2024年7月15日月曜日

20240715 創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』 pp.224‐227より抜粋

創元社刊 スティーブ・パーカー著 千葉 喜久枝訳 『医療の歴史:穿孔開頭術から幹細胞治療までの1万2千年史』
pp.224‐227より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4422202383
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4422202389

 1876年、コッホは自分の研究を多くの科学者に説明した。その中には、以前から炭疽菌Bacillus antbracisを研究していた植物学者で微生物学者のフェルディナンド・コーンもいた。「bacillus」はラテン語で小さな杖、棹、棒を表す単語で、この細菌の棹状の形を示している。

「anthracis」は石炭と無縁炭を指すラテン語からきており、ある種類の病気に特有の生気のない黒ずんだ肌を指す。

コッホは微生物の生活環と伝染に関する自分の発見と、抑制する方法を説明した。コーンは感銘を受け、絶賛して出版の手筈を整えた。病原菌説支持者にとっては新たな大進歩であったが、自然発生説と瘴気説(196頁)の支持者はさらなる決定的打撃に見舞われた。

 コッホは1880年に帝国保健局に移動した。80年代の後半に彼はコッホの原則として知られる一連の事件ーある微生物が病気を引き起こすと確定するために使われる基準ーを考案した。

時間をかけて、自分が発見した新しい細菌のそれぞれにその条件を当てはめるつもりであった。コッホの原則は4点にまとめることができる
ー感染した生物(植物、動物)ないし組織は当該の微生物を大量に持っているが、健康な個体はもっていない
;微生物は感染した生物ないし組織から分離され、純粋培養で育てられなければならない
;培養された微生物が健康な生物へ入れられると、その生物が病気を発症する
;最後に、その「第2世代」の微生物はふたたび抽出・分離され、もとの微生物と同じだと証明されること。

これらの原則によって、コッホは微生物と病気が不可分であるかどうか確かめようとした。しかし医学はつねにそれほど明快ではない。たとえば、人間や動物の中にはある病気の「保菌者」(キャリア)がいるーごくわずかの症状しか現れないか、何の症状もなく表面上は健康であるが、体に病原菌を保有しているため他の人にうつす可能性がある。したがってコッホの原則は、絶対的な法則ではなく、理想的な基準として今日まで残っている。

 ベルリンでようやく助手付きの、彼にふさわしい実験室をかまえたコッホは、そこで研究の第2段階、すなわち結核についての研究を開始した。彼のチームは新たな方法と技術を開発し続けた。1881年頃の重要な技術革新は、海藻から抽出した寒天を用いたゼリー状の栄養物質での微生物の生育であった。微生物が小さな斑点状に生育するのが目に見えるため、便利で利用しやすかったー栄養液の中に入れてぐるぐるまわしたり、試験管の中深くに埋め込むよりも断然楽だった。この方法はコッホの助手ヴァルター・ヘッセによって開発されたが、それは彼の妻のアンジェリーナがゼリーとジャムを作った後で、ゲル化させるには寒天を入れるといいと言ったのがきっかけであった。

コッホのもう一人の助手ユリウス・リヒャルト・ペトリは発明品に自分の名を与えたーペトリ皿である。この蓋付きの、底が浅く丸いガラス製の平皿だと、寒天が広がるため、その中の微生物が簡単に観察できた。寒天とペトリ皿のどちらも今なお世界中で実験に使われている。

 その時コッホは世界でもっともありふれた、長期にわたる、死に至ることの多い病気ー結核を引き起こす病原菌の試験に臨んでいた。この病原菌は炭疽菌よりも小さく、そのうえ着色した染料にさまざまに反応した。研究は細目にわたり、苦心を要した。1882年3月24日、意気揚々としたコッホが、自分のチームがその病原菌、結核菌を発見し同定したと発表した。「人のかかる病気の重要性が、病気による死病者数で測られるのであれば、結核はペストやコレラなどのもっとも恐ろしい感染症よりもはるかに重大な病気とみなされなければならない」。続けてコッホは彼の開発した新たな染色法などの技術を記し、デンジクネズミを実験動物として用いた方法を、ヒト、サル、家畜の組織の研究とともに説明した。一匹の動物から採取された病原菌を培養液の中で育て、別の動物の体内に入れたところ、どれも結核を発症した。さらなる証拠のためにコッホは顕微鏡、染色された微生物の培養液のガラススライド、組織サンプルの入った壺、その他の器具を作り、観客が自分の目で見ることができるようになった。1カ月以内にその知らせはヨーロッパ全域と、続けて北アメリカ、アフリカ、アジアに広まった。当初コッホのバチルスと呼ばれたその微生物は今では「結核菌(Mycobacterium tuberculosis」と呼ばれる。

