さる八月に公開された地方と東京を舞台とするアニメ映画が大きな反響を呼んでいるとのことです・・。
この映画はストーリーの面白さもさることながら映像が大変キレイとのことであり、予告編を動画サイトにて視聴しますと「ウワサ通りたしかにキレイである。」と感じました・・。
しかし、実際の東京都心部の光景・景色とは概ね、このアニメ映画に描かれているような透明感のあるようななものではないと思いますが・・。
とはいえ、こうした描き方とは、アニメならではの創造的作業であり、やはり素晴らしいものであると思います・・。
また、一方の舞台である地方の光景、景色に関しては、自身の在住経験がないため、判断をすることができません・・。
もとい、こうした人格の入れ替わり、都市と地方との対比などを扱った物語とは、新しくとも日本霊異記の時代(~9世紀初頭)から我が国に存在しておりますので、現在の我が国にて、こうした主題、テーマが選ばれ、そして、それが人気を博しているということに対し「一体どのような背景となる世相、時代精神といったものが存在するのであろうか?」と考えさせられます・・。
こうしたものは、おそらく映像のキレイさといった要素のみにて人気を博することは少ないと思われますので・・。
また、都市と地方(文化)の対比そして融合、調和といったことを一つのテーマとして扱ったアニメ映画として一連のジブリ映画ほど有名ではないようですが高樹のぶ子原作の「マイマイ新子と千年の魔法」が挙げられるのではないかと思います。
この映画は鹿児島在住時に観ましたが、鑑賞の際、三十路過ぎであるにもかかわらず、不覚にも泣いてしまいました・・(笑)。
おそらく当時の私とは、この映画のテーマに対し甚く共感したのであろうと思われます・・。
興味を持たれた方は、よろしければ一度ご覧ください・・。
また、さきの映画のもう一つのテーマである人格の入れ替わりに関しては、アニメ化はされておりませんが、安彦良和のマンガ「天の血脈」が大変面白く、このマンガを読みますと、和歌山在住時にフィールド・ワークにて古社、古墳などに訪れた際の感覚が思い起こされます・・。
(あとになり手塚治虫の「火の鳥」(太陽編)もそうしたテーマであることを思い出しました。)
そして、その感覚の原因は判然としませんが、その感覚とは、こうした場所(古墳、古社など)を訪れると、以前ブログ記事にても記した「瞬時に様々な感覚の波が押し寄せる」といったものであるといえます・・。
このような感覚・精神現象?とは、なかなか面白いものです(そういえばラフカディオ・ハーンこと小泉八雲もどこかでそうしたことを述べていたと思います・・)。
もしかすると、我々とは、大概ある程度年齢を重ねると(多分30歳くらいでしょうか? そしてそのように考えると孔子の「論語」内の「三十にして立つ」とは、なかなか深い含蓄があるのかもしれません・・。)何かに対して、そうした感覚、現象が生じるように出来ているのではないでしょうか・・?
明確にはわかりませんが・・(笑)。
しかし、ハナシをもとに戻し、こうした都市と地方との対比、人格の入れ替わりをテーマとして扱ったアニメ映画を鑑賞する場合、それを鑑賞する人間が「どこで観るか」(都市、都会あるいは地方)によっても、おそらく鑑賞後の感想とは、大分異なるのではないかと思われます・・。
その意味において、このアニメ映画とは、(おそらく)一方において地方を舞台としながらも、その地方と東京の関係とは、我が国においてステレオタイプ化、無害化されたものから進化、変化していないのではないかと思われます・・
(対極にあるものが映画であれば野村芳太郎監督の「八つ墓村」あたりではなかろうか・・)。
また同時にそこから現今進行中の東京オリンピックへの一連の準備から看取される(東京における)時代精神らしきものを感じさせますが、さて如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。
2016年9月28日水曜日
2016年9月27日火曜日
20160926 自己について・・
A「本日は日中気温が上昇し、多少暑くも感じました・・。
さて、先日電話口にて久しぶりに文系院時代の知人と話す機会を得ましたが、どうにか文系学問特有の世界、会話について行けたのではないかと思います・・。
しかし同時に、以前に比べ、色々と忘れている部分もあり、自身としては口惜しい部分もまた(少なからず)ありました・・・(苦笑)。
そして本日は、何人かの歯科医師の先生と話す機会を得ましたが、ここでもいくつかの歯科分野の会話にどうにかついて行けたのではないかと思います・・。
また、ここにおいてもさきと同様、少なからず忘れている部分があり、自身の勉強不足、記憶力の悪さが悔やまれました・・。
しかしながら、自身のことを誇るのわけではありませんが、こうしたいくつかの学問分野での(ある程度専門的な)会話について行ける私とは、一体何者であるのかと時折考えてしまいます・・(苦笑)。
ともあれ何れにせよ、その根本、基層には、いくつかの結節点を持つ文系学問の多少オカシイ(極めて個人的な)体系らしきものが存在するのではないかと思われます・・。
そして、このオカシイ学問体系とは、主に和歌山、東京そして鹿児島にて形成されました・・。
また、これは一応学位の分野としては「歯学」となっておりますが、取得後の経緯などを踏まえますと、私個人の意見として時折「こうなってしまった以上、分野などは別に何でもいいのではないだろうか?」と考えてしまうことがあります・・(苦笑)。
果たしてこうした意見とは(私の場合)傲慢不遜なものなのでしょうか・・?
