2024年7月22日月曜日

20240721 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.62-65より抜粋

ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.62-65より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478116393
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478116395

 エリート官僚は、軍事官僚も、行政官僚も、経済官僚も、すべて技術屋であり、信ずるものは技術だけである。彼らは、どんな意味においても決断主体ではない。彼らがナショナル・リーダーとして決断に迫られれば当惑せざるをえない。このとき救いとなるのは、彼が所属する機能集団としての共同体である。この共同体は彼に自然のごとく所与にみえ、その機能的要請は神聖である。彼にとって、世界の大勢(といっても、自然のごとくみえる共同体の特定した視座からみられた特殊な世界認識にすぎないのであるが)にのっとり、神聖なる任務を遂行する以外にかなる決断を下しえようか。このようにして、決断の契機は漠然とした使命感の中に解消するとともに、この決断がいかに特殊(すなわち、彼が属する一つの機能集団の機能的要請に過ぎない)なものであり、数多くのオルターナティブの中の一つの選択にすぎないことは意識にのぼらない。したがって、この選択に関する選択が背後に押しやられ、ついに鋭く意識化されないとともに、この神聖なる所与に対する批判に対しては、本能的拒否反応を示すようになる。このような例は、戦前のミリタリー・アニマルにも、戦後のエコノミック・アニマルにも、いかに多く発見しうることであろう。

 さて、以上、戦前の軍事官僚と戦後の特権官僚を・エリート・ビジネスマンの思考様式、行動様式を比較することにより、パターンとしては、いかに両者が類似しているかをみた。しかし、すでに強調したように、類似はここに終らない。エリート官僚のタイプこそ現在日本人の理想像であり、ほとんど日本人とくにエリートと呼ばれる人びとの行動様式はこのタイプに造形されつつある。ゆえにエリート官僚の行動様式の長所・短所は同時にまた、ほとんどすべての日本人の行動様式の長所・短所でもある。しかも、この行動様式が、戦前の軍事官僚の行動様式とパターンの上で同型であることから、われわれは重大な反省に迫られる。軍国主義による破局は戦前だけのことではない。またそれは、軍国主義という特定のイデオロギーの産物ではない。現在はすでに明白になっているように、軍国主義などというイデオロギーを持った人は、戦前の日本にはほとんどいなかったようである(このことについては76~78ページ参照)。イデオロギーではなく、日本独自の行動様式の特殊状況的表現が軍国主義的であったにすぎない。このように考えると、現在でも問題は少しも解決されていないことがわかる。戦争が駄目なら経済があるとばかり、ミリタリー・アニマルがエコノミックに衣がえしても、それは同型の行動様式(isomorphic behavior pattern)の異なった状況下における表現の相違にすぎないのであって、そこには、なんら内面からの原理的行動変革の組織的努力はみられない。このことはエコノミック・アニマルだけでなく、イデオロギー・アニマルにもあてはまる。ここに、イデオロギー・アニマルとは聞き慣れない言葉かもしれないが、軍事万能の単細胞生物をミリタリー。アニマル、経済万能の単細胞生物をエコノミック・アニマルと呼ぶのならば、イデオロギー万能の単細胞生物をイデオロギー・アニマルと呼んで悪い理由はなかろう。

 イデオロギー・アニマルの思想と行動とは、彼らの看板としてのイデオロギーの方向とは全く無関係に、ミリタリー・アニマルやエコノミック・アニマルのそれと構造的に同型である。大学紛争においては、いわゆる進歩的教授であればあるほど、全共闘の激しい攻撃の矢面に立たせられ、みじめなほど残酷な取扱いを受けたのであったが、その根本的な理由は、彼らが全共闘の眼には偽善者と映じたからである。それはそうだろう。デモクラシーのチャンピオンとしてジャーナリズムで活躍中の大学教授の教室が、水も漏らさぬ年功序列のハイアラーキーで形成されていたりするのである。


2024年7月20日土曜日

20240719 東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.89‐90より抜粋

東京大学出版会刊 池内 恵・宇山 智彦・川島 真・小泉 悠・鈴木 一人・鶴岡 路人 ・森 聡 著「ウクライナ戦争と世界のゆくえ」pp.89‐90より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4130333054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4130333054

