2021年9月12日日曜日

20210911 昨日記事の続き?銅鐸にはじまって地域の古社について

昨日投稿の記事に書いた「銅鐸」について、和歌山県は、その出土数が全国的に多いのですが、くわえて興味深いことは、そこから数百年後(古墳時代)、列島に根付いた大陸由来の墓制である横穴式石室を近畿圏にていち早く取り入れたのもまた、和歌山県であることです。

おそらく、その背景には、大陸へと続く朝鮮半島に度々派兵を行っていた4、5世紀代のヤマト朝廷にて派遣軍司令官的役割を担っていた当地の豪族である紀氏の存在があると云えます。他方で時代はそこから遡り、ヤマト朝廷始祖とされる神武天皇の東征のくだりにて、紀州での描写に登場することはなく、また、それによると当地では当時、女酋長を戴くクニグニ(村邑国家群)によって治められていたようです。

そして、この習俗(統治体制)に関しては、以前に当ブログにて引用したいくつかの記事にありますが、この場合は南方に、その起源があると思われます。ともあれ、東征後、当地がヤマト朝廷の支配下になると、この地に朝廷側の股肱を差し向けたのか、あるいはそれを在来土着豪族との婚姻などにより、支配の強化を図ったのか分かりませんが、ともあれ、このあたりの事情については、当地のいくつかの古社に参拝し、それら来歴の概要を知ったのちに検討してみますと、何となくではあれ、その背景にあった事情が理解出来るのではないかと思われます。

そういえば、1974年(昭和49年)にフィリピンのルバング島より帰還した最後の日本兵O氏のご実家は、和歌山市南隣の海南市にあり、その本家は、当地の古社にて代々神職を勤められています。古社とはいえ、どのくらい古くからであるのか、その由緒についてお聞きしたところ「鎌倉時代には既にこの地に存在したという記録があり、また、それ以前にもあったと思うが、その部分の記録が焼失して分からなくなってしまった。」とのことでしたが、何故、ここで「鎌倉時代以前から存在していたと思う」と云えるのかは、ここで話はさきほどの女酋長に戻り、当社は神武東征時の当地の女酋長である名草戸畔を祀っているとされるからです。

この女酋長たる名草戸畔は、上陸してきた神武軍との戦闘にて亡くなります。そして、その亡骸の特に頭部を祀ったのが当社であるとされ、そこから、ふるくより「おこべさん」(こうべ)という愛称にて親しまれてきました。

つまり、東京における平将門のような存在が、古来より朝廷側と戦った記録や口承が遺る地域においては、より身近なものとして未だに存在し、また、そうした地域においては、おそらく、それ以降の施政者達とは、あくまでも余所者であり、地元住民との妥協や協力関係によって、どうにか統治を続けることが出来たのではないかと思われます。

とはいえ、そうしたことは、時代時代のさまざまな要因によってブレが生じることがあり、時には地元住民側が強くなり、施政者側を圧倒することもあれば、あるいはまた、その逆もあり、そうした現象自体は現在もなお、続いていると思われます。

そこから、神武軍との戦いによって死んだ女酋長の頭部を祀っているという謂れ・由緒を持つ当地の古社を包摂するこの地域社会には、一体どのような性質があるのかと考えてみますと、それは少なくとも、歴代中央官衙の考えとは相容れないものであっても、特に不思議ではないように思われるのですが、さて如何でしょうか?

また、当和歌山県においては、そうした事例がほかにも少なからずありますので、こうした事情も相まってか、目上の方に対しての「敬語」があまり発達しなかったのかもしれません・・(笑)。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2021年9月11日土曜日

20210910 紀伊半島西部と四国東部での銅鐸出土傾向から思ったこと・・

 これまで当ブログにて銅鐸に関する記事をいくつか作成してきましたが、私は2001年に北海道から南紀白浜へ転勤になるまでは、そもそも銅鐸についての知識や関心は皆無でした。その後、南紀での生活を通じて、徐々に興味関心を持つに至ったわけですが、そこで「何故、銅鐸に興味を持つようになったのか?」と問われますと、明晰に回答することは難しいと云えます。

