2022年9月10日土曜日

20220910 中央公論新社 結城昌治著「軍旗はためく下に」pp.271-273より抜粋

中央公論新社 結城昌治著「軍旗はためく下に」
pp.271-273より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122069130
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122069138

第二話 従軍免脱

簡単にいえば自傷して従軍を免れようとする行為である。

よくも悪くも平均値的な兵隊が大隊長の当番兵をしているうちに、専用の女にうつつをぬかすような戦陣生活を送っている大隊長や、後方で酒食に耽る余裕のある連隊長以下の将校連中、前線では欠乏しがちの酒・甘味品に限らず多量の糧秣弾薬を抱えこんで、さながらそれが私物であるかのように振舞う主計将校らの所業に腹を据えかね、薬指を切って血書を認め師団長に直訴に及んだ。

 それが、直訴の内容は無視されて、自傷を従軍免脱とこじつけられ、軍法会議に送られて、判決は死刑、処刑は即日行われた、という事件である。

 その背景には、南方の戦局が日に日に傾いて、小康を保っている支那派遣軍各部隊がいつ南方へ送られるかわからないという状況がある。幹部将校の腐敗を目撃したりすれば、欠乏だらけの戦陣生活に厭気がさしている兵隊が、この上さらに南方へ送られてはやりきれないと思うのは、兵隊心理として一般である。場合によっては、指の一本ぐらい自傷してでも避けたいことである。その自傷を正当化するための血書直訴であると疑えば疑えないこともない。

 問題は、しかし、そんなところにあるのではない。直訴などという追いつめられてむき出しになった人間感情を、正当に受理し処理するようなチャンネルと人間的配慮は、よほど英邁で識見豊かな司令官か参謀長でもいない限り、軍という組織にはあり得ないことが問題なのである。

 直訴を行った上等兵が何年兵であったか明らかでないが、上等兵になっていて切捨御免の時代に生きているのと大して変わりはないことを知らずにいたわけでもなかろうに、この測定の甘さはどうしたことか、と、もどかしさが残る。直訴など通る軍隊ではないのである。軍隊は腐敗を抱えたままで、その腐敗の程度が深ければ深いほど、その体制の維持に汲々とし、そのためにはどのような非人間的処置をも辞さない組織である。師団長が兵隊の言うことを聞くと思うのが間違いである。師団長は、その戦略単位における天皇の代理人である。天皇や幕府の将軍が庶民の直訴に関心を示した歴史を私たちは持っているであろうか。もし有力なコネも何もない兵隊が上級将校の非違を質したければ、刺交えるつもりで衆人環視の場で弾劾するほかはない。結果は、兵隊にはおそらく規定の最高刑(五年以下ノ懲役又ハ禁錮ー第七十三条)が、相手は転属か、悪くてせいぜい予備役編入か免官ぐらいであろう。それでも、事実の影だけでも残し得る。これをする勇気を、しかし、ほとんどの兵隊が持ち得なかったのである。ひとつ間違えば兵隊の生命など法によって簡単に消されてしまうのだ。「おほきみ辺にこそ死なめ、顧みはせじ」というのは、兵隊の内発的な美徳の情熱ではなくて、皮肉なことに、国家や法が兵隊の生命をかえりみないのである。

2022年9月9日金曜日

20220909 中央公論新社刊 保坂和志著「書きあぐねている人のための小説入門」pp.99-102より抜粋

中央公論新社刊 保坂和志著「書きあぐねている人のための小説入門」
pp.99-102より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122049911
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122049918

 世の中には、完全無欠な人間はいない。誰でも欠点はあり、ふつうの見方をすれば大半が「大したことのない人間」ということになる。ただ、その「大したことのない人間」にも、絶対に取り柄の一つや二つはある。あるいは、ちょっとしたことで取り柄が抑え付けられていて欠点ばかりが目立ってしまっていたり、欠点と取り柄が裏腹の関係で、欠点としての面が強く出てしまっていたり、ということもよくある。