 中国が米中対立(競争)を想定しているとは言っても、それは中国が世界を二分する体制間争いとか、二極化を求めていると言うのではない。中国は目下、アメリカの一極体制が崩れて多極化に向かっていること、また先進国が世界秩序を主導する状況が大きく変化し、先進国ではもはや世界の諸問題を処理することができないことに注目する。こうした面では、先進国対新興国、先進国対開発途上国という大きな構図を中国は描いており、その新興国、先進国対開発途上国という大きな構図を中国は描いており、その新興国、開発途上国の代表として自らを位置付ける。

 また、中国は軍事安全保障の面でアメリカを中心とする安全保障ネットワークを明確に敵視する。中国がしばしば批判する際に用いる「冷戦的」というのはアメリカの安保ネットワークを批判する時に用いられることが多い。だからこそ、中国はNATO批判についてはロシアと歩調を合わせる。ただ、軍事的にNATOを批判するからと言って、中国はEUや独仏など欧州諸国との関係は維持しようとする。ただ、その際には欧州の自立性を求め、アメリカからの影響を受けないように促すのが常である。無論、ウクライナ戦争以降、とりわけ西欧諸国がアメリカとの関係を強化しており、中国の求めるヨーロッパの「自立性」を維持するのは困難だ。だが、中国としては「多極化」を求め、アメリカへの一極集中を相対化しようとするので、EUなどはむしろ協力相手となる。ただ、中国から見てあまりにアメリカに寄りすぎている日本はオーストラリアなどと共に、そうした対象にはなっていないようだ。

 他方、中国が新興国、開発途上国の代表としてアメリカや先進国との対抗軸を意識しているからといって、また米中「対立」を将来的に想定しているからといって、中露と先進国とが、また新興国と先進国とが、かつての冷戦のような陣営を形成して対峙することは中国にとっては好ましくない。中国自身が輸出管理法などで先端議技術を守ろうとしている一方で中国経済はアメリカをはじめ西側諸国との相互依存が強く、先端技術を除けば全面的デカップリングは困難だ。また、軍事安全保障面で西側諸国から敵視されて強く牽制されることは中国にとっても相当にコストがかかることだ。

 ウクライナ戦争を通じて、「中露」が「専制主義国家」として一括りにされ、先進国との間で陣営対立的な構図が生み出されていくことは、中国にとっては避けがたいところであろう。だがそれも、決して容易なことではない。その一因は、次に述べるロシアとの「緊密な」関係だ。

5 中露関係の考え方

 前記のような2022年という年の持つ制約、また対外政策にまつわる制約、また自らの描く世界像などを所与の条件として、中国はいかにウクライナ戦争に対処しようとしたのだろう。また、その際には、そのウクライナ戦争を思い起こし、最重要パートナー国であるロシアをいかに捉えようとしたのであろうか。

 2022年2月、北京冬季オリンピックに際して、プーチン大統領は訪中した。習近平はプーチンに破格の待遇を与え、マスクなしの単独会見をしている様子を国内メディアでも示した。他の首脳との写真はマスク付きの集合写真であったからその差は歴然であった。2月4日の中露共同声明は、前述の通り、ロシアの対NATO政策、ウクライナ政策に支持を与えているように見える。

 2022年2月25日、中露首脳は電話で会談した。この時、中国側の発表によれば、プーチン大統領がウクライナ問題の歴史的敬意とロシアがウクライナ東部で採っている特別軍事行動の状況、またロシアの立場などについての説明を加え、アメリカとNATOが長期にわたってロシアの合理的な安全を無視し、何度も合意を破棄し、普段に東方へと拡大し、ロシアの戦略上のボトムラインに挑戦しているなどと述べ、さらにロシアとしてはウクライナ側とハイレベル交渉を行う用意があるともした。とされている。それに対して習近平国家主席は、「中国としてはウクライナ問題それ自体の是非曲直から自らの立場を決定したい」と述べ、冷戦的な思考ではなく、各国の合理的な安全を重視、尊重して、対話を通じてバランスの取れた、有効で、サスティナブルな欧州の安全枠組みを形成するように求めた、という。しかし、このような中国側の発表に異を唱えるように、北京のロシア大使館は2月28日、習近平国家主席の発言として、「ロシアの指導者が目下の危機的な情勢の下で採った行動を尊重する、と習近平は強調した」と述べようとした。これはロシアのウクライナ侵攻に支持を与えたようにも読める。そして3月、冒頭が紹介したように、王毅外相は中露関係について「国際的な情勢がどのように険悪になとうとも、中露双方は戦略的な実力を保持し、新時代の全面的な戦略協力パートナーシップ関係を不断に前進させていく」と述べたのであった。これを見れば、中露は極めて強い関係を持ち、それを相互に確認していると見ることもできる。

