉会となり、私ははじめて飲んだ現地のビールに気をよくして、閉会後に独りでホテルから出て近隣のコンビニ?何でも屋?のようなお店に行き、ペットボトル飲料を数本購入し、部屋に戻り風呂に入り少し酔いを醒ましてから、昨日と同様、独り予演を何回か行った後、歯磨きをして床に就いた・・。
翌朝目を覚ますと、目ざまし時計代わりにテレビを付け、無造作にチャンネルを回すと耳慣れた日本語、それも当時日本で放送され昼食時に講座のテレビにて(大体)欠かさず観ていた連続ドラマの登場人物たちの声が聞こえたため、掛布団を跳ね除けて画面を見ると、なんと、そのドラマが放映されていた。
私はそのドラマを横目で見ながら、洗面所に行き、顔を洗い、ひげを剃り、歯を磨き、用意してきたワイシャツ、背広に着替えて、テレビを消し少し早めに朝食会場に向かった・・。
ちなみに当時は写真からもお分かり頂ける通り坊主頭に近い髪型であったため、寝グセの心配もなければ、髪をセットするという面倒もなかった・・。
昨日と同様、朝食会場では装飾された鍵盤打楽器の演奏が行われており、それがまた雰囲気に合っていると感じられたことから、内心で「ははあ、この演奏は、よく日本のホテルの和食堂で演奏されていたり、有線で流れている琴の演奏みたいなものだろう・・。」と一人合点をした・・(笑)。
同行の先輩方も本日が発表本番ということは無論承知していただろうが、特に(表立って)緊張しているといった気配は見せず、本日の朝に放映されていた、さきのテレビドラマの話題にてしばし盛り上がった・・。
また、一人が客室冷蔵庫内に日本でも有名な栄養飲料【通称:赤ベコ飲料】の現地版が置いてあったことを指摘し、別の一人が『発表前に飲んでみようか・・』と冗談めかしていったところ、また別の一人が真剣な顔つきで『いや、それは止めておいた方がいいだろう、発表前にお腹でもこわしたらコトだから、飲むのであれば発表後にしよう・・。』といった、もしここでこうした意見が真剣なトーンで出なければ、おそらく誰かは飲んでいたのではないかと思われる・・(笑)。
朝食後は一旦部屋に戻り、荷物を準備し、少し早めに部屋を出た、すると近くの部屋からドアは閉まっているものの、話し声などが割合はっきりと聞こえることに気が付いた・・。
これは発表前の緊張で過度に聴覚が研ぎ澄まされていたからであったのあろうか・・。
就寝時は隣り合わせの部屋から物音が聞こえるということはなかったので、特に壁が薄いということはなかったはずであるのだが・・。
ともあれ、そのような感覚をおぼえつつ用意されたバスに乗車し、昨日同様、学会場に向かった・・。
一人の先輩が各々発表前に会場外のベランダに呼び出し師匠へのコメントを収録していたが、こうした状況においてもマメに記録を撮り続けるのは、やはり理系的な心性、行為態度ではないかと思われる・・(笑)。
さて、自身の発表の番になると、やはり大変緊張するものであり、一応独り予演通りに発表は出来たものの、発表後の質疑応答では(案の定)ボロが出て、いやメッキが剥げて、シドロモドロ振りを存分に発揮していたことを記憶している・・(苦笑)。
とはいえ、最終的にはどうにか主客共に意は通じ合ったようであり、発表、質疑応答を終え、まさしく冷汗をかきながら演壇を降りた。
私以外の先輩方も発表・質疑応答共に大過なく終え、また他の方々の発表を聞き、休憩時間では他の国々からの出席者に質問をしたりして、どうにかこの日も無事に閉会を迎えることができた・・。
そして、この日の夕食は野外でのビュッフェ形式とのことであり、その後、さらに移動し、本格的な伝統舞踊演劇を観てといった、かなり行事が盛り沢山な一日であった。
また、そうしたことから、この日の晩は発表を無事終えた安心感をはじめとする一日の疲れから、またスムーズに寝入ることが出来た。
その翌日は、観光ツアーが組まれている予定であったが、翌朝、目を覚ましてホテルロビーに行ってみると、どうもただならぬ様子であったので、既にこの場所に来て様子をうかがっていた先輩に事情、状況を尋ねてみると『いや、前々から懸念されていた火山の噴火が起きてね、この周囲も相当灰が降っているよ、うん、これはさすがに桜島の降灰とはワケが違うね・・もしかしたら、帰りの飛行機にも影響が出るかもしれない・・。』とのことであり、このことから先の我々の予定に、まさしく暗雲が垂れ込みはじめたのであった・・。』
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
2017年6月5日月曜日
20170605 文章を作成する際のフィラー(充填材)とマトリックス(母材)帰納と演繹?