しかし、それはともかくとして、現在ここまでブログ記事を継続して作成することが出来ている背景とは、さきに述べた三つの地域にて形成された学問体系らしきものに因ることは、たしかであると思われます・・。
あるいは異言すると、それら何れかの経験が欠けていても、それは出来なかった、出来ないと表することが出来ます。
そしてもちろん、投稿した一連の記事を読んで頂いた方々がいらっしゃったからという大前提が存在しますが・・。
とはいえ、こうしたブログ記事の作成に対して「のみ」それらの経験が生かされると考えるのもいささか悲しいものであり、そのため今後も自身の望む大学職種(主に教養課程の教員、研究支援専門職員など)に応募するつもりです。
・・色々と考えてみましたが、どうやら私とは教育の過程によりそうなったのではなく、どちらかというと生まれつき(生来)に近い部分より多少オカシイところがあり、そのために様々な必ずしも必要でない面倒に遭遇することになりましたが、また、それと同じ理由により、さきに述べたようなオカシイ体系を持った私となり、また、それをどうにか認めてくれる方々にも出会うことができたのではないかと考えております・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの速やかな復旧、そしてその後の復興、またそれに加え、昨晩に鹿児島県奄美地方において発生した地震による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。」
さて、先日電話口にて久しぶりに文系院時代の知人と話す機会を得ましたが、どうにか文系学問特有の世界、会話について行けたのではないかと思います・・。
しかし同時に、以前に比べ、色々と忘れている部分もあり、自身としては口惜しい部分もまた(少なからず)ありました・・・(苦笑)。
そして本日は、何人かの歯科医師の先生と話す機会を得ましたが、ここでもいくつかの歯科分野の会話にどうにかついて行けたのではないかと思います・・。
また、ここにおいてもさきと同様、少なからず忘れている部分があり、自身の勉強不足、記憶力の悪さが悔やまれました・・。
しかしながら、自身のことを誇るのわけではありませんが、こうしたいくつかの学問分野での(ある程度専門的な)会話について行ける私とは、一体何者であるのかと時折考えてしまいます・・(苦笑)。
ともあれ何れにせよ、その根本、基層には、いくつかの結節点を持つ文系学問の多少オカシイ(極めて個人的な)体系らしきものが存在するのではないかと思われます・・。
そして、このオカシイ学問体系とは、主に和歌山、東京そして鹿児島にて形成されました・・。
また、これは一応学位の分野としては「歯学」となっておりますが、取得後の経緯などを踏まえますと、私個人の意見として時折「こうなってしまった以上、分野などは別に何でもいいのではないだろうか?」と考えてしまうことがあります・・(苦笑)。
果たしてこうした意見とは(私の場合)傲慢不遜なものなのでしょうか・・?
しかし、それはともかくとして、現在ここまでブログ記事を継続して作成することが出来ている背景とは、さきに述べた三つの地域にて形成された学問体系らしきものに因ることは、たしかであると思われます・・。
あるいは異言すると、それら何れかの経験が欠けていても、それは出来なかった、出来ないと表することが出来ます。
そしてもちろん、投稿した一連の記事を読んで頂いた方々がいらっしゃったからという大前提が存在しますが・・。
とはいえ、こうしたブログ記事の作成に対して「のみ」それらの経験が生かされると考えるのもいささか悲しいものであり、そのため今後も自身の望む大学職種(主に教養課程の教員、研究支援専門職員など)に応募するつもりです。
・・色々と考えてみましたが、どうやら私とは教育の過程によりそうなったのではなく、どちらかというと生まれつき(生来)に近い部分より多少オカシイところがあり、そのために様々な必ずしも必要でない面倒に遭遇することになりましたが、また、それと同じ理由により、さきに述べたようなオカシイ体系を持った私となり、また、それをどうにか認めてくれる方々にも出会うことができたのではないかと考えております・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの速やかな復旧、そしてその後の復興、またそれに加え、昨晩に鹿児島県奄美地方において発生した地震による被害が出来るだけ軽微であることを祈念します。」
2016年9月26日月曜日
20160925 波、流れとそれを認識する何か・・
A「本日は特に降雨もなく、また気温も例年のこの時期並みに上昇したのではないかと思います。
また、ブログ記事の作成も今回の投稿によって430記事となります。
つい先日400記事に到達したものと記憶しておりますので、そこからここに至るまでの記事の増加とは、感覚的には、なかなか早いものであったと思います・・。
しかし、その増加する一つ一つの記事作成においては、決して「楽なものである。」と表現することはできません・・(苦笑)。
いえ、時によっては比較的スムーズに記事を記すことが出来たと思うこともありますが、ここ最近は季節の変わり目であるためか、どうもスムーズに記事を記すことが困難であるといえます・・。
とはいえ、こうしたことは以前にも幾度かありましたので、書き続けていくうちに再度スムーズに記事を記すことが出来る時期が訪れるのではないかとも思いますが、さて如何でしょうか・・(笑)?
何れにせよ、こうしたことにはおそらく他の様々なことと同様に波、流れのようなものがあるのではないかと思われますが、ただ、それが如何なる要因により、惹起、駆動しはじめるのかとは、未だに判然としないことです・・。
それに加え、こうしたものは個人、個別的な要素が強いものではあるのでしょうが・・(万人に共通ではない、普遍性がない)。
とはいえ、こうしたことを精密に考え、そしてある程度通用する普遍性を持った(応用し得る)見解を見出せるのであれば、それはそれでかなり有益なことではないかとも思いますが・・。
また、そうしたことの価値とは、現今流行している実践的な心理学、ハウツー本などと比して、少なくとも遜色のないものであるとも思いますが、如何でしょうか・・?
ともあれ、そうした波、流れのような目に見えなく、また分析機器などによっても測定できないものを説明する場合において極めて重要なことは、その説明の仕方つまり、表現、たとえ、文体、コトバなどではないかと思われます。
さらにそれに加えて図、イラストなどを併用し説明することにより、その理解はより一層浸透するのではないかとも思われます・・。
しかしながら、その一方、図、イラストを多く用いることにより、その記述様式とは徐々にマンガ様式に近づいていくのでしょうが、明らかにマンガとして分類される様式にまで行きますと、今度はどうもハナシが異なってくる、おかしな方向に行ってしまうのではないかとも思われます・・。
私は我が国の世界に誇る文化であるマンガに対し敬意を持っており、特に敵意を持っているわけではありません。
しかし、現今の「世界に認められた日本文化であるマンガ、アニメであるから、そのお家芸に則り、何でもマンガ様式にするのは良いことだ。」といったような風潮に対してはどうも賛同することができません・・。
こうした昨今見受けられる風潮とは「案外マズイことなのではないだろうか・・」と思っております・・。
そして、実際、様々なマンガによる知識、思想とインターネット検索に用いる種々装備を合理的、利便性の高いものとして装備した人々と、そうでない昔ながらの実際の様々な書籍の読書により知識、思想を獲得、練磨してきた人々の間では『何か』が違うのでしょうか?
