2023年3月21日火曜日

20230320 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 『サピエンス全史』上巻 pp.27-31より抜粋引用

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳
『サピエンス全史』上巻pp.27-31より抜粋引用
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712

ホモ・サピエンスに分類されうる動物が、それ以前の人類種から厳密にいつどこで最初に進化したかはわからないが、十五万年前までには、私たちにそっくりのサピエンスが東アフリカに住んでいたということで、ほとんどの学者の意見が一致している、もしその一人の遺体が安置所に運び込まれたとしても、そこの病理学者には現代人のものと見分けがつかないだろう。火の恩恵を享受していた彼らは祖先よりも歯と顎が小さく、一方、脳は巨大で、私たちのものと同じぐらいの大きさがあった。

 東アフリカのサピエンスは、およそ七万年前にアラビア半島に拡がり、短期間でそこからユーラシア大陸全土を席捲したという点でも、学者の意見は一致している。

 ホモ・サピエンスがラビア半島に行き着いたときには、ユーラシア大陸の大半にはすでに他の人類が定住していた。では、彼らはどうなったのか?それについては、二つの相反する説がある。「交雑説」によると、ホモ・サピエンスと他の人類種は互いに惹かれ合い、交わり、一体化したという。アフリカ大陸からの移住者は世界中に拡がる過程で、他のさまざまな人類種の集団と交雑し、現代の人々はこの交雑の産物である、というわけだ。

 たとえば、サピエンスは中東とヨーロッパに達したとき、ネアンデルタール人と遭遇した。ネアンデルタール人はサピエンスと比べると、筋肉が発達し、大きな脳を持っており、寒冷な気候にもうまく適応していた。道具と火を使い、狩りが上手で、明らかに病人や虚弱な仲間の面倒を見た(思い身体的障害を抱えながら何年も生き長らえたネアンデルタール人の骨が考古学者によって発見されている。(これは身内に面倒を見てもらった証拠だ)。ネアンデルタール人は凶暴で愚かな「穴居人」の典型として風刺画に描かれることが多いが、最近得られた証拠によって、そのイメージが変わった。

 交雑説によれば、サピエンスはネアンデルタール人の土地に拡がったとき、彼らと交雑し、ついには一体化したという。もしそれが正しければ、今日のユーラシア人は純粋なサピエンスではなく、サピエンスとネアンデルタール人の混血だ。同様に、サピエンスは東アジアに到達したとき、現地のホモ・エレクトスと交雑したので、中国や朝鮮半島に住む人は、サピエンスとホモ・エレクトスの混血ということになる。

 これと対立する、いわゆる「交代説」は、それとは大きく異なる筋書きを提示する。ホモ・サピエンスは他の人類種と相容れず、彼らを忌み嫌い、大量殺戮さえしたかもしれないというのだ。この説によると、サピエンスと他の人類種は異なる解剖学的構造を持ち、交合の習性はもとより、体臭さえも違っていた可能性が非常に高いという。彼らは互いにほとんど性的関心を抱かなかったはずだ。そして、仮にネアンデルタール人のロミオとサピエンスのジュリエットが恋に落ちても、繁殖力のある子供たちは残せなかった。両者を隔てる遺伝的な溝は、すでに埋めようがなくなっていたからだ。この二つの人類種は完全に別個のままであり続け、ネアンデルタール人が死に絶えたとき、あるいは殺し尽されたとき、その遺伝子も同じ運命をたどった。この見方に従えば、サピエンスは、自らより先に誕生していた他の人類種と混じり合うことはなく、彼らすべてに取って代わったことになるそれが正しければ、現代の人類種と混じり合うことはなく、彼らはすべてに取って代ったことになる。それが正しければ、現代の人類全員の血統は、七万年前の東アフリカまで、純粋にたどれる。私たちはみな、「生粋のサピエンス」というわけだ。

