2024年7月18日木曜日

20240717 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.65‐68より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.65‐68より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913

 翌日の二月二十四日、私が寝室から出ていくと、街から帰った料理女に出会った。この善良な女は気が全く動転していて、涙声でわけのわからぬことを私に口走っていた。私には理解できなかった彼女の言葉のなかで、ただ政府が貧しい人びとの虐殺を実行させたということだけがわかった。私はすぐに下りて行き、街路におり立つや革命の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる自分に初めて気がついたのだった。街路の中央には人影がなく、商店は一軒も店に開けていなかった。馬車も散歩の人影も見えなかった。いつもは聞こえてくる路上の呼売り人の声もなかった。戸口で隣人同士が小さなグループに分かれて、うろたえた顔をして、ひそひそと話し合っていた。誰の顔も不安もまた怒りのために血の気を失っていた。私は国民軍の一兵士とすれちがったが、彼は銃を手にして、はや足で悲劇を演じているような姿をして通っていった。私は彼に近づいて言葉をかけたが、彼からは何も知ることができなかった。ただやはり政府が民衆を虐殺したということ以外は(ただ彼はそれに付け加えて、国民軍がそのことの処理に当ることができるだろうと言った)。こうして同じ事実の指摘がくり返されるだけだったが、私には何の説明にもなっていなかった。私は七月王政の堕落の性格を充分に知っていて、そこで残忍な行為が行われることなど全くありえないということについては、確信をもてたのだ。私は七月王政を最も腐敗の激しいものの一つとみなしていたが、また同時に、これまでにみたことがないほど、残忍な性格をもたないものだともみなしていた。そして私は、どんな噂の力をかりて革命が進展して行ったかを示しておきたいがためにだけ、この民衆を政府が虐殺したという言葉を報告しているのである。

 私は隣の通りに住んでいるボーモン氏のところに駆けつけた。そこで夜中に国王がボーモン氏を呼び出したことを知った。ついで出かけていったレミュザ氏のところでも同様の情報を得た。最後に会ったコルセル氏は事の経過を説明してくれた。しかし、それはまだ混乱したものだった。というのも革命のなかの都市にあっては戦場にあるのと同じようなものであって、それぞれの人は自分の目撃した偶発的な出来事を、これこそ革命の事態だと受け取るからである。私はコルセル氏からキャプシーヌ大通りでの銃撃事件のことを知らされ、またこの無益な暴力行為が原因となり口実となって蜂起がいきょに発生したことを知った。モレ氏がこうした状況で内閣を引き受けることを拒否したこと、ティエール、パロの諸氏と、それに最終的に内閣に加わることを引き受けた彼らの友人たちが宮殿に呼ばれたことなども知ったが、これらの事実はもうよく知られていることなので、立入って書くつもりはない。私はコルセル氏に、大臣たちは人心を鎮めるためにどのような動きをするつもりなのかとたずねた。すると氏は、「レミュザ氏から聞いたところだと、軍隊のすべてを後退させ、パリ市内を国民軍で溢れさせる計画だということだ」と言ったのだった。この表現は氏自身のものである。私は絶えず指摘してきたのだが、政治においては過去の記憶があまりに大きいために、しばしば人は身を滅ぼすことになったのである。

2024年7月16日火曜日

20240717 株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」 pp.10‐12より抜粋

株式会社筑摩書房刊 池内紀著「ザルツブルク」
pp.10‐12より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480031480
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480031488

ザルツブルクにくるまえに、ザルツブルクを知っている。よく知られた商標にも似ていて、つまり、これは「モーツァルトの町」である。「小さなローマ」とも「アルプスの北のフィレンツェ」とも言われてきた。近年は「音楽祭の街」として有名である。どれもまちがってなどいない。たしかにモーツァルトはザルツブルグで生まれたし、またこの町はしばしば、七つの丘をもつ永遠の都のポケット版にたとえられてきた。ゆるやかな川沿いのオーストリアの古都がアルノ川のほとりのフィレンツェに似ているのも事実である。そして夏のザルツブルグ音楽祭は、ヨーロッパに数ある音楽祭のなかでもとびきりのものである。

