2022年7月3日日曜日
20220703 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」pp.508-510より抜粋
ISBN-10 : 4163646701
ISBN-13 : 978-4163646701
昼食の時間が来た。閣下たちは三々五々、歩いて来た。だがその日には、いつもと違った一人の新顔が見えた。その人は、米軍のジャングル戦用迷彩を着ており、それが奇妙によく似似合った。彼は、あたかも収容所も鉄柵も軽蔑するかの如く傲然と見下し、それらの一切を無視するかの如く、堂々と歩いてくる。その態度は、終戦前の帝国軍人のそれと、寸分違わなかった。
丸い眼鏡、丸刈りの頭、ぐっとひいた顎、ちょっと突き出た、つっかかるような口許、体中にみなぎる一種の緊張感ー「彼だな」私はすぐに気づいた。それは第14方面軍参謀長武藤章中将その人であった。そして彼の姿と同時に、反射的に四つの言葉がよみがえってきた。
「統帥権、臨時軍事費、軍の実力者、軍の名誉(日本の名誉ではない)」。軍部ファシズムをその実施面で支えたものは何かと問われれば、私はこの四つをあげる。そして私にとってこの四つを一身に具えた体現者は彼であった。
私は師団砲兵隊本部の一少尉に過ぎない。一少尉が、方面参謀長などという雲の上の将官を知るわけはない。その名も顔も知らないのが普通である。従って彼が現れるまで、この収容所でその顔と名を知っている将官は、師団長のM中将だけであった。だが武藤章の名と顔は、まるで脳髄に焼きつけられたように、鮮明に私の中に残っていた。そしてそれは今も残っている。なぜか?それには理由があった。
一体、彼が体現しているかに見える「統帥権」とは、何なのか?
人が一つの言葉に余り痛めつけられると、その言葉自体が「悪」に見えてくる。私にとって「統帥権」とはそういう言葉で、長い間、平静にはそれを口にできなかった。トースイケン、統帥権、神聖なる統帥権、陛下の大権、統帥の本義にはじまり、統帥権侵害、聖権干犯等々とつづくその口調、そしてそれを口にした時の、軍人たちの狂信的な顔々々々ー。
戦前の日本は、司法・立法・行政・統帥の四権分立国家とも言える状態であり、統帥権の独立は明治憲法第11条にも規定されていた。従って政府(行政権)は軍を統制できず、それが軍の暴走を招いたーというのが私の常識であり、また戦後に一般化した常識である。
「執拗に統帥権の独立を主張して横暴をきわめた軍」は、私にとって余りに身近な存在であったため、軍部以外に統帥権の独立を主張した人間がいようなどとは、夢想だにできなかった。従ってある機会に、明治の先覚者、民権派、人権派といわれた人びと、たとえば福沢諭吉や、植木枝盛が、表現は違うが「統帥権の独立」を主張していることを知ったとき、私は強いショックをうけ、「ブルータス汝もか」といった気分になり、尊敬は一気に軽侮に転じ、その人たちまで裏切者のように見えた。
従って、その人たちがなぜそう主張したのかさえ、調べる気にならなかった。
だが、このショックは、何か心に残したのであろう。それから十年ほどたって、やっとその間の事情を調べてみる気になった。なぜこの民権派・人権派が「統帥権の確立」-いわば兵権と政権を分離し、政府に兵権をもたせず、これを天皇の直属とせよーと主張したのか。言うまでもなくそれを主張した前提は、明治の新政府が、軍事政権とはいえないまでも、軍事力で反対勢力を圧服して全国を統一した新政府、いわば軍事的政権であったという事実に基づく。
この先覚者たちにとっては、民選議院の設立、憲政へと進むにあたり、まずこの藩閥・軍事的政権の軍事力を封じ込める必要があった。軍隊を使って政治運動を弾圧する能力を政府から奪うこと、これは当然の前提である。彼らがそう考えたのも無理はない。尾崎咢堂の晩年の座談によると、そのころの明治の大官たちは、「われわれは馬上天下をとったのだ。それを君たち口舌の徒が言論で横取りできると思ったら間違いだ」といった意味のことを、当然のことのように言ったという。
これに対して当時の進歩的主張が、「軍は天皇の軍隊であって、政府の軍隊ではない。政府が軍隊を用いて我々を弾圧することは、聖権(天皇の大権)の干犯である」となったことも不思議ではない。
また、この先覚者たちの恐れの第二は、政争に軍が介入してくることであった。たとえば板垣自由党を第一師団が支持し、大隈改進党を第二師団が支持するというようなことになれば、選挙のたびに内戦になってしまう。
ここに「軍は天皇の直轄とし、天皇と軍は政争に局外中立たるべし」という発想がでてくる。南米の国々や第二次大戦後独立した多くの国々を最も苦しめ、今も苦しめているのが、政争に軍が介入してくる内戦であることを思えば、人権派・民権派のこの主張は、当時の主張としては不思議ではない。そしてこの点で、政権と兵権の分離、兵権の独立、天皇と天皇の軍隊の政争への局外中立化は、確かに、当時の進歩的な考え方であったであろう。と同時に日本が範とした当時の西欧諸国にも、同趣旨の規定があったという。