 たとえばドストエフスキーは、一面ではどうしようもないギャンブル狂で、性格破綻者寸前みたいなところもあったらしい。しかし、ギャンブルに入れ込む熱狂みたいなものは、彼の作中人物の性格に確実に反映しているし、それ以上に作品の展開そのものにも色濃くあらわれていると私は思う。

 人間が性格を持っていることや特徴を持っているということは、つまり欠点か取り柄を持っているということであり、欠点が、取り柄の時と所を間違った現れであったり、取り柄となるべきもののなりそびれた形なのだという人間観に立てば、すべての人間には取り柄・長所・美質があるということになる。

 小学校の頃を思い出してみれば、先生からほめられて喜ばない子どもは一人もいなかったはずだ。ほめられて喜ぶということは、大げさに言えば「善に向って成長したい」「善を志向している」ということで、それは大人になっても心の底では変わらずにある。誰もが人間として立派に生きたい、正しく生きたい、まじめに働きたい、真剣に恋愛したい、という思いを持っている。-だから、私は小説の登場人物を、人間には誰しもそういうまっとうな思いがある、という前提でつくっている。

 一見そうは見えないかもしれないけれど、私の小説の登場人物が、みんな使命感をもっているか、少なくとも使命感のなさを自覚しているのは、そういう理由による。誰も近所で起こっていることや国際政治には興味はもたないけれど、みな「世界」には関心を持っている。

 まっとうな思いとか使命感とかいうと、日本人は斜に構えて冷笑する傾向があるけれど、生きるということはやっぱりそういうことだと思う。

 現実というものは、そういうポジティブな志向を覆い隠しがちだけれど、だからといって、小説にネガティブな人間ばかり登場させるという考え方は、リアリティの捉え方の間違いだと思うし、小説家としての思考の怠慢だとも思う。日常的な思考様式の中でしか書いていないと言い換えてもいい。

 ただ卑小なだけでもなければ、ただ善を志向するだけでもない。彼・彼女の癖や社会生活で染まってしまった変な考え方やしゃべり方によって歪められてはいるけれど、よく見ればそれらが美質の発露であるーという人物の描き方には、読者の興味を文字に書かれた先にまで向ける力学がある。

 卑小な人間ばかり出てくる卑小な小説は、読んでいて高揚感や解放される気分がわいてこない。これは、テクニック以前の、ほとんど思想の域での話といってもいいが、小説の書き手は、小さなものから大きなものを見ようとする洞察力、欠点から前向きな志向や人生のどこからの岐路で道を誤ってしまったその人本来の可能性をくみとろうとする志が必要だと思うのだ。

20220908 引き続き「黒光り」と「無双感」について:扱う金額の多寡?

ここ数日間は、新規の記事作成・投稿を行いませんでしたが、他方で読書の方は進み、かねてより読み進めているジョン・ト―ランドによる「大日本帝国の興亡」全五巻の四巻目を読了し、次の第五巻を読み進める前に、積読状態であった書籍を二冊読むことが出来ました。とはいえ、この二冊の他にも、積読状態の書籍が数冊ありますので、これらは、第五巻を読了後、順に読み進めて行こうと考えています。

さて、過日投稿した、いくつかの「黒光り」と「無双感」について扱った記事は、おかげさまで比較的多くの方々に読んで頂くことが出来ました。これらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。そしてまた、ハナシは「黒光り」と「無双感」に戻り、これまでの流れで「黒光り」は、瞬間的、視覚的な表現であり、他方で「無双感」は、ある程度継続する時間に対するものであり、また、それは視覚的な要素をも含む、総合的な状況に対しての表現であると思われます。

