2023年8月14日月曜日

20230815 我が国の議論文化について

かねてより、我々日本人は議論が得意ではないと考えてきましたが、最近になり、少し考えを改めて、我々日本人は議論が出来ない方が一般的であるに変更します。議論に際しては、当然のように、意見の対立が生じますが、しかしそれと同時に、その対立から、新たな洞察や理解が生じることもまた同程度にあると考えます。しかしながら、我々日本人は、過度に表面的な調和を重視する傾向があり、そこから、議論が発展せず、結論が避けられ、そして、かえってそこから、長期にわたる不満や鬱屈が生じることも少なからずあるのではないかと考えます。

こうした現象は、おそらく、我が国社会の組織どこでおいても看取可能であり、たとえば、国会議事堂での与野党のやりとりにおいても見受けられ、与野党での意見の対立の際、相手からの質問や意見を真摯に検討せずに、論点をすり替えるような態度は、議会制民主主義に反するのではないかと思われます。しかし、残念ながら、こうした様相は、現在の我が国社会においては広汎に見受けられ、さらに、それらが関連し合って、社会において「価値観の混乱」が進展しているのが、我が国のみならず、世界規模での現象であるように思われます。

そして、そうした状況・事態にあるときに必要となるのが、さきの議論であると思われますが、古くから我が国の社会では議論の習慣が乏しく、各段階における意思決定に際して有効に議論が活用されているかについては、形式的な「議論」はあるものの、そこに実質があるかどうかについては、多くの場合、甚だ疑わしいと云えます。

ともあれ、では、このような社会状況下での、意思決定プロセスは、どのようなものになっていくのかと考えてみますと、言語化されない同調圧力的なものが強化されて「徐々に権威主義的な傾向を強めてゆく」のではないかと思われます。しかし、このような権威主義的な傾向は「議論」にあまり価値を認めず、むしろ、それを排撃する立場を取りがちと云えます。

そして、権威主義的な傾向が何故、議論を嫌うのかと考えてみますと、私見ながら、その根底には「議論」と「口論・口喧嘩」との違い、あるいは切り替えが、うまく認識されていないことがあるように思われますが、本質的に「議論」とは、合意形成を目指すものであり、一方の「口論・口喧嘩」は、それぞれの主張の否定を伴うものであると云えます。そして、この違いを理解せずに議論を行うことは、やはり困難であるように思われます。

また、それに関連して、近年の国際情勢の緊張を受けてか、我が国では、特に近現代史に関しての強硬な意見が目立ちますが、いまだその社会への影響は限定的と云えます。しかしながら、情報化された社会では、かえって、さまざまな思想や考えごとに分断されしまい、そしてそうした事態が、議論の不在による価値観の混乱がさらに強化されてしまい、さらに好ましくない社会状況に陥ってしまうのではないかとも危惧されますが、このような背景であっても、議論が我が国の社会に定着して一般化することは、難しいのではないかと思われます・・。

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2023年8月11日金曜日

20230810 19世紀後半から続く我が国の「文明開化」・「開化」について⑤

しかしながら、近代以降の我が国の開化は、西洋文化主導の潮流に支配されてきました。そして我々日本人がその潮流に乗り出すこと自体が本来は異質であり、居心地の悪さを感じることも多くあったことでしょう。そして、そうした状況では、新しい波に移行する前に、古い波の特徴やその本質などを理解する余裕がないままで、捨てなければならないことも多くあったことでしょう。これは食卓において、一つの食事が終わる前に次の食事が供されるようなものです。そのため、この開化の影響を受ける人々の多くは、空虚感や不満、不安を抱くと思われます。また、こうした開化を自慢する人々はあまり好ましくありません。それは端的に軽佻浮薄であり、あるいは、タバコの味を分からない子供が無理をして美味しそうにタバコを吸っていると見せかけることのように生意気とも云えます。しかしまた、無理をしてでも、このような状況に立ち向かわなければならない、ならなかった国民もまた、相当に悲しいものがある、あったと云えます。

