2016年3月13日日曜日

20160313 温泉について・・

何故か私はこれまでに温泉のある場所に住むことが多かったです。

とはいえ、日本列島とは、火山と温泉が多い地域であるので、あまり深い意味はなさそうです。

私がはじめて入った温泉とは、おそらく祖父母の家があった伊豆のものであると思います。

この伊豆を含めた伊豆半島一帯とは、関東および他の隣接する地域と、属するプレート(地球表面を覆う岩盤)が異なり、また温泉も湧出することから、何となく、植生、風土も異なり一種独特の感じを受けます。

また、これと類似した感じを受けたのは南紀白浜であり、伊豆に比べて、さらに南方的要素を濃厚にしたような植生、風土でした。

南紀白浜に隣接する田辺市等を含めたこの地域一帯とは、本州にありながらも大変南国的な気候風土であり、さらに西日本、関西の文化圏にも連なっているという意味において、大変興味深い地域ではないかと思います。

また、おそらく熊野信仰などもそういった土壌により育まれていったのではないかと考えさせられます。

加えて、南紀においては万葉集に登場する歴史的人物の逸話も数多くあり、これは万葉の時代より南紀白浜温泉(牟婁湯)が人々に認知、愛好されていたことをしめします。

とはいえ、こうした逸話とは何も南紀白浜温泉のみに限らず、有馬温泉、別府温泉、道後温泉などにおいても同様に見出すことができます。

おそらく古代の人々は、こうした温泉に何かしら蘇生あるいは不老長寿の効能を認めたのではないかと思います。

そして、そうした生死観に連なる考えとは、その土地の葬送文化つまり古墳文化などに対しても何かしらの影響を与えているのではないかと思われます。

また、こうした温泉と古墳の関連で私が想起するのは砂蒸温泉で有名な鹿児島県指宿市にある弥次ヶ湯古墳であり、これは薩摩半島において、その存在が大変珍しい古墳であり、造営された時代は6世紀代とされていますが、その様式、背景文化等についての詳細はあまり知られていません。

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2016年3月12日土曜日

20160312 紀伊、和歌山の古墳について・・

昨日のブログにて述べた和歌山県和歌山市の岩橋千塚古墳群ですが、ここでの古墳造営期間は主に4世紀末~6世紀代を通じてであり、7世紀以降からは既存墳墓への追葬などは行われたようですが、新たな墳墓の造営は急速に行われなくなりました。

こうした古墳時代末期(7世紀~)における葬送文化の変化とは、6世紀半ばの朝鮮半島百済からの仏教伝来により大和国、畿内を中心に徐々に葬送観念そして文化に変化が生じたことによるものと考えられています。

一般的に古墳時代とは3世紀中葉から7世紀初頭までと区分されています。

また、それと同時にこの時代区分とは、地方、地域によって独特の傾向あるいは偏差(地域性)が見られます。

こうした傾向、偏差(地域性)を岩橋千塚古墳群にあてはめて考えてみますと、造営された墳墓の多くが、古墳時代中期以降~後期(5世紀後半~6世紀代)の期間に集中しているということが挙げられます。

また、それに加えて、造営された墳墓の主な造営様式が古墳時代後期を特徴付ける横穴式石室であることも挙げられます。

さらに加えて、ここでの横穴式石室の造営様式とは、朝鮮半島を経由して九州北部に定着した横穴式石室の墳墓が関西、近畿に東漸、定着した最初期に属するということもまた挙げられます。

しかし、それ以前においても古墳群自体は存在しており、奈良県橿原市の新沢千塚古墳群は4世紀~7世紀にかけて古墳造営が為され、その期間は岩橋千塚に若干先行しており、またその主流な墳墓造営様式は竪穴式石室となっています。

ともあれ、横穴式石室が主流である岩橋千塚古墳群とは、現在の我々から見て観察に適したものであるのではないかと思います。

また、この全古墳に対する横穴式石室の割合の高さとは、和歌山県、紀伊国全域の古墳全般についても同様の傾向が認められます。

しかしながら、こうした傾向とは、ある程度の古墳数を有する地域、都道府県内においても概ね共通するものであり、むしろ初期~中期の古墳が多い場所とは、何かしら特別な歴史的意味合いを持っているのではないかと考えさせられます。



