株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」
pp.350-353より抜粋
ISBN-10 : 4309207529
ISBN-13 : 978-4309207520
妄想ーひとつであれ複数であれーというテーマで話をと依頼されて考えてみたところ、現代における妄想といえば、そのひとつは間違いなく陰謀にかかわるものであろうと思いあたった。インターネットでちょっと検索すれば、どれほど多くの陰謀(当然、どれも偽物だが)が告発されているか、すぐに分かる。しかしながら、陰謀という妄想はわたしたちの時代特有のものではなく、過去にもかかわるものである。
歴史上陰謀がこれまで存在してきたこと、そしていまも存在することは明白だと思われる。ユリウス・カエサルの殺害に、火薬陰謀事件、ジョルジュ・カドゥダルの恐ろしい爆弾装置、どこかの会社の株式を買い占めるため日々実行されている金融機関の陰謀。だが現実における陰謀の特徴は、ただちに露見する点にある。陰謀が功を奏する(ユリウス・カエサルの例をみよ)にせよ、失敗する(ナポレオン三世を殺そうとしたオルシーニの陰謀、ユニオ・ヴァレーリオ・ボルゲーゼが一九六九~七〇年に計画した、いわゆる「森林監視隊のクーデター」、はたまたリーチオ・ジェッリ)にせよだ。現実の陰謀は神秘めいてはいないため、ここでは扱わない。
それよりもわたしたちの興味をひくのは、陰謀症候群や、ときに世界的に広がる陰謀論でっちあげ症候群という現象である。これはインターネット上にあふれていて、ジンメルがいうところの秘密と同じ特徴を備えているために、永久に神秘的で不可解なものでありつづける。その特徴は、中身がからっぽであればあるほど、秘密はより強力で、誘惑的になるというものだ。中身のない秘密は脅迫的に映り、暴露されることも、異論を唱えられることもない。まさにそれゆえ権力の道具となる。
多くのウェブサイトで話題にされている第一の陰謀、九・一一について話そう。巷にはたくさんの推理が出まわっている。まず、陰謀はユダヤ人によって企てられたという極説がある(アラブ系のイスラム原理主義か、ネオナチ系統のウェブサイトにみられる)。あのふたつの高層ビルに勤務していたユダヤ人は、当日出勤しないように指示されていたという。レバノンのテレビ放送局アル=マナールで伝えられたニュースは明らかに偽物だった。実際には、あの炎上によって、数百人のユダヤ系アメリカ人とともに、イスラエルのパスポートを有する市民が、少なくとも二〇〇人は命を落としている。
ほかには、アフガニスタンとイラクに侵攻するための名目ほしさに攻撃を企てたとするアンチ・ブッシュ説がある。アメリカ合衆国の、多かれ少なかれ正道を逸したさまざまな諜報部の手によるとする説もあれば、陰謀はアラブ系のイスラム原理主義者によるものだが、アメリカ政府は事前にその詳細を把握していたにもかかわらず、のちにアフガニスタンとイラクを攻撃する口実をつくるため、事態になんら対処しなかったという説もある(日本と戦争をはじめるための建前が必要だったために、目前に迫った真珠湾攻撃のことを知りながら、船隊を救うためになにもしなかったと言われたルーズベルトの例と似ている)。こうした事例すべてにおいて、陰謀のうち少なくともどれかひとつでも支持する者たちは、公的な事件再現は誤りであり、詐欺であり、子どもだましだと考えているわけだ。
これらのさまざまな陰謀説について知りたいと思うなら、ジュリエット・キエーザとロベルト・ヴィニョーリ監修による『ゼロー九・一一の公式発表が虚偽である理由』を読んでみるといい。信じがたいことだろうが、世の中で尊敬されている人たちの名が協力者として挙げられている。敬意のしるしに、名前は挙げないことにする。
2024年4月16日火曜日
2024年4月15日月曜日
20240414 中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」 pp.226-228より抜粋
中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」
pp.226-228より抜粋
ISBN-10 : 4121600274
ISBN-13 : 978-4121600271
東洋の絵画は、紙或いは絹という光沢のある滑らかな書写材料の発明により、早く壁画から脱却して机上の鑑賞物となり得たが、西洋においては長く後世まで壁画的用途から抜け出すことが出来なかった。そのために油絵具のように強い色彩で比較的大きな絵を描かなければならなかったのである。幸いルネッサンス以来の力強い科学文明が背景となって、芸術を推進したから、道具に圧倒されない独自の境地を保ちながら、絵画芸術が以後引続いて発展して来た。これに反し、東洋画はあまりに早く適当な書写材料を入手し得たために、むしろ緻密な小品画に傾いて、大作といってもせいぜい襖絵か屏風の程度に止まったのは遺憾なことであった。しかしながらそういう枠の中においてはまた独特の発達を遂げたことも見のがしてはなるまい。殊に画巻、絵巻物の発達はヨーロッパにおいては遂に見るを得なかった特殊なものである。
西洋画を見るには西洋画を見る見方があるように、東洋画にはまた東洋画に対する見方がある。例えば東洋画の山水には遠近法がないという非難は屡々聞くところであるが、実はやはり一種の遠近法がある。西洋画の遠近法は全景が例えばカメラの暗箱の中に映るように、焦点を固定したまま、無限大の距離から眺めた遠近法に従っている。ところがわれわれは突然に肉眼をもって焦点を移動させながら見るのである。画巻を捲く際に特によくこのことが分かるので、われわれは目を活動写真機械のように絶えず前方へ移動させてゆかねばならない。掛軸は多く縦に長いので、この場合はわれわれは飛行機に乗って景色を俯瞰するように、焦点を連続的に前方へ推進するのである。だから遠方の山や人物が近景のそれと殆ど変わらなくても別に差支えない。ただ遠景も近景も同一画面に写されているから、心持それを小さく描けばそれで十分な場合もあり、逆に遠方を片側ずつ見た二つの面としてそれを合わせれば、遠くへ行くほど幅が広がる場合もあり得ることになる。山水を観る人ならば自ら画中の人となって、小径を伝わって麓から峰まで、悠々風景を鑑賞しながら彷徨して行かなければならないのです。東洋画の山水はいわば一種の立体的遠近法によって描かれているのである。
東洋画に西洋画のような戦争画や裸体画が発達しなかったのは確かに手落ちであるが、一方、山水画が他の世界に魁て発達した点は誇るに足るものがある。東洋においても山水は元来人物の背景として出現したのであるが、そこから山水だけが独立して単独に賞玩されるようになることは、一般文化がある水準に達して初めて起る現象である。
