2023年12月6日水曜日
20231205 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.321-323より抜粋
ISBN-10 : 4003226216
ISBN-13 : 978-4003226216
現実逃避 ナショナリストはすべて、そっくりの事実をいくつ見ても、それら相互の類似性を認めないという特技を持っている。英国の保守党員は、ヨーロッパでの民族自決主義なら擁護するくせに、インドのそれに反対して、これを矛盾だとは思わない。行為の善悪を判定する基準はその行為自体の功罪ではなく、誰がやったかという点であって、拷問、人質、強制労働、強制的集団移住、裁判なしの投獄、文書偽造、暗殺、非戦闘員にたいする無差別爆撃ーこうしたいかなる無法きわまる行為でも、それをやったのが「味方」だとなれば、まずたいていのばあいは道徳的な意味が微妙に変わってしまうのだ。自由党系の「ニューズ・クロニクル」が、恐るべき残虐行為だとして、ドイツ人によって絞首刑にされたロシア人の写真を掲載したことがあったが、その一、二年後にこれとほとんど同じ、ロシア人の手で絞首刑にされたドイツ人の写真を掲載したときには、熱烈に称賛したのだった。歴史上の事件についても同じである。歴史は、多分にナショナリスチックな観点から見られているのだ。異端審問所とか、星法院(一四八七-六一の、英国の高等裁判所、陪審がなかった)による拷問とか、英国の海賊の手柄(例えばサー・フランシス・ドレイクは、スペイン人の捕虜を生きているまま海中に投じたと言われる)とか、フランス革命における恐怖時代だとか、何百人というインド人を大砲につめてぶっ放した、ベンガルの反乱(1857-58)鎮圧の英雄たちとか、アイルランドの女たちの顔を剃刀で切ったクロムウェルの兵士たちとかーこんなことも、「正義」のためだったということにさえなってしまう。過去二十五年をふりかえってみると、世界のどこかで残虐行為の行われた報道がなかった日は、ほとんど一日もない。ところがスペインで、ソヴィエトで、中国で、ハンガリーで、メキシコで、インドのアムリツァールで、トルコのスミルナで行われた残虐行為のうち、一つでも英国の知識人が一致してその事実を認め、かつ非難した事件はなかったのである。こういう行為が非難すべきものかどうか、それどころかそもそもそれが事実だったのかどうかということさえ、いつも政治的偏向にもとづいて制定されたのであった。
*〔原注〕『ニューズ・クロニクル』誌は、処刑の全貌がクローズアップで見られるニュース映画を見に行くことを読者にすすめた。『スター』紙は対独協力者の女性が全裸にちかい姿でパリの暴徒にいじめられている写真を、まるでこの行為を称賛しているかのように掲載した。これらの写真は、ナチスが発表した、ベルリンの暴徒にいじめられているユダヤ人の写真と酷似していた。
ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないというすばらしい才能を持っている。英国におけるヒットラー崇拝者たちは、六年ものあいだ、ダッハウやブッヘンヴァルトの存在に耳をふさいできた。そしてドイツの強制収容所をもっとも声高に弾劾いた人びとのほうは、ソヴィエトにも強制収容所があることはぜんぜん知らないか、知っていてもごくぼんやりした知識しかないことが珍しくないのだ、何百万という餓死者が出た一九三三年のウクライナの飢饉のような大事件でさえ、驚いたことに英国のソヴィエトびいきたちは、大部分が気づかなかったのである。こんどの大戦中におこなわれたドイツ、ポーランドのユダヤ人の絶滅策について、ほとんど何も聞いていない英国人はいくらでもいる。彼ら自身にユダヤ人差別意識があるからこそ、この大犯罪も意識にひっかからなかったのだ。ナショナリストの考え方の中には、真実なのに嘘、知っているのに知らないことになっているという事実が、いろいろある。知っている事実でも、認めるのに耐えられないというので脇へ押しのけられたまま、意識的に論理的思考から外されてしまうことがあるかと思えば、綿密に検討されたにもかかわらず、自分一人の心の中でさえ、事実であることをぜったいに認めないといったことが起こるのだ。
2023年12月5日火曜日
20231204 朝日新聞出版刊 朝日新書 東浩紀著「訂正する力」 pp.116-118より抜粋
ISBN-13 : 978-4022952387