 次にコッホが関心を向けたのはコレラ菌であった。1883年、コッホは政府に任命され、エジプトのアレキサンドリアでの流行を調査するドイツコレラ委員会の委員長として派遣された。そこで彼は疑わしげなコンマ形の細菌を同定した。別の機会にインドへ行った彼は、そこでも調査を続けた。ついに原因となる病原菌を特定した。汚染された飲み水と食べ物を通して伝染すること(180~87頁参照)を説明し、予防策と鎮圧方法を助言した。これらの業績によってコッホは10万マルクという巨額の報酬を得て、世界的な名声がさらに高まった。実際のところ、コレラ菌―その後ビブリオ属コレラ菌Vibrio choleraeと命名されたーは、約30年前の1854年にイタリアの解剖学者フィリッポ・パチーニによって発見されていた。しかし病原菌説が当時はまだ見向きもされなかったため、パチーニの業績は認められなかった。

 炭疽病、結核、コレラに関する画期的な研究の後、ついにコッホはへまをした。1890年、大喝采を浴びながら、彼はツベルクリンー結核の治療薬ーを紹介した。彼はその出所を明らかにすることを拒み、動物で試験されたと述べた。当初は人間への実験で効果が確かめられたと報告されたが、ツベルクリンは重い副作用を引き起こすことがあり、時には死に至ることもあった。この治療薬と呼ばれた薬は治療をもたらすどころではなかった。コッホはツベルクリンが細菌の特別な抽出物であることを認めたが、その中身が何であるか正確に説明できなかった。世論は一転して彼を批判した。彼の研究は政府による後援であったとはいえ、彼がツベルクリンの製造者と財政面で関わりのあったことが明らかになると、事態は悪化した。妻と別れ、10代のヘドウィク・フライベルクとの新しい関係も助けにはならなかった。コッホは国を去り、ふたたび旅に出た。イタリア、アフリカ、インド、ニューギニアを訪れ、腺ペスト、らい病、マラリア、狂犬病、人間と家畜におこる珍しい熱病を研究した。1897年、新型のツベルクリンを発表した。これも失敗作だったが、その後、結核の診断に有効な試薬となった。ヒトの結核予防に有効なワクチンはようやく1920年代にー皮肉なことに、パストゥールが創設したパストゥール研究所でー開発された。

 後年の失敗にもかかわらず、コッホによって細菌と感染に関する新たな医学研究が高まりを見せた。彼の弟子には次の研究者たちが含まれる。1884年にジフテリア菌を特定し培養したフリードリヒ・レフラー、同じくジフテリアの研究に携わり、1894年に腺ペスト菌を発見した北里柴三郎、1901年に最初のノーベル生理学医学賞を受賞したエミール・フォン・ベーリング、1906年に梅毒の初期感染の診断薬を調剤したアウグスト・フォン・ヴァッサーマン、1909年に梅毒治療薬アルスフェナミン(サルヴァルサン)を発見したパウル・エーリッヒなど。1905年、ロベルト・コッホは「結核に関する調査と発見」によってノーベル生理学医学賞を受賞した。ノーベル賞は、彼の不断の研究倫理によって刺激づけられた、数々の革新的な発見のあかしであった。彼が医学校での受賞エッセーに添えた題辞はラテン語で書いてある。「Nunquam Otiosus」、決して怠るなかれと。



