2016年10月22日土曜日

20161021 2009年4月初め頃の記憶から・・

A「2009年4月初旬、はじめて指導教員となる先生(師匠)の研究室を訪ねた。

それまでに師匠の執筆された論文、レビューなどはいくつか読んでいたが、それらの文体とは、いずれも典型的な理系論文のそれであり、そのことから随分とカタい人柄を勝手に想像し、若干緊張していたが、実際にお目に掛かり、そのおハナシを伺うと、若干甲高いともいえる、特徴的な関西弁を話される、気さくな御人柄であり、その書かれた文章、文体とのギャップに当初いささか驚いた。

しかしながら、現在になり考えてみると、こうしたことは特に研究者などでは珍しくないと思われる。

また、その研究室、講座周辺とは、多くの理系研究室がそうであるように、一面の壁に学会発表にて用いたポスターおよび得た賞状のコピーなどが掲示されていた。

さらに、それらの多くが英語にて記されていることに対し驚きと共に強い不安を感じたことを覚えている・・。

そして講座の教職員、在籍、修了院生の方々を紹介され、講座内に机、椅子およびPCを貸与支給して頂いた。

また、同時に師匠より「毎週水曜日、朝8:00より英語論文の輪読会を行っているので出席するように」との指示を受けた。

現在輪読中の論文は、以前より出席されている修了院生の方から速やかに頂き、また現在読んでいる箇所も教えて頂いた。

この時は正直なところ、大変緊張したが、少し間を置き冷静に考えてみると「何も理系の論文であるから読めないこともないはずではなかろうか・・」と考えるに至った・・。

その理由とは、一応私も文系のそれであれば、修士課程在籍時、この輪読会の形式と類似した講義をいくつか受講しており、特にそこで困ったという記憶もなかった。

さらに、その時期において、参考文献として英書を幾つか(自己流に)読んでおり、また、留学生との会話、コミュニケーションにおいて特に困ったという記憶もなかった。
といったところである。

しかし、そうはいうものの、やはり、この緊張は全く無くなるものでもなく、院の講義や講座内の様々なことを覚え知るのと並行し、自分なりに念入りに予習を行った(つもりであった)。

そして訪れた次の輪読会にて順繰りに周囲の出席者が読み、それを和訳していき、師匠が註釈を加え、ついに私の番となった時はやはり大変緊張していた・・。

とはいえ、意識して、これまでに行ってきたそれとほぼ同様の調子にて音読、和訳を行ったところ、特に場の雰囲気も急変せず、概ね「・・まあ、いいだろう」といった感じであった。

その後、実験室にて実験、作業などを行う際、その合間にて輪読中の論文そして辞書を持ち込み、その読解を行うことが徐徐に習慣となっていった。

とはいえ、こういしたことは全く珍しいことでもなく、多くの研究室の院生達が同様のことをしているものと考える。

そして、これがおそらく、文系学問の研究を行う院生達と大きく違うところではないかと思われる。

つまり、この違いとは、手作業の合間にて論文読解を行う理系、それに対し概ね研究室、図書館といった環境にて読解等の研究を行う文系といったところではないかと思われる。

また、後になり考えてみると、自身の場合、前者のそれであったことが本当に良かったと思われる・・。

さらに後になると、学会発表前の一人予演をも実験室での作業、実験の合間にて堂々と行うようになっており、これを異言すると、立派なD2病となっていたということである・・(苦笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる熊本の大地震そして昨日の山陰東部にて発生した地震による被害、そしてその後の種々復旧活動が速やかに為され、復興されますことを祈念しております。」






