2022年2月21日月曜日

20220221 中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.58-61より抜粋

中央公論社刊 石津朋之著「リデルハートとリベラルな戦争観」pp.58-61より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120039153
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120039157

 第一次世界大戦中にイギリス首相という要職に就き、同大戦後はこの戦争に極めて批判的な議論を展開したデビット・ロイド・ジョージと同様にリデルハートは、第二次世界大戦勃発当初、すなわち一般的には「奇妙な戦争」として知られる1939年から40年の時期において、イギリスとフランスがヒトラーによる和平への申し出を拒否してはならず、交渉による妥協を図るべきであると主張していた。なるほど連合国側にとって勝利が望ましいことはいうまでもないが、リデルハートは、イギリスとフランスがこの西側諸国の「文明」の防衛と侵略者に対する戦いにおいて、攻勢を用いない旨を宣言すべきであると主張した。こうすることで連合国側は、道義的に優位な立場を維持することができるうえ、ドイツが西側諸国を攻撃する口実を与えることになるこちらからの挑発行動を抑えることにもつながると期待したのである。つまり、リデルハートが主唱したことは相互に武装したままでの共存であった。双方が満足できる和平がドイツと交渉できないのであれば、既に西部戦線で闘われている「奇妙な戦争」が継続するだけにすぎない。そして、これこそ「冷たい戦争」という概念なのである。

 リデルハートによれば、連合国側にとって唯一現実的な選択肢はこうした低強度の「冷たい戦争」を継続することであり、また、それによってドイツを挑発する可能性も低下するのである。今度は、戦争を少しばかりエスカレートさせることによって、ドイツもまた勝利の可能性を有さず、そのために払う犠牲が大きすぎることを敵に示すことにより、交渉による和平への道が拓かれるとリデルハートは期待したのである。

 このようにリデルハートは第二次世界大戦当初、すなわち核兵器が登場する以前から既に「封じ込め」という戦略を主唱しており、さらには「冷たい戦争」の必要性を唱えていたのである。だが核兵器という巨大な破壊力や抑止力が存在しないなかで、ドイツとの総力戦へのエスカレーションを阻止し得る決定的な要因とは何であろうか。これに対するリデルハートの回答が、第一に、空軍力による攻撃によって迅速な相互破壊が生じるかも知れないといった一般的な恐怖心を利用するというものであった。1930年代及び40年代初頭のヨーロッパの人々は、後年に核兵器による脅威によって人々が感じたものと同じような恐怖を、上空からの攻撃に抱いていたのである。第二に、第一次世界大戦で明確に示されたように、以前と比べて大国間の大規模な戦争があらゆる意味で犠牲を必要とし、さらには、現代社会の価値や利益とはまったく相反するものになりつつあるという一般的認識に依存するというものであった。

 そこでリデルハートは、ドイツが予防的な行動を軽々にとらないよう、また、併せて戦争がエスカレートする可能性を低下させるため、連合国側が攻勢的な行動を放棄するという計算された戦略を主唱したのである。だがこうした背景の下、リデルハートは彼の生涯のなかでもっとも大きな過ちを犯してしまうことになる。すなわち、軍事戦略のレベルであれ国家戦略のレベルであれ、第二次世界大戦前からリデルハートは、攻勢に対する防勢の完全な優位を主張し続ていたのである。

 リデルハートによれば、自らが唱えた集団安全保障と限定関与という国家戦略が帰着するところは、封じ込め以外には考えられなかった。そしてそのためには、抑止力を強化することが求められたのである。だが、戦間期や第二次世界大戦初期を通じてリデルハートが、ドイツに対する包括的な安全保障戦略構想として封じ込め、限定関与、そして、抑止などを明確に打ち出せば打ち出すほど、彼は極端なまでに防勢の優位を主張することになる。すなわち、ドイツ側であれ連合国側であれ、攻勢が成功する可能性を少しでも考えることは、それだけで彼の戦略概念の根底を切り崩すことになったのである。前述したように、リデルハートは相互に破壊することなく、敵・味方がともに安全保障を確保できる唯一の方法が「冷たい戦争」であると考えていた。こうした皮肉なことには、第一次世界大戦前夜に「過剰な攻勢主義」が広く唱えられていたことに反発するかのように、この時期のリデルハートは、「過剰な防勢主義」とでも呼ぶべき、根拠に乏しい戦略を強引なまでに唱えていたのである。

