2021年9月9日木曜日

20210909 既投稿記事をいくつかまとめたもの③

直近の投稿記事にて銅鐸を扱いましたが、その後、気になり書籍を取り出し、インターネットにて検索したところ、後期(1世紀末以降)作成の大型、高装飾といった特徴を持つ、近畿式・三遠式双方銅鐸のなかで、近畿式銅鐸の鰭飾りの円型部位を、おそらくは銅鐸祭祀終焉後の時代に銅鐸本体から削り取り、ペンダント様に加工していた出土例が静岡県東部(沼津市・伊豆の国市)にあったことは以前から知っていましたが、それと同様の事例が、静岡県東部から遠く離れた四国は徳島市の庄・蔵本遺跡にて2013年に出土していることを知りました。

これは私にとっては驚愕すべきことであり、また徳島県は、さきの静岡県東部と異なり、元々が近畿式銅鐸の出土圏内であることから、如何なる経緯にて、銅鐸鰭飾りの円型部位をペンダント様に加工したのかとは大変興味深く、具体的には、削られる前の円型部位が飾っていた(近畿式)銅鐸は、元来、同地にて祀られていたものであるのか、あるいは、他の近畿式銅鐸の祭祀圏から齎されたものであるのかとは、さきの静岡県東部での事例と比較してみますと、当時の社会の一面を知る材料になるのではないかとも思われるのです。

そして、ここまで書いていて思い出されたのが、以前に記事として投稿した以下の引用記述です。

谷川健一著 古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
ISBN-10: 4532195284
ISBN-13: 978-4532195281

「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。」

上掲引用文から、さきの近畿式銅鐸の鰭飾り円型部位を加工した静岡・徳島での出土例とを加味検討してみますと「物部」氏が大きな意味を持っているのではないかと考えさせられます。

近畿圏主体にて祀られていた(近畿式)銅鐸の欠片を加工したものが静岡県東部(東海地方)から出土していることと、引用文中の「「外物部」は(ヤマト朝廷誕生による)物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。」には、何らかの関連があるように思われます。

徳島市の庄・蔵本遺跡での事例に関しては、その南隣にある高知県東部が近畿式銅鐸出土の一つの西限であり、具体的には、高知県を流れる「物部川」の東岸が現時点では限界となっています。そして、この「物部川」の名の由来もまた、ヤマト朝廷誕生による「外物部」の当地への流入であるように思われるのです。

他方で、ヤマト朝廷のもとに留まった方の物部氏は、王権に対し主に軍事方面にて奉仕し、その氏社とも云える奈良県天理市の石上神宮は、古くはヤマト朝廷の武器庫でもあり、またそれは、物部氏がかつて銅鐸と同様に銅矛、銅剣をも鋳造にて作成していた頃の名残りであると思われるのです。さらにまた、そうした経緯の可能性を検討してみますと、以前に作成・投稿した以下のブログ記述が思い出されました。

20151103 辺縁 温泉 地鎮 神社 武力についてより抜粋

A「あ、そうですね!
それで今思い出しましたけれど、関係ないかもしれませんが、古代律令制で朝廷に認識されていた神社(式内社)の数は伊豆諸島を含む旧伊豆国が他に比べ有意に多いのです。
これはたしか西郷信綱の論考にありましたけれども、それによると平安時代中期頃の朝廷の支配領域の辺縁、辺境と認識されている地域に外敵侵入の阻止、地鎮の意味を込めて多くの神社を設置したのではないかとのことでした・・。
しかし、こういった考えは世界各地に類例を見ます。
具体的にはローマ帝国北方辺境におけるハドリアヌスの壁、中国歴代王朝が北方辺境に築いた万里の長城などです。
そしてこのことを約言すると、実質的な防衛機能を持つ城砦を築くのが彼等の手法であり、一見実質的でない呪術的な意味での防衛機能を持つ施設、つまり神社を築くのが我々の祖先の手法ではないかということです。
しかしながら以上の分類の仕方はあくまでも表層的なものであり、よく考えてみると事情はもう少し込み入っていると思います・・。先を続けてもいいですか・・?」

