2022年11月21日月曜日

20221121 岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著 『コンラッド短編集』「武人の魂」 PP.346-349より抜粋引用

岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著
『コンラッド短編集』「武人の魂」
PP.346-349より抜粋引用
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861

トマソフの心も頭も、そのときの記憶で一杯だった。彼はその思い出に、一種の畏敬の念さえ感じていた。そして根が純朴な男だったから、自分の思いを言葉にするのを躊躇わなかった。彼は自分自身を特別の恩恵を与えられた者と見なしていたらしい。どう言ったら貴公たちに説明できるだろう?それはなにも、一人の女が目をかけてくれたというような話ではなく、一人の女への畏敬の念が、あたかも天啓のように輝いて彼の心の内に宿った、とでも言うべきだろうか?

 そう、そのとおり、彼はきわめて純な男だった。素敵な若者だった。だが、けっして馬鹿ではなかった。そのうえ、まだまったく世慣れておらず、疑うことも、ものを深く考えることも知らなかった。田舎へ行けば、そんな男によく出会うものだ。また、詩情も解する男だった。それは天性備わったもので、あとから獲得した資質ではなかったはずだ。人類の祖アダムもかくや、と思わせるようなところがトマソフにはあったのだ。だがそれ以外の点では、フランス人の言い草を借りれば、この男は野蛮なロシア人(アン・リュス・ソヴァージュ)そのものだった。しかしフランス人がよく言うような、蝋燭の獣脂を美味いもののように食ってしまう類の野蛮人ではない。そんなことは断じてなかった。さて、その女はというと、もちろんフランス女だった。しかし、十万のロシア人とともにパリに入ったわしも、この女には一度も会うことなく終わってしまった。たぶんその当時、彼女はパリにいなかったのだろう。いずれにせよ、彼女の屋敷のドアが、わしのような武骨者に対して開けられる見込みはなかったろうがな。金ぴかのサロンなどというものは、わしにはおよそ縁がなかったわけだ。だから、彼女がどんな感じの女だったか、それを貴公たちに話すことはできないのだ。だが、トマソフとわしが、あれほど肝胆相照らす仲だったことを思えば、これは妙だと言わざるをえまいな。

 まもなく、トマソフは他人の前で話をしなくなった。野営の焚火を囲みながら交わすいつもの雑談が、彼の繊細な感情には鬱陶しくなったのだろう。そのうちにわしだけが、彼の話の聞き手にされてしまった。それはやむをえぬことでもあった。トマソフのような若い男に、永久に黙っていることなど、できぬ相談だったろう。そしてわしは、貴公らには信じがたいだろうが、これでも生まれつき無口な男なのだ。

 わしが無口なことが、おそらく、トマソフには好ましく思えたのだろう。我々の連隊は九月のまるひと月を、あちこちの村で野営して過ごしていたが、その頃はいたって平穏無事だった。わしが、彼のする話のあらかたを聞いたのは、そのときだった。いや、あれは話と呼べるようなものではないかもしれぬ。わしが話と呼ぶのは、ああいったものではない。あれは、溢れ出ずる心情、とでも言うべきものだろうからな。

 トマソフが息を弾ませて話している間、わしはじっと黙ったまま、まるまる一時間でも座って耳を傾けていたものだ。そして、彼が話し終えてしまっても、そのまま黙っていた。すると、一種の沈黙の効果みたいなものが生れるわけだ。それがある意味で、トマソフには嬉しかったのだろう。

2022年11月20日日曜日

20221120 株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」 pp.133-136より抜粋

株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」
pp.133-136より抜粋
ISBN-10: 4006032056
ISBN-13: 978-4006032050

以上に指摘した日本の高等教育の弱点を考慮して、次のような改善策を提案したい。まず一〇歳代後半の人々の能力を高めるために、高校での教え過ぎの課目数を大幅に削減することを提案したい。

 専門化され過ぎていたと言われる私たちの時代の旧制高校の文科コースでも、次のような多用な課目が関連なしにばらばらに教えられていた。まず歴史では、国史、東洋史、西洋史の三科目がある上に国語、国文学史、漢文がある。これらすべてを一科目か二科目に統合する。この大科目の主題は日本はアジアの中でどういうふうに近代化(西洋化)されたかに絞られる。生徒は自分で自分のテーマを設定し、各先生と相談しながら、関連する書物を図書館で読んで、レポートを書き上げるのである。

