2021年9月21日火曜日

20210920 既投稿記事をいくつかまとめたもの⑤

こうして勝利を得た日清戦争によって、我が国は台湾等の領土を清国より割譲し、多額の賠償金を手に入れた。また、西欧諸国は日本の近代化の早さに驚き、他方で、更なる清国での権益の拡張をはかるに至った。我が国は、この勝利により、西欧諸国を手本とした近代化への確信を強め、より富国強兵政策の方へと傾斜していくのであった。

また、この勝利によって、多くの日本国民は自らが東アジアの一国の国民であることを忘れ、徒に清国を蔑み、自らを白人と擬するような傾向もまた強くなっていった。(現在においても、その影響は、良し悪しを抜きに、色濃く我々の社会に残っているのではないだろうか。)

日清戦争後の下関条約によって日本が清国から割譲した領土のうち、遼東半島は、その後の露・独・仏による三国干渉により、すぐに清国に返還されたが、その地にはロシア帝国が侵入し、実質的に自らの領土とすべく、軍港や軍事基地などの建設を行うに至った。

こうして、状況は好ましくない方へと進展し、さらに1900年には義和団の乱(北清事変)が生じ、その鎮圧にあたった西欧諸国や日本の軍隊によって構成される連合軍の中で、ロシア帝国軍の現地での暴虐が目立ち、そうした行動は、当時、朝鮮半島に権益を有し、また、新参の西欧流帝国主義国となっていた日本としては看過し得ないものであった。


さらに、こうした東アジアでの状況は、同地域に植民地などの権益を有する西欧諸国においてもまた好ましくないものであったことから、日本に同情的な国も少なからずあり、また1902年には当時の国際社会において、ワーテルローの戦い以来、最強と目されていた英国(大英帝国)との軍事同盟を締結するに至った。

その後もロシア帝国の極東地域での暴虐振りは止まらずに、1904年の日露戦争開戦へと至るのであるが、この戦争は、さきの日清戦争と比べると軍事・財政共に苦心惨憺たるものがあり、アメリカ合衆国からの調停によって、どうにか自国領土は保全され、さらに幾何かの新たな領土をも獲得することが出来、対外的には「日本国の勝利」と云えるものであったが、そこに至るまでの経緯は、当時の日本国からすると、薄氷を踏みつつ川を渡るようなものであったと云える。

また、他方において、この日本国の勝利により、ユーラシア大陸東西でのロシア帝国の南下政策によって、自国権益の保全が懸念される西欧諸国の権益を益々安泰とさせることになった。見方によれば、この日露戦争において日本は、終始、西欧諸国の権益・国益に奉仕させられたのだとも評し得る。

さきの日英同盟を結んだ英国もまた、日本に対して、極東における、そうした役回りを期待しており、あるいは端的に、それは、主人と従僕のような関係であったとも云えるが、その従僕は、後年に至り、極東にて西欧諸国から期待される役回りに飽き足らず、更なる権益の拡張をはかるようになり、面倒な状態へと陥った。さらに1920年代以降からは、欧州においては自国国益のためには、既存の国際社会に反することをも辞さないファシズム(全体主義)国家がいくつか誕生しており、この勢力と日本との同盟によって、国際社会における国々の対立がさらに先鋭化され、そして第二次世界大戦、太平洋戦争の開戦へと至る。

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2021年9月18日土曜日

20210918 既投稿記事をいくつかまとめたもの④

18世紀中期頃、イングランドにて起った産業革命は、その後、西欧諸国のみならず世界の様相を大きく変化させた。

産業革命による蒸気機関の各種用途への応用により、製品が大量生産され、それが蒸気機関車にて国内各地に運ばれ、さらに、そこから蒸気船によって国外に輸出されるといった流通経路が確立し、常態化すると、その結果、当然の如く、輸出先地域の在来産業をも含む、伝統的な土着文化が破壊もしくは大きく変形せられ、結果的に、その地域は大量の製品を持ち込んだ、産業革命を成し遂げた西欧諸国の植民地にならざるを得ない状態へと至る。

こうした状態に際し、極東の中国・朝鮮・日本といった国々は、古くからの独自文化を保持していたことから、当初、西欧諸国蒸気船の来航に対して激しく抵抗した。

しかし、こうした東アジア各国の国粋的な抵抗諸勢力は、殺傷能力の優れた火器を装備した西欧諸国軍隊に対して敗北することが多く、とりわけ、広大な国土を有する中国(当時は清王朝)は、抵抗的争いに敗れた結果、沿岸部のいくつかの地域が、半ば植民地のような状態に陥った。