 実は第二次世界大戦前、防勢の優位と集団安全保障や限定関与政策との関連は、フランスや東ヨーロッパの同盟諸国の安全保障に対するリデルハートのアプローチにとっては決定的であった。イギリスはヨーロッパ大陸に大規模な陸軍派遣軍を送る必要がないという認識(あるいは、せいぜい小規模な機械化部隊を派遣すればよいという認識)、フランスはドイツに十分に抵抗できるとの認識、仮にフランス軍がイギリス軍によって増強されたとしても西ヨーロッパでのドイツに対する大規模な攻勢は成功しないという認識、そして、ソ連の支援があればチェコは長期間にわたってドイツに抵抗できるとの認識は、すべて相互に密接に関連しており、防勢の優位という前提に大きく依存していたのである。

2022年2月20日日曜日

20220220 1800記事到達までの当ブログの進め方について②

気が付くと、先月末に1700記事に到達してから、さらに12記事作成していました。そして、この調子にて記事作成を続けますと、あるいは今月中に1720記事に到達することも可能であるかもしれません・・。

1720記事といえば、新規目標として定めた1800記事まで、1700記事からはじめて、五分の一に至ったことになりますので、私の感覚としては、これは速やか且つ順調な進み具合であると云えます。

さて、以前にも述べたことではありますが、この1700~1800記事の作成においては、書籍からの引用記事を多用しようと考えており、また、その考えは大きく変化していません。しかし、自らの文章にて作成出来る時は、やはり、自身で作成した方が良いと思われますし、何より、スランプに陥った時の解決策として「引用記事の作成」があることは、自転車操業である当ブログ運営者(私)からしますと、大変ありがたく、また、そうであるために、それ(引用記事)を多用、濫用することは避けた方が良いのではないかと思われるのです・・。

また、本日に関しては、さきほど「今日は自分の文章で・・」と思い立ったわけですが、こうして「思い立つ」ことは決して毎日というわけではありません・・。あるいは、もっと規則正しい生活を送るように心掛ければ、いくらかは良くなるのかもしれませんが、それでも、1000記事到達以前の頃と比べてみますと、明らかに記事作成に対する熱意のようなものは減衰していると云えます。しかしまた、他方においては、これまでブログを続けてきた経験により、あまり熱意を必要とせずに、毎日ではないにしても、どうにか記事作成が出来るようにもなってきました。こうした様相には、ある程度普遍的な要素があり、あるいは技術全般には、何かしら、そうした要素が付随するのかもしれません・・。

そして、これまでを要約しますと「今回の1700~1800記事においては、書籍からの引用記事を多用しつつも、それは一種の安全弁としてであり、実際には、出来るだけ自分の文章による記事作成を行う」といった主旨になりますが、こうしてまた文章として述べてみますと、この主旨も、自分の胸中にある考えとは若干異なるように感じられてくるのです・・(苦笑)。

その理由は、これまでに投稿してきた引用記事も、投稿後、ある程度の期間が経過した後に、それを新たにツイッターなどで発信することにより、その引用の文章の意味合いなどが以前とは異なって感じられ、そしてまた、その感覚を契機として、新たな、それに関連すると思しき書籍記述を引用記事としてみたくなるのです・・。この感覚は、当ブログにて引用記事をある程度作成した頃から生じたものであり、また最近に至っては「この感覚には何か大事なものが含まれているかもしれない」と考えるようにもなりました。そして、自分なりにこの感覚を、より精緻なものとして、さらに拡がりを持たせるためにも、書籍からの引用記事をさらに増やすことは、必ずしも悪い選択肢ではないと考えるに至ったことが、その理由にあると云えます。