2024年7月18日木曜日

20240718 筑摩書房刊 ちくま新書 坂井建雄著「医学全史」-西洋から東洋・日本まで pp.251-253より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 坂井建雄著「医学全史」-西洋から東洋・日本まで
pp.251-253より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480073612
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480073617

 17世紀に初期の顕微鏡を用いて、自然界の事物や動物の組織の観察が行われた。ネーデルラントのレーウェンフクはロンドンの王立協会に多数の書簡を書いて、その観察結果を報告した。その中にたしかに酵母など微生物の観察が含まれているが、それが発酵や病気の原因と結びつけて考えられることはなかった。

 発酵は、古くからパン、ワイン、ビールなどを造るときに起こる現象として知られていた。体内での食物の消化や吸収の過程も、しばしば発酵になぞらえていた。微生物の存在とその働きは、19世紀に発酵が突破口となって明らかにされた。まずドイツのテオドール・シュヴァンは、顕微鏡で酵母を発見したその作用で発酵が起こると発表した(1837年)。しかしこの発酵の酵母説は、有力な化学者のイェンス・ベルセリウスとリービヒによって非難され、シュヴァンはその後の研究を断念した。

 フランスのリール大学の化学教授パストゥールは、ビート糖の発酵障害について相談を受けて研究し、アルコール発酵が微生物の作用により起こることを明らかにし(1860年)、その微生物を酵母と呼んだ。また空気中に存在する微生物が腐敗の原因であり、微生物が自然発生的には生じないことを実験的に証明した(1862年)。さらに発酵についての研究を発展させ、ワインの醸造(1866年)およびビールの醸造(1876年)の研究を発表し、パリのソルボンヌ大学教授になった。パストゥールの研究は、リスターによる外科手術の防腐法の開発に大きなヒントを与えた。

 病気の原因となる微生物は、ドイツのコッホによって発見された。コッホはゲッティンゲン大学で医学を学び、地方の小都市で医官として働きながら炭疽の研究を行い、炭疽菌の芽胞形成と病原性を明らかにした(1876年)。創傷感染症についての研究に取り組んで、創傷に続いて起こる敗血症で膿血症が、微生物の感染によってこることを動物実験と細菌学的検索によって示した(1878年)。

 1880年にベルリンの帝国衛生院に職を得て研究を開始、細菌の染色法や培養法を開発して細菌学の発展に大きく貢献し、当時の重大な感染症であった結核の原因菌を発見した(1883年)。ドイツの調査隊を率いてエジプトとインドでコレラの調査・研究を行い、コレラ菌を発見した(1883年)。ベルリン大学の衛生学教授に任じられ(1885年)、新たに設立された感染症研究所の初代所長になった(1891年)。結核菌の培養濾液からツベルクリンを生成し結核の特効薬として発表したが、これには治療効果がないことがわかり、現在では結核菌の感染の診断に用いられている。1905年にノーベル生理学医学賞を受賞した。

 微生物が感染症の病原体として特定できる条件を示した指針として、「コッホの原則」がよく知られている。コッホ自身が明確な形で述べたものではないが、コッホの弟子のフリードリッヒ・レフレルがジフテリアの病原体についての論文(1884年)の中で、「①疾患部位において微生物が典型的に証明される。②疾患部位で病変に意味のある微生物が分離され純粋に培養される。③(培養した微生物を)接種して病気が再び発生する」という三条件を挙げた。コッホはコレラの病院についての論文(1884年)でこれを捕捉して、微生物が病原体であることを証明するために「接種した動物から得た微生物を健康な個体に接種して同じ病気が生じる」ことが必要であると述べた。これを加えた四項目が、「コッホの原則」として広く知られている。

 コッホの衛生学教室および感染症研究所では、多くの研究者が集まり病原菌の研究を行った。ベーリングと北里柴三郎はジフテリア菌(1883年)と破傷風菌(1889年)を発見し、北里は日本に帰国してから香港でペストの調査をしてペスト菌を発見した(1894年)。パウル・エールリヒは細菌の染色法を開発し、後に抗体の特異性を研究して免疫学の基礎を築き、ゲオルグ・ガフキーはコッホの後任として伝染病研究所所長を務め、結核の等級分類表である「ガフキー表」を開発した。