2016年3月11日金曜日

20160311 都市に流れる川について

先日より求職活動にて、いくつかの地方都市(県庁所在地)に行ってきましたが、どの都市にも概ねその市街地に川が流れておりました。
現在の県庁所在地をはじめとする地方都市とは、古来より都市として栄えてきた場所が多いと思います。
そして、それらは、水運および水稲耕作を行う際において重要な水利、可耕平地が比較的得やすいという環境に因り、そのようになったものと考えられます。
しかし、こういったことは何も日本に限らず、世界の古くからの都市においても同様にいえるのではないかと思います。
ヘロドトスのコトバで「エジプトはナイルの賜物」というのがありますが、これをかりそめに和歌山県和歌山市に応用してみますと「岩橋千塚は紀ノ川の賜物」ということが出来るのではないかと思います(笑)。
また、鹿児島市においても市街地に幕末歴史モノに多く登場する甲突川が流れています。
私がはじめて、この「甲突川」という名前を知ったのは、おそらく西郷隆盛のマンガ、あるいは司馬遼太郎の小説からであったと思いますが、この「こうつきがわ」という音は、当時の私のとって、何かしらユニークなものとして認識されていました。
そしてこの「こうつきがわ」の由来を私なりに考えてみますと、もしかしたら国府津来川ではないだろうかと考えてみました・・。
昔の薩摩の国府とは別の場所にあったのですが、それと同時に現在の鹿児島市域内には、古代よりの集落の跡、古社などが多く見られることから、古来より甲突川河口流域とは、薩摩国における中心的な集落(都市)の一つであったことは確かです・・。
加えて、後代における中央朝廷の対隼人政策、具体的なものとして周辺諸国からの薩摩国への移住政策、あるいはさらに後代の平安末期、鎌倉時代における島津氏をはじめとする関東武士の入植などによる影響(文化の流入)があったのではないかとも考えさせられます・・。

参考となるコトバとして国府津(こうづ)

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2016年3月10日木曜日

20160310 これはツライです・・。

本日、公募等の選考結果が合計4件届きました。
それらの結果は全て不採用でした。

結果的には1件に採用されれば良いのですが、不採用を4件、同日に知るのはやはり辛いものです・・。

また、その内の1件は遠くまで面接に行ったものでした。
面接に行った結果、不採用となりますと、何か自分のより多くの部分を否定されたような感じを否応なく受けます・・。

ここまで、こうしたことが続くのであるならば、もしかしたら、私の人生とは、どこか間違っている(いた)のかもしれません・・。

とはいえ、来年度(4月)になるまでは、もう少し求職活動を継続してみようと思います・・。

このブログの更新も以前ほど頻繁にはならないと思います。
お読み頂いている方々には、大変申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。



2016年3月8日火曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.253-257より抜粋 20160308

