2022年6月21日火曜日

20220621 1800記事を過ぎ、しばらくの間、引用記事を作成していて思ったこと

去る6月13日に1800記事に到達していましたが、その投稿記事は書籍からの引用であったため、到達についての言及はしないで、そのまましばらく、書籍からの引用記事を作成してきましたが、これも続けていますと、それなりに面白くなってくるものであり「前日投稿した引用部記述と何かしら関連のあるものを・・」と考えつつ、書籍を引張り出しては頁をめくり、そうした記述がある書籍を探すことは、それなりに充実感をもたらすものであり、おそらく、このような感じが継続するのであれば、またしばらくは、ブログ記事の作成を続けることが出来るものと思われます。

 また、本日についても、当初は、書籍からの引用記事にて作成しようと考えていましたが「このあたりでまた、自分の文章を作成しておいた方が良いのではないか?」との見解が割合強く思い起こされたことから、本日はそれに基づいて記事作成を行います。

 さて、さきに述べた書籍引用部を「しり取り」のように重ねて投稿し続けていくことは、それなりに面白く思われましたが、来る6月22日に、当ブログ開始から丸7年を迎えることが出来ましたら、そのようなやり方にて、またしばらく記事作成を続けてみたいと思います。

 くわえて、これまで数日間、書籍からの引用記事を作成してきた中で不図思ったことで「こうした引用記事の作成を続けていると、その余禄として、書店での立読みで、自分にとって面白いと感じられる書籍を早く見つけることが出来るようになるのではないか」というのがありましたが、これはたしかに、そうした効果があったのではないかと思われます。

 そしてまた、そうした経緯にて、今現在読み進めている著作を書店にて見つけたわけですが、この著作は、文庫サイズの全五巻本で、太平洋戦争の始まりから日本の敗戦に至るまでの経緯を、実在の人物を登場させた歴史小説のようにして書かれており、しかも、その登場人物たちの行動や言動は、資料と共に、それら登場人物への実際の取材、ヒアリングを通じて得られたものが多いことから、私の感覚にて評価させて頂きますと、とても読み応えのある作品であると云えます。これはつい先日、第一巻を読了し、続いて現在、二巻目を読み進めているさ中ですが、こちらを読んでいますと、多少、ブログ記事の作成が面倒に感じられてくることもあってか、さきにも述べました、ここ最近数日間は、書籍からの引用記事を投稿してきたのではないかとも思われてきます・・(苦笑)。

 書籍を読んでいる時間と、こうして自らの文章を作成している時間の何れかが、自分にとっては、より楽しく充実しているのかと考えてみますと、おそらく当ブログをはじめる以前までは、圧倒的に書籍を読んでいる時間の方が楽しかったと云えますが、当ブログをはじめてからしばらく経った頃、具体的には2017年あたりであったと思われますが・・に至っては、それなりに熱意を持ち、ほぼ毎日作成していたことが見て取れ、こうしたものは2015年の当ブログを始めた頃にはなかったものであったと云えることから、人によって多少の偏差はあると思われますが、凡そ500~1000記事程度を継続して作成していますと、あるいは、その時では分からないものの、文章を作成する際の「視野」のようなものが異なってくるのではないかとも思われるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか・・。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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どうぞよろしくお願い申し上げます。




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2022年6月20日月曜日

20220619 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」 pp.84-87より抜粋

中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」
pp.84-87より抜粋
ISBN-10 : 4121601017
ISBN-13 : 978-4121601018

