2024年7月10日水曜日

20240710 慶應義塾大学出版会株式会社刊 福澤諭吉著 伊藤正雄訳「現代語訳 文明論之概略」 pp.103‐106より抜粋

慶應義塾大学出版会株式会社刊 福澤諭吉著 伊藤正雄訳「現代語訳 文明論之概略」
pp.103‐106より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4766417445
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4766417449

 ペリーが渡来して以来、徳川幕府が諸外国と条約を結ぶに及んで、日本人は始めて幕府の措置の拙劣さ、その弱体さを知るに至った。さらに外国人と接触して、彼らの意見を聞き、また洋書を読み、訳本を見るにつれて、いよいよ見識が広くなり、鬼神の如き幕府といえども、人の力で倒せぬことはないと信ずるようになった。たとえていえば、つんぼや盲の耳や目が急に直って、始めて声や色を見聞したようなものである。

 こうして起った最初の議論は攘夷論であった。そもそも攘夷論が起った原因は、決して人々の利己的な感情ではない。自国と外国との別を明らかにし、自国の独立を守ろうとする誠意から出たものである。開闢以来始めて見知らぬ異国人と接したのだから、真っ暗で静かな深夜から、急に騒音だらけの白昼に変ったようなものだ。見るもの聞くものすべて奇奇怪怪で、気に食わなかったのは無理もない。攘夷家の志は、自分一個の利益のためではなく、日本と外国との優劣を自分なりに想像して、身を以て万国に冠たる祖国の運命を担おうと誓ったのだから、義勇奉公の精神といわなければならぬ。もちろん急に暗やみから明るみに飛出したような時代とて、戸惑うあまり、その思想は理路整然たるわけにはゆかない。その行動もとかく粗暴で、無分別に陥りやすかった。要するに、愛国心としては、粗雑で未熟なるを免れなかったが、ともあれ、国に尽くそうというのが目的だから、やはり無私の精神とせねばならぬ。またその論は、外敵を追っ払おうという一念だけだから、きわめて単純なものである。無私の精神で単純な議論を唱えれば、当然その意気込みはエスカレートせざるを得ない。これすなわち攘夷論が最初、力を得た由縁である。世間も一時この勢にのまれて、外国と交際することの利益は見ずに、ただ外国を憎む一方となった。天下の悪事はすべて外国との交際にありとして、少しでも国内に災害があれば、何もかも外人の所業、外人の謀略と称し、国をあげて外国との交際を喜ばぬ始末であった。たといひそからにそれを欲する者があっても、世間一般の風潮に同調せざるを得なかったのである。

 ところが幕府自体は、外交の衝に当る責任者だから、外人との交渉には相当の道理を以て臨まねばならぬ。幕府の役人とて、内心外交を好む者ではなかったが、外国の圧力と理詰めの談判とに抵抗しかねて、一応外交の必要を国民に説かざるを得なかった。だが、そんな理由は、攘夷論者から見れば、いかにもいくじのない一時遁れの欺瞞にした映じない。そこで幕府は、国民の攘夷論と外国人との板ばさみとなり、進退きわまった格好である。国民の力と平衡を保つどころか、ますます体制の弱体ぶりを暴露するに至った。そこで攘夷論者はいよいよ図に乗って、その活動は天下御免の形となり、攘夷復古・尊王討幕を看板にして、もっぱら幕府を倒し、外人を追っ払うことに狂奔した。その際、殺人・放火など、識者の眉をひそめるような暴力沙汰も少なくなったが、ともあれ倒幕という点で世論は一致し、全国の知力がすべての目的に集中した結果、慶応の末年に至って、ついに維新の革命は成功したのである。

 しかるに、この線を進めてゆけば、当然王政復古の暁は、直ちに攘夷を実行すべきであるのに、そうはならなかった。また仇敵の幕府を倒した上は大願成就のはずなのに、さらに一般の大名や武士まで抹殺したのはどうしたことだろう。思うにそれは偶然ではない。攘夷論は単に維新の最初の段階にすぎず、いわゆる事の近因をなしただけだからである。国民の知力は、最初かたその進む方向が別にあった。目的とするところは、王政復古でも、攘夷でもない。復古攘夷を名目にして、実は旧来の門閥専制の制度を退治するのが眼目だったのである。だから維新の主役は皇室ではなく、また適役も幕府ではなかった。つまりは知力と専制との戦いで、これを遂行した原動力は、国民すべての知力だったのだ。この知力こそ、事の遠因だったのである。

 この遠因たる国民の知力は、開港以来、西洋文明国の学問思想を援軍としたので、洋学の勢力は強大になった。だが、知力の戦いを進めるには、先頭を切る兵隊が要るわけだ。そこでしばらくかの近因たる尊王攘夷論を味方にして、専制門閥打倒の戦いを展開し、維新を成功させて凱旋したのである。先鋒をつとめた攘夷論は、一時大いに力を得たようだが、維新後には、次第にその理論が粗雑で、永続できぬことが分かってきた、そこでかつての無鉄砲な攘夷家も、だんだん武力主義を捨てて、知力主義の方に転向し、今日の日本を見るに至ったのである。今後もこの知力がますます勢いを得て、往時の粗暴幼稚な愛国心を周密高度の愛国心に高め、それによってわが国体を護持できるならば、無量の幸福というべきである。くり返していえば、王政復古は皇室の威力によるのではなく、皇室はただ国内の知力に尊王の看板を貸したにすぎない。廃藩置県も、維新の実力者の英断によるのではなく、彼らはむしろ国内の知力に動かされて、国民のエネルギーを具体化しただけである。