20240714 夏になると思うこと、地域の食文化について【2222記事到達】

 今月ははじめから、夏本番とも云えるような酷暑の日が続き、さきの盛夏が思いやられるような夏の始まりであったと云えますが、個人的には、気温が上がり、湿度も高くなり、蒸し暑くなってきますと、南紀、和歌山での記憶が多く想起されます。これまでにも何度か当ブログにて述べてきたことではありますが、私は首都圏で育ち、そこから、寒い北海道を経て、転勤により南紀白浜に住むことになりました。当初、この転勤は(とても)嬉しくないものでしたが、いまだ雪景色であった北海道を経ての清明の頃の南紀には、何といいますか、生命力の溢れた自然の精気によるものであるのか、いささか陶然とした心持ちが常態化するようなところがあり、そうした環境の中で、さまざまな地の食文化に接していますと、それぞれの食材や、それらを統合した料理の味を、より鮮烈に、そして重層的に、味覚を通じて理解出来るようになると思われるのです。あるいは他の要因も少なからずあるのかもしれませんが、私は、南紀白浜での生活により、それまであまり考えることのなかった地域の食文化に興味を持つようになりました。南紀は辺縁とはいえ和歌山県つまり関西・近畿文化圏に含まれますので、街中や隣の紀伊田辺の市街地には、古くからあると思しき「粉もの」のお店があり、また、それよりもう少しメニューが多く主に定食を提供する「食堂」と云えるようなお店もあり、古来からの地域の外食文化の様相が感じられましたが、他方で丁度その当時は、市街地郊外のショッピングセンターにファーストフードの店舗が出店して数年経った頃でもあり、その後「今度は**が(田辺)市内の**にできた。」といった外食チェーン店進出の情報が度々聞かれるようになりました。これは端的に「中央もしくはさらにその背後にある国際的な食文化の進出」であると云えますが、この高度に情報化された社会において、今さら「中央文化の地方への侵出・・」と思われる方々もおられるかもしれませんが、当時も含めて一定期間、南紀白浜の社会にいた私としては、こうした地元の感覚はたしかにあったと云えます。しかし同時に、そうした外来の食文化などを当初からむやみに排撃しないのも地域性であるのか、興味深いものがあると云えます。ともあれ、そうした経緯により、私は関西・近畿文化圏の辺縁とも云える南紀において、それまで即自的なものであった食材、料理などの食事全般を、対自的なものとして捉えなおす契機を得たのだと云えます。さて、食文化を対自的なものとするためには、おそらく、これまで著された古今東西の関連する文献資料をあたり、その述べるところを整理、検討して自らの言語体系を構築する、いわば演繹的な方法と、個別の事例を出来るだけ数多く文献資料や自らのフィールドワークを通じて取得、蓄積して、そこからある程度蓋然性の高い見解を体系的に述べるといった帰納的な方法があると思われますが、私の場合は、専ら後者をそれと知らず、単に「へえ、そんな料理・食材があるのか・・。」といった態で自分なりに経験を蓄積させていったのだと云えます。そしてまた、そうした経験を通じて、それまで知っていた食文化についての情報が更新され、そしてまた、わずかに興味も亢進されて、徐々に自分の中の食にまつわる要素が対自的なものになっていったのだと思われます。その意味において、我が国の食文化の要石とも云える「醤油」および「鰹節」発祥の地が、この県にあることには、大変興味深い偶然性(あるいは必然か)があるのではないかと思われるのです。

 我が国の伝統的な食文化を検討しますと、やはり全般として、より洗練されているのは、首都圏よりも関西・近畿文化圏であると云えますが、その関西・近畿の料理文化の中心・最先端とは、やはり多くの場合、京都であると言い得ます。しかしながら、その京都の洗練された食文化について、それを構成するさまざまな料理を検討してみますと、それらの多くは古の畿内全域では共通してあった料理(調理法)であったり、さらに、その料理の起源については、また諸説あるといった複雑な様相が多く、そして、そうした系譜づいた様相とは、文化の先端や中心である京都あるいは場合によっては大阪、神戸といった大都市よりも、いまだ一次産品が多く、古来からの食文化が自然に息づいている和歌山のようないわば辺縁地域の方が、より明瞭且つ複雑でない、理解し易い様相として認識出来るのではないかと思われるのです。そして、そうした理解を感覚を通じて得るためには、その地域にしばらくの期間、埋没して暮らす必要があると思われるのです。つまり、ある文化を、より深く、対自的なものとして捉えるためには、予めそれを即自的なものとしておく必要があるのではないかと思われますが、この「予め即自的なものにする」ことは、当記事冒頭にて述べた転勤時の私のように当初は受容し難いものであったとしても、その先に、ある程度の普遍性を持った優れた何らかの事物を見出し、そこでの感覚を自分なりに興味を持って探求し続けていますと、往々にして受容云々はどうでもよくなり、そして、いつしか見えてくるより大きな構造のようなものがあるのではないかと思われるのです。その意味で南紀を含めた紀州・和歌山のゆたかな食文化には、より多くの人々に「ほんまもん」の我が国古来からの食文化を経験する契機になるものが少なからずあるのではないかと考えます。

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2024年7月13日土曜日

20240712 書肆心水刊 杉山茂丸著「俗戦国策」pp.119‐121より抜粋

書肆心水刊 杉山茂丸著「俗戦国策」pp.119‐121より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4902854155
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4902854152

 学問は進歩すべき人類の貴重な誇りであるから、決して捨てずに之を研究するのが人類の品位を高うするのである。併しマダ研究の道途にある未製品の儘、之を人類の実際に当嵌めんとするのがいまの馬鹿学者である、即ち今世界に現存する「ソシヤルスト」「アナキスト」「ニヒリスト」「ボルセビーキ」又、今日の各政党なる物の思想如きが、疑もなく学問中毒の夫である、只だ統一的の真理は「デモクラシー」である。是は盛衰不変の威霊によりて保護せねば、真正の「デモクラシー」は存立せず、効果なき物である、夫は我日本が、原始以来其歴史を有した国である。歴史は国の生命である。歴史を有せざれば国とは云われぬのである。即ち歴史の不抜の習慣あると云う事である。不抜の習慣とは、歴史は取引の出来ぬ物である、改正の出来ぬ物である、夫が歴史であって、既に経過したる事実であるからである。

