2022年12月31日土曜日
20221230 株式会社講談社刊 上横手雅敬著「源平の盛衰」pp.30-32より抜粋
pp.30-32より抜粋
ISBN-10 : 4061592750
ISBN-13 : 978-4061592759
忠常の乱以前には、坂東では平氏の力が強かった。源氏は藤原氏にもちいられ、傭兵として働き、また近国の受領にも就任して富を重ねていた。その本拠も摂津・大和・河内など畿内にあり、頼信にしても藤原道長の有力な近習として諸国の国司を歴任していた。「東の源氏、西の平氏」といわれる後代とは異なり、当時はその基礎が逆であった。
平忠常の乱を源頼信がしずめたことは、源氏の坂東進出の第一歩をきずくことになった。一方、平氏はその一族が反乱を起こしたり、その鎮圧に失敗したりしたため、みずからの勢力をおとろえさせていった。それにひきかえ、頼信によって植えつけられはじめた源氏の勢力は、その子頼信にいたってさらに強固になった。頼信は父とともに忠常追討の軍にも加わったが、やがて相模守となると、それまで国司に抵抗していた連中も、武士を愛する頼信の人柄に帰服し、その家来となるものがふえていったという。
忠常の乱の二十年後、一〇五一(永承六)年、陸奥の俘囚(帰順した蝦夷)の長である安倍頼時が国司に反抗した。朝廷では頼義を陸奥守に任じ、その討伐にあたらせた。頼義・義家父子が頼時を討ち、最後にその子貞任をも討って乱を平定したのは一〇六二(康平五)年で、この間じつに十二年、平定のためには、出羽の俘囚の長である清原氏の援助まで借りた。この事件を前九年の役という。
板東の情勢を背景に新しい主従関係
頼義の軍隊の特色は、死を恐れぬ坂東の精兵を従えていたことだった。戦いは苦戦の連続で、頼義さえも敵にかこまれてあやうくなった。相模の武士佐伯経頼は「自分は将軍に三十年仕えてきた。いまや将軍が滅びようとしているときにあたり、ともに戦死するのは当然だ。」(「陸奥話記」)といって頼義を救って戦死した。
経頼のような武士は、これ以前の記録には見られなかった人物である。たとえば平将門の部下たちは、戦いに負けるとすぐに逃げ出している。中央から派遣されたかつての追討軍にしても、大将と従兵とのあいだに人間的なつながりがなく、大将のために命をすてる者はいなかった。つまり、重要なのは、頼義の軍隊が、強い主従関係のきずなで結ばれた最初のものだったということだ。
戦いに負けたら逃げ出すのと、主人とともに討ち死にするのと、どちらが立派だろうか。もちろん人間はだれでも生きることを望む。死ぬのはいやである。だから、逃げるほうが人間的だともいえる。たしかに生命の尊重はなによりも重要ではある。しかし、ただ生きたいという本能のままに逃げ出すのと、主人のとめに献身するのとくらべると、少なくとも後者のほうが自覚された行動なのである。本能的な逃避と、戦争そのものに疑問を感じる反戦思想とを混同してはならない。
2022年12月30日金曜日
20221229 株式会社新潮社刊 新潮選書 池内恵著「サイクス=ピコ協定 百年の呪縛」 pp.56-59より抜粋
ISBN-13 : 978-4106037863
ロシアが南下政策を推進し、オスマン帝国の黒海沿岸地域を領有し、オスマン帝国内の正教徒の保護権を主張して介入を深め、バルカン半島のスラブ系諸民族に影響力を及ぼしていったのに対して、危機感を募らせた西欧諸国はロシアの拡大を抑制することを意図した介入を行っていく。露土戦争はロシアとトルコだけの問題にとどまらず、国際化したのである。露土戦争によるロシアのオスマン帝国領土の蚕食に対して、西欧列強諸国が、勢力均衡を守るために介入するというのが、「東方問題」の基本構図である。
1735ー1739年の露土戦争では、黒海周辺でロシアがトルコを戦っているのに乗じて、ハプスブルグ帝国はロシアの側に立ち、オスマン帝国の版図だったバルカン半島のセルビアに侵攻して介入した。これは露土戦争に西欧諸国が介入する先鞭をつけた。
1774年のキュチュク・カイナルジャ条約では、オスマン帝国がクリミア半島の支配権を手放すだけでなく、ロシア皇帝にオスマン帝国内のギリシャ正教徒の保護権を与えた。これによって、オスマン帝国内の異教徒・少数派の保護を名目に西欧列強が介入する根拠ができた。