もちろん、現在の国際政治において、軍事力は使えないものとなったという議論には当然反論が予想される。現に、アメリカ、ソ連をはじめとして、世界各国はすべて強大な武力を持っており、おそらく、平和時において、これだけ強力な武力が地球上に存在したことは、歴史にその例を見ないであろう。まったく、各国の強大な軍備をながめるとき、兵営国家という名前がそれに与えざるをえない思いがする。しかし、現代の兵営国家は過去の兵営国家とはひとつの大きな相違を持っている。それは、過去の軍備は「積極的」な効果をもたらしたのに、現在の軍備はなんら「積極的」な結果をもたらさないことである。ここで私が「積極的」というのは、価値判断をまったく含めずに、力の闘争において、軍事力がより多くの力を獲得する手段となりえたことを指すものである。すなわち、過去の軍備はそれによって侵略をおこない、その結果としてより多くの力を獲得することができたし、紛争の解決に際して、その後押しとすることができた。ところが核兵器の破壊性はあまりにも大きいので、それを政策遂行の手段とすることはできない。

 しかし、国際社会においては依然として紛争が存在するし、人類は武力の使用または威嚇なしに紛争を解決する方法を見出していないので、紛争解決のためには武力の後押しが要求される。国際紛争の解決は理性と交渉技術だけによってもたらされたものではなく、協調が利益だという確信と、頑固にふるまった結果に対する恐怖とが結びついたからであった。したがって、軍事力が合理的な政策遂行の手段ではなくなったことは紛争の解決をきわめて困難ならしめる。このジレンマを解くことこそ、制限戦争論に始まる戦略理論が目指したところであった。制限戦争論の創始者キッシンジャーは、朝鮮戦争やインドシナ戦争の経験から、核手詰まりは全面戦争を不可能にしたけれども全面戦争以外の形では武力を使われうることを指摘し、アメリカとしてはその大量報復力によって相手方の大量報復を抑えつつ、軍事力の限定的に使用しうる体制を作り上げるべきだと主張したのであった。また、フランスを中心として展開した革命戦争論も、全面戦争以外の形で戦争が起りうることを認め、革命戦争こそ現在もっとも起る可能性の大きい戦争であると考えた。

 そして、その後の戦略をめぐる激しい議論の結果、現在の国際政治における軍事力の役割については、核兵力を盾とし在米兵力を槍とする考えが一般的に認められている。すなわち、核兵力は相手方の核兵力の発動を抑制するという役割を持ち、実際の軍事行動は在米兵力によっておこなうのである、事実、アメリカやソ連という核所有国は、ただたんに巨大な核兵器を所有しているだけでなく、同時に強力な在来兵器を持っている。またキューバ封鎖を考えてみても、米ソの核兵力がそれぞれ盾となり、在来兵力は槍の役割を引き受けたが、カリブ海ではアメリカの槍の方が断然優勢であったため、アメリカの行動が成功したのであった。ハンガリー事件においても、ソ連の軍事行動が予定した目的を達成し、それに対してはアメリカは、ハンガリー革命を助けることはできなかったが、それはヨーロッパにおいては、とくに中東欧においてはソ連が在来兵力において圧倒的に優勢であったからである。

 しかし、たとえ制限戦争であっても、明白な戦闘行為は、しだいに発展して全面戦争に危険をつねに持っているし、戦闘行為が世界のどの部分で発生しても、米ソの均衡が作用し、世界世論の反対を受けるから、容易におこないえないものである。実に、第二次世界大戦後から今日までの間におこなわれた武力行使のうち、意図された目的を達成することができたものは、ソ連のハンガリー反乱鎮圧と、アメリカのキューバ封鎖の二回に過ぎないのであり、そのいずれの場合も、文字通り「積極的」な結果をもたらしたものではなく、いずれもステータス・クオ・アンテへの復帰を目的としたものであったことに注目する必要がある。また、このいずれの場合も、ソ連とアメリカの勢力圏の中心に位置していたという事実が忘れてはならない。そして、より重要なことは、このいずれの場合にも、軍事力の使用は問題を基本的に解決したものではなく、したがって、問題の解決は政治的・経済的方法にかかることになったという事実であろう。