唐代の山水にはなお宮殿楼閣の付属物としての意味が多かったと思われるが、王維の綱川雪景図は純然たる山水画であり、それが宋以後になってむしろ絵画の主流を形成することになった。
人事を離れた自然そのものの面白さを発見して、絵の題材とするのは、人類が作為的な人事現象に深い反省を加えてから後に初めて行われるものである。西洋においても風景画は、宗教画や人物画をあらゆる角度から見つくした揚句に現れ始め、それが一般化されたのは、東洋と直接交通を開いた十七世紀のオランダにおいてである。
pp.226-228より抜粋
ISBN-10 : 4121600274
ISBN-13 : 978-4121600271
東洋の絵画は、紙或いは絹という光沢のある滑らかな書写材料の発明により、早く壁画から脱却して机上の鑑賞物となり得たが、西洋においては長く後世まで壁画的用途から抜け出すことが出来なかった。そのために油絵具のように強い色彩で比較的大きな絵を描かなければならなかったのである。幸いルネッサンス以来の力強い科学文明が背景となって、芸術を推進したから、道具に圧倒されない独自の境地を保ちながら、絵画芸術が以後引続いて発展して来た。これに反し、東洋画はあまりに早く適当な書写材料を入手し得たために、むしろ緻密な小品画に傾いて、大作といってもせいぜい襖絵か屏風の程度に止まったのは遺憾なことであった。しかしながらそういう枠の中においてはまた独特の発達を遂げたことも見のがしてはなるまい。殊に画巻、絵巻物の発達はヨーロッパにおいては遂に見るを得なかった特殊なものである。
西洋画を見るには西洋画を見る見方があるように、東洋画にはまた東洋画に対する見方がある。例えば東洋画の山水には遠近法がないという非難は屡々聞くところであるが、実はやはり一種の遠近法がある。西洋画の遠近法は全景が例えばカメラの暗箱の中に映るように、焦点を固定したまま、無限大の距離から眺めた遠近法に従っている。ところがわれわれは突然に肉眼をもって焦点を移動させながら見るのである。画巻を捲く際に特によくこのことが分かるので、われわれは目を活動写真機械のように絶えず前方へ移動させてゆかねばならない。掛軸は多く縦に長いので、この場合はわれわれは飛行機に乗って景色を俯瞰するように、焦点を連続的に前方へ推進するのである。だから遠方の山や人物が近景のそれと殆ど変わらなくても別に差支えない。ただ遠景も近景も同一画面に写されているから、心持それを小さく描けばそれで十分な場合もあり、逆に遠方を片側ずつ見た二つの面としてそれを合わせれば、遠くへ行くほど幅が広がる場合もあり得ることになる。山水を観る人ならば自ら画中の人となって、小径を伝わって麓から峰まで、悠々風景を鑑賞しながら彷徨して行かなければならないのです。東洋画の山水はいわば一種の立体的遠近法によって描かれているのである。
東洋画に西洋画のような戦争画や裸体画が発達しなかったのは確かに手落ちであるが、一方、山水画が他の世界に魁て発達した点は誇るに足るものがある。東洋においても山水は元来人物の背景として出現したのであるが、そこから山水だけが独立して単独に賞玩されるようになることは、一般文化がある水準に達して初めて起る現象である。
唐代の山水にはなお宮殿楼閣の付属物としての意味が多かったと思われるが、王維の綱川雪景図は純然たる山水画であり、それが宋以後になってむしろ絵画の主流を形成することになった。
人事を離れた自然そのものの面白さを発見して、絵の題材とするのは、人類が作為的な人事現象に深い反省を加えてから後に初めて行われるものである。西洋においても風景画は、宗教画や人物画をあらゆる角度から見つくした揚句に現れ始め、それが一般化されたのは、東洋と直接交通を開いた十七世紀のオランダにおいてである。
2024年4月13日土曜日
20240412 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋
朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋
紀氏の朝鮮出兵
ISBN-10 : 4022605170
ISBN-13 : 978-4022605177
ISBN-13 : 978-4022605177
紀氏の朝鮮出兵
応神天皇の三年ー
この年、ヤマト国家から百済の辰斯王の無礼を糾弾するため、四人の将軍がつかわされた。その四人は、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰で、いずれも武内宿禰の子である。
将軍たちは、百済の国びとは辰斯王を殺して謝罪したので、枕流王の子、阿花をたてて王とし帰国の途についた(「日本書紀」)。
紀角宿禰(紀臣系の始祖)は、のちに仁徳天皇の四十一年春三月、ふたたび百済に赴いている。このときも、王の一族である酒君の非礼を詰問するためであったが、百済はおそれて鉄の鎖で酒君を縛して差しだした。
紀氏の朝鮮での記録は、まだある。
雄略天皇の九年(四六四)春三月、新羅征伐をくわだてた雄略は、みずから兵をひきいて朝鮮に渡ろうとしたが、神の告げによって断念した。そのかわり紀角宿禰の孫にあたる紀小弓宿禰をはじめ、小弓の子の小鹿火宿禰や蘇我韓子宿禰、大伴談連の四人を大将軍に任じ新羅征討を命じている。
これを命じられたときの小弓の返辞が、ひどく人間くさくておもしろい。小弓は大伴室屋大連を介して天皇に、
〈臣は敬みて勅をうけたまわります〉
そういっておいてから小弓は「ただし」と声をかさねている。
〈ただし今、ヤツガレが婦みまかり(死)たるときである。能く臣を視養う者なし、公、ねがわくばこのことをもて具に天皇に陳せ〉
小弓の訴えを耳にした天皇は、
〈天皇、聞し召して悲しび頽歎き給いて〉
と「日本書紀」にあるから、天皇も小弓の心境に大いに同情したらしい。吉備上道采女大海を小弓に与えたという。
さて、話を新羅征伐のうえにもどすと、天皇から采女の大海をたまわった小弓は、喜色をみなぎらせて海を越え、各地で新羅軍と戦いこれを撃破し、ついに喙の国(大邱付近)を平定させた。
が、なおも服従しないで抵抗する地域がある。小弓はこれを掃滅すべく攻撃した。ところがこの地方の新羅軍は頑強で、手ひどく反撃した。
激戦になった。
この烈しい戦闘で討伐軍は、大伴談連と紀崗前来目連(和歌山市岡崎)の二将軍を失っている。
乱戦のさなかで、あるじの大伴談連の姿を見失った従者、大伴津麻呂が戦場をたずねまわっていると、誰かが大伴談連の戦死を告げた。倒れている主の屍をみた津麻呂は、大地を踏みつけて叫びをあげた。