かなり粗いところからですと、当時、蔵書に古書で購入した和歌山県の古代遺跡についての概説書があり、これを退勤後や休日に読んでいますと、比較的近所の自動車、自転車で少し走ったところに遺跡や遺物出土地などがあることを知り、あるいは休日のサイクリングで偶然にそうした場所に行き着き、あとになり書籍で調べなおすといったこともありました。

ちなみに私が2001年から2003年までの期間に住んだ和歌山県西牟婁郡白浜町では、伝白浜町出土とされる銅鐸は、いくつかの資料に記載があったと記憶していますが、間違いなく同町出土とされるものはなく、南紀での銅鐸出土状況は、隣の田辺市や上富田町からのものであり、そこから南では紀伊半島を東側に回った新宮市にて破砕状態のもの(近畿式とされる)が熊野速玉大社の摂社である神倉神社の境内から出土しており、これは後世(平安時代)の仏教遺跡の遺物と交ざり、実際に弥生時代末期(2世紀末、3世紀初頭頃)のものであるかは不明とされ、また、新宮市から北に続く紀伊半島東部については、その後、濃尾平野を主体とする伊勢湾文化圏に含まれる津市の雲出川流域まで銅鐸の出土例はないことから、さきの新宮での破砕状態での銅鐸の出土は、紀伊半島西部の上富田町から同半島を東に回り、かなり北上した津市までの領域での、ただ一つの出土例とされることから、尚更、その来歴の精査は必要でありながらも、同時に困難であるように思われます。

さて、以前に何度か述べましたが、紀伊半島西部では、粗く分析すると、北部に初期・小型・低装飾の銅鐸が多く、南下に伴い、徐々に後期・大型・高装飾のものが占める割合が大きくなる傾向があると云えます。

これはおそらく、その北隣の大阪府での出土傾向と比較しますと、興味深いと思われますが、他方で、これを紀伊水道を挟んだ四国東部と比較してみますと、その北端である香川県での銅鐸出土傾向は、総数20個ほどであり、それらは全て50㎝未満の比較的小型・初期のものであり、大型・後期を特徴付ける近畿式銅鐸の出土例はありません。次いで、その南に位置する徳島県での出土傾向は、総数が40個ほどであり、吉野川流域に集中する傾向を示し、県内出土の南端は阿南市であり、また、それらは総じて、さきの香川県同様、50㎝未満の比較的小型のものが多いものの、香川県での出土傾向と異なる点は、その中にいくつかの1mに達する、後期を特徴付ける近畿式銅鐸の出土があることです。つまり、総じて初期・小型の銅鐸が多いなか、いくつかの後期・大型のものが混在し、出土していることであり、こうした傾向は、紀伊水道対岸の北紀・中紀での出土傾向と幾分か類似しているようにも思われます。続いて、さらに南に位置する高知県においては、以前に述べましたが、物部川東岸までが同県内での(これまでの)出土領域とされており、その傾向は、総数は10個ほどであり、また、その殆どが50㎝以上の後期・大型の近畿式銅鐸であることです。そして、この高知県での銅鐸出土傾向は、対岸である和歌山県の特に南紀での同出土傾向と類似しているように思われます。

さて、如上の各地域での銅鐸出土傾向を眺めてみますと、香川・徳島・高知を包括した地域と、和歌山を主とする紀伊半島西部地域においては、辺縁領域に近接するにしたがって、出土する銅鐸が、後期作成の高装飾・大型のものが多くなるという、共通する傾向があるように思われます。とはいえ、これについては、それぞれに隣接する岡山県、淡路島そして兵庫県での出土傾向をさらに精査する必要があると思われますが、また同時に、一つの検討のための視座にはなるのではないかとも思われました。

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2021年9月9日木曜日

20210909 既投稿記事をいくつかまとめたもの③

直近の投稿記事にて銅鐸を扱いましたが、その後、気になり書籍を取り出し、インターネットにて検索したところ、後期(1世紀末以降)作成の大型、高装飾といった特徴を持つ、近畿式・三遠式双方銅鐸のなかで、近畿式銅鐸の鰭飾りの円型部位を、おそらくは銅鐸祭祀終焉後の時代に銅鐸本体から削り取り、ペンダント様に加工していた出土例が静岡県東部(沼津市・伊豆の国市)にあったことは以前から知っていましたが、それと同様の事例が、静岡県東部から遠く離れた四国は徳島市の庄・蔵本遺跡にて2013年に出土していることを知りました。

