2021年4月24日土曜日

20210424 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.322-323より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻pp.322-323より抜粋

ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

西行は、俗名を佐藤則清といい、もと武士の出、若くして剃髪(1140)の後、全国に旅したことで知られる。家集は「山家集」(成立年代不明)、千数百首を含み、『新古今和歌集』はその歌を多く採る。歌風は定家流の手のこんだ技法に走らず、単純で平易であり、しばしば当人の感情と経験を直接伝える。

 浮れ出づる心は身にも叶はねば如何なりとても如何にははせん(『山家集』中、雑)

儚しなちとせ思ひし昔をも夢のうちにて過ぎにける代は(『山家集』下、無常十首)

心がみずから統御できない、どうなっても勝手にしろ、というのは、「幽玄」でも「有心」でもない。「ちとせ思ひし昔」は、おそらく西行の「春宵一刻」であり、『新古今集』流の古典をふまえるよりは、換え難い経験をふまえた独特の語気を示しているだろう。

 しかし西行の旅の歌の圧倒的多数は、『古今集』以来の月なみの主題による。花鳥風月。旅の自然をほとんど自分の眼でみていないという点では、平安朝の宮廷知識人と変わらない。

 この時代には、画家でさえも、名所を描くのに、名所を見てはいなかった。重要なのは、画題の歌枕であって、現実の風景でなない。たとえば後鳥羽院が新築の寺(最勝四天王院)の障子に四人の画家の名所絵を注文し、定家が名所を選んだとき(1207)、画家の一人が、割りあてられた須磨・明石を一度行って見てきたいと申出たということがある。おそらくその画家は例外であり、遠い名所は、見たこともないのに描くのが当然であった。いわんや歌人をや。春は花、花は桜、というのは、貴族文化の月なみであって、日本国の植物分布とは全く関係がない。他のどんな花も、貴族の眼にはみえなかったのであり、だから貴族文化に組みこまれた西行にも見えなかったのである。

 ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃(『山家集』上)

これこそはすでに彼の同時代から、西行の歌のなかでもっとも有名なものである。おそらくこの歌が北面の武士の貴族文化への降伏の証言に他ならなかったからであろう。

2021年4月14日水曜日

20210414 中央公論新社刊 池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」トーマス・マンの亡命日記 pp.44-48より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「闘う文豪とナチス・ドイツ」トーマス・マンの亡命日記
pp.44-48より抜粋

 
ISBN-10 : 4121024486
ISBN-13 : 978-4121024480

1936年12月、ボン大学はトーマス・マンの名誉博士号を剥奪した。7年前のノーベル賞受賞にあたり、大学当局みずからが申し出たものを、みずからで取り消した。

『トーマス・マン日記」 1935-1936』では1936年12月25日付、クリスマス当日の記述に出てくる。

「-うっかり忘れるところだったが、国籍剥奪の結果として名誉博士号を剥奪する旨、ボン大学哲学部から通告があった。-回答を考慮」

「うっかり忘れるところ」となるのは、その日、クリスマス・ケーキの朝食に始まって、おりしも来訪中の友人たちと森を散歩し、そのあとコーヒーを飲みながらジッドの『贋金つくり』、ジョイスの『ユリシーズ』、自作『魔の山』などをめぐり小説の危機について語り合った。ほかにも執筆中の短編、まぢかに迫ったプラハ、ブダペストへの講演旅行の連絡などと、いろいろ用があったせいだろう。

 とともに大学からの通告に対する意味合いもこめてのこと、自分のほうから申し出て与えたものを、国家による「国籍剥奪」を理由づけにして取り消しを言い立てる愚かしさ。

 ナチス政府によるトーマス・マンのドイツ国籍否認の告示は1936年12月2日付で、翌日のナチ党新聞「フェルキシャー・ベオーバハター』に発表された。マン夫人、および4人の子供を含むもので、活動家の長女エーリカと長男クラウスは、その前から国籍を剥奪されていた。

 マンはナチス内務省の動きを早くに察知していて、先立つ11月にチェコスロバキアの国籍を取得しており、剥奪を通告された時点で、すでにドイツ国籍を持っていなかった。12月2日の日記に記している。「ミュンヘンからハインスの電話(中略)先手が取れるよう是非とも事実を公表せよという」。公表して相手のハナをあかす予定のところに党新聞の情報が入り、マンは多少くやしい思いがしたらしい。12月4日に書いている。「・・やはりこれは不意打ちだし、先手をとられたのが腹立たしい」