あるいは、違いと云えるような違い(有意差)は見いだせないのでしょうか?
こうしたことはしばらく先にならないと、その答えは見出せないのかもしれませんが、私個人としては、その間には何かしらの違いが存在するのではないかと仮定します。
そして、その違いとは、さきほど述べた「様々な事象において存在すると思われる波、流れ」といったものに対する認識の仕方、深さ(おそらく想像力の一種)といったところにあらわれるのではないかと思います。
それ故、現今の我々よりさらに機械文化に接することの少なかった古の人々とは、それこそ妖怪などを現代を生きる我々が波、流れといったものを認識するように認識していたのではないかと思われるのです。
また、それと同時に、そうしたことは廻り回って、ある大きな思想、考えを紡ぎ出すという行為を為す能力、つまり歴史意識の祖型とも云うべきある種の観念の生成に対し(少なからぬ)影響を及ぼすのではないかと漠然とではありますが、考えております。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」
また、ブログ記事の作成も今回の投稿によって430記事となります。
つい先日400記事に到達したものと記憶しておりますので、そこからここに至るまでの記事の増加とは、感覚的には、なかなか早いものであったと思います・・。
しかし、その増加する一つ一つの記事作成においては、決して「楽なものである。」と表現することはできません・・(苦笑)。
いえ、時によっては比較的スムーズに記事を記すことが出来たと思うこともありますが、ここ最近は季節の変わり目であるためか、どうもスムーズに記事を記すことが困難であるといえます・・。
とはいえ、こうしたことは以前にも幾度かありましたので、書き続けていくうちに再度スムーズに記事を記すことが出来る時期が訪れるのではないかとも思いますが、さて如何でしょうか・・(笑)?
何れにせよ、こうしたことにはおそらく他の様々なことと同様に波、流れのようなものがあるのではないかと思われますが、ただ、それが如何なる要因により、惹起、駆動しはじめるのかとは、未だに判然としないことです・・。
それに加え、こうしたものは個人、個別的な要素が強いものではあるのでしょうが・・(万人に共通ではない、普遍性がない)。
とはいえ、こうしたことを精密に考え、そしてある程度通用する普遍性を持った(応用し得る)見解を見出せるのであれば、それはそれでかなり有益なことではないかとも思いますが・・。
また、そうしたことの価値とは、現今流行している実践的な心理学、ハウツー本などと比して、少なくとも遜色のないものであるとも思いますが、如何でしょうか・・?
ともあれ、そうした波、流れのような目に見えなく、また分析機器などによっても測定できないものを説明する場合において極めて重要なことは、その説明の仕方つまり、表現、たとえ、文体、コトバなどではないかと思われます。
さらにそれに加えて図、イラストなどを併用し説明することにより、その理解はより一層浸透するのではないかとも思われます・・。
しかしながら、その一方、図、イラストを多く用いることにより、その記述様式とは徐々にマンガ様式に近づいていくのでしょうが、明らかにマンガとして分類される様式にまで行きますと、今度はどうもハナシが異なってくる、おかしな方向に行ってしまうのではないかとも思われます・・。
私は我が国の世界に誇る文化であるマンガに対し敬意を持っており、特に敵意を持っているわけではありません。
しかし、現今の「世界に認められた日本文化であるマンガ、アニメであるから、そのお家芸に則り、何でもマンガ様式にするのは良いことだ。」といったような風潮に対してはどうも賛同することができません・・。
こうした昨今見受けられる風潮とは「案外マズイことなのではないだろうか・・」と思っております・・。
そして、実際、様々なマンガによる知識、思想とインターネット検索に用いる種々装備を合理的、利便性の高いものとして装備した人々と、そうでない昔ながらの実際の様々な書籍の読書により知識、思想を獲得、練磨してきた人々の間では『何か』が違うのでしょうか?
あるいは、違いと云えるような違い(有意差)は見いだせないのでしょうか?
こうしたことはしばらく先にならないと、その答えは見出せないのかもしれませんが、私個人としては、その間には何かしらの違いが存在するのではないかと仮定します。
そして、その違いとは、さきほど述べた「様々な事象において存在すると思われる波、流れ」といったものに対する認識の仕方、深さ(おそらく想像力の一種)といったところにあらわれるのではないかと思います。
それ故、現今の我々よりさらに機械文化に接することの少なかった古の人々とは、それこそ妖怪などを現代を生きる我々が波、流れといったものを認識するように認識していたのではないかと思われるのです。
また、それと同時に、そうしたことは廻り回って、ある大きな思想、考えを紡ぎ出すという行為を為す能力、つまり歴史意識の祖型とも云うべきある種の観念の生成に対し(少なからぬ)影響を及ぼすのではないかと漠然とではありますが、考えております。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月の熊本にて発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」
20160924 書籍からの抜粋引用および昨今の出来事 岩波書店刊 クロード・ベルナール著 「実験医学序説」
A「おかげさまで昨日のブログ閲覧者数は1000に到達しました。
どうもありがとうございます。
本日の首都圏の天候は始終小雨が降り、グズついたものでした。
また、先日お目に掛かった歯科医師の先生との会話においても「ひょっとして私のブログ記事を読まれている(た)のではないか?」と思うところがありました・・。
こうしたことは気にしはじめますと、結果的に萎縮、緊張してしまい文章の作成がスムーズに行かなくなってしまうのではないかと思われます・・。
加えて、本日は私の文系学問分野の師匠のお一人から久々に連絡がありました。
この師匠からは主に欧米の歴史、文化についてかなり多くのことを教えて頂きました。
しかし、それは教えるというよりも、どちらかというと日常的な会話の中で、そういったことを学んでいたという方が適切であったと思います。
また、その会話、説明の中に出てくる様々な著作、映画などを出来るだけ読むように、観るように心がけ、それを続けた結果、北海道、南紀での会社員時代を通じ書籍を読む習慣が保持され、結果的に「やはり院に行こう・・。」ということになったのではないかと思われます・・。
それ故、この師匠からの影響により、会社員となっていた私が研究という方面に自身の人生の舵を切った(切りなおした)のではないかともいうことが出来ます・・。
もちろん、その他の要因もまたありますが・・。
そうしたことから、紆余曲折を経て現在に至っている次第ではあるのですが「果たしてこれで良かったのであろうか・・?」と時折思うこともあります・・(笑)。
しかしながら、同時に私のような人間が寄与することが出来る大学の職種とは多くはありませんが、あるとは思いますので、それに巡り合うことが出来るよう願い、そしてゆっくりと探し続けてみようと思います・・。
「天網恢恢疎にして漏らさず」とはいいますが、実際のところどうなのでしょうか・・(笑)?