 さらに、この核手詰りの状況とならんで、より重要でさえあるのは、軍事力についてはきわめて大きな格差のある先進工業国と低開発国との関係においても、先進工業国はその武力を用いて「積極的」な効果をあげること、すなわち、侵略することや介入することによってその権益を守ることが困難になったことである。これは道義のレベルにおいては旧植民地の人民の覚醒によって反植民地主義が強まり、とくに国際連合などを通じて強い世論を構成しているという事実と、力のレベルにおいては、あらゆる紛争が世界化し、米ソがともにその紛争に関して発言し、したがって米ソの均衡が作用するから、大規模な軍事行動をとることが困難であるということと、人民戦争という形における抵抗がきわめて有力であるということにもとづいている。

2022年6月19日日曜日

20220618 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考えるー 」 pp.189-190より抜粋

株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」
pp.189-190より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309231144
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309231143

神風連の「暴発」は、その形がいかに暴発であるにせよ、まぎれもなく政治と思想における「正義」の意識につらぬかれたものであった。その点を考慮しないならば、かれらはたんなる頑固党として、開化期の人々に物笑いの種を提示したにとどまることになる。

 神風連の政治思想を見るにもっとも適当なものは、一党の副首領として太田黒伴雄と併び称される加屋霽堅の「廃刀奏議書」ではないかと私は思っている。私がこの忘れられ、無視された思想集団に関心を抱いだいたのは「神風連烈士遺文集」(荒木精之編、昭和19年刊行)に収められたその意見書を読んでからであった。それは明治9年3月の廃刀令に対する抗議を述べたもので、全文は400字詰に直せばおよそ百枚もにちかい長文のものであり、この種の奏議書としても珍しいものかもしれない。加屋はこの文書を完成したのち、出京して元老院に上達し、聴かれなければ、その門前に割腹して諫奏しようと考えていたといわれるが、脱稿前に事をおこすことになり、未完成のままに終わったものである。

 この文書の与える第一印象は、一種の奇怪さの印象であろう。その印行本で80頁におよぶ文章は、最後の4・5頁をのぞいて、ほとんどが日本における刀剣の歴史を述べたものである。「伏惟我神武ノ国刀剣ヲ帯ル事ハ綿邈タル神代固有ノ風儀ニシテ・・・」に始まるその論述は、記紀をはじめ和漢の典籍からの博引傍証をきわめ、ほとんどその古典的引用の圧倒的な量のみによって、廃刀の不可を主張し、説得しうるものとしているかのようである。われわれは、はじめその考証の厖大さにうんざりし、一種の衒学的独善さえ感じかねないが、やがてその錯雑煩瑣な行文をたどっていくうちに、しだいにその論旨にひかれるというよりも、そのような無意味に全身的エネルギーを注入したであろう加屋の精神構造の奇怪さに、奇妙な関心をいだかずにはいられなくなる。そこには、ともあれ歴とした信条体系の展開が見られ、むしろその神学的・解釈学的正統性は、当時における絶対主義イデオロギーのそれよりも、整合的であったとさえ思われるからである。しかし、何よりもわれわれをおどろかせるのは、廃刀反対の抗議文書でありながら前記のようにその全文のほとんどが神的引用で埋まっていることであろう。あたかも、聖書の解釈によって万物の起源と運動法則とを明らかにしうるものとした西欧中世紀の神学者と同じように、加屋はただ神典の解釈と伝承によって現実政策の得失を論じうるものと考えているかのようである。このような精神は、もちろん、たんに不平士族の利害関心に帰せられるはずのものではないであろう。

 神風連蹶起の心情はかなり簡明であり、すべてその後の日本政治史にあらわれた武力的蹶起の場合と同じように、概して無計画的であった。(とくにかれらの場合、自分たちの行動を不平士族の政治的行動と同一視されることを警戒する気味さえあったことは、たとえば福本日南の「清教徒神風連」によってもしることができる。かれらは、隣接する薩南の鬱勃たる封建反動の勢力に対しても、かなり批判的であったように考えられる。)例えば一党の一人緒方小太郎は獄中記に次のように記している。