あるいはこの状態を異言しますと、これまでのブログ記事の作成において「自らの文章」と「書籍からの引用」による「拮抗・緊張」のような状態が生じており、また自分としては、その状態があるからこそ1000記事到達後、しばらく経った現在のような状況であっても、どうにか継続することが出来ているのではないかとも思われるのです・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


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2022年2月19日土曜日

20220219 日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.147-149

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻pp.147‐149

 志士によるテロ活動の対象は外国人だったが、外国人のために働いたり、外国人に媚びを売る日本人も数多く襲われた。1860年、ある志士の一派が、日米修好通商条約の調印を進めた大老井伊直弼の首をとる。日本人による外国人襲撃事件のなかでとくに目立つのが、薩摩藩士と長州藩士がかかわった1862年と63年のふたつの事件だ。1862年9月14日、28歳のイギリス人商人チャールズ・リチャードソンが生麦村の路上で薩摩藩士に刀で切りつけられ、そのまま失血死する。薩摩藩主の父親を含む行列に対して礼儀を欠く行為をしたというのがその理由だった。イギリスは損害賠償と謝罪および実行犯の処刑を、薩摩のみならず幕府にまで要求した。イギリスと薩摩との1年近くつづいた交渉は決裂し、ついにイギリスの艦隊が薩摩の城下町鹿児島に砲撃をしかけ町の大半を破壊した。ある推計では、薩摩藩士1500人が死亡したという。

 もう一つの事件は、1863年6月下旬に起った。長州が沿岸に設置した砲台から西洋の艦船を攻撃し、本州と九州を隔てる要である馬関海峡(関門海峡)を封鎖したのだ。1年後、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの17隻の軍艦から成る連合艦隊が砲台を砲撃で破壊し、残っていた大砲も陸戦隊が上陸して持ち去った。

 このふたつの西洋による報復で、薩摩や長州の好戦的で過激な攘夷派も、さすがに西洋の大砲の威力を思い知らされ、まだ脆弱な日本の現状では外国人を追い出そうと努力するだけむだだと悟った。急進的な攘夷派とて、西洋に引けを取らない軍事力を日本が手に入れるまで待たねばならない。皮肉なことだが、それは、攘夷派が激しく非難していた幕府が進める政策であった。

だがここにきて薩長をはじめとする一部の藩は、江戸幕府は西洋と対抗できるところまで日本の国力を強化できない、と確信するにいたった。西洋の技術を導入するという目標は幕府と共通するものの、この目標達成には日本の政府と社会を再編する必要がある、というのが倒幕派の大名たちの出した結論だった。そこで大名たちは、しだいに将軍を出し抜くための方法を画策しはじめる。それまで薩長は、対抗心を燃やし、互いを信頼せず、ずっと争ってきた。だが、江戸幕府の軍事力強化が双方の藩にとって脅威となることを認識した薩長は手を組むことにする。

 1866年に14代将軍家茂が死去すると、15代将軍慶喜は近代化と改革に集中的に取り組みはじめる。フランスから軍備を輸入し、軍事顧問を呼び寄せたのもその一環である。これにより、薩長は危機感をつのらせた。1867年に孝明天皇が崩御すると、15歳で明治天皇が即位する。薩長の藩主らは、明治天皇の外祖父と共謀して、朝廷の後押しを取り付けた。1868年1月3日、門を封鎖して人の出入りを制限した京都の御所のなかで、討幕派の有力大名が会議を開き、徳川将軍家の領地を取り上げて官位官職を奪うことと、幕府廃止が決定され、将軍辞職が認められた。武家政治の終焉である。この会議の決定では、天皇に統治大権が戻る(王政復古)という神話が強調された。実際には長年にわたり、統治の実権はずっと幕府が担っていたものだった。これらが明治維新として知られる出来事であり、ここから新たな支配体制の時代、明治時代がはじまる。

