2024年9月22日日曜日

20240921 過日(0919)の記事投稿から思い出されたこと:学び方について

 はじめに、今回の石川県での豪雨による被害が出来るだけ軽微であり、また年初の震災からの復興も含めた当地の被害復興が速やかに進むことを願っております。

 一昨日の記事投稿後少し経って、そこで述べた19世紀半ばの欧州とトクヴィルとブログ記事作成とについて思い出すことがありました。その記事にて述べた一連の1848年の欧州を題材とした記事の作成背景には、自らの興味と、いくらかの読書経験があったと云えますが、それと類似した経緯を経たものとして、20年近く前に作成した修士論文があります。当時の私は、紀伊半島西部(和歌山県)の地域性について調べており、その地域性を検討する際の題材の一つとしたのが、弥生時代の青銅製祭器である銅鐸でした。銅鐸については当ブログにおいても何度か記事を作成してきましたが、この紀伊半島西部(和歌山)は全国でも相対的に銅鐸の出土数が多く、そうしたいわば古代における地域の特徴が、現代においても何かしら反映することがあるのか?と考えていましたが、そうしたことを具体的に考えるためには、さきの県内の銅鐸出土のある程度詳細な様相や傾向についての知見を得ることが重要と考え、我が国の古代史、考古学についての著作を大学図書館や書店などで、手当たり次第に読みました。とはいえ、当時の私は、古代史、弥生時代全般についての知識は、ほぼ皆無であったことから、当初はまさに雲を掴むような感じではありましたが、ある程度関連する著作を読み続け、さらに購入した国土地理院の20万分の1スケールの和歌山県の地図に書籍に記載のあった遺跡や銅鐸出土地のプロットや書き込みなどをしていますと、徐々にその様相が自分なりに理解出来るようになり、さらに、学食や当時よく行っていた国道26号線沿いのCoCo壱番屋にて友人等に得られた発見や知見などを話していますと、そのやり取りの中で、自分の考えも整理されて、自分なりに文語化されるようになっていったのだと云えます。しかし、当時はそうした興味深い記述を当ブログの引用記事のように抜粋することはしていませんでしたので、事後になりますが少し悔やまれます。とはいえ、かねてより私は頭脳明晰ではないと自覚していましたので、こうした身体を多く用いた調べ方や、駄弁りなどにより、得られた知識や知見を身体化・定着化させることは、それなりに理に適っていたのではないかと思われます。また、当ブログにおいてもしばしば題材としている所謂「思想」については、さきの友人方との駄弁りによる耳学問から、何となく勘所を掴み、そして重要と思われた著作については図書館で借りたり、あるいは書店で入手して読んで、自分なりに理解に努めていましたが、そうして得られた知識や知見から、自らの研究テーマであった地域性の考察において参考となるものが少なからずあったことから、こうした研究とは、特にその道に入りたてとも云える修士課程の時分には、周囲の研究テーマの異なる院生の方々と出来るだけ駄弁る機会を持った方が良いのではないかと考えます。また、私の場合、大学院に進むまでは、3年間、南紀白浜にてホテル勤務をしており、さらにその当初は、この地の大学院に進むとは全く考えていなかったことから、そこでの即自的とも云える日常経験を、大学院で地域学を専攻することにより、対自化することが出来たのではないかと思われるのです。また、こうした経緯・流路とは、おそらく医療系分野などにおいても効果的であると考えます。つまり、資格取得の後、ある程度の期間臨床経験を積み、その中で自分が興味深いと思った分野の大学院に進み研究をすることは、その方にとっても、その分野にとっても有益な効果があり、そして、そうした方々が増加することにより、その職種や医療全体にとって創造的な変化が自然にもたらされるのではないかと考えます。そして、そうした視座から、コメディカル・パラデンタル職種全般の養成は四年制大学にて行う方が良いと考えるのです。ともあれ、話を私の経験に戻しますと、この時の地域学の研究にて培った知識や知見は、その後、歯科技工士の免許を取得して歯科生体材料学の大学院に進んだ際にも役に立ち、おそらく、地域学での研究経験がなければ、色々とありましたが(どうにか)学位取得まで至らなかったのではないかと考えます。
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2024年9月20日金曜日