 哲学・社会科学関係の授業も多すぎた。哲学、論理学、法制・修身と称する倫理学など、多くの科目が無責任、無連絡に教えられていた。生徒はどの科目にも専念することはないから、先生の言ったことをノートにとって暗記するだけであった。私自身は心理学と論理学の講義には興味を持ったが、それ以外の講義を馬鹿にしていた。

 体育の科目ですら多過ぎた。体操、武道、軍事教練の他に、殆ど全員はそれぞれ何らかのスポーツ・クラブに所属していた。これらも統合して好きなスポーツ一つだけに専門化すべきだ。

 要するに日本の高等学校は、新制でも旧制でも教え過ぎで、出来るだけ多くの科目を広く浅く学ばせようとする。だから日本人は、学問とは知識を数多く集めることだと考え、集めて保存するために記憶能力を磨く。その結果日本人は考えることを甘く見る。「なぜか」と尋ねることは、学校でも、家庭でも決して歓迎されない。それだけ日本の学校には無駄があるので、それらを改善して前節末に述べた理想案に近づけることは可能である。 

 高校の科目はできるだけ統合して、ごく少数の科目に合格すれば、大学への入学が許可されるようにすればよい。イギリスではAレベルの試験に三科目合格することが大学入学の条件とされているから、イギリスの高校生はAレベル三科目の学習に全力を注ぐ、したがって彼らは、日本の生徒と比べるならば深いが狭い。広大な無知の領域が彼らには残されている。しかしそのことはどうでもよいのだ。Aレベル水準の三つの科目をマスターした能力の者には、独力で四つ目や五つ目の科目を習得することは困難なことではない。

 要約して言うならば、高校の科目を、幾つかの大講座にまとめ上げ、同一の大講座に属する先生(例えば日本史、東洋史、西洋史、地理の先生)は共同して生徒の質問に答え、生徒の自主的勉強を指導する。どの大講座の科目を勉強するかは生徒の選択にまかされる。

 その他に別枠として外国語(英語)がある。これは大学進学の必修科目だが、私たちが教えられるような英文学の真似事としての英語ではなく、もっと実用的な(日常生活に役に立つと同時に大学で研究するのに役に立つ)英語を教える。英文学の真似事の英語は、英文学の真似事以外にあまり役に立たないことを英語の先生は自覚すべきである。

 以上の案では、私の理想案の内容がほぼ満たされている。不足しているのは、それが生徒の選別を充分していないということである。選別は重要である。出来る人を集めてこういう人も自分の同年代の人にいることを知るのは大切なことである。平等の名において選別をなくすのは、子供に対する愚民化政策である。スポーツで選別をなくすれば、優秀なスポーツ選手は生まれない。同様に、思考力の異なる者を一つの教室に入れておけば、思考力のあるものが、怠けて考えなくなるだけである。

20221120 株式会社 光人社刊 光人社NF文庫 比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」 pp.42-44より抜粋

株式会社 光人社刊 光人社NF文庫
比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」
pp.42-44より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769820631
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769820635

ビルマ派遣軍司令部は、もと大学ででもあったのか、広い構内にあり、建物はコンクリート建てで、白黒のダンダラ模様に迷彩をほどこしてあり、大きな偽装網がぶら下がっている建物もあった。

 こんなところへ、こんな細工をしても効果があるのかと思ったが、口には出さなかった。

 軍司令官は、マラリアでねており、参謀長が申告をうけた。彼は、開口一番、「大変なところへ来てもらって、お気の毒である」といった内容のことをいった。

 「この戦争で、すくなくとも攻勢をとっているのは、ビルマだけだ」と、われわれは勢いをつけてこられたのに、

「お気の毒だ」といわれたのには、ガッカリした。

 それもそのはず、ちょうど申告をした部屋は作戦室であり、その壁に貼ってある作戦図には、今まで士官学校で習ってきた退却作戦の要図、そのままが描かれている。隊号を虫ピンでとめてある。