そこで、これまでの「黒光り」と「無双感」の対象として、私がとり上げた、ある種の歯科医師、そして他方の人文系師匠について、もう少し考えてみますと、後者の師匠は、確かに、ご自身の専門分野に関しての知見や見解を、原稿ナシで、よどみなく話されるような様子は、まさに並ぶものがない「無双」という表現が適切であると思われますが、しかし同時に、こちらの師匠には、前者の「黒光り」の要素が希薄であると云えます。他方で、以前に私が「黒光り」として挙げたのは、ブランドもので全身をかためたような開業歯科医師でしたが、しかし、これは別に開業歯科医師でなくとも良く、それは開業医師であっても、あるいは若手実業家などであっても特に問題はないと思われます。

そこで、これまでに述べたことをまとめ、開業歯科医師・開業医師・若手実業家と、さきに挙げた人文系師匠、つまり、人文社会科学分野の研究者との間にある違いについて考えてみますと、それは端的に、仕事で個人として扱う金額の多寡に因るのではないかと思われるのです。

つまり「黒光り」とは、ある程、扱う金額によって生じる要素であるとも云え、あるいは、これと類似した言葉として「貫禄」が挙げられるのではないかと思われます。

しかし「貫禄」と云う言葉の対象としては、たとえば、スポーツ選手や芸術家や職人、あるいは、人文系研究者などにも用いること云えます。他方で「黒光り」については、スポーツ選手や職人などに用いることは、十分にあり得そうですが、芸術家や人文系研究者に対しては、あまり適切ではなく、用いることは少ないのではないかと思われます。

これらの言葉の意味やニュアンスの違いは、イマイチよく分かりませんが、しかし、もう少し続けて扱ってみようと思います。そして、これまでは、「黒光り」は「貫禄」にも似ているものの、より経済的な意味合いが強く、仕事にて個人が扱う金額の多寡により生じるのではないか。」という見解に至ったと云えますが、引続きまた、この題材を少し扱ってみようと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。







2022年9月6日火曜日

20220905 1840記事への到達 読んでいてあまり心地よくない著作を読む意味?

つい先ほど、不図、総投稿記事数が1840に到達していることに気が付きました。そうしますと、あと60記事、毎日1記事作成・投稿すれば2カ月ほどで1900記事に到達の目途が立ちますが、これからしばらく、毎日の記事作成は困難であると思われますので、少し緩めて、2日に1記事の投稿頻度にて進めれば、4カ月程度、つまり大体年内には1900記事到達への目途が立ちます。

とはいえ、たとえ1900記事に到達したとしても、そこからキリが良いところで気持ちよく当ブログを止めるのであれば、2000記事まで継続する必要があると思われます。そして、これは、さきの2日に1記事の投稿頻度にて進めますと、概ね半年は掛かると思われますので、あるいは首尾よく行けば、来年の6月22日、すなわち、丸8年となる当ブログの開始日付近で、丁度2000記事に到達出来るのではないかと思われます。

そして、この2000記事到達について考えたところ、私はこれまでに、これほど長い期間、人に向けての発信を継続したことはありませんでした。またそれは、現在の1840程度であっても同様であり、つまり、記事を作成・投稿する毎日が、過去最高を更新していることになりますが、こうして文章にしてみますと、我が事ながら少し気分が良く、また、そこから高揚感・感慨なども生じるのであれば、今しばらくは当ブログを継続することが出来るのではないかと思われます。

また、書籍については現在読み進めている結城昌治による「軍旗はためく下に」は100頁過ぎにまで至りましたが、こちらの書籍も読み進めていますと、段々と陰惨な気分になってきます。この感覚は、以前に観た「ゆきゆきて神軍」にも近いものであると云え、また、以前にも何度か当ブログにてとりあげた、大岡昇平による「俘虜記」を読んでいる時に感じた、平和裏の米軍収容所内での卑小且つ陰惨な人間模様とは、少し趣が異なり、描かれる時間が戦中、戦後を行き来するような書きぶりは、あるいは以前に観たカート・ヴォネガットが原作の映画作品(ジョージ・ロイ・ヒル監督)「スローター・ハウス5」(1972年公開)にも近いものがあるのかもしれませんが、しかし「軍旗はためく下に」は「スローター・ハウス5」にあるタイム・リープといった空想的な要素は皆無であり、そして、まさにそのことによって、その陰惨さに救いが感じられなくなるように思われます・・。