 さらに病原体の発見を通して感染症に対する治療と予防への道が拓かれた。赤痢菌は志賀潔によって発見され(1897年)。病原体の発見によって、病気は特定の原因によって生じるという確信が生れ、その原因を解明するための研究が進められていった。

 感染症の予防のために最初に編み出された方策は、牛痘の接種による天然痘の予防、すなわち種痘である。これは19世紀末に病原菌が発見されるよりも前の1796年に、イギリスのジェンナーにより始められた。パストゥールは病原体を弱毒化して接種、その病原体による病気の発症を予防・治療する方法を開発し、ジェンナーの栄誉を称えて「ワクチン」と呼んだ。

20240717 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.65‐68より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.65‐68より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913

 翌日の二月二十四日、私が寝室から出ていくと、街から帰った料理女に出会った。この善良な女は気が全く動転していて、涙声でわけのわからぬことを私に口走っていた。私には理解できなかった彼女の言葉のなかで、ただ政府が貧しい人びとの虐殺を実行させたということだけがわかった。私はすぐに下りて行き、街路におり立つや革命の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる自分に初めて気がついたのだった。街路の中央には人影がなく、商店は一軒も店に開けていなかった。馬車も散歩の人影も見えなかった。いつもは聞こえてくる路上の呼売り人の声もなかった。戸口で隣人同士が小さなグループに分かれて、うろたえた顔をして、ひそひそと話し合っていた。誰の顔も不安もまた怒りのために血の気を失っていた。私は国民軍の一兵士とすれちがったが、彼は銃を手にして、はや足で悲劇を演じているような姿をして通っていった。私は彼に近づいて言葉をかけたが、彼からは何も知ることができなかった。ただやはり政府が民衆を虐殺したということ以外は(ただ彼はそれに付け加えて、国民軍がそのことの処理に当ることができるだろうと言った)。こうして同じ事実の指摘がくり返されるだけだったが、私には何の説明にもなっていなかった。私は七月王政の堕落の性格を充分に知っていて、そこで残忍な行為が行われることなど全くありえないということについては、確信をもてたのだ。私は七月王政を最も腐敗の激しいものの一つとみなしていたが、また同時に、これまでにみたことがないほど、残忍な性格をもたないものだともみなしていた。そして私は、どんな噂の力をかりて革命が進展して行ったかを示しておきたいがためにだけ、この民衆を政府が虐殺したという言葉を報告しているのである。

 私は隣の通りに住んでいるボーモン氏のところに駆けつけた。そこで夜中に国王がボーモン氏を呼び出したことを知った。ついで出かけていったレミュザ氏のところでも同様の情報を得た。最後に会ったコルセル氏は事の経過を説明してくれた。しかし、それはまだ混乱したものだった。というのも革命のなかの都市にあっては戦場にあるのと同じようなものであって、それぞれの人は自分の目撃した偶発的な出来事を、これこそ革命の事態だと受け取るからである。私はコルセル氏からキャプシーヌ大通りでの銃撃事件のことを知らされ、またこの無益な暴力行為が原因となり口実となって蜂起がいきょに発生したことを知った。モレ氏がこうした状況で内閣を引き受けることを拒否したこと、ティエール、パロの諸氏と、それに最終的に内閣に加わることを引き受けた彼らの友人たちが宮殿に呼ばれたことなども知ったが、これらの事実はもうよく知られていることなので、立入って書くつもりはない。私はコルセル氏に、大臣たちは人心を鎮めるためにどのような動きをするつもりなのかとたずねた。すると氏は、「レミュザ氏から聞いたところだと、軍隊のすべてを後退させ、パリ市内を国民軍で溢れさせる計画だということだ」と言ったのだった。この表現は氏自身のものである。私は絶えず指摘してきたのだが、政治においては過去の記憶があまりに大きいために、しばしば人は身を滅ぼすことになったのである。

2024年7月16日火曜日

20240717 株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」 pp.10‐12より抜粋

株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」
pp.10‐12より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480031480
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480031488

ザルツブルクにくるまえに、ザルツブルクを知っている。よく知られた商標にも似ていて、つまり、これは「モーツァルトの町」である。「小さなローマ」とも「アルプスの北のフィレンツェ」とも言われてきた。近年は「音楽祭の街」として有名である。どれもまちがってなどいない。たしかにモーツァルトはザルツブルグで生まれたし、またこの町はしばしば、七つの丘をもつ永遠の都のポケット版にたとえられてきた。ゆるやかな川沿いのオーストリアの古都がアルノ川のほとりのフィレンツェに似ているのも事実である。そして夏のザルツブルグ音楽祭は、ヨーロッパに数ある音楽祭のなかでもとびきりのものである。