2022年7月2日土曜日
20220702 早川書房刊 ジョン・ト―ランド著「大日本帝国の興亡」1暁のZ作戦 pp.312‐313より抜粋
ISBN-10 : 4150504342
ISBN-13 : 978-4150504342
責められてしかるべきはただ一つーそれは「時勢」だった。第一次世界大戦後のヨーロッパで起こった社会・経済的な混乱、共産主義とファシズムという二つの巨大な革命的イデオロギーがなかったなら、日本もアメリカも永久に戦争の縁に立つようなことはなかったことだろう。この二つの支配的な力は、ときには前後に重なって、ときには左右に並んで拮抗する力となりながら、ついに11月26日の悲劇を招いたのである。アメリカは、中国のためだけに戦争を起こすようなことはなかったはずだ。アメリカが戦争にすべてを賭ける気になったのは、日本がヒトラーやムッソリーニと手を組んで、全世界を支配するのではないかという恐れからだった。つきつめてみると、悲劇の源はアングロ・サクソンによって相手にされないのを恐れた日本が、ヒトラーと結んでしまったことである。こんな同盟は、名目以上の何ものでもなかった。
相互の誤解、言葉の違い、翻訳の誤りといったものが、日本的な日和見主義、下剋上、非合理性、名誉心、プライド、恐怖、そしてアメリカの人種偏見、東洋に対する不信と無知、硬直化した態度、独善、面目、国家的な自負と不安などといったものによって増幅され、戦う必要のない戦争が、いままさに開始されようとしていた。
「国家というものは、なぜ、こうも激しくいがみ合うのだろう」というヘンデルの問いに対して、以上にあげたことがらは、おそらくその主要な解答になることだろう。ともあれアメリカは、来るべき数十年に禍根を残す重大な誤りを犯してしまったわけである。もしハルが、日本の提案に対して宥和的な回答を出していたなら、日本人は(当時の閣僚のうちの生存者の証言によれば)アメリカとなんらかの合意に達することができたか、少なくとも数週間は外交交渉に費やすことを余儀なくされていたことだろう。それだけの時間の経過があれば、日本は天候の都合もあって開戦の「最終期限」を1942年の春まで延期しなければならなかったはずだ。そのころには、ソ連がドイツの攻勢に耐え抜くことは明瞭だったし、日本は敗色濃厚なドイツ・イタリアと組んで、のるかそるかの戦争をはじめる愚を避け、そのためにはどんな妥協案にも屈していたことだろう。たとえ日米間の合意が達成されなくても、アメリカはフィリピンをもっと多くの爆撃機や増強部隊で強化することはできたわけだ。真珠湾の惨事も避けられたはずである。12月7日の惨劇を招いた、ほとんど信じることもできないほどの偶然の連続は、おそらく起りえなかったのではないだろうか。
2022年6月23日木曜日
20220622 当ブログ開始から丸7年となって思うこと・・
とはいえ、さきにも述べました通り、これまでの投稿記事数は既に1800記事を超えており、この時点において、次の記事作成を止めるのに適切と云える数値は、やはり1900が数値としては妥当であると思われることから、以降は1900記事を目標として、またしばらく記事作成を継続していきたいと思います。そして、その到達は本格的に寒くなる以前の11月頃を一応の目途とします。
さて、こうした今後の目標はともかく、今回においては、何かしら「ブログを始めて丸7年となった」感想のようなことを記事にしようと考えていましたが、いざ記事作成をはじめてみますと、それらしい感想などは湧いてくることなく、ただ、ここ最近での記事作成時スタンスへの再起動といった感覚のみであり、あるいはいずれ湧いてくるのかもしれませんが、ともあれ、現時点では文章化出来るような感覚はないと云えます。
そして、以前から書いておりましたが、本日で丸7年(どうにか)継続することが出来ましたので、これからしばらくの間は、新規での記事作成は止めて、さらにツイッターなどのSNSからも少し距離を置いてみようと思います。こうして、それまでの、いわば日常化した活動(ブログ記事作成やSNS)から離れてみますと、あるいはまた、これまでとは異なった見解などが生じるのではないかとも思われますので、これはこれで行ってみる価値はあるものと考えます。