「主、すでに死にたり、なにをもって独り全けらむや」
そういうと津麻呂は、敵軍のなかへ突撃して死んでしまった。
討伐軍の悲運はそれだけではない。
大将軍の小弓が、にわかに病いを発して陣中で没したのである。
雄略天皇の九年、夏五月。
陣没した小弓にかわって、子の紀大磐宿禰が新羅に渡ってきた。
大磐は武将らしい剽悍さを泛べて、鷲のような鋭い目をしていた。大磐は、小鹿火(大磐とは異母兄弟)が今まで掌握していた兵馬、船官といった小官を自分の思いのままに動かした。
異母兄弟でありながら大磐と小鹿火は、ふだんから仲がよくなかった。まして大磐に兵馬軍船の指揮権を奪われて小鹿火は憤懣やるからない。肚裡にふかく恨みを抱いていた。小鹿火は同僚の将軍、蘇我韓子宿禰に大磐のことを中傷した。
「気をつけろよ。大磐がおまえの兵馬をとりあげるといっていたぞ」
そんなある日
百済の王から将軍たりに招きがあった。大磐をはじめ諸将たちは馬首をならべて出かけていった。途中に河がある。
大磐はその河のほとりで馬からおり、水を飲ませた。そのとき、韓子の胸中に殺意が湧いた。韓子は大磐の背後から矢を放った。が、狙いははずれた。韓子の矢は大磐の馬の鞍瓦の後橋に突き刺さった。
おどろいて振り返った大磐は、弓をとるより迅く韓子を射殺した。
このような将軍間の内紛に、新羅討伐軍は動揺した。大磐をおそれた小鹿火は、父の小弓の喪に服するという口実をもうけて帰国し、大伴大連を介して、
「やつがれ、紀卿(大磐)と共に天朝に仕えたてまつることに堪えず」
と奏上し、角国(周防国都農郡)にひっこんでしまった。
神聖王、紀大磐
しかし、紀一族の朝鮮半島への進出はまだつづいている。
紀大磐宿禰である。
ときに、顕宗天皇の三年(四八七)。この年、紀大磐宿禰の率いる軍団が、ふたたび海を越えて任那日本府に着いた。
大磐は日本を離れたときに、心にきめていた。韓子を射殺したあの事件いらい、大磐は人を信じるのが恐ろしくなっていた。欝々とした日がつづいていた。いっそ、日本を捨ててやろう。そして、武人としての力のかぎりを異境の修羅にぶちこんでやろう。大磐はそう思っていた。
『日本書紀』によれば‘‘大磐の軍団は任那を跨よりて高麗に行き・・・とある。アトゴエとは跨ぐことで、任那から高麗の地を股にかけて・・ということなのであろう。そして大磐は宣言した。
〈三韓(百済、新羅、任那)の王たらんとし、官府をととのえ、みずから神聖と称り・・〉
というのだ。壮大な野望である。
そしてそのコトバのように神聖王(紀大磐)の指揮する軍団は、百済のチャクマニゲを爾林(高麗の地)に討ち殺し、帯山城を築いて百済軍の粮道を断つために、街道を遮り、港をおさえた。
狼狽した百済王は、将軍コニゲ、ナイトウマクコゲらに軍兵を与え、帯山城に総攻撃をかけた。が、惨憺たる結果であった。大磐の軍は、一をもって百にあたるといわれたくらい勇猛で、百済王の軍兵はたちまち撃ち破られて四散する。
ーだが、神聖王、紀大磐宿禰の足跡がわかっているのはこの頃までで、それ以後の消息はない。
『日本書紀』では、大磐は任那から帰った(日本へ)と記されているが、飯田武郷の『日本書紀通訳』(七十巻本)ではそれらに反論して‘‘朝廷にてはこの(大磐の)謀をしろしめし給わずや、いと不審‘‘と述べている。
当然であろう、紀大磐宿禰はヤマト政権に一種の叛をくわだてたのである。それが日本に帰ろう筈はない。
とすれば、大磐はいったい何処へ消えてしまったのか、すべてがナゾである。もちろん、このとき以後の大磐の日本での記録はない。
ただ、この時から更にくだった欽明天皇の頃の百済国の歴史書『百済本記』によると、〈紀臣の奈卒(百済の官位)彌麻沙〉という人物がいたという。この彌麻沙のことを、〈けだしこれ紀臣、韓の女をめとりて生ませたり。よりて百済にとどまりて奈卒となれる者なり。未だその父(の名)を詳らかにせず〉と記している。
もし、大磐の行方に推測の橋を架けるとするならば、この彌麻沙の父に繋いでみたいものである。
もちろん、これとても単なる推測にすぎない。それはあたっていないかもしれない。けれど反面、あたっていないといえる資料もまたないのだ。
この年、ヤマト国家から百済の辰斯王の無礼を糾弾するため、四人の将軍がつかわされた。その四人は、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰で、いずれも武内宿禰の子である。
将軍たちは、百済の国びとは辰斯王を殺して謝罪したので、枕流王の子、阿花をたてて王とし帰国の途についた(「日本書紀」)。
紀角宿禰(紀臣系の始祖)は、のちに仁徳天皇の四十一年春三月、ふたたび百済に赴いている。このときも、王の一族である酒君の非礼を詰問するためであったが、百済はおそれて鉄の鎖で酒君を縛して差しだした。
紀氏の朝鮮での記録は、まだある。
雄略天皇の九年(四六四)春三月、新羅征伐をくわだてた雄略は、みずから兵をひきいて朝鮮に渡ろうとしたが、神の告げによって断念した。そのかわり紀角宿禰の孫にあたる紀小弓宿禰をはじめ、小弓の子の小鹿火宿禰や蘇我韓子宿禰、大伴談連の四人を大将軍に任じ新羅征討を命じている。
これを命じられたときの小弓の返辞が、ひどく人間くさくておもしろい。小弓は大伴室屋大連を介して天皇に、
〈臣は敬みて勅をうけたまわります〉
そういっておいてから小弓は「ただし」と声をかさねている。
〈ただし今、ヤツガレが婦みまかり(死)たるときである。能く臣を視養う者なし、公、ねがわくばこのことをもて具に天皇に陳せ〉
小弓の訴えを耳にした天皇は、
〈天皇、聞し召して悲しび頽歎き給いて〉
と「日本書紀」にあるから、天皇も小弓の心境に大いに同情したらしい。吉備上道采女大海を小弓に与えたという。
さて、話を新羅征伐のうえにもどすと、天皇から采女の大海をたまわった小弓は、喜色をみなぎらせて海を越え、各地で新羅軍と戦いこれを撃破し、ついに喙の国(大邱付近)を平定させた。
が、なおも服従しないで抵抗する地域がある。小弓はこれを掃滅すべく攻撃した。ところがこの地方の新羅軍は頑強で、手ひどく反撃した。
激戦になった。
この烈しい戦闘で討伐軍は、大伴談連と紀崗前来目連(和歌山市岡崎)の二将軍を失っている。
乱戦のさなかで、あるじの大伴談連の姿を見失った従者、大伴津麻呂が戦場をたずねまわっていると、誰かが大伴談連の戦死を告げた。倒れている主の屍をみた津麻呂は、大地を踏みつけて叫びをあげた。
「主、すでに死にたり、なにをもって独り全けらむや」
そういうと津麻呂は、敵軍のなかへ突撃して死んでしまった。
討伐軍の悲運はそれだけではない。