日本経済新聞出版社刊 ジャレド・ダイアモンド著 小川敏子、川上純子訳「危機と人類」上巻
ISBN-10: 4532176794ISBN-13: 978-4532176792

2022年2月18日金曜日

20220218 昨日のブロガーでの閲覧者数、および一昨日投稿の【架空の話】・其の83から思ったこと

本日はほぼ終日外出しており、また、その間、スマートフォンを操作することはなかったことから、当ブログおよびツイッターでの新規の動きはありません。そして、つい先ほど(22:20頃)帰宅し、ブログを開いてみますと、昨日のブロガーでの閲覧者数が1400以上となっていました。この値は、直近1年間では最も大きかったことから、驚きつつも、さらにどの記事が多く読んで頂けたのかと調べてみますと①「20210228 先日ラーメン二郎目黒店さんを訪問して不図思い出したこと・・」、②「20200411 おかしくなれる時期と(非典型的)知性について」そして③「20210827 既投稿記事をいくつかまとめたもの①」が上位3記事となっていました。

これら3記事内容に関しては、特に共通する要素はないと思われますが、同時にそれらは部分的に書籍からの引用はあるものの、基本的には、自身の作成した記事・文章であることから、やはり、それなりに嬉しく、また、そこから、ここでの新規作成記事の題材としている次第とも云えます・・(笑)。

それに加え、一昨日投稿の「20220216【架空の話】・其の83 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇③】」もまた投稿後2日としては、かなり多くの方々(55)に読んで頂いており、やはり自身の作成記事としては相対的に一連の【架空の話】が多くの方々に読んで頂けていることを再認識しました・・。

さきの3記事および【架空の話】・其の83をはじめとして、当ブログの記事を読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。そしてまた、出来ましたら、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

そういえば、昨日、本日での外出は電車での移動を伴いましたが、その移動時に何か書籍を持とうとしましたが、生憎、適当と思しき読み途中の書籍が見当たらなかったことから、偶々目に付いた、革のブックカバーを掛けてある加藤周一著「日本文学史序説」上巻を手に取り、電車内にて読みましたが、久しぶりということもあってか、新鮮な興味を以て読み進めることが出来ました。

当著作からは、上下巻を通じ、特に当ブログ初期において、少なからず引用記事を作成していましたが、その理由が、我がことながら、今回の移動時での読書にて、あらためて理解出来たように感じられました。

過去の自分の行為においては、時間の経過と共に、往々にして、その時の行為の根拠にあった感覚を忘れてしまいがちですが、上述のように、はからずも追体験してみますと、過去に意識した行為が時間の経過と共に無意識化、そして忘却されて現在に至っていることが理解出来るのですが、思いのほかに、こうした経験は重要であるように思われましたが、さて、如何でしょうか?

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2022年2月17日木曜日

20220216【架空の話】・其の83 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇③】

D先生は、これから我々が訪問する歯科医院の院長宛てに名刺裏に紹介状を認めてから、おもむろに傍らに置いてあったスマートフォンを手に取り電話をかけた。そして、しばらく待ってから繋がると・・

「ああ、先日はどうもりがとうございます。ええ、それで、今回は前に少し話したK医療専門職大学の口腔保健工学科の件だけれども・・いいや、歯科衛生士の口腔保健学科じゃなくて、歯科技工士の口腔保健工学科の方だけども・・そうそう、今日、その学科の先生と、もう一人、K大歯科理工学講座の院生がR先生の医院見学を希望しているのだけれど大丈夫ですか?・・・ああ!本当ですか、それは良かった・・。じゃあ、今日の昼過ぎ14:00くらいに、二人が私からの紹介状を持参してそちらに伺うようにしますので、よろしくお願いします。・・いや、今回もまたどうもありがとうございます・・。ああ、それと、今日はK医専大OGで歯科衛生士のCさんが、そちらでのバイトの日であったと思いますので、時間に都合がつくようでしたら彼等と会わせてあげてください・・。」とのことであった。