それと、以前に当ブログにて述べたことですが、去る2月末のロシア・ウクライナ戦争の開戦以来、海外テレビ局による報道番組動画を情報収集のため視聴してきましたが、それらの中で強く感じられたことは、動画に映る、現地報道スタッフ、番組アナウンサー、そして分析を行う研究者といった役割などは問わずに、(私にとって)聞き取りやすい英語と、そうでない英語があるということです。また、面白いもので、こうした感覚を覚えますと、これは以前にも感じたことがあったことが思い出されました。つまり、そこに至るまでの「英語の聞き取り易さ」についての感覚の記憶は、自身のどこかにあったのです。これは自分にとっては新しいものではないのです。また、それが何故分かるのかと云いますと、それは、言語以前にある感覚での記憶であり、それを出来るだけ率直に言語化しますと、そのようになったとしか表現することが出来ません。しかし、このように書いてみますと、そこで思い起こされたことは、何であれ、とりえず「出来るだけ率直に言語化してみる」ことです。
文章表現などは後になって色々と変えることが出来ますので、公表の有無は別として、とにかく自らの思ったこと、考えたことを率直に言語化して、そして文章化することが出来れば、とりあえずは自分が持つブログ記事のネタがあるかぎりは、記事作成を継続することができますので、当り前のことではありますが、これは、思いのほかに大事なことであったのではないかとも思われました。
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2022年6月21日火曜日
20220621 1800記事を過ぎ、しばらくの間、引用記事を作成していて思ったこと
また、本日についても、当初は、書籍からの引用記事にて作成しようと考えていましたが「このあたりでまた、自分の文章を作成しておいた方が良いのではないか?」との見解が割合強く思い起こされたことから、本日はそれに基づいて記事作成を行います。
さて、さきに述べた書籍引用部を「しり取り」のように重ねて投稿し続けていくことは、それなりに面白く思われましたが、来る6月22日に、当ブログ開始から丸7年を迎えることが出来ましたら、そのようなやり方にて、またしばらく記事作成を続けてみたいと思います。
くわえて、これまで数日間、書籍からの引用記事を作成してきた中で不図思ったことで「こうした引用記事の作成を続けていると、その余禄として、書店での立読みで、自分にとって面白いと感じられる書籍を早く見つけることが出来るようになるのではないか」というのがありましたが、これはたしかに、そうした効果があったのではないかと思われます。
そしてまた、そうした経緯にて、今現在読み進めている著作を書店にて見つけたわけですが、この著作は、文庫サイズの全五巻本で、太平洋戦争の始まりから日本の敗戦に至るまでの経緯を、実在の人物を登場させた歴史小説のようにして書かれており、しかも、その登場人物たちの行動や言動は、資料と共に、それら登場人物への実際の取材、ヒアリングを通じて得られたものが多いことから、私の感覚にて評価させて頂きますと、とても読み応えのある作品であると云えます。これはつい先日、第一巻を読了し、続いて現在、二巻目を読み進めているさ中ですが、こちらを読んでいますと、多少、ブログ記事の作成が面倒に感じられてくることもあってか、さきにも述べました、ここ最近数日間は、書籍からの引用記事を投稿してきたのではないかとも思われてきます・・(苦笑)。
書籍を読んでいる時間と、こうして自らの文章を作成している時間の何れかが、自分にとっては、より楽しく充実しているのかと考えてみますと、おそらく当ブログをはじめる以前までは、圧倒的に書籍を読んでいる時間の方が楽しかったと云えますが、当ブログをはじめてからしばらく経った頃、具体的には2017年あたりであったと思われますが・・に至っては、それなりに熱意を持ち、ほぼ毎日作成していたことが見て取れ、こうしたものは2015年の当ブログを始めた頃にはなかったものであったと云えることから、人によって多少の偏差はあると思われますが、凡そ500~1000記事程度を継続して作成していますと、あるいは、その時では分からないものの、文章を作成する際の「視野」のようなものが異なってくるのではないかとも思われるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか・・。
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
、
2022年6月20日月曜日
20220619 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」 pp.84-87より抜粋
pp.84-87より抜粋
ISBN-13 : 978-4121601018