 二つの説をめぐる論争には、多くがかかっている、進化の観点に立つと、七万年というのは比較的短い期間だ。もし交代説が正しければ、今生きている人類は全員ほぼ同じ遺伝子コードを持っており、人種的な違いは無視できるほどにすぎない。だが、もし交雑説が正しいと、何十万年も前までさかのぼる遺伝的な違いがアフリカ人とヨーロッパ人とアジア人の間にあるかもしれない。

これはいわば人種差別的なダイナマイトで、一触即発の人種説の材料を提供しかねない。

 ここ数十年は、交代説がこの分野では広く受け入れられてきた。こちらのほうが堅固な考古学的裏付けがあり、人種差別的でなく穏当だった(現生人類の間に重大な遺伝的多様性があると主張して、人種差別というパンドラの箱を開けることを、学者は望んでいなかった)。だが2010年、ネアンデルタール人のゲノムを解析する四年に及ぶ試みの結果が発表され、この論争に終止符が打たれた。遺伝学者たちは、化石から保存状態の良いネアンデルタール人のDNAを十分な量だけ集め、現代人のDNA全般的に比較てきた。その結果は科学界に大きな衝撃を与えた。

 中東とヨーロッパの現代人に特有のDNAのうち、一~四パーセントがネアンデルタール人のDNAだったのだ。これはたいした量ではないが、それでも重大なことに変わりはない。その数か月後、第二の衝撃が走った。デニソワ人(ホモ・デニソワ)の化石化した指から抽出したDNAを解読すると、現代のメラネシア人とオーストラリア先住民のDNAのうち、最大六パーセントが、デニソワ人のDNAであることが立証されたのだ。

 もしこうした結果が確かであれば(さらなる研究が進行中で、これらの結論は補強あるいは修正されるかもしれないことは、ぜひ留意しておいてほしい)、交雑説の支持者は、少なくとも部分的には正しかったわけだ。とはいえ、交代説が完全に間違っていたことにはならない。ネアンデルタール人は、今日の私たちのゲノムにほんのわずかのDNAしか与えていないので、サピエンスと他の人類種が「一体化」したとは、とても言えない。両者の間の違いは、交合して子孫を残すのを完全に妨げるほど大きくなかったとはいえ、そのような交合はやはり非常に稀だったはずだ。

 それではサピエンスとネアンデルタール人とデニソワ人の間で見られる生物学的なつながりは、どう理解すたらいいのか?彼らは明らかに、馬やロバのように、完全に異なる種ではなかった。その一方で、ブルドッグとスパニエルのように、たんに同じ種の別の集団でもなかった。生物学的な現実は、白と黒というふうに、はっきり二分されてはいない。重要なグレーゾーンもあるのだ。馬とロバのような、共通の祖先から進化した二つの種はみな、しばらくの間は、ブルドッグとスパニエルのように、同一の種の二つの集団だった。そしてその後、両集団の個体がすでに互いにかなり異なりはしたものの、稀に交合して繁殖力のある子孫を残すことができる時期があったに違いない。やがて新たな突然変異が起こって、両者を結びつける最後の絆が断ち切られ、両者はそれぞれ別の道をたどり始めた。

2023年3月12日日曜日

20230311 やる気や情熱を減衰させるものについて

当ブログをはじめてから、およそ7.75年となり、またその間での総投稿記事数は1960程度であることから、その間、10日のうち7日は1記事ずつ投稿してきたことになります。そして今後は40に満たない新規記事投稿により、目標とする2000記事に到達出来るわけですが、昨今、それが現実味を帯びてきたことからか、あるいは他の理由によるものか、記事作成への「やる気」や「情熱」がさらに減衰したように感じられます。端的には「ここでわざわざ記事作成などしなくても良いのではないか・・」といった思いが強くなったということです。しかし以前であれば、こうした怠け心を起こす思いを除去する他の思いがいくつかありましたが、ここ最近は「若さ」が失われたことよるのか「反発心」のようなものが減衰したように感じられるのです。