A「先日投稿のブログ記事に書きましたが、文系院時代の知人が来京し、久しぶりに一緒に食事を摂ることになりました。
この時も相変わらずに快活であり、またハナシも盛り上がりましたが、もしかすると、彼と久しぶりに話す機会を持つことによって、またラッセル著『西洋哲学史』を少しずつ読み進めることになったのかもしれません・・。
そして、過去の私がこの著作内に引いた朱線部を現在になり読んでみますと、そのうちの多くに当時自身が考えていたことの骨子となるような内容が含まれていたことが理解出来ます・・。
不思議なことに、しばらく前の私ではこうしたことは理解出来なかったように思えるのですが、これは進化であるのでしょうか、それとももっと違う何かなのでしょうか・・(笑)?
ともあれ、そのことから、おそらく当時の私とは、自身の論法のみにて研究テーマに対して推論を進めること、すなわち(ある程度論理的な)文章を書き進めることが困難であり、こうした思想、哲学系の著作から『思考モデル』を援用(借用まではあからさまでない)したのだと思われます・・。
つまり、現在になり思うことは、当時の私とは、民俗学、考古学分野などの直接参考とした文献と同程度あるいはそれ以上に、こうした思想、哲学系の著作から、その『思考モデル』を抽出していたということです・・。
あるいはこれを別言すると、当時の自身が書いたものとは、民俗学、考古学等の文献から得られた現象、遺跡、遺物などに対する知見、記録の一つ一つがそのフィラー(充填材)であり、それらを包含し一塊の考え、文章と成すマトリックス(母材)のようなものが、さきの思想、哲学系の著作から得られた『思考モデル』であると云えます。
そして、そのように考えてみますと、そこには特段新しい要素は無いことになりますが、しかし開き直るわけではありませんが、ある程度ウラの取れた確からしく、さらに新しい知見、記録のみで文章、論文を作成することは、たとえ博士課程の研究であってもなかなか難しいのではないかと思われます・・。
それよりも、ある程度確からしい既知ともいえる知見を組み合わせ文章と成し、それにより新しい考えを述べる方がまだ現実的であるのではないかと思われますが、如何でしょうか・・?
もちろん、一方において、そうした方法論に安住してしまうのも如何なものかとは考えますが、それでも、こうした手法にて文章を書いている方が少なくとも長く書き続けることは出来、また、その中で大きな発見とまでは行きませんが1%、5%、10%程度の中から新たな知見、考えらしきもの、あるいはそのヒントが誰かに見つかれば、それはそれで多少は意味があることなのではないかと考える次第です・・。
さて、今回の記事は、本来であれば、この後にコンラッドとラッセルとの関連を知った経緯を書こうと考えておりましたが、これまでの文章が思いのほか長くなってしまいましたので、それはまた後の機会に書かせて頂くことにします・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
この時も相変わらずに快活であり、またハナシも盛り上がりましたが、もしかすると、彼と久しぶりに話す機会を持つことによって、またラッセル著『西洋哲学史』を少しずつ読み進めることになったのかもしれません・・。
そして、過去の私がこの著作内に引いた朱線部を現在になり読んでみますと、そのうちの多くに当時自身が考えていたことの骨子となるような内容が含まれていたことが理解出来ます・・。
不思議なことに、しばらく前の私ではこうしたことは理解出来なかったように思えるのですが、これは進化であるのでしょうか、それとももっと違う何かなのでしょうか・・(笑)?