 ともあれ法的には国籍剥奪に何の意味もない。むしろすでになくなっているものを、やっきになって取り消す側の滑稽さが浮かび出る。

 それだけではなかった。すぐさまこの一件に飛びついて、ものものしく、名誉博士の剥奪を伝えてくる、もう一つの滑稽集団がいた。通告文は日記の注に再録してある。ボン大学は通称で、正式にはライン州フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学哲学部、12月19日付。

 ボン大学総長の合意を得て余は貴下に対して、貴下が国籍を剥奪されたる以上、哲学部としては貴下を名誉博士名簿から抹殺するのやむなきに到れる旨、通告せざるをえざるものなり。本称号を帯びる貴下の権利は、本学学位授与規則第8条により消滅せり。

                       (署名判読不能)学部長

 著作家トーマス・マン殿

 文中の「抹殺するのやむなき」といった言葉から、大学当局がこころならずも決定したように受けとる人がいるかもしれないが、ドイツ語原文はネガティヴなことを伝えるときの常套句であって、いたって事務的な通告文である。学費滞納の学生に退学を伝えるときと、まったく同じ文面である。

 権力が大きくふくれ上がったとき、さまざまな喜劇がかいま見えるものだが、ボン大学による名誉博士号剥奪もその一つだろう。ヒトラーが政権についてほぼ4年になる。全面的な国家一元化が完成して、「党と国家の一体の保障のための法律」により、大学教授団もまたヒトラー・ユーゲントやナチス婦人団と同様に「ナチスの肢体」の一つとなった。

 法律の施行より早く、新しい権力者への迎合が始まった。ドレスデン工科大学教授だったヴィクトール・クレンペラー『私は証言する/ナチ時代の日記 1933-1945』(大月書店、1999年)が、同僚たちのうろたえぶりと変節のもようを克明に書きとめている。非アーリア系官吏の罷免を含む新官吏法が出されるやいなや、てのひらを返すように態度を一変させ、ユダヤ人言語学者を大学から追放した。フライブルグ大学哲学教授マルティン・ハイデガー教授はケルン大学公法学教授カール・シュミットに「ナチへの協力」を勧め、シュミットは一週間後にナチスに入党した。

 通告に対してマンの日記に「回答を考慮」とあるのは、まるで椋鳥が飛び込んできたような気がしたからではあるまいか。相手方の出方を利用して、存分にナチス批判ができる。素竿を当の相手が提供してくれた。学部長カール・オーベナウアーへの返書については12月30日の日記に見える。「コーヒーの後、鉛筆で学部長宛ての書簡を書き上げる」。かなりの長文であって、実際は誰に宛てたものかいうまでもない。

「わたくしは夢にも思いませんでした」

中年すぎて亡命者となり、祖国に背き、やむにやまれぬ政治的抗議のなかで過ごすとはーそんな書き出しのあと、ナチズムと呼ばれるものの実態、我が世の春を謳歌している権力者の欺瞞と虚構を克明に語っていった。

「学部長殿、わたくしはうっかり、あなた宛てに書いていることを忘れておりました」しかし、まあ、いいだろうと、辛辣な皮肉がまじえてある。「あなたはとっくに読むのをやめておられるでしょうから」

 私的書簡ながら広く伝わることを図って書かれ、「ある往復書簡」のタイトルで翌年1月『新チューリヒ新聞』に掲載。すぐさまチューリヒの出版社が学部長の通告文つきで仮綴じ本に仕立て、またたくまに二万部を売り上げた。オーベナウアー学部長がいかなる人物かは不明だが、幕間狂言の愚かしいメッセンジャーとして歴史に名をとどめている。

2021年4月13日火曜日

20210413 株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ青春記」pp.147‐149より抜粋