 日本は上から公許したる天理の「デモクラシー」を基礎とした創肇した国であるから、其歴史の半途から論じて見ても、素足に高足駄を穿いて学校に通いつつありし高平太の異名ある清盛でも太政大臣になったのである。

 伊豆の国の蛭が小島の懲役人の小供の頼朝でも、建久三年に覇府を鎌倉に開いて征夷大将軍になったのである。郷士上りの北条時政でも執権職になったのである。尾州中村の土百姓の子の秀吉でも関白になったのである。大飛びに飛んで云うても、長州の軽輩、伊藤博文、山形有朋、寺内正毅、田中義一でも、薩州の平士の黒田清隆でも松方正義でも、総理大臣になったのである。其他素町人、土百姓の国務大臣になったのは、枚挙に遑ないのである。

 之が太古以来、上より下に公許された「デモクラシー」の国である。立派な証拠である、今の青年は斯る結構な「民本国」に生れた事を衷心より喜ばねばならぬ、自己の器量修養一つでは、遠慮会釈もなく国政の大権が握らるるのである、斯る立派な国に生れながら、何の乏しき事あって、其歴史から組織から、遥かに劣等な学問中毒の夢に迷うて居る国の、馬鹿学者の書いた未製品抽象的の学問の真似をして、衆愚を集めて勢力と称し、泥棒をしても懲役に往っても構わぬ、正直な国民の納めた租税十八億円を攫み取ろう取ろうと日夜営々として喚き叫んで、政治の大権丈を得ようと争うと云うは何と云う事であろう。昔日、秦の始皇が儒者二十万人を抗にして殺し、項羽が秦の降卒百万人を殺したのも、害があって益なき者と断定しての所作ならば、或いは一面の理由があったかもしれないのである。

 庵主は決して日本の学者を抗にしたくはない、其れは尊崇なる、陛下の赤子である。ドウか覚醒して貰いたいのである。庵主は決して秦の降卒の如く、行詰って居る政党を殺したいとは思わぬ、夫れは庵主の大事な同胞兄弟であるから、ドウか覚醒して貰いたいのである。庵主の最も親愛する青年諸士は、ドウか庵主に同情をして、ドウか抗にせず殺さずして済むように、一世の吶喊の声を挙げて彼等を覚醒さして貰いたいのである。

2024年7月11日木曜日

20240711 丸9年間のブログの継続と総投稿記事数2220に達して思うこと・・10年間?

 現在作成している当記事の投稿により総投稿記事数が2220に到達します。そして、そこからさらに2記事の更新により2222と、これまでに1回のみの経験であった4桁でのゾロ目となりますので、それまでは出来るだけ速やかに到達したいと考えています。さて、ここ最近は書籍からの引用記事の投稿が続き、そうしたなかで、しばしば「自分の文章によるブログ記事を作成したい。」と思うこともありましたが、引用記事は、そこに本当に興味深いと思われた印象的な記述が含まれていれば、後日、何らかの契機の折り、速やかに、その詳細を想起することが出来るようになると考えることから、以前の投稿記事においても述べましたが、記憶の想起を補助する有効な道具になると考えます。そのため、引用記事の作成・投稿は、オリジナルでのブログ記事作成と比べ、創造的とは云えませんが、これらも、後日、活用することにより、それ(引用記事)がない状況と比べ、いくらかはマシな文章を作成することが多くなるようにも思われますので、本来であれば、現在は、先月6月の22日に到達したブログ継続期間9年以降の休養期間であるとも云えることから、あまり頻繁な更新はしなくて良いとは思うところですが、これまで継続してきた習い性であるのか、作成をしていないと落ち着きがなくなり、また、興味深いと思われた記述のある書籍は、まだ少なからずあることから、何となくで作成していましたが、やがて、それをしばらく継続していますと、面白いもので、何やら自分なりに、現在の状況に似つかわしい記述を引用記事として投稿していたところ、ある程度区切りの良い2220記事にまで至ったため、当記事はオリジナルでの作成としました。そのため、久々でのオリジナルでの記事作成となりますが、文章自体はその他で多少は作成していたことから、そこまで鈍っているといった認識はありませんでしたが、それでも、当ブログでの文体と、その他での文体を比較してみますと、大きくは異ならないとは思われるのですが、当ブログでの文体の方が少し柔らかいようにも思われます。そして、そのように意識を向けてみますと、私はこのように文章を作成してきましたが「それは誰に向けて、どのような視座から?」と、我に返ります・・。これについては、当初数年ほどは、ある程度具体的に想定していましたが、その後、それが惰性のように続いて、2020年からツイッター(現エックス)と当ブログを連動させて、その具体像を可視化されるようになりましたが、それでも、それに因る自らの文体に大きな変化はなかったように思われます。とはいえ、先述の2020年以降のSNSとの連動により、動画や著作を通じて存じ上げていた方々と意外と自然にコンタクトを取れるとがあることを知ってからは、当初は驚きもあって精神が萎縮したためであるのか、しばらくはスランプ気味となりましたが、全く作成出来ないほどではありませんでした。そして先月にブログ開始から丸9年となり、そこから、さらに20記事の追加となりますので、この調子で進めますと、あるいは来年の6月まで続けて10年間の継続となるのかもしれません・・。10年間の継続と考えてみますと、既にその90%は経過した現在において、当初と比べ何かの実感を伴う変化はあったのかとも思われますが、そうしたことは残念ながら今のところ想起されません・・。ともあれ、未だ本調子にはならず、今しばらくは引用記事を主として作成・投稿したいと考えております。しかし、ここ最近、以前と比べて眼などが疲れやすくなってきたと感じられますので、10年間の継続のためにも、出来るだけさまざまな無理は避けようと思います。そしてまた今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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2024年7月10日水曜日