ともあれ、そのことから、おそらく当時の私とは、自身の論法のみにて研究テーマに対して推論を進めること、すなわち(ある程度論理的な)文章を書き進めることが困難であり、こうした思想、哲学系の著作から『思考モデル』を援用(借用まではあからさまでない)したのだと思われます・・。
つまり、現在になり思うことは、当時の私とは、民俗学、考古学分野などの直接参考とした文献と同程度あるいはそれ以上に、こうした思想、哲学系の著作から、その『思考モデル』を抽出していたということです・・。
あるいはこれを別言すると、当時の自身が書いたものとは、民俗学、考古学等の文献から得られた現象、遺跡、遺物などに対する知見、記録の一つ一つがそのフィラー(充填材)であり、それらを包含し一塊の考え、文章と成すマトリックス(母材)のようなものが、さきの思想、哲学系の著作から得られた『思考モデル』であると云えます。
そして、そのように考えてみますと、そこには特段新しい要素は無いことになりますが、しかし開き直るわけではありませんが、ある程度ウラの取れた確からしく、さらに新しい知見、記録のみで文章、論文を作成することは、たとえ博士課程の研究であってもなかなか難しいのではないかと思われます・・。
それよりも、ある程度確からしい既知ともいえる知見を組み合わせ文章と成し、それにより新しい考えを述べる方がまだ現実的であるのではないかと思われますが、如何でしょうか・・?
もちろん、一方において、そうした方法論に安住してしまうのも如何なものかとは考えますが、それでも、こうした手法にて文章を書いている方が少なくとも長く書き続けることは出来、また、その中で大きな発見とまでは行きませんが1%、5%、10%程度の中から新たな知見、考えらしきもの、あるいはそのヒントが誰かに見つかれば、それはそれで多少は意味があることなのではないかと考える次第です・・。
さて、今回の記事は、本来であれば、この後にコンラッドとラッセルとの関連を知った経緯を書こうと考えておりましたが、これまでの文章が思いのほか長くなってしまいましたので、それはまた後の機会に書かせて頂くことにします・・。
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
2017年6月4日日曜日
20170604 能動的な読書の『意味』とは・・先日投稿の記事から
A「昨日投稿分の記事は、正直なところ、多くの方々には読んで頂きたくないものであり、またそうした事情もあってか投稿以降これまでにいくらか手を加え、加筆修正を行っております。
とはいえ、全体的な内容に関しては特に変わってはいないと思われますが・・。
何れにせよ、一度ブログ記事として作成、投稿したものは、少なくとも削除はしないという方針ですので、それにはこれまで通りに従おうと考えた次第です・・。
また、これまでにある程度のブログ記事を作成、投稿してきて、各々投稿記事の内容に対して見受けられるさまざまな反応にて『この反応は誰々からのものである』と判断、断定できるものは、これまでに皆無でしたが、先日投稿の『ラッセルにはじまりコンラッドに至るまで・・M2病の妄想?』に対しての反応にて『・・この反応は**さんからのものではないか?』と思われるものがありましたが、こうしたことを本人に聞いてみるのも、どうも無粋、空気を読まないようですので、わざわざ尋ねてみることは止め、今後何かの機会があった際にでも聞いてみようかと思った次第です・・(笑)。
それはともかく、この記事に関しては、投稿数日にしては、ここ最近かなり珍しいほど多くの方々に読んで頂けたことから、そのもととなった小説の文章、実際の会話の雰囲気を残しつつも、より読み易く、伝わり易い文章とするため、投稿以降、何度か手を加え、加筆修正を行いました・・。
また、それに加え、こうした加筆修正を行っておりますと、更なる着想も湧いてくるようであり、それらは今後機会を見つけ、記事として書いてみようかと考えております・・。
そして、そのように考えてみますと『能動的に』精読、深く読んだと自覚できるような著作が幾つかあるということは、案外と大事なことなのではないかと思われるのですが如何でしょうか・・?