2016年10月21日金曜日

20161020 岩波書店刊 野上彌生子著「迷路」上巻pp.319ー322より抜粋引用

「省三は幅のある机に身を乗りだして窓をあけた。生ぬるく潤んではいって来る夜気には、酒の香がほのかに漂うた。
これは家の体臭といってよかった。
それを発散させる酒倉は、下の石畳の空地の三方を取りかこみ、厚い壁と、ほんの覗き穴ぐらいの小さな窓で、城砦めいて並んでいた。
省三に父祖の古い家に帰っていることを端的に思い知らせるのは、これらの重々しい建物と酒に匂う空気であった。
父親に似てか進んでは飲む気もしないのに、場合ではいくらでも飲めて、赤くもならず、かえって蒼ざめて眼がすわって来るだけなのは、赤ん坊から酒のかおる空気よりほかには呼吸しなかったためかもしれない。
その意味ではまた乳の香にも等しかった。省三は小鼻をふくらませ、それを嗅ぐことで、子供時代の家にまつわる追想に意識的に耽ろうとした。考えまいとするひとのことから、乱れる情念を引き剥ぐには手近く、便利な方法でもあった。
九月にかかると、田舎から背中の両側に重い俵をつけた馬が、店から内所のまえの通路を抜け、それの奥まった拡がりなる下の石畳の空地に毎日曳きこまれる。
俵のなかみはまっ青な渋柿である。酒倉の端に設備された臼場の、一列の古めかしい足搗の石臼で挫かれる若い渋い果実が、梯子でのぼる大桶に投げ込まれ、酒袋をそめる大切な染料としての渋の自家製造がはじまるのが、醸造場の行事の幕開でもあった。
日増しに透明に冴えていく秋陽は、石畳や酒倉の屋根の一部にもあるコンクリートの乾場に鱗のように並べられ、染め返されるたびに渋いろを深めて行く長方形の麻袋と、酒倉の白壁との映りあいを鮮明にする。当分渋の匂がぷんぷんして、こぼされた液が、黒ずんだ血に似た斑点を石畳に撒くのもこの頃である。しかし樽屋がはいって、親桶の箍の締め直しがはじまると、渋の臭気は、鋭利な包丁の切先でぱりぱり音をたてて割られる太い真竹の、甘青っぽい匂に変る。
また大阪からとどく吉野杉で新桶がつくられる時には、酒の芳醇を増すとされているその木肌特有の香気が、かんな屑の一片にも漂い、これも梯子乗で、えんやさ、えんやさと、大槌を振う樽職人たちの掛声まではずみわたって聞こえた。
実際これ等のまっさらな親桶が、角力の横綱めいてふとぶとした青竹の大箍で、淡紅いろの胴体を幾段にも締めあげられた出来上がりは、どっかりと目ざましい観物であった。親桶が石畳に現れだすと、小学生の省三は仲間を引きつれて這いこみ、いくら叱られても、内側からを輪廻しのようにごろん、ごろん、させておもしろがったものであるが、新桶だけは流石の悪童たちも憚った。
敢えて犯そうものなら、仕込米を積みこんだ米蔵の中での戦争ごっこと同じく、老杜氏に大目玉を喰わされるのである。
主人の治右衛門でさえ「おやじどん」で、決して呼び捨てにはしなかったこの老杜氏は、もう四十年からの奉公人で、彼に劣らぬ年期を入れている弥吉番頭と並んで、店と酒倉を分権的に支配していたので、奥の小わっぱなど孫扱いであった。臍の下に猪口がのるのが自慢で、時々やって見せた彼の毛むくじゃらの偉大な布袋腹と、毎朝くばって来たひねり餅の味が、省三の記憶には切り離されない連関をもっている。
このひねり餅で、倉はいよいよ酒の仕込みがはじまったのを子供の省三は知る。またそれは米の蒸れ工合を見るために、酒屋だけで作られる特殊の餅であることもわかっていたが、どんな方法で拵えられるかは、白い米がどんな過程で酔う水に変ずるか、わからないと同じにわからなかった。そのほか酒倉のことは、昼でも場所ではまっ暗なのと、容易に人の立ち入りを許さない拒否で、一種神秘めいた蔽いに包まれていた。それに店と倉とは地球の東西に似ていた。酒醸りのおもな作業は、店の商売とは反対にほとんど真夜中に行われるからである。長い頑丈な鎖つきの大戸が、がら、がら、がちゃんと閉ざされて店が眠り、内所に集まって、雑巾さしやつぎ物の夜なべをする女中たちも寝てしまい、鼠の渾名のある小男の、眼っかちの不寝番の爺が、拍子木を叩いて廻りはじめる頃、倉は活動を開始する。表側がおきて働いている時、裏側は眠っており、それがおきだすと表側が眠る、というわけで、このずれちがいが酒倉の中の生活を一層隔絶させ、子供の幼いこころには怪しく、不可知なものに感ぜられるのであった。」