大将軍の小弓が、にわかに病いを発して陣中で没したのである。
雄略天皇の九年、夏五月。
陣没した小弓にかわって、子の紀大磐宿禰が新羅に渡ってきた。
大磐は武将らしい剽悍さを泛べて、鷲のような鋭い目をしていた。大磐は、小鹿火(大磐とは異母兄弟)が今まで掌握していた兵馬、船官といった小官を自分の思いのままに動かした。
異母兄弟でありながら大磐と小鹿火は、ふだんから仲がよくなかった。まして大磐に兵馬軍船の指揮権を奪われて小鹿火は憤懣やるからない。肚裡にふかく恨みを抱いていた。小鹿火は同僚の将軍、蘇我韓子宿禰に大磐のことを中傷した。
「気をつけろよ。大磐がおまえの兵馬をとりあげるといっていたぞ」
そんなある日
百済の王から将軍たりに招きがあった。大磐をはじめ諸将たちは馬首をならべて出かけていった。途中に河がある。
大磐はその河のほとりで馬からおり、水を飲ませた。そのとき、韓子の胸中に殺意が湧いた。韓子は大磐の背後から矢を放った。が、狙いははずれた。韓子の矢は大磐の馬の鞍瓦の後橋に突き刺さった。
おどろいて振り返った大磐は、弓をとるより迅く韓子を射殺した。
このような将軍間の内紛に、新羅討伐軍は動揺した。大磐をおそれた小鹿火は、父の小弓の喪に服するという口実をもうけて帰国し、大伴大連を介して、
「やつがれ、紀卿(大磐)と共に天朝に仕えたてまつることに堪えず」
と奏上し、角国(周防国都農郡)にひっこんでしまった。
神聖王、紀大磐
しかし、紀一族の朝鮮半島への進出はまだつづいている。
紀大磐宿禰である。
ときに、顕宗天皇の三年(四八七)。この年、紀大磐宿禰の率いる軍団が、ふたたび海を越えて任那日本府に着いた。
大磐は日本を離れたときに、心にきめていた。韓子を射殺したあの事件いらい、大磐は人を信じるのが恐ろしくなっていた。欝々とした日がつづいていた。いっそ、日本を捨ててやろう。そして、武人としての力のかぎりを異境の修羅にぶちこんでやろう。大磐はそう思っていた。
『日本書紀』によれば‘‘大磐の軍団は任那を跨よりて高麗に行き・・・とある。アトゴエとは跨ぐことで、任那から高麗の地を股にかけて・・ということなのであろう。そして大磐は宣言した。
〈三韓(百済、新羅、任那)の王たらんとし、官府をととのえ、みずから神聖と称り・・〉
というのだ。壮大な野望である。
そしてそのコトバのように神聖王(紀大磐)の指揮する軍団は、百済のチャクマニゲを爾林(高麗の地)に討ち殺し、帯山城を築いて百済軍の粮道を断つために、街道を遮り、港をおさえた。
狼狽した百済王は、将軍コニゲ、ナイトウマクコゲらに軍兵を与え、帯山城に総攻撃をかけた。が、惨憺たる結果であった。大磐の軍は、一をもって百にあたるといわれたくらい勇猛で、百済王の軍兵はたちまち撃ち破られて四散する。
ーだが、神聖王、紀大磐宿禰の足跡がわかっているのはこの頃までで、それ以後の消息はない。
『日本書紀』では、大磐は任那から帰った(日本へ)と記されているが、飯田武郷の『日本書紀通訳』(七十巻本)ではそれらに反論して‘‘朝廷にてはこの(大磐の)謀をしろしめし給わずや、いと不審‘‘と述べている。
当然であろう、紀大磐宿禰はヤマト政権に一種の叛をくわだてたのである。それが日本に帰ろう筈はない。
とすれば、大磐はいったい何処へ消えてしまったのか、すべてがナゾである。もちろん、このとき以後の大磐の日本での記録はない。
ただ、この時から更にくだった欽明天皇の頃の百済国の歴史書『百済本記』によると、〈紀臣の奈卒(百済の官位)彌麻沙〉という人物がいたという。この彌麻沙のことを、〈けだしこれ紀臣、韓の女をめとりて生ませたり。よりて百済にとどまりて奈卒となれる者なり。未だその父(の名)を詳らかにせず〉と記している。
もし、大磐の行方に推測の橋を架けるとするならば、この彌麻沙の父に繋いでみたいものである。
もちろん、これとても単なる推測にすぎない。それはあたっていないかもしれない。けれど反面、あたっていないといえる資料もまたないのだ。
2024年4月11日木曜日
20240411 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋
朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp37‐40より抜粋
ISBN-10 : 4022605170
ISBN-13 : 978-4022605177
紀氏が神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは、ヤマト朝から国造に任じられてからである。
いらい、国造家(紀直系)の活躍ぶりはすさまじい。これら紀氏の政治活動の根底になったのは、いうまでもなく紀ノ川流域に形成された豊穣な農耕地帯である。紀氏は、畿内でもめずらしいほどの美田にめぐまれていた。もともと農耕を主とした部族である。農業土木の法に長じていた。関西大学の薗田香融氏は、平安末期の民間史料で、紀氏の奉祭するヒノクマ・クニカカスの宮のことを農耕民たちは名草溝口の神とよんでいた例がみられるといわれ、さらにまた日前宮のすぐ背後には音浦樋とよぶ用水取り入れ口があり、ここから広大な条理区へ向けて蜘蛛手のように灌漑用水が分配される仕組みになっている。大規模な名草用水を開き、広大な耕田用地を開発したのは、紀伊国造の遠祖にあたる紀直の族長であり、その時期は古墳時代の初頭とみても、おそらくあやまりはあるまい、とも述べておられる。
農耕民たちの信奉する溝口神とは、農業用水をもたらす神であり、そしてその司祭者の紀氏は、この水利権を一手につかんで農耕民たちを支配したのであろう。さらに紀氏は、農耕集団だけではなく、片手に紀ノ川平野の穀倉地帯をにぎり、もう一つの手に紀州沿岸から瀬戸内におよぶ海人集団(水軍)をも掴んでいた。
しかし、紀氏の勢力がヤマト国家のなかでも異例と思える発展を見せるのは、景行天皇の三年、天皇の命をうけて紀伊国の阿備柏原に赴いた屋主忍男武雄心命と紀伊国国造の六代、莵道彦の娘、影媛とのあいだに生まれた武内宿禰(『古事記』〈孝元天皇条〉『日本書紀』〈景行天皇三年条〉「紀伊続風土記」「紀伊国造系図」)を始祖とする竹内流紀氏(紀臣系)がヤマト朝廷の中央貴族として根を張り枝をひろげるようになった頃からである。
ISBN-13 : 978-4022605177
紀氏が神話の世界から歴史のうえに足を踏み出してくるのは、ヤマト朝から国造に任じられてからである。