一方、当時の東アジアのなかで日本のみは例外的に、西欧諸国の学問・技術等を手本として学び、順応することに努め、また、統治体制を革めて西欧諸国による国土の蚕食を免れることが出来た。

くわえて、当時(19世紀半ば頃)の西欧諸国においては、東アジア地域をも含む世界各地にて西欧諸国同士の権益拡張への牽制がしばしば為され、あるいはまた、国によっては内戦状態であったという事情も、当時の日本を利するものであったと云える。

とはいえ、こうした状況は、あくまでも恒常的なものではなく、日本はこれに適切に対応するため、速やかな、そして大きな改革な必要であることを当時の世界規模での知識を有する心ある人々は痛感していた。

この幕末期から始まる、我が国での西欧諸国を手本とした各方面での改革は、明治期にも引き継がれ、我が国においては、そのまま「近代化」や「文明開化」といった意味合いを持つと云えるのだが、その発端は、冒頭に述べた産業革命によって画期的に船足が速くなり、航続距離が伸びた蒸気船が、これまた産業革命によって、大量生産された自国製品の販路を求めて、東アジア海域に頻繁に来航するようになったことであると云える。

ともあれ、上記の経緯により西欧諸国を手本として、速やかな西欧化をはかった日本は、その後、内戦や小規模な外征を経験し、早くも19世紀末期には、隣国である中国(清王朝)と朝鮮半島の権益をめぐる対外戦争に立ち至ることになった。

この所謂、日清戦争は、西欧的な近代国家への変革をはかった日本がはじめて経験する本格的な対外戦争であり、またそれは、当時としては相当に危険な賭けであった。何故ならば、当時の日本は未だ西欧諸国から文明国であるとは見做されず孤立しており、幕政期(1858年)に結ばれた日米修好通商条約に基づく治外法権(領事裁判権)があり、これは同戦争開始直前に、ようやく英国からの撤廃に漕ぎつけることが出来たのであるが、いざ戦争が始まると、西欧を手本として変革を遂げた日本軍は、清国軍に対して陸海双方にて快勝をおさめた。

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2021年9月17日金曜日

20210917 1600記事到達後の「燃え尽き症候群」での記事作成について思ったこと・・

相変わらず、記事作成の気力は湧かず、1600記事到達後の「燃え尽き症候群」のようなものであるのか、未だ以前のようにルーチン化した(ほぼ)毎日の記事作成を始めることが出来ません・・。こうした時期もしばらくは必要であるのかもしれませんが、しかし、それに甘えていますと、記事作成が困難になってくるように思われるため、作成出来そうなときは、多少気力を振るってでも、記事作成を始めておいた方が良いと、ここ最近は考えています。

また、以前に作成した記事をいくつかまとめた記事を、ここ最近、いくつか投稿してきましたが、おかげさまで、これらの記事は概ね、私の作成記事としては多くの方々に読んで頂いています。そのため、今後もこの手法で作成していきたいと考えています。とはいえ、この手法での記事作成は厳密にはオリジナルとは云えないため、気が咎める部分も少しありますが、他方で、かつての自分が作成・投稿した記事を組合せたものでもあることから、それらの中に書籍からの引用記事があっても、まとめられた全体として何らかの(そして新たな)脈絡のあるスジがあれば、それはそれで新たなものと云っても良く、特に気が咎める必要もないのではないかとも思われるのです・・。

また、以前では、当記事作成手法を用いていなかったことから、多少、気力を振るいつつも、これまでの記事作成の継続を通じて可能となった「ブログという、いわば外部化された記憶」に依拠する新たな記事作成手法であるとも云えるのです。そして、以前にも述べましたが、この感覚、すなわち「外部化された記憶」への認識は、なかなか面白く新鮮なものであり、あるいはそこから「新たな素材になり易い、書籍からの引用記事を増やすと更に面白いのかもしれない・・。」と思うこともあります。とはいえ、これはたしかに、当ブログに何らかの有用性・機能を求め、さらに自分の作成する(多くは)拙い文章と比較しますと、こちらの方が良いと思われ、また実際に、以前、そうしたことを当ブログにて述べていたこともありますが、こちらについても、冒頭にて述べた通り、あまりそれ(書籍からの引用記事)に甘えていますと、後になり、自らによる記事作成が困難になると思われることから、ここでもやはり、多少気力を振るってでも、既投稿記事をいくつかまとめたものであれ、自身による新たな文章を作成したものであれ、何かしら自らで文章を作成したり、練り直した方が良いと思われるのです・・。しかし、そうしたことは、おそらく以前の1000記事到達以前であれば、半ば当然のこととして、あまり意識もせずに行ってきました。しかし、ここに至って冒頭の「燃え尽き症候群」によるものであるのか、そうしたマインド・セットがなくなり、それに伴って記事作成のための新たな手法を模索しているのが現在であるとも云えます。その意味で、さきの既投稿記事をいくつかまとめる手法は、自分にとって新しいものであり、その先に作成される記事内容や、あるいは、より大きくは、当ブログ全体の、この先の展開の仕方なども、見出すことが出来るのではないかと思われるのです・・。