 青色で南の方へ下がっている何本かの大きな矢印は、日本軍の退却をあらわしている。赤色の矢印がそれを追いかけている。青の矢印の中間には、赤い落下傘の印が点々ととめてある。敵の空挺部隊が、退却を妨害していることを示している。

 北東の方には、青い環が三つばかりあり、これを赤い環がかこんでいる。ラモウ、ミートキーナ方面で、日本軍は敵に包囲され、孤立して苦戦をしていると聞いていたが、現実に司令部には、正直に敗けいくさの状況が示されているのだ。

 そして、参謀長のいわれるには、「日本軍はインパールから退却し、ある地点で態勢をたてなおすために、移動中である。そこへ追及しても、とくにやる仕事はないし、若い連中が行って、貴重な米を食い荒らすことになるともったいない。しばらくラングーンにとどまって、ようすを見てから前線に追求せよ」ということであった。

 二、三日は兵站旅館にとめてもらったが、すぐに追いだされて、むかしゴルカ(グルカともいう)兵の兵舎であったという粗末な兵舎に寝起きすることになった。

2022年11月19日土曜日

20221118 しばらく引用記事を作成していて思ったこと(思い出したこと)

おかげさまで昨日投稿分の引用記事は、投稿翌日としては、かなり伸びました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、ここ最近数日間は、波に乗ったのか、自らの文章による記事作成を試みることもなく、そのまま引用記事を作成していました。先日、司馬遼太郎について書かれた著作を読み、またその文脈を確かめるために、司馬遼太郎自身による文章、あるいは、その著作への評価などが書かれた他の文章を読んでいますと、面白いことに、何やら思考が動き出し「あるいは、この記述とも関連があるのではないか?」などと思い出すようになり、そしてまた、他の著作へと手を伸ばしていくのです・・。

そのため、現在、当ブログを作成しているPCが置いてあるデスクの上には、かねてよりのものを合わせて、15~20㎝ほどの高さに積まれた書籍が5つほどある状態となっています・・(苦笑)。ともあれ、そうしますと、やはり私は司馬遼太郎の著作には何か特別な思い入れがあるのかもしれません・・。また、それと併せて今回の件で面白いと感じたことは、先日、加藤周一による「日本文学史序説」下巻内にある、三島由紀夫と司馬遼太郎について書かれた記述を思い出し、その箇所を開き、引用記事の作成を試みましたが、その際に、引用部のみならず、ほかの記述も知らず知らずのうちに読んでしまっていたことです・・。

思い返してみますと、この加藤周一著「日本文学史序説」上下巻は、私にとって印象深い著作の一つであり、当著作を購入したのは2012年の鹿児島在住の頃でした。とはいえ、その当時はなかなか、こうした比較的硬質ともいえる他分野(人文系)の著作を読む活力や元気はなく「どうにか学位取得にまで至ったら、その後じっくりと読んでみよう。」と積読状態にて放置していました・・。

そして、その翌年、どうにか学位取得にまで至り、帰郷の後は就職活動をしながらアルバイトをしつつ生活をしていましたが、この時期に至り、比較的熱心に読んでいた著作が、さきに述べた在鹿児島時代に積読状態であった「日本文学史序説」上下巻でした。やがて、当著作は英訳版が刊行されていることを知り、こちらはたしか全三巻でしたが古本にて購入して、これらもまた自分なりに熱心に読んでいた記憶があります・・。

ほかにも加藤周一の著作は、以前から読み続けており、納得出来ない見解の記述などもしばしばありましたが、全体としては、その記述の明晰さに惹かれていたと云えます・・。

そしてまた「このような文章は私でも作成出来るのだろうか・・?」と思うことも度々あり、そうした経緯もあってか、当ブログ開始当初の頃は特に当著作(「日本文学史序説」上下巻)からの引用記事が多かったのだとも思われます。

そのように考えてみますと、去る2012年に当著作を購入し、そして翌2013年9月に学位取得に至り、帰郷してから当ブログをはじめる2015年6月までの2年に満たないほどの期間、この「日本文学史序説」上下巻)を日本語・英語版にて読んでいたことが思い返され、そして、さきに述べた同著作内の三島由紀夫と司馬遼太郎について書かれた記述も、どうにか機に応じて思い出されたのです・・。