 もう一度、右の商標を見直してみよう。どれ一つとして、さほど正確でもなさそうだ。というのはザルツブルグはモーツァルトを生んだかもしれないが、この町はたえずあの天災に邪険だった。ありとあらゆる手をつくして生れ故郷から追い出したふしさえある。またザルツブルクがローマを思わせるのは聖堂(ドーム)を衷心にした一郭にかぎられ、山にそびえる城砦や中世期風の町のたたずまいは、永遠の都ともアルノ川のほとりの百塔の街とも、あきらかにちがっている。それに「音楽祭の街」であるが、この商標は観光業者にとってはうれしいものかもしれないが、音楽好きにとっては必ずしもそうではない。 切符を手に入れホテルを確保するためだけに、精力の大半を使いはたさなくてはならないー。

 ともかくも町に着く。駅周辺の雑駁なあたりは足早に突っきって、旧市街にくると、とたんに自然と歩調がゆるむ。何をおいてもカフェ・トマゼリというわけだ。珈琲の歴史と同じほど古いカフェである。まずは腰を落ちつける。十九世紀の博物学者アレクサンダー・フンボルトはザルツブルクを「世界でもっとも美しい三つの町」の一つに数えた。あとの二つはコンスタンティノープルとナポリである。フンボルトは世に知られた大旅行家であった。単なる思いつきで言ったわけではあるまい。とするとイスラムの大都や「ナポリを見て死ね」の名句にもなった麗しのナポリと並べて、ケシつぶほどに小さい山あいの町をあげたのには、それ相応の理由あってのことにちがいない。

 たしかに歴史の点からいえば、さほど遜色はなさそうだ。遠い昔、ここにはケルト族が住んでいた。紀元前十四世紀ごろのこと。そのあと、まだドイツもオーストリアも存在しなかったころであるが、ローマ人がやってきた。古代ローマ人にとってアルプスの北はすべて荒寥とした蛮地だった。ところが、その蛮地にやってきたにしては、彼らはこの辺境の谷に思いのほか楽しい住処を見つけたらしい。というのは百年あまり前、モーツァルトの記念像を建てるために広場を掘っていたら、古代ローマ時代の石があらわれた。そこには、稚拙な飾り書体のラテン文字で「ココニ幸アリキ」といった意味の言葉が刻まれていた。

 しかし、まあ、半ば伝説じみた大昔までさかのぼるのはやめにしよう。ケルト人はザルツブルク地方のあちこちの地名の由来になごりをとどめているにすぎないし、また古代ローマ人は深い地の底と博物館のガラス・ケースの中で永遠の眠りについている。

 ともあれ掘り出された石の一つだが、一九二〇年代のはじめ、聖堂修復の際に床を掘り返していたら、八世紀の半ばごろに聖ヴェルギリウスが建てた最古の礼拝堂の礎石が見つかった。そのころすでにザルツブルク一帯にキリスト教が根づいてたあかしである。とともに、それはあらためて、ザルツブルクを治める者が領主でも国王でもなかったことを、それとなく告げている。歴史の伝えるとおりであって、ながらくザルツブルクは独立した教会国家として、聖職者を支配者にいただいてきた。この町の王侯は、燃えるような緋の衣をなびかせ、瘤のある司教杖をもった大僧正だった。

20240716 株式会社ゲンロン刊 東浩紀・上田洋子・加藤文元氏・川上量生等著「ゲンロン16」 pp.68‐70より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀・上田洋子・加藤文元氏・川上量生等著「ゲンロン16」
pp.68‐70より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188544
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188542

 ーキーウにお住まいのエヴヘン・マイダンスキーさんとカテリーナ・マイダンスカさんご夫妻にお話をうかがいます。エヴヘンさんには昔チェルノブイリ・ツアーの運営でもお世話になりました。まずは侵攻が始まったときのことを聞かせてください。おふたりとも自宅にいたのですよね。

カテリーナ(以下、カーチャ)たまたま緊急の仕事が入って、わたしは二四日の午前二時くらいまで仕事をしていました。寝る直前にゼレンスキーがSNSにウクライナ語ではなくロシア語で「やめろ」と投稿しているのを目にしたのですが、疲れていたし、寝たかった。そうしたら、朝五時に母から電話がかかってきて、「戦争が始まった」と伝えられたんです。「戦争ってなに、寝かせてよ!」と返事したのをおぼえています。でも、すぐに飛び起きて・・・どうすればいいのかわかりませんでした。そのときわかっていたのは、ただ、ロシア軍が攻めてきたということだけでした。