あるいはまた。我が国近代の開化が内発的であったかのように自慢される方々は、この開化から影響を受ける国民のどこかに、空虚感があることや、不満や不安を抱いていることに念頭に入れた方が良いと考えます。端的に、国際間にて交際する場合、多くの場合、自国中心では上手くいくことはありません。とりわけ、自国よりも強い他国と交際する場合、多くは妥協して、相手の要望に従わなければならなくなります。もしも自国が他の強国よりも強いのであれば、状況を変えることもできるかもしれません。しかし、現実はそうではないため、我々は相手の要望に合わせ、あるいは真似をしなければなりません。しかも、それは自国内で自然に醸成された文化風習ではないため、機械的に異文化を覚えることになります。そして、こうした行為は大きな心理的影響を与えることになります。

我々の意識は絶えず動いています。そして皆さんは現在この文章を読まれています。また、私は皆さんに向かって文章を作成しています。そして双方共に、その自覚があります。また、お互いの意識も動いています。この動いている我々の意識の一部分、時には1分間ほどの範囲を切り取って調べてみても、やはり動いていることが分かります。その動き方は、すべて1分間の意識でも30秒間の意識であっても、その内容が明瞭に心に映る点から言えば、同程度の強さを持って時間の経過に頓着せず、あたかも一つ所に固定したかのようには動きませんが、やがて必ず動きます。そして、動くにつれて明るい点と暗い点が生まれます。その高低を平たい直線で示すことはできないため、やはり幾分か勾配のある弧線、つまり弓形の曲線で示さなければならなくなります。

これまでの一連の当記事では、我が国近代の開化における内発性と外発性から、その後の進展の様相について述べています。具体的には、我が国近代での開化が外発的なものであり、その影響が人々の心理にどのような影響を与えるかについて述べられています。また、集合的意識や、ある程度の期間にわたる意識の変遷についても言及しており、そこでは時間の経過に伴い意識も変動することが指摘されています。

具体的には、それまでの我が国では、概ね内発的に諸文化が発展してきましたが、近代以降の外国との交流の影響によって、それまでにない急激な変化が生じたことが指摘されています。このような外からの強い影響は多くの人びとの意識の動きにも大きな影響を与え、具体的には、意識の内容が明瞭さを失ってしまい、また意識の不確実性が高まって、不安定性が増加するといったことが多くなります。

近代の日本人が比較的短期間で西洋諸文化を吸収して、さらに複雑な分野での内発的な進展をも達成して、西洋人が数世紀を要した進歩を誇る一方において、現代であっても、我々日本人が直面している神経衰弱の困難は、これまでに述べてきた経緯からの避けられない結果であると云えます。

現代の我が国では開化が進んではいますが、実際のところ、その中で暮らす我々の幸福度は満足なものではなく、内外での競争や、その他の要因からくる不安を考慮しますと、幸福度は近代の開化以前とほとんど変わっていません。そのため、現代の我々日本人は非常に特殊な状況に置かれていると云えます。この外発的な開化がさらに進展して、我々日本人はそこから滑り落ちてしまうか、あるいは神経衰弱になってしまうかの二者択一となっているように思われます。このような状況にある我々日本人は同情に値すると言えます。しかし、結論はそれだけです。そこに何らかの具体的な解決策を提案するわけではありません。我々は何もできず、ただ困惑し、非常に悲観的な結論に至っていると云えます。

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2023年8月8日火曜日

20230808 新思索社刊 ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著 由良君美・富山太佳夫訳 「影の獄にて」pp.40-42より抜粋

新思索社刊 ローレンス・ヴァン・デル・ポスト著 由良君美・富山太佳夫訳 「影の獄にて」pp.40-42より抜粋
ISBN-10 : 4783511934
ISBN-13 : 978-4783511939