20240709 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」 pp.138-142より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」
pp.138-142より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309467458
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309467450

 もし、一握りのエリート層の手に富と権力が集中するのを防ぎたいのなら、データの所有権を統制することが肝心だ。古代には、土地はこの世で最も重要な資産であり、政治は土地を支配するための戦いで、あまりに多くの土地があまりに少数の手に集中したときには、社会は貴族と庶民に分かれた。近代には機械と工場が土地よりも重要になり、政治闘争は、そうした必要不可欠な生産手段を支配することに焦点を合わせた。そして、あまりに多くの機会があまりに少数の手に集中したときには、社会は資本家階級と無産階級に分かれた。それに対して二一世紀の最も重要な資産はデータで、土地と機械はともにすっかり影が薄くなり、政治はデータの流れを支配するための戦いと化すだろう。もしデータがあまりに少数の手に集中すると、人類は異なる種に分かれることになる。

 データの獲得競争はすでに始まっており、グーグルやフェイスブック、百度(パイドウ)、勝騰(テンセント)といった巨大なデータ企業が先頭を走っている。これまでのところ、こうした巨大企業の多くは、「注意商人(attention merchant)」というビジネスモデルを採用しているようだ。彼らは無料の情報やサービスや娯楽を提供することで私たちの注意を惹き、その注意を広告主に転売する。とはいえ巨大なデータ企業はおそらく、従来のどの「注意商人」よりもはるかに上を狙っている。彼らの真の事業は広告を売ることではまったくない。むしろ、私たちの注意を惹いて、私たちに関する膨大なデータを首尾良く蓄積することだ。そうしたデータはどんな広告収入よりも価値がある。私たちは彼らの顧客ではなく、製品なのだ。

 中期的には、このようなデータの蓄積は、これまでとは根本的に異なるビジネスモデルへの道を拓く。その最初の犠牲者は、広告業界そのものになるだろう。新しいビジネスモデルは、物を選んで買う権限を含め、さまざまな権限を人間からアルゴリズムへと移すことに基づいている。いったんアルゴリズムが私たちのために物を選んで買うようになれば、旧来の広告業界は潰滅する。グーグルを考えてほしい。グーグルは、私たちが何を尋ねても、世界一の答えを与えられる段階まで到達することを望んでいる。私たちが、「こんにちは、グーグル。あなたが自動車について知っていることのいっさいと、私(私の必要や習慣、地球温暖化についての見方、さらには中東の政治についての意見まで含む)について知っていることのいっさいに基づけば、私にいちばんふさわしいのはどの自動車?」とグーグルに訊くと、どうなるか?もしグーグルが適切な答えを与えることができ、もし私たちが、簡単に操作されてしまう自分自身の感情でなくグーグルの知恵を信頼することを経験から学べば、自動車の広告など、なんの役に立つだろう?

 長期的には、巨大なデータ企業は十分なデータと十分な演算能力を併せ持つことで、生命の最も深遠な秘密をハッキングし、そうして得た知識を使って私たちのために選択をしたり私たちを操作したりするだけでなく、有機生命体を根本から作り直したり非有機生命体を創り出したりできるようになりうる。巨大なデータ企業は、短期的には経営を維持するために広告の販売を必要とするかもしれないが、アプリケーションや製品や企業を、それらが生み出すお金ではなく獲得するデータに即して評価することが多い。人気のあるアプリは、ビジネスモデルを欠いていて、短期的には損失を出しさえするかもしれないが、データを惹き寄せてくれるかぎり、莫大な金銭的価値を持ちうる。たとえ今はそのデータからどうやって利益をあげるかわからなくても、データは持っておく価値がある。なぜなら、将来、生命を制御したり、生命の行方を決めたりするカギを握っているかもしれないからだ。巨大なデータ企業がそれについてのそういう形で明確に考えているかどうかは、はっきりとはわからないが、彼らの行動を見ると、ただお金よりもデータの蓄積を重視していることがうかがわれる。

 普通の人間は、この過程に逆らおうとしたら、ひどく難儀するだろう。現時点では人々は自分の最も貴重な資産、すなわち個人データを、無料の電子メールサービスや面白おかしい猫の動画と引き換えに、喜んで手放している。色鮮やかなガラス珠や安価な装身具と引き換えに、ヨーロッパの帝国主義者に図らずも国をまるごと売ってしまったアフリカの部族やアメリカの先住民と少し似ている。後で普通の人々がデータの流れを遮断しようと決めたとしても、そうするのはしだいに困難になるだろう。自分のありとあらゆる決定はもとより、医療や身体的生存のためにさえ、ネットワークに頼るようになれば、なおさらだ。

 人間と機械は完全に融合し、人間はネットワークとの接続を絶たれれば、まったく生き延びられないようになるかもしれない。子宮の中にいるうちからネットワークに接続され、その後、接続を絶つことを選べば、保険代理店からは保険加入を拒否され、雇用者からは雇用を拒否され、医療サービスからは医療を拒否されかねない。健康とプライバシーが正面衝突したら、健康の圧勝に終わる可能性が高い。

 あなたの体や脳からバイオメトリックセンサーを通してスマートマシンへ流れるデータが増えるにつれて、企業や政府機関は簡単にあなたを知ったり、操作したり、あなたに代わって決定を下したりするようになる。なおさら重要なのだが、企業や政府機関は、すべての体と脳の難解なメカニズムを解読し、それによって生命を創り出す力を獲得しうる。そのような神のような力を一握りのエリートが独占するのを防ぎたければ、そして、人間が生物学的なカーストに分かれるのを防ぎたければ、肝心の疑問は、誰がデータを制するか、だ。私のDNAや脳や人生についてのデータは私のものなのか、政府のものなのか、どこかの企業のものなのか、人類という共同体のものなのか?