いらい、国造家(紀直系)の活躍ぶりはすさまじい。これら紀氏の政治活動の根底になったのは、いうまでもなく紀ノ川流域に形成された豊穣な農耕地帯である。紀氏は、畿内でもめずらしいほどの美田にめぐまれていた。もともと農耕を主とした部族である。農業土木の法に長じていた。関西大学の薗田香融氏は、平安末期の民間史料で、紀氏の奉祭するヒノクマ・クニカカスの宮のことを農耕民たちは名草溝口の神とよんでいた例がみられるといわれ、さらにまた日前宮のすぐ背後には音浦樋とよぶ用水取り入れ口があり、ここから広大な条理区へ向けて蜘蛛手のように灌漑用水が分配される仕組みになっている。大規模な名草用水を開き、広大な耕田用地を開発したのは、紀伊国造の遠祖にあたる紀直の族長であり、その時期は古墳時代の初頭とみても、おそらくあやまりはあるまい、とも述べておられる。
農耕民たちの信奉する溝口神とは、農業用水をもたらす神であり、そしてその司祭者の紀氏は、この水利権を一手につかんで農耕民たちを支配したのであろう。さらに紀氏は、農耕集団だけではなく、片手に紀ノ川平野の穀倉地帯をにぎり、もう一つの手に紀州沿岸から瀬戸内におよぶ海人集団(水軍)をも掴んでいた。
しかし、紀氏の勢力がヤマト国家のなかでも異例と思える発展を見せるのは、景行天皇の三年、天皇の命をうけて紀伊国の阿備柏原に赴いた屋主忍男武雄心命と紀伊国国造の六代、莵道彦の娘、影媛とのあいだに生まれた武内宿禰(『古事記』〈孝元天皇条〉『日本書紀』〈景行天皇三年条〉「紀伊続風土記」「紀伊国造系図」)を始祖とする竹内流紀氏(紀臣系)がヤマト朝廷の中央貴族として根を張り枝をひろげるようになった頃からである。
事実、紀氏の勢力は目をそばだたせるほどの勢いでヤマト政権のなかに膨れ上がり、各地に拡がっていく。
この紀という国名を姓にもった紀氏は、その分流の多いことは源氏、平氏、藤原氏の三姓につぎ、橘氏に匹敵するほどである。
いま仮りに、それら諸般各様な紀氏をここに書きつらねてみるとー
まず、出雲系の紀氏・紀直(紀伊国造)・和泉の紀直・河内の紀直・肥前の紀直・紀臣(武内宿禰の子、紀〈木〉角宿禰の裔)・和泉の紀臣・紀伊の紀臣・伊予の紀臣・伊賀の紀臣・紀奥・紀君・紀宿禰(紀伊国造の一族)・大和の紀宿禰・丹波の紀宿禰・筑前の紀宿禰・紀朝臣(武内宿禰の裔)・平群流の紀朝臣・波多野流の紀朝臣・和泉の紀朝臣・巨勢流の紀朝臣・紀角宿禰の紀朝臣(己智の裔)・越中の紀朝臣・川瀬流の紀朝臣(紀伊国造の裔)・紀伊の紀朝臣・苅田流の紀朝臣・大宰府の紀氏・山城の紀氏・大和の紀氏・摂津の紀氏・和泉の紀氏・伊賀の紀氏・尾張の紀氏・駿河の紀氏・武蔵の紀氏・安房の紀氏・常陸の紀氏・近江の紀氏・美濃の紀氏・下野の紀ノ党・岩代の紀氏・磐城の紀氏・陸奥の紀氏・出羽の紀氏・伊賀の紀氏・越前の紀氏・能登の紀氏・丹後の紀氏・伯耆の紀氏・因幡の紀氏・石見の紀氏・美作の紀氏・周防の紀氏・長門の紀氏・紀伊の紀氏・阿波の紀氏・讃岐の紀氏・伊予の紀氏・筑前の紀氏・筑後の紀氏・豊前の紀氏・肥前の紀氏・肥後の紀氏・薩摩の紀氏・大隅の紀氏ー
といった具合で、かぞえあげればキリがない。煩雑を承知のうえで各地における紀氏を書き並べてみたのだが、これだけでもザっと七十はこえている。紀氏は、この他にもまだある。平氏と混じて生まれた紀平、藤原氏と合した紀藤などまでも含めるとすれば、それはおびたたしい数にのぼる。
でー
これらの沢山な紀姓の発生は、もちろんヤマト中央政権のなかで紀氏が強大な勢力をふるっていたからにちがいないが、その紀氏系の活躍を背後から支えていたのは、かれらの本貫の地である紀伊国に君臨する紀伊国造の掴んでいたコメと水軍と、そしてその船を造る木であった。紀伊国は温暖の地で、良材にめぐまれている。ヤマト朝廷の宮殿やその他の建築用材の供給地でもあったし、また海に囲まれている紀伊国は、古代からすぐれた造船技術をもっていた。紀伊独自の大型外洋船の建造技術と航海術がある。おりからヤマト政権が朝鮮半島へ軍事的進出をする最盛期にあたっていたことも紀氏の発展に拍車をかけた。
朝鮮といえば、紀伊国は古代から朝鮮とのつながりがふかく、帰化人も多い、だいいち、木の国の国名にもなった木の出現の神話にしても、主人公のイソタケルと父スサノオが新羅から紀伊にくだったということになっている。そのうえ、この伝承じたい、奇妙に朝鮮の神話にダブりをみせるのである。
朝鮮の檀君神話では、
〈あるとき、神様が朝鮮を支配するために檀というところへ子供をおろし、平定させた。そのときに神様は、下界におりていく子供のために雨師、風師、雲師という神々(職能神)をつけてやった〉
のだという。
それは、新羅から紀伊国にむかうイソタケルが、スサノオの分身である八十の木種をもらってくるシーンとひどく酷似しているのだ。
この紀という国名を姓にもった紀氏は、その分流の多いことは源氏、平氏、藤原氏の三姓につぎ、橘氏に匹敵するほどである。
いま仮りに、それら諸般各様な紀氏をここに書きつらねてみるとー
まず、出雲系の紀氏・紀直(紀伊国造)・和泉の紀直・河内の紀直・肥前の紀直・紀臣(武内宿禰の子、紀〈木〉角宿禰の裔)・和泉の紀臣・紀伊の紀臣・伊予の紀臣・伊賀の紀臣・紀奥・紀君・紀宿禰(紀伊国造の一族)・大和の紀宿禰・丹波の紀宿禰・筑前の紀宿禰・紀朝臣(武内宿禰の裔)・平群流の紀朝臣・波多野流の紀朝臣・和泉の紀朝臣・巨勢流の紀朝臣・紀角宿禰の紀朝臣(己智の裔)・越中の紀朝臣・川瀬流の紀朝臣(紀伊国造の裔)・紀伊の紀朝臣・苅田流の紀朝臣・大宰府の紀氏・山城の紀氏・大和の紀氏・摂津の紀氏・和泉の紀氏・伊賀の紀氏・尾張の紀氏・駿河の紀氏・武蔵の紀氏・安房の紀氏・常陸の紀氏・近江の紀氏・美濃の紀氏・下野の紀ノ党・岩代の紀氏・磐城の紀氏・陸奥の紀氏・出羽の紀氏・伊賀の紀氏・越前の紀氏・能登の紀氏・丹後の紀氏・伯耆の紀氏・因幡の紀氏・石見の紀氏・美作の紀氏・周防の紀氏・長門の紀氏・紀伊の紀氏・阿波の紀氏・讃岐の紀氏・伊予の紀氏・筑前の紀氏・筑後の紀氏・豊前の紀氏・肥前の紀氏・肥後の紀氏・薩摩の紀氏・大隅の紀氏ー
といった具合で、かぞえあげればキリがない。煩雑を承知のうえで各地における紀氏を書き並べてみたのだが、これだけでもザっと七十はこえている。紀氏は、この他にもまだある。平氏と混じて生まれた紀平、藤原氏と合した紀藤などまでも含めるとすれば、それはおびたたしい数にのぼる。
でー
これらの沢山な紀姓の発生は、もちろんヤマト中央政権のなかで紀氏が強大な勢力をふるっていたからにちがいないが、その紀氏系の活躍を背後から支えていたのは、かれらの本貫の地である紀伊国に君臨する紀伊国造の掴んでいたコメと水軍と、そしてその船を造る木であった。紀伊国は温暖の地で、良材にめぐまれている。ヤマト朝廷の宮殿やその他の建築用材の供給地でもあったし、また海に囲まれている紀伊国は、古代からすぐれた造船技術をもっていた。紀伊独自の大型外洋船の建造技術と航海術がある。おりからヤマト政権が朝鮮半島へ軍事的進出をする最盛期にあたっていたことも紀氏の発展に拍車をかけた。