これは私にとっては驚愕すべきことであり、また徳島県は、さきの静岡県東部と異なり、元々が近畿式銅鐸の出土圏内であることから、如何なる経緯にて、銅鐸鰭飾りの円型部位をペンダント様に加工したのかとは大変興味深く、具体的には、削られる前の円型部位が飾っていた(近畿式)銅鐸は、元来、同地にて祀られていたものであるのか、あるいは、他の近畿式銅鐸の祭祀圏から齎されたものであるのかとは、さきの静岡県東部での事例と比較してみますと、当時の社会の一面を知る材料になるのではないかとも思われるのです。

そして、ここまで書いていて思い出されたのが、以前に記事として投稿した以下の引用記述です。

谷川健一著 古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
ISBN-10: 4532195284
ISBN-13: 978-4532195281

「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。」

上掲引用文から、さきの近畿式銅鐸の鰭飾り円型部位を加工した静岡・徳島での出土例とを加味検討してみますと「物部」氏が大きな意味を持っているのではないかと考えさせられます。

近畿圏主体にて祀られていた(近畿式)銅鐸の欠片を加工したものが静岡県東部(東海地方)から出土していることと、引用文中の「「外物部」は(ヤマト朝廷誕生による)物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。」には、何らかの関連があるように思われます。

徳島市の庄・蔵本遺跡での事例に関しては、その南隣にある高知県東部が近畿式銅鐸出土の一つの西限であり、具体的には、高知県を流れる「物部川」の東岸が現時点では限界となっています。そして、この「物部川」の名の由来もまた、ヤマト朝廷誕生による「外物部」の当地への流入であるように思われるのです。

他方で、ヤマト朝廷のもとに留まった方の物部氏は、王権に対し主に軍事方面にて奉仕し、その氏社とも云える奈良県天理市の石上神宮は、古くはヤマト朝廷の武器庫でもあり、またそれは、物部氏がかつて銅鐸と同様に銅矛、銅剣をも鋳造にて作成していた頃の名残りであると思われるのです。さらにまた、そうした経緯の可能性を検討してみますと、以前に作成・投稿した以下のブログ記述が思い出されました。

20151103 辺縁 温泉 地鎮 神社 武力についてより抜粋

A「あ、そうですね!
それで今思い出しましたけれど、関係ないかもしれませんが、古代律令制で朝廷に認識されていた神社(式内社)の数は伊豆諸島を含む旧伊豆国が他に比べ有意に多いのです。
これはたしか西郷信綱の論考にありましたけれども、それによると平安時代中期頃の朝廷の支配領域の辺縁、辺境と認識されている地域に外敵侵入の阻止、地鎮の意味を込めて多くの神社を設置したのではないかとのことでした・・。
しかし、こういった考えは世界各地に類例を見ます。
具体的にはローマ帝国北方辺境におけるハドリアヌスの壁、中国歴代王朝が北方辺境に築いた万里の長城などです。
そしてこのことを約言すると、実質的な防衛機能を持つ城砦を築くのが彼等の手法であり、一見実質的でない呪術的な意味での防衛機能を持つ施設、つまり神社を築くのが我々の祖先の手法ではないかということです。
しかしながら以上の分類の仕方はあくまでも表層的なものであり、よく考えてみると事情はもう少し込み入っていると思います・・。先を続けてもいいですか・・?」

B「ああ、どうぞ、今までの話は大体わかったから、その込み入った事情とやらを是非聞いてみたいね(笑)。」

A「どうもありがとうございます。
それでは続けます。
ところでBさんは奈良県天理市の石上神宮は御存知ですか?」

B「・・もちろん知っているよ。
大分前だけれど参拝にも行ったよ。
あの神社はたしか神武東征に出てくる神剣の布都御魂(ふつのみたま)が御神体で、あとは百済王から贈られた七支刀が納められているのではなかったかな?」

A「専門の分野と違っていてもさすがによく御存知ですね・・(笑)。」

B「なあに、私が幼い頃の子供向け読本なんていうのは戦争期に出版されたのも普通にあったからね・・。
それで、そういう本にはそういった神話はごく普通に書かれていたものだよ・・。
それでまあ、後から得た知識やらを肉付けしたり、修正し易いんだろうね(笑)。」