もう少し学問的に表現するならば、自然科学と人文学の違いは反証可能性と訂正可能性の違いだということができます。
反証可能性というのは、カール・ポパーという哲学者によって100年ほどまえに提唱された概念です。これはとてもおもしろい理論で、ひとことで言うと、自然科学においては絶対に正しい理論などありえないという考えかたです。
自然科学の理論は具体的な予測を伴います。素朴な例で言えば、ある重さのものをある速度である角度で投げると何メートル飛ぶとか、そういうものです。予測があたれば、理論は正しいということになります。
けれども、一回のテストがうまくいっても、条件を変えた別のテストがうまくいくとはかぎりません。いつかまちがいが証明されるかもしれない。だから、自然科学の理論はつねに「反証される可能性」に晒されていて、どんな理論でも厳密には「反証がなされるまでは暫定的に正しい」と言うことしかできない。これが反証可能性の考えかたです。
ちなみにポパーは、ある命題が科学的なものかどうかは、むしろそのような「反証される可能性」の有無で決まると考えていました。この世界には、個別のテストが不可能で、したがって反証も不可能な命題がありますが、それらは科学の範囲に入らない。たとえば「神はいる」といった命題は、正しいかもしれないし誤っているかもしれないけれど、そもそもテストができず、したがって反証もできないので、真偽以前に科学的な主張だと考えることもできない。ポパーはそのような基準で、科学と非化学を分けたわけです。
この反証可能性の考えかたは、本書のテーマである訂正可能性と似たところがありつつ、大事なところえ大きく違います。
自然科学の世界では、いちど反証された理論は打ち捨てられてしまいます。だから学生が学ぶときには最新の教科書だけが必要で、過去の著作は不要なわけです。「いろいろな学者が試行錯誤をしてきたけど、いまのところもっともうまく自然を説明できる理論はこれです。これを勉強してください」となる。
ところが人文学ではそうはいきません。学生もまずは過去を学ぶところから入らなければならない。それは人文学が訂正の学問だからです。哲学にも打ち捨てられ忘れられた理論がたくさんあります。でもそれは完全に忘れるわけにはいかない。いつ「じつは・・・だった」の論理で復活するかわからないからです。ここが、理系と文系ではまったく違うところです。
2023年12月4日月曜日
20231203 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」 pp.29-31より抜粋
pp.29-31より抜粋
ISBN-10 : 4121601610
ISBN-13 : 978-4121601612
祖国愛というものがある。それは主として、反省のない、利害を離れた、定めがたい感情に発し、人の心を出生の地に結びつける。この本能的な愛情は、旧い風習の味わい、祖先に対する崇拝、過去の記憶と融合する。その持ち主にとって国を愛することは親の家を愛するかのようである。そこで楽しめる静けさを快く思う。また、しばしばこの祖国愛は宗教的な熱誠によって高められ、人に目を見張るようなことをさせる。それ自身が一個の宗教であり、論議を排し、ただ信念、感情、行動だけがあるのである。諸国民の中には祖国を擬人化し、君主にその体現を見るものがある。愛国の感情の一部を彼に転化し、その勝利を誇りとし、その力強さを自慢する。旧君主制の下で、フランス人が何ら顧慮するところなく君主の恣意に身を委ねて一種の喜びを味わい、「われわれは世界で最も強い王の治下に生きている」と誇らしげに語った時代もあった。
すべての無反省な情熱と同様、この祖国愛も一時は人を動かして大きな力を発揮するが、それによって持続的な努力をさせることはあまり望めない。危機に臨んで国家を救った後には、平和のうちにしばしば衰えてしまいます。国民がまだ習俗も淡白で、信仰に篤く、社会が旧い秩序の下で安らかに憩い、その正統性が少しも疑われないときには、この本能的な祖国愛の支配するのが見られる。
このような(本能的な)祖国愛よりも合理的な愛国心が他にある。それは勇敢さにおいて、またおそらく情熱においても劣るのであろうが、より豊かで持続的である。この心は知性の発達から生まれ、法制に助けられて発展し、権利の行使によって伸長し、ついには、いわば個人的な利益と融合するようになる。個人は国家の安泰が自分自身の福祉に及ぼす影響を理解する。法が国家の安泰に寄与する機会を与えることを知り、最初は(受け身に)自分に役立つこととして、次いで(積極的に)自分の仕事として、国家の繁栄に関心を持つのである。
