2025年2月11日火曜日

20250210 歴史の記号接地について ~建国記念の日に寄せて~

 我々は歴史を「事実」として学ぶ。しかしまた、歴史とは新たな資料の発見によって解釈が変わり得るものでもあり、その意味で、固定的なものではない。他方、フィクションでは、それが一度確立されれば、その物語(フィクション)内部では「事実」として扱われる。この対比は、歴史が新たな発見や研究の進展によって可変的であるのに対し、フィクションの世界での事実は確定的であるという逆説を示している。

 たとえば、源義経は兄頼朝に追われ奥州に逃れた後、攻められて自害したとされている。しかしながら、義経が生き延びて大陸に渡りチンギス・ハーンになったという伝説もまた根強い。このように、歴史的に事実とされることは、新たな発見により覆る可能性がある。他方、夏目漱石による『吾輩は猫である』の主人公の猫が最後に溺死するという結末は、いかなる新資料が発見されたとしても変わることはない。つまり、歴史は新たな発見によって変化する可能性を持つが、フィクションの内部においては、事実は物語の枠組みの中で確定されていると云えよう。

 このことを踏まえると、我々が持つ歴史に関する知識とは、直接経験されたものではなく、さまざまな史料や文献を通じて獲得されたものであると云える。そして、この問題は「記号接地問題(Symbol Grounding Problem)」とも深く関連するものであり、歴史に関する知識が現実と、どのように結びついているのか、という根本的な問いを惹起させる。たとえば、人工知能(AI)は「春に桜は咲く」と表現することは可能であるが、それは過去のデータを統計的に分析した結果に過ぎず、AIが実際に桜を見たり、その香りを感じたりした経験を持つわけではない。そして、それと同様に、我々の歴史理解も直接経験に基づくものではなく、過去の研究の知見が積み重ねられた結果として形成されるものであるため、その接地の確実性には常に疑問が残る。

 他方で、フィクションにおいては、このような問題は生じない。物語や小説に登場する人物の役回りは一貫しており、揺らぐことがない。たとえば、『桃太郎』に登場する鬼は、どのバージョンであっても、主人公である桃太郎に退治される存在として描かれる。これは、歴史上の事実が新たな発見によって変わり得るのに対し、フィクションの世界における「事実」は一貫しているという興味深い違いを示している。そして、この歴史的事実の可変性とフィクション内における事実の確定性の対比を前提として検討することにより、我々日本人の歴史意識の特徴が理解できるのではないかと考える。

 しばしば「日本人は歴史意識が希薄である」と指摘される。しかし一方で、我が国の歴史学は世界的に見ても決して水準の低いものではなく、また、膨大な研究成果が蓄積されている。それにもかかわらず、何故、我々日本人の歴史意識が希薄であると指摘されるのか、それは、学術的な歴史研究とは別の、社会全般における歴史意識のあり方があるのではないかと考える。

 つまり、我が国においては、歴史に関する研究はそれなりに盛んであるものの、社会全般においては「歴史を現在の社会や自己の存在と結びつける意識」が希薄と云えるのではないだろうか?

 折口信夫は、「日本人は歴史観の上に生きることの強い国民である」と述べたが、これは戦前の教育において、国家から歴史と国家の一体性が強調され、歴史的な枠組みの中で個人の行動や思考を位置づけることが求められたためであると考えられる。しかし、そうした(上からの)価値観が敗戦により崩壊した戦後日本社会では、自らの歴史を「過去のもの」として隔離して、現代社会との結びつきを意識することが少なくなった。そして、この変化こそが「日本人は歴史意識が薄い」と指摘される主な理由であると考えられる。

 くわえて、我々日本人の歴史意識には独特な側面もある。それは、歴史的事実よりも「伝承」や「物語」としての歴史が重視されるという点である。源義経の生存説などの事例が示すように、史実の精確さよりも、そこに込められたある種の精神性や象徴性が強調される傾向がある。こうした歴史観は、学問的な歴史とは異なり、「擬歴史意識(Quasi-history)」とも呼び得る。