さて、ハナシは大分変りますが、昨日記したブログ記事と関連するのではないかと思われる記述を見つけましたので、それを下に示します。
岩波書店刊 クロード・ベルナール著 「実験医学序説」ISBN-10: 4003391616
ISBN-13: 978-4003391617
PP.305ー307より抜粋引用
「人間の精神は本来体系(哲学)を好む傾向を持っている。
人々が事実よりもむしろ言葉について一致しようと努めているのもこれがためである。
しかしながらこれは、実験的批判における誤った方向であって、事実の存在またはその真価を考えさせる代わりに、いたずらに問題を紛糾させ、また容易に暴論と信じさせる弊害がある。
ところが大抵の場合この異論なるものは、人が現象を解釈する仕方にのみ存在していて、実際には存在していないのである。
予期しない事実、或いは新奇な思想を科学の中に導き入れる幸運をになったすべての人と同様に、私もまた数多の批判の対象となっていた。
現在もまたそうである。
私が今までこれらの反対者に答えなかった理由は、いつも仕事に追われて時間と機会がなかったからである。
しかし本書の続きにおいて、この吟味をなすべき機会がおのずと出てくるであろう。
また我々が前節において指摘した実験的批判の原理を応用することによって、これら一切の批判を判断することも容易であろう。その前にまずここでは単に、実験的批判においては本質的に区別すべき事柄が二つあるということを言っておこう。
実験の事実とその解釈がこれである。
科学は何をおいてもまず事実について一致することを要求する。事実こそは、我々がその上に立って考慮をめぐらすべき基礎であるからである。
その解釈、またはその思想に至っては、各自違っていてもさしつかえない。それどころか討論されるということはむしろよいことである。
なぜならば、このような討論はさらに他の研究を刺激し、また新しい実験をくわだてるように導くからである。
したがって生理学においても、真の科学的批判の原則をどこまでも忘れないで、個人的感情や策略などに決して混同しないように心がけなければならない。
批判の技巧の中には、すでに科学の領域外にあるという点で、我々がこれを論じることをいさぎよしとしないようなものも沢山ある。
しかしその中で、どうしてもここに述べなければならないことが一つある。
それは、他人の研究の中から、すぐれている点や重要な点を無視したり、かくしたりして、ただ弱点や欠点だけを指摘するやり方である。
この方法は誤った批判法である。
科学においては批判という文字と中傷という文字とは同一語ではない。
批判するとは、正しいことを誤っていることから分離しつつ、またよい点を悪い点から区別しつつ、真理を探究することを意味している。
このような批判は学者にとって正当であると同時に、学問にとっても有益な唯一の批判法である。
このことは我々が引き続き陳述しようとする特殊の実例を見れば容易にわかるのである。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域における諸インフラの早期の復旧と、その回復を祈念しております。
どうもありがとうございます。
本日の首都圏の天候は始終小雨が降り、グズついたものでした。
また、先日お目に掛かった歯科医師の先生との会話においても「ひょっとして私のブログ記事を読まれている(た)のではないか?」と思うところがありました・・。
こうしたことは気にしはじめますと、結果的に萎縮、緊張してしまい文章の作成がスムーズに行かなくなってしまうのではないかと思われます・・。
加えて、本日は私の文系学問分野の師匠のお一人から久々に連絡がありました。
この師匠からは主に欧米の歴史、文化についてかなり多くのことを教えて頂きました。
しかし、それは教えるというよりも、どちらかというと日常的な会話の中で、そういったことを学んでいたという方が適切であったと思います。
また、その会話、説明の中に出てくる様々な著作、映画などを出来るだけ読むように、観るように心がけ、それを続けた結果、北海道、南紀での会社員時代を通じ書籍を読む習慣が保持され、結果的に「やはり院に行こう・・。」ということになったのではないかと思われます・・。
それ故、この師匠からの影響により、会社員となっていた私が研究という方面に自身の人生の舵を切った(切りなおした)のではないかともいうことが出来ます・・。
もちろん、その他の要因もまたありますが・・。
そうしたことから、紆余曲折を経て現在に至っている次第ではあるのですが「果たしてこれで良かったのであろうか・・?」と時折思うこともあります・・(笑)。
しかしながら、同時に私のような人間が寄与することが出来る大学の職種とは多くはありませんが、あるとは思いますので、それに巡り合うことが出来るよう願い、そしてゆっくりと探し続けてみようと思います・・。
「天網恢恢疎にして漏らさず」とはいいますが、実際のところどうなのでしょうか・・(笑)?