しかしときおり諸国民の生涯に次のような事態が起こる。旧い習慣は変わり、習俗は破壊され、信仰は揺らぎ、過去の輝かしい思い出は消え、しかも啓蒙は不完全で、参政権は保障されず、あるいは制限されている。このようなときには、祖国は光輝がうすれ、疑惑の目をもって見られる。国土は生なきものと映るようになる。祖先伝来の慣行も桎梏と見られるようになり、宗教も疑わしくなる。法律も自分のつくったものではなく、立法者は恐れられ、また一面では蔑視される。いずれも拠りどころにはならぬ。どこにも祖国は見えない。固有のものはといって見当たらないし、他に特色もない。それで人々は退いて、狭量で盲目的な利己主義に陥る。この人々は偏見からは解放されたが、(この世に)理性の支配すべきことを認識していない。彼らには君主国にある本能的な愛国心もなく、共和国の批判的な愛国心もない。混乱と悲惨のうちに、両者の間に立ちすくんでしまうのである。
このような状況にあって何をなすべきか。退却か、しかし、諸国民はその若き日の熱情にはもはや立ち帰らない。それは個人が幼時の無邪気さに帰れないのに等しい。国のありし日を惜しむことはできても、その再生は不可能である。まさに前進し、いそいで国民に個人の利益と国家利益とが一致しうることを、まざまざと示さなければならぬ。利害を離れた祖国愛は去って帰らないからである。
2023年12月2日土曜日
20231201 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 宇野重規著「トクヴィル 平等と不平等の理論家」 pp.168-171より抜粋
pp.168-171より抜粋
ISBN-10 : 4065157110
ISBN-13 : 978-4065157114
ちなみにトクヴィルは、過去何度か予言者として注目されている。一例をあげると、「デモクラシー」第一巻の終わりで、トクヴィルは、アメリカとロシアがやがて世界の超大国となることを予言しているが、この予言など、かつて米ソ冷戦が激しかった時期に、さかんに取り上げられたものである。その後も「大衆社会論の先駆者」、「自由民主主義の勝利の予言者」といった呼び名がトクヴィルに与えられてきた。しかしながら、今となってみると、このような持ち上げ方にどこか違和感があるのは、否定しがたいところである。いいにつけ悪いにつけ、トクヴィルには、予言者として持ち上げられやすい傾向がある。が、そのことはトクヴィル理解をめぐり、それぞれの時代のバイアスが読み込まれやすいということも意味している。トクヴィルを読むにあたっては、このことを他の思想家以上に意識する必要があるだろう。
本書では、数あるトクヴィルの予言のうち、もっぱら平等化の予言に議論を集中してきたが、この予言は、彼の同時代人にとって、二重の意味で問題性をはらむものであった。一方で、トクヴィルの家族がそうであったように、フランス革命を歴史の偶発事に過ぎないと考え、人間の本質的不平等を基本とする社会への復帰を願う人々がいた。平等こそが逸脱であると考えるそのような人々にとって、やがて平等化が社会を根底から覆すであろうというトクヴィルの予言は極端なものに思われた。他方において、トクヴィルとほとんそ同時代人と言ってもいいマルクスが鋭く指摘したように、産業化が進むなか、貧富の差が拡大し、新たな階級対立が社会の基本的矛盾となりつつあることは、多くの人々にとってもはや目を背けられない現実であった。そのような人々にとって、むしろ平等化こそが社会の基本的趨勢であるというトクヴィルの予言は、現実を無視するものに思われたのである。本書において時代の文脈を掘り起こす作業を重視したのは、トクヴィルの予言がその時代において持っていたこれらの問題性を浮き彫りにするのであった。