 もう一度、右の商標を見直してみよう。どれ一つとして、さほど正確でもなさそうだ。というのはザルツブルグはモーツァルトを生んだかもしれないが、この町はたえずあの天災に邪険だった。ありとあらゆる手をつくして生れ故郷から追い出したふしさえある。またザルツブルクがローマを思わせるのは聖堂(ドーム)を衷心にした一郭にかぎられ、山にそびえる城砦や中世期風の町のたたずまいは、永遠の都ともアルノ川のほとりの百塔の街とも、あきらかにちがっている。それに「音楽祭の街」であるが、この商標は観光業者にとってはうれしいものかもしれないが、音楽好きにとっては必ずしもそうではない。 切符を手に入れホテルを確保するためだけに、精力の大半を使いはたさなくてはならないー。

 ともかくも町に着く。駅周辺の雑駁なあたりは足早に突っきって、旧市街にくると、とたんに自然と歩調がゆるむ。何をおいてもカフェ・トマゼリというわけだ。珈琲の歴史と同じほど古いカフェである。まずは腰を落ちつける。十九世紀の博物学者アレクサンダー・フンボルトはザルツブルクを「世界でもっとも美しい三つの町」の一つに数えた。あとの二つはコンスタンティノープルとナポリである。フンボルトは世に知られた大旅行家であった。単なる思いつきで言ったわけではあるまい。とするとイスラムの大都や「ナポリを見て死ね」の名句にもなった麗しのナポリと並べて、ケシつぶほどに小さい山あいの町をあげたのには、それ相応の理由あってのことにちがいない。

 たしかに歴史の点からいえば、さほど遜色はなさそうだ。遠い昔、ここにはケルト族が住んでいた。紀元前十四世紀ごろのこと。そのあと、まだドイツもオーストリアも存在しなかったころであるが、ローマ人がやってきた。古代ローマ人にとってアルプスの北はすべて荒寥とした蛮地だった。ところが、その蛮地にやってきたにしては、彼らはこの辺境の谷に思いのほか楽しい住処を見つけたらしい。というのは百年あまり前、モーツァルトの記念像を建てるために広場を掘っていたら、古代ローマ時代の石があらわれた。そこには、稚拙な飾り書体のラテン文字で「ココニ幸アリキ」といった意味の言葉が刻まれていた。

 しかし、まあ、半ば伝説じみた大昔までさかのぼるのはやめにしよう。ケルト人はザルツブルク地方のあちこちの地名の由来になごりをとどめているにすぎないし、また古代ローマ人は深い地の底と博物館のガラス・ケースの中で永遠の眠りについている。

 ともあれ掘り出された石の一つだが、一九二〇年代のはじめ、聖堂修復の際に床を掘り返していたら、八世紀の半ばごろに聖ヴェルギリウスが建てた最古の礼拝堂の礎石が見つかった。そのころすでにザルツブルク一帯にキリスト教が根づいてたあかしである。とともに、それはあらためて、ザルツブルクを治める者が領主でも国王でもなかったことを、それとなく告げている。歴史の伝えるとおりであって、ながらくザルツブルクは独立した教会国家として、聖職者を支配者にいただいてきた。この町の王侯は、燃えるような緋の衣をなびかせ、瘤のある司教杖をもった大僧正だった。

20240716 株式会社ゲンロン刊 東浩紀・上田洋子・加藤文元氏・川上量生等著「ゲンロン16」 pp.68‐70より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀・上田洋子・加藤文元氏・川上量生等著「ゲンロン16」
pp.68‐70より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188544
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188542

 ーキーウにお住まいのエヴヘン・マイダンスキーさんとカテリーナ・マイダンスカさんご夫妻にお話をうかがいます。エヴヘンさんには昔チェルノブイリ・ツアーの運営でもお世話になりました。まずは侵攻が始まったときのことを聞かせてください。おふたりとも自宅にいたのですよね。