 政府にそのデータを国有化するように義務づければ、おそらく大企業の力を制限できるが、ぞっとするようなデジタル独裁国家を誕生させかねない。政治家はミュージシャンのようなもので、彼らが演奏する楽器は人間の情動系と生化学系だ。彼らが演説を行う。すると国中で恐れの波が拡がる。彼らがツイートする。すると憎しみの爆発が起こる。こうしたミュージシャンにこれ以上高性能の楽器を与えて演奏させるべきではないと思う。いったん政治家が、直接私たちの情動のスイッチを入れて、不安や憎しみ、喜び、退屈を意のままに生み出せるようになれば、政治はただの情動操作の茶番と化すだろう。私たちは大企業の力を恐れるべきではあるが、歴史を振り返ると、やたらに強力な政府の管理下に置かれるほうが必ずしもましではないことが見て取れる。

 

2024年7月8日月曜日

20240707 株式会社紀伊国屋書店刊 徳仁親王著「テムズとともにー英国の二年間」 pp.108‐111より抜粋

株式会社紀伊国屋書店刊 徳仁親王著「テムズとともにー英国の二年間」
pp.108‐111より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4314012005
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4314012003

 オックスフォードの学生は一般によく勉強する。それはチュートリアルの効果が大きく、学部学生の場合でも俗にコレクションズ(Collections)と呼ばれるテストが学期ごとに行われ、学力診断が頻繁になされることとも関係する。また、学生は自分自身の意見をはっきり表明する。それはゼミナールや種々の討論会の時などはもちろん、日常会話の節々にも現れる。チュートリアルの時には、エッセイに自分の意見が入ってなければ、先生に満足してもらうことはできない。私が接した多くの学生がひじょうに幅広い教養を身につけていることも驚いたことの一つであった。特に、彼らは何人かが集まった時の話題の出し方がとても上手であり、居合わせた人すべてが何らかの興味を示しそうな話を選び、それを発展させていく。一言でいえば社交上手である。パーティーの席などではそれが遺憾なく発揮される。私も誕生日にマートンの学生を数十人招いてパーティーをしたが、ホストである私はうまく運営しようと心配するまでもなく、彼らが上手に会を盛り上げてくれた。心配は、むしろ日本酒を普段飲みつけない学生がいともおいしそうに賞味していたことであった。案の定数人が二日酔いの憂き目にあったという。

 ところで、彼らの日本に対する興味は科学技術および経済に関するものが多く、文化に対しては、きわめて特色あるものとは認めながらも、いま一つよく分からない様子であった。要するに、何々会社がどんな製品を作り、どんな点に特色があるといったことはよく知っていても、中には日本が赤道の北にあるのか南にあるのか分からない学生もいた。そうはいっても、「折り紙」や「盆栽」といった言葉がすでに多くの学生の間で知られていたのは嬉しいことであった。

 学生の身なりが質素な点も一つの特色であろう。また、それと同時に服装がバラエティーに富むことも見逃せない。すりきれたジーンズ、つぎのあたったセーターを平気で着、それでいて色の組み合わせなどにその人独自の個性が見られる点も面白い。夕刻になると、パーティーに行くためかディナー・ジャケットに身を包んだ学生の姿をよく見かける。特に女性が普段地味なのも、ひょっとすると彼女たちの着飾った自分たちを知っており、それができる自信が、通常の服装をかえって目立たなくさせているようにさえ思えるのである。

 オックスフォードでは学生はたいがい自分の自転車を持っている。オックスフォード市には一方通行の道が多く、市中心部の道路は大半が駐車禁止であることから、自動車はむしろ不便で、図書館や研究施設に自転車で通う学生の姿が多く見られる。私が初めてオックスフォードで自転車に乗った日、これを見たある学生が、私に「ああ、君もこれで本当のオックスフォードの学生になったね」と言ったが、それほどに学生と自転車は切りはなせないものとなっている。どの学生の自転車も相当年季が入っており、前輪と後輪とが乗っているうちにバラバラになりそうな代物が多い。自動車となると、持っている学生はかなり限られる。コレッジ内に住んでいる分には、どこに行くにも自転車の方が便利だからである。しかし、外部に住んでいる学生はその限りではなお。私も大学院生の車に乗せてもらったことがあったが、これもいつこわれるか分からないような相当古いものだった。服装といい、乗り物といい、古くて多少きたなくなっても使っているのは、オックスフォードでの一つのファッションなのであろうか。

 このように見てくると、オックスフォードの学生はすべて優等生と思われるかも知れないが、実はオックスフォードにはずいぶん変わった学生もいる。先に紹介した額に星のマークをつけている女子学生をはじめ、パンク・ファッションの学生もいないわけではない。また、あまりに頭が良すぎてとてもその人の発想についていけないこともあった。頭がいいといえば、私が入学した年、オックスフォードに弱冠十三歳の数学専攻の女性が入学したが、他のどの学生よりもよくでき、三年間在学しなければ卒業できない決まりがあるにも関わらず三年目に受ける試験を二年目で受けてしまった人がいた。