さて、ハナシは大分変りますが、昨日記したブログ記事と関連するのではないかと思われる記述を見つけましたので、それを下に示します。
岩波書店刊 クロード・ベルナール著 「実験医学序説」ISBN-10: 4003391616
ISBN-13: 978-4003391617
PP.305ー307より抜粋引用
「人間の精神は本来体系(哲学)を好む傾向を持っている。
人々が事実よりもむしろ言葉について一致しようと努めているのもこれがためである。
しかしながらこれは、実験的批判における誤った方向であって、事実の存在またはその真価を考えさせる代わりに、いたずらに問題を紛糾させ、また容易に暴論と信じさせる弊害がある。
ところが大抵の場合この異論なるものは、人が現象を解釈する仕方にのみ存在していて、実際には存在していないのである。
予期しない事実、或いは新奇な思想を科学の中に導き入れる幸運をになったすべての人と同様に、私もまた数多の批判の対象となっていた。
現在もまたそうである。
私が今までこれらの反対者に答えなかった理由は、いつも仕事に追われて時間と機会がなかったからである。
しかし本書の続きにおいて、この吟味をなすべき機会がおのずと出てくるであろう。
また我々が前節において指摘した実験的批判の原理を応用することによって、これら一切の批判を判断することも容易であろう。その前にまずここでは単に、実験的批判においては本質的に区別すべき事柄が二つあるということを言っておこう。
実験の事実とその解釈がこれである。
科学は何をおいてもまず事実について一致することを要求する。事実こそは、我々がその上に立って考慮をめぐらすべき基礎であるからである。
その解釈、またはその思想に至っては、各自違っていてもさしつかえない。それどころか討論されるということはむしろよいことである。
なぜならば、このような討論はさらに他の研究を刺激し、また新しい実験をくわだてるように導くからである。
したがって生理学においても、真の科学的批判の原則をどこまでも忘れないで、個人的感情や策略などに決して混同しないように心がけなければならない。
批判の技巧の中には、すでに科学の領域外にあるという点で、我々がこれを論じることをいさぎよしとしないようなものも沢山ある。
しかしその中で、どうしてもここに述べなければならないことが一つある。
それは、他人の研究の中から、すぐれている点や重要な点を無視したり、かくしたりして、ただ弱点や欠点だけを指摘するやり方である。
この方法は誤った批判法である。
科学においては批判という文字と中傷という文字とは同一語ではない。
批判するとは、正しいことを誤っていることから分離しつつ、またよい点を悪い点から区別しつつ、真理を探究することを意味している。
このような批判は学者にとって正当であると同時に、学問にとっても有益な唯一の批判法である。
このことは我々が引き続き陳述しようとする特殊の実例を見れば容易にわかるのである。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域における諸インフラの早期の復旧と、その回復を祈念しております。
2016年9月24日土曜日
20160923 最近のドラマ・著作の広告・ポスターを見て思ったこと・・【日本人とは】
A「本日首都圏は終日小雨が降り、ぐずついた天候でした。
そういえば、ここ最近都心部の電車内の吊り広告、駅の壁に貼られている広告ポスターなどを複数見ておりますと、どうも近代日本(主に明治以降)を時代背景としたドラマ、書籍等が流行しているように見受けられます・・。
こうした流行とは一体どのような現代社会の風潮により生じているのでしょうか・・?
ともあれ、これらの広告を見て思うことは「こうした近代を舞台としたドラマ、書籍とは、果たしてどの程度まで史実を考証して制作されているのであろうか?」ということです・・。
といいますのは、特に昨今の我が国における、こうしたいわゆる「歴史もの」とは、史実、時代考証に関しては出来る限り省略した流行に便乗したと思われるものが少なくないからです・・。
私はこれまで投稿したブログ記事にて記しているように、かねてより「歴史もの」全般が好きであり、そうした良い作品を観る、読むことが好きです。
その上で、昨今の我が国の「歴史もの」全般に認められる、こうした傾向(史実、時代考証の省略、簡略化)とは、その浅薄さに対し否応なく腹立たしく思い、同時に悲しくなります・・。
そして、それらは物語の背景を借景的に過去の時代を当て嵌めているだけではないかと考えさせられるのです。
しかしながら、こうした時代の借景現象とは、江戸時代の歌舞伎などにおいても見受けられ、その起源もまた、おそらくかなりの歴史的背景、伝統があるのではないかとも思われます。
つまり、こうしたことは、以前何度かブログ記事にて述べたような何も戦後、太平洋戦争の敗戦による歴史意識の挫折によるものではないということです。
そうしますと、では、なぜ学校などで学習する歴史と、それら「歴史もの」にて語られる歴史とは乖離していくのでしょうか・・?
おそらくそれは「歴史もの」一般とは、学校にて学ぶ歴史の勉強と根本的に異なる次元にあり、(創作者あるいは観客、読者が)好き勝手にその背景および内容をいじっても特に問題ないと考えられている、受け取られているからではないでしょうか・・?(日本のアニメ全般とは、概ねその延長であり、典型であると思われる。)
しかし、この点に関しては多少意固地になりますが、歴史とは見方、解釈においてはいくつもありますしょうが、本質的に史実は一つであると考えております(当たり前のハナシではありますが)。
ヴィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」
そして、そうした前提が根本において存在するがゆえに、歴史を扱う学問が人文社会科学の一分野として存立するのではないでしょうか?
とはいえ、こうした意見とは、社会全般においては圧倒的に少数派であり、どちらかというと肩身が狭いといっても良いと云えます。
それに対する圧倒的な多数派とは、その表面的な評価のコトバ(建前)はさておき、本音においては歴史、史実に対し日常生活にあまり影響を及ぼさない、取るに足らないものとして、あるいは、そこまで厳粛に受け取ることなく、単に短期的なネタとして楽しむことが出来れば良いものとして考えているのではないかと思われます・・。
あるいはこれに対し何か他の表現、表記方法があるのでしょうか・・?
もとい、それ故、結果的に時代毎にその時代の風潮(時代精神)に適応した歴史観といったものが流布、流行し、それが社会を染め上げていくのではないでしょうか・・?
そして、それもまた歴史ではあるのですが・・(苦笑)。
・・そのように考えてみますと、こうした歴史観とは、和辻哲郎著の「風土」に述べられているモンスーン地帯(我が国も含む)において特徴的な精神的傾向、思考様式に親和性があるのではないかと考えさせられます・・。
あるいはこうしたモンスーン地帯における特徴的な精神的傾向、思考様式とは会田雄次もまた、そのいくつかの著作において類似したことを述べていたように思います。
しかし、何れにせよ、私はこうした我が国の歴史観、そしてそれに基づいてさらに再生産される(浅薄、軽薄な)国民感情、世論といったものは、どのようなものであれ好きにはなれません・・。
そして、こうした意見を述べると、日本的でないとして「日本がキライならば出て行けば良い。」といった意見などをマジメにいうのを聞きますと、何ともいえない絶望感をおぼえます・・・。
なぜならば、少なくとも近代以降の我が国とは、おそらくこうした意見を持つ方々により国民感情、世論が形成されてきたということもまた、史実であると考えるがためです・・・。
しかし、そうであるからといって、それに対し迎合、付和雷同するのはダメであると思います・・。
私は日本がキライではないと思います。
日本がキライであれば、その歴史などに興味を持ちません。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
そういえば、ここ最近都心部の電車内の吊り広告、駅の壁に貼られている広告ポスターなどを複数見ておりますと、どうも近代日本(主に明治以降)を時代背景としたドラマ、書籍等が流行しているように見受けられます・・。
こうした流行とは一体どのような現代社会の風潮により生じているのでしょうか・・?