B「ああ、どうぞ、今までの話は大体わかったから、その込み入った事情とやらを是非聞いてみたいね(笑)。」

A「どうもありがとうございます。
それでは続けます。
ところでBさんは奈良県天理市の石上神宮は御存知ですか?」

B「・・もちろん知っているよ。
大分前だけれど参拝にも行ったよ。
あの神社はたしか神武東征に出てくる神剣の布都御魂(ふつのみたま)が御神体で、あとは百済王から贈られた七支刀が納められているのではなかったかな?」

A「専門の分野と違っていてもさすがによく御存知ですね・・(笑)。」

B「なあに、私が幼い頃の子供向け読本なんていうのは戦争期に出版されたのも普通にあったからね・・。
それで、そういう本にはそういった神話はごく普通に書かれていたものだよ・・。
それでまあ、後から得た知識やらを肉付けしたり、修正し易いんだろうね(笑)。」

A「ははあ、なるほどです。
あ、それで石上神宮ですが、この神社は仰る通り朝廷にとって神聖とされる武器が納められていることで有名なのですが、その考えを敷衍、拡張して、ここは古代大和朝廷の武器庫としての役割、性質をも持っていたと考えられています。
そうしますと、前にいいました我が国の古代において辺境地域に神社を設置する傾向とは、当時、神社が武器庫でもあるならば、それはそれで呪術的一辺倒でもなく実質的な意味合いも有していたと考えられるのです。
さらにこの考えを補強する要素として、石上神宮は物部氏の氏神を祀っているのですが、伊豆国をはじめとした東海地域の諸国造もまた物部氏に出自を持つものが多いことが挙げられます。」

B「ああ、それはたしか前に君のブログに書かれていたような気がしますね。」

A「ええ、それは確か銅鐸に対しての興味からの抜粋ですが、仰るとおりです。そして、この考えに銅鐸、銅剣、銅矛などの青銅製鋳造祭器を要素として加えて考えてみると、これがまた面白いのです。
つまり、これらの青銅製祭器とは辺縁、辺境における地鎮の役割も持っていたと考えられているのです。
そうしますと、本来地鎮の役割を有していた青銅製祭器が廃れ、それが武器庫としての神社となり、さらにそこから社会の安定化に伴い、武器庫的要素が薄れ、現在の神社の様になっていった過程がまあ何となく理解できるような気がするのです・・。
しかし、これはあくまでも古代朝廷から見た辺縁、辺境地域における神社の性格、傾向であって、全部が全部そうではありません・・。」

B「ふーん、何だか面白いね・・あと、そういうのは日本だけでなく他の国においてはどの様な傾向があるのか調べてみたら、もしかしたら、もっと興味深いものが見つかるかもしれないね。」

A「ええ、そうですね。
それは確かに面白そうですね。
機会があれば是非もう少し深く追究してみたいですね・・。」

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2021年9月8日水曜日

20210907 既投稿記事をいくつかまとめたもの②

我が国の銅鐸の直接的な起源とされているものは、朝鮮式銅鐸と云われる装飾性が乏しく、寸法10~20㎝程度の小型のものである。これら小型の朝鮮式銅鐸は、これまでに、朝鮮半島中西部の忠清道より4個、同北西部の平壌より6個、そして、同南東部の慶尚道より4個が出土している。

一方、朝鮮半島の対岸に位置する九州北部地域から出土した銅鐸、およびその鋳型は、前述の朝鮮式銅鐸と比べ、いくらか大型化はしたものの、何れも寸法は約20~50㎝程度であり、装飾性も朝鮮式銅鐸と同様に乏しい。その後、当九州北部地域での銅鐸は、更なる大型化、高装飾化することはなく、銅鐸を用いた祭祀自体が、おそらくは1世紀末頃迄には廃れ、それに代わり、銅矛や銅剣を祭器として祀る文化が主流となっていたことが出土遺物によって示される。

