2025年6月27日金曜日

20250626 言語の層と内面のチューニングについて

 去る6月22日、当ブログは開始からちょうど丸10年となり、また総投稿数も2350に到達しました。本来であれば、10年間を一区切りとして休息を入れても良いとも思われますが、今しばらくは継続して、キリの良い2400記事まで到達できたところで、すっきりとした気持ちで当ブログやSNSからしばらく離れてみようと考えています。それ故、またしばらくは文体や内容に特にこだわらず、できるだけ自然なかたちで、さらに当記事を含め49記事を更新していきたいと考えています。

 思い返せば、当ブログ開始当初の頃は、こうした文章の作成が習慣として定着しておらず、また自らの文体も定まっていなかったことから、一つのブログ記事を作成するのに、かなりの時間と労力を要していました。しかしその後、自分なりに試行錯誤を続けていくなかで、ふと気が付きました。それは、自分の内面に「文章を書くのに適した言語が流れている層」のようなものが存在しており、そこに意識を重ね合わせることにより、比較的スムーズに文章を作成することができるのではないかということです。

 こうした内面での様相は「ラジオの手動チューニング」に似たような感覚であり、感度が合わないままでは雑音ばかり入り、文章の作成においても断片が途切れ途切れになりがちなのですが、あるところで、この文章の流れの層に意識がぴたりと合いますと、言語と文章が途切れずに滑らかに流れ出すように、比較的整った文章が湧いてくるのです。これは勿論、比喩ではありますが、同時に実感としてそうしたものがあったと云えます。

 また、この比喩は、文章の作成という行為が、必ずしも言語の持つ論理性だけで支えられているわけではないことを示唆しており、内面に流れている文章の層に、書き手の意識が合うことにより、その言語が身体化、つまり文章として顕現するのだと云えます。それはまさに、身体と言語が調和して表出される微妙なバランスであり、いわゆる「フロー状態」に近いのではないかと考えています。

 とはいえ、この内面での「言語の層と意識とのチューニング」は、毎度明瞭に意識されるものではなく、しばしばその感覚を見失って「そういえば、こうだった…」とその都度思い出しては、再び習慣化しようと試みてきました。それでも、いまだ完全には血肉化されたものとはなっておらず、恥ずかしながら現在もなお、度々、意識的にこの感覚を思い起こす必要がある状態にあると云えます。

 とりわけ、以前に書籍からの引用記事を中心として記事作成をしていた期間は、こうした内面での感覚を想起する必要性が乏しかったことから、かなりその感覚を忘れていました。そしてその後、再び自らの文章にてブログ記事の作成を始めましたが、先の感覚を忘れていたために、なかなか文章がまとまらず、苦慮することも多々ありました。それでも継続していくなかで、徐々にかつての感覚を取り戻してきたように思われます。そして、その鍵となるのが前述の「チューニング」であり、またそれには自分なりのいくつかのコツがあることも思い出されてきました。

 しかしながら、それらのコツも含め、未だに再び身体化されたわけではなく、折に触れては思い出すといったことを繰り返しています。それでも、思い出せるだけでも、まだマシであるとは云えるのかもしれません。

 さらに、2020年1月からエックス(旧ツイッター)との連携を始めて以降は、以前よりも読者の存在を意識するようになり、そこからブログ記事作成に多少萎縮してしまう感覚もありましたが、同時にその頃には総投稿数が1500を超えていたこともあり、たとえ投稿頻度が低下しても、記事作成自体は止むことなく継続でき、その後さらに現在に至るまで800記事程度は追加で更新してきました。これは、エックスとの連携以前から、すでに当ブログにて文章の作成がある程度習慣化していたために、過度なプレッシャーを受けることなく、双方共にどうにか継続できているのだと思われます。

 ともあれ、こうして作成している文章は、私にとって一種の備忘録であり、また読んでくださっている方々に向けた独白でもあります。しかし同時に、こうした、いわば自由な文章の作成を継続していくなかで、また新たに自らの文章作成に相転移のような変化が生じるのではないかとも考えています。だからこそ、たとえ文章として多少まとまりを欠いていたり、あるいは見苦しい部分があったとしても、今しばらくは、こうしてブログ記事の作成を継続したいと考えています。




2025年6月24日火曜日

20250623 丸10年間の継続と2350記事の歩みを振り返って思うこと

おかげさまで、昨日6月22日を以て当ブログは開始から丸10年を迎えました。また、総投稿記事数も、過日目標として掲げていた2350本に到達いたしました。これまで当ブログを読んでくださった皆さまに心より御礼申し上げます。