 そこから、我が国における(擬)歴史意識は、学問的な知識としての歴史とは異なる形で、文化や社会に深く根付いているものと云える。あるいは異言すると、歴史を史実の集積の体系として捉えるのではなく、その中に込められた特殊な意味や価値を重視する傾向があるため、新規の発見の有無に係らず、別様の再解釈がされ続ける。こうした現象から、我が国の日常的な
(擬)歴史意識においては、体系立った史実よりも、ある出来事や人物に込められた象徴的な意味の方がより重視されることが示されるのではないかと考えられる。

 また、我が国では歴史の因果関係を体系的に捉えるよりも、個々の出来事や人物を独立した象徴として扱う傾向もある。たとえば、昨今では異論もあるが、それでも西洋社会では、フランス革命が「社会の変革と進歩の歴史」として語られるのに対し、我が国では「忠臣蔵」が「武士道の美学」として語られるように、歴史を社会変遷のプロセスではなく、精神的あるいは道徳的な教訓として捉える姿勢が見受けられる。

 こうして考えると我が国の歴史意識のあり方は、記号接地の観点からも説明することができると考える。我が国において歴史とは、客観的な事実としてではなく、文化的・精神的な象徴として受け入れられる傾向があると云える。これは、事実としての長い因果関係のなかでの出来事よりも、社会の中で意味を持つ「記号」として機能していることを示している

 たとえば、織田信長は歴史上で評価が分かれる人物であるにもかかわらず、フィクションの世界では「革新的な英雄」としてのイメージが確立されている。このような現象は、我が国において歴史的人物や出来事が、事実そのものというよりも、文化的な「記号」として機能していることを示唆している。そして、こうした記号の接地とは、歴史学の発展とは別の系で社会的・文化的な文脈の中で維持され続けていると云える。

 そして、我々が歴史を学ぶ際には、こうした我が国(特有?)の記号接地のあり方を理解することが重要である。つまり史実そのものを検証するだけでなく、歴史がどのように社会の中で意味づけられ、機能しているのかを問い続けることが求められる。つまり、歴史とは、単なる史実の集積ではなく、それが、我々の文化の中でどのように接(地)されて、どのような価値を持ち続けているのかを考えることもまた、歴史を学ぶ一つの大きな意味であると考える。

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2025年2月7日金曜日

20250206 既投稿記事からの発見と、ブログ記事作成への影響について

 ここ1週間は所用のため外に出ることが多く、また本日も外出していたことから、休息をとった実感がありません。他方、当ブログについては、直近の投稿が2月1日であることから、もう新規作成をした方が良いと考え、多少疲れは残っているものの、作成を始めた次第です。さて、直近の投稿記事でChatGPTについて触れ、現在も度々運用していますが、そのなかで、複数の既投稿ブログ記事を加工して、新たなブログ記事の作成を試みており、そして、その加工途中の文章が当ブロガーでの下書きに200記事ほどありますが、これらも多くなってきました…。そのため、時折、それら下書きの一つを開き、目を通してみますと、また作成時とは異なった視座から眺めることが出来て、新たな発見などもありますので、読むにしても、自ら作成するにしても、その文章を何度か、時間をおき、読み返してみるのが良いと考えます。そして、昨今、ブログを継続していて思うことは、当初は作成した自分の文章を読むのがとても嫌いでしたが、ここ最近は、記事の作成頻度を落としたためであるのか、既投稿記事を読むことが、そこまで苦ではなくなってきたことです。そしてまた、面白いことに、かつての投稿記事の稚拙な作成文章から、新たな記事作成のヒントを得ることも度々あったことから、以前では、あまり進んでは開こうとはしなかった過去の投稿記事を開き、さらには、さきに述べたようにChatGPTによる加工も行っています。これはある種、自らの作成した文章を対自化するという意味もあると考えられることから、今後も継続したいです。そして、こうした経緯で、既投稿記事をいくらか開いてみますと、どうしたわけか、それらは紀州和歌山に関連する主題の記事が多く、そこから、当ブログを始めた経緯も和歌山にあったことが思い出されました。和歌山といっても、当初に在住したのは市内ではなく、県南部の西牟婁郡白浜町であり、その初めての南国的とも云える温暖な気候風土のもとで感覚が多少変容して、そこから同県和歌山市にある大学院修士課程に進みましたが、こちらでは、以前にも述べましたが、それまでとは桁違いに、さまざまな書籍を読みました。そうして、読書や文章・資料の作成などをしばらく継続していますと、またやがて感覚に変化が生じ、これまでとは異なる、もう少し内容が緻密そうな著作を読むことが出来るようになったり、あるいは、地域の歴史や文化や民俗などについての著作を読んでいますと、突如、訪れるように、地域の歴史文化を語る際の枠組みが思い付いたりするのですが、そうした枠組みとは、多くの場合、小説など物語での記述がベースにあったと云えます。そして、そのことが比較的強く想起されたのは、過日、20250103作成の「立ち読みと集中力から ~意識の変容について~」を読み返していた時であり、その想起した内容につきましては、また近い別の機会に、ブログ記事として作成・投稿したいと考えています。