九州北部地域をはじめ西日本各地にて出土している、ごく初期の小型で装飾性の乏しい銅鐸は、本来の用途である「鐸」からあまり逸脱せず「鳴らす」機能を重視していると推察されることから、さきの特徴(小型・低装飾)を持つ銅鐸は、「聞く銅鐸」として分類される。

これら「聞く銅鐸」(初期・小型・低装飾)は、西日本各地にて出土しているものの、古くから大陸文化の受け入れ口であった九州北部地域においては、特に「聞く銅鐸」(初期・小型・低装飾)のみの出土であることは興味深いと云える。これが示唆することは、さきにも少し触れたが、当初、当地域では、銅鐸を祭器とした祭祀文化が存在したものの、その文化はやがて廃れ、他の青銅製祭器である銅剣や銅矛を祀る文化へと変化していったということである。

他方、同時期の九州北部以外の西日本においては、銅鐸を用いる祭祀文化はさらに広がり、1世紀末頃になると、鋳造技術の発展により、大型にて装飾性の高い銅鐸の作成が可能となり、盛んに作られるようになった。そして、この時期以降に作成された大型で高装飾の銅鐸は、より視覚的な効果に重点を置いたと思しきことから、さきの「聞く銅鐸」に対して「見る銅鐸」として分類される。

そして、この「見る銅鐸」(後期・大型・高装飾)は、それらを特徴付ける意匠・デザインから、「近畿式」と「三遠式」に大きく分類される。

「近畿式」銅鐸は、おそらく大和・河内・摂津地域にて作成され、もう一つの「三遠式」は濃尾平野にて作成されたと考えられている。

さて、「近畿式」「三遠式」銅鐸それぞれの出土分布について「近畿式」は、文字通り近畿圏一帯を中心として、東限は静岡県西部、またその西限は、四国東半地域、山陰地域での出土例がある。
「三遠式」の方は、濃尾平野を中心として、東限は長野県、静岡県西部、また西限については伊勢湾東部、琵琶湖の東岸、そして京都府北部にて出土例がある。

1世紀末頃より作成がはじまったと見られる「近畿式」「三遠式」の双方銅鐸であるが、その後3世紀に入ると、突如として作成されなくなり、また、それを伴う祭祀自体も終焉を迎えたと見られる。その際、銅鐸は集落から少し離れた山(里山)の頂上から少しおりたあたりの山肌の土を掘り埋納されたと思しき出土例が多い。

これは和歌山県を主とする紀伊半島西部での銅鐸の出土例においても同様であり、特に、中紀以南での銅鐸出土例は、概ね、これに類するものであると云える。

そして、銅鐸を用いた祭祀文化が終焉を迎えてから少し後の3世紀半ば頃に、古墳時代を特徴付ける最初の古墳とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)が造営されることになるが、この一連の様相の変化は大変に示唆的であると云える。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2021年9月6日月曜日

20210905 Simon & Schuster刊 Samuel P. Huntington著 「The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order」pp.246-247より抜粋

Simon & Schuster刊 Samuel P. Huntington著

ISBN-10 ‏ : ‎ 074323149X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0743231497

「The Afghan War started as an effort by the Soviet Union to sustain a satellite regime. It became a Cold War war when the United States reacted vigorously and organized, funded, and equipped the Afghan insurgents resisting the Soviet forces. For Americans, Soviet defeat was vindication of the Reagan doctrine of promoting armed resistance to communist regimes and a reassuring humiliation of the Soviets comparable to that which the United States had suffered in Vietnam. It was also a defeat whose ramifications spread throughout Soviet society and its political establishment and contributed significantly to the disintegration of the Soviet empire. To Americans and to Westerners generally Afghanistan was the final, decisive victory, the Waterloo, of the Cold war.