 その後、朝の七時か八時だと思うのですが、ジェーニャ(エヴヘン)に非常事態に備えて荷造りを始めるように頼んで、わたしは食料品や薬を買い出しに行きました。わたしたちはバービン・ヤルの近くに住んでいて、家のすぐそばに薬局があります。通りにはひとが溢れていて、薬局にもすごい行列ができていました。でも、だれひとり話をしません。みんなショックを受けていたんです。そのときはじめて。上空を戦闘機が飛んでいく音が聞こえました。その後、キャットフードを買うためにもう一軒の薬局に行ったのですが、そこにも長い行列ができていた。ずっと並んでいました。それで・・・。正直に言うと、侵攻直後のことは、霧のなかにいるみたいであまり思い出せないんです。

エヴヘン(以下、ジェーニャ)ぼくは家に残り、ソファーを移動させてバリケードをつくりました。窓を閉めて、ドアに鍵をかけて、だれも入れず、猫も逃げ出せないようにしていたんです。ただ、二四日と二五日のことは、恐ろしい夢を見ているみたいで。ぼくもあまりおぼえていません。

カーチャ いまは警報アプリがありますが、当時はまだなくて、最初はニュースが手に入りませんでした。そこで、昔イラクを取材していた戦争ジャーナリストがいたことを思い出して、テレグラムで検索してみたんです。すると、彼は「午前四時頃にキーウに空襲警報が出た」と投稿していました。ジェーニャに伝えて猫を連れて地下鉄の駅に避難しました。駅にはたくさんのひとや動物がいて、だれもが泣きそうになっていた。

ジェーニャ 夜は自宅にかえりましたが、砲撃を避けるために廊下で寝ました。疲れ切っていて、いちど寝たらもう起きれなくなりそうだったので、最初はふたりで交代しながら寝ていました。でも結局、ふたりとも眠ってしまって。

ーその後、キーウから避難したのですか。

カーチャ 二六日にいちど、わたしだけ母の様子を見に行こうとしたんです。母もキーウに住んでいて、わたしたちの家から地下鉄で一本です。そのとき、まだ地下鉄は動いていました。駅はひとで溢れていて、運賃も必要ないと言われた。でも、「あと一五分で動かなくなる」とアナウンスがあって。それで母のところへいくのはあきらめて、歩いて自宅に戻りました。ジャーニャは駅まで迎えにきてくれました。すでに街には機関銃を携えた兵士がたくさんいて、ウクライナ軍の戦車がたくさん走っていました。戦車が道を通り過ぎるのを待っていたとき、「ああ、戦争がはじまったんだ」とようやく実感したのをおぼえています。

ジェーニャ それでぼくたちはその日のうちにキーウを離れました。ビラ・ツェルクバに住んでいるぼくの両親のもとに向かったんです。キーウから南に八〇キロくらいの距離にある街です。五月半ばまで、ぼくたちは両親の家に避難していました。

 ビラ・ツェルクヴァにいた頃は、しょっちゅう猫を抱いて浴室に隠れていました。防空壕に行く時間がないときは壁が二枚以上あるところで過ごすルールになっているんです。壁が二枚あれば、もし砲弾が一枚目を突き破っても、二枚目が守ってくれますからね。同じ理由で、キーウに戻ってきてからは、ずっと廊下にマットを敷いて寝ていました。

ー避難しているあいだ、仕事はどうしていたのですか。

ジェーニャ ぼくは燃料関係の多国籍企業で働いていて、コロナ禍以来、リモートワークだったんです。ここ四年間でオフィスに足を運んだのは一〇回くらいじゃないかな。だから避難しているあいだもリモートで仕事をしていました。こういうときは多国籍企業のありがたさを感じますね。資金力があるので従業員をサポートしてくれます。