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2025年2月2日日曜日

20250201 2312記事に到達して振り返って思うこと

 ここ4日間、ブログの更新をしませんでしたが、直近、1/27の引用記事の投稿によって総投稿記事数が2312に到達していました。これは特に区切りの良い数値ではありませんが、昨年末頃から、投稿記事数を気にしていなかったことから、ここで認識を新たにして、投稿記事数の経過を考えてみますと、当ブログを開始から3年目の2018年に1000記事まで到達し、そこから約5年後の2023年に2000記事にまで至り、投稿頻度は当初ほどではなくなったものの、その後、さらに300記事ほど新規で投稿してきました。また、ここ最近では、人口知能のChatGPT(無課金)を用いた記事作成も並行しており、これについては、以前より(どうにか)慣れてきた感があり、あるいは記事の種類・主題によっては、ChatGPTを用いた方が、速やかに良い記事を作成することが出来るのではないかと考えています。そして、こうした感覚は、これまで自らの文章によって継続的にブログ記事を作成してきたことから、ある種、新鮮なものとして感じることが出来るのではないかと考えます。そしてまた、この経験があることから、ChatGPTの運用についても、かなり稚拙ではあるものの、どうにか慣れつつあるのではないかと思われます。40代半ばを過ぎて、こうした新たな技術に触れて、使いこなすことは、ポンコツである私にとっては容易なことではありません...(苦笑)。しかし、それでも少しずつ自らの進歩を感じることができるのは、やはり挑戦し続けてきたからであると考えます。これまでの人生の中で、新たな挑戦をする際には、自らの限界と向き合わざるを得ませんでした…。若い頃であれば、それが当然であるとも感じられるのでしょうが、歳を重ねると、それは徐々に困難になっていくものと感じられます。それ故、ChatGPTのような新たな「抽象的な道具」を、緩慢ながらも徐々に用いることが出来るようになっているという自覚(実は錯覚かもしれませんが...。)は、現在の私にとってはなかなか貴重なものであると云えます。

 さて、そうした経緯で、ChatGPTをブログ記事作成に援用し始めてから1年以上経過しました。そして、その多くで、何らかの試行錯誤をしてきたと云えますが、たとえば、初期の頃は、自分の表現したいと思う意味と、生成された文章のそれが異なると感じられることが多かったですが、その後、先方(ChatGPT)がさらに賢くなったこともあるのか、あるいは私が慣れてきたのか、自らの文章化したい意味に近い文章を徐々に生成することが出来るようになってきました。しかしその一方で、習熟(?)に伴い、自らの文章について考えさせられることも度々ありました。そしてまたChatGPTが生成した文章と自らの作成した文章とを比較してみますと、こうした文章からもご理解頂ける通り、私の作成する文章には機械的とも云える合理性や効率性が乏しく、そして、それこそが、文章上での私の個性、すなわち「文体」であるのでないかと思われるのです。そして、そうしたことから、今後、さらにChatGPTなどの人工知能に関する技術が進化発展して、たとえ、それをより多く用いるようになっても、自分で文章を作成することが重要であり続けるのではないかと考えます。