 変わっているという点では、ドンと呼ばれるオックスフォードの先生の方が面白い。見かけからしていわゆるエクセントリックな先生がいる。真冬でもワイシャツ一枚で出歩いたり、髪の毛をいっさい切らなかったり、窓のカーテンをすべて閉めきって研究していたり様々である。しかし、総じてオックスフォードの先生はまるで歩いている字引のようにものをよく知っている。学生がハイ・テーブルに招かれても、先生方はあまりに頭が切れ知識が多いので、会話に困る学生もいるといった話はすでにした。マートンのある先生がクイズに出て、ただ一人の全問正解を遂げたなどのエピソードも伝え聞いた。オックスフォードの先生でその名のよく知られている人に、「不思議の国のアリス」の作者ルイス・キャロル(本名はドッジソン)がいる。彼はクライスト・チャーチ・コレッジで学び、そのコレッジで数学を教えていた。「不思議の国のアリス」は同コレッジのリデル学長の三人の息女と一人の同僚とともにテムズを船で遡る際に、彼女らの頼みに応じてルイスが語った次女のアリスを主人公とする物語である。また、映画「アラビアのローレンス」の主人公ローレンスもオックスフォードのオール・ソウルズ・コレッジの先生であった。

2024年7月6日土曜日

20240706 株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 下巻 pp.133-137より抜粋

株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 下巻 pp.133-137より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480087389
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480087386

 アイヌ民族が行っている熊の生贄の意味についてもまた、不確かなものがある。これは日本列島の島、エゾとサハリン、および千島列島の南部にも住む未開民族である。アイヌの熊に対する態度は、容易には理解しがたい。彼らは熊を「カムイ」という、「神」を意味する名で呼ぶが、一方で同じ語は外来者に対しても用いられるので、おそらく、超人的な力を備えているとみなされる存在以外の何者をも指してはいないだろう。またつぎのようにも言われている。「熊は彼らの主要な神である」。「アイヌの宗教において、熊は主要な役割を果たしている」。「動物の中で、とりわけ偶像として崇拝されているのが熊である」。「彼らは熊を独自の方法で崇拝する。…この野生の動物が、自然の非動物界の力よりも強力に、人に崇拝の念を呼び起こすものであることは疑いを容れない。アイヌ民族は、熊崇拝者と分類してよいだろう」。だが一方で彼らは、殺せるときはいつでも熊を殺す。「男たちは、秋と冬と春には、鹿と熊を狩って過ごす。貢物や税はその毛皮で支払われ、その乾燥肉を食べて暮らす」。実際熊の肉は彼らの主食のひとつである。生のまま食べることもあれば、塩漬けにして食べることもある。また熊の毛皮は彼らの衣服となる。事実、この主題について述べている著述家によれば、その「崇拝」は、もっぱら死んだ動物に対してのみ行われるものと見える。つまり、彼らは殺せるときはいつでも熊を殺すが、その死体を解体する過程で、入念に敬意を表し、謝罪のことばを述べながら、この神性を宥めようと努める。彼らが殺したのはその神の表象なのである」。「熊が罠にかかったり矢で射抜かれたりすると、猟師たちは謝罪の儀式ないし贖いの儀式を執り行う」。殺された熊の頭蓋は、小屋の中野栄誉ある場所に置かれるか、小屋の外の神聖な場所に置かれ、大変敬意をもって扱われる。これには「サケ」という名の神酒が捧げられる。キツネの頭蓋もまた小屋の外の神聖が場所に固定され、悪霊に対する護符とみなされ、また神託を求められる。だがつぎの点ははっきりと述べられている。「生きているキツネは生きている熊と同様、崇められることはほとんどない。人々はむしろこれを、できる限り避けようとする。ずる賢い動物と考えているのだ」。したがって熊は、アイヌによって神聖な動物として語られることはない。また明らかにトーテムではない。というのも、人々は自らを熊と称することはないし、自分たちが熊の子孫であるという伝説を持っていないように見える。彼らはこの動物を好きなように殺し、食するのである。