「今の世活眼というものを見るに、老もせぬに眼鏡をかけていたく人を見くだし、頭より足さきに至るまで身に附る物はすべて舶来品ならざるなく、大方耳目にふるる物西洋品ならざればこころゆかず、故にかかる人々は遂に彼に化せざるを恨み、其結果人種改良をいい、或いは楠公の忠死を権助の首くくりとののしり、或いは史乗に歴然たる忠臣をたやすく抹殺し、又は申すも恐ろしき事ながら、皇祖皇宗を外来の如くに論ずるなど、実に常人の沙汰とも思われず。是ぞ一朝時あらんか鋒をさかしまにして外艦をむかえ、あるは其の犬ともなりかねぬ奴原なりける。世の活眼者ばかりおそろしきはあらざりけり。」

 要するにそれは典型的な尊攘感覚であり、「新論」的な段階でいだかれた現実感覚のそのままの継承である。このような守旧的イデオロギーが熊本に久しく残存したのは、幕末=維新期における藩の政治的位置が中央から疎隔され、藩の古典的イデオロギーが現実政治の局面でいくたびもの屈折をやむなくされるという経験をくぐらなかったことと、なまじっか熊本における学問研究の隆盛であったことに原因するかのように思われるが、ともあれそれは祖樸な尊王攘夷思想の明治期への伝承にほかならなかった。
 
 しかし、かれらはその思想をたんに神典によって正統化したばかりではなく、維新政府の公式声明によってまた正統化されたものと考えた。(もしくはそのように考えることを欲した。)

2022年6月18日土曜日

20220617 中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」 pp.414-416より抜粋

中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」
pp.414-416より抜粋
ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

 古代日本はその政治的勢力が一時、朝鮮半島に進出して、半島の勢力均衡にたいしてある重量的な影響を及ぼしたことは事実である。また日本の特殊な物産、おそらく砂金などの貴金属が交易のために、大陸に向かって輸出されたであろうことも推測されるが、そのほかには、ことに文化的にはもっぱら大陸の文化を輸入するだけで、日本の文化が大陸に逆流する場合はほとんどなかったものと考えられる。もっとも平安時代に日本製の紙が中国貴族に喜ばれ、中国になくなった古書が宋の朝廷へ逆輸入されたなどのことがあるが、これを中国文化が日本へ流入した量とくらべれば、物の数でもなかったであろう。

 しかしこのことは、日本の文化がまったく中国の文化に隷属したことを意味するのではない。中国から流入した大陸文化は日本へ落ちつくとそのまま土着して、日本的なものに変化させられたのである。日本文化が中国へ逆流しなかったということは、文化水準において中国がはるかに高度であったとともに、日本の文化の基底が早くから中国とは異質的に発達してきたためである。中国人は朝鮮では箕子の井田の跡した問題にせず、日本にたいしては秦の始皇帝によって派遣された徐福の墓の外には興味をもたず、ごく近世に入ってから後でも、日本における中国を追求するかが、日本における日本そのものを研究する意図をもたなかったのである。

 大陸における政変、民族移動のたびごとに、多数の人民が安住の地を求めて日本へ渡来した。その中には文字を解する知識人もあって、かれらは史部として、朝廷における書記の職を世襲した。日本に輸入された漢字は、最初のうちはその音・訓ともに、本来の漢字のままに用いられたのであろうが、ただ地名・人命などの固有名詞を写すさいには、いきおい中国でもしばしば行われるように、漢字をたんなる字音として用い、いい換えれば一種の音符としてのみ使用した。また逆にあまりしばしば繰り返して使用する文字は、漢字音のほかに、やがて日本字訓が与えられてそれが固定するようになった。ここにおいて文章をつづるのに、漢字法によらずに、日本語そのものを漢字音と日本字訓とあわせ用いて写すことができるようになってきた。「祝詞:「万葉集」「古事記」のような日本古文学はこのようにして出現できたのである。