それではなぜトクヴィルは、平等化を歴史の不可逆な方向性であると考えたのだろうか。本書では、トクヴィルの洞察を理解するための補助線として、「赤と黒」や「ボヴァリー夫人」を取り上げた。そのねらいは、トクヴィルが生きた時代のフランス社会のおいて起きた、ある想像力の変容を明らかにうることになった、すなわち、トクヴィルのいう平等化とは、人間の本質的不平等を前提に組み立てられた諸制度が、人々のきづかぬうちに次第に掘り崩され、空洞化していくことに指し示すと同時に、人間と人間とを絶対的に隔てるような想像力の壁が無意味化し、人々がすべての他者を本質的には自分と同類とみなすようになることを意味した。このような想像力の変容は、トクヴィルの同時代においてはけっして自明のものではなかった。というのも、社会の表層を見る限り、古い社会の仕組みはいまだその力を失っていないし、逆に新しい不平等性も目につくようになっていたからである。ところがトクヴィルは、このような表層の下で、社会の象徴秩序が根源的に変化しつつあることを見て取ったのである。
その意味でいえば、トクヴィルの予言は、あまりにも早すぎるものであったのかもしれない。しかしながら、この変容はやがてすべての社会秩序を根底から組み替えていくであろうというトクヴィルの確信は揺らぐことがなかった。このような平等化が極限まで進んだ社会としてトクヴィルはアメリカに着目したが、彼は、同じダイナミズムがヨーロッパ社会においても次第に明らかになっていくと考えたのである。たしかに、このような意味での平等化が進んだ社会においても、不平等は残る。しかしながら、それは不平等を当然とした社会における不平等とはまったく意味を異にする。そのような社会において、不平等はもはや自明視されず、平等への想像力を持ってしまった人々によって、次々に異議申し立てを受けるであろう。そしてそのような異議申し立てによって、今後の歴史のダイナミズムが決定されていくことになるであろう。これが、トクヴィルの予言であった。
2023年11月30日木曜日
20231130 中央公論新社刊 竹内洋著「丸山眞男の時代―大学・知識人・ジャーナリズム」 pp.51-53より抜粋
ISBN-13 : 978-4121018205
いま本書を手にしている多くの読者、とくに若い読者はおそらく、蓑田の名前を耳にしたこともない人が多いだろう。まして蓑田が生涯にわたって、四〇冊以上もの本(編著も含む)を刊行し、蓑田が主宰した「原理日本」という月刊誌が、一九二五(大正一四)年一一月号から一九四四(昭和一九)年一月号まで一八年余にもわたり、通巻一八五号も発行されていたこと、何十冊という紙製凶器である人物攻撃パンフレットを作成し、各界要人に配布していたことを知る人は少ないであろう。
しかし、戦後のある時期までの知識人、つまり戦前の高等教育を受けた者にとっては、リベラルな大学教授をつぎつぎに糾弾し、著書を発禁にさせ、大学から放逐する「大学教授思想検察官」として蓑田と原理日本社の名は記憶に深く刻まれていた。だから、戦後になっても一九六〇年代までは、「○○は現代の蓑田胸喜だ」とか「蓑田胸喜式」と、左右をとわずファナティックで攻撃的な人物の見立てに蓑田胸喜がつかわれていた。
たとえば、山田宗睦が「危険な思想家」(一九六五)というベストセラーの中で、林房雄や、三島由紀夫、石原慎太郎などの保守派知識人を戦後民主主義を否定する思想家として槍玉にあげたときに、桶谷繁雄や竹山道雄は、「斬る」などの過激な用語で攻撃するやり口から山田のことを「現代の蓑田胸喜」(「座談会 危険な思想家」「自由」一九六五年五月号、「巻頭言」同誌同年六月号)といっている。左派の評論家松浦総三は、山本七平を反共主義者として「現代の蓑田胸喜かもしれない」といっている(「タカ派文化人の牙城「諸君!」の危険な構造」『「文芸春秋」の研究)。このころまでは、そういう見立てが知識人読者になるほどというリアリティをもたらす共通知識と共通感情があったことになる。
蓑田は、日本版ジョセフ・マッカーシー(一九〇九ー五七)だった。といったらわかりやすいだろう。一九五〇年代初期のアメリカで、多くの学者を反米活動のかどで追放するという一大旋風を巻き起こしたヒステリー的反共運動の仕掛け人がマッカーシー上院議員である。とくにハーヴァード大学が狙い打ちにされた。蓑田胸喜も「赤化ないし容共」教授を「反日活動」(国体違反)として、糾弾と追放のキャンペーンをはり、東京帝国大学を攻撃した。蓑田はマッカーシーのように議員ではなく、民間の右翼思想家だったが、蓑田の背後には議員が控えていた。貴族院議員の三室戸敬光子爵(一八七三ー一九五六)、維新の志士の末裔井田磐楠男爵、軍人出身の菊池武夫男爵、衆議院議員の宮沢裕(宮沢喜一元総理大臣は長男)や江藤源九郎などである。平沼騏一郎や小川平吉、荒木貞夫などともつながっていた。