20240919 トクヴィルと19世紀半ばの欧州への興味とブログ記事作成手法について

 先日読了した岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著「フランス二月革命の日々」も含め、昨年末頃から比較的集中してトクヴィルによる著作または関連著作を読んできましたが、その発端は、東浩紀による「訂正可能性の哲学」を読み、その中でトクヴィルへの言及があったことであり、くわえて2022年2月から今なお続いている第二次宇露戦争について、より深く知るために、以前に読んだミネルヴァ書房刊 岩間陽子・君塚直隆・細井雄一による「ハンドブックヨーロッパ外交史」内のクリミア戦争の解説項目にて参考文献として挙げられていた白水社刊 オーランド・ファイジズ著「クリミア戦争」上下巻を読み、トクヴィルの生きた時代と「クリミア戦争」が被っていたことを知り、さらに、それら著作を読んだことから、これまた以前に読み、数年前に興味深いと思い引用記事を作成した岩波書店刊 トーマス・マン著「魔の山」の主要登場人物の一人であるセテムブリーニ氏の背景についての記述や、20年以上前に読んだ同じく岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著「さらば古きものよ」内の著者自身の来歴の記述とも関連性が認められたことから、トクヴィルとクリミア戦争を軸として徐々に19世紀半ばの欧州に深入りしていったのだと云えます。

 正直なところ、これまで私はナポレオン戦争以降のフランスでの政権や政体の変遷や欧州全体での同時代の様相をあまり知らなかったことから、さきに挙げた新たに読んだ著作(トクヴィルおよび「クリミア戦争」)について比較的熱心に読むことが出来たのだと思われます。そして、そこからまた興味は亢進して、ここ最近19世紀半ばの欧州について扱ったオリジナルのブログ記事をいくつか作成・投稿してきましたが、それらの記事作成では昨今流行りの人工知能(ChatGPT)を援用しました。私にとってこの記事作成手法は、それまでの記事作成手法と異なることから、未だに慣れませんが、同時に以前と比べますと、多少は感覚あるいはコツを掴んできたのではないかとも思われます。さらに感覚ついでに述べますと、あくまでも私見ではありますが、これまでの記事作成手法は、金属や合金を赤熱させて叩いて成形をする所謂鍛造に近い感覚があり、他方の人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成は、溶湯状態の金属・合金を鋳型に流し込む鋳造に近い感覚があると思われるのです。これを言い換えますと、現在作成している当記事は、前者の鍛造に近い感覚があり、意識する限りでは、手本や型となっている文章はありません。他方の人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成では、既存の複数ブログ記事から、関連すると思われる文章・記述を素材として抜粋して、それらをブロガーの記事作成欄に並べ、それら全体をコピーしてChatGPTにペーストをして、そこから指示を出して、それら複数の記事抜粋部が溶け合い統合され、そこから重複する内容の記述を削除したり、さらに文章を整えて、どうにか、それらしい文章にしていくのですが、素材とした文章・記述の内容については、事前に、それぞれが統合可能と見込まれた関連のあるものとして認識していることから、ChatGPTによってはじめに統合された文章を眺め、読んでみても、私としては、そこまでおかしな文章ではなく、何となくではあるものの帳尻を合わせることは、そこまで困難ではないと云えます。しかし、作成者側からしますと、やはり現時点では、前者の、あるいは現在用いている鍛造的な記事作成手法の方が乗ってきますと面白くなり、没頭する感覚があり、あるいはそこに私なりの創造が働いているように思われるのです。そして後者の人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成手法では、現時点では、抜粋した文章(素材)を並べて人工知能に指示を出して記事を作成していても、面白く、没頭できるといった感覚は希薄であり、あるいは、これもまた徐々に変化していくのかもしれませんが、しかし、今現在にて既に、鋳造で云えば溶湯を流し込み、そして鋳型から掘り出したばかりの研削すらしてしていない未整形状態とも云えるブログ記事の下書き・ドラフトのようなものが150近くあり、これらを時々はぬか漬けのぬか床のように、かき混ぜて、それぞれの概要を想起させるのが億劫に感じられます。とはいえ、それら下書き・ドラフトも、しばらく経ちますと、何かの機会に、その中からインスピレーションを得ることもあると考えますので、現在では人工知能を援用して作成した下書き・ドラフトも出来るだけ作成しておいた方が良いと考えています。ともあれ、このように、読んだ著作についてから歴史への興味、そして、ブログ記事の作成手法へと、自然ではあるものの、脈絡や論理性のないブログ記事になってしまいましたが、これもまた、後で何かの役に立つのではないかといった可能性を信じて当ブログを終えようと思います。
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2024年9月15日日曜日