For those who fought the Soviets, however, the Afghan War was something else. It was "the first successful resistance to a foreign power," one Western scholar observed, ”which was not based on either nationalist or socialist principles" but instead on Islamic principles, which was waged as a jihad, and which gave a tremendous boost to Islamic self-confidence and power. Its impact on the Islamic world was, in effect, comparable to the impact which the Japanese defeat of the Russians in 1905 had on the Oriental world. What the West sees as a victory for the Free World, Muslims see as a victory for Islam.

American dollars and missiles were indispensable to the defeat of the Soviets. Also indispensable, however, was the collective effort of Islam, in which a wide variety of governments and groups competed with each other in attempting to defeat the Soviets and to produce a victory that would serve their interests. Muslim financial support for the war came primarily from Saudi Arabia. Between 1984 and 1986 the Saudis gave $525 million to the resistance; in 1989 they agreed to supply 61 percent of a total of $715 million, or $436 million, with the reminder coming from the United States. In 1993 they provided $193 million to the Afghan government. The total amount they contributed during the course of the war was at least as much as and probably more than the $3billion to 3.3 billion spent by the United States. During the war about 25000 volunteers from other Islamic, primarily Arab, countries participated in the war. Recruited in large part in Jordan, these volunteers were trained by Pakistan's Inter-Service Intelligence agency. Pakistan also provided the indispensable external base for the resistance as well as logistical and other support. In addition, Pakistan was the agent and the conduit for the disbursement of American money, and it purposefully directed 75 percent of those funds to the more fundamentalist Islamist groups with 50 percent of the total going to the most extreme Sunni fundamentalist faction led by Gulbuddin Hekmatyar. Although fighting the Soviets, the Arab participants in the war were overwhelmingly anti-western and denounced Western humanitarian aid agencies as immoral and subversive of Islam. In the end, the Soviets were defeated by three factors they could not effectively equal or counter: American technology, Saudi money, and Muslim demographics and zeal.

The war left behind an uneasy coalition of Islamist organization intent on promoting Islam against all non-Muslim forces. It also left a legacy of expert and experienced fighters, camps, training grounds, and logistical facilities, elaborate trans-Islam networks of personal and organizational relationships, a substantial amount of military equipment including 300 to 500 unaccounted-for stinger missiles, and, most important, a heady sense of power and self-confidence over what had been achieved and a driving desire to move on to other victories. The "jihad credentials, religious and political," of the Afghan volunteers, one U.S. official said in 1994, "impeccable. They beat one of the world's two superpowers and now they're working on the second."」

2021年9月4日土曜日

20210903 ここ最近にて投稿した記事から思ったこと(ブログが自分の記憶の参照先に・・)

 ここ数日間の首都圏は、雨が降ったり止んだりで、また、気温もあまり上がらずに、この時季らしからぬ陽気でした。他方、当ブログは、去る8月31日に投稿した書籍からの引用記事の閲覧者数が、思いのほかに伸びて驚いたといったことがありました。

ともあれ、既読文献の記述を何かの拍子に「・・ああ、そういえば、あの著作に、そうした記述があったような・・。」と思い出す、あるいは記憶を参照するような状態にも、どうやらコンディションのようなものがあるようで、そのことを、さきに述べた引用記事の投稿から感じた次第です。

つまり、自分が知覚し得る知識のなかで、周囲のさまざまなレベルにて生じている出来事に、対応させるのが妥当と思しき知識を自分の中から探そうとする行為とは、その時の心身の状態に、少なからず依存するものであると思われるのです。それは、一概に良し悪しは云えないものの多岐に渡るとは云えます。くわえて、直近の1年9カ月については、ツイッターから知る様々な出来事、そして、それらに対する見解などを拝見し、さきに述べました「ああ、そういえば、あの著作に、これに関連する記述があったような・・。」と想起することが多くなったとは云えます。そして、そうした記憶にある著作を久しぶりに取り出し、しばし飛ばし読みをして「ああ、これだ、これだ・・。」といった記述が見つかった時は、やはり、それなりに嬉しいものであり、未だに、ある種の達成感のようなものが感じられます・・。