 振り返ってみますと、当ブログ開始当初の頃(2015年)の私は、まさかChatGPTのような人工知能を用いてブログ記事の作成をする日が来るとは、全く予測していませんでした。当時はただ、自分の思いや考えなどの「モヤモヤ」を文章化して、心身の健全化をはかることが主目的であったと云えます。そして、この文章化を継続することが出来た期間が3年間程であり、その後は、その3年の継続で培った、ある種原始的な方法論によって、さらに継続して現在に至っていると云えます。そして、2020年からは旧ツイッター(エックス)の運用も始め、以前よりもさらに、自分の作成した文章が人目につく機会が多くなり、そこから、プレッシャーのようなものを感じましたが、しかし、このプレッシャーがあるからこそ、緊張感を保ちつつ、文章の作成が出来るのではないかとも思われ、そして、それが日常化することが、変化後の状態の恒常化、すなわち上達と云えるのではないかとも思われます。そして、そうしたことを考えますと、ある程度、公表するものとしての緊張感を保ちつつ、自らの文章を作成することが(どうにか)出来るようになったという自覚を得た後に、ChatGPTなどの人工知能が我が国に現われ、汎用化したことは、少なからず幸運であったのではないかと思われました。

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2025年1月27日月曜日

20250127 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳 「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻 pp.280-282より抜粋

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳
「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻
pp.280-282より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504644
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504649

難破船とグリーンランドの氷床スコアを利用すれば、初期ローマの経済的拡大を追跡できたのと同じように、その衰退も追跡できる。500年までに、ピーク時に180隻あった難破船は30隻まで減少していた。ローマが衰退すると地中海貿易はすたれた。ローマ時代のレベルに戻るのは、19世紀になってからのことだと主張する学者さえいる。グリーンランドの氷床からも似たような状況が読み取れる。ローマ人は銀でコインを鋳造し、鉛を用いてパイプや卓上食器類といったさまざまなものをつくった。氷床に堆積した鉛、銀、銅の量は、1世紀にピークを迎えたあとで減少したのだ。

 ローマ共和国時代の経済成長の経験は、ソ連のような収奪的制度のもとでの成長事例と同じく、印象深いものだった。だが、包括的な一面を持つ制度のもとで起こったことを考慮しても、その成長は限られたものであり、持続しなかった。成長を支えていたのは、比較的高い農業生産性、属州からの相当な貢ぎ物、遠距離貿易などだったが、裏付けとなる技術的進歩や創造的破壊が欠けていたのだ。ローマ人はいくつかの基本的なテクノロジー、すなわち鉄製の道具や武器、読み書きの技能、鋤を使った農業、建築技術などを受け継いでいた。共和国の初期にはそれ以外のものを生み出した。たとえば、セメントを使った石造建築、ポンプ、水車などだ。だがそれ以降、ローマ帝国時代を通じてテクノロジーは停滞した。たとえば海運業では、船の設計や索具装置にほとんど変化はなかったし、ローマ人がオールによる操船術の代わりに船尾舵を開発することは決してなかった。水車の普及は遅々としていたため、水力がローマの経済に革命を起こすこともありえなかった。水道橋や都市下水路といった偉業でさえ、完成させたのはローマ人だが、既存のテクノロジーに頼りある程度の経済成長は可能だったが、それは創造的破壊の伴わない成長だった。こうした成長は長続きしなかった。財産権がさらに不安定になり、市民の経済的権利が政治的権利の後を追うように縮小すると、経済的成長も同じように縮小したのだ。

 ローマ時代の新しいテクノロジーに関して注目すべきことは、その創造と普及が国家によって推進されたらしいことだ。これは善いニュースだ。ただし、政府が技術的発展に与しないと決めるまではー創造的破壊への恐怖のせいで、こうした事態はありふれているのだ。

20250126 知的探求の足場としての読書

つい先日、中央公論新社刊 竹中亨著『大学改革』を書店で立ち読みしたところ、大変興味深く思われたたため購入し、現在読み進めています。おそらく、ウェブ上にもあると思われますが、当著作の視座で興味深いところは、比較対象とする大学をアメリカ合衆国ではなく、ドイツ連邦共和国とした点と云えます。そして、文中にある、その理由についての記述も妥当であると考えたことから、さらに読み進めている次第です。