たしかに当ブログ開始から1000記事到達までの3年間ほどは、さきの「反発心」あるいは「勝手な義務感」によるものであるのか、自分なりにではありますが、頻繁に新規での記事投稿をしてきました。そしてまた、この時期は現在とは異なり、そこまで労せずに記事作成に集中することが出来ていたと記憶しています。つまり、当時は「やる気や情熱」によって記事作成を行っていました。その点において、昨今は、これまでにも当ブログにて述べているように気力が減衰した代わりに、それまでのブログ記事作成を通じて培った技術のようなもので、どうにか継続しているといった状況であると云えます。

この気力の減衰は、ある程度巨視的に眺めれば、仕方のないことであるのかもしれませんが、未だ目標とする2000記事を目指している私としては、出来ればまた回復したいところです。しかしブログ記事の作成のような個人的な活動には、回復に繋がるような参照し得る過去の自らの事例といったものがなく、そこから闇雲あるいは泥縄式に、どうにか現在に至るまで続けてきました。そして、そのうちに「やる気や情熱」が再起してくるのではないかと期待していますが、残念ながら現在に至るまで、その気配のようなものはありません・・(苦笑)。

くわえて、さきの「気力の減衰」に関連して、数日前にネット上の報道動画で知った某芸能事務所に関連した一連の報道、そして、それらに対する国内各テレビ局の反応を見て、近年では珍しいほどの嫌悪感あるいは絶望感とも云えるような、ネガティブな感情をおぼえました。

未だに先が見通せないコロナ禍、そして1年以上続く宇露戦争によって心が荒みがちと云えることから、そうした嫌悪感などの悪感情を抱き易くなってしまっているのかもしれませんが、しかし、この事件(事件であるかどうかが問題であるのかもしれません)に対する国内外での反応を、既にここ1年以上続いている宇露戦争に関しての報道サイト・動画などを閲覧・視聴する習慣を転用して眺めたところ、何と云いますか、我が国のことがほんの一刹那、あたかも別の国のように感じられたのです。そして、この感じを受けてから「あ、これは我が国日本のことを報道しているのだ・・」とすぐに気が付いて我に返った時に、さきのネガティブな感情が生じるのです・・。

また、こうしたことはおそらく、個人レベルでの会話においても見受けられ、こうしたことを巧みに、あるいは半ば無意識であるのか分かりませんが、会話に織り交ぜて他者を攻撃することは、我々の社会全般においてもしばしば見受けられることです。

こうした、いわば相手に攻撃を悟らせつつも、その実名を用いないことにより、その相手からの攻撃な反応を免れようとすることは、おそらく、世界各地で見られる、それなりに普遍化された、ある種の技術であるのかもしれません。しかし同時に、こうした行為に対し「良心の呵責」のような、抑制的に働く情動が惹起されずに、そして、それが常態化するようになりますと、さきに述べた「やる気や情熱」といったものが徐々に減衰し、そして枯死してしまうのではないかと思われるのです。

その意味において、当記事は、まさに前述の「相手に攻撃を悟らせつつも、その実名を用いないことにより、その相手からの攻撃な反応を免れようとすること」とも云えることから、こうした記事はあまり作成しない方が良いのかもしれません・・(苦笑)。

しかしそれでも、そうしたことを承知のうえで、ネガティブな内容とも云える当記事を投稿する背景には「さきの嫌悪感や絶望感は、この先に癒され、寛解するものか分かりませんが、何れにしても忘れない方が良い」といった思いがあるからです。そしてまた私見としては、それが、歴史などの事実による過去の記録が、たとえ、それが悲惨なものであったとしても重視される理由とも繋がるのではないかと考えますが、さて、これもまた実際のところはどうなのでしょうか?