 だがここでわれわれに関係があるのは、アイヌの熊の祭り(いわゆる「イオマンテ」、「熊送り」を指す)である。冬の終わりになると、彼らは幼い熊を捕らえて村に連れてくる。最初はアイヌの女が乳を与え、その後は魚が与えられる。強い大人の熊に育ち、入れられている木の檻を壊す恐れがあるほどになると、祭りが催される。しかし「とりわけ驚かされるのは、幼い熊が単に上質の食べ物を与えられるのみならず、呪物として、あるいはむしろ、一種の高次の存在として扱われ、崇められている事実である」。祭りは一般に九月か十月に行われる。その前にアイヌたちは神々に謝罪し、これまでこの熊を可能な限り大切に扱ってきたが、もはやこれ以上食事を与えることはできず、殺さざるを得ない、と申し立てる。熊の祭りを行う男は親戚や友人を招き、小さな村ではほとんど村人全員がこの祭りに加わることになる。このような祭りのひとつについては、ショイベ博士が目撃し、記録している。博士が小屋に入ると、およそ三十人のアイヌたちがいた。男も女も子どもも、皆盛装している。この家の主人はまず、炉で火の神に神酒を捧げ、他の客たちもこれに倣う。つぎに神酒はこの小屋の聖所で家の神にも捧げられる。その間、これまで熊を育ててきた家の主婦は、ひとり悲しみに沈んで静かに座り、ときおり涙を溢れさす。彼女の悲しみに偽りがないことは明らかであり、それは祭りの進行とともに深まるばかりである。つぎに、家の主人と何人かの客が小屋から出て、熊の檻の前で神酒を捧げる。数滴は皿に入れて熊に与えられるが、熊はすぐにこれをひっくり返す。そして主婦たちと娘たちが、檻の前で踊る。熊の檻に顔を向け、膝をわずかに曲げ、起き上がっては爪先で飛び上がるという踊りである。踊りながら女たちは手拍子を打ち単調な歌を歌う。家の主婦と、これまで多くの熊を育ててきた少数の老婆たちも、涙を流しながら踊る。熊に向かって両腕を差し出し、愛情のこもったことばで呼びかける。若者たちはほとんど悲しみとは無縁の様子で、笑いながら歌を歌う。騒がしさに心乱された熊は檻の中で激しく動き回り、悲しげな遠吠えを上げる。つぎに、アイヌの小屋の外に立てられている、イナウ(著者はinabosと記しているが、複数のイナウの意であろう。幣同様、神事に用いられる木製の幣束)という名の神聖な細枝の束に、神酒が捧げられる。この枝は二フィートほどの長さで、先端は削られ、螺旋状の鉋屑のようになっている。この祭りでは、笹の葉を付けた五本の新しいイナウが立てられた。これは熊が殺されるときにはかならず立てられるものである。笹の葉には、熊が甦るようにという願いが込められている。熊が檻から出されると、首に縄が掛けられ、小屋の周りを引き回される。この間、男たちは、ひとりの長に先導され、先端に丸い木の付いた矢を放つ。ショイベ博士もこれに加わらなければならなかった。つぎに熊はイナウの前に連れてこられ、一本の棒が口に入れられる。九人の男が膝で抑えつけ、柱に首を押しつける。五分後には熊は声も上げずに息絶える。一方主婦たちと娘たちは男たちの後ろに立ち、歎きながら踊り、熊を殺した男たちを打つ。つぎに熊の遺体は、イナウの前に敷かれた筵の上に置かれ、イナウの中から取り出された剣と箙が熊の首に下げられる。熊が雄の場合、首飾りと耳輪もつけられる。そして雑穀の煮汁と雑穀の塊、および鉢一杯の酒が、食べ物ととして熊に捧げられる。死んだ熊を前にして筵の上に座っている男たちは、これに神酒を捧げ、大酒を飲む。一方主婦たちと娘たちは、悲しみの跡をすっかり消し去り、陽気に踊り、老婆たちもまただれにも劣らず陽気に踊る。宴たけなわとなった頃、熊を檻から出した二人の若者が、小屋の屋根に上り雑穀の塊を皆に投げる。皆は老若男女の区別なく、これを奪い合う。つぎには熊は皮を剥がれ、はらわたを抜かれ、胴から首が切り落とされるが、このとき、皮は首のほうに残るようにする。血は椀に受けられ、これを男たちが大いにありがたがって飲む。禁じられてはいないものの、女と子どもは飲まないようである。肝臓は細かく切り刻まれて生のまま塩をつけて食されるが、これは女も子どもも食べる。肉とその他の内臓は家に持ち帰られ、翌々日まで保管されるが、その日には、宴に参加した者たち全員がこれを分け合う。血と肝臓はショイベ博士にも配られた。熊がはらわたを抜かれている間、主婦たちと娘たちは最初と同じ踊りを踊る。だが今回は檻の周りではなく、イナウの周りを踊る。この踊りで、先ほどまで陽気だった老婆たちは、再びさんざん涙を流す。熊の頭から脳が取り出され、これが塩とともに飲み干されると、頭蓋は皮から切り離され、イナウの傍の竿に吊るされる。熊の轡となっていた棒もまた、竿に括り付けられ、遺体に下げられていた剣と箙も同様に竿に付けられる。後者は一時間ほどで外されるが、他はその後もそこに立てられたままになる。人々は皆、男も女もこの竿の前で騒々しく踊り、今度は女たちも加わって酒宴が始まり、これが終わると祭りも終わる。


Chatgptを用いて作成した要旨
アイヌ民族が行う熊の生贄の意味は明確には理解されていない。アイヌは日本列島のエゾ、サハリン、千島列島南部に住む民族であり、熊に対して「カムイ」という「神」を意味する名を用いる。しかし、この言葉は外来者にも使用され、超人的な力を持つ存在を指している可能性が高い。熊はアイヌの主要な神であり、特別な崇拝の対象であるとされる一方で、彼らは熊を頻繁に狩り、肉や毛皮を利用する。熊の肉はアイヌの主食のひとつであり、熊の毛皮は衣服として使われる。この矛盾した態度は、彼らが熊を殺す際に入念に敬意を払い、謝罪の言葉を述べながら解体することに現れている。殺された熊の頭蓋は神聖な場所に置かれ、神酒が捧げられる。キツネの頭蓋も同様に扱われるが、生きているキツネは熊ほど崇拝されない。アイヌは熊をトーテムとは見なしておらず、自らを熊の子孫と称する伝説も持たない。

特に重要なのはアイヌの熊の祭り「イオマンテ」だ。冬の終わりに幼い熊を捕まえ、アイヌの女が乳を与え、後には魚を与える。熊が成長し、檻を壊す恐れがあるほどになると、祭りが催される。祭りは九月か十月に行われ、熊に対する謝罪の言葉と共に熊を殺すことが申し立てられる。祭りには親戚や友人、村人全員が参加し、神酒が捧げられ、踊りが行われる。熊が檻から出され、首に縄を掛けられ、小屋の周りを引き回され、矢を放たれる。熊が殺されると、その遺体は神聖な場所に置かれ、剣と箙が首に下げられ、雑穀の煮汁と酒が捧げられる。死んだ熊の前で神酒を捧げ、大酒を飲む一方、女たちは悲しみから陽気に変わり、踊り続ける。熊が皮を剥がれ、はらわたを抜かれた後、その肉は保管され、参加者全員で分け合う。熊の頭蓋は皮から切り離され、神聖な竿に吊るされ、祭りが終わると共に、皆で酒宴が始まる。