1853-1856年のクリミア戦争では、ロシアの台頭を恐れた英・仏がオスマン帝国の側に立って参戦する。1877年から翌年にかけての露土戦争でロシアが勝利を収め、1878年のサン・ステファノ条約でバルカン半島の広範囲が、ロシアに割譲されるか、独立・自治を認められて実質的にロシアの勢力圏内に入ることになると、当時台頭していたドイツ帝国の宰相ビスマルクが主張してベルリン会議を開催し、ロシアに割譲された領土の多くをオスマン帝国に返還させた。
言うまでもなく、英・仏を中心とした西欧の列強は、オスマン帝国の領土を奪うロシアを懲罰するために、また苦境に立たされたオスマン帝国を救おうという正義や善意から介入したわけではない。1814-1815のウィーン会議で形成された、欧州の列強諸国間の勢力均衡を原則として成り立つ欧州の国際秩序を守ることが、介入の目的だった。西欧の列強諸国は、オスマン帝国の権益をめぐって相互に牽制し合い、特にロシアの伸長を抑制して、勢力均衡を維持しようとした。
オスマン帝国は17世紀までの拡張期には、「強すぎる」ことによってヨーロッパ諸国の脅威となり、問題となっていた。しかしその後、衰退期に入り、台頭するロシアによって領土を奪われていくと、オスマン帝国の「弱さ」こそが問題となった。オスマン帝国が崩壊して、その領土をいずれかの勢力が占有することで強大化し、列強間の勢力均衡が崩れることが問題視され、西欧列強の外交・安全保障上の課題として、「東方問題」が現れてきたのである。
2022年12月29日木曜日
20221228 一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.37-38より抜粋
ISBN-13 : 978-4130820912
装飾古墳
中期の古墳では、長持型石棺を竪穴式石室に納めた者が多いが、追葬の可能な横穴式石棺もあらわれ、普及する。後期になると、横穴式石室に壁画を描いた装飾古墳が北・中部九州に行われた。
装飾古墳は、四世紀から五世紀初めにかけ、石棺の蓋や本体に鏡や直弧文、円文や靱など武器・武具のかたちを浮き彫りまたは線刻し、魔除けとしたものに始まる。五世紀には千金甲古墳(熊本)のように、横穴式古墳の玄室(棺を納める奥の部屋)の下部に、石障と呼ぶ区切りの板石を設けて複数の遺体を安置し、そこに装飾を加える。六世紀には、玄室とそこに至る羨道の壁面に彩色や線刻で壁画を描く。六世紀半ばから後半にかけてが最盛期で、王塚、チブサン、珍敷塚、竹原[図16]など、装飾古墳の代表格がこの時期の北九州に集中しており、また茨城県のように、関東にも装飾古墳が及んでいる。七世紀には大分の鍋田横穴、福島の清戸迫横穴のように、山の斜面に直接横穴を掘って墓室とし、その内部や外壁に装飾を施すものも見られる。近畿地方にはなぜか、彩色古墳が八世紀まで見られない。垂れ幕に描いたため残らなかったとする説もある。
装飾古墳が描かれたと同じ時期、高句麗でも墳墓の壁画が盛んに描かれた。日本の装飾古墳との関係は当然ながら予想され、研究も始まっているが、中国の墳墓とも関係を含め、これからの課題が多い。中国や朝鮮の墳墓壁画とくらべ、日本の装飾壁画の特色は同心円文、三角文、蕨手文、直弧文など抽象文様が多い点にある。盾や靱、人物、馬、動物などの具象文も盛期に描かれたが、それらの描写も多分に抽象的であり、図形の重なりがなく、平面的羅列にとどまる。同時代の中国の墳墓壁画にくらべてこの印象はとくに強く、高句麗壁画はその中間といえる。
だが、モチーフの写実的再現のみを絵画の優劣の基準としない現代お見方からすれば、装飾古墳も大きな価値がある。チブサン古墳[図17]の遺体の頭あたりに描かれた人物像は異星人のように奇異で稚拙だが、白、赤、青の三角と菱形、円を組み合わせた彩色は豊かで美しい。清戸迫横穴の狩猟する人物の肩から大きな赤い渦巻き文が吹き出して、描き手の呪術の力がそこにこめられているのを見るのも印象的である。装飾古墳の大部分は、発掘後の壁画の感想により彩色が色あせて見えるのが残念だが、死者へのはなむけとしての「かざり」への意欲と情熱はそこに失われていない。
2022年12月28日水曜日
20221227 ある程度時間をかけて理解出来るようになることの意味について・・