ともあれ、これらの広告を見て思うことは「こうした近代を舞台としたドラマ、書籍とは、果たしてどの程度まで史実を考証して制作されているのであろうか?」ということです・・。
といいますのは、特に昨今の我が国における、こうしたいわゆる「歴史もの」とは、史実、時代考証に関しては出来る限り省略した流行に便乗したと思われるものが少なくないからです・・。
私はこれまで投稿したブログ記事にて記しているように、かねてより「歴史もの」全般が好きであり、そうした良い作品を観る、読むことが好きです。
その上で、昨今の我が国の「歴史もの」全般に認められる、こうした傾向(史実、時代考証の省略、簡略化)とは、その浅薄さに対し否応なく腹立たしく思い、同時に悲しくなります・・。
そして、それらは物語の背景を借景的に過去の時代を当て嵌めているだけではないかと考えさせられるのです。
しかしながら、こうした時代の借景現象とは、江戸時代の歌舞伎などにおいても見受けられ、その起源もまた、おそらくかなりの歴史的背景、伝統があるのではないかとも思われます。
つまり、こうしたことは、以前何度かブログ記事にて述べたような何も戦後、太平洋戦争の敗戦による歴史意識の挫折によるものではないということです。
そうしますと、では、なぜ学校などで学習する歴史と、それら「歴史もの」にて語られる歴史とは乖離していくのでしょうか・・?
おそらくそれは「歴史もの」一般とは、学校にて学ぶ歴史の勉強と根本的に異なる次元にあり、(創作者あるいは観客、読者が)好き勝手にその背景および内容をいじっても特に問題ないと考えられている、受け取られているからではないでしょうか・・?(日本のアニメ全般とは、概ねその延長であり、典型であると思われる。)
しかし、この点に関しては多少意固地になりますが、歴史とは見方、解釈においてはいくつもありますしょうが、本質的に史実は一つであると考えております(当たり前のハナシではありますが)。
ヴィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」
そして、そうした前提が根本において存在するがゆえに、歴史を扱う学問が人文社会科学の一分野として存立するのではないでしょうか?
とはいえ、こうした意見とは、社会全般においては圧倒的に少数派であり、どちらかというと肩身が狭いといっても良いと云えます。
それに対する圧倒的な多数派とは、その表面的な評価のコトバ(建前)はさておき、本音においては歴史、史実に対し日常生活にあまり影響を及ぼさない、取るに足らないものとして、あるいは、そこまで厳粛に受け取ることなく、単に短期的なネタとして楽しむことが出来れば良いものとして考えているのではないかと思われます・・。
あるいはこれに対し何か他の表現、表記方法があるのでしょうか・・?
もとい、それ故、結果的に時代毎にその時代の風潮(時代精神)に適応した歴史観といったものが流布、流行し、それが社会を染め上げていくのではないでしょうか・・?
そして、それもまた歴史ではあるのですが・・(苦笑)。
・・そのように考えてみますと、こうした歴史観とは、和辻哲郎著の「風土」に述べられているモンスーン地帯(我が国も含む)において特徴的な精神的傾向、思考様式に親和性があるのではないかと考えさせられます・・。
あるいはこうしたモンスーン地帯における特徴的な精神的傾向、思考様式とは会田雄次もまた、そのいくつかの著作において類似したことを述べていたように思います。
しかし、何れにせよ、私はこうした我が国の歴史観、そしてそれに基づいてさらに再生産される(浅薄、軽薄な)国民感情、世論といったものは、どのようなものであれ好きにはなれません・・。
そして、こうした意見を述べると、日本的でないとして「日本がキライならば出て行けば良い。」といった意見などをマジメにいうのを聞きますと、何ともいえない絶望感をおぼえます・・・。
なぜならば、少なくとも近代以降の我が国とは、おそらくこうした意見を持つ方々により国民感情、世論が形成されてきたということもまた、史実であると考えるがためです・・・。
しかし、そうであるからといって、それに対し迎合、付和雷同するのはダメであると思います・・。
私は日本がキライではないと思います。
日本がキライであれば、その歴史などに興味を持ちません。
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本を中心として発生した大地震により被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2016年9月22日木曜日
20160922 宙ぶらりん、保留・・疑問と葛藤そして創造について
A「これまでに投稿した記事は420を越え、また430にも近づいてきましたが、日常生活において特に大きな変化などは生じておりません・・。
それは、当たり前といえば当たり前ではあるのかもしれませんが、一方、これら記事を閲覧してくださっている方々がおられ、また昨日の記事に対してもそうであったのですが、投稿した記事に対して(時折かなり)興味深い反応が為されているのを見ますと、これまでの閲覧者数が国内外を合わせ15万人程度に到達したことにより、何かしらの出来事が生じても良いのではないかとも思われるのです・・(笑)。
いや、しかし、そうしたものは決して良いことばかりであるとも云えませんので、実際こうした静けさの方がブログ記事作成の継続においては望ましいのかもしれません・・。
とはいえ、それ以前に私に関しては、こうしたことに対し経験によって自身が定める「判断の基準」というものを未だに持っていないため、その良し悪しの判断とは、未だ保留、宙ぶらりん、棚上げ状態にしておこうと思います・・(笑)。
そして、そういったはっきりしない、煮え切らない状態とは、大抵の場合、どちらかといえば不愉快なものではないかと思われます・・。
しかしながら、実はそうした内面における解決出来ない疑問、あるいは葛藤といったものを飽くことなく、腐らせることなく平静のうちに問い続けることもまた、成熟というものの一つの要素ではないかとも思われます・・(・・果たして本当であろうか・・?)。
無論、様々な成熟の仕方があるとも思いますが・・。
ともあれ、こうした能動的ともいえる疑問、葛藤を持ち続ける姿勢から哲学そして様々な科学などが生まれ、発展していったのではないかとも思われます・・。
また、これは多くの科学者が述べられている「基礎科学が大事である。」ということの背景思想にも親和性を持つのではないかと思われます・・。
しかしながら、現在の我が国においては、表向きの評価はともかくも、日常我々が接するところの創造的な事物とは、貨幣を生むに都合の良さそうな既存フォームの表層を多少変形させたものをに対し、何かしら大げさなコトバをもって装飾しているものが多いのではないかと考えさせられるのです・・。
そして、こうしたことは社会における根源的な創造的な力(活力)が枯渇してきた時に多く見受けられる現象ではないかと私は思います・・。