いま名前を挙げた議員連は蓑田などの情報源によって、議会で帝国大学教授を「赤化教授」や「容共教授」はては「学匪」や「逆賊」という激しい言葉で糾弾した。瀧川幸辰事件も衆議院予算委員会での宮沢裕、貴族院本会議での菊池武夫などの「赤化教授問題」からはじまった。美濃部達吉の天皇機関説も一九三五(昭和一〇)年二月の第六七回帝国議会貴族院本会議での菊池武夫の弾劾演説から議会で連続的に槍玉にあがり、美濃部は貴族院議員辞職に追いやられる。攻撃材料と理屈を提供したのが蓑田だった。蓑田たちといまふれた貴族院議員などどの非公式のネットワークが公式圧力団体になったのものが帝大粛正期成同盟(一九三八年九月四日設立)である。会員は百数十人。貴族院議員のほかに右翼思想家、ジャーナリスト、もと帝大教授などをあつめていた。
2023年11月29日水曜日
20231128 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」 pp.169-172より抜粋
ISBN-10 : 4121601610
ISBN-13 : 978-4121601612
こうして、不確定な将来のうちに、少なくとも確かなことが一つある。ここでは国民(という有機体)の生命を問題にしているから(時間の単位が長い。その単位で考えれば)わりあい近い時期に、イギリス系アメリカ人は、彼らだけで北極の氷原と熱帯との間の広大な空間をおおうであろう。大西洋の砂浜から南の海辺までひろがるであろう。イギリス系アメリカ人の人種がひろがっていく地域は、ヨーロッパの四分の三に等しくなると思う。連邦の気候は、全体として、ヨーロッパよりよく、天然の利に多く恵まれている点では同等えある。人口の比率も、その時には、われわれと明らかに均衡するにちがいない。ヨーロッパは数多くの国民に分かれ、絶えず起り来る戦争と中世の暗黒とを経て。今日一平方マイル四一〇人の密度をもつに至っている。
幾世紀もたてば、アメリカのイギリス人の子孫が種々に分かれて、共通の相貌を示さなくなるであろう。しかし、新世界に諸階層の恒久的な不平等が樹立される時期を予見することはできない。平和か戦争か、自由か圧制か、繁栄か貧困かによって、イギリス系アメリカ人という大家族の種々の末裔がの運命にいかなる相違が生じようと、少なくとも、現在に似た社会状態が維持され、そこから流れ出る慣行と理念とを共有するであろう。
宗教という絆だけで、中世においてヨーロッパにいた諸種族を同一の文明に結び合わせるに足りた。新世界のイギリス人はその他に数多くの紐帯をもっており、すべての人が人間の平等を求める世紀に生きている。中世は分裂の時代であった。各国民、各地方、各都市は強く個別化する傾向になった。今日、反対の動きが感じられ、諸国民は統一に向かって進むように見える。知的な紐帯は最も遠隔の地方をも結ぶ。人々は、一日たりとも、お互いが見ず知らずではありえないし、世界のどんな片隅に起こる事件も知らずにはいられない。また、今日、ヨーロッパの人々と新世界にいる彼らの子孫との間には、たとえ大洋によって隔てられていようとも、川でした隔てられていなかった十八世紀の都市の間(の相違)よりも差が見られない。この同化の連動が国を異にする人々ろ近づけるとすれば、まして同じ国民の末裔がお互い見ず知らずになることがあろうか。
ゆえに、北アメリカの人口が一億五千万人を数える日が来、そのすべてが相互に平等で、同一の家族に属するごとく、起点を同じくし、同一の文明、言語、宗教、慣習、習俗をもっているという状態が現出するだろう。またそのとき思想は同一の形式で流布し、同一の色彩に彩られるであろう。他のことはすべて疑わしいとしても、これだけは確実である。そして、これこそ世界の全く新しい事実である。想像をいかにはたらかせても、その意義を把握するlことはできないであろう。
今日、地(球)上に二大国民があり、出発点を異にしながら、同一の目的に向かって進んでいる。それはロシア人とイギリス系アメリカ人とである。二国民とも知らぬ間に大きくなった。人々の眼がよそにひかれている間に、突如として諸国民の頂きに位し、世界がその生誕と強大さとを知ったのは、ほとんど同時であった。
他のすべての国民は、自然の定めた限界にほとんど到達し、もはや現状を維持するほかないと見えるが、この両者は成長の途上にある。他のすべては成長がとまるか、力をふりしぼってしか前進できないのに、彼らだけがやすやすと、しかも急速に、その途を進む。この途の限界は誰の眼にもいまだわからないであろう。