カーチャ わたしは外資系ですが、仕事が再開したのは三月の一〇日すぎでした。日常が戻ってきたのは嬉しかったです。仕事のない時期も会社から手当が支給されてはいましたが、正規の給与に戻るのはやはりありがたかった。ウクライナの企業では、侵攻のせいで従業員が解雇されてしまうことも少なくありませんでした。二四日にすべてが止まってしまいましたからね。たとえばわたしの母の会社も最初は仕事がなくなったのですが、幸運なことにすぐに職場に復帰することができました。でも、職を失ってしまった知人もいます。

 仕事をしているときは、戦争のことを考えなくなるので気が晴れるんです。戦争が始まった頃から、オーストリアの心理学者フランクルが強制収容所での経験を書いた「夜と霧」があちこちで引用されています。いわく。最初に心が折れたのは戦争がすぐに終わると思っていたひとだった。二番目に心が折れたのは、いつか戦争が終わると思っていたひとだった。生き残ったのは、戦争という枠にとらわれずに、ただ毎日を生きたひとだった。その言葉が大いに心の助けとなっています。

2024年7月15日月曜日

20240715 創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 pp.224‐227より抜粋

創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』
pp.224‐227より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4422202383
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4422202389

 1876年、コッホは自分の研究を多くの科学者に説明した。その中には、以前から炭疽菌Bacillus antbracisを研究していた植物学者で微生物学者のフェルディナンド・コーンもいた。「bacillus」はラテン語で小さな杖、棹、棒を表す単語で、この細菌の棹状の形を示している。

「anthracis」は石炭と無縁炭を指すラテン語からきており、ある種類の病気に特有の生気のない黒ずんだ肌を指す。

コッホは微生物の生活環と伝染に関する自分の発見と、抑制する方法を説明した。コーンは感銘を受け、絶賛して出版の手筈を整えた。病原菌説支持者にとっては新たな大進歩であったが、自然発生説と瘴気説(196頁)の支持者はさらなる決定的打撃に見舞われた。

 コッホは1880年に帝国保健局に移動した。80年代の後半に彼はコッホの原則として知られる一連の事件ーある微生物が病気を引き起こすと確定するために使われる基準ーを考案した。

時間をかけて、自分が発見した新しい細菌のそれぞれにその条件を当てはめるつもりであった。コッホの原則は4点にまとめることができる
ー感染した生物(植物、動物)ないし組織は当該の微生物を大量に持っているが、健康な個体はもっていない
;微生物は感染した生物ないし組織から分離され、純粋培養で育てられなければならない
;培養された微生物が健康な生物へ入れられると、その生物が病気を発症する
;最後に、その「第2世代」の微生物はふたたび抽出・分離され、もとの微生物と同じだと証明されること。

これらの原則によって、コッホは微生物と病気が不可分であるかどうか確かめようとした。しかし医学はつねにそれほど明快ではない。たとえば、人間や動物の中にはある病気の「保菌者」(キャリア)がいるーごくわずかの症状しか現れないか、何の症状もなく表面上は健康であるが、体に病原菌を保有しているため他の人にうつす可能性がある。したがってコッホの原則は、絶対的な法則ではなく、理想的な基準として今日まで残っている。

 ベルリンでようやく助手付きの、彼にふさわしい実験室をかまえたコッホは、そこで研究の第2段階、すなわち結核についての研究を開始した。彼のチームは新たな方法と技術を開発し続けた。1881年頃の重要な技術革新は、海藻から抽出した寒天を用いたゼリー状の栄養物質での微生物の生育であった。微生物が小さな斑点状に生育するのが目に見えるため、便利で利用しやすかったー栄養液の中に入れてぐるぐるまわしたり、試験管の中深くに埋め込むよりも断然楽だった。この方法はコッホの助手ヴァルター・ヘッセによって開発されたが、それは彼の妻のアンジェリーナがゼリーとジャムを作った後で、ゲル化させるには寒天を入れるといいと言ったのがきっかけであった。

コッホのもう一人の助手ユリウス・リヒャルト・ペトリは発明品に自分の名を与えたーペトリ皿である。この蓋付きの、底が浅く丸いガラス製の平皿だと、寒天が広がるため、その中の微生物が簡単に観察できた。寒天とペトリ皿のどちらも今なお世界中で実験に使われている。