20240710 慶應義塾大学出版会株式会社刊 福澤諭吉著 伊藤正雄訳「現代語訳 文明論之概略」 pp.103‐106より抜粋

慶應義塾大学出版会株式会社刊 福澤諭吉著 伊藤正雄訳「現代語訳 文明論之概略」
pp.103‐106より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4766417445
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4766417449

 ペリーが渡来して以来、徳川幕府が諸外国と条約を結ぶに及んで、日本人は始めて幕府の措置の拙劣さ、その弱体さを知るに至った。さらに外国人と接触して、彼らの意見を聞き、また洋書を読み、訳本を見るにつれて、いよいよ見識が広くなり、鬼神の如き幕府といえども、人の力で倒せぬことはないと信ずるようになった。たとえていえば、つんぼや盲の耳や目が急に直って、始めて声や色を見聞したようなものである。

 こうして起った最初の議論は攘夷論であった。そもそも攘夷論が起った原因は、決して人々の利己的な感情ではない。自国と外国との別を明らかにし、自国の独立を守ろうとする誠意から出たものである。開闢以来始めて見知らぬ異国人と接したのだから、真っ暗で静かな深夜から、急に騒音だらけの白昼に変ったようなものだ。見るもの聞くものすべて奇奇怪怪で、気に食わなかったのは無理もない。攘夷家の志は、自分一個の利益のためではなく、日本と外国との優劣を自分なりに想像して、身を以て万国に冠たる祖国の運命を担おうと誓ったのだから、義勇奉公の精神といわなければならぬ。もちろん急に暗やみから明るみに飛出したような時代とて、戸惑うあまり、その思想は理路整然たるわけにはゆかない。その行動もとかく粗暴で、無分別に陥りやすかった。要するに、愛国心としては、粗雑で未熟なるを免れなかったが、ともあれ、国に尽くそうというのが目的だから、やはり無私の精神とせねばならぬ。またその論は、外敵を追っ払おうという一念だけだから、きわめて単純なものである。無私の精神で単純な議論を唱えれば、当然その意気込みはエスカレートせざるを得ない。これすなわち攘夷論が最初、力を得た由縁である。世間も一時この勢にのまれて、外国と交際することの利益は見ずに、ただ外国を憎む一方となった。天下の悪事はすべて外国との交際にありとして、少しでも国内に災害があれば、何もかも外人の所業、外人の謀略と称し、国をあげて外国との交際を喜ばぬ始末であった。たといひそからにそれを欲する者があっても、世間一般の風潮に同調せざるを得なかったのである。

 ところが幕府自体は、外交の衝に当る責任者だから、外人との交渉には相当の道理を以て臨まねばならぬ。幕府の役人とて、内心外交を好む者ではなかったが、外国の圧力と理詰めの談判とに抵抗しかねて、一応外交の必要を国民に説かざるを得なかった。だが、そんな理由は、攘夷論者から見れば、いかにもいくじのない一時遁れの欺瞞にした映じない。そこで幕府は、国民の攘夷論と外国人との板ばさみとなり、進退きわまった格好である。国民の力と平衡を保つどころか、ますます体制の弱体ぶりを暴露するに至った。そこで攘夷論者はいよいよ図に乗って、その活動は天下御免の形となり、攘夷復古・尊王討幕を看板にして、もっぱら幕府を倒し、外人を追っ払うことに狂奔した。その際、殺人・放火など、識者の眉をひそめるような暴力沙汰も少なくなったが、ともあれ倒幕という点で世論は一致し、全国の知力がすべての目的に集中した結果、慶応の末年に至って、ついに維新の革命は成功したのである。