また、それは、ある程度感受性が成熟した20~30代前半あたりが良いのではないかと思われますが、このあたりの年代において、どのような著作を『能動的』に選び読むかに、何といいますか、その人の本質に迫る『何か』があるのではないかと思われるのです・・。
それはあたかも、偶然に選び取られたタロットカード一枚一枚に固有の『意味』があるように・・。
とはいえ、その『意味』とは、占術によるものではなく、より必然的あるいは普遍化し得る『意味』であるように思われるのです・・。
こうした考えとは、もしかすると当然であるのかもしれませんが、その一方において『書籍、読書に関しても、その他の文化的事物と同様、何だかよく分からない表層的なものにのみ関心が払われ、こうした(それぞれの主体にとって)本質的とも云える『何か・意味』といったものには、あまり価値、注意が払われていないのではなかろうか・・?』とも思われることもまた、少なからずあるのです・・。
昨今我が国のさまざまな分野において席捲そして浸透している市場原理主義が個人の能動性、いや、それ以前にある、日常の行為態度に対して与える影響とは、こと学問(理系・文系含む)、芸術に対しては良いことばかりでもないのかもしれません・・。
ただ、こうしたことは、その判断までには、もうしばらくの観察期間が必要であるようにも思われますが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震により被災された地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
とはいえ、全体的な内容に関しては特に変わってはいないと思われますが・・。
何れにせよ、一度ブログ記事として作成、投稿したものは、少なくとも削除はしないという方針ですので、それにはこれまで通りに従おうと考えた次第です・・。
また、これまでにある程度のブログ記事を作成、投稿してきて、各々投稿記事の内容に対して見受けられるさまざまな反応にて『この反応は誰々からのものである』と判断、断定できるものは、これまでに皆無でしたが、先日投稿の『ラッセルにはじまりコンラッドに至るまで・・M2病の妄想?』に対しての反応にて『・・この反応は**さんからのものではないか?』と思われるものがありましたが、こうしたことを本人に聞いてみるのも、どうも無粋、空気を読まないようですので、わざわざ尋ねてみることは止め、今後何かの機会があった際にでも聞いてみようかと思った次第です・・(笑)。
それはともかく、この記事に関しては、投稿数日にしては、ここ最近かなり珍しいほど多くの方々に読んで頂けたことから、そのもととなった小説の文章、実際の会話の雰囲気を残しつつも、より読み易く、伝わり易い文章とするため、投稿以降、何度か手を加え、加筆修正を行いました・・。
また、それに加え、こうした加筆修正を行っておりますと、更なる着想も湧いてくるようであり、それらは今後機会を見つけ、記事として書いてみようかと考えております・・。
そして、そのように考えてみますと『能動的に』精読、深く読んだと自覚できるような著作が幾つかあるということは、案外と大事なことなのではないかと思われるのですが如何でしょうか・・?