20240918 1848年のヨーロッパについて③

 1848年は欧州にとって激動の年でした。「諸国民の春」として知られるこの年に始まった一連の革命や動乱では、自由主義や民族主義の思想の拡がりによって、欧州各地で新たな秩序を求める運動が活発化しました。これら19世紀半ばの出来事によって、欧州ではナポレオン戦争後以来のウィーン体制に大きな変革が生じ、続く同世紀後半、そして次なる20世紀へと至ります。

 1848年2月、フランスのパリで革命が起こり、1830年以来、所謂7月王政によって統治していたオルレアン朝のルイ=フィリップ王が退位しました。この2月革命では、労働者や市民が蜂起をして、7月王政に反発した結果、第二共和政が樹立されます。この革命は、労働者階級と市民階級(ブルジョワジー)とが協力して政治的変革を求めたものであり、自由主義的な政府が誕生しました。しかし、第二共和政が成立してもフランス国内の治安は安定せずに同年6月には労働者階級と政府間の対立が表面化して、労働者階級側が反乱・暴動を起こしました(6月蜂起)。この反乱は政府軍により鎮圧されましたが、結果的にフランス社会にさらなる分断が生じて、そうした状況を背景として、後にナポレオン三世がクーデターを起こし、1852年に自らを皇帝とする第2帝政が誕生する要因の一つとなりました。

 フランスの2月革命は、ヨーロッパ全体に波及し、欧州各国で同様の革命が勃発しました。特に、ドイツ諸邦、オーストリア、イタリアでの蜂起は、フランスの影響を受けたものでした。これら地域では、長年にわたる社会的不満や経済的苦境があり、そこに自由主義や民族主義の台頭が化合して勃発の要因を形成していました。ドイツにおいては、自由主義者と民族主義者が連携して、統一ドイツを目指した運動が活発化しました。この運動の結果、フランクフルト国民議会が開催され、統一憲法の草案が作成されましたが、最終的にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が皇帝の称号を拒否して、この運動は頓挫しました。この時点でドイツ統一は実現されなかったものの、後のプロイセン主導による統一ドイツへの布石となりました。他方、イタリアでは、ジュゼッペ・マッツィーニをはじめとする革命家たちが、イタリア統一を目指してサルデーニャ王国のカルロ・アルベルト王が主導する形で対オーストリア戦争が始まりました。しかし、当時のイタリアは分裂状態のままであったことから、オーストリア軍に敗北して、イタリア統一は頓挫しました。しかし、さきのドイツと同様、これも後にイタリアが統一国家を形成するための礎となりました。

 先述のウィーン体制はナポレオン戦争後1815年に成立したものであり、ヨーロッパの保守的秩序を維持するためのものでした。この体制下では、オーストリア帝国がヨーロッパの安定を担う中心的な存在でしたが、1848年の革命の波は、このウィーン体制を大きく揺るがしました。特に、オーストリアの首都ウィーンでの蜂起は象徴的であり、市民や学生、労働者達が蜂起し、これにより首相メッテルニヒが失脚しました。さらに隣のハンガリーでも独立を求める民族主義運動が激化して、ハンガリー人はオーストリアからの分離を求めて戦いました。しかし、オーストリア帝国はロシアの支援を得てこのハンガリーでの蜂起を鎮圧して一時的にではあれ秩序を回復させました。

 くわえて、1848年の欧州での革命や動乱の背景には、1845年からの深刻な飢饉がありました。特に、アイルランドではジャガイモ胴枯れ病によって壊滅的な打撃を受け、100万人以上の死者が出ました。この影響は、アイルランドにとどまらず、ヨーロッパ各地に広がり、フランスやドイツでも食糧不足と物価高騰が社会不安を招きました。南ドイツ地域では物価高騰により暴動が頻発して、またベルギーでは飢饉が疫病蔓延を引き起こしました。そしてそこからの経済的困窮も民衆による暴動や蜂起を引き起こす一つの要因となりました。

 1848年の革命は一時的には成功をおさめたものの、多くの場合は、保守的勢力の反動によって失敗に終わりました。先述のとおり、ドイツでは統一運動が内部の分裂によって頓挫し、フランスでは労働者と市民階級との対立が深まり、最終的にナポレオン三世による第二帝政の樹立となりました。イタリアではオーストリア帝国との戦争に敗北して、統一されることはありませんでした。