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2023年3月9日木曜日

20230309 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」 pp.204‐205より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」
pp.204‐205より抜粋
ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

大分前のことだが、源田実氏が「ベトナム戦争は、純軍事的に見れば北ベトナムの実質的敗北に終ることは明らかだ」といった意味のことをいわれ、当時これが「勇気ある発言だ」と書かれていたのを何かの雑誌で見たが、瞬間ムカッとしたのである。今それを言うなら、なぜ、太平洋戦争の前にそれを言わないのか!米・英・中三国との戦争の結果は、あなたには「純軍事的に見れば、はじめから明らか」であったではないか。あなたは軍人ではなかったのか。軍事の専門家ではなかったか。他国のことに発言するくらいなら、なぜ自らの祖国とその同胞のために発言しなかったのか。

 もちろんベトナムについて発言することすら勇気がいるのだから、当時の日本で、日本について同じような発言をすることは、死を覚悟しなければ出来なかったであろう。しかし、たとえ、代表的な新聞が社説で「対米開戦」を主張しようと、それは本多勝一氏のように「百人斬り」を近代戦の実態と考え、これを確固たる「事実」と主張しているアマのハッスルにすぎず、それに対したとえ一知半解人が双手をあげてこれに賛同しようと、それは専門家の判断の基準にはならないはずである。

 その場合、専門家は、たとえいかなる罵詈雑言がとんで来ようと、たとえ、いわゆる「世論」なるものに、袋叩きにあおうと、殺されようと、専門家には専門家としての意見を言う義務があり、それをはっきり口にする人が、専門家と呼ばれるべきであろう。ただ私は、宮沢浩一教授の「ペンの魔力」という一文を読んだとき、つくづく戦争中を思い出したのである。次にその一部を引用させていただく。

 わが国では、各地のいわゆる公害裁判で、原告に加担するマスコミがすでに結論がでているとばかりに、被告の訴訟活動に不当な圧力をかけている。被告会社の主張を科学的に裏づけようとする鑑定証人に加えられるペンの暴力によって、専門家は発現を事実上封ぜられる。裁判の場では、両当事者は対等の立場で、使用しうる限りの科学的知識を動員して、その主張の合理性を争わねば、真実を誤る。

 法律の適用についていかにすぐれた能力を持つ裁判官でも、科学的な判断には、専門家の助けを借りなければならない。冷静に戦わされる専門家の意見に耳を傾け、原告・被告の言い分をじっくり聞いて判断を下さなければならないのに、先走った感情論から、被告側の鑑定人の足をひっぱる応援部隊が、「資本家の走狗」よばわりする図は、中世の暗黒裁判に似ている。

 金沢大学の学長が、イタイイタイ病問題での、まわりの付和雷同性をたしなめると、今度は学生が騒ぎ、マスコミが弾劾の論陣をはる。いつになったら、この頓馬なセンセーショナリズムがなくなることだろう。

 教授は「この頓馬なセンセーショナリズム」と書いておられるが、戦争中は文字通り「この頓馬なセンセーショナリズム」の連続であり、「百人斬り競争」という記事は、その一つだったにすぎない。

 そしてこういったセンセーショナルな記事の連続が、専門家の口を封じ、アマだけを異常にハッスルさせるという結果になった。それが、秦郁彦氏の指摘した戦争末期の実情であろう。そして小規模ならば、太平洋戦争と同じのこのパターンの事件は、国内の至るところでくりひろげられているように思われる。

2023年3月7日火曜日

20230306 ブログ記事の作成と「力の配分へのバランス」について・・

おかげさまで、今回の記事投稿により、総投稿記事数が1963に到達します。そして、今後当記事を含めて新たに37記事投稿することにより、当面の目標としている2000記事に到達出来ます。

これは、今後毎日1記事を投稿することにより、1カ月と数日程度にて達成が可能との目途が立ちますが、おそらくことはそこまでスムーズには進まず、その2倍程度の期間、すなわち2カ月半ほどで(どうにか)達成出来ればと考えています。

具体的には、当ブログ開始から丸8年となる、来る6月22日までに2000記事への到達が叶うのであれば、その経緯はあまり問わないのが、ここ最近での記事作成方針であり、出来るだけ、それが実現出来るように、可能である日は記事作成を行おうということになります。つまり、あまり怠け過ぎず、且つ、根を詰め過ぎずという、所謂バランスのとれたスタンスにて記事作成を行うことが、継続にとっては重要であるように思われるのです。