A「ははあ、なるほどです。
あ、それで石上神宮ですが、この神社は仰る通り朝廷にとって神聖とされる武器が納められていることで有名なのですが、その考えを敷衍、拡張して、ここは古代大和朝廷の武器庫としての役割、性質をも持っていたと考えられています。
そうしますと、前にいいました我が国の古代において辺境地域に神社を設置する傾向とは、当時、神社が武器庫でもあるならば、それはそれで呪術的一辺倒でもなく実質的な意味合いも有していたと考えられるのです。
さらにこの考えを補強する要素として、石上神宮は物部氏の氏神を祀っているのですが、伊豆国をはじめとした東海地域の諸国造もまた物部氏に出自を持つものが多いことが挙げられます。」

B「ああ、それはたしか前に君のブログに書かれていたような気がしますね。」

A「ええ、それは確か銅鐸に対しての興味からの抜粋ですが、仰るとおりです。そして、この考えに銅鐸、銅剣、銅矛などの青銅製鋳造祭器を要素として加えて考えてみると、これがまた面白いのです。
つまり、これらの青銅製祭器とは辺縁、辺境における地鎮の役割も持っていたと考えられているのです。
そうしますと、本来地鎮の役割を有していた青銅製祭器が廃れ、それが武器庫としての神社となり、さらにそこから社会の安定化に伴い、武器庫的要素が薄れ、現在の神社の様になっていった過程がまあ何となく理解できるような気がするのです・・。
しかし、これはあくまでも古代朝廷から見た辺縁、辺境地域における神社の性格、傾向であって、全部が全部そうではありません・・。」

B「ふーん、何だか面白いね・・あと、そういうのは日本だけでなく他の国においてはどの様な傾向があるのか調べてみたら、もしかしたら、もっと興味深いものが見つかるかもしれないね。」

A「ええ、そうですね。
それは確かに面白そうですね。
機会があれば是非もう少し深く追究してみたいですね・・。」

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2021年9月8日水曜日

20210907 既投稿記事をいくつかまとめたもの②

我が国の銅鐸の直接的な起源とされているものは、朝鮮式銅鐸と云われる装飾性が乏しく、寸法10~20㎝程度の小型のものである。これら小型の朝鮮式銅鐸は、これまでに、朝鮮半島中西部の忠清道より4個、同北西部の平壌より6個、そして、同南東部の慶尚道より4個が出土している。

一方、朝鮮半島の対岸に位置する九州北部地域から出土した銅鐸、およびその鋳型は、前述の朝鮮式銅鐸と比べ、いくらか大型化はしたものの、何れも寸法は約20~50㎝程度であり、装飾性も朝鮮式銅鐸と同様に乏しい。その後、当九州北部地域での銅鐸は、更なる大型化、高装飾化することはなく、銅鐸を用いた祭祀自体が、おそらくは1世紀末頃迄には廃れ、それに代わり、銅矛や銅剣を祭器として祀る文化が主流となっていたことが出土遺物によって示される。

九州北部地域をはじめ西日本各地にて出土している、ごく初期の小型で装飾性の乏しい銅鐸は、本来の用途である「鐸」からあまり逸脱せず「鳴らす」機能を重視していると推察されることから、さきの特徴(小型・低装飾)を持つ銅鐸は、「聞く銅鐸」として分類される。

これら「聞く銅鐸」(初期・小型・低装飾)は、西日本各地にて出土しているものの、古くから大陸文化の受け入れ口であった九州北部地域においては、特に「聞く銅鐸」(初期・小型・低装飾)のみの出土であることは興味深いと云える。これが示唆することは、さきにも少し触れたが、当初、当地域では、銅鐸を祭器とした祭祀文化が存在したものの、その文化はやがて廃れ、他の青銅製祭器である銅剣や銅矛を祀る文化へと変化していったということである。

他方、同時期の九州北部以外の西日本においては、銅鐸を用いる祭祀文化はさらに広がり、1世紀末頃になると、鋳造技術の発展により、大型にて装飾性の高い銅鐸の作成が可能となり、盛んに作られるようになった。そして、この時期以降に作成された大型で高装飾の銅鐸は、より視覚的な効果に重点を置いたと思しきことから、さきの「聞く銅鐸」に対して「見る銅鐸」として分類される。