「迷路」上巻

ISBN-10: 4003104927
ISBN-13: 978-4003104927

2016年10月20日木曜日

20161019 少し酔った状態にて記しております・・。

A「本日は若干帰宅が遅くなりました。

また本日に関しては「ブログ記事の作成は止めておこうか・・。」とも比較的強く思いましたが、とりあえず何かしら書いておこうと思い、ついさきほど記しはじめた次第です・・。

さて、本日は以前いや現在もお世話になっている歯科理工学分野の先生二人とお目に掛かることになりましたが、久しぶりにこうした空間に身を置くことになりますと、不思議なことに以前の記憶が比較的鮮明に甦ってくるものです・・(笑)。

おそらく人と会うこと、そしてハナシをすることとは、記憶および精神の減退を防止する大きな要素ではないかと思われました・・。

また、そうした意味において、これまで記し続けているこのブログ記事もまた、同様の効果を持っているのではないかと思われます。

とはいえ、ハナシを戻し、これまで同じ研究分野(歯科理工学)であるにもかかわらず、あまり接点のなかった先生方が一堂に会する機会を設けることが出来たことは、少なくとも悪いものではなかったと考えます。

こうした狂言回し的な役回りとは、正直なところあまりキライではありません・・(笑)。

そしてまた、それが以前に自身が身を置いた研究分野に対して現在行うことの出来る僅かばかりの貢献ではないかとも思われます・・(苦笑)。

そういえば、ハナシは変わりますが、昨日記したブログ記事は、どうしたわけか、投稿翌日であるにもかかわらず、その閲覧者数が思いのほか多かったことは、多少不思議に思われます。

あるいは、これは先日来「はてなブログ」に記事を投稿していることに因るのでしょうか・・?

いずれにしましても、私の記したブログ記事を閲覧してくださる方々が多いことは、大変嬉しいことであり、よろしければ、こちらのブログであれ「はてなブログ」の方であれ、「★」あるいは「+1」を押して頂けますと、大変励みになりますので、僭越ではあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします(笑)。

また、本日に関しては久しぶりにお酒を飲んだことにより、何といいますか、頭の中で心理学でいうコンステレーションのようなことが生じていることが認識されます・・(笑)。

こうした気分とは、なかなか悪くないものではありますが、同時に多少フワフワしており、ある程度硬質の文章を記す場合においてはあまり適していないようです・・(笑)。

こうした状態にて記すのに適した、脳裏に浮かびやすい文体とは、私の場合、おそらく詩、短歌?のようなものであり
実際のところ
「秋の宵 右手に見ゆる 牛ヶ淵 月に照らされ 水面は映える」
「神無月 月陽は照らす 牛ヶ淵 神はなけれど 水面煌めく
「千代田にて はじまり興る 歯科医学 神無月とて 話ははずむ」
といった、よく分からないものが、困ったことに比較的スムーズに出てきます・・(苦笑)。

そして、このまま書いていきますと、おそらく変なことになりそうですので、本日はこの辺りで止めておきます(笑)。

とはいえ、本日もここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

さる四月の熊本における大地震にて被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。」


2016年10月18日火曜日

20161018 吸気と呼気のように膨張、収縮する精神・・

A「つい先日作成、投稿したブログ記事により総投稿記事数が450に到達しましたが、現在においてもこれといった内外の変化などは認められず、また、それと同時にかつてほど記事作成に窮するということもありません。

そして、そうした心境、状態にて本日も記事を作成しております。

とはいえ、やはり一日働いておりますと精も根も疲れるようであり、また、それが平日の記事作成の場合、通常の状態ではありますが、そうした疲労感の中で本日もまた記事作成を行っております・・(苦笑)。

しかしながら一連のブログ記事を閲覧しておりますと疲労感の中で作成したものと、そうでないものの間では特に大きな相異とは認められないのではないかと思われますが如何でしょうか・・?