記事作成にあぶらが乗っている時は、昨今でも「もう一つ引用記事でも・・」となることがありますが、そこで(調子乗って)新たに作成すると、後になり、思いのほかに疲れており、数日間、記事作成を休止するといったことも度々あります・・(苦笑)。それ故、さきの「バランスののとれた記事作成へのスタンス」が重要なものとして認識されるのです。

また、こうした所謂「発信活動」への注力の程度について、あらためて考えてみますと、私の場合、思い起こされるのは、過日投稿の数記事にて述べました2012年の出来事です。そこでも述べましたが、当時の私は、これまでのなかで最も躁的になっており、さきの「力の配分へのバランス」のようなことはあまり考慮していなかったものと記憶しています・・。

そしてまた、この2012年初秋に、これまでに何度か当ブログ記事題材とさせて頂いた人文系分野での勉強会に初めて参加させて頂きました。当時在住していた鹿児島からLCCにて関空まで飛び、そこから電車にて和歌山に入りしましたが、この勉強会の頃は、前述のように躁的であったのと同時に、歯科理工学実習と歯科衛生士科の教養英語を担当させて頂いていた時期でもあり、そのノリにて勉強会での発表もさせて頂きましたが、その時の様子もまた比較的鮮明に記憶に残っています・・。

そのように考えてみますと、やはり躁的な状態である方が、記憶などに関する頭脳の働きは概して活発であるようですが、その後に、揺り戻しのように来る虚脱や鬱のような状態を避けるためにも、躁的になる要素を制御しつつ、記憶や感性を働かせることが、さきの「力の配分へのバランス」の要点であるのではないかと、これまでの経験を鑑みて考えるのです。

その意味において、1000記事到達後から現在に至るまでは、ブログ記事作成に対する活力全体は、それ以前と比べて有意に減衰したと云えますが、しかし同時に、その明らかに減衰した活力で、さらに1000記事近く更新出来ているということは、自慢できるほどのことではありませんが「力の配分へのバランス」については、多少は上達したのではないかとも思われるところです。

とはいえ、これについては今しばらく判断を保留して2000記事までは、前述のようにあまり無理をせずに、且つ、そこまで怠けずに継続していきたいと考えています。

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2023年3月5日日曜日

20230304 【書籍をめぐる縁】その2:ブログとSNSとの連携による効果?

先日、読了した著作についてSNSにて発信したところ、何と、その著者ご本人からの反応がありました。これは、去る1月30日投稿分の「昨日のSNS上での出来事から思ったこと【書籍をめぐる縁について】」においても述べたことではありますが、読んだ著作のことをSNSに発信して、それに著者ご本人から反応があることは、やはり現在に至っても驚かされます。とはいえ、先日の出来事については、著者である先生とは、これまでに何度かお目に掛かったことがあり面識もあることから、SNS上でのこうした反応からは、また異なった不思議な感じを受けましたが、同時に全く悪いものではありませんでした。端的に、私にとっては未だ慣れない、新たな種類の刺戟であったのではないかと思われます。

当ブログをはじめて7年8カ月ほどになり、またこれをツイッターにて連携投稿するようになってからは3年2カ月ほどになります。そして、この連携投稿をはじめて、しばらく経ってから、さきのような出来事が生じるようになりましたが、これは前述のように私にとっては未だ驚くべきことであり、その意味において私はツイッターでは未だ新参者であるのだと云えます・・(苦笑)。

そしてまた同時に、昨今、前述のような出来事が続いて生じたことから「私のツイートも新参者なりに、少しは認知はされるようになってきたのかもしれない・・。」とも思われるのですが、これをもう少し考えますと、過日(2月25日)投稿分の「先日の「源泉の感情」と「雑談的会話」の続き・・」にて述べました、2012年春~秋の歯科理工学実習を終えてから、同年晩秋から翌年早春にかけての興味深い出来事とも、通底する何かがあるようにも思われるのです。

とはいえ、これにつきましては、また別の近い機会に述べてみたいと考えています。

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2023年2月28日火曜日

20230228 株式会社岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著 工藤 政司訳「さらば古きものよ」下巻 pp.204-208より抜粋