とはいえ、現実の出来事に基づいて想起して見つけた書籍の記述との関連性の度合い、程度については、達成感はあるものの、あまり客観的な評価は判りづらいものであり、強いて、その評価の基準となるものを検討してみますと、やはり一つには「閲覧者数」になるのではないかと思われるのです・・。

その意味において、去る8月31日投稿の書籍からの引用記事の閲覧者数は、ここ最近では珍しいほどに多かったと云えます。また、この閲覧者数から考えてみますと、自分が作成した記事と、書籍からの引用記事を複数まとめたものである8月27日の投稿記事が、比較的長文であったにも関わらず、それ以上の閲覧者数となっていました。こちらの記事については、読んで頂いた方々が、どのような思い、考えを持たれたかは分かりませんが、作成者からしますと、以前にある程度明瞭に記憶していたことを言語化し、文章として著し、さらに、それをブログ記事として公表しておいたことは、作成当時ではそれなりに大変な作業であったかもしれませんが、現在となっては、まさに、それら記事にて述べていることが、自分が想起する対象となっており、あるいは言い換えますと、自ら作成したそれらの記事が、冒頭の引用した書籍の記憶と同様、参照される、云わばデータ・ベース内にあるといった感覚は、上手く表現することは出来ませんが、少なくとも、当ブログを始める以前にはなかったと云えますので、これにつきましては、その進展について、引続き注視していきたいと思っています。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2021年8月31日火曜日

株式会社集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木 主税訳『文明の衝突』下巻 pp.128-131より抜粋

pp.128-131より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4087607380
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4087607383

アフガン戦争は、衛星国の体制を維持しようとしたソ連の介入で始まった。アメリカが強く反発し、ソ連軍に抵抗するアフガニスタンの反乱軍を組織し、資金援助をし、兵器を提供したときから冷戦の枠内の戦いになった。アメリカ人にとって、ソ連が敗北すれば、共産政権にたいする武力による抵抗を推進するレーガン・ドクトリンが正当化されるし、ヴェトナムでアメリカが受けたのと同じような屈辱を、ソ連が確実に受けることになる。この戦争におけるソ連の敗北はまた、ソ連の社会や政治権力全体に波及し、ひいてはソ連帝国が分裂する大きな要因ともなった。アメリカ人や西欧人にとって、アフガニスタンは最後の決定的な勝利で、言わば冷戦のワーテルローだったとも考えられる。

 だが、ソ連軍と戦った人びとにとっては、アフガン戦争には別の意味があった。西欧のある研究者が述べているが、それは「民族主義や社会主義の基準ではなく」、イスラムの行動基準にのっとっての、外国勢力にたいして成功した初めての抵抗だった。それはジハード(聖戦)として戦われ、イスラムの自信と勢力が飛躍的に高まることになった。この戦争がイスラム世界に与えた衝撃は、1905年に日本がロシアに勝ったときに東洋世界に与えた衝撃にも劣らぬものだった。西欧は自由世界の勝利と思ったのだが、イスラム教徒はイスラムの勝利だと考えたのである。