「ろーれんすさん」とハラは熱心に言った。懇願するようなその態度は、歴戦の特務曹長(原文のまま。前のところでは「軍曹」となっているが矛盾ではない、終戦のときか、またはそれ以前に、昇進していたのであろう。)と敵の将校というよりは、むしろ、学童とその先生といったふうにみえた。「これです。これですよ。あなたには、われわれ日本人がわかるという気が、私はいつもしていた。わたしがあなたを義務上、殴らねばならなかったときでさえ、殴っているのはこのわたしハラ個人ではない。私はしなければならないからしているだけだ、ということが、あなたならわかってもらえると思っていた。あなたは私が殴ったからといって、にくんだりはしない人だった。あなたがたイギリス人は公平で公正な人たちだと聞いている。わたしたちから見れば、どんな欠点があるにせよ、われわれはあなたがたを、公正な民族として尊敬の目で見てきました。わたしが死を恐れないことは、あなたもご存じでしょう。祖国がこういうことになった以上は、私は喜んで死にます。わたしは頭もそりましたし、浄めの水も浴び、口も喉もすすぎ、手を洗い、ながい死出の旅にそなえて水杯もすませました。頭からこの世の邪念を払い、躰からも俗念を清め、この躰はいつでも死ぬ用意ができています。心は、はるかの昔に死んだものとした以上いまさら死をいといません。これはあなたもよくご存じのはずです。ただ、ただ、どうして、私は、あなた方が付けたような理由で死ななければならないのか?他の死刑にならない軍人たちは犯さなかったが、私は犯した悪事というようなものがあるのでしょうか?わたしたちは互いに殺し合ってきました。むろんよくないことですが、しかし、要するに戦争だったのです。わたしはあなたを罰したし、あなたの部下たちを殺しました。しかし、あなたが日本人で、私と同じ地位と責任をゆだねられ、あなじ行動のしかたをする場合、たぶんあなとも、この程度に罰したり殺したりしたはずで、程度を越えていたとは考えません。私は実際、あなたにたいしては、わたしの同国人よりも親切にしたつもりです。

 また、あなたがイギリス人たちにたいしてはみな、他の多くの人たちにたいするよりも、親切にしてきたつもりです。信じなさろうとなさるまいと、わたしは軍紀や上官の要求よりも、はるかに寛大にしていたのです。もしわたしが、あのくらい厳格に苛酷にしなかったら、あなた方は精神が崩壊して、死んでいたことでしょう。なぜなら、あなた方の考え方は実にまちがっていたし、あなた方の恥もまた実に大きなものでしたから。わたしがいなかったら、ヒックス=エリスも彼の部下たちもみな絶望のあまり、あの島で死んでしまっていたでしょう。食糧と薬品を搭載した船が来なかったのは、わたしの罪ではありません。わたしはただ、捕虜をたたいてでも生かせ、たたくことで、もっと努力させることしかできなかったのです。それなのに、私は今、そのために殺されようとしています。わたしのどこがまちかっていたのか、わたしにはわかりません。わかるのは、われわれみんなが等しくまちがっていたという点だけです。もしもわたしが、他にまちがいを冒しているのでしたら、どうして、またなぜか教えて下さい。そうすればわたしは欣然と死ねるでしょう。」


2023年8月7日月曜日

20230806 昨日の引用記事の作成から思ったこと

考えてみますと昨日の引用記事は、私としては一カ月以上振りの引用記事の作成であり、かなり新鮮に感じられました。とはいえ、ブログ開始当初の頃は、おそらく、このような感じであり、そうであったからこそ、ある程度の期間、続けることが出来、また、たびたびある、オリジナル記事の作成が困難である時には、引用記事の作成には、かなり助けられました。そしてまた、今後も続けると思われます。

昨日投稿記事の引用元であった筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻は、久しぶりに頁を開いてみますと、しばし読み入ってしまいました。当著作は以前、ブログ記事にて述べましたが、2012年頃に鹿児島にて購入して、しばらく積読状態にあり、翌年、学位を取得して帰郷後に本格的に読み始めました。当著作上下巻を興味深く読んで、そしてまた何度か読み返し、さらに英訳本が刊行されていることを知り、古書にて全巻入手して、電子辞書を用いて読んでいた時期もありました・・。