株式会社岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著 工藤 政司訳「さらば古きものよ」下巻 pp.204-208より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003228626
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003228623

T・E・ローレンス大佐(1888~1935。イギリスの考古学者・軍人・作家)に初めて会ったとき、彼はたまたま夜会服に正装していた。あれは1920年の2月か3月のことだったに違いない。オールソウルズ・カレッジでは賓客接待の夜で、そのさい彼は7年間の特別研究員に任命された。夜会服姿は目に注意が集中するが、ローレンスの目はたちまち私をとらえた。人工の光で見てみてもはっとするほど青い目で、彼は話し相手の目をけっして見ようとはせず、衣服や手足の目録をつくりでもするかのようにちらちらと上下に動かす。私は偶然の客にすぎず、居合わせた少数の人々は顔見知りだった。ローレンスは神学の欽定講座担当教授(オクスフォード・ケンブリッジ両大学、およびスコットランドの大学に設けられた講座。ヘンリー八世の創設。その後の同様な講座担当教授にもいう)とシリアのギリシャ哲学者が初期キリスト教に与えた影響、わけてもガリラヤ湖にほど近いガダラ大学の重要性について話し合っており、使徒ヤコブが書簡のなかでガダラの哲学者の一人(私はムナサルクスだと思う)を引用したと言った。彼はさらに、メレアグロス(紀元前一世紀ごろのシリア出身の詩人・哲学者)や、ギリシャの詞華集に寄稿したシリア系ギリシャ人について話し、彼らの詩の英訳を出版するつもりだと言った。私はここで話に加わり、メレアグロスが一度いささか非ギリシャ的な使い方をした明けの明星のイメージに触れた。ローレンスは私に顔を向け、「さては詩人のロバート・グレーヴスだな?君の本は1917年にエジプトで読んだけど、すごくいいと思ったよ」と言った。

 私はどぎまぎしたが、悪い気はしなかった。彼はさっそく若い詩人について訊きはじめた。最近の詩の事情に疎いのでね、と言うので、私は知るかぎりのことを伝えた。

 ローレンスはエミール・ファイサル(1906?~75)サウディアラビア国王〈1964-75〉の顧問を務めた平和会議を終えてまもないころで、「叡智の七つの柱」の第二稿に手を入れているところだった。特別研究員の地位は、アラビアの反乱の正規の歴史を書くことを条件に彼に与えられたのである。私は午前中の講義の合間に彼の部屋をよく訪れた。しかし彼は夜に仕事をして夜明けに寝るので、11時前や11時半という時間はさけた。彼自身は酒を飲まなかったが、用務員にオーディット・エールの入った銀製ゴブレットを持たせてよく使いによこした。オーディット・エールは大学で醸造されてオーディット・デイ(会計検査日)などに飲まれたところからその名がついた、大麦湯のような口当たりのビールだが強かった。シュレスヴィヒ‐ホルシュタインのアルバート王子が新築された博物館の開館式に招かれてオクスフォード大学に来たことがあり、式のまえにオールソウルズ・カレッジで食事をとったさいオーディット・エールの口当たりのよさに騙されてつい飲みすぎ、午後遅く帰るときにはブラインドを引いた車で駅まで送られるはめになった。ローレンスの戦時中の活動についてはっきりしたことは何も知らない。もっとも兄のフィリップが1915年にカイロの情報局で彼と一緒で、トルコの戦力の分析に当たっていたことはわかっている。反乱に関しては訊いたことがない。彼がその話題を好まないように見えたことが一つ‐ロウエル・トーマス(1892-1981。アメリカの著述家・ジャーナリスト・旅行家。第一次大戦で出会ったT・E・ローレンスについて書いた「アラビアのローレンスと共に」〈1924〉がベストセラーになった。その後長くラジオのニュースキャスターとして活躍〈1930-76〉が現在、「アラビアのローレンス」についてアメリカで講義している‐もう一つは私と彼の間に戦争のことは口にしないという申し合わせがあったためだ。何よりも私たちは戦争の後遺症に苦しんでおり、オクスフォード大学を現実とも思えぬほどの憩いの場として楽しんでいた。だから、フルスキャップにぎっしり書かれた「叡智の七つの柱」の長い原稿は居間のテーブルにいつも積んであったけれども、私は好奇心をおさえた。彼はときおり、戦前にメソポタミアで行った考古学の仕事について話した。しかし、私たちがいちばん論じ合ったのは詩、それも現代詩だった。彼は、詩人と聞けばだれかれの別なく会いたがり、私を通じて知りあった代表的な詩人の中には、シーグフリード・サスーン、エドマンド・ブランデン、メイスフィールド、それから後日のことになるが、トーマス・ハーディ(1840-1928。イギリスの詩人・小説家)らがいた。彼は素直に詩人を羨み、詩人にはなにか理解すれば得るところのある秘密のようなものがある。という思いこみがあった。彼はチャールズ・ダウディ(1843‐1926。イギリスの作家・旅行家。作品に「アラビア砂漠旅行記」など)を崇拝し、第二の父と慕っていたアシュモリアン博物館のホーガス館長を通じて紹介してもらった。彼には詩人を特殊な生き方や考え方の体現者というより、むしろ技術的な言葉の魔術師と考えているようなふしがあったが、私にはこれに反論するだけの知識がなかった。その後何年かたっていくらか分かってきたときには、説得するのは難しいと気がついた。彼にとっては、絵画、彫刻、音楽、詩などは類似した活動で、使われる媒体が違っているだけだ。