そこで我々はD先生が認めた紹介状を受け取り、また後日訪問させて頂く旨を伝えて挨拶をしてから医院を辞した。時刻は正午少し前であり、ここからR先生の医院までは、1時間以上はかかるであろうとのことから、先に医院近隣まで移動をして、その付近にある飲食店にて昼食を摂るのが良いだろうということになり、取り急ぎ、電車にて移動することにした。

R先生の医院は東京東部のどちらかと云うと千葉県に近いところに立地しており、それは、今回の出張でのE先生の宿泊先ホテルがある千葉県I市とも、電車にて数駅ほどのところであった。

そうした事情や時間帯もあってか、空(す)いていた移動中の電車内でE先生は、御自身の学生時代の話をよくされた。そしてD先生とR先生の医院の丁度中間点とも云えそうな御茶ノ水駅に到着した時、E先生は神田川側の窓の外を控えめに指差しつつ「明日はここの大学に行こうと思っているけれども、ここはどちらかと云うと、ガチの研究大学だから、専門職大学の実務家教員とはチョット違うんだよなあ・・。まあ、それでもいい情報を入手することは出来るかもしれないからなあ・・。」と周囲の環境から、何となくコトバ使いが学生時代に戻っているようにも感じられたが、E先生の方は全く構う様子はなく、さらに話を続けられ、学生時代によく通っておられたという、御茶ノ水仲通りと甲賀通りが交差する場所にある*トールコーヒーにて遭遇されたという出来事を幾つか話されたが、いずれも、それなりに興味深いものであった・・。ともあれ、あの界隈では歯科大学や歯学部が複数存在するために、そうしたことも自然と見聞きされるのであろうと思われたが、同時にその環境は、当時の私にとっては、何やらとても縁遠いものであると感じられた・・。しかし、元来、首都圏出身である私は、そうしたことを感じることはなかったのだが、これまで5年以上、あまり外に出ることもなくKで生活していたためか、首都圏、東京での、さまざまな環境がどうも「違う世界のもの」のように感じられるのであった・・。他方、E先生の方は、普段よりも少し陽気に、そして多弁になっておられた。やがて、我々が乗った電車は隅田川を渡り、さらに東の千葉方面へと走り、R先生の医院に近づきつつあったが、こちらの地域に関しては、私の方が全く不案内であり、E先生の方が、かつての通い慣れたる通学路であったことから、上記のような感じであったのかもしれない・・。やがて電車が最寄り駅に着いて、下車すると、これまでに知らなかったような風情の街並みが広がり、また、駅南口のロータリーを突っ切った先からはじまる商店街も、正午過ぎという時間帯であったことからか、かなりの賑わいを見せていた。

R先生の医院は、この商店街を最後まで行き、そこから左手に曲がり、さらに南に進んだ先にあるとのことで、また、我々としては、ある種の観光気分もあったことから、この商店街の中を歩いて行こうということになった・・。

そして、商店街に入ってすぐにE先生が「おお!」と少し驚かれた様子を見せたため、そちらの方を眺めやると、果たして、その先には、これまでに何度かE先生との会話にて話題ともなった天丼で知られる「て*や」があった。

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2022年2月14日月曜日

20220114 しばらくオリジナルの記事作成を休止していて思ったこと

しばらく、書籍からの引用にて記事を作成してきて、また、この進め方であれば、今後もさら無理なく続けることが可能であるように思われましたが、このあたりにてオリジナルの記事を作成しておこうと思い立ち、つい先ほどから記事作成を始めた次第です・・。