  斯様に、現在もいくつかの新書や既読の著作を読んでいますが、冬も深まり寒さのために活性が落ちているのか、これまで、また新たに「それなりにヘビーな著作を読んでみよう」と思うことはありません。しかし、例年、暖かくなってきますと再び読書意欲も活性化しますので、特にあわてる必要はないと考えています。

 とはいえ、昨今の読書について振り返りますと、以前にも述べたことがありますが、SNS(X)上の情報から購入した著作が多くなり、SNS使用以前(~2020年)のように、書店での立ち読みから購入に至るケースが減ったと実感しています。そして、そうした書籍選択時の行動の変化によるものなのか、ここ数年は国際情勢の変動に関連した著作を読む機会が多くありました。これらの著作は勉強になり良かったのですが、同時にやはり、そうした読書は少し疲労を感じることもあります。

 端的に云えば、ある程度慣れた分野の著作であれば読む際にそれほどストレスを感じませんが、新たな分野の著作を読む場合は、その分野特有の言語に慣れるまで少なからずストレスを感じるものです。これは、近年読んだ中東・東欧を扱った著作の読書の際に度々感じました。しかし一方で、その中に既知の事柄(近現代史上の重要な出来事など)が含まれていると興味が持ち直されて、さらに読み進める意欲が湧いてくるのです。その意味で、ストレスが多い新たな分野での読書の中に、ある程度知っていると自覚できる要素があることは、その書籍を読み進める際に、ある種、理解の足場となるのではないかと考えます。

 その意味において、読書という文字体験には、口語やマンガのような表現形態とは異なる種類の影響が精神にあり、それらの影響の蓄積と個々の相互反応が議論となり、さらに統合されて文章となり、学術的な洗練を経て論文などへと昇華されるのではないかと考えます。その意味から、諸学の基盤としての読書、すなわち、書籍を読み、その意味や内容を文章や図などを通じて理解し、実地での検証を試みるまでの行為の中には、人間の知性にとってきわめて重要なものが含まれていると考えます。そしてまた、そうであるからこそ、幕末期に大阪の著名な蘭学塾である適塾出身の方々が、当時のさまざまな方面で活躍することができたのではないかと考えます。

 適塾出身の方々は、西洋の学問を取り入れ、それを我が国独自の文脈に応用して、その実力を示しました。そして、そうした我が国の基本的な状況は、現在であっても大きくは変化していないと考えます。しかし同時に昨今では、そうした知識や情報の参照元が、分野によっては西洋ばかりではないといった様相が強くなり、また今後は、さらに流動的になっていくのではないかと思われます。そして、そうした近年の歴史的潮流とは、あるいは数百年に一回程度のものである可能性もあることから、今しばらくは、この状況をもう少し理解するため、異分野の著作であっても出来るだけ読み進めます。

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2025年1月26日日曜日

20250125 光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」 pp.69-72より抜粋

光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」
pp.69-72より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334785204
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334785208

現代の日本人の間では親鸞と日蓮がポピュラーで、知識人の間では道元の評判がよい。これらの人たちはそれぞれ、ひたすら一つの方向に徹底していった。それが多くの日本人に好かれる。空海はそう単純じゃない。とくに明治以後の日本知識人には、ものすごく異質的に思われるのです。空海が好きという人は少ない。

 -そこからだんだん結論的な話にはいらせていただきたいと思うんですが、われわれは人類史的にみまして偉大な創造的な仕事をした人を天才と称しているわけですが、学問、芸術そのほか創造的な頭脳を発揮した人が出てくるというためには、出てくる社会経済史的な環境がいると思います。弘法大師の場合も、大師と同じくらいの能力をもった人が、大師以前、以後になかったかというと、それは必ずしもそうはいえないと思う。逆に申しますと、もしあっても、あれだけの大きな仕事をする条件が熟していなかったと思います。わたしは環境論にすべてを帰そうとは思いませんが、そういった条件も無視できない。その条件というのは何かといいますと、やはり当時の社会において、かなりの矛盾と危機的状況が進行していたんじゃないか。さきほどの先生のお話ですと、最澄は比叡山の上で何をやったかというと、堕落した奈良仏教と理論闘争をしておったということですけれども、奈良仏教が堕落しておったというのは、当時の社会があの時点で相当混乱しておったわけなのでしょうか。