書籍からの引用記事であっても、ある程度継続していますと、時には引用した記述が、丁度同時代での世間の出来事と何やら興味深い関連性を示すことが時折ありますが、あるいはそうしたことの背景には、現時点の私には理解出来ないものの、何らかの摂理といったものがあるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


















2022年11月17日木曜日

20221117 株式会社講談社刊 加藤周一著「日本人とは何か」 pp.161-163より抜粋

株式会社講談社刊 加藤周一著「日本人とは何か」
pp.161-163より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061580515
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061580510

明治の天皇制権力は、文明開化の必要を痛感していた。急速に官吏を養成する必要があり、大規模に技術を輸入する必要があった。すなわち明治政府は官立の高等学校を作り、それぞれの目的に従って文科と理科とを分け、官立大学をつくって能率的な教育を実行した。その改革が驚くべきものであったことをわれわれは知っている。有能な役人と技術者が養成され、組織された。知識人の動員は、何も戦時に限られたことではなく、明治維新以来、敗戦まで大筋としては一貫していたといえるだろう。理想が富国強兵にあるとき、どうして役人に音楽を聴く必要があろうか。また技術者に社会問題を考える時間があろうか。世界最大の戦艦を造った日本の技術者は、小説を読んで自ら楽しむどころか、一台の乗用車さえ国民のために作る余裕がなかったのである。専門領域以外の人事一般に対して知識人の関心がうすいのは、富国強兵をめざして行われた知識人の動員が徹底していたということであろう。

 大部分は動員されていた。しかし、勿論全部ではなかった。そして、敗戦とともに当然、戦前の少数者は、その数を増したのである。しかし天皇の名のもとに富国強兵の理想を無条件に受け入れないとすれば、意識的にそれを批判しなければならない。日本の知識人の関心が専門領域の技術問題以外に出る時には、主として社会問題へ向うのがまったく当然だろうと思われる。東京の知識人は、宗教を語らない。個人の生と死、また救いの問題は、今ではほとんど例外的な少数者の注意しか引かなくなっている。芸術は娯楽にすぎない。しかし娯楽としては、むろん活動写真の迅速簡便には及ばないだろう。

 教養の内容について言えば、明治以来の大学の伝統は、一切をよく象徴している。医学部や工学部の教授は、その講義の途中に英語や独逸語の単語を用いることで学問的雰囲気を作り上げることに巧みであった。事はもとより枝葉末節にすぎない。大学の教授の能力は、総じて非常に秀れたものであって、さればこそ日本の技術も今日まで発展して来たのである。学問にとって教授が外国語を好もうと好まないと大きな問題ではなかった。しかし、その枝葉末節に現れている心理的傾きそれ自身は、必ずしも枝葉末節ではない。その心理的傾きのある限り、日本の学問がどれほど西洋の水準に近づいてもも、おそらく全体としてそれを抜くことはないだろう。それは学者の責任ではない。広く知識人全体の問題である。

 自国の文化に対する関心は、たびたび反動を経験しながら、自然確実にうすれていった。しかし、輸入された外国文化の特徴は、そこに歴史的厚みがないということである。新しい技術の輸入を主眼とする以上、当然だろうが、とにかく輸入された限りでの西洋文化にはなかった。したがって、もし日本の知識人に文化を歴史的なものとしてうけとる機会があったとすれば、それは日本の文化との接触を通じてでしかなかったであろう。ところがそういう機会は少なかった。自国の伝統文化に対する無関心は、そのまま歴史的感覚の鈍さに通ぜざるをえない。ところが、その名に価するあらゆる文化は、深く歴史的なものである。明治以来の日本の思想的、文学的、芸術的貧困の根本的な理由は、おそらくそこにあると思われる。


2022年11月16日水曜日

20221116 株式会社文藝春秋刊 大岡昇平著「対談 戦争と文学と」 pp.283-284より抜粋

pp.283-284より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4168130509
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4168130502