しばらく、自身文章による記事作成を行わなかったものの、この休息期間によるものか、特に苦痛を感じることなく、この程度まで作成出来ています。そこから、これまでオリジナルの記事を作成する際は、その作成に費やした時間でなく、ある程度、文章としてまとまり、読めるものにすることを主眼としてきましたが、ここでは少し趣向を変え、費やす時間を定めて、記事作成を切り上げようと思います。

具体的には、今後30分間までとします。しかし、これまでとは異なり、予め作成に充てる時間を決めてかかりますと、不思議なことに、書籍を読んだり、ニュース動画などを視聴して、作成記事の主題を検討することよりも「とりあえず何かしら文章を作成してみよう。」と、キーボード上の手を動かすことに重点を置くようになります・・(笑)。

端的には「習うより慣れよ」といったところであるかもしれませんが、そのようなことを文章として作成していますと、また不思議なことに、かなり以前も、そのようにして記事作成を行っていた時期があったという感覚・記憶が思い出されてきます。

それは、当ブログをはじめて2年目頃であり、当初1年目は、以前にも述べましたが、ノートに実際に手書きにてブログ記事(当時は対話形式のものが主でした)を作成していましたが、この手法に慣れてきますと、次は「手書き」を介さず、直に記事を入力するようになりましたが、当時の(弱っていた)私としては、この程度の変化も、かなり大きく感じられたものでした。また、実際に、この変化がなければ、当ブログが現在に至るまで(どうにか)継続していたかは不明であったとも云えますので、それはそれで重要な契機ではあったのだとは云えます。

その後、直入力での記事作成に慣れてきますと、また面白いもので、新たに記事作成へのスランプといった事態が生じてくるのです。つまり、記事作成手法の変化(手書き→直入力)によっても、スランプ自体は変わりなく生じるということであり、おそらく、これは今後、作成の手法がさらに変化したとしても、変わることはないと思われます・・。

また、あらためて面白いことに、現在作成している当記事においては「スランプ」という自覚は皆無であり、あの記事作成時の重苦しいような感覚はありません。

そして、こうして休息期間の重要性をあらためて認識するのですが、ここにきて、さきに定めた時間に到達しそうであるため、今回はここで記事作成を止めます。また、次は【架空の話】の続編を作成したいと考えています。

また、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


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2022年2月13日日曜日

20220213 作品社刊 関口高史著「戦争という選択」pp.96-98より抜粋

作品社刊 関口高史著「戦争という選択」pp.96-98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861828643
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861828645

我が国は「持たない国」である。

 海で囲まれ、資源を他国に依存している。一部の研究者は、日本は「持たない国」ではなかったと定義している。彼らの主張は、日本が世界平均と比べ、決して貧しい国ではなかったとする。

 しかし、それには同意できない。なぜなら「持つ」または「持たない」を分けるものは、その国の産業構造と主要資源の保有量などが影響する。特に、当時の時代背景や主要産業を考慮すれば、石炭や石油、それに鉄などが大きな資源であった。

 そして、そのどれもが日本には不足していた。特に為政者たちが最も気にしていたのは石油などの液体燃料だった。戦争原因の大きな理由の一つにもなり得るものだった。この問題を見誤ると、結論が全く違うものになってしまう。

 また、ただ単に冨の再配分の問題では終わらない。確かに日本の経済は成長しつつあった。逆に資源があるだけで産業化されていなければ「持つ国」と言えないゆえに、日本が「持たない国」ではない、と言切るのは早計ではないだろうか。その後、「持つ国」である英米と「持たない国」、すなわち日独伊の対立は昭和7年(1932年)のオタワ会議以降、益々拡大していったのである。それがブロック体制の構築を進める結果になったからだ。

 日本はこのような危機的状況から、どのように脱却したか。結論から言うと、唯一の解決策と考えたのは中国への進出と、それに続くブロック経済圏の構築だった。その経緯はどのようなものであったのか。

 これは軍主導による経済領域の視点から日本の行動を見ていくことに他ならない。また、この問題は米国との関係のみではなく、日本の国際的孤立を招いたという点で国際情勢の流れと切り離して考察すべきではない。