カテリーナ(以下、カーチャ)たまたま緊急の仕事が入って、わたしは二四日の午前二時くらいまで仕事をしていました。寝る直前にゼレンスキーがSNSにウクライナ語ではなくロシア語で「やめろ」と投稿しているのを目にしたのですが、疲れていたし、寝たかった。そうしたら、朝五時に母から電話がかかってきて、「戦争が始まった」と伝えられたんです。「戦争ってなに、寝かせてよ!」と返事したのをおぼえています。でも、すぐに飛び起きて・・・どうすればいいのかわかりませんでした。そのときわかっていたのは、ただ、ロシア軍が攻めてきたということだけでした。

 その後、朝の七時か八時だと思うのですが、ジェーニャ(エヴヘン)に非常事態に備えて荷造りを始めるように頼んで、わたしは食料品や薬を買い出しに行きました。わたしたちはバービン・ヤルの近くに住んでいて、家のすぐそばに薬局があります。通りにはひとが溢れていて、薬局にもすごい行列ができていました。でも、だれひとり話をしません。みんなショックを受けていたんです。そのときはじめて。上空を戦闘機が飛んでいく音が聞こえました。その後、キャットフードを買うためにもう一軒の薬局に行ったのですが、そこにも長い行列ができていた。ずっと並んでいました。それで・・・。正直に言うと、侵攻直後のことは、霧のなかにいるみたいであまり思い出せないんです。

エヴヘン(以下、ジェーニャ)ぼくは家に残り、ソファーを移動させてバリケードをつくりました。窓を閉めて、ドアに鍵をかけて、だれも入れず、猫も逃げ出せないようにしていたんです。ただ、二四日と二五日のことは、恐ろしい夢を見ているみたいで。ぼくもあまりおぼえていません。

カーチャ いまは警報アプリがありますが、当時はまだなくて、最初はニュースが手に入りませんでした。そこで、昔イラクを取材していた戦争ジャーナリストがいたことを思い出して、テレグラムで検索してみたんです。すると、彼は「午前四時頃にキーウに空襲警報が出た」と投稿していました。ジェーニャに伝えて猫を連れて地下鉄の駅に避難しました。駅にはたくさんのひとや動物がいて、だれもが泣きそうになっていた。

ジェーニャ 夜は自宅にかえりましたが、砲撃を避けるために廊下で寝ました。疲れ切っていて、いちど寝たらもう起きれなくなりそうだったので、最初はふたりで交代しながら寝ていました。でも結局、ふたりとも眠ってしまって。

ーその後、キーウから避難したのですか。

カーチャ 二六日にいちど、わたしだけ母の様子を見に行こうとしたんです。母もキーウに住んでいて、わたしたちの家から地下鉄で一本です。そのとき、まだ地下鉄は動いていました。駅はひとで溢れていて、運賃も必要ないと言われた。でも、「あと一五分で動かなくなる」とアナウンスがあって。それで母のところへいくのはあきらめて、歩いて自宅に戻りました。ジャーニャは駅まで迎えにきてくれました。すでに街には機関銃を携えた兵士がたくさんいて、ウクライナ軍の戦車がたくさん走っていました。戦車が道を通り過ぎるのを待っていたとき、「ああ、戦争がはじまったんだ」とようやく実感したのをおぼえています。

ジェーニャ それでぼくたちはその日のうちにキーウを離れました。ビラ・ツェルクバに住んでいるぼくの両親のもとに向かったんです。キーウから南に八〇キロくらいの距離にある街です。五月半ばまで、ぼくたちは両親の家に避難していました。

 ビラ・ツェルクヴァにいた頃は、しょっちゅう猫を抱いて浴室に隠れていました。防空壕に行く時間がないときは壁が二枚以上あるところで過ごすルールになっているんです。壁が二枚あれば、もし砲弾が一枚目を突き破っても、二枚目が守ってくれますからね。同じ理由で、キーウに戻ってきてからは、ずっと廊下にマットを敷いて寝ていました。

ー避難しているあいだ、仕事はどうしていたのですか。

ジェーニャ ぼくは燃料関係の多国籍企業で働いていて、コロナ禍以来、リモートワークだったんです。ここ四年間でオフィスに足を運んだのは一〇回くらいじゃないかな。だから避難しているあいだもリモートで仕事をしていました。こういうときは多国籍企業のありがたさを感じますね。資金力があるので従業員をサポートしてくれます。