司馬 歩兵は肉体一つですから敗勢の場合でも、斬り込みをやって死ぬとか、ある意味では変化の可能性がたくさんあるわけですかれど、戦車隊ですと機械力が劣弱の場合、それが絶対的なもので、運命についての可能性などは少しもありません。暗いものでした。ただ鋼板の厚みで、国家の力がからだで否応なしにわかってしまうという、そういうわかり方はあの戦車に入っていますとありました。敵の鋼板は、とても厚くて、自分の小さな大砲ではタドンを投げたようでカスリ傷もあたえることができない。日本のほうは、体裁はととのっているけれど、いざ戦場に出ると豆腐みたいに砲弾で貫かれてしまう。あの97式中戦車は、できあがったときには国際的水準に近い戦車だったようですが、しかしすぐ時代遅れになっています。昭和12年のことでしたか、戦闘機が7万円、爆撃機が20万円のとき、戦車は35万円だったそうですから、日本の国力ではモデルチェンジができないわけです。ノモンハンが終わったころに量産のコースにのったシロモノで、独ソ戦を経た欧米のレベルからみればとても・・。太平洋戦争の初期のマレー作成のときは、駐留英軍が装甲車程度しか持っていませんでしたから、相対的に威力はありませんでしたけれど・・、あとはずっと、役立たずでした。

大岡 ノモンハンのときに、だめだということは証明されているわけだからねえ。あれより大型は作らなかったのですか。

司馬 日本の国内鉄道が狭軌でしょう。ですから日本の貨車の幅で戦車の幅が決まるわけですから大型はだめだったんですね。

大岡 レイテにも戦車はきましたが、もっぱら、大砲を引っぱたり、連絡に使うつもりでもってきたらしい。馬はすぐ死んじゃうのでね。ところが、戦車ってのは、すぐ飛行機に見つかっちゃうんで、昼間は広いところには出られない。夜だけ動き回っていたらしい。

司馬 沖縄でもそうです。沖縄にも、戦車隊が一個連隊おりましたが、実際には使いものにならない。飛行機や相手の戦車にどんどんやられちゃいますから。そうすると、温存されてきて、他がみんなやられたのに戦車だけが残っては申しわけないというので、夜襲をかけた。戦車で夜襲はできないというのは、常識ですけれど、大きな音がしましてね、それに、夜襲には、無線が使えない。無線による指揮ができないとなると、バラバラになるおそれがある。であるのに夜陰いっせいに動きだして、敵の方角へ進んだんです。全滅しなければ申しわけないという非戦術的理由だけで。むろん相手の大砲にドカドカと迎え撃たれて、20分ほどで全滅したしたという。ここらへんがなにか、日本の旧国家のすがたですね。

大岡 レイテ島でも、ペリリュー島でも、敵があがった晩、やはり夜襲をかけて全滅してしまう。戦車隊はおいといても、すぐ見つかっちゃうし、邪魔になるばかりなんです。ほかにやることがないから、潰してしまう。終末的思想とでもいうほかないですねえ。

2022年11月15日火曜日

20221114 株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」 pp.11-15より抜粋

株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」
pp.11-15より抜粋
ISBN-10: 4006032056
ISBN-13: 978-4006032050

 動物の場合は、死んで往くものと生まれてくるものに殆ど差はないから、集団の質はほぼ一定である。しかし文化を身につけている人間は、死んで往くものが身につけていた文化と異なった文化を身につける子供が生まれてくるから、集団の質は変わってくる。

 しかし欧米諸国では文化の変化はそれほど大きくない。自国内での自発的な変化が大部分であり、よそから文化を移入するとしても、その「よそ」もまた欧米文化の伝統の中にあるから、移入による文化の変化は大きくない。(ただし旧植民地帝国では大きい変化があった。)

 だが日本の場合、死んで往く老人が、伝統的な日本文化を身につけており、生まれてきたものは欧米文化をより多く身につけるとするならば、出生と死亡がもたらす文化交替は集団の質を激変させることになる。特に敗戦後、戦前、戦中の国粋的な文化が、戦後のアメリカ文化によって置き換えられることによって、日本の人口の質は急変してきた。