そして、これは作成者の文章作成の才能の乏しさを示しているのか、あるいは、その進歩を示しているのかは、よくわかりません・・願わくは後者であらんことを望む次第ではありますが、こうしたものは自身のみで判定することは多少危険なことではないかと思われます・・(苦笑)。

そして、そうしたことと多少関連があるのではないかと思われますが、以前読み、また、これまでのブログ記事においても幾度か抜粋引用した夏目漱石著「三四郎」内の記述、主人公三四郎と広田先生との会話にて「我々の住む世の中とは、偽善的、露悪的の両思想が主たるものとして、それら交互の変化、交代にて進行していると考えて差支えない。」といったものがありましたが、これを現今の首都圏に当て嵌めて考えてみますと、おそらく後者の色彩が強いのではないかと思われます・・。

そして、これを異言すると、露悪的つまり強者、膨張、男性的な思想、発想が現今の首都圏において優位を占めているのではないかということになるものと思われます。

また、こうしたことは歴史上の事物、遺物について考えてみても、あるいは看取することが出来るのではないかと思われます。

それはたとえば巨大化した銅鐸、銅矛、古墳、そして近現代であれば19世紀末から20世紀前半における大艦巨砲主義などがそうした強者、膨張、男性的思想あるいはそれが優位を占める時代精神を示しているのではないかと思われます。

しかし一方、我々日本人とは「何でも小型化したがる」といった心的傾向を持つなどとも云われておりますが、これにさきのことを加味して考えてみますと、それは時代精神の一面のみにおいて云えることであり、実際のところ、我々の精神とは、時代により、事物により、種々様々な膨張、縮小双方の嗜好を示すのではなかろうかと思われます・・。

あるいはまた、それをさらに視点を変えますと、時代精神における躁、鬱双方の傾向を示すのではないかとも思われますが、さて如何でしょうか・・?

とはいえ、本日のブログ記事にて、こうしたことを主題として記す背景について考えてみますと、その根本とは、作成者の能動性ではありますが、それと同時に本日お話しを伺った歯科医師の方との対話もまた一つのそれ(根本)ではなかろうかとも思われます・・。

そして、そこ(このブログ記事)から本日私が伺ったハナシおよびそこで為された対話の概容を想定してみるということは、現時点においては時間的に近すぎることにより困難であり、おそらくこうしたことは、以前さかんに作成した対話形式のブログ記事のように、ハナシ、対話の後、ある程度時間を経てからでないと、うまく捨象し対話形式の文章と成すことが困難であるののかもしれません・・(笑)。

しかし、そうであるからといって、それ(直近のハナシ、対話)が現在そして未来においても無価値であると断ずるのはナンセンスであることはご理解頂けるのではないかと思われます。

とはいえ、現今首都圏において優位を占めていると思われる強者、膨張、男性的思想に拠ると、そうしたもの(直近のハナシ、対話)などは、無価値に近いものであると判ぜられる傾向があるのではないかとも思われます・・。

そしてこうした傾向とは、一体どこに由来しているのでしょうか?