 しかるに、この線を進めてゆけば、当然王政復古の暁は、直ちに攘夷を実行すべきであるのに、そうはならなかった。また仇敵の幕府を倒した上は大願成就のはずなのに、さらに一般の大名や武士まで抹殺したのはどうしたことだろう。思うにそれは偶然ではない。攘夷論は単に維新の最初の段階にすぎず、いわゆる事の近因をなしただけだからである。国民の知力は、最初かたその進む方向が別にあった。目的とするところは、王政復古でも、攘夷でもない。復古攘夷を名目にして、実は旧来の門閥専制の制度を退治するのが眼目だったのである。だから維新の主役は皇室ではなく、また適役も幕府ではなかった。つまりは知力と専制との戦いで、これを遂行した原動力は、国民すべての知力だったのだ。この知力こそ、事の遠因だったのである。

 この遠因たる国民の知力は、開港以来、西洋文明国の学問思想を援軍としたので、洋学の勢力は強大になった。だが、知力の戦いを進めるには、先頭を切る兵隊が要るわけだ。そこでしばらくかの近因たる尊王攘夷論を味方にして、専制門閥打倒の戦いを展開し、維新を成功させて凱旋したのである。先鋒をつとめた攘夷論は、一時大いに力を得たようだが、維新後には、次第にその理論が粗雑で、永続できぬことが分かってきた、そこでかつての無鉄砲な攘夷家も、だんだん武力主義を捨てて、知力主義の方に転向し、今日の日本を見るに至ったのである。今後もこの知力がますます勢いを得て、往時の粗暴幼稚な愛国心を周密高度の愛国心に高め、それによってわが国体を護持できるならば、無量の幸福というべきである。くり返していえば、王政復古は皇室の威力によるのではなく、皇室はただ国内の知力に尊王の看板を貸したにすぎない。廃藩置県も、維新の実力者の英断によるのではなく、彼らはむしろ国内の知力に動かされて、国民のエネルギーを具体化しただけである。

20240709 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」 pp.138-142より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」
pp.138-142より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309467458
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309467450

 もし、一握りのエリート層の手に富と権力が集中するのを防ぎたいのなら、データの所有権を統制することが肝心だ。古代には、土地はこの世で最も重要な資産であり、政治は土地を支配するための戦いで、あまりに多くの土地があまりに少数の手に集中したときには、社会は貴族と庶民に分かれた。近代には機械と工場が土地よりも重要になり、政治闘争は、そうした必要不可欠な生産手段を支配することに焦点を合わせた。そして、あまりに多くの機会があまりに少数の手に集中したときには、社会は資本家階級と無産階級に分かれた。それに対して二一世紀の最も重要な資産はデータで、土地と機械はともにすっかり影が薄くなり、政治はデータの流れを支配するための戦いと化すだろう。もしデータがあまりに少数の手に集中すると、人類は異なる種に分かれることになる。

 データの獲得競争はすでに始まっており、グーグルやフェイスブック、百度(パイドウ)、勝騰(テンセント)といった巨大なデータ企業が先頭を走っている。これまでのところ、こうした巨大企業の多くは、「注意商人(attention merchant)」というビジネスモデルを採用しているようだ。彼らは無料の情報やサービスや娯楽を提供することで私たちの注意を惹き、その注意を広告主に転売する。とはいえ巨大なデータ企業はおそらく、従来のどの「注意商人」よりもはるかに上を狙っている。彼らの真の事業は広告を売ることではまったくない。むしろ、私たちの注意を惹いて、私たちに関する膨大なデータを首尾良く蓄積することだ。そうしたデータはどんな広告収入よりも価値がある。私たちは彼らの顧客ではなく、製品なのだ。

 中期的には、このようなデータの蓄積は、これまでとは根本的に異なるビジネスモデルへの道を拓く。その最初の犠牲者は、広告業界そのものになるだろう。新しいビジネスモデルは、物を選んで買う権限を含め、さまざまな権限を人間からアルゴリズムへと移すことに基づいている。いったんアルゴリズムが私たちのために物を選んで買うようになれば、旧来の広告業界は潰滅する。グーグルを考えてほしい。グーグルは、私たちが何を尋ねても、世界一の答えを与えられる段階まで到達することを望んでいる。私たちが、「こんにちは、グーグル。あなたが自動車について知っていることのいっさいと、私(私の必要や習慣、地球温暖化についての見方、さらには中東の政治についての意見まで含む)について知っていることのいっさいに基づけば、私にいちばんふさわしいのはどの自動車?」とグーグルに訊くと、どうなるか?もしグーグルが適切な答えを与えることができ、もし私たちが、簡単に操作されてしまう自分自身の感情でなくグーグルの知恵を信頼することを経験から学べば、自動車の広告など、なんの役に立つだろう?