しかし、そうであっても、こうした自国にてかつて起きた陰惨な出来事を記録した文章は、誰であれ、出来るだけ多く、大学などでの専攻分野に関わらず、内発性に基づいて読まれたら、後になり、意味を見出すことが出来るのではないかと思われるのです。

そして、そうした人びとの数が増えることにより、国民全体のある種のリテラシーが向上して、現在よりも、もう少し良い国になるのではないと私には思われるのです。

ですので、読んでいて陰惨な気分になって滅入るような書籍も、それが実際の歴史を出来るだけ精確に描いたものであるのならば、やはり、価値や意味はあるものと考えます。

しかし、小説や物語などの著作物の中に描かれている戦時中の、さまざまな陰惨さ、そして、そうした出来事自体を急速に忘れていっているのが丁度現在であり、また、それと同じ時期に第二次世界大戦後の最大規模の国家間戦争が生じていることには、何かしら関連性と云いますか、摂理、あるいは壮大な皮肉があるようにも思われました・・。

ちなみに、私はマンガ・アニメ文化はあまり好きではありませんが、それでも強く否定もしません。しかし、さきに述べたような「陰惨さ」のようなものは、アニメ・マンガのようなデフォルメされた具象によって描くことは難しく、それよりもより抽象的表現と云える文章などによって描かれる方が、往々にして伝わるのではないかと思われるのです。それ故、私は、小説作品のアニメ・マンガ化といった具象化の流れは、それなりに意味はあるのでしょうが、しかし、そうしたものは、どうしても、想像や推論が、具象である映像までで否応なく止まってしまい、その先に伸びず、繋がらないのではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2022年9月4日日曜日

20220903 先日投稿の「黒光り」と「無双感」についての続き、我が国では・・?

どうしたわけか、ここ数日、人の作成したワード文章を読み、そこに手を加えています。おそらく今後、こうした波が原稿の〆切までに何度か訪れるものと思われますが、こうして考えてみますと、これはこれで面白くないわけではありません。実際、その書きぶりや文体などはどうであれ、書かれている情報自体には興味深いことが散見されます。とはいえ、実際のところ、そうした情報の多くは教科書レベルのことであるのかもしれませんが、私のような(かなり)変則的な経路にて学位取得に至った者にとっては、そうしたことも、興味深いものとして認識されるのです・・。

ともあれ、自らの専門分野と近く、そこでの専門書などもどうにか読むことが出来るような隣接分野での勉強は、内発的な興味を持ち続けていれば、あまり強く意識しなくとも、自然と学ぶ機会は多いと云えることから、いつか、その学びが役に立つ日が来るかは分かりませんが、いずれにせよ、コツコツとこうした勉強のようなことは続けておいた方が良いのかもしれません。

また、そうしたいくつかの異なった分野に興味を持ち、勉強の足場を持っていますと、たとえ、ある一つの分野での書籍を読み進めることが困難な状態となっても、その他の分野の著作であれば、特に問題なく、読み進めることが可能であることが多いことから、読み進める書籍の分野の足場を複数あることにより、書籍を読むという活動自体を止めるということはしなくて済むのかもしれません。

そういえば、直近に投稿した「黒光り」と「無双感」の記事は、思いのほか多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。作成した後になり「多少屁理屈じみているかもしれない・・」という危惧もありましたが、しかし、それがたとえ屁理屈の類であっても、こうした見解を述べること自体は特に問題はないと思われたことから、そのままにしてあります。

また、そこから、また少し書き進めて、さきの「黒光り」と「無双感」は共に躁状態に近いとも云えそうですが、しかし、やはり「無双感」の方が、ある程度の時間的な経過に付随する躍動的なイメージが強く、対して「黒光り」の方は、視覚的なイメージに対してのみ、限定的に用いるのが適切であるように思われます。