湯川 ぼくはそのへんの確かなことはわかりませんけれども、要するに奈良は首都として七十年ですか、七代も続いたわけでしょう。だけど、桓武天皇という人は、相当偉い統治者、政治家でしょうね。その時代になりまして、奈良ではあかんというので、場所を捜すと、京都のこの辺がひじょうにいい。そこで移るといっても、長岡京をつくりかけたり、なかなか簡単に移れませんけれども、細かい話は別として、わたしの歴史の見方は怪しいけれども、とにかく、日本の政治体制も社会も、やはり変わりつつある奈良時代の末期に弘法大師は生まれてきて、彼がおとなになったころには、京都が中心になって新しい体制にはいっていくわけですね。ですから、やはり大きな変動期に生れていたといっていいでしょうね。 

ーそうしますと、わたしはさきほどから弘法大師に対する多少の疑問があったのですが、つまり空海が護国寺を守ったというのは、一応の変革を終って、堕落した反動的権力だけを護持する国家の教学、宗教を守ったというのではなしに、奈良の古いものを脱ぎ捨てて京都へ遷都してきた国家信仰といえども、なにか前向きの生産的、創造的なものがまだ残っていたとみていいわけでしょうね。

湯川 明治の初めごろに似ておりまして、奈良時代からすでに唐の文物、文化を取り入れるということをやっておりますから、ある程度引き続きですけれども、それがさらに強まるわけです。ただし弘法大師のパトロンは桓武天皇ではなくて、嵯峨天皇ですね。桓武天皇の時代にもかかっておりますけれども、桓武天皇は伝教大師のパトロンと思っていいと思います。次は平城天皇ですが、またその次の嵯峨天皇はひじょうな文化人なんです。教養の高い人で、字なんかもひじょうにうまいですし、中国的教養の非常に高い人です。それをもっと吸収したいというわけで、そうなると、弘法大師という人は、中国的教養全部を身につけているから、大師をひじょうに尊敬するわけです。ですから、パトロンになり、漢詩の贈答をしたり、友だちづきあいをしているわけですよ。だから、中国文化、唐の文化を全面的に吸収している時代でもあるわけです。

ーそうしますと、奈良の東大寺大仏殿の建造のときのように、律令国家がだいぶんあぶなくなって。それを引き締めるために聖武天皇がああいうものをつくったというのとは、社会経済史的背景がだいぶん違いますね。

湯川 どうでしょうかね、よく知りませんが、平安初期というのは教養主義みたいなものが、ひじょうに感じられる時代ですね。

2025年1月23日木曜日

20250123 春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」 pp.85-89より抜粋

春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」
pp.85-89より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861100585
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861100581

 古代には土地はそれぞれの魂をもつと信じられていた。これを国魂と呼んでいる。国魂は国の生命であって、それを身につけたものが、その国の支配者になることができる。どのような権力者であっても、国魂を身につけないと戦いに勝てないし、国魂から見放されれば、その国を支配することもできない。諸国に国魂を祀った神社があるのはそうした考えに基づいている。

 琉球の最古の歌謡集「おもろそうし」巻十一には、

島が命
国が命 みおやせ

という言葉が出てくる。これは島や国に命があって、それを奉れ(みおやせ)という意味である。島や国を献上するというのではなく、島の命、国の命を献上するというのであって、明らかに服属のしるしである。島の命を島魂、国の命を国魂と置きかえることができる。島も国も生命をもっていたことは生国とか生島という名を冠した神社があることではっきりしている。

 大嘗祭では悠紀・主基の両国から天皇を賛美する風俗歌が献上されたが、その歌には必ず地名が詠みこまれている。それは国の魂を奉ることをあらわに示しているのである。その中で最も古い記録は「古今和歌集」巻二十に見られる仁明天皇の和歌で、「古今和歌集」には五百種入集している。

 地名を入れた歌は風俗歌であるが、この風俗歌が勅撰和歌集にとりあげられると、そこで詠みこまれた地名が歌枕になっていく、歌枕の枕は動詞の「まく」と関連があり、神霊の寓する所という意味である、というのが折口説である。ここにおいて歌が地名と切っても切れない由縁をもつことが分かる。