このように、アイヌの熊の生贄の儀式は単なる食料確保や毛皮利用以上の宗教的、社会的意味を持つものであり、熊は崇拝される対象でありながら、生活の一部として狩猟される存在である。アイヌの熊に対する態度は、自然との共生や霊的な関係を示すものであり、彼らの文化や信仰の深層に根ざしている。

2024年7月3日水曜日

20240702 株式会社筑摩書房刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「呪われた部分ー全般経済学試論・蕩尽」 pp.74‐76より抜粋

株式会社筑摩書房刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「呪われた部分ー全般経済学試論・蕩尽」
pp.74‐76より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480098402
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480098405

我々は、メキシコ先住民の人身御供を、それ以前の人身御供よりも、完全に、そして生々しく知っているのだが、このメキシコの人身御供ときたら、宗教儀式の残酷史を頂点へ至らしめているのである。

 神官たちはピラミッドの高みで生け贄を殺害した。彼らは生け贄を石の祭壇の上に横たえて、その胸を黒曜石の刃物で突き刺すのだ。それから、まだ脈打つ心臓を取り出して、太陽へ掲げるのである。大多数の生け贄は戦争の捕虜だった。それゆえ、太陽の生命に必要な戦争という考えは正当化された。戦争は、征服ではなく、蕩尽という意味を持っていたのだ。戦争がなくなると、太陽が地上を明るく照らすこともなくなるとメキシコ先住の人々は考えていた。

 「復活祭のころに」一人の若くて、非の打ちどころのない美しい男が、生け贄に投じられた。この男は、すでに一年前に捕虜のなかから選ばれていたのだ。以後彼は大貴族のように暮らしていた。「手に花を持って、お供の人々に囲まれて町の中を練り歩いた。会う人みなに優雅に挨拶すると、挨拶された方も、彼をテズカトリポカ(最も偉大な神の一柱)の化身とみなし、彼の前に跪いて敬意を表するのだった。」ときどきカウチクシカルコのピラミッドの上の神殿で彼の姿が見受けられた。「彼は、昼でも夜でも気が向くと、その頂きに行って、横笛を吹き、それが終わると、世界の様々な所へむけてお香を焚き、自分の住まいへ帰るのだった。」彼の生活の優雅さや貴公子然とした気品のために人々はありとあらゆる気配りをした。「彼が太りだしたときには、細身の体型を維持できるようにと、人々は彼に塩入りの水を飲むように促した。」供儀の祭に先立つ二〇日間、この若い男は四人の成熟した娘をあてがわれ、彼女たちと肉体関係を結んだ。この四人の娘はこの目的のためにとても大切に育てられてきたのである。娘たちはそれぞれ女神の名前を与えられていた。(・・・)生け贄にされる祭の五日前には神として尊ばれた。王は宮殿のなかにいたが、宮廷の人々はこの若い男に付き従った。彼のために涼しくて快適な場所で様々な宴が催された(・・・)。彼の死の日が近づくと、彼はオトラコシュカルコと呼ばれる礼拝所へ連れて行かれた。しかしそこに行き着く前にトラピトザナヤンという名の地点に達すると、お付きの女たちは彼から離れ、彼を捨て去った。殺害される場に着くと、彼は神殿の階段を自分で登るのだが、その一段一段で、一年の間、音楽を奏でるのに用いてきた横笛の一つ一つを壊していくのだった。ピラミッドの頂きに達すると、彼を殺害する準備を整えた権力者たち(神官たち)が彼の身体を取り押さえて石の台の上に投げ置く。仰向けに寝かされると、彼は、手と足と頭をしっかり固定される。黒曜石の刀を持った神官が一撃でその刃物を彼の胸に突き刺す。刀を引き抜くと、今度は、その切り開いたばかりの開口部へ手を入れて心臓を抜き取り、すぐに太陽へ奉納するのである」・

 この若い男の遺体は大切に扱われる。神殿の中庭へゆっくり降ろされるのだ。並の生け贄の場合は、ピラミッドの階段の下まで投げ捨てられる。最も激しい暴力が常態なのである。たとえば遺体から皮をはがしたりする。そして神官がすぐにこの血みどろの皮をまとうのだ。何人かの人間を一個のゆで釜のなかへ入れておくこともある。そこからかぎ針で吊るし出して、生きたまま石の台の上に乗せるのだ。多くの場合、生け贄に供された人体の肉は食された。祭りは休みなく次から次に行われ、毎年、神事のための生け贄は途方もない数にのぼった。二万という数まで出されている。生け贄のなかで神の化身となった者は、まさに神のように列席者に囲まれたまま、供儀の場へ登っていき死の局面へ至るのである。

2024年6月30日日曜日

20240630 株式会社岩波書店刊 トルストイ著 中村白葉訳「セヷストーポリ」 pp.73‐77より抜粋

株式会社岩波書店刊 トルストイ著 中村白葉訳「セヷストーポリ」pp.73‐77より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003262026
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003262023