朝鮮といえば、紀伊国は古代から朝鮮とのつながりがふかく、帰化人も多い、だいいち、木の国の国名にもなった木の出現の神話にしても、主人公のイソタケルと父スサノオが新羅から紀伊にくだったということになっている。そのうえ、この伝承じたい、奇妙に朝鮮の神話にダブりをみせるのである。
朝鮮の檀君神話では、
〈あるとき、神様が朝鮮を支配するために檀というところへ子供をおろし、平定させた。そのときに神様は、下界におりていく子供のために雨師、風師、雲師という神々(職能神)をつけてやった〉
のだという。
それは、新羅から紀伊国にむかうイソタケルが、スサノオの分身である八十の木種をもらってくるシーンとひどく酷似しているのだ。
2024年4月9日火曜日
20240409 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋
株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.375-376より抜粋
ISBN-10 : 4794204914
ISBN-13 : 978-4794204912
一九〇二年に日英同盟が結ばれたとき、イギリスの政治家たちが期待したのは、特定の状況のもとで日本を援助するためのコストがかかっても、中国における戦略上の負担が軽減されるということだった。そして一九〇二年から三年のあいだには、イギリスの上層部は、植民地問題についてフランスと和解できると考えるようになった。先のファショナダ事件でも明らかだったように、フランスはナイル川流域をめぐって武力に訴えるつもりはなかったのである。
こういった協定はいずれも、初めのうちこそヨーロッパ以外の問題にのみかかわるようにみえたが、それらはヨーロッパの大国の地位に間接的な影響を与えた。西半球におけるイギリスの戦略的なジレンマが解消し、極東では日本海軍から援助を受けることになったため、イギリス海軍の海上配備にたいする圧力はいくらか弱まり、戦時に足場を固められる可能性が大きくなった。また、英仏間の反目が和らいだ結果、イギリス海軍の信頼性はいちじるしく高まった。こうした状況のすべてがイタリアにも影響を与えた。イタリアは沿岸地帯が非常に無防備で、英仏の連合に対峙することができなかったからだ。とにかく、二十世紀初頭の数年間に、フランスとイタリアには(経済と北アフリカ問題における)関係を改善する絶好の口実ができたのである。しかし、イタリアが三国同盟から離れていけば、オーストリア‐ハンガリーとのあいだで表面化しかけていた小競り合いに影響をおよぼすはずだった。結局は、日英同盟という距離的に隔たった結びつきですら、ヨーロッパにおける国家間の秩序に間接的な影響をおよぼすこととなった。一九〇四年に、日本が朝鮮と満州の将来をめぐってロシアに強い態度でのぞんだとき、その同盟のおかげで第三者たるどの大国も介入できなかったのである。さらに日露戦争が勃発したときにも、日英同盟および仏露同盟の特別条項によって、「セコンド」としてのイギリスとフランス両国は、公然と戦争に巻き込まれることをたがいに避けるよう、しっかりと釘をさされていた。それゆえ、極東で戦争が起こるやいなや、ロンドンとパリが植民地をめぐる争いを終結させ、一九〇四年四月に英仏協商を結んだことは驚くにはあたらない。長年にわたる英仏の争いー一八八二年にイギリスがエジプトを占領したことに端を発していたーは、もはや立ち消えとなっていた。
ISBN-10 : 4794204914
ISBN-13 : 978-4794204912
一九〇二年に日英同盟が結ばれたとき、イギリスの政治家たちが期待したのは、特定の状況のもとで日本を援助するためのコストがかかっても、中国における戦略上の負担が軽減されるということだった。そして一九〇二年から三年のあいだには、イギリスの上層部は、植民地問題についてフランスと和解できると考えるようになった。先のファショナダ事件でも明らかだったように、フランスはナイル川流域をめぐって武力に訴えるつもりはなかったのである。
こういった協定はいずれも、初めのうちこそヨーロッパ以外の問題にのみかかわるようにみえたが、それらはヨーロッパの大国の地位に間接的な影響を与えた。西半球におけるイギリスの戦略的なジレンマが解消し、極東では日本海軍から援助を受けることになったため、イギリス海軍の海上配備にたいする圧力はいくらか弱まり、戦時に足場を固められる可能性が大きくなった。また、英仏間の反目が和らいだ結果、イギリス海軍の信頼性はいちじるしく高まった。こうした状況のすべてがイタリアにも影響を与えた。イタリアは沿岸地帯が非常に無防備で、英仏の連合に対峙することができなかったからだ。とにかく、二十世紀初頭の数年間に、フランスとイタリアには(経済と北アフリカ問題における)関係を改善する絶好の口実ができたのである。しかし、イタリアが三国同盟から離れていけば、オーストリア‐ハンガリーとのあいだで表面化しかけていた小競り合いに影響をおよぼすはずだった。結局は、日英同盟という距離的に隔たった結びつきですら、ヨーロッパにおける国家間の秩序に間接的な影響をおよぼすこととなった。一九〇四年に、日本が朝鮮と満州の将来をめぐってロシアに強い態度でのぞんだとき、その同盟のおかげで第三者たるどの大国も介入できなかったのである。さらに日露戦争が勃発したときにも、日英同盟および仏露同盟の特別条項によって、「セコンド」としてのイギリスとフランス両国は、公然と戦争に巻き込まれることをたがいに避けるよう、しっかりと釘をさされていた。それゆえ、極東で戦争が起こるやいなや、ロンドンとパリが植民地をめぐる争いを終結させ、一九〇四年四月に英仏協商を結んだことは驚くにはあたらない。長年にわたる英仏の争いー一八八二年にイギリスがエジプトを占領したことに端を発していたーは、もはや立ち消えとなっていた。
20240408 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.112-113より抜粋
岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.112-113より抜粋
ISBN-10 : 4006002297
ISBN-13 : 978-4006002299