一方、こうしたもの(時代精神)とは、時代が生む多くの文物に対し影響力を持ち、そしてそれらが現今の我々よりも賢明且つ客観的であるかもしれない後世の人々により鑑定、評価されることを忘れてはいけないのかもしれません・・(笑)。

ここでは「近視眼的」というコトバがキーワードになるのかもしれません・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの今後の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。」

20161017 2009年3月末~4月初頭のこと

おかげさまで450記事目の投稿となる昨日、1日の閲覧者が1000人に到達しました。

また、ここ最近、2回にわたり記した鹿児島についての記事は思いのほか閲覧者数が伸びましたので、いかなる要因であったか分かりませんが、少なくとも全くツマラナイものではなかったのかもしれません・・(笑)。

それ故、今後も折を見て、こうした形式にて、この周辺のことを少しづつ記してみようと思います。

しかしながら、さきの鹿児島での記憶を題材とした2記事は、これまでのブログ記事とは多少文体が異なり、不思議なことに、あの時期(2009~2013)の出来事を記す場合、あの少し硬質ともいえる文体にて記述する方がスムーズに文章が湧いてくる感じがするのです・・(笑)。

こうしたことは案外、単なる迷信や笑い事でもなく、実のところそれ(文章が湧き出すための心の構え?)が文体なるものを構成する極めて大事な要素ではないかとも思われるのです。そして、それを念頭に置き早速もう少しこの時期のことを以下に記してみようと思います。

「歯科技工学校を卒業し、鹿児島に移り住んだのは2009年の3月末であった。正直なところ、この進学とは、あまり周囲に喜ばれるものではなく、ただ、当時臨床研修医であった兄、そして松山に在住していた叔父がこれに賛成してくれていた。また私の方も叔父に出発前に「機会がありましたら鹿児島からそちらに遊びに行きますので、その時はどうぞよろしくお願いします。」といったアイサツを電話口にていささか興奮気味にしていた・・(笑)。兄の方は技工学校以前の和歌山在住時より何度か訪ねてきてくれていた。その際、自動車にて紀伊半島の古墳を2日かけて廻ったこともあった。
ちなみに兄の古代、就中、古墳時代に対する興味および、その材料となった諸書籍を薦めていたのは概ね私であり、また、そのように考えてみると割合子供の時分から私は書籍に関しては兄の案内人のようなものであったともいえる・・。
ハナシを戻し2009年の3月末に鹿児島に向け発った私は鹿児島着後当初数日は入居予定のアパートが契約日程の都合にて入れず、仕方がなく市内のビジネスホテルにて宿泊するうちに4月となった・・。入居したアパートは大学の近くではあったが、大学の立地自体が周辺市街地と多少隔たった丘の上であったため、何らかの移動手段は今後必要になるであろうと感じた。そして当初必要な家財道具等を近くのホームセンター(しもんそマルヒラ)にて購入し、それらを抱え昼過ぎ頃バスにてアパートに帰る際、不図、何ともいえない強烈な郷愁をおぼえたことを思い出す。しかし、そうした感傷的な心情は一時的なものであり、家電の設置、到着荷物の荷ほどき、整理などに追われ、それが一段落する頃には夕刻となっていた。当時はそれまで首都圏に在住していた為か、そのままアパートにて大人しく過ごすという考えに至らず、再度バスにて市街地に下り、市電に乗り鹿児島中央駅(西駅)まで出かけた。4月はじめの鹿児島市街は同時期の首都圏に比べると明らかに温暖であった。私は鹿児島中央駅周辺をひとしきり散策し、駅ビル上階の映画館にて当時上映されていた1944年のヒトラー暗殺計画を映画化した「ワルキューレ」という作品をレイトショーにて鑑賞した。しかし、よくよく考えてみると鹿児島着数日目に観た映画が「ワルキューレ」であったことは、その語源である北欧神話の女神の役割について考えてみると、多少こじつけ気味ではあるが、なかなか感慨深いものがあるともいえる・・(笑)。そして、その翌日は初めて大学に顔を出す予定の日であった。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。