また、それは、ある程度感受性が成熟した20~30代前半あたりが良いのではないかと思われますが、このあたりの年代において、どのような著作を『能動的』に選び読むかに、何といいますか、その人の本質に迫る『何か』があるのではないかと思われるのです・・。
それはあたかも、偶然に選び取られたタロットカード一枚一枚に固有の『意味』があるように・・。
とはいえ、その『意味』とは、占術によるものではなく、より必然的あるいは普遍化し得る『意味』であるように思われるのです・・。
こうした考えとは、もしかすると当然であるのかもしれませんが、その一方において『書籍、読書に関しても、その他の文化的事物と同様、何だかよく分からない表層的なものにのみ関心が払われ、こうした(それぞれの主体にとって)本質的とも云える『何か・意味』といったものには、あまり価値、注意が払われていないのではなかろうか・・?』とも思われることもまた、少なからずあるのです・・。
昨今我が国のさまざまな分野において席捲そして浸透している市場原理主義が個人の能動性、いや、それ以前にある、日常の行為態度に対して与える影響とは、こと学問(理系・文系含む)、芸術に対しては良いことばかりでもないのかもしれません・・。
ただ、こうしたことは、その判断までには、もうしばらくの観察期間が必要であるようにも思われますが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震により被災された地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
2017年6月3日土曜日
20170603 昨日投稿記事の閲覧者数が多かったことおよび黒い羊について・・
A「昨日投稿分の記事は、一昨日の投稿記事以上に多くの方々に読んで頂けました・・。
これは一見『閲覧者数が順調に上昇している』ともとらえられますが、現象としては、おそらく週末ということもあり、偶然に閲覧者数が伸びたのではないかと思われます・・。
とはいえ、その具体的な閲覧者数が投稿翌日にしては、これまでになく多かったことには、やはり何かしら別の要因があったのではないかとも考えられます・・。
そして、その要因が一体何であるかは今現在のところよく分かりませんが、何であれ(この程度で)慢心することなくキリの良いところまでは記事作成を継続します。
また、そのようなことを書いておりますと、このブログ記事作成を始めたのが、丁度二年前の今月後半であったことが思い出されました・・。
つまり、あと3週間程度記事作成を継続すれば、ブログ記事の作成を二年間継続したことになりますが、これは平均にして均すと、大体10日のうち9日は記事を作成、投稿したきたということになります・・。
そして、この間に『何かが大きく変わったのか?』と考えてみますと、決してそのようなことはなく、以前に比べわずかに記事の作成が容易にはなりつつあることは感じ取れますが、それは大したことでも何でもなく、むしろこの程度継続していれば、それは自然と生じる、ごく当たり前のように思われるのです・・。
・・いえ、実はこの自然と生じるようなことの蓄積こそが案外重要なのであり、また、その積み重ねこそが、何かしら相対的な意味での有意差といったものを生むのかもしれません・・。
とはいえ、今現在の私には、そうしたことを考える必要も余裕もなく、ただ、さきに書いたように目標としている650あるいは700記事への到達を目指すことにします・・(笑)。
そして、その間にまた突発的に(多くの方々に)面白いと感じられる記事が幾つか(出来る限り多く)投稿することが出来れば、それはむしろ『望外の僥倖』であることにしようと思います・・(笑)。
そういえば、それに関連するのかしないのか、先日知人と話していた際『黒い羊、スケープ・ゴート』というコトバが出てきました・・。
このコトバは自身もこれまでに聞いたことがあり、また幾分馴染みもあるのですが、何故、我々の社会では『いじめは良くない』という言説が一般的に聞かれる一方において『黒い羊、スケープ・ゴート』というコトバもまた普通に存在するのでしょうか・・?
つまり、この『黒い羊、スケープ・ゴート』というコトバには、少なからず、いじめられても仕方のない存在、あるいは全体の和、統一を守るための生贄のような存在といった意味あいがあるのではないかと思われます。
また、こうした我々の心的傾向とは、意外と根深いところまで達しており、いくら『いじめは良くない』といってみたところで、それは本当に単なるコトバであって、あまり実効性、内容そして意味といったものはないのではないかと思われるのです・・(苦笑)。
あるいは、それは家族という集団の最小単位においても見受けることも出来、時折耳にするそうしたハナシにおいて、どうしようもなくいたたまれない気分になることがあります・・。
(しかし、そうしたハナシは決してあからさまには語られない、むしろ聞いているハナシのなかから、そうした関係性を見出す、感知するのです・・。)
とはいえ、そうしたこととは、考えてもキリがないことであり、最も単純にそうした問題を解決する方法とは、それぞれのそうした立場にいる方々が、その環境から離脱する、抜け出すのが平和的で良いのではないかと考えますが如何でしょうか・・?