そうした経緯もあり、当著作からの引用記事は、開始当初の頃に多く、その後も散発的に投稿し続け、そして昨日の引用記事に至ったのだと云えます。

ともあれ、そうして2000記事到達後、思いのほかに早く25記事の更新に至った感があります。しかし、以前にも述べた通り、もうしばらくの期間、基本的には記事作成を休止しますが、何かしらの機会や、思い立った時には、本日の様に記事作成を随時行い、そして来る再開まで、元々たいしたものではありませんが、腕が落ちないようにしたいと思います・・。

そういえば「記事作成の腕」と述べましたが、現在までの休止期間では、特に大きな内面での変化はないと感じられますが、それと同時に、現時点では、あくまでも判断は出来かねますが、何と云いますか、自らの考え、想念のようなものが、いくらか明瞭に言語化されるようにも感じられます。

これについては、ブログ記事の作成には、いくらかは言語化の能力を用いると云えるため、現今の休止期間では、その能力を、これまでよりも用いることがなくなったことにより、さきのように感じられるようになったものと思われます・・。

くわえて、現在読み進めている株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「観光客の哲学」増補版は、以前にツイートしましたが、半分以上はよく分からずに読み進めていますが、時折は知っていることも書かれており、その既知のことがらの理解から架橋するようなかたちで、その他の、これまで知らなかった記述についても、自分なりに理解を試みています・・。また、当著作は私にとっては久しぶりの硬質な著作であり、読み進めるのに多少苦労はしていますが、しかし、思想書は分からないなりに読み進めていますと、さきのようなことが蓄積してか、しばしば「なるほど!」と、これまでとは異なった次元での理解・解釈が生じると思われるのです。

私見としては、先述した、これまでとは異なった次元での理解・解釈のようなものを、より明瞭に体感出来るのは、抽象的とも云える思想分野などが多いと思われるのですが、さて、如何でしょうか?

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2023年8月6日日曜日

20230805 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.398-400より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.398-400より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480084886
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480084880

1885年の世代
 日本の工業化は、日清戦争(1894~95)の後で大いに進んだ。その進み方が殊に早かったのは、綿糸紡績を中心とする軽工業である。日清戦争(1904~05)の後、第一次世界戦争(1914~18)に至る時期には、そこに造船や鉄鋼のような重工業の発展(官営企業を主とする)が加わり、軽工業部門では、独占化(紡績・製紙など)が進行した。二つの対外戦争の軍事的成功と、国内での工業化の成功とは、明治の天皇制官僚国家の権力を安定させると共に、アジア大陸に対してはその膨張主義的傾向をはっきりさせ、国内の体制批判者に対する弾圧政策を強めるように作用した。そのような日露戦争後の権力者の性質を見事に象徴していたのは、1910年に起こった二つの事件ー日韓併合と「大逆事件」である。日韓併合には、その後「対支21ヶ条要求」(1915)とシベリア出兵(1918)が続き、「大逆事件」の後には、「米騒動」の軍隊による弾圧(1918)や「治安維持法」(1925)が来る。

 工業化に伴って、人口の都会集中の傾向もあらわれた。たとえば今世紀の初め(1900)に150万であった東京市の人口は、1920年には200万を超えていた。教育は普及し、前世期末(1897)に66.7%であった義務教育の就学率は、1910年は早くも98.198.1%に達した。日清戦争以前に東京にしかなかった帝国大学は、戦後1910年までには京都・東北・九州にもつくられていた。同時に、日露戦争後の不況のなかで、日本近代史上はじめて、高等教育機関の卒業者の就職難という現象もめだちはじめた。高等教育をうけた失業者が、必ずしも体制の批判者ではないが、少なくとも彼らが自己を国家と同定することは少ないだろう。明治維新前後に生まれ、明治国家の運命と自己の運命をむすびつけて考えた一世代の後に、1885年前後に生れ、日露戦争後の時期に青春を過ごし、国家から離れて、またしばしば国家に対して、自分自身の問題を考えることに専念する一世代が来たのである。日露戦争の終わったとき、20歳前後であった小説家志賀直哉(1883~1971)や谷崎潤一郎(1886~1965)、詩人木下杢太郎(1885~1945)や北原白秋(1885~1942)の関心は、彼らの生涯を通じて、個人の感情生活や、美学や、日本語とその文化の伝統に向かい、政治的な面を含めて日本社会の全体の構造と機能に向うことはなかった。彼らにとっての明治維新は遠かった。体制はもはや選択の対象ではなく、与件であった。他方彼らのなかの誰も、十月革命を予期せず、日本共産党はまだ成立していなかった。体制の全体を批判するために有効な知的道具としてのマルクス主義が、日本の知識層に広く普及しはじめたのは、1920年代になってからである。