もちろん、現在の国際政治において、軍事力は使えないものとなったという議論には当然反論が予想される。現に、アメリカ、ソ連をはじめとして、世界各国はすべて強大な武力を持っており、おそらく、平和時において、これだけ強力な武力が地球上に存在したことは、歴史にその例を見ないであろう。まったく、各国の強大な軍備をながめるとき、兵営国家という名前がそれに与えざるをえない思いがする。しかし、現代の兵営国家は過去の兵営国家とはひとつの大きな相違を持っている。それは、過去の軍備は「積極的」な効果をもたらしたのに、現在の軍備はなんら「積極的」な結果をもたらさないことである。ここで私が「積極的」というのは、価値判断をまったく含めずに、力の闘争において、軍事力がより多くの力を獲得する手段となりえたことを指すものである。すなわち、過去の軍備はそれによって侵略をおこない、その結果としてより多くの力を獲得することができたし、紛争の解決に際して、その後押しとすることができた。ところが核兵器の破壊性はあまりにも大きいので、それを政策遂行の手段とすることはできない。
しかし、国際社会においては依然として紛争が存在するし、人類は武力の使用または威嚇なしに紛争を解決する方法を見出していないので、紛争解決のためには武力の後押しが要求される。国際紛争の解決は理性と交渉技術だけによってもたらされたものではなく、協調が利益だという確信と、頑固にふるまった結果に対する恐怖とが結びついたからであった。したがって、軍事力が合理的な政策遂行の手段ではなくなったことは紛争の解決をきわめて困難ならしめる。このジレンマを解くことこそ、制限戦争論に始まる戦略理論が目指したところであった。制限戦争論の創始者キッシンジャーは、朝鮮戦争やインドシナ戦争の経験から、核手詰まりは全面戦争を不可能にしたけれども全面戦争以外の形では武力を使われうることを指摘し、アメリカとしてはその大量報復力によって相手方の大量報復を抑えつつ、軍事力の限定的に使用しうる体制を作り上げるべきだと主張したのであった。また、フランスを中心として展開した革命戦争論も、全面戦争以外の形で戦争が起りうることを認め、革命戦争こそ現在もっとも起る可能性の大きい戦争であると考えた。
そして、その後の戦略をめぐる激しい議論の結果、現在の国際政治における軍事力の役割については、核兵力を盾とし在米兵力を槍とする考えが一般的に認められている。すなわち、核兵力は相手方の核兵力の発動を抑制するという役割を持ち、実際の軍事行動は在米兵力によっておこなうのである、事実、アメリカやソ連という核所有国は、ただたんに巨大な核兵器を所有しているだけでなく、同時に強力な在来兵器を持っている。またキューバ封鎖を考えてみても、米ソの核兵力がそれぞれ盾となり、在来兵力は槍の役割を引き受けたが、カリブ海ではアメリカの槍の方が断然優勢であったため、アメリカの行動が成功したのであった。ハンガリー事件においても、ソ連の軍事行動が予定した目的を達成し、それに対してはアメリカは、ハンガリー革命を助けることはできなかったが、それはヨーロッパにおいては、とくに中東欧においてはソ連が在来兵力において圧倒的に優勢であったからである。
しかし、たとえ制限戦争であっても、明白な戦闘行為は、しだいに発展して全面戦争に危険をつねに持っているし、戦闘行為が世界のどの部分で発生しても、米ソの均衡が作用し、世界世論の反対を受けるから、容易におこないえないものである。実に、第二次世界大戦後から今日までの間におこなわれた武力行使のうち、意図された目的を達成することができたものは、ソ連のハンガリー反乱鎮圧と、アメリカのキューバ封鎖の二回に過ぎないのであり、そのいずれの場合も、文字通り「積極的」な結果をもたらしたものではなく、いずれもステータス・クオ・アンテへの復帰を目的としたものであったことに注目する必要がある。また、このいずれの場合も、ソ連とアメリカの勢力圏の中心に位置していたという事実が忘れてはならない。そして、より重要なことは、このいずれの場合にも、軍事力の使用は問題を基本的に解決したものではなく、したがって、問題の解決は政治的・経済的方法にかかることになったという事実であろう。
さらに、この核手詰りの状況とならんで、より重要でさえあるのは、軍事力についてはきわめて大きな格差のある先進工業国と低開発国との関係においても、先進工業国はその武力を用いて「積極的」な効果をあげること、すなわち、侵略することや介入することによってその権益を守ることが困難になったことである。これは道義のレベルにおいては旧植民地の人民の覚醒によって反植民地主義が強まり、とくに国際連合などを通じて強い世論を構成しているという事実と、力のレベルにおいては、あらゆる紛争が世界化し、米ソがともにその紛争に関して発言し、したがって米ソの均衡が作用するから、大規模な軍事行動をとることが困難であるということと、人民戦争という形における抵抗がきわめて有力であるということにもとづいている。
2022年6月19日日曜日
