おかげさまで450記事目の投稿となる昨日、1日の閲覧者が1000人に到達しました。
また、ここ最近、2回にわたり記した鹿児島についての記事は思いのほか閲覧者数が伸びましたので、いかなる要因であったか分かりませんが、少なくとも全くツマラナイものではなかったのかもしれません・・(笑)。
それ故、今後も折を見て、こうした形式にて、この周辺のことを少しづつ記してみようと思います。
しかしながら、さきの鹿児島での記憶を題材とした2記事は、これまでのブログ記事とは多少文体が異なり、不思議なことに、あの時期(2009~2013)の出来事を記す場合、あの少し硬質ともいえる文体にて記述する方がスムーズに文章が湧いてくる感じがするのです・・(笑)。
こうしたことは案外、単なる迷信や笑い事でもなく、実のところそれ(文章が湧き出すための心の構え?)が文体なるものを構成する極めて大事な要素ではないかとも思われるのです。そして、それを念頭に置き早速もう少しこの時期のことを以下に記してみようと思います。
「歯科技工学校を卒業し、鹿児島に移り住んだのは2009年の3月末であった。正直なところ、この進学とは、あまり周囲に喜ばれるものではなく、ただ、当時臨床研修医であった兄、そして松山に在住していた叔父がこれに賛成してくれていた。また私の方も叔父に出発前に「機会がありましたら鹿児島からそちらに遊びに行きますので、その時はどうぞよろしくお願いします。」といったアイサツを電話口にていささか興奮気味にしていた・・(笑)。兄の方は技工学校以前の和歌山在住時より何度か訪ねてきてくれていた。その際、自動車にて紀伊半島の古墳を2日かけて廻ったこともあった。
ちなみに兄の古代、就中、古墳時代に対する興味および、その材料となった諸書籍を薦めていたのは概ね私であり、また、そのように考えてみると割合子供の時分から私は書籍に関しては兄の案内人のようなものであったともいえる・・。
ハナシを戻し2009年の3月末に鹿児島に向け発った私は鹿児島着後当初数日は入居予定のアパートが契約日程の都合にて入れず、仕方がなく市内のビジネスホテルにて宿泊するうちに4月となった・・。入居したアパートは大学の近くではあったが、大学の立地自体が周辺市街地と多少隔たった丘の上であったため、何らかの移動手段は今後必要になるであろうと感じた。そして当初必要な家財道具等を近くのホームセンター(しもんそマルヒラ)にて購入し、それらを抱え昼過ぎ頃バスにてアパートに帰る際、不図、何ともいえない強烈な郷愁をおぼえたことを思い出す。しかし、そうした感傷的な心情は一時的なものであり、家電の設置、到着荷物の荷ほどき、整理などに追われ、それが一段落する頃には夕刻となっていた。当時はそれまで首都圏に在住していた為か、そのままアパートにて大人しく過ごすという考えに至らず、再度バスにて市街地に下り、市電に乗り鹿児島中央駅(西駅)まで出かけた。4月はじめの鹿児島市街は同時期の首都圏に比べると明らかに温暖であった。私は鹿児島中央駅周辺をひとしきり散策し、駅ビル上階の映画館にて当時上映されていた1944年のヒトラー暗殺計画を映画化した「ワルキューレ」という作品をレイトショーにて鑑賞した。しかし、よくよく考えてみると鹿児島着数日目に観た映画が「ワルキューレ」であったことは、その語源である北欧神話の女神の役割について考えてみると、多少こじつけ気味ではあるが、なかなか感慨深いものがあるともいえる・・(笑)。そして、その翌日は初めて大学に顔を出す予定の日であった。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。
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