 風俗歌はもともと国風(くにぶり)を指している。「風」というのは、「雅」に対してであり、「雅」は宮中の歌、「風」は地方の民謡というのが「詩経」の分類であるが、それはわが国では宮中の大歌、民間の歌の小歌の分類にもあてはまる。

 しかし風をフリと詠ませるには別の理由がある。フリはタマフリのフリであって、フリはタマシイを相手に付着させることであると折口は言う。タマフリの歌が省略されて、フリとなった。それを「記紀」では振とか曲という。自分の支配する国の魂を天皇に差し出して身につけて貰うのが国風である。それを歌にしたものが、大嘗祭の風俗歌である。平安以降の大嘗祭でそれを詠むのは宮廷の歌人であったが、古い大嘗祭で風俗歌を奉献するのは土地の人々であった。

 タマフリの歌であるクニブリの最後は「万葉集」に見られる東歌である。東国はさいごまで宮廷に抵抗していたから、それの服従を誓うためには国のタマシイをささげねばならなかったと折口は言う。そうであれば東歌に地名がかず多く登場することも、そのそもそもの背景が推察できるのである。東歌の特徴は民謡の色彩が濃厚であり、その表現は直截的である。その率直な歌の中で地名は大きな役割を果たしている。つまり地名はその土地の精霊として登場している。

 折口は歌枕の地名を「ライフ・インデキス(生命の指標)」と称している。地名が歌に詠みこまれているということは、「生命の指標」をその歌に活していることになる。とも折口は言っている。

 これは枕詞についても言える。枕詞には地名を冠したものが多いが、それは歌の一部になっていて、土地の霊を喚起する重要な役割をもっている。「葦が散る難波」と言えば、そこを訪ねたことのない人間にも昔の難波の情景が思い浮かぶのである。枕詞の枕も歌枕の枕と同断で精霊がよりつき、国魂が寓する。折口によれば、はじめは本縁譚があったのが、だんだん省略されて枕詞だけになったというのである。枕詞も歌枕と同様に「生命の指標」である。

 ライフ・インデキスという言葉は折口の発明ではない。バーンの「民俗学概論」に出てくる語で、民族学者の岡正雄は「生命指標」と訳出している。たとえば、ある人の運命が樹木に結びつけられていて、もし樹木が凋むと、それに関係する人は病気にかかる。もしそれを切り倒すと、人は横死するという信仰がインド、西アフリカ、太平洋諸島に見られる。

 折口はこの考えを枕詞や歌枕に適用したのである。「文章の中心になって、その生命を握っている単語、あるいは句」とみずから解説しているが、歌枕や枕詞の地名がそうであったということは、その歌と地名との不可分な関係を強調していることでもある。それをさかのぼれば、それぞれの国には国魂があり、それを密着させることがクニブリであり、それには地名が詠みこまれなければならなかったのである。

 クニブリには二通りあった。一つはクニブリの歌であり、もう一つはクニブリの諺であった。諺は上から下へ宜り下す呪文である。それに対して、歌は下の者が上の者への愁訴哀願する内容をもつ。前にも述べたように「うたう」と「うったう」は同根の語である。

 折口の呪言の「詞」から諺が発生し、叙事詩の「詞」の部分から歌が発生したと考える。つまり諺と歌は形式も内容も対照的である。諺は最小の偶数形式である二句型式であるが、歌は片歌にせよ短歌にせよ奇数形式であった。偶数形式の言辞が命令を内容とするのに対して、奇数形式はうったえる内容をもったと折口は言う。

 風俗歌はクニブリウタと訓み、風俗諺はクニブリノコトワザである。後者は長い地名起源を説く詞章の後に、それを集約するような形であらわれる。クニブリノコトワザが最小になると、枕詞と地名という二句になる。つまり地名の本縁譚は枕詞の中に凝縮されるということから、そこには国魂が寓すると見られるのである。

 枕詞や歌枕に見られる地名の重要性を見れば分かるとおり、地名は「うた」にとってはたんなる情景ではなく、その核心の生命を把握している。