 いわゆる万葉仮名は、漢字はたんなる音価として用いるが、そこに一定の法則がなかったために、一音を写すに手あたりしだいに無数の漢字を選び出して用いた結果、書くにも読むにも多大の不便を伴わなければならなかった。ここにおいて、つぎの段階に入って、まず日本語の発音を整理し、これに相当する漢字を特定なものに限り、さらにこの漢字の形を省略して仮名を発明することができた。この光栄ある発明者はふつう弘法大師の業績とされるが、実際は確かなことはわからない。ただ五十音図はじつはインドの声明という発音字の影響によって日本で組織されたものであるという。もちろんこの声明も、中国を経過し仏教とともに日本に流入したものであるが、声明は中国において反切の方法を発明させたに止まり、ついに普遍的な音符の製作を見ないで終わったのに反し、日本においては東アジア諸国にさきがけて、この便利な音符文字を発明したことは、まことに誇るにたる業績といってよい。生活程度の低い日本において、教育が比較的下層階級に普及することができたのは、仮名の功徳による点が多いのである。日本ではその後もついに中国のような士大夫階級を発生させないですんだのは、ここにその位置原因が求められるであろう。

2022年6月17日金曜日

20220616 祥伝社刊 山本七平著「日本人とは何か。」ー神話の世界から近代まで、その行動原理を探るーpp.70‐72より抜粋

祥伝社刊 山本七平著「日本人とは何か。」ー神話の世界から近代まで、その行動原理を探るー
pp.70‐72より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4396500939
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4396500931

いずれにせよ韓国の成立史は、中国へのレコンキスタを連想させるから、日本にはその種の記録がないとはいえる。韓国では紀元前108年に漢が進出してきて楽浪郡以下四郡を置いたが、やがて三韓が生じ、ついて北で高句麗、南東部で新羅、南西部で百済が台頭し、313年に高句麗が楽浪郡を攻略し、つづいて帯方郡の北半を併合し、同じころ百済は帯方郡の南西部、新羅が南東部を取り、ここで三国は急激に発展してそれぞれの古代国家を形成した。

 これが三国時代で、その初期に日本は南部の任那に日本府を置いていたが、やがて駆逐された。6世紀末に隋が高句麗の征討をはじめ、ついで唐もこれを行ったが共に失敗した。ついで唐は新羅と協力して660年に百済を滅ぼし、つづいて668年に高句麗を滅ぼしたが、両国が滅びると新羅は唐と戦って百済・高句麗の故地を占領し、ここに半島の統一が形成された。

 津田左右吉博士がいわれているのは、このような「国家形成史」がなかったということを、それが「制なき時代」が出現する前提であったろう。

 以上のようにして、ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、それがそのまま統治体制となったのが「骨(かばね)の代」であろう。

「骨の代」の氏族体制とは

 一体「骨」(かばね)とは何であろうか。それは大体氏族の首長もしくは中心的人物をいうと定義してよいであろう。これは韓国語の「骨」の用法を用いたと見るのが定説で、韓国では「真骨」もしくは「第一骨」といえば王族のこと、「第二骨」といえば貴族のこと、これが日本に伝わり、たとえば「武烈天皇紀」に「百済国守之骨族」という語が見える。この用法で、氏の首長すなわち「氏上」「伴造」「伴緒」の尊号を「骨」(かばね)といったものと思われる。

 となると問題は「氏」である。氏とは「うみすじ」(産筋)の意味、または「うち(内)」すなわち同一の一族の意、氏の韓音「チー」に「う」音を添えたもの等、さまざまな説があるが、大体「同一の一族」を示すと考えてよい。そして氏の長の名称が姓(かばね)である。

 そしてこの氏族が土地・人民を所有して半独立国のようになっており、時にはそれらが相争って「倭国の内乱」となるわけだが、その中のおそらく最大の氏族が天皇であり、他の氏族と違う点はおそらく祭儀権を持っていたことであろう。