 ブラスクーヒンは、ミハイロフと肩を並べて進みながら、カルーギンと別れていくらか危険の少ない場所へ近づき、やっとやや元気を恢復しかけた時、背後に明るく輝く雷光を見、「臼砲!」と叫ぶ哨兵の声を聞き、うしろからくる兵の一人のー「まっすぐ稜堡へ飛んでくる!」という言葉を耳にした。

 ミハイロフは振返った。爆弾の光る點は、さながらその頂點に、どうにもその方向を見定めることのできないような位置に静止しているように思われた。しかし、それはほんの一瞬間のことであったー爆弾はますます早く、ますます近く飛来して、忽ちのうちに導火線の火元が見え、運命的なうなりが聞えて、まともに大隊の中心へ落ちてきた。

「伏せッ!」と誰かの声が叫んだ。

 ミハイロフとブラスクーヒンは地面へひれ伏した。ブラスクーヒンは眼を閉じながら、ただ爆弾がどこか非常に近いところで音高く堅い地面に打突かるのを聞いただけであった。一時間にも思われた一秒が過ぎた、-爆弾は破裂しなかった。ブラスクーヒンははっと思ったー自分は徒に臆病な態度を見せたのではなかったろうか?ひょっとすると、爆弾は遠くの方へ落ちたので、ただ彼にだけ、導火線がすくそこでしゅうしゅういっているように思われたのかも知れない。彼は眼をあけ、ミハイロフが自分の足もとに身動きもせず地面にへばりついているのを見て、満足を覚えた。けれどもその瞬間に彼の眼は、わが身から三尺とはなれないところでくるくる廻っている爆弾の光る導火線とばったり出会った。

 恐怖、他の一切の思想・感情を押退けてしまうような冷たい恐怖が、彼の全存在をひっつかんだ。彼は両手で顔を蔽った。

 また一秒が経過した、-一秒ではあるがそのあいだに、感情・思想・希望・回想の一大世界が、彼の脳裡をひらめき通った。

 《誰がやられるだろうーおれかミハイロフか、それとも二人一しょか?もしおれだとしたら、どこをやられるだろう?もし頭だったら、万事休すだ。が、もし足だったら、切断される、その時は、ぜひ、クロロホルムをかけてもらおう、そうすれば、おれはまだ生きていられる。が、ひょっとすると、ミハイロフだけがやられるかも知れん-その時はおれが話してやるんだ、二人並んで歩いていたこと、彼がやられて、その血がおれにはねかかったこと。いや、おれの方が近い・・・おれだ!》

 そこで彼は、ミハイロフから借りている二十ルーブリのことを思い出し、さらにまた、もう疾くに拂っていなければならなかった。ペテルブルグでの或る借金のことを思い出した。昨夜自分がうたったジプシイの唄が頭に浮んだ。嘗て愛していた女が、藤色リボンの室内帽をかぶった姿で、彼の想像に現れた。五年前に侮辱を受けたまま、まだその復讐をすましていない男のことが思い出された。尤も同時に、この回想及びその他数十の回想と不可分に、現在の感情ー死の期待ーは、一瞬の間も彼を見棄てないのだった。《だが、ひょっとすると、破裂しないかもしれんぞ。》彼はこう考えて、絶望的決心をもって眼を開こうとした。が、その瞬間早くも、閉じた瞼を通して、真紅な火が彼の眼を打った。そして凄まじい爆音とともに、何かが彼の胸のまんなかをどしんと突いた。彼はいきなり駈け出したが、足にからまる佩剣につまづいて、横倒しに倒れてしまった。

 《ああ有難い!打撲傷だけだ。》これが彼の最初の考えであった。彼は両手で胸にさわってみようとした。が、その手はしばりつけられているようだし、頭は搾木にでもかけられているようであった。頭の中では兵士達がちらちらしたので、彼は無意識にそれを数えたー《一人、二人、三人の兵、それから外套の裾をまいた将校が一人。》と彼は考えるのだった。やがてまた電光が眼に光ったので、彼は、一たい何を射ったのだろうと考えたー臼砲か大砲か?きっと大砲に違いない。ほ、また射ったぞ。ほらまた兵隊がやって来たー五人、六人、七人だ、みんなそばを通っていく。彼は急に。兵士達が自分を踏み潰しはしまいかと、恐ろしくなってきた。彼は自分が打撲傷を受けていることを叫ぼうと思ったが、口がかさかさに乾いて、舌が上顎にねばりついてしまった、そして恐ろしい渇きが彼を苦しめるのであった。彼は胸の辺がいやにじめじめしているのを感じていたがーこの湿った感じが水を思い出させたので、彼はその湿っているものでもいいから飲みたいと思った。《きっと、倒れた時に傷をして出血したんだ。》と彼は考えた。そしていくらかでも続いてそばをかすめ通る兵隊たちが自分を踏み潰しはしまいかという恐怖をますます強く感じ出したので、彼はありたけの力を絞って「連れてってくれ!」と叫ぼうとした。が、叫ぶ代りに、自分で聞くさえ恐ろしくなるような声を出して、うなり出してしまった。やがて、何やら赤い火が眼の中でおどり出して、兵隊どもが自分の上へ石を積み上げているような気がし出した。火のおどりは次第にまばらになったが、からだの上に積まれる石は、ますます強く彼を壓迫した。彼は石をはらいのけるために懸命に身をのばした。途端にもう何ひとつ、見えず、聞こえず、考えず、感じなくなってしまった。彼は弾片を胸のただ中に受けて、その場で即死したのであった。