「源氏物語」以後の平安朝物語の今日伝わらず、標題だけが知られているものは、およそ60ほどある(「源氏物語」以前およそ30.寺本直彦「散佚物語」、久松潜一編「日本文学史中古」至文堂、改訂版、1964、による)。今日読むことができるのは、その一割前後にすぎない。しかも先に挙げた主な作品のなかで、成立の年代の確かなものは、一つもない。年代について専門家の意見がおよそ一致しているのは、「狭衣物語」、「浜松中納言物語」、「夜の寝覚」が11世紀後半、「とりかへばや物語」と「堤中納言物語」の短編の大部分が12世紀(殊にその後半から13世紀初へかけての時期)に作られたらしいということだけである(「堤中納言物語」のなかの一篇が、小式部という伝記不明の女房によって、1055年に作られたとされるのは、唯一の例外だが、その一篇は重要な作品ではない)。
作者については、「狭衣物語」を受領の娘で六条院禖子内親王の宣旨女房(?~1092)の作とし、「浜松中納言物語」を菅原孝標の娘(「更科日記」の作者)の作とする説が有力である。「夜の寝覚」、「堤中納言物語」の大部分、「とりかへばや物語」については、全くわからない。たしかにこのような事情は、「源氏物語」以後の小説の変遷を正確に記述することを困難にする。しかし「源氏物語」(11世紀初)と、11世紀後半の一群と、おそらく12世紀後半とされる諸作を比較すると、そこには一定の発展の方向が認められる。第一、「源氏物語」の模倣。11世紀後半の現存の物語は、宮廷を中心とする貴族社会の恋愛小説であるという一般的な意味においてばかりではなく、「源氏物語」の特定の状況(人物間の関係と話の構造)を模倣しているという意味でも、伝統的である。完本を残さない「夜の寝覚」にさえ、その傾向ははっきりと窺えるが、「狭衣物語」の場合には、登場人物をそれぞれ「源氏物語」の藤壺・源氏・夕顔・葵・紫などにあてはめて考えることができる。
「浜松中納言物語」の場合にも、そのすじ書きは薫大将と宇治大君との関係に似る。
また主人公と唐の皇后との関係も、源氏と藤壺との姦通事件を思わせる。
このような「源氏物語」の直接の影響は、「堤中納言物語」や「とりかへばや物語」にはみられない。院政末期の貴族社会の背景が、「源氏物語」の時代、すなわち藤原氏権力の最盛期を遠ざかるに到ったからであろう。院政は権力の中心の二元化であり、その末期は宮廷外の力(大寺院、武士、地方豪族)が貴族権力を脅かしはじめた時期である。平安朝貴族文化の様式(魔術的および世俗的儀式、制度化された文芸・美術・閉鎖された社会の生活様式)は、12世紀末まで根本的には変わらなかったが、文化の求心的傾向(「栄華物語」と「大鏡」の道長中心主義に典型的である)は次第に失われ、現世即宮廷即浄土の楽天主義は、末法観の悲観主義に代られるようになったのである。したがって「源氏物語」的世界の恒久化が、作者の唯一の関心でありえなくなった。第二、「源氏物語」にみられる現実性の失われたこと、あるいは小説の想像的な面の極端な強調。それには二面があって、空想的で異常な状況を設定する傾向が一つ、話の構造を図式化し、しばしば左右相称の単純化(抽象化)にまで到る傾向がもう一つである。「狭衣物語」では、主人公が横笛を吹くと、天の使者が降りてくる。この挿話は「うつほ物語」の琴の奇蹟に似て、「源氏物語」の日常的世界からは遠い。「夜の寝覚」にも、奇蹟ではないが、空想的で到底ありそうもない話が絡む。しかし架空の話があまりにも現実を離れて、馬鹿馬鹿しい夢物語と化したのは、「浜松中納言物語」である。その舞台は日中両国にわたる。唐の皇后は、唐の遣日使と日本の女との間に生まれた女であり、その息子(第三皇子)は、主人公(中納言)の亡くなった父の生まれ代わりである。皇后は一度死んで天に生まれ代わり、もう一度生れ代って、日本の異父妹の子供となる。生れ代りの情報は、主人公が夢のなかで知る。このように途方もない背景に対して、薫と宇治大君、源氏と藤壺に酷似した関係が語られているが、「源氏物語」の場合のように、その人物の心理の微妙な動きは描かれない。父親の生れ代りのシナ人少年に出会ったときの主人公の心理を、細かく想像することは、そもそも似た状況が現実にない以上困難であろう。心理的な陰影の描写の代りに、儒教道徳による通俗的説明(主人公の父に対する孝心)が前面に押しだされているのは、そのためである。
またたとえば、自由自在に生れ代る皇后の恋心も、藤壺の場合とはちがって、単純な月並み解釈以外のものではありえない。けだし人間は自由自在に生れ代ることができないから、恋をするのであり、恋心のあらゆる複雑さと切なさとが生じるのであろうからだ。
「源氏物語」の背景の現実性のと心理小説としての洗練との間には、あきらかに密接な関係があった。背景の現実性を捨てたときに、「源氏物語」以後の小説は、当然心理描写の妙味をも捨てざるをえなかったのである。奇抜で非現実的な状況におかれた「浜松中納言物語」の人物は、作者が恣意的に操る木偶にすぎない。そういう傾向は、話の構造の図式化にもあらわれている。図式化のもっとも典型的な例は、誤って目的の女とは別の女と契るという趣向である。たとえば「夜の寝覚」の姉妹の妹(中君)と主人公との関係。また「堤中納言物語」の娘とその祖母の尼とのとりちがえ(「花折る少将」)や二人の少将がそれぞれの恋人である姉妹をとりちがえる話(「思はぬ方にとまりする少将」)。この最後の例は、左右相称的な構造を示す。このような話のなかで、登場人物は、いずれも彼ら自身の内的な世界をもたず、作者のさす将棋の駒のような存在にすぎない。しかし「堤中納言物語」の場合には、そうすることで、しばしば滑稽な効果を生じ、「パロディー」にさえも近づくことがある。(そのことには、次に触れる)。「とりかへばや物語」の話も、図式的である。男に二人の妻あり、一方は男子を生み、他方は女子を生む。男子は女性的で、女として結婚し、女子は男性的で、男として出世する。男子と結婚の相手の男、女子と彼女が(男として)仕える春宮(女)―、男と男、女と女の二組ができて、そこに宮の宰相という一人の遊蕩児が絡んで、話が展開するのである。人物の性格は、はっきりしない。
その心理的反応は月並みであって、そこに何らの発見がない。
その代りそこには空想的な状況から生じる倒錯的な性的刺激がある(そのことには、次に触れる)。要するに平安朝貴族社会は、10世紀後半に、「うつほ物語」によって長編小説の形式を、「落窪物語」によって日常的現実主義を、「かげろふ日記」によって内省的心理主義を発見し、11世紀初に「源氏物語」によってそれを綜合し、見事な小説的世界をつくりあげた後、11世紀後半から12世紀末まで、何ら重要な発見をつけ加えることなく、頽廃していったということができる。しかし例外があり、それが「源氏物語」以後の物語の獲得した一種の滑稽味と、倒錯的な刺戟であった。
日本文学史序説〈上〉
ISBN-10: 4480084878
ISBN-13: 978-4480084873
加藤周一