おそらくこればかりはキレイごとではどうにもならず、また今後も社会におけるそうした考えが進化し、高尚になることはないものと考えます・・。
しかし、そうなると思想や哲学といった、いわば文系学問(あるいは理系学問をも含め)の価値およびその基礎とは、一体どこに求めることになるのでしょうか・・・(苦笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺において生じた地震によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
これは一見『閲覧者数が順調に上昇している』ともとらえられますが、現象としては、おそらく週末ということもあり、偶然に閲覧者数が伸びたのではないかと思われます・・。
とはいえ、その具体的な閲覧者数が投稿翌日にしては、これまでになく多かったことには、やはり何かしら別の要因があったのではないかとも考えられます・・。
そして、その要因が一体何であるかは今現在のところよく分かりませんが、何であれ(この程度で)慢心することなくキリの良いところまでは記事作成を継続します。
また、そのようなことを書いておりますと、このブログ記事作成を始めたのが、丁度二年前の今月後半であったことが思い出されました・・。
つまり、あと3週間程度記事作成を継続すれば、ブログ記事の作成を二年間継続したことになりますが、これは平均にして均すと、大体10日のうち9日は記事を作成、投稿したきたということになります・・。
そして、この間に『何かが大きく変わったのか?』と考えてみますと、決してそのようなことはなく、以前に比べわずかに記事の作成が容易にはなりつつあることは感じ取れますが、それは大したことでも何でもなく、むしろこの程度継続していれば、それは自然と生じる、ごく当たり前のように思われるのです・・。
・・いえ、実はこの自然と生じるようなことの蓄積こそが案外重要なのであり、また、その積み重ねこそが、何かしら相対的な意味での有意差といったものを生むのかもしれません・・。
とはいえ、今現在の私には、そうしたことを考える必要も余裕もなく、ただ、さきに書いたように目標としている650あるいは700記事への到達を目指すことにします・・(笑)。
そして、その間にまた突発的に(多くの方々に)面白いと感じられる記事が幾つか(出来る限り多く)投稿することが出来れば、それはむしろ『望外の僥倖』であることにしようと思います・・(笑)。
そういえば、それに関連するのかしないのか、先日知人と話していた際『黒い羊、スケープ・ゴート』というコトバが出てきました・・。
このコトバは自身もこれまでに聞いたことがあり、また幾分馴染みもあるのですが、何故、我々の社会では『いじめは良くない』という言説が一般的に聞かれる一方において『黒い羊、スケープ・ゴート』というコトバもまた普通に存在するのでしょうか・・?
つまり、この『黒い羊、スケープ・ゴート』というコトバには、少なからず、いじめられても仕方のない存在、あるいは全体の和、統一を守るための生贄のような存在といった意味あいがあるのではないかと思われます。
また、こうした我々の心的傾向とは、意外と根深いところまで達しており、いくら『いじめは良くない』といってみたところで、それは本当に単なるコトバであって、あまり実効性、内容そして意味といったものはないのではないかと思われるのです・・(苦笑)。
あるいは、それは家族という集団の最小単位においても見受けることも出来、時折耳にするそうしたハナシにおいて、どうしようもなくいたたまれない気分になることがあります・・。
(しかし、そうしたハナシは決してあからさまには語られない、むしろ聞いているハナシのなかから、そうした関係性を見出す、感知するのです・・。)
とはいえ、そうしたこととは、考えてもキリがないことであり、最も単純にそうした問題を解決する方法とは、それぞれのそうした立場にいる方々が、その環境から離脱する、抜け出すのが平和的で良いのではないかと考えますが如何でしょうか・・?