 しかし弾圧にも拘らず、権力に対する反抗がなかったのではない。幸徳秋水と堺利彦の「平民社」の流れを襲いで、荒畑寒村(1887~1981)と大杉栄(1885~1923)は、1912年に「近代思想」(後には「平民新聞」を刊行し、社会主義の立場をとった。荒畑はその後1922年に日本共産党の創立に加わり、大杉は無政府主義者として労働運動にも知識層の青年にも大きな影響を行使しながら、1923年の大地震の混乱のなかで甘粕憲兵大尉に暗殺された。これが1885年の世代の少数派といえるだろう。その少数派を意識していた問題を含めて、日露戦争後十月革命前、1910年前後の時代の特徴を鋭く体現していたのは、詩人ジャーナリスト、石川啄木(1885?~1911)である。

 啄木は1910年8月に、「官私大学卒業生が、其半分は職を得かねて」いて、「学生のすべてが其在学時代から奉職口の心配をしなければならなくなった」状況を指摘して、「理想を失ひ、方向を失ひ、出口を失った)青年たちの、「内訌的、自滅的傾向」について書いた。そのとき、明治寡頭制権力は、勝ち誇っていた。「強権の勢力は普く国内に行亙つてゐる。現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。-さうして其発達が最早完成に近い程度まで進んでゐる・・・」という状況を、啄木は「時代閉塞」と称んだのである。

2023年8月2日水曜日

20230801 臨床心理士・公認心理士と管理栄養士の養成組織の設置先から思ったこと

以前の投稿記事で、管理栄養士の養成学科の設置先の変遷について少し触れましたが、当初、家政学系統に分類された管理栄養士の養成学科(管理栄養学科)は、その後、時代の変化により、医療福祉学系統に分類されることが多くなりました。そこから、比較的古い大学(女子大学)の家政学系統に管理栄養学科が設置されていれば、その設置は比較的早い段階であった可能性が高いと云えます。

そして、そうした中で興味深いものとして、徳島大学医学部の医科栄養学科を挙げましたが、その後、あるいは、こうしたことは他にもあるのではないかと思い、記憶を辿り、ネットにて調べ、書籍をあたったところ、20年近く前、私が大学院受験を決意した頃に読んだ大学・大学院のガイドブックが発刊された当時は、丁度、法科大学院の新設が相次いでいた頃であり、ガイドブックには、さまざまな大学の法科大学院についての記事があったことを記憶しています。また他方で、これまた当時は、民間資格ではあるものの、キチンとした学問的な背景があるものとして、臨床心理士の養成大学院も、さきの法科大学院と同様、新設が相次いでいた頃であり、それについて書かれた記事も少なからずありました。

さて、その臨床心理士に当時の私は少し興味をおぼえて、調べた記憶がありますが、それによると、臨床心理士養成大学院の多くは、心理学部のある大学であれば心理学部に、そして、それ以外であれば教育学部や文学部、福祉系学部などに多く設置されています。また現在でも、この概要に大きな変化はないと思われますが、その中で、当時、興味深く感じたことは、多くが、いわば人文学系統に設置されている臨床心理士の養成大学院のなかで、鳥取大学は医学部に設置されていたことでした。そして、さきほどまた、臨床心理士養成大学院についてネット検索したところ、新たに香川大学では医学部に四年制の臨床心理学科が設置されて、さらにその先に臨床心理士と、新たな同分野の国家資格(2019~)である公認心理師を目指す大学院も置かれたことにより、現在では、医学分野での学部教育から、そのまま院に進学して臨床心理士や公認心理師を目指すことが出来るようになっているようです。