 たしかに、ソ連に勝つためにはアメリカのドルとミサイルが不可欠だった。だが、もう一つ欠かせなかったのは、イスラムが力をあわせて戦うことだった。さまざまな政府や集団が、率先してソ連と戦い、自分たちの利益にそった勝利を勝ちとろうと努力した。この戦争にたいするイスラム教徒からの経済的援助は、主にサウジアラビアが提供した。1984年から86年のあいだに、サウジアラビアは抵抗勢力に5億2500万ドルの援助をした。1989年には合計で必要な7億1500万ドルの61%、つまり4億3600万ドルを負担するのに同意し、残りはアメリカが提供することになった。1993年には、サウジアラビアは1億9300万ドルをアフガニスタン政府に援助した。この戦争を通じて、サウジアラビアが提供した資金援助の総額は少なくとも30億ドルに達したが、実際の金額はたぶんもっと多かっただろう。それにたいして、アメリカが支出したのは33億ドルだった。この戦闘中に、約2万5000人の志願兵が、他のイスラム諸国、とくにアラブ諸国からやってきて戦闘に参加した。これらの志願兵は主としてヨルダンで志願し、パキスタンの陸海空の諜報機関で訓練を受けた。パキスタンはさらに、抵抗勢力に不可欠な国外の基地と、兵站機能やその他のサービスを提供した。さらにパキスタンはアメリカの資金の分配にたずさわり、意図的にこの資金の75パーセントを原理主義的なイスラム集団に与え、総額の50パーセントがグルブッディン・ヘクマティアルが率いる最も過激なスンニ派原理主義の派閥に流れるよう手配した。ソ連軍と戦っていながらも、参戦したアラブ人は反西欧的な態度をつらぬき、西欧の人道主義的な援助機関を不道徳で、イスラムを破壊しようとするものだと非難した。ソ連はついに敗れたが、それには三つの要因があり、それにたいして効果的に対処できなかったのである。その三つの要因とは、アメリカの技術、サウジアラビアの資金、そしてイスラムの厖大な人口と宗教的な熱意である。

 この戦争のあとに残ったものは、イスラム教徒の不気味な連合で、すべての非イスラム教徒軍にたいしてイスラムの大義を主張しようとしていた。また、技術をもつ経験にとんだ戦士、駐屯地、訓練施設、兵站設備、全イスラムを結んで入念につくられた個人と組織のネットワークも残された。また大量の兵器が残され、300基から500基のスティンガー・ミサイルの所在が不明である。そして、とくに重要なのは、自分たちが成しとげたことから生まれる力と自信にみちた高揚感と、さらに勝利をおさめたいという突き上げるような願望だった。1994年にアメリカのある当局者が述べたように、アフガン戦争の志願兵が「ジハードに参戦する資格は、宗教的にも政治的にも非の打ちどころがない。彼らは世界の超大国の一つを破り、他の一つに抵抗しようとしている」のだ。

2021年8月30日月曜日

20210830 筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」 pp.36-37より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」
pp.36-37より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480073957
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480073952

「15年前のNATOにとっては、アフガニスタンが全てでした」

2020年秋、筆者の所属する研究グループとのウェブ会議で、あるNATO加盟国の大使はこんな風に切り出した。

「我々はアフガニスタンのことを考えながら目覚め、アフガニスタンのことを考えながら眠りました。私がNATO本部で携わった仕事の8割が、アフガニスタンに派遣された国際治安支援部隊(ISAF)に関するものでした」

2001年に発生した米国同時多発テロは、安全保障という概念を大きく揺さぶった。冷戦期までの安全保障が国家間の戦争を抑止し、あるいはこれを勝利することを念頭に置いていたのに対し、アフガニスタンを拠点とする国際テロ組織アル・カイダは、少数のテロリストで旅客機をハイジャックし、体当たり攻撃を仕掛けるという全く新しい手段に訴えた。この戦術は見事に超大国・米国の虚を衝き、世界貿易センタービルの崩壊と、「ペンタゴン」の通称で知られる国防総省庁舎の損壊という事態に至った。いわゆる米国同時多発テロ事件である。

 こうして「対テロ戦争」の時代がやってきた。ロシアは衰退し、中国の台頭はまだこれからという時代。米国でもNATOでも、古典的な国家間戦争はひとまず脇へ追いやられ、予想もつかない手段を駆使して攻撃を仕掛けてくる非国家主体の脅威にいかにして対処するかに血道を上げるようになった。実際、米国同時多発テロ事件後に発動されたアフガニスタン戦争やイラクでの治安作戦、シリアへの軍事介入でも、敵は国家ではなくイスラム過激派勢力であった。詳しくは第2章で述べるが、「ハイブリッド戦争」という概念が米軍の中で生まれてきたのは、このような状況においてであった。