2024年6月29日土曜日

20240629 株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』 pp.151-154より抜粋

株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』
pp.151-154より抜粋
ISBN-10: 400431318X
ISBN-13: 978-4004313182

 一八八六年に森有礼によって設計された帝国大学は、それまで西洋からの知の移植をばらばらに進めてきたエリート養成諸機関が「天皇」のまなざしの下に統合されることで誕生し、やがて東京のみならず京都、仙台、福岡、札幌m、ソウル、台北などの帝国日本を覆う広がりをもったシステムに発達していった。天野郁夫が詳論したように、この帝大のシステムには、多数の官立専門学校による専門職養成システム、それから予科ないし旧制高校という教養教育システムが並立しており、これら高等教育の三つのシステムの間には葛藤や緊張、補完と連携の関係が生じていった(天野郁夫、前掲書)。しかし、官立専門学校や予科・旧制高校は、基本的には帝国大学を補完するもので、これと根本的に対立するものではなかった。

 これに対し、すでに述べたように、一九世紀半ばに列島各地で勃興するナショナリズムを基盤とした西洋の知に対する貪欲な関心、それを導入しながら新時代の知の基盤を形成していこうという草莽の動きのなかでは、帝国大学のシステムとは位相的に異なるネットワークが形成されてもいた。すなわちそれは、福沢諭吉の慶應義塾や大隈重信の東京専門学校をはじめとする私塾から私学への流れのことである。なかでも福沢諭吉は、慶應義塾という実践において、森有礼が帝国大学の設計で示したのとは異なる「西洋知の移植」を志していた。

 森有礼と福沢諭吉の関係はしかし、実際にははるかに複雑である。実をいえば、彼ら二人をはじめ明治日本の大学知の世界をづくる人物の多くは、明治初期にある同じ雑誌、一八七三年に結成された明六社の同人であった。明六社結成の中心になったのは、同年にアメリカから帰国したばかりの森有礼で、彼の誘いに福沢諭吉、加藤弘之、西周、津田真道、箕作麟祥、中村正直などが応じて参加した。森有礼の頭にあったのは、アメリカの「学会」(AssociationないしはSociety)であったが、明六社同人の共通項は啓蒙主義で、特定分野を対象としていなかったから、今日ならば個別学会よりも日本学術会議のようなアカデミーに近い。実際、明六社解散後の八〇年、この結社に集った人々を母体に東京学士院が設立されているから、明六社は日本最初の学術アカデミーであったともいえる。ともあれ、ここに結社化した維新期の啓蒙家たちは、日本初の西洋レストラン築地精養軒で頻繁に演説会(研究会)を開催し、その成果を自らのジャーナル「明六雑誌」に収録していった。「スピーチ=演説」にしても、「ジャーナル=雑誌」にしても、欧米の学術コミュニケーションの方式を直輸入する発想では、森と福沢は多くを共有していた。しかも「明六雑誌」は、様々な問題を提起し、アカデミックな議論の俎上に載せること自体を目的にしていたから、ここを舞台に民選議院論争や妻妾論争、国語国字論争など、政治からジェンダー、言語まで日本初の多様な学問論争が展開された。加えて雑誌には、ベーコン、ホッブス、スペンサーなどの西欧近代思想も紹介されており、森から福沢までの知識人を連携させた明六社は、たしかに近代日本の学知の原点だった。

 しかし、森と福沢の共通点はここまでである。「啓蒙=国民の主体化」を「国家=天皇」のまなざしを通じてなそうとする森と、あくまで「実学」を国民一人ひとりが身につけるところから出発しようとする福沢の間には、近代に対する把握に大きな違いがあった。やがて「明六雑誌」は讒謗律と新聞紙条例による薩長政権の統制が強まるなかで廃刊に追い込まれるが、すでに廃刊以前から、あくまで「官」主導の西洋化を構想する森や加藤、津田、西などの間には厳しい思想的対立が存在した。この対立を最も明瞭にしたのは、福沢が明六社のセミナーで発表し、その後「学問のすゝめ」の第四編として収録した「学者の職分を論ず」をめぐる個人間の論争である。

 この講演で福沢は、「固より政の字に限りたる事をなすは政府の任なれども、人間(じんかん)の事務には政府の関わるべからざるものもまた多し」と、「政府=官」と「人民=民」の二元論から出発する。明治日本の現状を見ると、維新で「お上」中心の時代は終わったはずなのに、「官」ばかり肥大し、「民」がちっとも強くなっていない。現状は、「政府が依然たる専制の政府、人民は依然たる無気力の愚民のみ」である。しかも、「一国の文明は、独り政府の力をもって進むべきものに非ざる」もので、「人々自ら一個の働きを逞しうすること」を欠けば、その進歩はない。ところが日本では、本来、そうした内発的な啓蒙の任に当たるべき洋学者=啓蒙知識人たちが、「皆官あるを知って私あるを知らず、政府の上に立つの術を知って、政府の下に居るの道を知らざる」傾向を強めている。これらの人士は、「生来の教育に先入して只管政府に眼を着し、政府に非ざれば決して事をなすべからざるものと思う、これに依願して宿昔星雲の志を遂げんと欲するのみ」である。結果的に、今日では「青年の書生僅かに数巻の書を読めば乃ち官途に志し、有志の町人僅に数百の元金あれば乃ち官の名を仮りて商売を行わんとし、学校も官許なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、凡そ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。これをもって世の人心益々その風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なく」なってしまった(「学問のすゝめ」)。