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2021年9月13日月曜日

20210912 しばらく古い時代のことを書いて思ったこと・・(内と外?)

おかげさまで、昨日投稿分の「昨日記事の続き?銅鐸にはじまって地域の古社について」は、投稿翌日としては、比較的多くの方々に読んで頂きました。これを読んで頂いた皆さまどうもありがとうございます。また、ここ最近断続的に投稿している我が国の古代を題材として作成した一連の記事もまた、私の記事としては比較的多くの方々に読んで頂いていました。

そうしたことから、またこれを題材として記事を作成しようと思いましたが、書き続けるためには、ここで今しばらくの休憩が必要であるように思い、本日からしばらくは、さきの題材での記事作成はしないで、とりあえず書く事が出来る身近な題材で書いてみようと思うに至りました。ともあれ、そうした次第にて、この程度まで書き進めることが出来るのであれば、それはそれで、今回の企図については成功であると云えます・・。

さて、以前の1600記事到達の際に「1週間ほど休みたい」と述べていましたが、それも果たされることはなく、その後、長いときは5日程度の休みを挟みつつ投稿を続け、意外にも早く、1620記事へ近づきつつあります。これは1600記事からさらに20記事、あるいは次なる目標(1700)への5分の1の路程を既に進んだということになります。

先日(8月初頭)に1600記事に到達した記憶が未だ判然と残るなか、こうした感覚を覚えることはなかなか面白いものであり、あるいは、こうした、よく分からない未知の新しい感覚を知覚、認識するために最近は記事作成を続けてきたのではないかとも思われることがありますが、こうした感覚に適切に言語を付与して、何かしらの意味がある見解を提示することが出来れば、それはそれで面白く、やりがいがあるように思われます。

ともあれ、今回の記事は、あまり自分の外に視点を置かず、主に内面に視点を置いて作成しましたが、外界での面白い事象を見出すためにも、内面への関心を持っている方が、感覚やそれに付与する言語を練ることが出来ると思われ、そして、視野を内から外に移した時にも状況や感じたことを言語化して整理することが可能になる(「影送り」のように)と思われますので、端的に内外双方の視野を持つ文章を難なく作成することが出来るようになれば、何か面白いことが起きるのではないかと思われるのです・・。とはいえ、文章を作成している現在の私は相変わらず疲れが残り、また「今年一杯は記事作成をしないでおこう・・」と思うことも度々ありますが、とりあえずは「あまり無理をしないでも作成出来るのであれば作成しておこう」といった妥協点に落着き現在に至っています・・。

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2021年9月12日日曜日

20210911 昨日記事の続き?銅鐸にはじまって地域の古社について

昨日投稿の記事に書いた「銅鐸」について、和歌山県は、その出土数が全国的に多いのですが、くわえて興味深いことは、そこから数百年後(古墳時代)、列島に根付いた大陸由来の墓制である横穴式石室を近畿圏にていち早く取り入れたのもまた、和歌山県であることです。

おそらく、その背景には、大陸へと続く朝鮮半島に度々派兵を行っていた4、5世紀代のヤマト朝廷にて派遣軍司令官的役割を担っていた当地の豪族である紀氏の存在があると云えます。他方で時代はそこから遡り、ヤマト朝廷始祖とされる神武天皇の東征のくだりにて、紀州での描写に登場することはなく、また、それによると当地では当時、女酋長を戴くクニグニ(村邑国家群)によって治められていたようです。

そして、この習俗(統治体制)に関しては、以前に当ブログにて引用したいくつかの記事にありますが、この場合は南方に、その起源があると思われます。ともあれ、東征後、当地がヤマト朝廷の支配下になると、この地に朝廷側の股肱を差し向けたのか、あるいはそれを在来土着豪族との婚姻などにより、支配の強化を図ったのか分かりませんが、ともあれ、このあたりの事情については、当地のいくつかの古社に参拝し、それら来歴の概要を知ったのちに検討してみますと、何となくではあれ、その背景にあった事情が理解出来るのではないかと思われます。