 今後も、2400記事までは、これまでと同様、あるいはこれまで以上の投稿頻度で継続していきたいと考えておりますので、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

 もっとも、斯様に10年間継続したとはいえ、私自身には大きな実感や感慨などはありません。そこから、先刻「ブログを10年間継続し、投稿記事が2000本を超える」とは、世間的にどの程度のことであるのかと、しばしネット検索してみましたが、腑に落ちる見解に出会うことはありませんでした。

 いや、そもそも私には、いわゆる「ブロガー」という自覚が乏しく、「何かしら文章を作成し、それを公表する習慣を保つための場」として当ブログを捉えてきました。また、私にとっては「文章を公表する」ことのほうが、ブロガーとして収益を得ることよりもはるかに重要であり、そして、そうした姿勢は2015年6月22日の開設以来、ある意味、強迫観念のように、今に至るまで持続しているのだと云えます。

 では何故、そうした強迫観念が今なお続いているのかと振り返ってみますと、それは2009年から2013年にかけての鹿児島在住期間に経験した、兄の死や、師匠の退職といった出来事が大きく影響しているものと考えます。そして、そうした経験が所謂「トラウマ」となり、それらを乗り越える過程において、自分の考えや読んできた書籍などを、出来るだけ分かり易く、伝わるように表現したいと云った欲求がごく自然に生じたのだと云えます。

 換言しますと、以前に在住していた和歌山での経験や学びのみでは、当ブログの開始には至らず、鹿児島での悲喜交々の経験や学びが、和歌山時代のそれと化合して、そこから約2年のタイムラグを経て、当ブログの開始に至ったのだと云えます。

 とはいえ、こうした感覚は、自身の主観に過ぎず、うまく表現出来ているかは分かりませんが、実際、当ブログの記事を読んで頂ければお分かりいただける通り、これらの経験がなければ、多くの記事の題材もまた存在しませんでした。それ故、この点においては大きくは間違っていないであろうと云い得ます。

 また、たとえ多くの閲覧者を得られなくとも、そうした題材を文章として表現すること自体が、当ブログの、他にあまりない独自性であるとも云えるのではないかと考えています。

 ちなみに、これまでの総閲覧数はおよそ94万5千人であり、単純に均しますと、1日あたり約250人ほどになります。そこから、当ブログは決して大きく成功しているとは云えませんが、同時に、私がこれまでに取り組んできた行為の中では、最も知名度を得たものであるとも自覚しています。

 そして、こうした自覚があったからこそ、当ブログ開始5年目の2020年から始めたエックス(旧ツイッター)と当ブログとの連携においても、少なからずプレッシャーを感じつつも(何とか)現在に至るまで継続的に発信することが出来ているのだと云えます。くわえて、2015年の当ブログ開始当初から実名で運営してきたことも、継続を支えた一つの要因となったと考えています。

 こうしたプレッシャーや負荷のようなものは、昨今の我が国社会全般では、避けられる傾向があるようですが、私自身はむしろ、それらは、継続のために必要なものであると考えています。そしてこれからもしばらく、2400記事到達までは、そうした緊張感を覚えつつ(何とか)継続出来れば良いと考えています。

今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2025年6月22日日曜日

20250622 多職種連携の基盤としてのOHAT-Jについて

 かねてより社会の高齢化が進行している我が国の医療・介護の現場では、これまで以上に「お口の健康」の重要性が認識されつつあります。とりわけ、歯科医師や歯科衛生士といった専門職が頻繁に関与しづらい在宅や施設での介護の場面では、早期に口腔内の変化に気づき、適切に対応することが、フレイルや低栄養、さらには誤嚥性肺炎といった二次的な健康リスクを防ぐうえで非常に重要と云えます。

 そして、そうした現場において近年注目されているのが、「OHAT(Oral Health Assessment Tool:口腔健康評価ツール、通称オーハット)」と呼ばれる、比較的簡便な評価手法です。このOHATは、オーストラリアの歯科医師チャルマーズ(Chalmers)らによって開発されたものであり、ご高齢や要介護の方々の口腔内の状態を、歯科専門職でなくても観察・評価できるように考案された実践的なツールです。

 我が国ではこれを基に日本語版「OHAT-J(オーハット・ジェイ)」が作成され、現在では医療・介護の現場において広く活用されています。OHAT-Jを用いることで、特別な機器や高度な専門知識を必要とせず、以下の8項目を視診や触診により評価することが可能となります。