そして、この「見る銅鐸」(後期・大型・高装飾)は、それらを特徴付ける意匠・デザインから、「近畿式」と「三遠式」に大きく分類される。

「近畿式」銅鐸は、おそらく大和・河内・摂津地域にて作成され、もう一つの「三遠式」は濃尾平野にて作成されたと考えられている。

さて、「近畿式」「三遠式」銅鐸それぞれの出土分布について「近畿式」は、文字通り近畿圏一帯を中心として、東限は静岡県西部、またその西限は、四国東半地域、山陰地域での出土例がある。
「三遠式」の方は、濃尾平野を中心として、東限は長野県、静岡県西部、また西限については伊勢湾東部、琵琶湖の東岸、そして京都府北部にて出土例がある。

1世紀末頃より作成がはじまったと見られる「近畿式」「三遠式」の双方銅鐸であるが、その後3世紀に入ると、突如として作成されなくなり、また、それを伴う祭祀自体も終焉を迎えたと見られる。その際、銅鐸は集落から少し離れた山(里山)の頂上から少しおりたあたりの山肌の土を掘り埋納されたと思しき出土例が多い。

これは和歌山県を主とする紀伊半島西部での銅鐸の出土例においても同様であり、特に、中紀以南での銅鐸出土例は、概ね、これに類するものであると云える。

そして、銅鐸を用いた祭祀文化が終焉を迎えてから少し後の3世紀半ば頃に、古墳時代を特徴付ける最初の古墳とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)が造営されることになるが、この一連の様相の変化は大変に示唆的であると云える。

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2021年9月6日月曜日

20210905 Simon & Schuster刊 Samuel P. Huntington著 「The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order」pp.246-247より抜粋

Simon & Schuster刊 Samuel P. Huntington著

ISBN-10 ‏ : ‎ 074323149X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0743231497

「The Afghan War started as an effort by the Soviet Union to sustain a satellite regime. It became a Cold War war when the United States reacted vigorously and organized, funded, and equipped the Afghan insurgents resisting the Soviet forces. For Americans, Soviet defeat was vindication of the Reagan doctrine of promoting armed resistance to communist regimes and a reassuring humiliation of the Soviets comparable to that which the United States had suffered in Vietnam. It was also a defeat whose ramifications spread throughout Soviet society and its political establishment and contributed significantly to the disintegration of the Soviet empire. To Americans and to Westerners generally Afghanistan was the final, decisive victory, the Waterloo, of the Cold war.

For those who fought the Soviets, however, the Afghan War was something else. It was "the first successful resistance to a foreign power," one Western scholar observed, ”which was not based on either nationalist or socialist principles" but instead on Islamic principles, which was waged as a jihad, and which gave a tremendous boost to Islamic self-confidence and power. Its impact on the Islamic world was, in effect, comparable to the impact which the Japanese defeat of the Russians in 1905 had on the Oriental world. What the West sees as a victory for the Free World, Muslims see as a victory for Islam.

American dollars and missiles were indispensable to the defeat of the Soviets. Also indispensable, however, was the collective effort of Islam, in which a wide variety of governments and groups competed with each other in attempting to defeat the Soviets and to produce a victory that would serve their interests. Muslim financial support for the war came primarily from Saudi Arabia. Between 1984 and 1986 the Saudis gave $525 million to the resistance; in 1989 they agreed to supply 61 percent of a total of $715 million, or $436 million, with the reminder coming from the United States. In 1993 they provided $193 million to the Afghan government. The total amount they contributed during the course of the war was at least as much as and probably more than the $3billion to 3.3 billion spent by the United States. During the war about 25000 volunteers from other Islamic, primarily Arab, countries participated in the war. Recruited in large part in Jordan, these volunteers were trained by Pakistan's Inter-Service Intelligence agency. Pakistan also provided the indispensable external base for the resistance as well as logistical and other support. In addition, Pakistan was the agent and the conduit for the disbursement of American money, and it purposefully directed 75 percent of those funds to the more fundamentalist Islamist groups with 50 percent of the total going to the most extreme Sunni fundamentalist faction led by Gulbuddin Hekmatyar. Although fighting the Soviets, the Arab participants in the war were overwhelmingly anti-western and denounced Western humanitarian aid agencies as immoral and subversive of Islam. In the end, the Soviets were defeated by three factors they could not effectively equal or counter: American technology, Saudi money, and Muslim demographics and zeal.