 特別な考察をすべきは、戦後の教育改革である。それは日本の人口の質に画期的な変化を引き起こす筈だと考えられていた。戦前は忠君愛国、挙国一致を促進させるような教育が行われた。国民道徳の規範は政府によって、一方的に定められ、学校は産業側の労働需要に応じるように、多様化されており、高等教育も高給職に将来就く人を供給するだけに制限されていた。だから大学はエリートを育成するためのものだった。

 こういう教育体制は、占領軍によって破壊された。中等教育は複線路線でなく、特殊な職業に適した専門化された学校を最小限にしか許さない単線路線のものにさせられた。その上高等教育期間はエリート養成のための専門教育ではなく、市民のため国民のための高い水準の教育をつける所と考えられるようになった。国家が必要とする高い知識を生徒や学生に教え込むという姿勢は教育の場から一掃され、自由主義、個人主義が教育の根幹となった。

 こうして国家主義的教育を受けた年長者と自由主義教育を受けた若年者が、戦後日本に共存するようになったが、彼らの中間には戦前教育を幼い時に受け、後に戦後教育に切り替えられた過渡期の人が介在した。これらの人の中には、殆どが戦前教育で、その後僅かに戦後教育を受けたというような、種々の年齢層の人が混在した。戦後教育は1946年に始まり(完全な戦後教育を受けたのは1939年に生まれた人からである)戦前教育(旧制大学教育)は1953年に終了した。(1930年生まれの学生が最後の卒業生である)から、過渡期は8年ということになる。

 切り替えは円滑でなかった。戦後の思想教育ー自由主義と個人主義ーは、それまでの全体主義、国家主義の教育をしていた教師によって教えられたからである。自由主義や個人主義が履き違えられることが多く、誤解されたこれらの主義は、好ましくない影響を被教育者に及ぼす。だから欧米の学校では自由主義、個人主義とは何であって、何でないかについて徹底的な議論が教室で生徒相互間、生徒と教師の間で行われるのに、日本ではそういうことは殆ど行われなかったと言える。教師自身がそれらについて無知に近かったからである。小学一年から大学を卒業するまで16年の間、戦後教育のみを受けた純粋戦後教育派の場合でも、しっかりとした思想的核心を持ちえなかったと言ってよい。

 戦後の第一年は純粋戦後期に属する一年分の人がいた他は、全員それまでの戦前教育に一年分の戦後教育を付加した過渡期の人であった。戦後17年目に純粋戦後教育に完全に受けた人が初めて現れた。(大学に進学せず高等学校限りで就職する人は13年目に純粋戦後派が出現した。)いま64歳までを労働人口とすると、純粋戦前派が労働人口から消滅してしまうのは、戦後49年経った時ーいまから4年前ーである。そのうえ過渡期の人々が労働人口から消え去るのは、今から更に4年経った後である。教育改革は日本国民を洗脳したのである。それは極めて徐々の洗脳であっただけに、完了するのに非常に長い時間を要したのである。

 日本のいわゆる高度成長期(1950~70年)の労働人口(ただし全員が大学を卒業したと仮定して22歳から64歳までの人)のうち、戦前派、過渡期、戦後派の階層への割り振りは次のようになっている。1950年には全員が戦前の教育を受けた人である。1960年には35年分の高年者層が戦前派、7年分の若年者層が過渡期、純粋戦後派はゼロである。高度成長最後の年には、25年分の高年者層が戦前派、8年分の中間層が過渡期の教育を受けた人達で、9年分の若年者層が戦後派の教育を受けた人達である。このように見れば高度成長に貢献した労働人口の大部分は戦前教育を受けた人だといえる。

 これに反してバブルの絶頂期の1990年は、60歳から64歳までの人は戦前に教育を受けている。続いて8年分が過渡期の人で占められ、29年分の若年者は戦後に教育を受けている。このように日本の労働人口が受けている教育の内容は、時間と共に変化してきた。教育改革は占領軍司令部(GHQ)の命令で一挙に行われたから、教育内容は即座に変えられたが、戦前のイデオロギーは教育を受けた人の頭脳の中に体化された形で、長い期間にわたって効力を保った。このような形で、旧体制は新体制の世界の中で抵抗しつづけたのである。革新は急進的であっても、体制には、効果を弱め保守化してしまう緩衝装置が備わっていたのである。