あるいは書籍からの引用記事を充てることにより、多少容易に到達出来ると思われることから、この年内残りの数日も、引用記事を投稿するものと思われます。しかし、先日投稿のブログにて述べましたが、ここしばらくの期間、オリジナルでのブログ記事の投稿がなかったことから、再開初日であった一昨日での記事作成ではいくらか苦労しました・・。とはいえ深刻なものではなく、実際に一昨日、昨日は無事にオリジナルの記事作成、投稿をすることが出来ましたので、おそらく、これまでのブログ記事作成の継続があったことから、どうにか出来たのではないかと思われます。そこから、たとえブログ記事の作成であっても継続が大事であることが分かりました・・。
また、ここ2日間の投稿記事にて挙げた人文社会科学系研究者の先生に、その旨をお知らせするためメールを出しましたが、その返信がまた考えさせるものであり、10年以上前の文系院生時代に友人と一緒にこちらの先生の研究室に初めて訪問した時のことが思い出されました。
先生の前でそれまでの経緯を友人と二人で説明し、さらに双方自らの見解を述べたわけですが、この時が私にとって人文系分野での議論の出発点であったのかもしれません。ともあれ、その結果は判然としませんでしたが、しかし何と云いますか、その記述についての理解は深まった(自分なりに腹落ちした)と記憶しています。
その後、こうした議論が度々あり、さらに、その後、私を含む院生数人で始めた院生自主研究発表会においても先生は教員代表として度々ご出席頂き、また、私もそこで、これまであまり知らなかった分野での、いくらか突っ込んだ議論に触れることが出来ました。
また、以前にも当ブログにて述べたことがありますが、医師や歯科医師など医療系分野での優れた研究者と、さきの先生のような人文系の研究者では、それぞれ優れた研究者であっても、そこから生じる「凄味」のようなものは異なり、人文社会科学系のそれは、以前の投稿記事にて「その仰るところには、分厚い教養の層を濾過されたとも云える、ある種の深み・含蓄があり」と表現していましたが、これはある程度、その分野を勉強なり研究していると、何となく知覚することが出来るようになるといった性質があるように思われます。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2022年12月27日火曜日
20221226 昨日の続き、事物の洗練の方向性そして歴史を実感する契機について
しかし、そもそも、何故この「紀州鉈」に興味を持つに至ったかについては、これまた以前の投稿記事にて述べましたが、南紀白浜在住時に、海開き前の浜掃除が私を含めて勤務ホテルのスタッフ何人かと、白良浜近隣に立地する他のホテルスタッフや自治体職員などにより行われましたが、その中には本職の植木職人の方々もおられました。その出で立ちは、色の褪せた綿パンに、ふくらはぎの半分以上までを覆うようなゴム底の地下足袋を履き、作業用のシャツを着て、そして手には、おそらく1mほどの長さがありそうな柄木の紀州鉈を持たれていたのですが、この光景が何やらとても新鮮に映ったのです。つまり、日常生活の中で槍とも見紛うような鉈を当り前のようにしてめいめい手に持ち、煙草を喫いながら、互いに何やら話しておられる光景は、都市部などでは、なかなかお目に掛かることはないと思われるのです。そしてまた、それを初めて見た私は「何だ、あの武器のような道具は?」と思い、周囲の方々に訊ねたところ、それは樹木の枝などを掃うためなどに使う鉈とのことであり、そこで、この道具については記憶に残り、その後、当地の大学院に進み、地域学研究の一環として、この「紀州鉈」について調べていたところ「それを題材にして地域誌の記事を書いてみてはどうか?」と仰って頂き、作成したのが、私の作成した文章ではじめて活字になったものであると云えます。ともあれ、その記事では、紀州鉈を主題としているにも関わらず、ドイツの哲学者、社会学者であるゲオルグ・ジンメルによる、ある主張に被せて、この紀州鉈について述べていたと記憶していますので、この時も、やはり多少おかしくなっていたのだと思われます・・(苦笑)。
そして、その後になり、数カ月ほど前のことになりますが、紀州鉈や鉈などとはあまり関係ない、ある民俗学関連の著作を読んでいた際に不図、さきの白良浜の掃除の際に見かけた光景が思い出されてきたのです。この記述は、現在でも憶えており、また、その著作も手近にあることから、後日また引用記事として作成してみたいと考えています。ともあれ、現在において、ホンモノのその国や地域の歴史を実感する契機とは、何らかの、こうした体験のようなものがあるように思われるのですが、さて、これも実際のところはどうなのでしょうか?