① 唇(乾燥、ひび割れ、潰瘍の有無)
② 舌(白苔、赤み、潰瘍など)
③ 歯肉・粘膜(腫脹、発赤、出血)
④ 唾液(量、粘性、乾燥)
⑤ 天然歯(破折、動揺、汚れなど)
⑥ 義歯(適合状況、清潔さ)
⑦ 口腔清潔(食渣、歯垢、臭気)
⑧ 痛み・不快感(咀嚼時の表情、拒否行動)

 これらの項目を0〜2点の3段階で評価し、合計点から口腔内の健康状態を数値化します。数値化することにより経時的な変化が把握しやすくなり、定期的な観察を通じて、改善の兆候や悪化の兆しにも早期に対応することが可能となります。

 OHAT-Jは、外来受診が難しいご高齢の方々の歯科訪問診療においても有効です。ご本人が不調を訴えにくいことも多く、周囲の「気づき」が診療の出発点となる場合が少なくないためです。

 そのため、在宅・施設の介護スタッフ、リハビリ職、訪問看護師の方々が日常的にOHAT-Jを活用して観察を行うことにより、わずかな異常にも早期に気づくことができ、歯科医師や歯科衛生士が訪問する際には、すでに有益な初期情報が蓄積されていることになります。

 また、OHAT-Jで得られる評価スコアは、口腔衛生管理(口腔ケア)の効果測定や治療の優先順位の検討にも活用でき、記録や報告、さらには他職種との情報共有の基盤としても大変有用といえます。

 加えて、OHAT-Jの価値は、歯科と介護の専門職の橋渡しにとどまらず、異なる職種間で共通の評価指標を持つことにより、多職種連携をより円滑にし、ケアの方針や意思決定の統一の促進にも寄与します。

 たとえば、「OHAT-Jの評価が2点上昇した」といった変化を歯科・医科・介護の各職種が同じ視点で共有できれば、それは「具体的な健康リスクの高まり」を意味し、必要な専門職の介入タイミングや対応の優先順位についても、一致した理解のもとで速やかに実施することが可能となります。

 このように、OHAT-Jは現場での混乱や多職種連携の不調を防ぐ共通言語(リングア・フランカ)として機能する、非常に実用的で信頼性の高いツールと云えます。

 すでにご存じの方々も多くいらっしゃるとは思われますが、現在、我が国で推進されている「地域包括ケアシステム」では、「住み慣れた地域で、人生の最期まで自立して暮らす」ことが大きな目標とされています。そして、その前提として、「食べる」「話す」といった日常生活の基盤である口腔機能の維持が不可欠といえます。

 その意味でも、OHAT-Jのような評価ツールが地域に広く普及することにより、ご高齢の方々へのケアに関与する各専門職の方々が、口腔内に関する情報を共通の視点で評価・共有できるようになり、より高度な多職種連携が実現可能となります。

 また、将来的には、電子カルテや専用アプリとの連携、さらにはAIによる変化の自動予測など、近年発展を遂げているデジタル技術との融合によって、活用の幅がさらに広がることも期待されています。さらに、OHAT-Jの継続的な活用を通じて、地域における口腔保健の重要性そのものが可視化され、地域包括ケアの基盤強化にも寄与することが期待されます。

 OHAT-Jは、単なる口腔内の状態の評価ツールにとどまらず、ご高齢の方々の健康を守るために、小さな変化を見逃さず、多職種が連携して活動するための「気づきのインフラ」として、今後ますます重要な役割を果たしていくことが期待されています。

今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。おかげさまで本日で当ブログ開始から丸10年となりました!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


20250621 阿部先生との対話から推測される我が国の高等教育改革、および私見、専門職大学の展望について

 近年、少子高齢化の進展とAI・デジタル技術の飛躍的発展により、我が国の高等教育は根本的な転換を迫られています。こうした状況に対応して、2025年2月21日、中央教育審議会は『我が国の「知の総和」向上の未来像―高等教育システムの再構築―』と題する答申を発表し、文部科学省がこれを正式に受理しました。本答申は、我が国の高等教育の質と価値を社会全体で底上げするための、抜本的かつ構造的な政策転換を提示するものと云えます。