私見としては、あまりカッコが良くなくとも、参考としたものは参考したものとしてその出典を明示し、そして、そこから先の自らの創造を為したと考える部分を提示するに留めた方が、健全であり、また未来における創造にも繋がるのではないかと思われるのです・・文章であれ芸術作品であれ。
また、これは、実際に自身がこれまでのブログ記事の作成を通じて、いみじくも痛感したことでもあります・・。
さて、ここまで記していて何故か不図思い起こしましたが、先日書店にて映画化もされた中上健次著「千年の愉楽」を立ち読みしましたが、ああした文体もまた人を引きつける何かがあり「実のところ、こちらの文体の方が本来の伝統に沿った日本語の用い方なのではなかろうか・・?」とも思われました。
この著作、映画をご存じない方は、好き嫌いが分かれるかもしれませんが、映画と共に是非一度観る、読んでみては如何でしょうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
それは、当たり前といえば当たり前ではあるのかもしれませんが、一方、これら記事を閲覧してくださっている方々がおられ、また昨日の記事に対してもそうであったのですが、投稿した記事に対して(時折かなり)興味深い反応が為されているのを見ますと、これまでの閲覧者数が国内外を合わせ15万人程度に到達したことにより、何かしらの出来事が生じても良いのではないかとも思われるのです・・(笑)。
いや、しかし、そうしたものは決して良いことばかりであるとも云えませんので、実際こうした静けさの方がブログ記事作成の継続においては望ましいのかもしれません・・。
とはいえ、それ以前に私に関しては、こうしたことに対し経験によって自身が定める「判断の基準」というものを未だに持っていないため、その良し悪しの判断とは、未だ保留、宙ぶらりん、棚上げ状態にしておこうと思います・・(笑)。
そして、そういったはっきりしない、煮え切らない状態とは、大抵の場合、どちらかといえば不愉快なものではないかと思われます・・。
しかしながら、実はそうした内面における解決出来ない疑問、あるいは葛藤といったものを飽くことなく、腐らせることなく平静のうちに問い続けることもまた、成熟というものの一つの要素ではないかとも思われます・・(・・果たして本当であろうか・・?)。
無論、様々な成熟の仕方があるとも思いますが・・。
ともあれ、こうした能動的ともいえる疑問、葛藤を持ち続ける姿勢から哲学そして様々な科学などが生まれ、発展していったのではないかとも思われます・・。
また、これは多くの科学者が述べられている「基礎科学が大事である。」ということの背景思想にも親和性を持つのではないかと思われます・・。
しかしながら、現在の我が国においては、表向きの評価はともかくも、日常我々が接するところの創造的な事物とは、貨幣を生むに都合の良さそうな既存フォームの表層を多少変形させたものをに対し、何かしら大げさなコトバをもって装飾しているものが多いのではないかと考えさせられるのです・・。
そして、こうしたことは社会における根源的な創造的な力(活力)が枯渇してきた時に多く見受けられる現象ではないかと私は思います・・。
私見としては、あまりカッコが良くなくとも、参考としたものは参考したものとしてその出典を明示し、そして、そこから先の自らの創造を為したと考える部分を提示するに留めた方が、健全であり、また未来における創造にも繋がるのではないかと思われるのです・・文章であれ芸術作品であれ。
また、これは、実際に自身がこれまでのブログ記事の作成を通じて、いみじくも痛感したことでもあります・・。
さて、ここまで記していて何故か不図思い起こしましたが、先日書店にて映画化もされた中上健次著「千年の愉楽」を立ち読みしましたが、ああした文体もまた人を引きつける何かがあり「実のところ、こちらの文体の方が本来の伝統に沿った日本語の用い方なのではなかろうか・・?」とも思われました。
この著作、映画をご存じない方は、好き嫌いが分かれるかもしれませんが、映画と共に是非一度観る、読んでみては如何でしょうか?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域における諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
20160921 スランプとパンチの効いた警世的なるもの・・・
A「先日よりどうもブログ記事の良い着想が思い浮かびません・・。
これは現在、季節の変わり目であるからか、あるいは先日赴いた公募の面接がダメであり、それにより何となく萎縮してしまったからであるか、あるいはまた、その他にも何か要因があるのかもしれませんが、ともかく、どうも良いブログ記事の着想がパッと思い浮かびません・・(苦笑)。
そして現在はそうした思いを文章として記せば、それはそれで、とりあえずは記事になるのではないかと考え、これを記している次第です・・。
そういえば、本日は仕事上にて伺ったある歯科医院にて、古くか続いている某歯科大学の付属歯科衛生士専門学校が、このたび短期大学として認可されたということを伺いました。
そして、さきほど、このことをインターネットにて調べてみたところ、それは既に公式なことであると記されていたため、ブログ記事の題材として記している次第です。
また、そういえば、先日記したブログ記事において、歯科衛生士の教育に関して記したものがありましたため、これもまた何となく面白く感じました・・(笑)。
あるいは本日伺った歯科医院の先生は、このかつて投稿した記事を読んで頂いていたのかもしれません・・(笑)。
しかし、そのように考えてみますと、こうしたことは私が思う以上に多くあるのかもしれません・・。
そして、単に私がそうしたことを認識していないだけであるのかもしれません・・(苦笑)。
しかしながら、ブログ記事を記し、その一方で日常生活にて、そうしたことを気にし出しますと、ますます自意識過剰となり、そして、さらにその後反転し、萎縮してしまい、自由にブログ記事を記すことが困難になってしまうのではないかという危惧が生じてきます・・(笑)。
また、それがなくとも、さきに記したように今現在どうもブログ記事作成においてスランプに近い状態であると思われますので、こうしたことは出来る限り考えない方が良いのかもしれません・・(笑)。
そして、そのようなことを認識してみますと、案外こうした公開を前提とする継続的なブログ記事の作成とは、高所における綱渡りに近いようなところがあるのかもしれません・・(苦笑)。
(フリードリヒ・ニーチェ著「ツァラトゥストラかく語りき」冒頭近く・・)
渡る場所を単に横幅が狭い場所での移動(前進)であると考えれば、特に恐怖も湧かないのかもしれませんが、それが高所であると認識することにより恐怖が湧いてくるといったような感じではないでしょうか・・(笑)?