 まず大正デモクラシーの終わり、汚職などによる既成政党への不信感、立憲君主制の限界などから、国民は政治の無力さを感じるようになっていた。国民が次に期待をかけたものは何か。それは軍、中でも青年将校だった。

 日本では、軍は国体とともに国民を護る存在であるとされていた。その上、彼らは老獪な政治家や莫大な富を誇る財閥などとの関係が薄いと見られていた。しかも青年将校らはエリート教育を受けていた。旧来の国策の後継者ではなく、新たな国家の創造者を自任する者も多くいたのである。

 また日本の都市には失業者が溢れ、農村の疲弊はひどかった。多くの軍人、特に下士官・兵は農村出身者だった。このため将校も多くの場合、純粋な気持ちで、この状況から抜け出さなくてはならないと感じていた。さらに陸軍は各歩兵連隊へ天皇自ら軍旗を親授し、「天皇の玉体を仰ぎ見る」のと同じ尊崇の念を抱くように国民にも徹底してきた。

 加えて、青年将校らは若い天皇という純粋潔白なイメージと重なった。すなわち、最も大きな視点から見れば、日本の指導者層あるいは指導勢力の新旧交代の時期に入ったとも言えるのである。これは大正時代から見られる傾向だった。

 大正時代には西園寺公望を除いて、元老が相次いで世を去った。その上、大正天皇も病弱で最高調整機能を十分に発揮できなかった。よって大正期の政策決定は次第に混迷の度を深めていった。このような傾向は昭和時代に入ってますます深刻化した。

 国家の政策決定を一元化する道は統治権の総攬者である天皇の裁定を俟つよりほかはなかった。しかし明治憲法に忠実な昭和天皇は立憲君主の分限を厳守し、その埒外に出ることを慎んだ。

 そのため、特に控え目に表明される天皇の意思も、いわゆる「君側の奸が聖明を覆うもの」と解せられ、徹底されなかった。よって調整の方途を見失った日本の政治・外交は、ついに一大破綻の悲劇を見るに至ったのである。だからといって、それ以外の領域、つまり経済、文化、社会などに期待しても恐慌から脱却するのは難しかったであろう。

 そこで軍が恐慌からも国民の生活を守る存在であることを期待されたとしても不思議はない。また軍は武力を用い、現状打破を具現できる専門集団であった。しかも、その目的は国民の望むものだと思われていた。

 そのような意味で日本国民が国家に何か期待する際、真っ先に思い浮かぶのは身近な存在である陸軍だった。また軍人も国内で、あるいは満州で、さらには南洋諸島などで民を護る存在であることを自負していた。

 その後、青年将校による暴発が続くのであるが、それらに対しても国民から絶大な期待が寄せられていた。急進的な青年将校たちは「天皇親政」という名目で天皇個人のリーダーシップを引き出そうとしていたのだった。なす術のない国民の中には袋小路に入った苦境を何とかしてくれる救世主と感じる者もいた。

 政府は五・一五事件では有効な防止策を講じられなかったばかりではなく、事件の首謀者たちの主張を国民に広める結果となった。ただし、二・二六事件という最大のクーデター未遂事件が発生した際には、昭和天皇の時勢に流されない英断で事態は収拾されるのだった。

 ただしクーデターは失敗したが、失ったものも少なくなかった。多くの優秀な人的資源はもちろん、思想や考え方が違えば力づくでも排除できることを示す事例の一つとなったのである。思想の亡失、あるいは良心・良識の喪失である。これ以降、自由な意見を議論する場の消滅が顕著になっていくのだった。

 また下からの改革こそ、真の改革であり、その実例が「明治維新」であった。多くの国民の支持を背景に「昭和維新」の断行を企図した青年将校たちの行き場を失ったエネルギーは二・二六事件以降、北支事変に始まる一連の対外膨張へと吸収されていくのだった。