20230227 株式会社講談社刊 倉本一宏著「戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」 pp.154‐158より抜粋

株式会社講談社刊 倉本一宏著「戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」
pp.154‐158より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4062884283
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062884280

白村江の戦の対外的な目的に関しては、以前から言われていることであるが(石母田正「日本の古代国家」)、「東夷の小帝国」、つまり中華帝国から独立し、朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望が、古くから倭国の支配者には存在し、中大兄と鎌足もそれにのっとったのだということなのだろう。

 それでは、国内的な目的、対内的な目的というのは、いかなるものだったのであろうか。

 第一の可能性として、中大兄が派兵に踏み切った段階というのは、百済の遺臣鬼室福信たちが唐の進駐軍に対して叛乱を起こし、各地で勝利を収めてした時期であった。その時点で百済遺臣は倭国に使者を遣わして、援軍の派兵を要請してきたのである。

 その際、使者は絶対に客観的な事実を言うわけはない。自分たちはすでに大勝利を収めていて、あたかも、もう少しで唐軍を半島から駆逐することができるとでもいうようなことを言ったことは、おそらく間違いあるまい。したがって、中大兄と鎌足は、そのような誇張された情報に乗ってしまったことになろう。実際に、福信たちは緒戦においては勝利がつづいていたわけであるし、使者の情報が誇張を含んだものであると判断したとしても、あながち虚偽の情報でもあるまいと判断し、倭国からの援軍が合流すれば、ほんとうに最終的な勝利を得ることができると考えたとしても、不思議ではない。現在から見れば無謀な戦争だったけれども、当時の情勢としては、本気で勝つ目算もあったという可能性、また実際に勝つ可能性もあったという可能性もあった、ということを考えるべきであろう。

 第二の可能性として、もしかしたら負けるかもしれない、だけれども朝鮮半島に出兵して、戦争に参加するのだ、と中大兄が考えていた可能性を考えてみたい。当時の兵力や兵器、それに指揮系統の整備レベルから考えて、もしかしたら唐には負けるかもしれない、ということは、明敏な中大兄のこと、心のどこかに予想していた可能性は高かろう。

 しかしそれでもなお、負けた場合に、唐が倭国に攻めてくるとは想定せずに、国内はこれによって統一されるであろうということを、中大兄と鎌足は考えたのではあるまいか。中大兄にとっては、中央集権国家を作りたい、だけど支配者層はバラバラである、地方豪族は言うことを聞かない、というような時に、ここで対外戦争を起こしてみたら、国内が統一できるだろう、という思いを持っていたのではないか。