2016年10月16日日曜日

20161016 450記事到達、および先日のノーベル文学賞に関連して思ったこと

A「本日の記事投稿により投稿記事数が450となります。

これは一つの区切りとなるのではないかと思われますが、しかし同時にこれは次の500記事への一区切りといった認識の方が適切ではないかと思われます・・。

そして、このようなことを記しますと、否応なく500記事までは記事を書き続けなければならないという認識(強迫観念?)が生じてきます(苦笑)が、これを異なった視点より考えてみますと500記事を全体として考えた場合、現在450記事にて、残りの50記事とは、これまでのブログ記事作成に費やした労力の9分の1程度にて到達可能であるということになります。

その場合、これを継続し500記事まで到達した方が自身の内心、精神にとっては良いとも思われますので、これまで以上にあまり無理をせず、途中休みも設けつつ継続するのが上策ではないかと思われます。

そして具体的には年内に500記事に到達すれば、とりあえず良いということにします・・(笑)。

しかし一方において面白いと思うことは、ブログ記事作成とは継続して行うことにより、それこそ継続することが出来ているのではないかということです。

これはよく分からない禅問答のようですが、おそらく実際に文字通りの意味です。

つまり、何か文章の主題となるものを胸中に持っているのであれば、即座にそれを適当な形式にて文章化することが出来るというわけではなく、むしろ我々とは一般的に、常時そうした主題をどのようなものであれ持っており、それを発信、発表する形式の方に関しての方がむしろ不慣れであり、そのため、常時ともいえる、ある程度の発信、発表の練習、修練の方が「より」必要ではないかということです・・。

そして、その一つの方法、形式がブログであるといえます。

少なくとも、現在の私の場合はそうであると考えております。

また、それに加え、ブログという不特定多数に対する発信、発表により、当初思っていた以上の閲覧してくださる方々がいることにより一層トルクが強まり、記事数増加(新たな記事作成)の推進力が増したものとも考えております。

人間のこうした精神、心情とは単純且つなかなか面白いものであり、もしこれ(ある程度の閲覧者数およびその経時的増加)がなければ、記事作成の継続を途中にて断念していたものと考えます。

それ故、450記事という一応区切りでありますので、これまで興味を持って読んでくださっていただいる皆様、どうもありとうございます。おかげさまで、450記事まで到達することが出来ました。

また、ここまで記していして不図思い起こしたことは、先日のノーベル文学賞の受賞者発表にてアメリカ合衆国のミュージシャンの方が受賞されたことです。

ちなみにこの方の有名な一曲は、以前(約半年前)、私のブログにてその演奏動画(モノクロ)が共有されておりました・・(笑)。

またミュージシャンが文学賞を受賞されるのは特に問題ではなく、それでしたら、たしかイギリスの高名な政治家が同じ賞を受賞されておりました。

これは当時のイギリスでは面白いハナシのネタになっていたそうです。

その内容は「この政治家がノーベル平和賞ではなくて文学賞を受賞したということはなかなかアジなことをする。」といった感じではなかったかと思われます・・。

とはいえ、ハナシを戻し、さきに示した楽曲の歌詞とは、もしかすると、私のこれまでのブログ記事作成においても多少は類似した要素があるのではないかと思われました・・。

ちなみに、この楽曲とは、大分前に観た映画「フォレスト・ガンプ」にて知り、また師匠(歯科理工学)が好んでいたものでもあります。

たしか学会にどこか(東京であったように思われる)へ出向いた際、師匠が私を含め弟子共数人と昼食にて学会場近くのレストランに入った折、どのような経緯であったか忘れてしまいましたが、この音楽家のハナシとなり、突然、師匠がこの楽曲の一節を英語にて歌い出されたことが大変印象的であり憶えております。

そして、このことを記しますと、今度は福岡在住時、地下鉄博多駅のホームにて電車待ちの際、その時話していた大学院生(留学生)の方がハナシの流れにて出てきた日本のある楽曲(童謡)を突然歌い出されたことをも思い起こされます・・。

おそらく場合にもよると思われますが、それらの場合に関して、私は特に不自然、不愉快なものであるとはまったく感じませんでした。

ハナシの流れ次第では、こうしたこともまた、あるのではないかということです・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した地震によって被災された地域での諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」