 本答申において示される「知の総和」とは、「学修者数」×「個々の学修能力」によって算出される、国家的な知的資源の総体を指します。また、これによると、2022年度時点で約63万人であった大学進学者数は、2035年には約59万人、2040年には約46万人にまで減少するという推計が示されており、約言すれば、2040年には現状より約27%大学進学者数が減少することになります。こうした大学進学者数の急激な減少のなかで、もはや量的な拡大のみでは社会の知的基盤を維持することはできず、いかに個々人の学修成果の質を高めていくかが喫緊の課題となっています。

 また、本答申では、学修者の資質向上のためのカリキュラム改革、学位授与の厳格化、大学間連携の強化、そして博士課程における実践性の高い人材育成の推進が提言されています。くわえて、大学の情報公開の徹底により、高等教育の透明性と信頼性の確保を図る方向性も示されています。

 そして、本答申では、専門知識と技能を備えた専門職人材の養成についても言及しており、そこには歯科医師や歯科衛生士などの歯科医療専門職も含まれます。これらの職種はかつて、口腔領域での専門職と認識されていましたが、近年の多くの研究により、口腔機能が全身の健康状態、栄養摂取、言語能力、そして認知機能の維持にも関与していることが明らかになってきました。

 具体例を挙げますと、要介護状態のご高齢の方々を対象に、訪問看護サービスを併用した歯科訪問診療を行ったパイロット研究では、OHAT-J(合計16点満点)のスコアが介入前平均4.5(SD 2.3)から、1週間後に3.7(SD 2.0)、4週間後に3.6(SD 2.2)へと有意に改善し(p < 0.001)、口腔内環境の改善が定量的に裏付けられました。さらに、一年にわたる歯科訪問診療を実施した介護施設での追跡研究では、舌・歯肉・粘膜・義歯・口腔清潔の各項目に関するOHAT-Jの各サブスコアが有意に改善され、長期的な口腔内状態の安定維持が確認されています。

 これらの研究成果や、近年の我が国高等教育における潮流(コメディカル職種養成機関の四年制大学化)を背景として、歯科衛生士などパラデンタル職種の養成機関にも変化が生じており、従来は三年制短期大学および専門学校が主流であった歯科衛生士の養成課程の四年制大学化およびその新設が進みつつあります。さらに、大学院段階においては、臨床現場の知見を研究に昇華させる「実践的博士人材」の育成が、文部科学省の中長期的な教育政策に位置づけられています。

 こうした社会の流れを受け、医療・介護系の専門職大学の新設も現実的な選択肢となります。専門職大学は、2019年の制度施行以来、2025年4月の時点で全国に19校が設置されており、その多くが看護、保育、福祉、そして情報など、社会的需要が高い分野を対象としています。また、文部科学省は、地域医療や在宅ケアに資する人材養成の拠点として、地域密着型の医療・福祉系専門職大学の制度的支援を強化しており、歯科衛生士や理学療法士、介護福祉士等の医療・介護系専門職を複合的に養成する大学および専門職大学の構想の実現可能性は、今後さらに高まることが見込まれます。

 さらに、2024年の診療報酬改定では、多職種連携と口腔衛生管理の重要性が強調されており、そのなかで歯科衛生士が在宅医療・介護の現場で果たす役割は拡大の一途を辿っていると云えます。こうした社会状況を鑑みますと、歯科衛生士など歯科医療専門職もまた、単なる一専門職にとどまらず、地域社会の持続性を支える社会基盤職としての性格を強めつつあるとも云えます。

 結論として、歯科医療をはじめとする医療・介護系専門職種全般は、社会のニーズに対応しつつ、高度な技能や専門性を涵養することが可能な将来性のある職種であると云えます。それ故、進路選択に悩む高校生の方々や、転職やリスキリングを検討されている既卒の方々にとって、歯科医療専門職を養成する大学は、一考の価値がある選択肢となると云えます。そしてまた、継続的な研鑽により、比較的安定した生活と、確かなやりがいが得られる領域であることには異論の余地は少ないと云い得ます。

 これからの社会を支えるのは、歯科医療に限らず、専門性と技能を併せ持ち、自律的に課題を発見・解決できる人材であると考えます。そして、こうした人材養成のために、我が国の高等教育は転換点を迎えていると云えます。