おそらくこればかりはキレイごとではどうにもならず、また今後も社会におけるそうした考えが進化し、高尚になることはないものと考えます・・。
しかし、そうなると思想や哲学といった、いわば文系学問(あるいは理系学問をも含め)の価値およびその基礎とは、一体どこに求めることになるのでしょうか・・・(苦笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺において生じた地震によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」
2017年6月1日木曜日
20170601 640記事 昨日の偶然の読書から思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】
A「昨日ある書類を探していたところ、以前に購入していたラッセル著『西洋哲学史』全三巻が目につき、就寝前に第一巻を読みはじめてみたところ、どうしたものか大変面白く感じられ、そのまま10頁近く読んでいしまいました・・。
では『何故この著作を読み面白いと思ったのか?』とは、おそらくこの著作に現在自身が日常生活において接することがない考えが、流れるように、あるいは理路整然と述べられていたからではないかと考えます・・。
たしかにこうした文章を書くことが出来る人は先ず間違いなく凡人ではないと思われます・・。
また、おそらく現在の我が国において西洋哲学に対して、こうした文章を書くことが出来る研究者、著述家とは少ないのではないかと思われます・・。
とはいえ、多少これと類似する読後の感覚に持つに至る日本人研究者は、粘菌、民俗学の南方熊楠、アジア史の宮崎市定、解剖学、考古学の金関丈夫、そして近いところになりますと、数年前に亡くなられた考古学の森浩一あたりではないかと思われます・・。
もちろん、他にもそうした研究者、著述家はいるとは思いますが、あくまでも自身のこれまでの経験から述べることが出来るのは概ね以上の方々です。
また、丸山眞男、加藤周一などもその文章は大変優れたものであるとは思われるのですが、これらの方々は、それと同時に当時の政治情勢などとも、幾分浅からぬ関係があると思われるため、何と云いますか、その述べるところには、スンナリとは肯定、納得させない何かがあるのです・・。
とはいえ、それもまた特に思想などを扱う研究者においては大変重要な要素ではあるのですが・・。
そして、そのようなことを述べると『南方熊楠も少なからず当時の政治に対する言及があるのではないか?』と考える方々もいらっしゃるとは思いますが、南方熊楠の場合、自身が住み、慣れ親しんだ熊野、南紀の自然を守るための論陣であり、何と言いますか、その背景にある土俗的精神が、さきに挙げた二者とは大きく異なり、私見とはなりますが、それは西郷隆盛の土俗精神とも相通じる何かがあるのではないかと思われます・・。
そして、このように考えてみますと、近代以降の我が国とは、現在に至るまで、その意図の有無に関わらず、無意識的ではあれ、こうした地域毎の土俗精神を減衰させ、骨抜きにしてきたのではないかとも思われるのです・・。
また、こうした視点とは、実際に幾つかの地域に数年程度住むことにより、はじめていくらか実感を以って理解出来ることであり、その点において現在の自身とは、以前と比べると、多少内面が複雑になってしまったのではないかと思われるのです・・。
そして、さらには、こうした経験があることから、現在の自身とは、どうにか継続的にブログ記事の作成を行うことが出来ているのではないかとも思えるのです・・。
また、このようなことを書いていて、不図思い出したのは、冒頭に挙げた著作からの一部分であり、以下にその抜粋引用を示します。
みすず書房刊バートランド・ラッセル著 市井三郎訳 『西洋哲学史』
1古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史 P.3より抜粋引用
アリストテレスにいたるまでのギリシャ思想は、都市に対する宗教的で愛国的な献身に支配されていて、その倫理の諸大系は市民の生活に適応させられ、政治的な要素が大きかったのである。
しかしギリシャ人が最初はマケドニア人に、次いでローマ人に従属することとなった時、ギリシャ人が独立していた頃にはふさわしいものであった倫理的諸概念は、もはや通用し得ないものとなった。
このことは一方では、伝統と訣別することによる旺盛な力の欠如を産み出し、また他方では、より個人的であまり社会的ではない倫理を産み出した。
ストア学派のひとびとは、有徳な生活というものを、市民の国家に対する関係というよりは、魂の神に対する関係として考えるにいたった。このようにして彼らは、キリスト教への道を準備したのである。』