 魏の記録を見ると、祭儀権を持つのは女王で、その弟か夫が諸氏族の争いを調整するのが統治で、その実態は多く古代の国に見られた宗教連合に似たものであったと思われる。

 そして大氏族は天皇の下で何らかの職務を行うことで、氏族連合政権のようなものを構成していたらしい。

 そして祭儀権者が亡くなり、この連合が崩壊すると混乱して内乱状態となる。こういう場合、中国から張政のような者が来て、祭儀権者の後楯となって混乱を収束させたものと思われる。この、女帝が祭儀権をもち、皇太子その他が統治権を行使するといった形態は、推古女帝と聖徳太子、皇極女帝と中大兄皇子、その他の例に見られる。

 では氏族体制の内部はどのようになっていたのか。これは明確にはわからないが、天皇も一氏族だからほぼこれと同じような形で、ただ全体を統一する祭儀権はなかったものと考えればよいであろう。

2022年6月15日水曜日

20220615 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 大林太良著 「神話の系譜―日本神話の源流をさぐる」

株式会社講談社刊 大林太良著 「神話の系譜―日本神話の源流をさぐる」
pp.114‐116より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061589571
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061589575

「古事記」や「日本書紀」によれば、天皇家の遠祖は高天原の主神で太陽の女神であるアマテラスであったし、その孫のニニギが筑紫の日向の高千穂峰に天降り、それ以来、子孫がこの国土の支配者となった。ここに見られる考えは、王権ないし天皇の神聖性の根源が天にあるという考えである。

ところがその一方では、これほど強調されてはいないが、海に王権の根源があるという考えも、記紀神話には見られる。つまり、アマテラス自身も筑紫の日向橘の小門でイザナキがみそぎをしたときに生まれたのであったし、また、天神の子孫(ヒコホホデミとウガヤフキアエズ)が海神の娘トヨタマビメやタマヨリヒメと結婚し、ヒコホホデミとウガヤアエフキアエズの子)が初代の天皇神武になったと記されているのである。

 王権の海との関連は、神話ばかりでなく、儀礼にも見られる。つまり八十嶋祭であって、文献上は850年から1232年までの400年近くの間に22回記録されているが、その起源はもっと古いものらしく、岡田精司によると、おそらく5世紀までさかのぼると思われる。この八十嶋は即位儀礼の一環をなすもので、イザナキ、イザナミの国生み神話と密接な関連をもち、難波津において《大八洲》を新たに即位した天皇に付着させ、国土の支配者としての神聖性を付与するものだったのである。

 ところで、王権の根源が天にあるという考え方と、海にあるという考え方は両方とも朝鮮にも存在する。

 まず第一の考えに関しては、喜田貞吉、三品彰英、岡正雄らの諸氏が指摘したように、日本の天孫降臨神話は朝鮮古代の諸王朝の始祖神話と密接な関係をもっている。つまり、日本神話ではニニギが筑紫の日向の高千穂のソホリの峰、あるいはクシフルの峰に天降ったように、古朝鮮の檀君神話では、天神の子桓雄が太伯山の山頂の神檀樹の下に天降ったし、また駕洛国の開国神話では、同国王の始祖首露は聖峰亀旨に天降った。

 このように支配者が山上に降臨するという点で日本と朝鮮の神話は類似しているばかりでない。そのほかにも、たとえば桓雄の場合、日本のニニギが天からもたらした三種の神器に相当する三種の宝器を持参しているし、また、ニニギにつき従った五伴緒に相当する三職能神が彼に従って天降っている。 またさらに、日本の天孫ニニギがマトコオフフスマに包まれた嬰児の形で天降ったよう
に、朝鮮でも駕洛国の始祖王首露、新羅の初代王赫居世、金氏の始祖閼智なども嬰児の姿で天降り、首露と赫居世は最初の統治者になったと伝えられている。しかも首露の場合、この天降りった神人は海浜の乙女と結婚したことになっており、ちょうそニニギが天降って後、笠沙の御前でコノハナサクヤビメと結婚したのと対応している。