 その時コッホは世界でもっともありふれた、長期にわたる、死に至ることの多い病気ー結核を引き起こす病原菌の試験に臨んでいた。この病原菌は炭疽菌よりも小さく、そのうえ着色した染料にさまざまに反応した。研究は細目にわたり、苦心を要した。1882年3月24日、意気揚々としたコッホが、自分のチームがその病原菌、結核菌を発見し同定したと発表した。「人のかかる病気の重要性が、病気による死病者数で測られるのであれば、結核はペストやコレラなどのもっとも恐ろしい感染症よりもはるかに重大な病気とみなされなければならない」。続けてコッホは彼の開発した新たな染色法などの技術を記し、デンジクネズミを実験動物として用いた方法を、ヒト、サル、家畜の組織の研究とともに説明した。一匹の動物から採取された病原菌を培養液の中で育て、別の動物の体内に入れたところ、どれも結核を発症した。さらなる証拠のためにコッホは顕微鏡、染色された微生物の培養液のガラススライド、組織サンプルの入った壺、その他の器具を作り、観客が自分の目で見ることができるようになった。1カ月以内にその知らせはヨーロッパ全域と、続けて北アメリカ、アフリカ、アジアに広まった。当初コッホのバチルスと呼ばれたその微生物は今では「結核菌(Mycobacterium tuberculosis」と呼ばれる。

 次にコッホが関心を向けたのはコレラ菌であった。1883年、コッホは政府に任命され、エジプトのアレキサンドリアでの流行を調査するドイツコレラ委員会の委員長として派遣された。そこで彼は疑わしげなコンマ形の細菌を同定した。別の機会にインドへ行った彼は、そこでも調査を続けた。ついに原因となる病原菌を特定した。汚染された飲み水と食べ物を通して伝染すること(180~87頁参照)を説明し、予防策と鎮圧方法を助言した。これらの業績によってコッホは10万マルクという巨額の報酬を得て、世界的な名声がさらに高まった。実際のところ、コレラ菌―その後ビブリオ属コレラ菌Vibrio choleraeと命名されたーは、約30年前の1854年にイタリアの解剖学者フィリッポ・パチーニによって発見されていた。しかし病原菌説が当時はまだ見向きもされなかったため、パチーニの業績は認められなかった。

 炭疽病、結核、コレラに関する画期的な研究の後、ついにコッホはへまをした。1890年、大喝采を浴びながら、彼はツベルクリンー結核の治療薬ーを紹介した。彼はその出所を明らかにすることを拒み、動物で試験されたと述べた。当初は人間への実験で効果が確かめられたと報告されたが、ツベルクリンは重い副作用を引き起こすことがあり、時には死に至ることもあった。この治療薬と呼ばれた薬は治療をもたらすどころではなかった。コッホはツベルクリンが細菌の特別な抽出物であることを認めたが、その中身が何であるか正確に説明できなかった。世論は一転して彼を批判した。彼の研究は政府による後援であったとはいえ、彼がツベルクリンの製造者と財政面で関わりのあったことが明らかになると、事態は悪化した。妻と別れ、10代のヘドウィク・フライベルクとの新しい関係も助けにはならなかった。コッホは国を去り、ふたたび旅に出た。イタリア、アフリカ、インド、ニューギニアを訪れ、腺ペスト、らい病、マラリア、狂犬病、人間と家畜におこる珍しい熱病を研究した。1897年、新型のツベルクリンを発表した。これも失敗作だったが、その後、結核の診断に有効な試薬となった。ヒトの結核予防に有効なワクチンはようやく1920年代にー皮肉なことに、パストゥールが創設したパストゥール研究所でー開発された。

 後年の失敗にもかかわらず、コッホによって細菌と感染に関する新たな医学研究が高まりを見せた。彼の弟子には次の研究者たちが含まれる。1884年にジフテリア菌を特定し培養したフリードリヒ・レフラー、同じくジフテリアの研究に携わり、1894年に腺ペスト菌を発見した北里柴三郎、1901年に最初のノーベル生理学医学賞を受賞したエミール・フォン・ベーリング、1906年に梅毒の初期感染の診断薬を調剤したアウグスト・フォン・ヴァッサーマン、1909年に梅毒治療薬アルスフェナミン(サルヴァルサン)を発見したパウル・エーリッヒなど。1905年、ロベルト・コッホは「結核に関する調査と発見」によってノーベル生理学医学賞を受賞した。ノーベル賞は、彼の不断の研究倫理によって刺激づけられた、数々の革新的な発見のあかしであった。彼が医学校での受賞エッセーに添えた題辞はラテン語で書いてある。「Nunquam Otiosus」、決して怠るなかれと。