 長期的には、巨大なデータ企業は十分なデータと十分な演算能力を併せ持つことで、生命の最も深遠な秘密をハッキングし、そうして得た知識を使って私たちのために選択をしたり私たちを操作したりするだけでなく、有機生命体を根本から作り直したり非有機生命体を創り出したりできるようになりうる。巨大なデータ企業は、短期的には経営を維持するために広告の販売を必要とするかもしれないが、アプリケーションや製品や企業を、それらが生み出すお金ではなく獲得するデータに即して評価することが多い。人気のあるアプリは、ビジネスモデルを欠いていて、短期的には損失を出しさえするかもしれないが、データを惹き寄せてくれるかぎり、莫大な金銭的価値を持ちうる。たとえ今はそのデータからどうやって利益をあげるかわからなくても、データは持っておく価値がある。なぜなら、将来、生命を制御したり、生命の行方を決めたりするカギを握っているかもしれないからだ。巨大なデータ企業がそれについてのそういう形で明確に考えているかどうかは、はっきりとはわからないが、彼らの行動を見ると、ただお金よりもデータの蓄積を重視していることがうかがわれる。

 普通の人間は、この過程に逆らおうとしたら、ひどく難儀するだろう。現時点では人々は自分の最も貴重な資産、すなわち個人データを、無料の電子メールサービスや面白おかしい猫の動画と引き換えに、喜んで手放している。色鮮やかなガラス珠や安価な装身具と引き換えに、ヨーロッパの帝国主義者に図らずも国をまるごと売ってしまったアフリカの部族やアメリカの先住民と少し似ている。後で普通の人々がデータの流れを遮断しようと決めたとしても、そうするのはしだいに困難になるだろう。自分のありとあらゆる決定はもとより、医療や身体的生存のためにさえ、ネットワークに頼るようになれば、なおさらだ。

 人間と機械は完全に融合し、人間はネットワークとの接続を絶たれれば、まったく生き延びられないようになるかもしれない。子宮の中にいるうちからネットワークに接続され、その後、接続を絶つことを選べば、保険代理店からは保険加入を拒否され、雇用者からは雇用を拒否され、医療サービスからは医療を拒否されかねない。健康とプライバシーが正面衝突したら、健康の圧勝に終わる可能性が高い。

 あなたの体や脳からバイオメトリックセンサーを通してスマートマシンへ流れるデータが増えるにつれて、企業や政府機関は簡単にあなたを知ったり、操作したり、あなたに代わって決定を下したりするようになる。なおさら重要なのだが、企業や政府機関は、すべての体と脳の難解なメカニズムを解読し、それによって生命を創り出す力を獲得しうる。そのような神のような力を一握りのエリートが独占するのを防ぎたければ、そして、人間が生物学的なカーストに分かれるのを防ぎたければ、肝心の疑問は、誰がデータを制するか、だ。私のDNAや脳や人生についてのデータは私のものなのか、政府のものなのか、どこかの企業のものなのか、人類という共同体のものなのか?

 政府にそのデータを国有化するように義務づければ、おそらく大企業の力を制限できるが、ぞっとするようなデジタル独裁国家を誕生させかねない。政治家はミュージシャンのようなもので、彼らが演奏する楽器は人間の情動系と生化学系だ。彼らが演説を行う。すると国中で恐れの波が拡がる。彼らがツイートする。すると憎しみの爆発が起こる。こうしたミュージシャンにこれ以上高性能の楽器を与えて演奏させるべきではないと思う。いったん政治家が、直接私たちの情動のスイッチを入れて、不安や憎しみ、喜び、退屈を意のままに生み出せるようになれば、政治はただの情動操作の茶番と化すだろう。私たちは大企業の力を恐れるべきではあるが、歴史を振り返ると、やたらに強力な政府の管理下に置かれるほうが必ずしもましではないことが見て取れる。

 

2024年7月8日月曜日

20240707 株式会社紀伊国屋書店刊 徳仁親王著「テムズとともにー英国の二年間」 pp.108‐111より抜粋

株式会社紀伊国屋書店刊 徳仁親王著「テムズとともにー英国の二年間」
pp.108‐111より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4314012005
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4314012003