 

2016年3月7日月曜日

20160307 コトダマについての雑談 Genius

A「つい先日より若干求職活動が慌しくなり、今後しばらくはブログ記事の更新が断続的になると思います。」


B「はあ、何か動きが出てきましたか・・。

それは良かったですね、また何か新たな動きなどがありましたら御連絡ください。」


A「ええ、そうさせていただきます・・。

それでハナシは変わりますが、昨日Cさんから電話がありました。
電話の話題は特段大きなものではありませんでした。
また、Cさんからの電話は時折あるのですが、それが昨日(20160306)であるということがどうも面白かったのです・・(笑)。」


B「はああ、昨日Cさんから電話があったのですか、それは何だか面白い偶然ですね(笑)。

それでCさんはお元気そうでしたか?」


A「ええ、多少風邪気味とのことでしたが、話すのが辛いという感じは受けませんでした。

とはいえ、そういった偶然があるということは何だか面白いですね・・。
ああいったことは一体何故、生じるのでしょうか?」


B「・・そういった偶然の原因とはよくわかりませんが、心理学者のフロイトあるいはユングが「集合的無意識」といったことを述べていましたが、何かしらそういったことと関連があるのかもしれませんね・・。

また、本当にその「集合的無意識」といった概念?が存在、在るのならば、現在Aさんが書き続けているブログにも何かしら、それを構成する、あるいは刺激する要素となっているのかもしれませんね・・(笑)。
そして、それ故、ブログの記事などにあまりキワドイ、カゲキなことを書かない方がいいのかもしれません・・。
それに加えて、さきほどの集合的無意識と同様、それが実際に存在、在るかどうか分かりませんが、我が国に古くからある言霊(コトダマ)とは、現在のインターネットをはじめとする情報技術の進化発展に伴い、巷にコトバが氾濫するようになり、それが我々の精神、心の無意識に近い層に影響を与えるようになりますと、この言霊により、何かしら好ましからぬ現象が生じることがあるのではないかとも思います・・。
そして昔の日本人とは、言葉を軽々しく扱うことに対して畏怖の念を持っていたことから、コトバには言霊があるとして畏れ敬ってきたのではないかと思います・・。
その意味において、現在とは、完全にそういった意味での底が抜けた、調節するものの存在、権威がなくなり、何でも基本的に「言いたい放題」の状態になっているのではないかと思います・・(苦笑)。
とはいえ、言論の自由が侵されるのもまた問題ではありますが・・。
その意味ではハナシは言論だけの問題ではなくなったことが問題なのではないでしょうか?」


A「・・はあ、何だか多少普段のBさんらしからぬ迷信的な感じもしましたが、それでも「集合的無意識」と「言霊」を類似あるいは関連のあるものとして述べられたことは大変面白く、興味深いと思います。