20240714 夏になると思うこと、地域の食文化について【2222記事到達】

 今月ははじめから、夏本番とも云えるような酷暑の日が続き、さきの盛夏が思いやられるような夏の始まりであったと云えますが、個人的には、気温が上がり、湿度も高くなり、蒸し暑くなってきますと、南紀、和歌山での記憶が多く想起されます。これまでにも何度か当ブログにて述べてきたことではありますが、私は首都圏で育ち、そこから、寒い北海道を経て、転勤により南紀白浜に住むことになりました。当初、この転勤は(とても)嬉しくないものでしたが、いまだ雪景色であった北海道を経ての清明の頃の南紀には、何といいますか、生命力の溢れた自然の精気によるものであるのか、いささか陶然とした心持ちが常態化するようなところがあり、そうした環境の中で、さまざまな地の食文化に接していますと、それぞれの食材や、それらを統合した料理の味を、より鮮烈に、そして重層的に、味覚を通じて理解出来るようになると思われるのです。あるいは他の要因も少なからずあるのかもしれませんが、私は、南紀白浜での生活により、それまであまり考えることのなかった地域の食文化に興味を持つようになりました。南紀は辺縁とはいえ和歌山県つまり関西・近畿文化圏に含まれますので、街中や隣の紀伊田辺の市街地には、古くからあると思しき「粉もの」のお店があり、また、それよりもう少しメニューが多く主に定食を提供する「食堂」と云えるようなお店もあり、古来からの地域の外食文化の様相が感じられましたが、他方で丁度その当時は、市街地郊外のショッピングセンターにファーストフードの店舗が出店して数年経った頃でもあり、その後「今度は**が(田辺)市内の**にできた。」といった外食チェーン店進出の情報が度々聞かれるようになりました。これは端的に「中央もしくはさらにその背後にある国際的な食文化の進出」であると云えますが、この高度に情報化された社会において、今さら「中央文化の地方への侵出・・」と思われる方々もおられるかもしれませんが、当時も含めて一定期間、南紀白浜の社会にいた私としては、こうした地元の感覚はたしかにあったと云えます。しかし同時に、そうした外来の食文化などを当初からむやみに排撃しないのも地域性であるのか、興味深いものがあると云えます。ともあれ、そうした経緯により、私は関西・近畿文化圏の辺縁とも云える南紀において、それまで即自的なものであった食材、料理などの食事全般を、対自的なものとして捉えなおす契機を得たのだと云えます。さて、食文化を対自的なものとするためには、おそらく、これまで著された古今東西の関連する文献資料をあたり、その述べるところを整理、検討して自らの言語体系を構築する、いわば演繹的な方法と、個別の事例を出来るだけ数多く文献資料や自らのフィールドワークを通じて取得、蓄積して、そこからある程度蓋然性の高い見解を体系的に述べるといった帰納的な方法があると思われますが、私の場合は、専ら後者をそれと知らず、単に「へえ、そんな料理・食材があるのか・・。」といった態で自分なりに経験を蓄積させていったのだと云えます。そしてまた、そうした経験を通じて、それまで知っていた食文化についての情報が更新され、そしてまた、わずかに興味も亢進されて、徐々に自分の中の食にまつわる要素が対自的なものになっていったのだと思われます。その意味において、我が国の食文化の要石とも云える「醤油」および「鰹節」発祥の地が、この県にあることには、大変興味深い偶然性(あるいは必然か)があるのではないかと思われるのです。