そしてまた、こうしたことを書いていますと、不図、そういえば徳島大学の薬学部は、旧制の徳島高等工業専門学校の応用化学科・製薬化学部(1922年・大正11年)を起源としていたことが思い出されました。とはいえ、私は薬科大学や薬学部の設置における一般的な傾向や背景についてよく知りませんので、断定は出来ませんが、おそらく、この徳島での薬学部設置の事情も、さきの徳島大学医学部での医科栄養学科(管理栄養士養成学科)の設置、そして香川大学医学部に臨床心理士・公認心理師養成を目的とする臨床心理学科および大学院が設置されたことにも通底する、何らかの「動き・メカニズム」のようなものがあったのではないかとも思われましたが、こうしたことにつきましては、今後またしばらく動向を観察しつつ検討したいと思います。

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2023年7月31日月曜日

20230731 ブログ休止期間に文章作成について思ったこと

ここ最近、ようやくブログ記事作成が日課ではなくなったことが身体感覚として定着してきたためでしょうか、睡眠が少し深くなったような感じがあります。そして、こうした期間がしばらく続くことは嬉しいのでしょうが、またしばらくしたら再開して、そして投稿記事数は関係なく、あと2年間、つまり来る2025年の6月22日まではブログ記事作成を行い、10年間の継続が出来れば良いと考えています。

とはいえ、冒頭に述べました通り、昨今、ブログ記事の更新を止めて、休息モードが定着しつつはあるのですが、それでも日常のさまざまな時に、考えや想念が浮かび、それが文章となっていく様子は、不思議なことに、かえって以前よりも明瞭に感じられるようになった感もあります。

そして、そうした時に記録出来るようにということもあり、外出時にはペンとノートを持参していますが、以下に、外出時に作成した文章を、あまり手を加えずに記してみます。

『本日は久しぶりに喫茶店でノートを開き、ブログ記事の下書きを作成している。また最近は、去る6月にブログ継続8年を迎えてから、あまり新規での記事作成・投稿を行ってこなかったために、こうした余裕のようなものが生れたのかもしれない。ともあれ、こうした口語がそのまま文語になったような文章であれば、その場において即物的な文章であれば比較的スムーズに作成出来るものであり、それは、こうした喫茶店といった、いわばアウェイの場所が齎す効果と云えるのかもしれません。これがいつもの自宅のPC前であれば、おそらくは、さきのような調子にて文章を作成することは困難であるのではないかと思われる。』

といった文章になって、そこから突然、自宅のPC前に戻り、その続きの文章を作成している次第ですが、たしかに、ここに書かれてある「アウェイの場所が齎す効果」のようなものはあると考えます。そのため、今後、おそらくは遠くないうちに、ブログ記事作成を再開すると思われますので、それまでに自分なりの試みとして、またさらに文章作成のスタイルを増やしてみたいと考えています。

その意味で、さきの喫茶店でのノートへの手書きした下書きは、後になり、当記事を作成するために、読み返してみますと、何やらまた違った考えが浮かんできて、それは、文章の作成にとっては刺戟となり、なかなか面白いものとなって、どうにかここにまで至っているわけですが、この期間を利用して、ChatGPTも含めて、新たな文章の作成法について検討してみたいと考えています。

そういえば、ChatGPTの登場は、私のようなブログ記事を主として文章作成を続けてきた者としては、かなり衝撃的なことではあったのですが、その後、しばらく操作していますと、ChatGPTには得意・不得意な分野があることが判り、つまり思いのほかに全知全能ではないことが理解出来て、むしろ、その運用の仕方について、自分なりに遊び半分にて色々と試みているのが現在であると云えます。

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