そして、もし少なからずこうした(感情的な)要素がこれまでのブログ記事作成において良い方に作用してきたのであれば、少なくとも今現在までは、ブログ記事を書き続けるといった意味においては、どうにか上手くやってこれたのではないかと思われます・・(笑)。
そして、願わくは、今後しばらく(500記事程度迄)は、そうした状態(特に大きな反応がない)が続いてくれた方がありがたいと思います・・。
とはいえ、感情的な非難、批判、言いがかりとは、どのようなことをきっかけとしてでも、行うことは出来ると思われ、また、それに加え、おそらく私はそうしたことに対し強い耐性があるというわけではありませんので、繰り返すようではありますが、これまで通り、どちらかというと静かに見守って頂けた方がありがたいです。
読まれている皆様、どうぞよろしくお願いいたします・・。
さて、そうしたことを置いておいて、先日来より読んでおりました山田風太郎著「戦中派虫けら日記」を読了しました。
この著作は読了に至るまで大変短い期間であり、おそらく一週間程度であったのではないかと思われます・・。
また、この著作からも大変面白いと思われる記述が少なからずありましたので、今後、折を見て、それら記述を当ブログにて抜粋引用してみようと考えております・・。
そして、私見とはなりますが、ここ最近少なからず警世的な意味合い、あるいはそうした目的、意図を持った著作が刊行されているようですが、それらの著作と比べ、古書店にて(安価で程度の良いものが)購入することが出来る、山田風太郎著のこの時代(戦中戦後期)を扱った著作、あるいは、大岡昇平著の「俘虜記」、野上彌生子著「迷路」、大西巨人著「神聖喜劇」、そして山本七平著「私のなかの日本軍」などの方が、案外と普遍性のある、そしてパンチの効いた「警世的」なるものを明示してくれるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
これは現在、季節の変わり目であるからか、あるいは先日赴いた公募の面接がダメであり、それにより何となく萎縮してしまったからであるか、あるいはまた、その他にも何か要因があるのかもしれませんが、ともかく、どうも良いブログ記事の着想がパッと思い浮かびません・・(苦笑)。
そして現在はそうした思いを文章として記せば、それはそれで、とりあえずは記事になるのではないかと考え、これを記している次第です・・。
そういえば、本日は仕事上にて伺ったある歯科医院にて、古くか続いている某歯科大学の付属歯科衛生士専門学校が、このたび短期大学として認可されたということを伺いました。
そして、さきほど、このことをインターネットにて調べてみたところ、それは既に公式なことであると記されていたため、ブログ記事の題材として記している次第です。
また、そういえば、先日記したブログ記事において、歯科衛生士の教育に関して記したものがありましたため、これもまた何となく面白く感じました・・(笑)。
あるいは本日伺った歯科医院の先生は、このかつて投稿した記事を読んで頂いていたのかもしれません・・(笑)。
しかし、そのように考えてみますと、こうしたことは私が思う以上に多くあるのかもしれません・・。
そして、単に私がそうしたことを認識していないだけであるのかもしれません・・(苦笑)。
しかしながら、ブログ記事を記し、その一方で日常生活にて、そうしたことを気にし出しますと、ますます自意識過剰となり、そして、さらにその後反転し、萎縮してしまい、自由にブログ記事を記すことが困難になってしまうのではないかという危惧が生じてきます・・(笑)。
また、それがなくとも、さきに記したように今現在どうもブログ記事作成においてスランプに近い状態であると思われますので、こうしたことは出来る限り考えない方が良いのかもしれません・・(笑)。
そして、そのようなことを認識してみますと、案外こうした公開を前提とする継続的なブログ記事の作成とは、高所における綱渡りに近いようなところがあるのかもしれません・・(苦笑)。
(フリードリヒ・ニーチェ著「ツァラトゥストラかく語りき」冒頭近く・・)
渡る場所を単に横幅が狭い場所での移動(前進)であると考えれば、特に恐怖も湧かないのかもしれませんが、それが高所であると認識することにより恐怖が湧いてくるといったような感じではないでしょうか・・(笑)?
そして、もし少なからずこうした(感情的な)要素がこれまでのブログ記事作成において良い方に作用してきたのであれば、少なくとも今現在までは、ブログ記事を書き続けるといった意味においては、どうにか上手くやってこれたのではないかと思われます・・(笑)。
そして、願わくは、今後しばらく(500記事程度迄)は、そうした状態(特に大きな反応がない)が続いてくれた方がありがたいと思います・・。
とはいえ、感情的な非難、批判、言いがかりとは、どのようなことをきっかけとしてでも、行うことは出来ると思われ、また、それに加え、おそらく私はそうしたことに対し強い耐性があるというわけではありませんので、繰り返すようではありますが、これまで通り、どちらかというと静かに見守って頂けた方がありがたいです。
読まれている皆様、どうぞよろしくお願いいたします・・。
さて、そうしたことを置いておいて、先日来より読んでおりました山田風太郎著「戦中派虫けら日記」を読了しました。
この著作は読了に至るまで大変短い期間であり、おそらく一週間程度であったのではないかと思われます・・。
また、この著作からも大変面白いと思われる記述が少なからずありましたので、今後、折を見て、それら記述を当ブログにて抜粋引用してみようと考えております・・。
そして、私見とはなりますが、ここ最近少なからず警世的な意味合い、あるいはそうした目的、意図を持った著作が刊行されているようですが、それらの著作と比べ、古書店にて(安価で程度の良いものが)購入することが出来る、山田風太郎著のこの時代(戦中戦後期)を扱った著作、あるいは、大岡昇平著の「俘虜記」、野上彌生子著「迷路」、大西巨人著「神聖喜劇」、そして山本七平著「私のなかの日本軍」などの方が、案外と普遍性のある、そしてパンチの効いた「警世的」なるものを明示してくれるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」
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