カーチャ わたしは外資系ですが、仕事が再開したのは三月の一〇日すぎでした。日常が戻ってきたのは嬉しかったです。仕事のない時期も会社から手当が支給されてはいましたが、正規の給与に戻るのはやはりありがたかった。ウクライナの企業では、侵攻のせいで従業員が解雇されてしまうことも少なくありませんでした。二四日にすべてが止まってしまいましたからね。たとえばわたしの母の会社も最初は仕事がなくなったのですが、幸運なことにすぐに職場に復帰することができました。でも、職を失ってしまった知人もいます。

 仕事をしているときは、戦争のことを考えなくなるので気が晴れるんです。戦争が始まった頃から、オーストリアの心理学者フランクルが強制収容所での経験を書いた「夜と霧」があちこちで引用されています。いわく。最初に心が折れたのは戦争がすぐに終わると思っていたひとだった。二番目に心が折れたのは、いつか戦争が終わると思っていたひとだった。生き残ったのは、戦争という枠にとらわれずに、ただ毎日を生きたひとだった。その言葉が大いに心の助けとなっています。

2024年7月15日月曜日

20240715 創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 pp.224‐227より抜粋

創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』
pp.224‐227より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4422202383
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4422202389

 1876年、コッホは自分の研究を多くの科学者に説明した。その中には、以前から炭疽菌Bacillus antbracisを研究していた植物学者で微生物学者のフェルディナンド・コーンもいた。「bacillus」はラテン語で小さな杖、棹、棒を表す単語で、この細菌の棹状の形を示している。

「anthracis」は石炭と無縁炭を指すラテン語からきており、ある種類の病気に特有の生気のない黒ずんだ肌を指す。

コッホは微生物の生活環と伝染に関する自分の発見と、抑制する方法を説明した。コーンは感銘を受け、絶賛して出版の手筈を整えた。病原菌説支持者にとっては新たな大進歩であったが、自然発生説と瘴気説(196頁)の支持者はさらなる決定的打撃に見舞われた。

 コッホは1880年に帝国保健局に移動した。80年代の後半に彼はコッホの原則として知られる一連の事件ーある微生物が病気を引き起こすと確定するために使われる基準ーを考案した。

時間をかけて、自分が発見した新しい細菌のそれぞれにその条件を当てはめるつもりであった。コッホの原則は4点にまとめることができる
ー感染した生物(植物、動物)ないし組織は当該の微生物を大量に持っているが、健康な個体はもっていない
;微生物は感染した生物ないし組織から分離され、純粋培養で育てられなければならない
;培養された微生物が健康な生物へ入れられると、その生物が病気を発症する
;最後に、その「第2世代」の微生物はふたたび抽出・分離され、もとの微生物と同じだと証明されること。

これらの原則によって、コッホは微生物と病気が不可分であるかどうか確かめようとした。しかし医学はつねにそれほど明快ではない。たとえば、人間や動物の中にはある病気の「保菌者」(キャリア)がいるーごくわずかの症状しか現れないか、何の症状もなく表面上は健康であるが、体に病原菌を保有しているため他の人にうつす可能性がある。したがってコッホの原則は、絶対的な法則ではなく、理想的な基準として今日まで残っている。

 ベルリンでようやく助手付きの、彼にふさわしい実験室をかまえたコッホは、そこで研究の第2段階、すなわち結核についての研究を開始した。彼のチームは新たな方法と技術を開発し続けた。1881年頃の重要な技術革新は、海藻から抽出した寒天を用いたゼリー状の栄養物質での微生物の生育であった。微生物が小さな斑点状に生育するのが目に見えるため、便利で利用しやすかったー栄養液の中に入れてぐるぐるまわしたり、試験管の中深くに埋め込むよりも断然楽だった。この方法はコッホの助手ヴァルター・ヘッセによって開発されたが、それは彼の妻のアンジェリーナがゼリーとジャムを作った後で、ゲル化させるには寒天を入れるといいと言ったのがきっかけであった。

コッホのもう一人の助手ユリウス・リヒャルト・ペトリは発明品に自分の名を与えたーペトリ皿である。この蓋付きの、底が浅く丸いガラス製の平皿だと、寒天が広がるため、その中の微生物が簡単に観察できた。寒天とペトリ皿のどちらも今なお世界中で実験に使われている。