アメリカ人は自然の課した障碍と闘い、ロシア人は人間と争っている。一つは広野と未開と闘い、他はすべての武器を身につけた文明と闘う。また、アメリカ人の征服は働くものの鍬によって行われるが、ロシア人は兵士の剣で征服する。その目的を達するのに、前者は個人利益にもとづく、個人の力と理性とを自由に活動させ、これを統制はしない。後者はすべての権力を、いわば一人に集中する。一つは自由を行為の主要な手段とし、他は隷従をとる。その起点は異なり、とる途は違うが、それでも、おのおの、秘められた天意により、いつの日かその手に世界の半分の運命を握るべく召されているかに見える。
2023年11月28日火曜日
20231127 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈下巻〉」pp.136-140より抜粋
ISBN-13 : 978-4794204929
ドイツに侵攻したソ連軍は「占領地帯」に入ると、可動資産、工場設備、線路などを根こそぎ奪い取ろうとしたうえ、東ヨーロッパにある他のドイツ領からも代償(ルーマニアの石油、フィンランドの木材、ポーランドの石炭)を提供するよう要求した。
たしかに、ソ連は戦線でも軍需生産でもドイツを打ち負かした。だが、それは信じられないほど軍需生産だけに力を注ぎ、他の部門をないがしろにしてきたおかげであった。そのため消費財、小売り商品、農産物などの供給は大幅に低下した(もっとも、食料生産の低下はドイツ軍による掠奪が大きな原因であった)。とどのつまり、1945年のソ連は軍事大国ではあったが、経済的には貧しく、アンバランスだったのである。1945年に武器貸与法が廃止さて、さらにその後の政治情勢が変ってアメリカの資金の流入を排除するようになったため、ソ連は1928年の第一次五カ年計画に立ち返り、自国の資源だけで経済成長を達成しようとしたー当時と同じく、生産財(重工業、石炭、電気、セメント)と輸送に重点をおいて消費財や農業生産を軽視し、また軍事支出は戦時より自然に減少するにまかせる政策をとったのである。その結果、当初は難航したものの、重工業に関するかぎり「ささやかながら奇跡的成長」(M・マコーリー)をとげ、1945年から50年にかけて生産高が倍増した。スターリン政権は、国力の屋台骨を立直さなければならないという使命感に燃えていたので、その本来の目的を遂行するには、あるいは国民の生活水準が革命前より下がったままでも、さしたる抵抗を受けなかったし。ただし、ここで指摘しておきたいのは、1922年以降の経済成長と同じく、この工業生産の「回復」の大半は、戦前の生産高に戻ったにすぎないという点である。ウクライナを例にとると、冶金と電力の生産高が1940年の数字に達したのは1950年前後のことである。重ねていうが、この大戦のせいで、ソ連の経済成長は10年ほど前で止まったままだったのだ。長期的にみてそれより深刻だったのは、必要欠くべからざる農業部門がひきつづき不振だったことである。戦時緊急奨励措置が棚上げになり、投資が全面的に不充分だった(しかも投資先を誤った)ため、農業が沈滞し、食糧生産が落ち込んだのである。スターリンは農家が私有農地の耕作を優先することに、死ぬまで激しい反感をもちつづけた。そのためにソ連の農業はいつまでたっても生産性が低く、効率が非常に悪かった。
その反面、スターリンは戦後社会の軍事的安全保障を高度に維持することには心をくだいた。経済の立て直しが必要だったとすれば驚くまでもないが、あの巨大な赤軍が1945年以降、三分の一に減った。それでも全部で175個師団を擁し、25000台の戦車と19000機の航空機を保有していた。したがって、世界最大の防衛戦力だったわけであるーそれを正当化していたのが(少なくとも、ソ連の立場からすれば)、将来の侵略者を思いとどまらせる必要であり、もっとあけすけにいえば、極東で手に入れた領土はもちろん、ヨーロッパで新たに獲得した衛星国をも抑えつける必要があるという考えだった。だが、たしかに巨大な軍隊ではあったが、師団の多くは基幹要員だけで構成されており、実質的には駐屯部隊であった。さらに1815年以降の厖大なロシア軍と同じ危機に瀕していたー軍事技術の新たな進歩を目前にして、装備の老朽化が進んでいたことである。