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2022年12月26日月曜日
20221225 分野横断と文化事物の洗練の方向性について
さて、さきに述べた「他の原稿作成」について、それらは私が作成するものではなく、他の先生方に執筆依頼をさせて頂いたものですが、それら原稿の進捗状況などを先生方に伺いつつ、入手した原稿に加筆などをさせて頂き、そして、それら箇所についてのやり取りをメールや電話などを通じて相談しつつ進めさせて頂いていましたが、さきに述べましたように、昨日、どうにか一段落着きました。お預かりした原稿は、総じてそれぞれの先生方の特徴や個性がよく出ていると思われ、とりわけ、長くアカデミアにおられた先生方の作成された記事原稿は、当然であるのかもしれませんが、こちらで手を加える必要はほとんどなく、文章として明晰であり、そして内容も総じて大変に興味深いものであったと云えます。
こうした表現は社交辞令やリップサービス、あるいは悪く表現すると「おべっか」であろうと思われる方々もいらっしゃるかもしれませんが、他方で私も一応、いくらかは、そうした種類の文章を読んできました。また、それらに対する自分なりの正直な評価は、文章や口にすることは多くありませんが毎回してきたと云えます。その視座から、今回の執筆頂いた原稿は、端的に「プロの文章」であると云えます。そこから、あるいは他分野の方々が、この原稿を読まれたら、どのように思われるのかと、執筆された先生から許可を頂き、かねてよりお世話になっている、ある人文系研究者の先生に原稿を試し読みして頂いたところ「すばらしいことですね。社会科学領域でもこのような可能性はあるだろうと思います。」とのことであり、概ね肯定的なお返事を頂きました。
しかし、ここで「肯定的なお返事」以上に大事であると思うことは、人文系の研究者が、歯科医療関係者向けの文章を理解しつつ普通に読むことが出来たことです。しかし、もう少し考えてみますと、こちらの原稿の内容は、歯科医療関係者向けではありつつも、特別に専門性が高い内容ではないとも思われることから、こうした種類の文章は、他分野の方々でも比較的容易に読むことが出来、ある意味で汎用性があるのではないかと思われました。ともあれ、そこまで考えが進みますと、昨今、電車内の広告にて医療分野の研究者の方々が執筆された他分野あるいは一般の方々向けに解説した著作を度々目にしたことが思い出されました。こうした著作は我々の健康に対する興味を反映して出版されるのでしょうが、その意味で、近年以降、現在に至るまで、我々の健康に対する興味の波は継続して寄せて来ていると云え、そして、それは人工知能をはじめとするデジタル・テクノロジーなどの周辺技術の進化発展により、さらに増幅されているのが現在と云えるでしょう。
ともあれ、そのように考えてみますと、今後はまた、これまでとは異なった種類の分野横断的な著作や記事が面白いものとして認知されていくのではないかとも思われました。具体的にはジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリなどの著作から、さらに洗練させたものであるように予測されますが、しかし、この「洗練」が、どのような方向のものとなるのかについては、いまだよく分かりません。
とはいえ、この「事物の洗練の方向性」には、国や地域毎である種の特徴や傾向のようなものがあり、それは、簡潔に文章化することは困難ではありますが、具体例としては、弥生時代の銅鐸など青銅製祭器の形状や装飾の時代毎の変化が、その一つであるとは云えます。そしてまた、後に続く古墳の造営においても、そうした傾向は認められます。さらに千年ほど経った頃に南蛮から渡来した火縄銃もまた、その後の進化の過程を博物館や写真などで眺めていますと、どうやら、我が国での火縄銃の洗練の仕方は、殺傷兵器としての能力や操作性を高めるためというよりも、その見た目の華麗さに主眼を置いたのではないかと思われるのです。もちろん例外もあるとは思いますが、全体としては、そうした傾向が認められるのではないかと思われます。
こうした洗練の方向性などは、国や地域にて特有の文化事物の歴史的な変遷を辿っていきますと、徐々に知覚することが出来るようになるのではないかと思われます。