そういえば、1974年(昭和49年)にフィリピンのルバング島より帰還した最後の日本兵O氏のご実家は、和歌山市南隣の海南市にあり、その本家は、当地の古社にて代々神職を勤められています。古社とはいえ、どのくらい古くからであるのか、その由緒についてお聞きしたところ「鎌倉時代には既にこの地に存在したという記録があり、また、それ以前にもあったと思うが、その部分の記録が焼失して分からなくなってしまった。」とのことでしたが、何故、ここで「鎌倉時代以前から存在していたと思う」と云えるのかは、ここで話はさきほどの女酋長に戻り、当社は神武東征時の当地の女酋長である名草戸畔を祀っているとされるからです。

この女酋長たる名草戸畔は、上陸してきた神武軍との戦闘にて亡くなります。そして、その亡骸の特に頭部を祀ったのが当社であるとされ、そこから、ふるくより「おこべさん」(こうべ)という愛称にて親しまれてきました。

つまり、東京における平将門のような存在が、古来より朝廷側と戦った記録や口承が遺る地域においては、より身近なものとして未だに存在し、また、そうした地域においては、おそらく、それ以降の施政者達とは、あくまでも余所者であり、地元住民との妥協や協力関係によって、どうにか統治を続けることが出来たのではないかと思われます。

とはいえ、そうしたことは、時代時代のさまざまな要因によってブレが生じることがあり、時には地元住民側が強くなり、施政者側を圧倒することもあれば、あるいはまた、その逆もあり、そうした現象自体は現在もなお、続いていると思われます。

そこから、神武軍との戦いによって死んだ女酋長の頭部を祀っているという謂れ・由緒を持つ当地の古社を包摂するこの地域社会には、一体どのような性質があるのかと考えてみますと、それは少なくとも、歴代中央官衙の考えとは相容れないものであっても、特に不思議ではないように思われるのですが、さて如何でしょうか?

また、当和歌山県においては、そうした事例がほかにも少なからずありますので、こうした事情も相まってか、目上の方に対しての「敬語」があまり発達しなかったのかもしれません・・(笑)。

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2021年9月11日土曜日

20210910 紀伊半島西部と四国東部での銅鐸出土傾向から思ったこと・・

 これまで当ブログにて銅鐸に関する記事をいくつか作成してきましたが、私は2001年に北海道から南紀白浜へ転勤になるまでは、そもそも銅鐸についての知識や関心は皆無でした。その後、南紀での生活を通じて、徐々に興味関心を持つに至ったわけですが、そこで「何故、銅鐸に興味を持つようになったのか?」と問われますと、明晰に回答することは難しいと云えます。

かなり粗いところからですと、当時、蔵書に古書で購入した和歌山県の古代遺跡についての概説書があり、これを退勤後や休日に読んでいますと、比較的近所の自動車、自転車で少し走ったところに遺跡や遺物出土地などがあることを知り、あるいは休日のサイクリングで偶然にそうした場所に行き着き、あとになり書籍で調べなおすといったこともありました。

ちなみに私が2001年から2003年までの期間に住んだ和歌山県西牟婁郡白浜町では、伝白浜町出土とされる銅鐸は、いくつかの資料に記載があったと記憶していますが、間違いなく同町出土とされるものはなく、南紀での銅鐸出土状況は、隣の田辺市や上富田町からのものであり、そこから南では紀伊半島を東側に回った新宮市にて破砕状態のもの(近畿式とされる)が熊野速玉大社の摂社である神倉神社の境内から出土しており、これは後世(平安時代)の仏教遺跡の遺物と交ざり、実際に弥生時代末期(2世紀末、3世紀初頭頃)のものであるかは不明とされ、また、新宮市から北に続く紀伊半島東部については、その後、濃尾平野を主体とする伊勢湾文化圏に含まれる津市の雲出川流域まで銅鐸の出土例はないことから、さきの新宮での破砕状態での銅鐸の出土は、紀伊半島西部の上富田町から同半島を東に回り、かなり北上した津市までの領域での、ただ一つの出土例とされることから、尚更、その来歴の精査は必要でありながらも、同時に困難であるように思われます。

さて、以前に何度か述べましたが、紀伊半島西部では、粗く分析すると、北部に初期・小型・低装飾の銅鐸が多く、南下に伴い、徐々に後期・大型・高装飾のものが占める割合が大きくなる傾向があると云えます。