 その際、外国でおこなう戦争だったのであるから、敗残兵が大量に帰還してくれば、国内の人びとにも、さすがに大きな損害があったことは察知できたはずである。しかしながら、それだけの情報しかないのであるから、国内向けには、こっちは大きな損害を受けたけれども、向こうにはもっと甚大な損害を与えたのだと言い張っても、誰も見ていないのであるから、わからないのである。

 さらに第三の可能性として、たとえ倭国の敗北が国内の誰の目にも自明なほどの敗北を喫したとしても(実際にはそうだったのであるが)、「大唐帝国に対して敢然と立ち向かった偉大な中大兄王子」という図式を、倭国内で主張することは可能である。つまり、中大兄たちの起こした対唐・新羅戦争というのは、勝敗を度外視した、戦争を起こすこと自体が目的だったのであり、それによって倭国内の支配者層を結集させ、中央集権国家の完成を、より効果的におこなうことを期したものであるという側面があった可能性を考えたい。

 あるいは、もっと深刻な可能性として、倭国の敗北が国内で周知の事実となってしまった場合でもない、中大兄は自らの国内改革の好機ととらえていたのではないかと考えている。

 あたかもこれから、唐・新羅連合軍が倭国に来襲してくるという危機感を国内に煽り、戦争で負けた、これから両国が倭国に攻めてくるぞ、それに立ち向って我らが祖国を守るためには、このままの体制ではいけない、国内の権力を集中して軍事国家を作り、国防に専念しなければいけない、軍国体制を作るためには、これまでとは異なる権力集中が必要である、国内の全権力を自分に与えろ、と主張しようとしていたのではないであろうか。

 じつはこのパターンが、もっとも強力な軍事国家を作ることができるのであり、中大兄にとっては、この戦争は、まさに「渡りに舟」のチャンスと認識していたことになる。

 最後に一つだけ、とんでもない可能性も提示しておきたい。従来から説かれているところであるが、白村江の戦に参加したのは、倭国の豪族軍と国造に率いられた国造軍の連合体であった(鬼頭清明「白村江」)。中央集権国家の建設をめざしていた中大兄にとって、もっとも深刻な障碍となっていたのは、まさに自己の既得権益ばかりを主張し、中央政府の命に容易に服そうとしない豪族層だったはずである。中央集権国家の建設というのは、取りも直さず豪族層の伝統的な権益(私地私民)を剥奪することに他ならないのである。

 中大兄と鎌足にしてみれば、乙巳の変依頼、自分たちの改革に対して障碍となってきていた、そしてつぎなる改革に際しても、邪魔な存在となる可能性の高かった豪族層を、対唐・新羅戦争に投入し、それらの障碍を取り除くことができる(いわゆる「裁兵」である)とでも考えたのではないであろうか。

 事実、白村江の戦から九年後に起こっている壬申の乱においては、白村江の戦に参加した豪族の名は、ほとんど見られない。

 中大兄たちの思惑通り、白村江の戦における敗北によって豪族の勢力は大幅に削減され、庚午年籍の作成をはじめとして、中央権力はかなりの程度、地方にまで浸透していったのである。

 以上、さまざまな可能性を考えてみた。これらのうち、どれがもっとも中大兄の思惑に近かったのか、それとも、中大兄自身がいくつかの可能性をシュミレートしていたのか、今となっては知る由もないが、いずれにせよ、白村江の戦は、必ずしも無謀な戦争だったのではないし、勝敗をまったく度外視していたわけでもないことは、明らかであると思う。

 なおかつ、負けてもかまわない、戦争を起こすこと自体が目的だった、という側面を強調したい。しかもそれは、対外的な目的よりも、国内的な要因によって起こしたということを指摘しておきたい。

 これは戦争という国家の権力発動の持つ、非常にして明晰な論理の発現だったのである。あれほどの大敗北だったからこそ、それが先鋭に浮かび上がったということなのであろう。そしてこの敗戦以降、倭国は新たな段階の政治制度の整備に向かうことになる。