これに対抗するため、師団を大幅に編成しなおして近代化を進めるだけでなく、国家の経済資源と科学資源が新兵器の開発に向けられるようになった。1947年から48年にかけては強力なジェット戦闘機ミグ15が配備され、アメリカやイギリスを見習って遠距離航空部隊が創設された。また、捕虜にしたドイツの科学者や技術者を使ってさまざまな誘導ミサイルが開発された。さらに、大戦中から原子爆弾の開発を進められていた。そして、ドイツとの戦いでは補助的な役割しかはたさなかった海軍も、新型重巡洋艦や外洋潜水艦が加わって変貌しつつあった。だが、こうした兵器類の大半は二番煎じのもので、ヨーロッパの基準からすれば高性能とはいえなかった。しかし、ソ連が決意の点で遅れをとっていないことには疑いをはさむ余地がなかった。
ソ連の力を支えるうえで大きな役割をはたした第三の要因は、スターリンが1930年代後半の国内の秩序維持と絶対服従主義にあらためて重点をおいたことである。これをスターリンのパラノイアが昂じたせいとみるか、独裁を強化するための計算しつくされた動きとみるかーあるいは、その両方があいまった結果とみるかーは、判断の難しいところだった。だが、起った出来事をみれば歴然としている。外国人とつきあいのある者は要注意人物と見なされた。帰還した捕虜は銃殺された。イスラエル国家が建設され、ユダヤ人にとって愛国心の対象ができたために、あらためてユダヤ人排斥の措置がとられるようになった。尊敬を集めていたジューコフ元帥が1946年に陸軍総司令官を解任されるとともに、軍の指導部も規模が縮小された。共産党内部でも規律が強化された。入党も難しくなった。1948年にレニングラードの共産党指導部(スターリンはいつも嫌っていた)が粛清された。文学や芸術ばかりでなく、自然科学、生物学、言語学にいたるまで検閲が厳しくなった。こうした全面的な「絞めつけ」は、当然、前述のように農業の集産化をうながし、冷戦の緊張を高めた。また、自然のなりゆきとして、ソ連の影響が強い東欧諸国でも、同じようにイデオロギーの硬直化と全体主義者による統制が進んだ。対立政党の排除、人民裁判、個人の権利や財産にたいする攻撃などが日常茶飯事となった。こうした国内の状況に加えて、とりわけポーランドと(1948年の)チェコスロヴァキアで民主主義が排斥されたこともまって、ソ連の体制にたいする西側諸国の熱意がどんどん薄らいでいったのである。スターリンが充分に計算したうえでそうした措置をとっていたのかーソ連の指導部は粗雑な論理によって自国民はもとより衛星諸国の国民も西側の思想や富から隔離したいと思っていたーあるいは自らの死を前にしてパラノイアが昂じたせいにすぎないのかは、これまた判断の難しいところである。いずれにせよ「アメリカの支配による平和(パックス・アメリカーナ)」の影響力がまったくおよばないどころか、それに代わる別の道があることを示す広大な地域が存在することになったのである。
そのソヴィエト帝国の成長は、マッキンダーをはじめとする地政学者の予想を裏づけるものと思われた。すなわち、軍事大国がユーラシア大陸の「中核地域」の資源を支配するようになり、またその国家がさらに「周辺地域」にまで拡大しようとしても、グローバルな勢力の均衡を保とうとする大海洋国家がそれを阻もうとするという予想である。それから二、三年して、アメリカ政府は朝鮮戦争の失敗による動揺もあって、「一つの世界」というかつての理想を完全に捨ててしまった。その代わり、世界を舞台に超大陸が仮借ない戦いを繰り広げるという幻想を抱いた。だが、これはすでに、終戦当時の状況が暗に物語っていたことである。トクヴィルがかつていったように、世界の半分の運命をゆるがす力をもつ国は、アメリカとソ連だけであった。そして、両国ともいわゆる「グローバリズム」という考えにとらわれていた。1946年に、モロトフは「ソ連は世界最強の国の一つである。いまや国際関係をめぐる重大問題はソ連を抜きにしてはなにも決定できない・・・」とまでいったが、これはその前にアメリカがソ連政府を意識してほのめかした言葉にたいするお返しであった。チャーチルとスターリンが東欧諸国をめぐって非公式な協定を結ぶのではないかと思われたとき、アメリカはこういったのである。「この世界戦争では、政治的にも軍事的にも。わが国にとって関心のない問題は文字どおり皆無である」(H・フェイスの引用による)。深刻な利害の衝突は避けられない運命にあったのだ。