 我が国の伝統的な食文化を検討しますと、やはり全般として、より洗練されているのは、首都圏よりも関西・近畿文化圏であると云えますが、その関西・近畿の料理文化の中心・最先端とは、やはり多くの場合、京都であると言い得ます。しかしながら、その京都の洗練された食文化について、それを構成するさまざまな料理を検討してみますと、それらの多くは古の畿内全域では共通してあった料理(調理法)であったり、さらに、その料理の起源については、また諸説あるといった複雑な様相が多く、そして、そうした系譜づいた様相とは、文化の先端や中心である京都あるいは場合によっては大阪、神戸といった大都市よりも、いまだ一次産品が多く、古来からの食文化が自然に息づいている和歌山のようないわば辺縁地域の方が、より明瞭且つ複雑でない、理解し易い様相として認識出来るのではないかと思われるのです。そして、そうした理解を感覚を通じて得るためには、その地域にしばらくの期間、埋没して暮らす必要があると思われるのです。つまり、ある文化を、より深く、対自的なものとして捉えるためには、予めそれを即自的なものとしておく必要があるのではないかと思われますが、この「予め即自的なものにする」ことは、当記事冒頭にて述べた転勤時の私のように当初は受容し難いものであったとしても、その先に、ある程度の普遍性を持った優れた何らかの事物を見出し、そこでの感覚を自分なりに興味を持って探求し続けていますと、往々にして受容云々はどうでもよくなり、そして、いつしか見えてくるより大きな構造のようなものがあるのではないかと思われるのです。その意味で南紀を含めた紀州・和歌山のゆたかな食文化には、より多くの人々に「ほんまもん」の我が国古来からの食文化を経験する契機になるものが少なからずあるのではないかと考えます。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

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電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2024年7月13日土曜日

20240712 書肆心水刊 杉山茂丸著「俗戦国策」pp.119‐121より抜粋

書肆心水刊 杉山茂丸著「俗戦国策」pp.119‐121より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4902854155
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4902854152

 学問は進歩すべき人類の貴重な誇りであるから、決して捨てずに之を研究するのが人類の品位を高うするのである。併しマダ研究の道途にある未製品の儘、之を人類の実際に当嵌めんとするのがいまの馬鹿学者である、即ち今世界に現存する「ソシヤルスト」「アナキスト」「ニヒリスト」「ボルセビーキ」又、今日の各政党なる物の思想如きが、疑もなく学問中毒の夫である、只だ統一的の真理は「デモクラシー」である。是は盛衰不変の威霊によりて保護せねば、真正の「デモクラシー」は存立せず、効果なき物である、夫は我日本が、原始以来其歴史を有した国である。歴史は国の生命である。歴史を有せざれば国とは云われぬのである。即ち歴史の不抜の習慣あると云う事である。不抜の習慣とは、歴史は取引の出来ぬ物である、改正の出来ぬ物である、夫が歴史であって、既に経過したる事実であるからである。

 日本は上から公許したる天理の「デモクラシー」を基礎とした創肇した国であるから、其歴史の半途から論じて見ても、素足に高足駄を穿いて学校に通いつつありし高平太の異名ある清盛でも太政大臣になったのである。

 伊豆の国の蛭が小島の懲役人の小供の頼朝でも、建久三年に覇府を鎌倉に開いて征夷大将軍になったのである。郷士上りの北条時政でも執権職になったのである。尾州中村の土百姓の子の秀吉でも関白になったのである。大飛びに飛んで云うても、長州の軽輩、伊藤博文、山形有朋、寺内正毅、田中義一でも、薩州の平士の黒田清隆でも松方正義でも、総理大臣になったのである。其他素町人、土百姓の国務大臣になったのは、枚挙に遑ないのである。

 之が太古以来、上より下に公許された「デモクラシー」の国である。立派な証拠である、今の青年は斯る結構な「民本国」に生れた事を衷心より喜ばねばならぬ、自己の器量修養一つでは、遠慮会釈もなく国政の大権が握らるるのである、斯る立派な国に生れながら、何の乏しき事あって、其歴史から組織から、遥かに劣等な学問中毒の夢に迷うて居る国の、馬鹿学者の書いた未製品抽象的の学問の真似をして、衆愚を集めて勢力と称し、泥棒をしても懲役に往っても構わぬ、正直な国民の納めた租税十八億円を攫み取ろう取ろうと日夜営々として喚き叫んで、政治の大権丈を得ようと争うと云うは何と云う事であろう。昔日、秦の始皇が儒者二十万人を抗にして殺し、項羽が秦の降卒百万人を殺したのも、害があって益なき者と断定しての所作ならば、或いは一面の理由があったかもしれないのである。