多分、我々人間一般の精神、心の無意識の層には、コトバ、言語により形成、成立している概念、思想などは存在しないのではないかと思います・・。
そして、「集合的無意識」とは、文字通りこの層に属しているのではないかと思います・・。
また、そこからさらに通常の意識、顕在意識というのですかね?の層に近づくにつれて、徐々にコトバ、言語によって概念、思想などが形成、成立されるようになってきます・・。
そして「言霊」とはおそらく、この言語、コトバにより形成、成立される層において、原初に近い部分にて生じた概念、思想ではないかと思います・・。
そのように考えますと、無意識から意識にかけての我々一人一人の精神、心の構造とは、そのまま我々人類の文明の進化発展に対応しており、そうしたことをアタマのみならず心身で知るということが、本当の意味での歴史を知るということではないかと思うのです・・(笑)。
ああ、何だか今度は私の方が迷信じみたことをいってしまいました・・(苦笑)。
それでも、こうしたことは小林秀雄やコンラッドも述べていますから、まあ、迷信というには過分に普遍性があるのではないかと思います・・(笑)。」


B「我々の心、精神の中に人類の歴史そのもの歴史があるということですね・・。

たしかにそうした考えは私も理解できます。
しかし、現在の特に我が国の社会傾向を見てみますと、どうもそうしたことを考慮外に置いている、あるいはわざと無視しているのではないかと考えさせられることがあります・・。
我々日本人とは極端に此岸的、現世志向的であるとはよく聞きますが、その意味において、歴史とは極端に此岸的、現世志向的な学問であるはずなのですが、
一体何故このようになってしまうのでしょうか・・?」


A「ええ、仰ることは大変よくわかりますが、そうしたことも漸進的に進化、改良してゆく以外にないと思います・・。

また、私がブログにて主張する内容が正しいかどうか正直よくわかりませんが、それでも、私は自身のブログを通じ、そうした言説を発信し続けることには、何かしら意味があるのではないかと考えています・・(笑)。
また、そのようにたとえ断続的になっても、何らかの形で発信し続けることが大事であるのではないでしょうか・・?」

2016年3月6日日曜日

20160306 ブログの閲覧者数から・・

A「最近のBさんのブログの閲覧者数はどうなっていますか?」

B「ええ、お陰様であれから特に大きな変動もなく、大体1日300~500人程度で落ち着いています。とはいえ、やはり以前に比べて閲覧者数が増加したことから、記事を書く際に多少緊張しているのではないかと思います・・(苦笑)。それでも、どうにか記事を書き続けることが出来ているのは、このブログ記事の作成によって、何かしら心の安定を得ているからではないかと思います・・。また、その意味においては、やはり、さきほどの閲覧者がいらっしゃるということは、大きな励みにはなっているのですが・・。それに加えて、純粋にブログ記事の作成が楽しいといった側面もあり、今現在、こうした便利な発信形式が存在することはありがたいかぎりです(笑)。」

A「まあ何でもプラス、マイナスの側面があると思いますよ・・(笑)。ともあれ、最近のBさんのブログを読みますと、また考古学、古代史の資料、書籍へ興味の方向がスライドしているのですか?」

B「・・ええ、まあ何となくではありますが、最近はまた日本古代史関連の書籍が面白くなってきた感じがします。そして、こうした書籍が面白くなってきますと、今度はそれらに示されている遺跡、古墳などを実際に見たくなるのです・・(笑)。また、こうした自身の傾向を考えてみますと、どうも私は暖かくなってくると、遺跡、古墳などを見たくなる傾向、性質があるのかもしれません・・(笑)。これまでに遺跡、古墳を見聞した際に記した日記、撮影した写真などを見てみますと、面白いことに、それらは全て3月~10月に集中しているのです。そうしますと、このこととさきほどの読書傾向の変化とは、どうも連動しているのではないかと思うのです・・(笑)。」
A「ほう・・それはなかなか面白いですね(笑)。また、それで私が今、不図思い出したのは、アメリカでは個人が季節毎で所属する運動部、部活が異なるということが普通であるということです。これは、もしかしたらさきほどのBさんのハナシと関連、類似する要素があるかもしれませんね・・。」