 オーストリア帝国やハンガリーでは、民族主義運動がロシア帝国の軍事介入によって鎮圧され、保守的な君主制が復権しました。こうした革命失敗の背景には、革命勢力の内部分裂や組織の欠如、外部からの軍事的圧力などが複合的に作用していました。特に、革命勢力間の連携の欠如が致命的であり、後の革命運動への重要な教訓となりました。

 こうした一連の動きから、欧州の情勢はさらに緊張度を増して、その後、1853年に勃発したナポレオン戦争以来の大戦争と云えるクリミア戦争では、オーストリアとロシアがバルカン半島への支配・影響力をめぐって対立を深めて、ウィーン体制は崩壊に向かいます。クリミア戦争では、フランスとイギリスがオスマン帝国側に立ってロシア帝国と戦い、ロシアのバルカン半島における影響力を削減しようとしました。オーストリアは直接的な武力行使を避けたものの、ロシアとの対立を深めて、後の国際関係に大きな影響を与えました。また、クリミア戦争の後、オーストリアとプロイセンとの関係も悪化して、これが1866年の普墺戦争へと繋がります。この戦争はプロイセンの勝利に終わり、ドイツ統一実現への道を開き、そしてまた後の1870年の普仏戦争によってナポレオン3世による第二帝政崩壊も招くことになります。

 先述のとおり、1848年の一連の革命や動乱の多くは失敗に終わりましたが、それでも欧州の政治構造に大きな影響を与え、自由主義と民族主義の思想は欧州各地に広がり、特にドイツやイタリアの統一運動においては重要な役割を果たし、ドイツはプロイセンを中心として1871年に統一が為され、イタリアも1861年に統一国家として成立しました。また、1848年の革命は、後の民主主義の発展にも大きく寄与しました。自由主義的な政治思想は、その後のヨーロッパ各国での政治改革に大きな影響を与え、最終的には多くの国で議会制民主主義が定着しました。そこから、一連の1848年の欧州での革命は、それまでの保守的秩序の終焉を告げて、新たな国民国家の形成と民主主義の発展を促した重要な出来事であり、これにより、ヨーロッパ全体が近代化の道を進み、今日の国際政治の基盤が築かれることになりました。

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20240914 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.407‐410より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.407‐410より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

 六月十三日の事件はヨーロッパ大陸のすみずみに、苦悩と歓喜の叫びを生じさせた。この事件は突如として運命を決定することになった、それはライン河の側から急速に展開することになる。

 すでにプファルツとライン河流域を支配したプロイセン軍はバーデン大公国にすぐさま侵入し反乱者をけちらし、数週間もちこたえたラスタットを除く全国土を占領した。

 大公国の革命派はスイスに亡命した、このスイスにはイタリアやフランスからも、そして実際のところヨーロッパのあらゆるところから亡命者がやってきた。ロシアを除くヨーロッパ全体が革命を経験するが、まだそのさなかにあったからである。亡命者の数は一万あるいは一万二〇〇〇に達しようとしていた。それはスイスの隣国にいつでも敗走してなだれ込んでこようとしている一つの軍隊であった。これは、すべての政府の心配の種になっていた。

 すぐにこのようなスイス連邦には不満をもらす理由のあったオーストリアや、とくにプロイセン、また全くスイスとの関係のなかったロシアまでもが、軍隊によってスイス国境に侵入すると言い出しており、革命の脅威にさらされているすべての政府の名において、そこで警察の役割を果たそうとまで言っていたのである。われわれにとってたえ難かったのは、このような諸国の態度であった。

 私はまずスイスを説得し、脅かしに耳をかさないようにと言ってきかせ、しかし当然の権利として、隣接する諸国民の平安を公然とおびやかす煽動者を、国境の外にスイス自身の手で追い出してしまうように説得しようと試みた。私はパリのスイス連邦代表にたえずくり返して次のように述べた、「正当なこととしてあなたがたに要求してくる前に、このように先手をうっておかれるならば、諸国の宮廷からの不当な、あるいは過大な要求のすべてに抗してあなたがたが自己の立場を守るにあたっては、フランスをたよりにして下さい。われわれは、あなたがたが諸国王によっておしつぶされ、屈辱を受けるままになってしまうよりは、むしろ危険をおかしてでも戦争に訴えるでしょう。しかしもしあなたがたが、あなたがた自身のための道理をまずはっきりさせないのであれば、たよりとなるのはあなたがただけとなり、全ヨーロッパに対して唯一人で身を守ることになります」と。