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2022年12月25日日曜日
20221224 株式会社筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「ウクライナ戦争」pp.138-141より抜粋
ISBN-13 : 978-4480075284
ここで、停戦交渉の行き詰まりをもたらしたブチャでの出来事について簡単に述べておきたい。
前述した3月25日のロシア軍撤退表明後、ブチャを奪還したウクライナ軍が目にしたのは、酸鼻を極める虐殺の痕であった。後ろ手に縛られた拷問の跡だらけの遺体、性的暴行を受けたとおぼしき裸の女性の遺体、下水溝に投げ込まれた遺体ー街は陰惨な姿の遺体で埋め尽くされ、中心部の教会や町のはずれには集団墓地が作られていた。いずれも、ロシアによる戦争犯罪の明白な証拠であった。
国際社会はともかくとして、筆者自身がこの光景にショックを受けたといえばナイーヴとの謗りは免れまい。二度のチェチェン戦争でロシア軍がどれほどの非人道行為を働いたか、2015年に始まったシリアへの軍事介入でロシア航空宇宙軍の無差別爆撃がどれほどの殺戮をもたらしたかを、ロシア軍事研究を生業とする筆者はよく知っていたからである。2月以降のウクライナに対する侵略においても、ロシア軍は全くすることなく市街地に無差別爆撃を加えてきた。
それでも、この情景はやはりショッキングであった。しかも殺害されたブチャの住民たちは、戦闘の巻添えになったわけではない。のちにジャーナリストたちが明らかにしているように、ブチャの住民たちは、戦闘の巻き添えになったわけではない。のちにジャーナリストたちが明らかにしているように、ブチャの占領自体はほど無血で行われたものの、虐殺、性的暴行、略奪はその後に始まったのである。そこには何の軍事的合理性もなかた。
全くの言いがかり、酔った兵士の狼藉、ただの気まぐれによって人々は暴行され、犯され、殺されたいった(真野・三木、2022年5月5日、国末、竹花、2022年4月14日)。ウクライナ軍に協力している見なした人々を組織的に拷問。処刑していたこともわかっている(Peuchot,2022.4.5.)。
今回の戦争に関しては「ウクライナを無垢の絶対的善として描くだけでよいのか、ロシアは絶対悪なのか」といった議論が度々提起されてきた。この主張を筆者は一概に否定するものではない。
第一章で描いたように、ゼレンスキーは正義のヒーローではないし、ウクライナという国家自体も深刻な腐敗など多くの問題を抱えている。また、ウクライナ軍も戦争犯罪(捕虜の虐待やこれを晒し者にあうることなど)や住民の巻き添え被害とは無縁ではなく、これらの点はそれぞれに検証され、批判の対象とされるべきだろう。
しかし、ブチャやその他多くの占領地域(ロシア軍の戦争犯罪はブチャに限られたものではなく、むしろ氷山の一角であった)にける振る舞いは、どう考えてみても「悪」と呼ぶほかないだろう。さらに言えば、今回の戦争はロシアによるウクライナへの侵略戦争であり、この点においてもロシアは明確に国際的な規範を犯している、これらの点を無視して、ロシアにもウクライナにも同程度に非がある、と論じるならば、それは客観性を装った悪しき相対主義でしかないのではないか。また、相対的に論じるというのなら、戦争犯罪や腐敗がより深刻なのはロシアであるが、これらの事情を以てロシアが外国の軍事侵攻を受けてもしかたないのだということにはなるまい。
ちなみに、ブチャの虐殺を、ロシア政府は「挑発」と呼んでいる(例えば前述したプーチンの4月12日発現)。つまり、虐殺や拷問や性的暴行はウクライナ軍がブチャを奪還した「後」に起こった出来事であり、ロシアに罪を着せるために仕組まれたものだという主張である。
だが、ブチャ事件が明るみに出た後、米国の衛星画像サービス企業Maxarが同地上空の衛星画像を公開し、路上の遺体や集団墓地はロシア軍占領当時に出現したことを暴露した。宇宙からの眼を現地住民の証言と照らし合わせて考えるならば、ロシア側の主張には全く信憑性がないことは明らかであろう。