以前投稿の記事にて述べましたが、これまでに私は、ある人の話し振りなどに対して「無双感」という言葉を当て嵌めましたが、これは、この用い方にて、とりあえずは大間違いではないものと考えます。

そして、この「無双感」は、その方が話される以前においては見出すことが困難であり、その話していない外見からは「無双感」はもとより「黒光り」といった印象をも見出すことは多くの場合、困難であるように思われます。

つまり、ここでも語義に立ち返り「無双感」の「無双」は、あくまでも相対的な評価であり、そこにいる他の方々との違い・相違が強調されることによって、はじめて惹起され得る感覚であるように思われます。

そこで、さきに述べた「ある程度の時間的な経過に付随する躍動的なイメージ」ともなるのですが、この躍動とは、運動などの物理的な身体の動きはもちろんですが、それ以外にも、ある種、演説などをしている状態をも示すものとも云えます。それは、具体的には歴史の記録映像によくあるヒトラーが演説している様子であったり、あるいは劇中であれば、シェイクスピアによる「ヘンリー五世」第四幕・第三場での、よく知られた「聖クリスピンの祭日の演説」の様子にも「無双感」はあると云えます。

しかし、ここで不思議に思われるのは、我が国の近現代においては、こうした「無双感」のある歴史的な演説・スピーチといったものは、パッと思いつくものがなく、そうしたものが乏しいように思われるのです・・。それは言語構造に因るものであるのか、もしくは古くからの性質で、そうした他者との相違を際立たせるような場面、状況といったものを内心において忌諱するといったところがあるのかもしれません・・。

とはいえ、そうした差異を忌諱するような性質を持つ社会とは、発展して、均質性や同質性が、ある程度の高水準にまで達成されると、速やかに発展から反転の道を、まさに期せずして歩むようになるのではないかとも思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。







2022年9月1日木曜日

20220901 「無双感・無双」と「黒光り」について思ったこと・・違い?

2013年の9月にどうにか学位を取得して、帰郷の後、しばらく経った頃に文系の師匠が、さらに何人かの先生方、院生の方々を招いて高田馬場でお祝いをしてくださったことがありました。こちらの師匠にとって高田馬場は思い入れのある場所であるらしく、それ以前にも何度か、界隈の古本屋を巡ったり、早稲田松竹で大作「戦争と人間」を観て、その後、映画館を出て、昭和感が濃厚に漂う喫茶店に入り、師匠から鑑賞作品の批評や解説を聞いていた時に一瞬、未だ作品の中にいるのではないかといった錯覚を覚えた記憶があります・・。

ともあれ、こうした際の師匠の語り振りについて、以前の投稿記事「久しぶりの文系師匠との対話から思ったこと【無双感・脱抑制】」内にて「無双感」と述べました。また、他方で、つい先日に投稿した「類型化され得る要素としての「黒光り」・・」においては「黒光り」という表現を用いました。

そして、つい先ほど「「無双感」と「黒光り」とは、ニュアンス的に類似した意味あいを持っているのではないだろうか?」と不図、思いつきました。

そこで、これをもう少し考えてみますと、先ずは、おそらく、双方共に比較的最近、一般的に用いられるようになった言葉であると思われます。そこではじめに「無双感」の「無双」の意味については「相手の勢力如何に左右されない圧倒的な力を発揮するさま、誰に阻止されることもなく縦横無尽に、あるいは傍若無人に振る舞うさま、などの意味で用いられる俗な表現」とのことであり、これはたしかに語義的に、並び立つ存在がいない様子を示すものであることから、納得出来ますし、また、ここで重要であると思われるのは「無双」とは、一瞬の静止した状態を示すものではなく、その対象が動き、躍動感を持っている状態をも含めたものを示すといったニュアンスが強いのではないかということです。