株式会社新潮社刊 北杜夫著「どくとるマンボウ青春記」pp.147‐149より抜粋

ISBN-10 : 410113152X
ISBN-13 : 978-4101131528

 トーマス・マンが告白しているが、彼もまた若いころ観念主義のトリコとなって精神的なものをより重視し、政治にいわば背を向けていた。現在の、国家の実際面を担当するには、そのために専門の政治家や軍人がいるではないか。自分は自己の内面のみを見つめ芸術作品を書いていればよいと思っていた。しかるに見よ、いつしかナチスはドイツ自体を代表し、気づいたときには彼の国家は泥沼に落ちこみ、彼の著作は発禁となり、彼は国籍を剥奪されアメリカに亡命しなければならなかった。

 マンがボン大学の名誉教授号を剥奪されたとき、彼がスイスから学部長あてに送った公開書簡はわれわれの胸を打つ。この中でマンは正面きってナチスを弾劾しているが、その末尾にこう記している。

「学部長殿、実のところ、私は貴殿にあてて書いているのだということをまったく忘れておりました。しかし私は、貴殿がもうおそらくかなり前から私の文章を読んでおられはしないことと考えて、安心することができます。ドイツではすでにその習慣を失ってしまったこうした言葉に驚き、人があえて自由なドイツ語を語ることに呆然自失されたことでしょう。おお、私をしてこんなふうに語らしめているのは、傲慢ではなくして、むしろ身を切るような苦痛の念なのです。貴殿の指導者たちは、私をもはやドイツ人ではないと決定したときにも、この苦痛の念から解放することはできませんでした。私の言葉は、魂と精神との苦痛から生まれたものです。・・・人間は、宗教的な羞恥心から、あの至高なおん名をみずから進んで口にしたり筆にしたりしないものであるとしても、自分の思いをすっかり表現するためには、それを抑えることのできがたい深刻な感動の時があるものです。それゆえー私はもうこれ以上言うことができないのですからーこの手紙を次のような祈りの言葉で結ぶことを許して頂きます。

 神よ、憂いに閉ざされ、道をあやまれるわれらが国を救わせたまえ、他の国々とも自国とも平和を結ぶことを教えさせたまえ」

 かくしてやがて、かつては自らを非政治的人間と称したマンは、第二次大戦中、敢然と言葉を通じてファシズム打倒のために立上がり、アメリカ中を講演してまわり、相手国家むけの放送をする。戦後、マンはデモクラシー擁護の戦士としてわが国に再紹介されたが、これはもともと彼の本質とは微妙に異なるものであった。

 ついでながら、私たちが三年のとき、望月先生は戦時中のマンの講演「デモクラシーの勝利」をテキストに使った。もちろん古い答案用紙の裏側に謄写版で刷ったものである。あたかもその折、この論文の訳が某雑誌に載った。なんたるタイミングのよさ、と私たちは大喜びをし、みんなその雑誌を買い、これで大丈夫と教場に出てゆくと、なんとその訳があちこち誤っており、みんな叱られてしまうのであった。翻訳というものが間違うこともあることを、私はそのときはじめて知った。

2021年4月10日土曜日

20210410 中央公論社刊 吉田裕著「日本軍兵士」-アジア・太平洋戦争の現実 pp.42‐45より抜粋

ISBN-10 : 4121024656
ISBN-13 : 978-4121024657

【太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑」によれば、海没死者の概数は、海軍軍人・軍属=18万2千人、陸軍軍人・軍属=17万6千人、合計で35万8千任に達するという。日露戦争における日本陸海軍の総戦没者数、8万8133人(「日露戦争の軍事史的研究」)と比較すれば、この35万8千人という海没死者の重みが理解できるだろう。なお、船舶輸送軍医部は、「船舶輸送中における戦死は溺水死その半ばを占むべし」としている(「船舶輸送衛生」)。つまり「溺れ死に」である。

 多数の海没死者を出した最大の要因は、アメリカ海軍の潜水艦作戦の大きな成功による。第二次世界大戦で、米海軍は52隻の潜水艦を喪失したが、1314隻・500万2000トンの枢軸側商船を撃沈している。潜水艦一隻の喪失で25隻もの商船を撃沈していることになる。ドイツ海軍は781隻喪失、撃沈が2828隻・1400万5000トン、一隻の喪失で3.6隻を撃沈しているが、米海軍には大きく水をあけられている。ところが日本海軍の場合は、127隻喪失、撃沈が184隻・90万トン、一隻の喪失でわずか1.4隻を撃沈しているにすぎない。