ドイツのヨーロッパ外への膨張については、しかし、なお一つの途があった。それは、陸路によってドイツ本国と連絡された植民帝国または勢力圏を建設することであった。そして、現にこの時期のドイツはオーストリア=ハンガリーとの同盟を拠点としてその勢力をバルカン半島へのばし、さらにこの半島を「東方世界への橋」として、中東(Middle East)へ帝国主義的支配を及ぼそうと企てていたのであり、それは、具体的にはコンスタンティノープルからアジア・トルコを貫いてバグダード(Baghdad)にいたる鉄道敷設計画を根幹として進められていたのであった。しかも、この計画もペルシャ湾を窮極の目標としるものであった点において、イギリスの「インドへのルート」を脅威するものとなり得たのであり、従って、この鉄道敷設計画は現に対英関係を甚だしく緊張せしめることになった。
ドイツは、以上のようにして、世界帝国イギリスと経済的・政治的に次第に鋭い帝国主義的対立の関係に立つことになった。ドイツの海軍大拡張、および、それにともなって英独両国間に展開されることになった建艦競争は、実にその集中的表現にほかならない。ドイツは一八九八年に海軍拡張七ヶ年計画を立てたが、それは沿岸守備を主たる建前とした在来のドイツ海軍を大洋において作戦行動を行い得るものに発展させ、海相ティルピッツ(v. Tirpitz)の言葉をかりていえば、ドイツ海軍を列国にとって無視し得ない存在たらしめることがその目的であった。しかも、それから僅か二年後の一九〇〇年には、南ア戦争(South African War;ブーア戦争 BoerWar)によりドイツ人心の中に反英感情が沸騰するにいたった機会をとらえて、以上の計画をさらに飛躍的に拡大した海軍拡張一七ヶ年計画を作成した。この計画の目標は、明白にイギリスに拮抗し得るところの海軍を建設することにあった。ドイツがこのように海軍大拡張を企てるにいたったのに対しては、イギリスももとより傍観することはできず、一九〇三年には巨大な海軍拡張計画を立案、これに対抗するにいたった。
さて、英独帝国主義の次第に先鋭化するこの対立を軸として、国際政治は大きくその様相を改めることになった。イギリスは一九〇四年にフランスとの間に英仏協商(Anglo-French Entente)-それはアンタント・コルディアール(Entente cordiale)(心からの諒解という意味)ともよばれているーを成立させた。すなわち、イギリスとフランスとは、エジプトおよびモロッコをめぐって長年にわたって演じてきた烈しい帝国主義的対立関係、ならびに、ニューファンドランド(Newfoundland)、シャム(Siam)、マダガスカル(Madagascar)、ニューヘブリデス(New Hebrides)に関する両国間の係争問題を互譲的に解決して、その国交の調整を行ったのである。イギリスとしては、かくすることによって、ドイツ帝国主義の烈しい攻勢により強力に対処し得る地位に立とうと欲したのであり、またフランスは、ドイツと次第に鋭く対立し出しているイギリスに接近することによって、ドイツに対するその地位を有利ならしめることを望んだのであった。
ISBN-10 : 4006002297
ISBN-13 : 978-4006002299
ドイツのヨーロッパ外への膨張については、しかし、なお一つの途があった。それは、陸路によってドイツ本国と連絡された植民帝国または勢力圏を建設することであった。そして、現にこの時期のドイツはオーストリア=ハンガリーとの同盟を拠点としてその勢力をバルカン半島へのばし、さらにこの半島を「東方世界への橋」として、中東(Middle East)へ帝国主義的支配を及ぼそうと企てていたのであり、それは、具体的にはコンスタンティノープルからアジア・トルコを貫いてバグダード(Baghdad)にいたる鉄道敷設計画を根幹として進められていたのであった。しかも、この計画もペルシャ湾を窮極の目標としるものであった点において、イギリスの「インドへのルート」を脅威するものとなり得たのであり、従って、この鉄道敷設計画は現に対英関係を甚だしく緊張せしめることになった。
ドイツは、以上のようにして、世界帝国イギリスと経済的・政治的に次第に鋭い帝国主義的対立の関係に立つことになった。ドイツの海軍大拡張、および、それにともなって英独両国間に展開されることになった建艦競争は、実にその集中的表現にほかならない。ドイツは一八九八年に海軍拡張七ヶ年計画を立てたが、それは沿岸守備を主たる建前とした在来のドイツ海軍を大洋において作戦行動を行い得るものに発展させ、海相ティルピッツ(v. Tirpitz)の言葉をかりていえば、ドイツ海軍を列国にとって無視し得ない存在たらしめることがその目的であった。しかも、それから僅か二年後の一九〇〇年には、南ア戦争(South African War;ブーア戦争 BoerWar)によりドイツ人心の中に反英感情が沸騰するにいたった機会をとらえて、以上の計画をさらに飛躍的に拡大した海軍拡張一七ヶ年計画を作成した。この計画の目標は、明白にイギリスに拮抗し得るところの海軍を建設することにあった。ドイツがこのように海軍大拡張を企てるにいたったのに対しては、イギリスももとより傍観することはできず、一九〇三年には巨大な海軍拡張計画を立案、これに対抗するにいたった。
さて、英独帝国主義の次第に先鋭化するこの対立を軸として、国際政治は大きくその様相を改めることになった。イギリスは一九〇四年にフランスとの間に英仏協商(Anglo-French Entente)-それはアンタント・コルディアール(Entente cordiale)(心からの諒解という意味)ともよばれているーを成立させた。すなわち、イギリスとフランスとは、エジプトおよびモロッコをめぐって長年にわたって演じてきた烈しい帝国主義的対立関係、ならびに、ニューファンドランド(Newfoundland)、シャム(Siam)、マダガスカル(Madagascar)、ニューヘブリデス(New Hebrides)に関する両国間の係争問題を互譲的に解決して、その国交の調整を行ったのである。イギリスとしては、かくすることによって、ドイツ帝国主義の烈しい攻勢により強力に対処し得る地位に立とうと欲したのであり、またフランスは、ドイツと次第に鋭く対立し出しているイギリスに接近することによって、ドイツに対するその地位を有利ならしめることを望んだのであった。
2024年4月7日日曜日
20240406 2170記事に到達して:(読書や文章作成から感じられることについて)
昨日の引用記事の投稿により、総投稿記事数が2170に至りました。そして、さらに30記事の更新により、当面の目標としている2200記事に到達することが出来ます。その時期は、今後毎日1記事の更新であれば約1カ月後、つまり5月初旬と見込まれますが、その投稿頻度での継続は困難であると思われることから、期間を延長し、5月中での2200記事達成を目標にしたいと考えます。