20220614 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.76-78より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.76-78より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

地方信仰の内容は、先祖が空から山頂に降って来た、ということであったにちがいない。第三のタチハヤヲの場合には、天孫降臨との関係が切れている。天から降って松の木に居た神が、その方へ向いて大小便をする近所の人々に祟る。そこで祭をして、近所迷惑だから山の方へ行ってくれと頼むと、納得して山上へ移った、という。この話は、祭(ここでは中央から専門家が来て祭をしたことにしている)の機能の一つが、祟りの統御にあったということを、示しているだろう。またこの種の神は、おそらく無数に居たであろうことを、その多くが天から降ったとされていたであろうことも、想像させるのである。あるいは祖先神として、あるいは祟りの神として、雨の如く、霰の如く、国中に降ってきた神々の多くは、降臨を天孫一本にしぼった「記」・「紀」の体系に組み込まれることで、ほろび、忘れ去られたのであろう。その体系以前を、「風土記」の記述は辛うじて窺わせるのである。

 神々と係らぬ世俗的な伝説や民話は、「常陸国風土記」に多いが、「出雲国風土記」や「播磨国風土記」にも出ていて、その多くは地名の由来を説明するという形式で語られている。そこには儒・仏の影響がほとんどない。わずかに「播磨国風土記逸文」の浦嶋の話は、話の全体に蓬莱山という神仙思想の影響がみられる。しかし後述するように浦嶋の話は、話の全体が大陸に由来すると思われるから、一般に神仙思想の影響を誇張して考えることはできない。

「常陸国風土記」には、「くず」を征伐する話がある。そのなかでも、那賀の国造の祖というタケカシマノミコトが、城砦に拠って抵抗する「くず」を、七日七晩の歌舞によって誘い出し、出て来たところへ騎兵を放って、みな殺しにするという話は、大化改新以後権力の集中へ向かった王権のイデオロギーを反映しているだろう。「記」・「紀」においても、伝説的王は、手強い相手を、だまし討ちにすることに長けていた。しかしこのような征伐の話は、むしろ例外であって、「風土記」の伝説と民話の世界は、しばしば人間化した神を登場させながら、その神とさえも係りのない人間と身近な動物との小さな紛争や和解の話にみちている。

動物は、蛇、白鳥、鹿、兎、鮫などである。人間の女の生んだ蛇が長じて雷になったり(「常陸」、那賀郡)、白鳥が少女になったり(「常陸」、香島郡)、天女が白鳥になったりする(「近江」逸文。「帝王編年記」所引)。鹿(「豊後」、速水郡)や兎(「塵袋」第10所引の「因幡記」は、人間の言葉を喋る。羽衣を盗られた天女が人間になって地上に住み得ること(上記白鳥となった八人の天女のうちの一人)はいうまでもない。そのなかでも鮫に娘を食われた父親が、怒り、歎いて、神々に祈ると、1000匹以上の鮫が一匹の鮫をかもんで岸まで連れて来た、という話は、典型的である。

父親がその鮫を殺して割くと、娘の脛が出てくる(「出雲」、意宇郡)。神々の助けがなければ、父親は娘を食った鮫を発見して捉えることができなかったはずだろう。神々の介入は、他の多くの場合と同じように、話のすじの必要である。しかし話の迫力は、父親の怒りと歎きにあり、話の強い印象は、割かれた鮫の腹から出てきた女の脛である。親子の情と、感覚的な細部。「今昔物語」(本朝世俗篇)の徹底した現実主義が、まだここにあるわけではない。しかしそれは全く別の世界の話ではない。主人公の行動的な性格、状況の実際的な判断、全く人間的な感情、鮮明な感覚、-そしてその他の何ものも排除されているか、二次的な添物にすぎない世界が、すでに「風土記」のなかにはあった。