 米海軍の対日潜水艦作戦では1943年半ばが大きな画期となった。米海軍は、この頃までに不発や早発が多かった米軍魚雷の欠陥を是正しただけでなく、日本商船の暗号解読に成功した。これにより、船団に対する待ち伏せ攻撃が可能になったのである。(「研究ノート 対日通商破壊戦の実相」)

 多数の兵士たちが海没死した日本側の要因としては、日本軍の輸送艦の大部分が徴傭し、船倉を改造した狭い居住区画に多数の兵員を押し込めたことがあげられる。そのため沈没の際に全員脱出することは不可能であった。また、多数の喪失によって船舶の不足が深刻になり、一輸送船あたりの人員や物資の搭載量が過重となったことも犠牲者を増大させた(前掲、「アジ化・太平洋戦争の戦場と兵士」)。

 先にあげた船舶輸送軍医部「船舶輸送衛生」は。船舶輸送に特有の環境の一つとして、居住区画の「狭隘」さをあげ、軍隊輸送では坪あたり3ないし4人の兵士が適当だが、温度が高い熱帯地の輸送では坪当たり2.5人を理想とする、しかし、船腹の関係や作戦上の要求から、「坪当たり5人の多きに達すること」があると指摘している。

 一坪に完全武装の兵士5人が押し込まれれば、横になることさえ不可能である。1944年7月、フィリピンに向かう輸送船の船内の状況を軍医(見習士官)の福岡良男は、「まるで奴隷船の奴隷のように、定員以上の兵が輸送船の船倉に詰め込まれ、自由に甲板に出られぬ兵が、船倉の異常な温度と湿度の上昇のため、うつ熱病(熱射病)となり、体温の著しい上昇、急性循環不全、全身痙攣などの中枢神経障害を起こし、多くの兵が死亡した。その都度、私は水葬に立ち会い、肉親に見送られることなく、波間に沈んでゆく兵を、切ない悲しい思いをして見送った」と回想している。(「軍医のみた大東亜戦争」)。

 入隊したばかりの初年兵など、甲板に出られない兵士が多かったのは、福岡によれば甲板の出入口付近に涼を求めて古手の古参兵たちが我が物顔でたむろしているからだった。

2021年4月9日金曜日

20210409 株式会社岩波書店刊 野上弥生子著「迷路」上巻 pp.279‐280より抜粋

株式会社岩波書店刊 野上弥生子著「迷路」上巻
pp.279‐280より抜粋
ISBN-10 : 4003104927
ISBN-13 : 978-4003104927

その外側に、風を伴ってまだ散乱しているであろう雪は、今日の騒動(2・26事件)にもつれあい、桜田門の遠い椿事を、弟と語るあいだも彼の胸に白い幻影にしていた。当時の保守党の尊王攘夷の叫びの中で、敢然と開港条約に調印した祖父江島近江守の行動が、彼を激しく打ち、強い感動とともに、肉親の同情を交えた共鳴で祖父のことを考えるようになったのはまだ学習院の頃であった。歴史についての彼の興味も、一つにはそれに誘いだされたといってよく、明治維新政府は、祖父を人柱にして建築された、とする結論は彼には誇りがなものであった。しかも、そこで栄達の座についてのは、祖父を死体にし、その首を打ち落としたものではなく、それを狡く利用した仲間であるのを思うことによって、はじめの尊王攘夷、徳川幕府打倒を、巧みに文明開化主義に乗りかえた新しい明治の権力者ー薩長が代表する政治家、軍人、新興財閥には、下手人の水戸浪人たちに対するよりも、ずっと底深い憎しみと軽蔑を感じさせた。宗通をかたく捕らえている反社会的な生活は、まだ若かった頃から、この秘密なフレームにその芽をもっていたのであった。

 こうした考え方を、宗通は誰にも打ち明けたことはなかった。もちろん、また秀通(弟)にも話そうとはしなかった。容貌がすっかり違っている通り、性質もまるで反対な弟は、宗通の眼には、つねに騒々しい俗物で、彼が憎み、軽蔑しているものと如才なく手を繋いで、損をしないで生きるのを世渡りの第一義としている、欲深い、おろか者に過ぎなかった。つねは向からやって来る以外には、めったに呼びよせもしない。今朝の特別な例外は、出来事の詳細を聞こうとするためであったとはいえ、宗通の気持の底には、彼自身でもはっきりは心づかないものが潜んでいた。