さて、別件ですが、つい先日オーランド―・ファイジズによる「クリミア戦争」上下巻を読了しました。当著作は近年の私にとっては久々の文量であり、さらに、これまで自らの専門、あるいは、その周辺分野として慣れ親しんだ経験がない分野の著作であったことから、当初は読み進めていても文章の理解が伴わないことが度々ありましたが、読み進めるにつれ、徐々に慣れて楽になり、下巻に入ってからは、文章に何らかの変化があったのか、あるいは、私の方がさらに慣れたのか、読み進めることが楽になり、下巻に関しては思いのほか早く読了に至ったように感じられます。また、その読了後の実感は、さきに述べた文量と比例するものであったのか、相対的に大きなものであり、現在でも、このように文章などを作成していて少し集中してきますと、どうしたわけか、その感覚が想起されてくるのです。
そして、こうした経験を通じて思ったことは、私には読書の習慣がありますが、そこで読む著作とは、概ね、新書や選書や学術文庫や文庫の小説といった比較的手軽な様式の書籍であり、そしてまた、それらの読了後の感覚は、さきに述べた「クリミア戦争」上下巻でのそれとは異なり、相対的に軽いものであり、また、長期間は継続しません。そうした実感から、さらには当ブログ継続の見地からも、比較的手軽であるからと、文庫様式の著作ばかり読まずに、時には重要と考えるハードカバーの著作を、古書であっても良いので入手して読むことが重要であるということです。
また、現在になり少し面白く感じられたことは、さきの著作上下巻は、移動や外出の際にも持参して読んでいましたが、これを読了後から肩が少し軽く感じられるようになったことです・・。おそらくハードカバーの著作を持ち歩いて、外出時に読むことは、身体に対しても少し負荷を掛けていたのかもしれません。とはいえ、おそらく、これも慣れであると思われますので、今後もう少し意識しつつ継続してみようと考えています。
と、如上のように先日の読書経験から思ったことを述べましたが、当ブログ自体の継続もまた、自らの読書経験に基づいていると云え、引用記事などは、その最たるものであると云えます・・。そういえば、当記事は久々の自らの独白形式によるものであり、そのためか、書き進め方がぎこちなく、文章の流れもどうも滑らかではないように感じわれるのです・・。しかし、こうしたことも、これまでのブログ記事作成の経験から、継続により徐々に自然に、そして自分なりに、出来るようになっていくのではないかと考えています。そして、この「自分なりに出来るように・・」という感覚の積み重ねにより上達するということは、我々の活動の多くに共通して云えるのではないかと考えます。
とはいえ、私の場合、これまで8年以上にわたり当ブログを(どうにか)継続してきましたが、文章作成の上達の実感を記憶に残るほど強く受けたことはないと記憶していますので、さきの著作読了後に得た感覚と同程度に強く、今後、自らの文章作成について、上達などの変化を実感してみたいと願うところではあるのですが、さて、どうなるのでしょうか?
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
さて、別件ですが、つい先日オーランド―・ファイジズによる「クリミア戦争」上下巻を読了しました。当著作は近年の私にとっては久々の文量であり、さらに、これまで自らの専門、あるいは、その周辺分野として慣れ親しんだ経験がない分野の著作であったことから、当初は読み進めていても文章の理解が伴わないことが度々ありましたが、読み進めるにつれ、徐々に慣れて楽になり、下巻に入ってからは、文章に何らかの変化があったのか、あるいは、私の方がさらに慣れたのか、読み進めることが楽になり、下巻に関しては思いのほか早く読了に至ったように感じられます。また、その読了後の実感は、さきに述べた文量と比例するものであったのか、相対的に大きなものであり、現在でも、このように文章などを作成していて少し集中してきますと、どうしたわけか、その感覚が想起されてくるのです。
そして、こうした経験を通じて思ったことは、私には読書の習慣がありますが、そこで読む著作とは、概ね、新書や選書や学術文庫や文庫の小説といった比較的手軽な様式の書籍であり、そしてまた、それらの読了後の感覚は、さきに述べた「クリミア戦争」上下巻でのそれとは異なり、相対的に軽いものであり、また、長期間は継続しません。そうした実感から、さらには当ブログ継続の見地からも、比較的手軽であるからと、文庫様式の著作ばかり読まずに、時には重要と考えるハードカバーの著作を、古書であっても良いので入手して読むことが重要であるということです。
また、現在になり少し面白く感じられたことは、さきの著作上下巻は、移動や外出の際にも持参して読んでいましたが、これを読了後から肩が少し軽く感じられるようになったことです・・。おそらくハードカバーの著作を持ち歩いて、外出時に読むことは、身体に対しても少し負荷を掛けていたのかもしれません。とはいえ、おそらく、これも慣れであると思われますので、今後もう少し意識しつつ継続してみようと考えています。
と、如上のように先日の読書経験から思ったことを述べましたが、当ブログ自体の継続もまた、自らの読書経験に基づいていると云え、引用記事などは、その最たるものであると云えます・・。そういえば、当記事は久々の自らの独白形式によるものであり、そのためか、書き進め方がぎこちなく、文章の流れもどうも滑らかではないように感じわれるのです・・。しかし、こうしたことも、これまでのブログ記事作成の経験から、継続により徐々に自然に、そして自分なりに、出来るようになっていくのではないかと考えています。そして、この「自分なりに出来るように・・」という感覚の積み重ねにより上達するということは、我々の活動の多くに共通して云えるのではないかと考えます。
とはいえ、私の場合、これまで8年以上にわたり当ブログを(どうにか)継続してきましたが、文章作成の上達の実感を記憶に残るほど強く受けたことはないと記憶していますので、さきの著作読了後に得た感覚と同程度に強く、今後、自らの文章作成について、上達などの変化を実感してみたいと願うところではあるのですが、さて、どうなるのでしょうか?
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
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