 しかしこのような言葉は効果のないものだった。スイス人ほど自尊心やうぬぼれの強い連中はいないからである。スイス人は農民の一人にいたるまで、自分の国は世界のあらゆる君主、あらゆる国民をものともしない、すぐれたものなのだと信じている。私はそこで別の手段をとったが、これはより効果のあるものだった。それは外国の諸政府、なかんずくスイスに軍隊を侵入させようという気になっている政府に対して、しばらくの間、スイスに亡命したその国の者たちにいかなる恩赦も与えず、どんな罪の者にも祖国に帰ることを許さないようにと、勧告することであった。われわれの側としても、いったんスイスに亡命した後に、イギリスやアメリカに渡って行こうとしてフランスを通過したいと望む者に対して、それが煽動家である場合は勿論、害を与えることのない多勢の亡命者の場合でも、わが国の国境を通過することを認めないことになした。すべての国境がこのようにして厳重に閉鎖されたので、スイスは、ヨーロッパにいた要注意人物のうちの、もっとも煽動的で反抗的な分子であった者一万人ないし一万二〇〇〇人で、あふれ返ることになった、彼らに食料を与え住いを与え、また彼らがスイスに何かと相談ごとをしたりしないように、金銭をも与えておかなければならなかった。このことは亡命の権利が具合の悪いものだということを、スイス人にいっきょに気づかせることになった。彼らは、自分たちの中に幾人かの有名な革命の指導者をいつまでもかかえ込んでおくことを、これによって隣接の諸国に危険を及ぼすということがあったにしても、そんなに苦にしないなかった。しかし一軍団もの革命派が存在することは、大変困ったことだった。スイスのなかのもっとも急進的な諸州が最初に、この不都合で金のかかる客を早急に追い払うように、声高に要求しはじめた。そしてスイスに在留することが都合がよいと思っていた革命の指導者をあらかじめ追放しなければ、スイスを離れることができ、またそれを希望している、あまり害のない亡命者の大群に対して、諸外国がその国境を開くようにさせることが不可能だったので、ついにスイスは革命の指導者を追放するいことにした。これらの人物を領土内から遠ざけることをせず、すべてのヨーロッパの敵意を、危ういところで招き込んでしまうことになるところだったスイス人たちは、こうして当面の困難を回避し、多少の出費を避けるために、自分たちで自主的に、彼ら領土の外に追い払った。スイス人のデモクラシーの性格を人はよく理解していなかった。そのデモクラシーは、きわめてしばしば、外交問題について非常に混乱した理念しかもっておらず、国外の問題を国内的な問題が起った時にしか解決しようとしないものであった。

 スイスでこのように事態が展開していたとき、ドイツの全体的な情勢は、様相が変化しつつあった。諸政府に対する民衆の闘いに続いて、諸君主相互の間の争いが起った。私は革命のこの新しい局面を注意深く、困惑した気持で観察していた。

2024年9月14日土曜日

20240913 1848年のヨーロッパについて②

 1845年から1848年にかけて、ヨーロッパ全土は深刻な飢饉に見舞われました。当時の主要な食糧であったジャガイモが胴枯れ病の被害を受け、多くの地域で大飢饉が発生しました。特にアイルランドでは被害が甚大で、政府の不十分な対応も重なり、100万人以上が命を落としました。この影響で多くのアイルランド人がアメリカ合衆国へ移住し、その中には第35代大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの先祖も含まれていました。

 飢饉の影響は他のヨーロッパ諸国にも広がり、フランスではジャガイモと小麦の価格が急騰し、市民生活を圧迫しました。南ドイツのバーデン地方でも食糧不足による価格高騰が起こり、ベルギーではチフスなどの疫病が蔓延し、多くの命が失われました。このような飢饉に端を発する社会不安と経済的困窮は、ヨーロッパ全土に深刻な影響を与え、各地で民衆の暴動が頻発するようになりました。