「この雪で、お祖父様の桜田門の事件が思い出されるではございませんか。」

 この意味の言葉が、秀通の口からもしも洩れたとしたならば。-眼先だけの、騒々しい世間師が、そんなことに考え及ぶ筈はない、と思いつつも、宗通には漠然とした期待があった。それほど彼は誰かとその話がしたかった。また、それほど、今日の出来事は雪を媒介として、祖父の横死の歴史の一ペエジを、彼の追想に甦らせていたのであった。

2021年4月6日火曜日

20210406 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.306‐307より抜粋

 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」pp.306‐307より抜粋

ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

以下の話は、今では私自身、ちょっと気恥ずかしい気持もする。私は最後の引揚船でフィリピンをあとにしたが、昭和17年以来足掛け5年mまず内地軍隊食にはじまり、戦地軍隊食・フィリピン食・ジャングル食(?)・収容所食と、奇妙なものを食べつづけて来た。そしてタタミはもちろんのこと、普通の「日本食」の味も香りも形態も、茶碗も箸も忘れていた。否、内地の軍隊のあおのどんぶり型のアルミ食器と麦飯すら半ば忘れていた。

 戦地ではずっと飯盒とその蓋と掛蓋が食器であり、収容所でははじめは缶詰のあき缶であった。後には食器(メスキット)も支給あれ給与もよくなったとはいうものの、毎日のように豆とブタの脂身のきんとんのようなごった煮ーいわば米軍の最低の兵隊食、彼らのいう、黒人のえさ(ニガー・フーズ)の連続で、しかもそれには缶のにおいがついており、しまいにはこの亜鉛か錫のにおいが鼻についてやりきれなかった。しかもそれを、日に三度、雨の日も風の日も、野天に一列に並んで、順番にバケツの中から、おしゃもじのような大きなスプーンで、フライパンを楕円にしたような食器にペタッぺタッと盛ってもらっては、幕舎にもって帰って食べるのが毎日だったわけである。

 そういう日々も終って引揚船に乗り、甲板から港を眺めていたとき、輸送指揮官から、輸送本部の仕事を手伝ってくれといわれた。「最後の最後までブツキですかあ、もうまっぴらです」といったものの、結局口説き落とされ「ま、一応本部までは来て下さい」ということになって輸送本部に行った。

 何しろ佐世保につくまでに半徹夜ぐらいで処理しなければならない復員事務から、所持軍票の整理やらがあり、また常夏の国から一週間足らずで厳冬の日本に帰るこの人びとのたmr、積み込んできた冬服冬外套の支給も早急にはじめなければならず、相当大変な仕事がまっていた。

 もっとも重労働だからということで幾分か優遇され、上甲板に近い復員官の個室の隣の、20畳ぐらいのタタミ部屋が提供されていた。船倉ではとても半徹夜で事務を処理することなどできないからだろう。しかし私は、そういう優遇で仕事をさせられるよりも、船倉で一向かまわないから、ただただ静かに休んでいたかった。しかし、それもならず、最後の最後まで「ブツキ」をやらされることになってしまった。

 夕食になった、なるほど特別待遇で、タタミの上に、四角いアルミ盆にのった食事が、船のボーイの手で並べられた。一椀の麦飯、味噌汁、野菜と肉の煮つけであった。全部で十数人だったと思う。何年かぶりのタタミの上での「人間らしい」食事であった。

 正座して、まず味噌汁をとった。かすかな湯気とともに、味噌と煮干のにおいが鼻孔に入って来た。その瞬間涙が出て、鼻孔を流れ、湯気といりまじった。味噌汁のにおいで涙を流すなどということは何となく恥ずかしく、照れくさかった。私は歯をくいしばって涙を抑えようとした。しかしそうすればするほど涙はあふれ、目にたまり、手がふるえてきた。味噌汁をこぼさないように、うつむいたまま、湧きあがってくる涙を必死で抑えた。

 私はうつむいていたので、ほかの人に気づかなかったから、こういう状態になったのは自分だけかと思っていた。だが、全員が同じだったのである。鼻をすする音がした。やがて一人が耐え切れなくなったように「ムムッ」といってこぶしで涙を拭った。それが合図のようになって、あとは全員、堰を切ったように同時に声をあげて泣きだした。