今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



2025年6月18日水曜日

20250618「日本文学史序説」との出会いについて①

 直近の投稿記事にて「自由な立ち読み的読書が個人・社会の双方での創造性の活性化に何らかの良い効果があるのではないか?」という見解を述べました。そして私自身の経験で、この見解を裏書きすると考えられることは、2013年の学位取得から2015年の当ブログを始めるに至るまでの期間でのことです。しかしまた、そこには伏線があり、それは鹿児島在住期間での習慣です。当時、私は平日は通常、夕刻過ぎまでは大学研究室におり、その後、近くの自宅アパートに帰宅していましたが、翌日が休みの金曜日は概ね、夕刻過ぎの帰宅の際、すぐには帰宅せず、原付でキャンパスがある丘を下りて、県道217号・産業道路沿いのオプシアミスミと云う比較的大規模な書店が入ったショッピングモールや、当時、近くにあったツタヤに行き、立ち読みをしたり、DVDをレンタルしていました。また、この金曜日の原付で丘をおりる時のワクワク感は、さきほど、当文章を作成するためにGoogleMapのStreetViewにて街並みを見ていて思い出されました…。ともあれ、そうしたワクワクした状態で書店内を徘徊し、立ち読みをすることは、なかなか楽しいものであり、さらに、それは、週末の天文館での複数大型書店での立ち読みや照国表参道沿いのドトールでの論文読みや読書、その後の宇宿までの長めの散歩といったお楽しみの序章といった趣もありました。そして、2012年のそうした折に加藤周一著「日本文学史序説」上下巻を購入しましたが、以前にも当ブログにて述べましたが、当著作は、学位取得までは多忙のため読めずに積読状態でした。そして翌2013年初秋に帰郷後、不図思い出して当著作を手に取り読んでみますと「これは面白い!」となり、その後集中して読み進め、丁度、同時期に出席させて頂いた和歌山での勉強会においても、こちらの著作を「面白い!」と云い、またその時にも、当著作購入に至るまでの前述経緯を述べていたことが思い出されました…。そして、この記憶は、この時(於 和歌山)に口語(会話)として述べていたことから、今回も含め、何度か当ブログにて文章化することが出来ているのだと云えます。
 ともあれ、当著作は、鹿児島在住期の立ち読みにて見つけ購入し、そして帰郷後にはじめて、ある程度時間を掛けて読み進めた人文系著作であると云えますが、では何故、当著作を興味深く感じられたについては、おそらく、その文体にあると考えます。と云うのも著者である加藤周一は、元来が職業的な文学史研究者ではなく、血液学を専門とする内科医師であったことから、その医系論文・文章にも通じる明晰な当著作の文体が、医系分野に含まれる歯系分野(歯科生体材料学)の和洋文献を、ある程度は読んだと云い得る私にとって大変読み易く感じられたのだと思われます。そして、その続きにつきましては、また次の機会に述べさせて頂きます。今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2025年6月16日月曜日

20250615 丸10年の継続と2400記事に向けて:自由で非効率的な行為の価値

 来る6月22日で、当ブログは開始からちょうど丸10年を迎えます。一方、これまでの総投稿記事数は2346本であり、当記事を含め、あと4記事を新規更新すれば、いくらか区切りの良い2350記事まで到達します。そしてその後も、現在と同様のペースで更新を続け、とりあえず2400記事を目指したいと考えています。
 とはいえ、それがいつ頃になるかは未だ不明であり目途は立っていません。具体的には3日に1記事の投稿ペースであれば、2350から2400までの50記事は150日要することになります。したがって、6月後半(6/22)から150日すなわち5か月としますと、年内11月下旬での達成が見込まれます。しかしながら、11月下旬迄、変わらず当ブログを継続していることには抵抗があり、できれば、可及的速やかに2400記事まで到達して、その後はしばらく休みたいと考えています。
 そして、その現実的且つ具体的な方法として、これまでに作成した下書き記事(約200本)に加筆修正を行い投稿する、あるいは、過去に行っていたような引用記事の作成により、効率的に記事数を増加させることも可能と云えます。
 思い返しますと、以前、集中的に引用記事を作成・投稿していた時期がありましたが、この頃は現在よりも真剣に読書に取り組んでおり、あるいは少し極端に云いますと「ブログ記事作成のために読書をしていた」ようなところもありました。対して、昨今は、そうした目的意識が相対的に希薄であるため、以前ほど読書に身が入らない一方で、より自由で、立ち読み的に読書ができるようになった実感があります。この「自由な立ち読み的」とは、特定の目的に縛られず、さまざまなジャンルの書籍を関心の赴くまま分野横断的に読むという営みを指します。
 私見では、こうした自由で能動的な読書のなかから、普遍的且つ新しい考え、すなわち創造性が芽生えるのではないかと考えています。つまり、予め目的を定めた行為よりも、目的に縛られない能動的な活動を通して、人間の精神に創造の灯が宿るのではないかということです。
 もちろん、各人が携わる専門分野における著作や文献資料の読解・理解が重要であることは当然ではありますが、それと並行して、各人が能動的な関心に基づき読み進められるジャンルや分野を持つことも、社会全体の創造性を活性化させるうえでとても重要であるように思われるのです。とはいえ、こうした読書の行為態度には「コストパフォーマンス」や「効率性」を最重視する価値観とは相容れない部分が少なからずあります。
 すなわち、職務目的での読書以外を、非効率で無駄なものとみなす傾向が強く、それが一般化した社会とは、ある種の強い凝集性とともに、権威主義的な傾向も少なからずあるのではないかと思われます。
 そのように考えてみますと、当ブログ記事の作成とは、単なる自らの情報発信や記録や備忘録のようなものだけではなく、自らの日々の経験や読書を通して得られた考えを、あらためて自らのものにする、つまり「対自化」して、それらを統合するための行為であるとも云い得ます。
 それ故、継続期間や記事数といった「数値」とは、あくまでも可視化・相対化し易い指標であり、その背後には、自らの継続的で能動的な生きた関心が息づいているのです。そして今後、投稿頻度がまた多少変わろうとも、それらの根底にある創造を試みる精神は保ち続けたいと考えていますが、当面は2400記事までどうにか到達して、一旦、当ブログやSNSから離れてしばらく休みたいです。
今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2025年6月13日金曜日