Blowing in the wind



2016年10月15日土曜日

20161015 はじめての鹿児島訪問2008

「2008年夏過ぎに院試のために鹿児島を訪れた私は、修士課程での友人であり、実家が鹿児島であるBとも久しぶりに会うことになった。
Bは地元の企業に就職し、当時はたしか国分、隼人方面に住んでいたにも関わらずわざわざ出向いて来てくれた。
当日の昼過ぎ頃には既に院試を終えていた為、その時は特に緊張する要素はなかった。
待ち合わせの場所は天文館の電停交差点であり、この時は多少私が早く着いていた。
市電が電停に着きBが下車してくるのが見えたので、声をかけ、手を振ったところ、Bの方もすぐに気づいた。
Bと会うのはさきのAと同様、修士課程修了後以来であるので、かれこれ1年半ぶりであった。
そして天文館にある霧島方面にて本店を構える地元で有名な焼き鳥屋(関東のそれとはニュアンスが異なる、どちらかというと鶏肉に特化した焼肉屋と考えた方が良い。)に入り、美味しい鳥を十分に御馳走になった。
Bは食べながらさかんに「どうです、美味しいでしょう?」と聞いてきたが実際、それは大変美味しいものであり、且つ面白いことに、このお店の霧島にある本店にはその後何度も足を運ぶことになり、後に鹿児島に訪れたAを案内したのもこの霧島のお店であった。
それらの起因とは、このはじめての鹿児島訪問時にあったことをこれを記していて気付いた。
その後、同じく天文館にある鹿児島名物「白くま」を食べさせてくれるお店に入り、これもBから御馳走になった。
この本家本元の「白くま」とは具材(主にフルーツ)のたくさん入った巨大なかき氷のようなものであり、たしかに夏場にこれを食べれば涼しくなること請け合いであろうと思われる。
また具材が種々入っていることより、比較的量が多かったにもかかわらず最後まで飽きが来ないで完食することが出来た。
とはいえ、食後のデザートとしてはかなりの量であったことをも思い出される。
あるいは通常これはカップルが二人して食べるようなものではないだろうか・・?
ともあれ、このお店には閉店までいて、ここでも色々と近況や思ったことを駄弁っていた・・。
久しぶりに知人に会い話すことになると、私はどうも勢いに任せて色々と語ってしまう傾向があるように思われる。
しかし、それはおそらく何も私のみならず、さきに出たAなどは、私などよりかなりいい線を行っているのではないかと思われるのだが・・。
そして夜半過ぎにBと別れ翌日帰郷した。
その後の技工学校では相変わらず講義、実習に追われる毎日であり、且つ秋を過ぎると国家試験の準備などで更に忙しくなっていった。
とはいえ、この当時は分からないことがあると周囲の歯科関係者に容易に聞くことが出来たため、環境的にはかなり恵まれていたのではないかと思われる。
修士院生の頃は分からないことの調べ方も分からず、またインターネットからの情報をあまり信用せず、専ら実地調査、図書館、書店などに拠って、分からないことの意味を泥縄式に調べていた・・。
しかし、この分からないことを足を使い、体を動かし調べるといったことが案外大事であったのではないかと現在になっては思われる。
とはいえ、それはある明確な調べたい目標の情報を直線的に得るといった性質のものではなく、得られた情報が当初企図していた意味、傾向を持っていなくとも、それが「確からしい」ということにより、その次の思考段階に移行してゆくといった計画性が立てにくい性質のものであり、おそらく総じて科学とは、本質的には、そういったものではないかと思われる。

たとえ最終的には大きな企図する目標があったとしても・・・。

その意味において現在世間に流布している様々な事物、利器とは、こうした科学の成果に基づいたものが多いと思われる一方、さきに記した「自らの足を使い、体を動かし調べる」といった要素が昨今の情報機器の進化発展によって、その本来の価値、意味が軽視せられているのではないかとも思われる。

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」