そして他方の「黒光り」は、さきの「無双感」「無双」と比べて、静止したある状態にある存在を指し示すといったニュアンスが強く、さきの投稿記事内にて述べた「黒光り」は、ブランドもので固めた開業歯科医師の外見、そしてまたもう一つは、外見的にはイケているとは云い難い開業歯科医師が、ご自身の得意とする分野についての、何らかの学問的背景のある言説を宣っている際の状況を示すものとして用いましたが、この後者の表現については、たしかに「黒光り」でも通じはしますが、しかし、こちらについては「無双感」の方がより適切であるように思われます。つまり「黒光り」の方が、さまざまな一瞬の状況に対して、用いることが比較的容易であり、他方の「無双感」・「無双」は、動きのあるものの中から、さらに、ある特殊とも云える動的な状態を指し示すものとして、さきの「黒光り」と比べて、その用い方が限定されるものと思われますが、より、精確を期する表現を用いる場合であれば、その言葉「無双」の中には、相対的な評価も含まれていることから「黒光り」と比べて適切であることが多いように思われます。

しかし、これが、今回の投稿記事にて述べたかったことではありません。こちらには続きがあるのですが、それにつきましては、また後日あらためて記事作成を行いたいと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。



2022年8月29日月曜日

20220829 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.270-271より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.270-271より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163646701
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163646701

その日九時ごろ、私は家を出た。学生服の下にパンツでなく下帯をつけていた。これが当時の徴兵検査の正装である。検査場は杉並区下高井戸の小学校の雨天体操場、家から歩いて四十分ぐらいの距離である。その古い木造校舎は、戦後もしばらく残っていた。校門の近くの塀に白紙がはられ、筆太に矢印で検査場への道筋が示されている。殆どが学生服の三々五々が、手に書類をもってその方へ行く。雨天体操場ににはゴザが敷かれ、壁際がつい立てで仕切られ、その各区画を順々に通って検査をうける。周囲をつい立てで囲まれた中央のゴザの広場がいわば待合室で、そお正面が講義、終った者はその前に裸で並び、順々に呼び出されて壇の上から検査の結果が宣告されるらしい。

 そんな光景を、あけ放たれた雨天体操場の入口を通して横目で見つつ、その入口の横に机を並べて書類の受付をしている兵事係らしい人びとの方へと私は向った。その前には十数人の学生服が、無言で群れていた。そのとき私は、机の向うの兵事係とは別に、こちら側の学生の中で、声高で威圧的な軍隊調で、つっけんどんに学生たちに指示を与えている、一人の男を認めた。在郷軍人らしい服装と、故意に誇張した軍隊的態度のため一瞬自分の目を疑ったが、それは、わが家を訪れる商店の御用聞きの一人、いまの言葉でいえばセールスマン兼配達人であった。

 いつも愛想笑いを浮かべ、それが固着してしまって、一人で道を歩いている時もそういった顔付をしている彼。人あたりがよくて、ものやわらかで、肩をすぼめるようにしてもみ手をしながら話し、どんな時にも相手をそらさず、必ず下手に出て最終的には何かを売って行く彼。それでいて評判は上々、だれからも悪く言われなかった彼。その彼といま目の前にいる超軍隊的態度の男が同一人とはー。

 あとで思い返すと、余りの意外さに驚いた私が、自分の目を信じかねて、しばらくの間ジイーッと彼を見つめていたらしい。別に悪意はなく、私はただ、ありうべからず奇怪な情景に、われ知らずあっけにとられて見ていただけなのだが、その視線を感じた彼は、それが私と知ると、何やら非常な屈辱を感じたらしく、「おい、そこのアーメン、ボサーッとつっ立っとらんで、手続きをせんかーッ」と怒鳴った。そして以後、検査が終わるまで終始一貫この男につきまとわれ何やかやと罵倒といやがらせの言葉を浴びせつづけられたが、これが軍隊語で「トッツク」という、一つの制裁的行為であることは、後に知った。

 軍隊との初対面におけるこの驚きは、その後長く私の心に残った。そのためか大分まえ、ある教授に、ある状態で、ある役つきの位置におかれると一瞬にして態度が変るこの不思議さについて話したところ、これは少しも珍しくない日本人的現象だと同教授は言った。