これはおそらく、その北隣の大阪府での出土傾向と比較しますと、興味深いと思われますが、他方で、これを紀伊水道を挟んだ四国東部と比較してみますと、その北端である香川県での銅鐸出土傾向は、総数20個ほどであり、それらは全て50㎝未満の比較的小型・初期のものであり、大型・後期を特徴付ける近畿式銅鐸の出土例はありません。次いで、その南に位置する徳島県での出土傾向は、総数が40個ほどであり、吉野川流域に集中する傾向を示し、県内出土の南端は阿南市であり、また、それらは総じて、さきの香川県同様、50㎝未満の比較的小型のものが多いものの、香川県での出土傾向と異なる点は、その中にいくつかの1mに達する、後期を特徴付ける近畿式銅鐸の出土があることです。つまり、総じて初期・小型の銅鐸が多いなか、いくつかの後期・大型のものが混在し、出土していることであり、こうした傾向は、紀伊水道対岸の北紀・中紀での出土傾向と幾分か類似しているようにも思われます。続いて、さらに南に位置する高知県においては、以前に述べましたが、物部川東岸までが同県内での(これまでの)出土領域とされており、その傾向は、総数は10個ほどであり、また、その殆どが50㎝以上の後期・大型の近畿式銅鐸であることです。そして、この高知県での銅鐸出土傾向は、対岸である和歌山県の特に南紀での同出土傾向と類似しているように思われます。

さて、如上の各地域での銅鐸出土傾向を眺めてみますと、香川・徳島・高知を包括した地域と、和歌山を主とする紀伊半島西部地域においては、辺縁領域に近接するにしたがって、出土する銅鐸が、後期作成の高装飾・大型のものが多くなるという、共通する傾向があるように思われます。とはいえ、これについては、それぞれに隣接する岡山県、淡路島そして兵庫県での出土傾向をさらに精査する必要があると思われますが、また同時に、一つの検討のための視座にはなるのではないかとも思われました。

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2021年9月9日木曜日

20210909 既投稿記事をいくつかまとめたもの③

直近の投稿記事にて銅鐸を扱いましたが、その後、気になり書籍を取り出し、インターネットにて検索したところ、後期(1世紀末以降)作成の大型、高装飾といった特徴を持つ、近畿式・三遠式双方銅鐸のなかで、近畿式銅鐸の鰭飾りの円型部位を、おそらくは銅鐸祭祀終焉後の時代に銅鐸本体から削り取り、ペンダント様に加工していた出土例が静岡県東部(沼津市・伊豆の国市)にあったことは以前から知っていましたが、それと同様の事例が、静岡県東部から遠く離れた四国は徳島市の庄・蔵本遺跡にて2013年に出土していることを知りました。

これは私にとっては驚愕すべきことであり、また徳島県は、さきの静岡県東部と異なり、元々が近畿式銅鐸の出土圏内であることから、如何なる経緯にて、銅鐸鰭飾りの円型部位をペンダント様に加工したのかとは大変興味深く、具体的には、削られる前の円型部位が飾っていた(近畿式)銅鐸は、元来、同地にて祀られていたものであるのか、あるいは、他の近畿式銅鐸の祭祀圏から齎されたものであるのかとは、さきの静岡県東部での事例と比較してみますと、当時の社会の一面を知る材料になるのではないかとも思われるのです。

そして、ここまで書いていて思い出されたのが、以前に記事として投稿した以下の引用記述です。

谷川健一著 古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
ISBN-10: 4532195284
ISBN-13: 978-4532195281

「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。」

上掲引用文から、さきの近畿式銅鐸の鰭飾り円型部位を加工した静岡・徳島での出土例とを加味検討してみますと「物部」氏が大きな意味を持っているのではないかと考えさせられます。

近畿圏主体にて祀られていた(近畿式)銅鐸の欠片を加工したものが静岡県東部(東海地方)から出土していることと、引用文中の「「外物部」は(ヤマト朝廷誕生による)物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。」には、何らかの関連があるように思われます。

徳島市の庄・蔵本遺跡での事例に関しては、その南隣にある高知県東部が近畿式銅鐸出土の一つの西限であり、具体的には、高知県を流れる「物部川」の東岸が現時点では限界となっています。そして、この「物部川」の名の由来もまた、ヤマト朝廷誕生による「外物部」の当地への流入であるように思われるのです。