 以上が典型的な「感覚的里心」の発作的激発であろうが、考えてみればこれは異常である。もちろん、こういう感情の激発は一瞬にすぎない。不平不満はすぐに出てきた。三日もしれば、人びとは、「給与だけは収容所の方がよかったな」などと言い出すのである。しかし、そのことと、こういった感覚的な感情の激発が絶えず内在していることとは別である。

2021年4月4日日曜日

20210404 株式会社岩波書店刊 加藤周一著「羊の歌」-わが回想- pp.101‐103より抜粋

ISBN-10 : 4004150965
ISBN-13 : 978-4004150961

祖父の家が一歩一歩没落の道を辿っていったときに、祖母の側の親類は栄えていた。祖母の兄は、その頃実業界で成功し、独占的な大燃料会社の副社長になっていたし、弟は海軍で昇進し、少将となり、やがて中将となった。30年代の後半に満州ではじまったいくさは、いよいよ拡がりつつあったから、もとより大燃料会社の景気はよく、海軍の高級将校の威勢はいよいよ増すばかりであった。

副社長はよく親類縁者の面倒をみた。その会社にはいたるところに一族が就職して働いていた。しかし傾きかけた妹の家、つまり祖父の家を救うところまではゆかなかった。たとえ望んでも、その能力はなかったのかもしれない。副社長といっても、技術者の社員から昇進したので、大株主ではなかった、娘がひとりあって、娘婿が後に同じ会社の副社長になった。

この人は快活な人柄で、相手によってわけへだてしなかった。私の父とさえも、-というのは、この気むずかしい医者とうちとけて話す人は親類のなかにも少なかったからだが、会えば談笑して倦まなかった。中学生の頃の私は、この副社長の一家とほとんどつき合っていなかったが、太平洋戦争の後、パリで貧乏暮らしをしていたときに、その娘婿、つまり二代目の副社長と、思いがけなく一晩を過ごしたことがある。下宿に突然手紙がきて、しかじかの日にパリに行くから、よろしくたのむと簡単に書いてあった。飛行場へ行ってみると、彼は鞄持ちの会社員を二人連れてあらわれ、「やあ、どうだい」といった。その気さくな調子が、私にいくさのまえの記憶をよびさまし、大会社の副社長という肩書きを忘れさせた。

 海軍少将は、若いときに英国へ留学し、ロンドン軍縮会議の頃大使館附武官をしていたこともあって、英国の文化を尊敬していた。親類の集りでも、英国人の風俗やその歴史について語ることが多かったと思う。30年代後半の日本で海軍の将校が外国人と交際することは少なかったから、どの程度に英語を話したかはわからない。しかしよく英語の本を読んでいた。オークション・ブリッジという遊びを、私たちの家庭にもちこんだのも彼である。

あるときには、巡洋艦の艦長をしていたし、あるときには、揚子江艦隊の司令官で、またあるときには、艦政本部長でもあった。私は子供の頃巡洋艦に招かれたことをよく覚えている。それは県知事になった伯父の権力をはじめてみたときとは全くちがう印象を私にあたえた。県知事には役人がへつらっていた。県庁の役人たちは、ほとんど陰惨な気をおこさせるほど卑屈だった。しかし巡洋艦の水兵たちは少しも卑屈ではなかった。彼らはお世辞をいわず、必要最小限度以外には口をひらかず、しかし敏捷で、正確で、能率的で、艦長の客に対しては申し分なくゆきとどいていた。そこでは人間の組織が機械のように動き、ほとんど美的な感動を与えた。その印象があまりにも強かったので、私はその他のすべてのことを忘れてしまったのかもしれない。その巡洋艦の大きさも、その日誰が一しょに招待されていたかということも、またおそらくは晴れた日の海の色や、飛び交う鷗や、風にひるがえる軍艦旗も。私たちはこの海軍将校を「おじさん」とよび、またあるときには「提督」とよんでいた。提督は太平洋戦争の前後を通じて一種の見識を有し、決してそれをゆずろうとしなかった。それは狂信的な超国家主義は必ず国をほろぼすということである。