B「ああ、そのことは私も以前どこかで聞いたことがあります。しかし、現在はわかりませんが、私が所属していた頃の運動部、部活とは、一般的な傾向として、そのような季節毎に所属が変わるということは難しかったように思います。また、こうしたことは、何も所属する運動部、部活に限らず、おそらく我が国のこれまでの労働環境、会社組織等にも何か関係、関連があるのかもしれません・・。しかし、そうであるからといって、日本も季節、年度毎に仕事を変えた方がいいというわけではありませんが・・。これはおそらく、そういった環境のさらに基層にある文化に何かしらの原因があるのではないかと思います・・。そして、そうしたことを理解、把握しないで、表層的に制度のみを変革することは、後になって何らかの反動、しっぺ返しがくる可能性が高いのではないかと思うことがあります・・。」

A「・・まあ、たしかに我が国の組織などに属する個人とは、一般的に強くその組織に組み込まれる傾向がありますからね・・。もしかしたら、それは定住型水稲耕作社会の特徴であるのかもしれません・・。そして、そうした組織とは、日常自転的な業務、行動を為す場合においては、確固、堅牢としたものなのでしょうが、何か未知の事態に遭遇し、それに対し的確に対応しなければならない必要性が生じると、何だか大変なことになってしまう傾向があるのではないかと思います・・。そうした具体例として19世紀の相次ぐ外国船の来航に対する徳川幕閣の内外への施策、対応、戦間期から太平洋戦争敗戦に至るまでの大日本帝国政府の施策、対応などが挙げられるのではないでしょうか?しかし、そうであるからといって、私もさきほどのアメリカの運動部、部活の制度が全面的にいいというわけではありませんが・・。ただ、大事なことは、様々な内外の歴史、文化の知見に基づいてキチンと考えてゆく姿勢ではないかと私は思います・・。その意味において、現在の様々な勉強ブームとは、どうも皮相的に見えてしまい、どうもコトバばかりが躍っているように思えてしまうことが多くあります・・。とはいえ、そうしたこともまた大事であるのかもしれませんが、我が国においては、何でもビジネス、仕事のタネになればそれでいいと思い、またその後、それのみに焦点を合わせてゆくような傾向があるのではないかと思います。また、こうしたことは、何も我が国の歴史、文化を専門に学ばなくとも、ある程度の知見を積めば、そうした傾向は見えてくるのではないかと思うのですが・・。また、おそらくそうしたことは、昨今のインターネットをはじめとする情報技術の進化発展に伴い、我々日本人よりも海外の我が国について調査、研究している組織、人々の方が好悪の感情に振り回されることなく、冷静沈着に見て、判断しているのではないかと思います・・。そして、そういった意味において、我々日本人は、国際的な意味での優等生病にならず、様々な歴史、文化についての知見を能動的、自発的に広めた方がいいと思うのですが・・。また、もちろん、さきほどの情報技術の進化発展により、我が国も大きく影響を受けており、それにより、特に若年層において、既存の帰属組織への組み込まれの程度が弱くなってきているのではないかと思います。そして、そういったことに対して、基本的に、国家、公権力は介入出来ません。それ故、我々は個人として、否応なく、こうした状況の現代社会に対して適切に対応することが必然的に求められてしまうのではないでしょうか?また、こうしたことは、テレビなどにおける言説、様々な雑誌の見出し、そして書籍などの宣伝広告といった表層的、皮相的な言語のさらに下、基層にある層の変化、進化のようなものが必要なのではないでしょうか?しかし、そうであるからといって、そうした変化、進化を促す要素として外圧があるというような意見に対しては、感情レベルではありますが、どうも承服しかねるのです・・(苦笑)。」

B「・・ええ、仰ることは大体理解できます。しかしまた、こうした議論も福沢諭吉の「文明論之概略」あるいは夏目漱石の「現代日本の開化」などの時代から、あまり変化していないように思います。そのように考えると、現在のこの勉強ブームには、一体どのようなオチがあるのかは多少気になるところです・・。ただ、こうした勉強ブームといったものには、過緊張の傾向があるように思います。そして過緊張にはおそらく反動のようなものがあると思いますので、それがどのような形であらわれるのかもまた、同様に気になるところです・・。しかし、何れにせよ、歴史、文化を蔑ろにしたり、何かのリアクションとして、あるいは機会主義的に価値あるもののように扱うことは、長い目で見るとかなり危険なことなのではないかと思います。また、これは自分に対する戒めでもあります・・(苦笑)。」

一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。