 こうした状況を背景として、1848年にはヨーロッパ各地で大規模な政治変革が発生しました。まず、1月にシチリアのパレルモで暴動が起こり、両シチリア王国からの分離独立と憲法制定を求める革命が勃発。これによりシチリアは自治と憲法を獲得し、革命の波はイタリア全土、さらにはヨーロッパ全体に広がっていきました。

 続いて2月にはフランスで革命が勃発し、オルレアン朝のルイ・フィリップ王が退位して1830年以来続いた七月王政が崩壊、第二共和制が樹立されました。労働者階級と中産階級が協力し、工業化による社会的不平等の是正を求めたこの革命は、フランス社会に大きな変革をもたらしました。しかし、第二共和制は国内外の圧力に直面し、同年6月には労働者による反乱が起こり、「六月事件」として知られる武力鎮圧へと発展して、この反乱により、フランス社会の分断はさらに深まりました。

 混乱の続くフランスでは、1851年にルイ=ナポレオン(後のナポレオン三世)がクーデターを起こし、翌年には自ら皇帝となり第二帝政を樹立しました。ナポレオン三世治世下でのフランスは、内政の安定を図り、また積極的な対外政策を展開しました。1853年にはクリミア戦争に参戦し、黒海沿岸への侵出をはかるロシア帝国に対抗して英仏連合軍の一翼を担いました。この戦争はナポレオン戦争以来最大規模となり、1848年からの社会変革によって崩れかけていたウィーン体制をさらに揺るがしました。

 一方、フランスの2月革命を契機に、オーストリア、ドイツ諸邦、イタリア各地でも民衆蜂起や自由主義運動が相次ぎ、政治的・社会的な変革が求められるようになりました。ドイツでは自由主義と民族主義の高揚により、プロイセンとデンマーク間でシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン公国を巡る対立が激化しました。イタリアではサルディニア王国がイタリア統一を目指し、オーストリア・ハプスブルク帝国に宣戦するなど、民族統一運動が激しさを増しました。こうした一連の動きは、ヨーロッパ全体に緊張をもたらし、その後の戦争の原因となりました。

 19世紀半ばの飢饉による社会不安と、それに続く一連の革命や動乱は、19世紀後半のヨーロッパの状況を大きく変えました。伝統的な社会秩序が崩壊し、新たな国民国家が次々と誕生する中、ヨーロッパ全体が変革と再編の時代を迎えました。この時期に築かれた国際秩序や政治体制は現代の国際社会の基盤となり、その影響は今日に至るまで続いています。

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2024年9月10日火曜日

20240909 一連の当ブログ記事は自らに対する証であるのか…

 近年、新規でのブログ記事作成に際しては、作成当初から、前のめりであるということは稀であり、ほぼ毎回、半ば習慣化した義務のようなものとして、どちらかと云えば愉快な気分ではなく、作成に取り掛かっているわけですが、今回に関しては、記事主題の基軸となる記憶が想起されたため比較的軽快にここまでの文章は作成出来ました。

 さて、その「想起された記憶」は、既投稿記事にある、以前、鹿児島在住時に取り組んでいた実験に関するものであり、当時、実験にのめり込んでいく過程で、実験各条件に用いる試料のN(数)が増加して、また、それら試料を用いた実験から抽出されたデータの値は、当時、最新であり、且つ信頼出来る海外論文や学会報告のそれと近似するものであったことから、ある程度は信頼できるものと見做されたのか、当時、医歯薬出版株式会社さま刊行の歯科専門雑誌おそらく「補綴臨床」あるいは「歯界展望」に掲載の某大学歯学部口腔保健学科口腔保健工学専攻分野教授による記事に「***大学鶴木等の報告によると...」といった記述があり、それが小躍りするほどに嬉しかった記憶があります。
 
 おそらく、それが公刊され書店に並び、販売される書籍に私の名前が載った初めてのことであったと云えます。そして、そこから紆余曲折を経て現在に至っているわけですが、その過程は、2010年に指導教員が退職されて以来は、いわば野良の大学院生、そして学位取得をしてからは、晴れて野良の博士となったわけですが、そこに、それ以前(2009年)の兄の死なども勘案しますと、最善であったとは云えないにしても、それなりに頑張ってきたとは云えるのではないかと考えます。

 しかし、その後、つまり2013年に学位取得をしてからが、色々と大変であり、それまで実社会の中で積まなかった経験を集約して積まされたようにも思われ、それらの経験から端的に「疲れてしまった」ようにも感じられます。
 