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨年2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において生じた地震により被害を被った地域の出来るだけ速やかな諸インフラの復旧、さらにその後の復興を祈念しております。
では『何故この著作を読み面白いと思ったのか?』とは、おそらくこの著作に現在自身が日常生活において接することがない考えが、流れるように、あるいは理路整然と述べられていたからではないかと考えます・・。
たしかにこうした文章を書くことが出来る人は先ず間違いなく凡人ではないと思われます・・。
また、おそらく現在の我が国において西洋哲学に対して、こうした文章を書くことが出来る研究者、著述家とは少ないのではないかと思われます・・。
とはいえ、多少これと類似する読後の感覚に持つに至る日本人研究者は、粘菌、民俗学の南方熊楠、アジア史の宮崎市定、解剖学、考古学の金関丈夫、そして近いところになりますと、数年前に亡くなられた考古学の森浩一あたりではないかと思われます・・。
もちろん、他にもそうした研究者、著述家はいるとは思いますが、あくまでも自身のこれまでの経験から述べることが出来るのは概ね以上の方々です。
また、丸山眞男、加藤周一などもその文章は大変優れたものであるとは思われるのですが、これらの方々は、それと同時に当時の政治情勢などとも、幾分浅からぬ関係があると思われるため、何と云いますか、その述べるところには、スンナリとは肯定、納得させない何かがあるのです・・。
とはいえ、それもまた特に思想などを扱う研究者においては大変重要な要素ではあるのですが・・。
そして、そのようなことを述べると『南方熊楠も少なからず当時の政治に対する言及があるのではないか?』と考える方々もいらっしゃるとは思いますが、南方熊楠の場合、自身が住み、慣れ親しんだ熊野、南紀の自然を守るための論陣であり、何と言いますか、その背景にある土俗的精神が、さきに挙げた二者とは大きく異なり、私見とはなりますが、それは西郷隆盛の土俗精神とも相通じる何かがあるのではないかと思われます・・。
そして、このように考えてみますと、近代以降の我が国とは、現在に至るまで、その意図の有無に関わらず、無意識的ではあれ、こうした地域毎の土俗精神を減衰させ、骨抜きにしてきたのではないかとも思われるのです・・。
また、こうした視点とは、実際に幾つかの地域に数年程度住むことにより、はじめていくらか実感を以って理解出来ることであり、その点において現在の自身とは、以前と比べると、多少内面が複雑になってしまったのではないかと思われるのです・・。
そして、さらには、こうした経験があることから、現在の自身とは、どうにか継続的にブログ記事の作成を行うことが出来ているのではないかとも思えるのです・・。
また、このようなことを書いていて、不図思い出したのは、冒頭に挙げた著作からの一部分であり、以下にその抜粋引用を示します。
みすず書房刊バートランド・ラッセル著 市井三郎訳 『西洋哲学史』
1古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史 P.3より抜粋引用
ISBN-10: 4622019019
ISBN-13: 978-4622019015
『スパルタにおいては、個人はほとんど自由を持たなかったし、アテナイにあっては、時として迫害がありはしたが、市民はその最良の時期には、国家の制約からの異常なほどの自由を持っていた。アリストテレスにいたるまでのギリシャ思想は、都市に対する宗教的で愛国的な献身に支配されていて、その倫理の諸大系は市民の生活に適応させられ、政治的な要素が大きかったのである。
しかしギリシャ人が最初はマケドニア人に、次いでローマ人に従属することとなった時、ギリシャ人が独立していた頃にはふさわしいものであった倫理的諸概念は、もはや通用し得ないものとなった。
このことは一方では、伝統と訣別することによる旺盛な力の欠如を産み出し、また他方では、より個人的であまり社会的ではない倫理を産み出した。
ストア学派のひとびとは、有徳な生活というものを、市民の国家に対する関係というよりは、魂の神に対する関係として考えるにいたった。このようにして彼らは、キリスト教への道を準備したのである。』
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
昨年2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において生じた地震により被害を被った地域の出来るだけ速やかな諸インフラの復旧、さらにその後の復興を祈念しております。
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