20250612 KKベストセラーズ刊 宮台真司著「制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years」 pp.277-278より抜粋

KKベストセラーズ刊 宮台真司著「制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years」
pp.277-278より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4584140006
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4584140000

 93年に「ブルセラ論戦」をはじめたとき、わたしは、数おおくのルポライターや社会学者がこの問題の調査や分析に乗り出すものと期待していた。しかし実際に一年がたってみると、たんなる「面白がり」を別にすれば、この問題について持続的に調べ、まとまった発言をしてきたのは、藤井良樹とわたしの二人だけだった。これだけ身近で、かつ耳目をひく事態がもちあがっているとき、どれだけ適切な記述をあたえられるかということは、「社会問題をあつかう」ことを表看板にするライターにとっても、「社会のしくみを分析する」ことを表看板にする社会学者にとっても、実力が試されるチャンスだったはずだ。

 このような「言説の枯渇」が何を意味しているのかは、それはそれで機会をあらためて論じられるべき重大な問題だ。ただ、ひとつだけ言っておきたいのは、わたしたちはどうもいままで、自分たち自身ーそれを「戦後の日本」といってもいいかもしれないーについて、適切な自己把握をしてこなかったということだ。簡単にいえば、わたしたちがどのような社会に生きているののかが、それを否定したり肯定したりする以前にすこしも理解されていない。そこにあるのは、あいも変わらぬ「外部帰属化による他責化と他罰化」、すなわち低コストの因果帰属による負担免除と感情浄化(カタルシス)ばかりだ。この手の輩を、わたしは「頓馬」と呼んでいる。

 「ブルセラ女子高生」や「テレクラ中学生」をあたかも異人種であるかのごとくあつかう「切断操作」Cutting out Operationも、じつにひんぱんに見受けられる作法である。これは、まえがきで述べた「外部帰属化」や、「わたしの専門ではないもので」といった類の「自己無関連化」(だいたい「ブルセラ女子高生」なんていう専門分野があるわけがない)と同じように、自分と世界とのかかわりを抹消するーすなわち自己把握を放棄することにほかならない。わたしの考えでは、いまのところ彼女たちは、わたしたち自身とそうちがわないコミュニケーションの資質をもっていて、いわば「生きる場」の条件が変ったためにその適応行動が「外見上」突飛なものにみえるようになっただけのことだ。

 いずれにせよ、社会学や教育学をふくめ、かつて社会にかかわるものとされていた言説(の制度)のおおくが、いまや実効性を欠いたものーあってもなくてもよいものーとなり、「穴ごもりのための穴」や「ありそうもない別世界」を提示することでその言説にかかわる者だけを癒すものにー何とでも取り替えられる癒しやツールにー変じつつある。それは社会を記述する自己把握であるというより、たんなる自意識の相関物にすぎない。自己把握は自意識と同じではない。自己把握はおおくの場合自意識を脅かすからだ。こうした差異にますます鈍感になっていくこと自体、社会システムの大がかりな変容を告げ知らせているという意味で、それはそれで社会システム理論の考察材料にはなるがー。