 この「疲れ」はあくまでも体感的なものですが、しかし、鹿児島在住期での、前述の兄の死や、指導教員の退職と云った(シャレにならない)危機による反動として生じたものであったのか、当時の気力や敢闘精神のようなものは、現在となっては、かなり減衰していると云えます。そこから、おそらく、2013年の学位取得以降の何れかの時点で、私の気力は降伏点にまで達し破断をして、現在はそこから徐々に立ち直ろうとしているのだと云えます。

 そして、その意味において、当ブログは私にとって重要なものと云え、また、そこからエックスとの連携により新たな反応が生じることにも、現在となっては、ある種の「やりがい」が感じられます。そうしたことから、2015年6月から現在に至るまで9年以上にわたり、さきと同様、紆余曲折を経ながらも(どうにか)当ブログを継続してきたこと、出来たこと自体が、ある種、自らに対する証(あかし)であるようにも思われます。

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2024年9月9日月曜日

20240908 株式会社講談社刊 谷川健一著「沖縄 その危機と神々」 pp.64-66より抜粋

株式会社講談社刊 谷川健一著「沖縄 その危機と神々」
pp.64-66より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061592238
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061592230

 私は日本に対するさまざまな起伏をもった体験のはてに、日本の彼方にヤポネシアという歴史空間の幻をみるようになったようである。しかし私にとってヤポネシアとは、日本人に特有な水平願望を意味するものではない。昨日も今日も、飲み食い、騒ぎ、そしてそれ以上にかくべつ野心をもたない人びとの渦まく日本列島社会そのものである。島尾敏雄の造ったヤポネシアという言葉に私がひかれるようになったその裏がわには、日本列島社会を「日本」と同じものと考えたくない心情がある。私にとって日本というイメージは手垢によごれすぎた。そのイメージを洗うものは、日本よりももっと古い歴史空間か、日本よりもっと生きのびる、つまり若い歴史空間のどちらかでしかない。日本よりも古くかつ新しい歴史空間、それが私にとってのヤポネシアだ。

「日本」は、単系列の時間につながる歴史空間であるけれども、ヤポネシアは、多系列の時間を総合的に所有する空間概念である。つまり、日本の外にあることとヤポネシアの内にあることとは、けっして矛盾しない。なぜなら、ヤポネシアは「日本」の中にあって「日本」を相対化するからだ。

 私たちは、ナショナリズムを脱しインターナショナルな視点をもとうとすれば、単系列の時間につながる歴史空間であるところの「日本」を否定するしかなく、「日本」を肯定するとなれば、単系列の時間の中に組みこまれるほかない道を歩まされてきた。「日本」に埋められるか、「脱日本」のどちらかしかない二者択一の道をえらばされた。けれどもヤポネシアは、日本脱出も日本埋没をも拒否する第三の道として登場する。日本にあって、しかもインターナショナルな視点をとることが可能なのは、外国直輸入の思想を手段とすることによってではない。ナショナルなものの中に、ナショナリズムを破裂させる因子を発見することである。

 それはどうして可能か。日本列島に対する認識を、同質均等の歴史空間である日本から、異質不均等の歴史空間であるヤポネシアへと転換させることによって、つまり「日本」をヤポネシア化することで、それは可能なのだ。

 ヤポネシアの成立する理由のひとつとして、日本列島社会が、世界の国ぐにの中でも面積の割にはもっとも長い緯度のあいだに散在していることがあげられる。チリのように陸続きでなく、島嶼として存在することで、いっそう文化の同質均等化から免れているところに特徴がある。

 ヤポネシアの概念が成立する理由の第二は、日本列島社会に古いものと新しいものとの混在が幾重層にもみられることだ。いちいち例証をあげることははぶくが、日本の近代に中世や古代が雑居している現象をみることは、けっしてめずらしいことではない。そしてこうした現象は、儒教やキリスト教でローラーをかけられた国では例外に属する事柄なのである。支配者の統一原理としての文化概念が極度に不寛容な形で貫徹されるということは、日本列島社会には存在しなかった。すなわち、支配者の統一原理がときには神道であり、仏教であり、儒教でありして、しかもそれらが他を全面否定することはなかった。

 以上の理由からして、多系列で異質の歴史空間が日本列島社会では展開可能であるという事実が、ヤポネシアという概念を成立させる根拠なのだ。