 オックスフォードの学生は一般によく勉強する。それはチュートリアルの効果が大きく、学部学生の場合でも俗にコレクションズ(Collections)と呼ばれるテストが学期ごとに行われ、学力診断が頻繁になされることとも関係する。また、学生は自分自身の意見をはっきり表明する。それはゼミナールや種々の討論会の時などはもちろん、日常会話の節々にも現れる。チュートリアルの時には、エッセイに自分の意見が入ってなければ、先生に満足してもらうことはできない。私が接した多くの学生がひじょうに幅広い教養を身につけていることも驚いたことの一つであった。特に、彼らは何人かが集まった時の話題の出し方がとても上手であり、居合わせた人すべてが何らかの興味を示しそうな話を選び、それを発展させていく。一言でいえば社交上手である。パーティーの席などではそれが遺憾なく発揮される。私も誕生日にマートンの学生を数十人招いてパーティーをしたが、ホストである私はうまく運営しようと心配するまでもなく、彼らが上手に会を盛り上げてくれた。心配は、むしろ日本酒を普段飲みつけない学生がいともおいしそうに賞味していたことであった。案の定数人が二日酔いの憂き目にあったという。

 ところで、彼らの日本に対する興味は科学技術および経済に関するものが多く、文化に対しては、きわめて特色あるものとは認めながらも、いま一つよく分からない様子であった。要するに、何々会社がどんな製品を作り、どんな点に特色があるといったことはよく知っていても、中には日本が赤道の北にあるのか南にあるのか分からない学生もいた。そうはいっても、「折り紙」や「盆栽」といった言葉がすでに多くの学生の間で知られていたのは嬉しいことであった。

 学生の身なりが質素な点も一つの特色であろう。また、それと同時に服装がバラエティーに富むことも見逃せない。すりきれたジーンズ、つぎのあたったセーターを平気で着、それでいて色の組み合わせなどにその人独自の個性が見られる点も面白い。夕刻になると、パーティーに行くためかディナー・ジャケットに身を包んだ学生の姿をよく見かける。特に女性が普段地味なのも、ひょっとすると彼女たちの着飾った自分たちを知っており、それができる自信が、通常の服装をかえって目立たなくさせているようにさえ思えるのである。

 オックスフォードでは学生はたいがい自分の自転車を持っている。オックスフォード市には一方通行の道が多く、市中心部の道路は大半が駐車禁止であることから、自動車はむしろ不便で、図書館や研究施設に自転車で通う学生の姿が多く見られる。私が初めてオックスフォードで自転車に乗った日、これを見たある学生が、私に「ああ、君もこれで本当のオックスフォードの学生になったね」と言ったが、それほどに学生と自転車は切りはなせないものとなっている。どの学生の自転車も相当年季が入っており、前輪と後輪とが乗っているうちにバラバラになりそうな代物が多い。自動車となると、持っている学生はかなり限られる。コレッジ内に住んでいる分には、どこに行くにも自転車の方が便利だからである。しかし、外部に住んでいる学生はその限りではなお。私も大学院生の車に乗せてもらったことがあったが、これもいつこわれるか分からないような相当古いものだった。服装といい、乗り物といい、古くて多少きたなくなっても使っているのは、オックスフォードでの一つのファッションなのであろうか。

 このように見てくると、オックスフォードの学生はすべて優等生と思われるかも知れないが、実はオックスフォードにはずいぶん変わった学生もいる。先に紹介した額に星のマークをつけている女子学生をはじめ、パンク・ファッションの学生もいないわけではない。また、あまりに頭が良すぎてとてもその人の発想についていけないこともあった。頭がいいといえば、私が入学した年、オックスフォードに弱冠十三歳の数学専攻の女性が入学したが、他のどの学生よりもよくでき、三年間在学しなければ卒業できない決まりがあるにも関わらず三年目に受ける試験を二年目で受けてしまった人がいた。

 変わっているという点では、ドンと呼ばれるオックスフォードの先生の方が面白い。見かけからしていわゆるエクセントリックな先生がいる。真冬でもワイシャツ一枚で出歩いたり、髪の毛をいっさい切らなかったり、窓のカーテンをすべて閉めきって研究していたり様々である。しかし、総じてオックスフォードの先生はまるで歩いている字引のようにものをよく知っている。学生がハイ・テーブルに招かれても、先生方はあまりに頭が切れ知識が多いので、会話に困る学生もいるといった話はすでにした。マートンのある先生がクイズに出て、ただ一人の全問正解を遂げたなどのエピソードも伝え聞いた。オックスフォードの先生でその名のよく知られている人に、「不思議の国のアリス」の作者ルイス・キャロル(本名はドッジソン)がいる。彼はクライスト・チャーチ・コレッジで学び、そのコレッジで数学を教えていた。「不思議の国のアリス」は同コレッジのリデル学長の三人の息女と一人の同僚とともにテムズを船で遡る際に、彼女らの頼みに応じてルイスが語った次女のアリスを主人公とする物語である。また、映画「アラビアのローレンス」の主人公ローレンスもオックスフォードのオール・ソウルズ・コレッジの先生であった。