 その時コッホは世界でもっともありふれた、長期にわたる、死に至ることの多い病気ー結核を引き起こす病原菌の試験に臨んでいた。この病原菌は炭疽菌よりも小さく、そのうえ着色した染料にさまざまに反応した。研究は細目にわたり、苦心を要した。1882年3月24日、意気揚々としたコッホが、自分のチームがその病原菌、結核菌を発見し同定したと発表した。「人のかかる病気の重要性が、病気による死病者数で測られるのであれば、結核はペストやコレラなどのもっとも恐ろしい感染症よりもはるかに重大な病気とみなされなければならない」。続けてコッホは彼の開発した新たな染色法などの技術を記し、デンジクネズミを実験動物として用いた方法を、ヒト、サル、家畜の組織の研究とともに説明した。一匹の動物から採取された病原菌を培養液の中で育て、別の動物の体内に入れたところ、どれも結核を発症した。さらなる証拠のためにコッホは顕微鏡、染色された微生物の培養液のガラススライド、組織サンプルの入った壺、その他の器具を作り、観客が自分の目で見ることができるようになった。1カ月以内にその知らせはヨーロッパ全域と、続けて北アメリカ、アフリカ、アジアに広まった。当初コッホのバチルスと呼ばれたその微生物は今では「結核菌(Mycobacterium tuberculosis」と呼ばれる。

 次にコッホが関心を向けたのはコレラ菌であった。1883年、コッホは政府に任命され、エジプトのアレキサンドリアでの流行を調査するドイツコレラ委員会の委員長として派遣された。そこで彼は疑わしげなコンマ形の細菌を同定した。別の機会にインドへ行った彼は、そこでも調査を続けた。ついに原因となる病原菌を特定した。汚染された飲み水と食べ物を通して伝染すること(180~87頁参照)を説明し、予防策と鎮圧方法を助言した。これらの業績によってコッホは10万マルクという巨額の報酬を得て、世界的な名声がさらに高まった。実際のところ、コレラ菌―その後ビブリオ属コレラ菌Vibrio choleraeと命名されたーは、約30年前の1854年にイタリアの解剖学者フィリッポ・パチーニによって発見されていた。しかし病原菌説が当時はまだ見向きもされなかったため、パチーニの業績は認められなかった。

 炭疽病、結核、コレラに関する画期的な研究の後、ついにコッホはへまをした。1890年、大喝采を浴びながら、彼はツベルクリンー結核の治療薬ーを紹介した。彼はその出所を明らかにすることを拒み、動物で試験されたと述べた。当初は人間への実験で効果が確かめられたと報告されたが、ツベルクリンは重い副作用を引き起こすことがあり、時には死に至ることもあった。この治療薬と呼ばれた薬は治療をもたらすどころではなかった。コッホはツベルクリンが細菌の特別な抽出物であることを認めたが、その中身が何であるか正確に説明できなかった。世論は一転して彼を批判した。彼の研究は政府による後援であったとはいえ、彼がツベルクリンの製造者と財政面で関わりのあったことが明らかになると、事態は悪化した。妻と別れ、10代のヘドウィク・フライベルクとの新しい関係も助けにはならなかった。コッホは国を去り、ふたたび旅に出た。イタリア、アフリカ、インド、ニューギニアを訪れ、腺ペスト、らい病、マラリア、狂犬病、人間と家畜におこる珍しい熱病を研究した。1897年、新型のツベルクリンを発表した。これも失敗作だったが、その後、結核の診断に有効な試薬となった。ヒトの結核予防に有効なワクチンはようやく1920年代にー皮肉なことに、パストゥールが創設したパストゥール研究所でー開発された。

 後年の失敗にもかかわらず、コッホによって細菌と感染に関する新たな医学研究が高まりを見せた。彼の弟子には次の研究者たちが含まれる。1884年にジフテリア菌を特定し培養したフリードリヒ・レフラー、同じくジフテリアの研究に携わり、1894年に腺ペスト菌を発見した北里柴三郎、1901年に最初のノーベル生理学医学賞を受賞したエミール・フォン・ベーリング、1906年に梅毒の初期感染の診断薬を調剤したアウグスト・フォン・ヴァッサーマン、1909年に梅毒治療薬アルスフェナミン(サルヴァルサン)を発見したパウル・エーリッヒなど。1905年、ロベルト・コッホは「結核に関する調査と発見」によってノーベル生理学医学賞を受賞した。ノーベル賞は、彼の不断の研究倫理によって刺激づけられた、数々の革新的な発見のあかしであった。彼が医学校での受賞エッセーに添えた題辞はラテン語で書いてある。「Nunquam Otiosus」、決して怠るなかれと。