20220618 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考えるー 」 pp.189-190より抜粋
ISBN-10 : 4309231144
ISBN-13 : 978-4309231143
神風連の政治思想を見るにもっとも適当なものは、一党の副首領として太田黒伴雄と併び称される加屋霽堅の「廃刀奏議書」ではないかと私は思っている。私がこの忘れられ、無視された思想集団に関心を抱いだいたのは「神風連烈士遺文集」(荒木精之編、昭和19年刊行)に収められたその意見書を読んでからであった。それは明治9年3月の廃刀令に対する抗議を述べたもので、全文は400字詰に直せばおよそ百枚もにちかい長文のものであり、この種の奏議書としても珍しいものかもしれない。加屋はこの文書を完成したのち、出京して元老院に上達し、聴かれなければ、その門前に割腹して諫奏しようと考えていたといわれるが、脱稿前に事をおこすことになり、未完成のままに終わったものである。
2022年6月18日土曜日
20220617 中央公論社刊 宮崎市定著「アジア史概説」 pp.414-416より抜粋
pp.414-416より抜粋
ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015
古代日本はその政治的勢力が一時、朝鮮半島に進出して、半島の勢力均衡にたいしてある重量的な影響を及ぼしたことは事実である。また日本の特殊な物産、おそらく砂金などの貴金属が交易のために、大陸に向かって輸出されたであろうことも推測されるが、そのほかには、ことに文化的にはもっぱら大陸の文化を輸入するだけで、日本の文化が大陸に逆流する場合はほとんどなかったものと考えられる。もっとも平安時代に日本製の紙が中国貴族に喜ばれ、中国になくなった古書が宋の朝廷へ逆輸入されたなどのことがあるが、これを中国文化が日本へ流入した量とくらべれば、物の数でもなかったであろう。
しかしこのことは、日本の文化がまったく中国の文化に隷属したことを意味するのではない。中国から流入した大陸文化は日本へ落ちつくとそのまま土着して、日本的なものに変化させられたのである。日本文化が中国へ逆流しなかったということは、文化水準において中国がはるかに高度であったとともに、日本の文化の基底が早くから中国とは異質的に発達してきたためである。中国人は朝鮮では箕子の井田の跡した問題にせず、日本にたいしては秦の始皇帝によって派遣された徐福の墓の外には興味をもたず、ごく近世に入ってから後でも、日本における中国を追求するかが、日本における日本そのものを研究する意図をもたなかったのである。
大陸における政変、民族移動のたびごとに、多数の人民が安住の地を求めて日本へ渡来した。その中には文字を解する知識人もあって、かれらは史部として、朝廷における書記の職を世襲した。日本に輸入された漢字は、最初のうちはその音・訓ともに、本来の漢字のままに用いられたのであろうが、ただ地名・人命などの固有名詞を写すさいには、いきおい中国でもしばしば行われるように、漢字をたんなる字音として用い、いい換えれば一種の音符としてのみ使用した。また逆にあまりしばしば繰り返して使用する文字は、漢字音のほかに、やがて日本字訓が与えられてそれが固定するようになった。ここにおいて文章をつづるのに、漢字法によらずに、日本語そのものを漢字音と日本字訓とあわせ用いて写すことができるようになってきた。「祝詞:「万葉集」「古事記」のような日本古文学はこのようにして出現できたのである。
いわゆる万葉仮名は、漢字はたんなる音価として用いるが、そこに一定の法則がなかったために、一音を写すに手あたりしだいに無数の漢字を選び出して用いた結果、書くにも読むにも多大の不便を伴わなければならなかった。ここにおいて、つぎの段階に入って、まず日本語の発音を整理し、これに相当する漢字を特定なものに限り、さらにこの漢字の形を省略して仮名を発明することができた。この光栄ある発明者はふつう弘法大師の業績とされるが、実際は確かなことはわからない。ただ五十音図はじつはインドの声明という発音字の影響によって日本で組織されたものであるという。もちろんこの声明も、中国を経過し仏教とともに日本に流入したものであるが、声明は中国において反切の方法を発明させたに止まり、ついに普遍的な音符の製作を見ないで終わったのに反し、日本においては東アジア諸国にさきがけて、この便利な音符文字を発明したことは、まことに誇るにたる業績といってよい。生活程度の低い日本において、教育が比較的下層階級に普及することができたのは、仮名の功徳による点が多いのである。日本ではその後もついに中国のような士大夫階級を発生させないですんだのは、ここにその位置原因が求められるであろう。