他方で、ヤマト朝廷のもとに留まった方の物部氏は、王権に対し主に軍事方面にて奉仕し、その氏社とも云える奈良県天理市の石上神宮は、古くはヤマト朝廷の武器庫でもあり、またそれは、物部氏がかつて銅鐸と同様に銅矛、銅剣をも鋳造にて作成していた頃の名残りであると思われるのです。さらにまた、そうした経緯の可能性を検討してみますと、以前に作成・投稿した以下のブログ記述が思い出されました。

20151103 辺縁 温泉 地鎮 神社 武力についてより抜粋

A「あ、そうですね!
それで今思い出しましたけれど、関係ないかもしれませんが、古代律令制で朝廷に認識されていた神社(式内社)の数は伊豆諸島を含む旧伊豆国が他に比べ有意に多いのです。
これはたしか西郷信綱の論考にありましたけれども、それによると平安時代中期頃の朝廷の支配領域の辺縁、辺境と認識されている地域に外敵侵入の阻止、地鎮の意味を込めて多くの神社を設置したのではないかとのことでした・・。
しかし、こういった考えは世界各地に類例を見ます。
具体的にはローマ帝国北方辺境におけるハドリアヌスの壁、中国歴代王朝が北方辺境に築いた万里の長城などです。
そしてこのことを約言すると、実質的な防衛機能を持つ城砦を築くのが彼等の手法であり、一見実質的でない呪術的な意味での防衛機能を持つ施設、つまり神社を築くのが我々の祖先の手法ではないかということです。
しかしながら以上の分類の仕方はあくまでも表層的なものであり、よく考えてみると事情はもう少し込み入っていると思います・・。先を続けてもいいですか・・?」

B「ああ、どうぞ、今までの話は大体わかったから、その込み入った事情とやらを是非聞いてみたいね(笑)。」

A「どうもありがとうございます。
それでは続けます。
ところでBさんは奈良県天理市の石上神宮は御存知ですか?」

B「・・もちろん知っているよ。
大分前だけれど参拝にも行ったよ。
あの神社はたしか神武東征に出てくる神剣の布都御魂(ふつのみたま)が御神体で、あとは百済王から贈られた七支刀が納められているのではなかったかな?」

A「専門の分野と違っていてもさすがによく御存知ですね・・(笑)。」

B「なあに、私が幼い頃の子供向け読本なんていうのは戦争期に出版されたのも普通にあったからね・・。
それで、そういう本にはそういった神話はごく普通に書かれていたものだよ・・。
それでまあ、後から得た知識やらを肉付けしたり、修正し易いんだろうね(笑)。」

A「ははあ、なるほどです。
あ、それで石上神宮ですが、この神社は仰る通り朝廷にとって神聖とされる武器が納められていることで有名なのですが、その考えを敷衍、拡張して、ここは古代大和朝廷の武器庫としての役割、性質をも持っていたと考えられています。
そうしますと、前にいいました我が国の古代において辺境地域に神社を設置する傾向とは、当時、神社が武器庫でもあるならば、それはそれで呪術的一辺倒でもなく実質的な意味合いも有していたと考えられるのです。
さらにこの考えを補強する要素として、石上神宮は物部氏の氏神を祀っているのですが、伊豆国をはじめとした東海地域の諸国造もまた物部氏に出自を持つものが多いことが挙げられます。」

B「ああ、それはたしか前に君のブログに書かれていたような気がしますね。」

A「ええ、それは確か銅鐸に対しての興味からの抜粋ですが、仰るとおりです。そして、この考えに銅鐸、銅剣、銅矛などの青銅製鋳造祭器を要素として加えて考えてみると、これがまた面白いのです。
つまり、これらの青銅製祭器とは辺縁、辺境における地鎮の役割も持っていたと考えられているのです。
そうしますと、本来地鎮の役割を有していた青銅製祭器が廃れ、それが武器庫としての神社となり、さらにそこから社会の安定化に伴い、武器庫的要素が薄れ、現在の神社の様になっていった過程がまあ何となく理解できるような気がするのです・・。
しかし、これはあくまでも古代朝廷から見た辺縁、辺境地域における神社の性格、傾向であって、全部が全部そうではありません・・。」

B「ふーん、何だか面白いね・・あと、そういうのは日本だけでなく他の国においてはどの様な傾向があるのか調べてみたら、もしかしたら、もっと興味深いものが見つかるかもしれないね。」

A「ええ、そうですね。
それは確かに面白そうですね。
機会があれば是非もう少し深く追究してみたいですね・・。」

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