The war left behind an uneasy coalition of Islamist organization intent on promoting Islam against all non-Muslim forces. It also left a legacy of expert and experienced fighters, camps, training grounds, and logistical facilities, elaborate trans-Islam networks of personal and organizational relationships, a substantial amount of military equipment including 300 to 500 unaccounted-for stinger missiles, and, most important, a heady sense of power and self-confidence over what had been achieved and a driving desire to move on to other victories. The "jihad credentials, religious and political," of the Afghan volunteers, one U.S. official said in 1994, "impeccable. They beat one of the world's two superpowers and now they're working on the second."」

2021年9月4日土曜日

20210903 ここ最近にて投稿した記事から思ったこと(ブログが自分の記憶の参照先に・・)

 ここ数日間の首都圏は、雨が降ったり止んだりで、また、気温もあまり上がらずに、この時季らしからぬ陽気でした。他方、当ブログは、去る8月31日に投稿した書籍からの引用記事の閲覧者数が、思いのほかに伸びて驚いたといったことがありました。

ともあれ、既読文献の記述を何かの拍子に「・・ああ、そういえば、あの著作に、そうした記述があったような・・。」と思い出す、あるいは記憶を参照するような状態にも、どうやらコンディションのようなものがあるようで、そのことを、さきに述べた引用記事の投稿から感じた次第です。

つまり、自分が知覚し得る知識のなかで、周囲のさまざまなレベルにて生じている出来事に、対応させるのが妥当と思しき知識を自分の中から探そうとする行為とは、その時の心身の状態に、少なからず依存するものであると思われるのです。それは、一概に良し悪しは云えないものの多岐に渡るとは云えます。くわえて、直近の1年9カ月については、ツイッターから知る様々な出来事、そして、それらに対する見解などを拝見し、さきに述べました「ああ、そういえば、あの著作に、これに関連する記述があったような・・。」と想起することが多くなったとは云えます。そして、そうした記憶にある著作を久しぶりに取り出し、しばし飛ばし読みをして「ああ、これだ、これだ・・。」といった記述が見つかった時は、やはり、それなりに嬉しいものであり、未だに、ある種の達成感のようなものが感じられます・・。

とはいえ、現実の出来事に基づいて想起して見つけた書籍の記述との関連性の度合い、程度については、達成感はあるものの、あまり客観的な評価は判りづらいものであり、強いて、その評価の基準となるものを検討してみますと、やはり一つには「閲覧者数」になるのではないかと思われるのです・・。

その意味において、去る8月31日投稿の書籍からの引用記事の閲覧者数は、ここ最近では珍しいほどに多かったと云えます。また、この閲覧者数から考えてみますと、自分が作成した記事と、書籍からの引用記事を複数まとめたものである8月27日の投稿記事が、比較的長文であったにも関わらず、それ以上の閲覧者数となっていました。こちらの記事については、読んで頂いた方々が、どのような思い、考えを持たれたかは分かりませんが、作成者からしますと、以前にある程度明瞭に記憶していたことを言語化し、文章として著し、さらに、それをブログ記事として公表しておいたことは、作成当時ではそれなりに大変な作業であったかもしれませんが、現在となっては、まさに、それら記事にて述べていることが、自分が想起する対象となっており、あるいは言い換えますと、自ら作成したそれらの記事が、冒頭の引用した書籍の記憶と同様、参照される、云わばデータ・ベース内にあるといった感覚は、上手く表現することは出来ませんが、少なくとも、当ブログを始める以前にはなかったと云えますので、これにつきましては、その進展について、引続き注視していきたいと思っています。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2021年8月31日火曜日

株式会社集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木 主税訳『文明の衝突』下巻 pp.128-131より抜粋

pp.128-131より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4087607380
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4087607383