 このテロ組織は国家のように明確な実体や組織を持たない。指導者を殺害しても、ゲリラ部隊を殲滅しても、米国や西欧を中心とした国際秩序への反発がムスリムの中に燻り続ける限り「対テロ戦争」は続く。現に米国がアフガニスタンから兵力を完全に撤退させることができたのは介入の開始から実に20年を経た2021年のことであった。「アフガニスタンがNATOにとっての全て」だったという大使の言葉は、決して誇張ではなかったと言える。


2021年8月29日日曜日

20210829 中央公論新社刊 池内紀著「ひとり旅は楽し」 pp.166-168より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ひとり旅は楽し」

pp.166-168より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4121017420
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121017420

「 国東から臼杵にかけては石仏が点在している。磨崖仏もあって、誰が彫ったのかわからない。優れた技量の持主がいたのだろう。むかしの工匠たちは、ものものしい署名などしなかった。仕事を終えると、ノミや金槌を袋に入れて風のように立ち去った。

 大分県中津市、旧名でいうと豊前国中津藩。福沢諭吉の故郷である。父が廻米方の小役人であった関係で、大阪・堂島の生まれ。数え年三つのときに一家は中津へもどった。福沢家は十三石二人扶持、典型的な下級武士の家柄。その旧宅があるー明日の予定が定まったので、いそいそとお酒のお代わりをした。

 中津市留守居町に旧宅が復元されていた。間口二間、奥行十五間で、ウナギの寝床のように細長い。諭吉少年は、もっぱら土蔵の二階で勉強したという。頭がつかえそうな天井に、明りとりの窓が一つ。手製の書見台がポツンと置かれていた。

 白状すると、この旅に出るまで、私は有名な「学問のすゝめ」すら、ろくすっぽ読んでいなかった。

「天は人の上に人を造らずと云えりー」そんな書き出しのところだけを、なんとなく知っていた。はじめて実物にあたって知ったのだが、高邁な出だしにくらべ終わりにちかいところは、おそろしく実際的だ。諭吉は三つのことをすすめている。自分のため、ひいては世の中のためにもなるという。

一つ、言葉を学んで、よくおしゃべりをしろ。

二つ、顔色容貌を快くして、人に嫌われないようにしろ。

三つ、仕事や専門のちがう人とまじわれ。

三代にわたり入口に膾炙してきた名著は、ごく日常的な「すゝめ」を力説している。あらためてこのようなことを説いたところに福沢諭吉の面目があるのかもしれない。この筋金入りのリアリストには、君子重かざれば威なしとばかり肩肘はった連中がおかしくてならなかったのだろう。そういえば、こんなふうに述べている。いつも苦虫を噛みつぶしたような顔をして重々しく構えているのは、「戸の口に骸骨をぶら下げて門の前に棺桶を安置するが如し」。仕事や専門のちがう人とまじわってこそ生涯の友ができる。人間、鬼でもなければ蛇でもない。「心事を丸出しにして颯々と応接すべし」。

 ついでに記念館で見つけた諭吉の言葉をあげておくと、記憶力中心の教育を批判して文部大臣に忠告したそうだ。それは「半死半生の青瓢箪」をつくるだけ。

 この小藩の下級武士の二男坊は、名うての神仏の里を隣にもつ郷里の因習に悩まされたのではあるまいか。前近代的なものが何重にもかさなりあった土地柄を醒めた目で見つめながら、たえずみずからを鍛えていった。ついでながら「学問のすゝめ」のしめくくりは、旅のすすめだ。ひろく世界を歩いて見聞をひろげるべし。さもないと「三・五匹の鮒が井中に日月を消する」の世界に終わってしまう。」