 庵主は決して日本の学者を抗にしたくはない、其れは尊崇なる、陛下の赤子である。ドウか覚醒して貰いたいのである。庵主は決して秦の降卒の如く、行詰って居る政党を殺したいとは思わぬ、夫れは庵主の大事な同胞兄弟であるから、ドウか覚醒して貰いたいのである。庵主の最も親愛する青年諸士は、ドウか庵主に同情をして、ドウか抗にせず殺さずして済むように、一世の吶喊の声を挙げて彼等を覚醒さして貰いたいのである。

2024年7月11日木曜日

20240711 丸9年間のブログの継続と総投稿記事数2220に達して思うこと・・10年間?

 現在作成している当記事の投稿により総投稿記事数が2220に到達します。そして、そこからさらに2記事の更新により2222と、これまでに1回のみの経験であった4桁でのゾロ目となりますので、それまでは出来るだけ速やかに到達したいと考えています。さて、ここ最近は書籍からの引用記事の投稿が続き、そうしたなかで、しばしば「自分の文章によるブログ記事を作成したい。」と思うこともありましたが、引用記事は、そこに本当に興味深いと思われた印象的な記述が含まれていれば、後日、何らかの契機の折り、速やかに、その詳細を想起することが出来るようになると考えることから、以前の投稿記事においても述べましたが、記憶の想起を補助する有効な道具になると考えます。そのため、引用記事の作成・投稿は、オリジナルでのブログ記事作成と比べ、創造的とは云えませんが、これらも、後日、活用することにより、それ(引用記事)がない状況と比べ、いくらかはマシな文章を作成することが多くなるようにも思われますので、本来であれば、現在は、先月6月の22日に到達したブログ継続期間9年以降の休養期間であるとも云えることから、あまり頻繁な更新はしなくて良いとは思うところですが、これまで継続してきた習い性であるのか、作成をしていないと落ち着きがなくなり、また、興味深いと思われた記述のある書籍は、まだ少なからずあることから、何となくで作成していましたが、やがて、それをしばらく継続していますと、面白いもので、何やら自分なりに、現在の状況に似つかわしい記述を引用記事として投稿していたところ、ある程度区切りの良い2220記事にまで至ったため、当記事はオリジナルでの作成としました。そのため、久々でのオリジナルでの記事作成となりますが、文章自体はその他で多少は作成していたことから、そこまで鈍っているといった認識はありませんでしたが、それでも、当ブログでの文体と、その他での文体を比較してみますと、大きくは異ならないとは思われるのですが、当ブログでの文体の方が少し柔らかいようにも思われます。そして、そのように意識を向けてみますと、私はこのように文章を作成してきましたが「それは誰に向けて、どのような視座から?」と、我に返ります・・。これについては、当初数年ほどは、ある程度具体的に想定していましたが、その後、それが惰性のように続いて、2020年からツイッター(現エックス)と当ブログを連動させて、その具体像を可視化されるようになりましたが、それでも、それに因る自らの文体に大きな変化はなかったように思われます。とはいえ、先述の2020年以降のSNSとの連動により、動画や著作を通じて存じ上げていた方々と意外と自然にコンタクトを取れるとがあることを知ってからは、当初は驚きもあって精神が萎縮したためであるのか、しばらくはスランプ気味となりましたが、全く作成出来ないほどではありませんでした。そして先月にブログ開始から丸9年となり、そこから、さらに20記事の追加となりますので、この調子で進めますと、あるいは来年の6月まで続けて10年間の継続となるのかもしれません・・。10年間の継続と考えてみますと、既にその90%は経過した現在において、当初と比べ何かの実感を伴う変化はあったのかとも思われますが、そうしたことは残念ながら今のところ想起されません・・。ともあれ、未だ本調子にはならず、今しばらくは引用記事を主として作成・投稿したいと考えております。しかし、ここ最近、以前と比べて眼などが疲れやすくなってきたと感じられますので、10年間の継続のためにも、出来るだけさまざまな無理は避けようと思います。そしてまた今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5

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