アフガン戦争は、衛星国の体制を維持しようとしたソ連の介入で始まった。アメリカが強く反発し、ソ連軍に抵抗するアフガニスタンの反乱軍を組織し、資金援助をし、兵器を提供したときから冷戦の枠内の戦いになった。アメリカ人にとって、ソ連が敗北すれば、共産政権にたいする武力による抵抗を推進するレーガン・ドクトリンが正当化されるし、ヴェトナムでアメリカが受けたのと同じような屈辱を、ソ連が確実に受けることになる。この戦争におけるソ連の敗北はまた、ソ連の社会や政治権力全体に波及し、ひいてはソ連帝国が分裂する大きな要因ともなった。アメリカ人や西欧人にとって、アフガニスタンは最後の決定的な勝利で、言わば冷戦のワーテルローだったとも考えられる。

 だが、ソ連軍と戦った人びとにとっては、アフガン戦争には別の意味があった。西欧のある研究者が述べているが、それは「民族主義や社会主義の基準ではなく」、イスラムの行動基準にのっとっての、外国勢力にたいして成功した初めての抵抗だった。それはジハード(聖戦)として戦われ、イスラムの自信と勢力が飛躍的に高まることになった。この戦争がイスラム世界に与えた衝撃は、1905年に日本がロシアに勝ったときに東洋世界に与えた衝撃にも劣らぬものだった。西欧は自由世界の勝利と思ったのだが、イスラム教徒はイスラムの勝利だと考えたのである。

 たしかに、ソ連に勝つためにはアメリカのドルとミサイルが不可欠だった。だが、もう一つ欠かせなかったのは、イスラムが力をあわせて戦うことだった。さまざまな政府や集団が、率先してソ連と戦い、自分たちの利益にそった勝利を勝ちとろうと努力した。この戦争にたいするイスラム教徒からの経済的援助は、主にサウジアラビアが提供した。1984年から86年のあいだに、サウジアラビアは抵抗勢力に5億2500万ドルの援助をした。1989年には合計で必要な7億1500万ドルの61%、つまり4億3600万ドルを負担するのに同意し、残りはアメリカが提供することになった。1993年には、サウジアラビアは1億9300万ドルをアフガニスタン政府に援助した。この戦争を通じて、サウジアラビアが提供した資金援助の総額は少なくとも30億ドルに達したが、実際の金額はたぶんもっと多かっただろう。それにたいして、アメリカが支出したのは33億ドルだった。この戦闘中に、約2万5000人の志願兵が、他のイスラム諸国、とくにアラブ諸国からやってきて戦闘に参加した。これらの志願兵は主としてヨルダンで志願し、パキスタンの陸海空の諜報機関で訓練を受けた。パキスタンはさらに、抵抗勢力に不可欠な国外の基地と、兵站機能やその他のサービスを提供した。さらにパキスタンはアメリカの資金の分配にたずさわり、意図的にこの資金の75パーセントを原理主義的なイスラム集団に与え、総額の50パーセントがグルブッディン・ヘクマティアルが率いる最も過激なスンニ派原理主義の派閥に流れるよう手配した。ソ連軍と戦っていながらも、参戦したアラブ人は反西欧的な態度をつらぬき、西欧の人道主義的な援助機関を不道徳で、イスラムを破壊しようとするものだと非難した。ソ連はついに敗れたが、それには三つの要因があり、それにたいして効果的に対処できなかったのである。その三つの要因とは、アメリカの技術、サウジアラビアの資金、そしてイスラムの厖大な人口と宗教的な熱意である。

 この戦争のあとに残ったものは、イスラム教徒の不気味な連合で、すべての非イスラム教徒軍にたいしてイスラムの大義を主張しようとしていた。また、技術をもつ経験にとんだ戦士、駐屯地、訓練施設、兵站設備、全イスラムを結んで入念につくられた個人と組織のネットワークも残された。また大量の兵器が残され、300基から500基のスティンガー・ミサイルの所在が不明である。そして、とくに重要なのは、自分たちが成しとげたことから生まれる力と自信にみちた高揚感と、さらに勝利をおさめたいという突き上げるような願望だった。1994年にアメリカのある当局者が述べたように、アフガン戦争の志願兵が「ジハードに参戦する資格は、宗教的にも政治的にも非の打ちどころがない。彼らは世界の超大国の一つを破り、他の一つに抵抗しようとしている」のだ。