~勉強会の御案内~
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ここ数日、本格的な師走となりましたが、こちらは本日が仕事おさめとなりました。また、当ブログの方も、以前に設定した年内での目標である1445記事には到達したことから、特に新規の投稿をする必要がないのだとは云えますが、逆にそうなりますと不思議なことに「何かしら書いてみよう」という気になってくるものです(笑)。
そこで「現在のような年の瀬で何を書けば良いか?」と考えてみますと「来年の目標」が妥当であると思われました。当ブログについては来年、本格的な春が訪れるまでに、どうにか1500記事まで到達し、さらに来たる6月22日まで記事作成を継続し、丸6年のブログ作成期間を更新したいと考えています。
1500記事そして6年間、ブログ記事の作成を継続しますと、何かが生じるというわけでもなさそうですが、しかし、現在までどうにか続けることが出来たのであれば、そこまでは継続した方がキリが良いと思われるです。そして、その後、さらに書き続け、上手く行けば2年後の年の瀬までには、あるいは2000記事まで到達することも出来るかもしれません・・。
しかし、この2年後の2000記事への到達は、現時点ではあくまでも「絵に描いた餅」であり、そこまで上手くことが運ぶとは、あまり考えていません。
また、他の目標としては、少しでも当ブログをも含め、自身の作成する文章で収入を得てみたいと考えています。そしてさらに、現今のコロナ禍においては困難であるかもしれませんが、これがおさまりましたら、西日本のある医療福祉系学部・学科を擁する大学(相対化のため出来れば複数)に定期的に継続して訪問させて頂き、その大学の面白く、新たな取組みなどを取材し、記事を作成し、自身のブログなどを含め、どこかで自身の文章として発表してみたいと考えています。
しかし、そのためには現時点での自身のブログは未だ力不足と云えることから、とりあえず、さきに挙げた目標まではどうにか書き続けて行こうとも考えている次第です。
さて、昨日も投稿しました【架空の話】はおかげさまで、比較的多くの方々に読んで頂き、またツイッターにおいては「いいね」を頂くことも出来ました。これを読んでくださった皆様どうもありがとうございます。
また、先刻、年末の挨拶にてお電話を差し上げた文系院時代の先輩から「鹿児島時代の話は面白いですよ。」と仰って頂きました。この先輩はお世辞を言われるタイプではありませんので、正直、嬉しかったと云えます・・(笑)。
そのため、今後、スランプの時期もあるとは思われますが、しばらく書き続けてみようと考えています。また、これに登場させて頂いているモデルの皆様、どうもありがとうございます。あまり美化して書くつもりはありませんが、先日お話しさせて頂いた師匠の見解と同様、あの時期は、自身にとっても(かなり)濃厚な経験の連続であったと云えますので、それを自分なりに上手く文章にて表現出来ればと考えており、そして、今後とも読んで頂ければと願っております。
社会思想社刊 森浩一企画・編集 田中幸人著「日本の遺跡発掘物語7 古墳時代Ⅲ(西日本)pp.256-238より抜粋
ISBN-10 : 4390602470竹原古墳は、北部九州の福岡県鞍手郡若宮町の諏訪神社の境内にある。この古墳には九州の装飾古墳の中で特異なことが二つある。その一つは、それら九州の装飾古墳群の中で位置的に北限にあるということである。近年、さらに北の宗像古墳群の中から桜京古墳(同県玄海町)がみつかったため、最北端ではなくなったが、桜京古墳が貧弱な同心円しか描かれていないのにくらべ、装飾の進展性や規模からいって、竹原は、王塚古墳とならび北部九州の代表的な装飾古墳であることは誰も異論がないであろう。
その二は、古墳の図柄が特異なことである。九州の装飾古墳の装飾文様は、北上するに従って幾何学文様から具象的図柄へと変化していくのが特徴である。南部の熊本県・緑川・白川・菊池川水系の古墳群が、同心円、三角文あるいは直弧文を主体とする幾何学文中心であるのにくらべ、北上するに従って、馬、鳥、船、波など具象的図柄が加わっていく。筑後川水系になると珍敷塚(福岡県吉井町)や鳥船塚(同)、五郎山古墳(筑紫野町)のように図柄は互いに組合され被葬者を黄泉国へといざなう世界観のようなものを現す物語的要素を帯び始める。そして、王塚や綾塚(京都郡)に至っていっそう複雑化し、そしてこの竹原へくると完全な具象絵画が完成するのである。もっとも、その展開は、畿内の高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村)が発見されるまでの流れではあるが、九州独自の装飾古墳文化の中では、この竹原古墳は具象的図柄の極点ということができる。
さて、竹原古墳は、この古墳を特徴づける図柄の意味と、奇妙な因縁のもとで発掘された。昭和31年のことである。
古墳のある諏訪神社は、毎年春になると村相撲が開かれる。この年、春祭りの土俵を補修しようと氏子たちが境内の南側の崖に鍬を入れようとしたところ、羨道入口付近の天井石にぶつかたのが発見の事始めだった。それまで諏訪神社が前方後円墳(前方の部分はほとんど短く円墳に近い変形)の上にあるとは村人はもちろん氏子たちの誰も気づいていたものはなかった。古墳に関する伝説も所伝も伝っていなかったのである。
開けてみっくり。そこには異様な”怪獣”が見事な筆致で三つも描かれていたからである。発掘がスタートした時、地元郷土史家の清賀義人(故人)をはじめ地元の福丸高校、中学の先生や生徒の手で遺物集収などが行われた。しかし調査するにつれ、それまでの日本の古墳発掘史上例のない壁画が出るに及んで、町教育委員会は県に連絡、あわてて森貞次郎氏(九州産業大学)が派遣され緊急調査が行われたのだった。
岩波書店刊 金関丈夫著「発掘から推理する」pp131-134より抜粋
ISBN-10 : 4006031300竹原古墳奥壁の壁画の主題について語る前に、いま一ついっておかねばならぬ重要なことがある。九州地方の、多くのいわゆる装飾古墳の壁画を見ると、竹原古墳以外のものは、その手法においては、もし信仰的な象徴性というものを考えなければ、例外なく、きわめて自由な、児童画に類するものであって、その手法の伝統を語るものは、縦にも横にも、何もない。いずれも絵画以前のものであり、芸術的価値を云々するべきものではない。全体としての画面構成に考慮を払われたあとはなく、描かれた個々の物象がそれぞれ自由に場所を占めている。表されているものは、全体としての一つの情景ではなく、単独の観念のよせ集めである。そこにはひまをかけた鄭重さが、幼稚さをカバーしているところはあっても、手練からくる奔放さというものはない。
これに対して、竹原古墳の壁画(図版参照)は、まずその全体の絵画的なまとまり、壁画に対する絵の占める面と、その位置のつり合いが、毫も間然するところがない。これだけを見てもこの画の作者の練達さがはっきりわかる。
両側に大きく描かれた一対の翳(さしば)が、全体を強く引き締めて、中に一つの絵画的空間をはさむ。さしばの大きさは装飾的な拡大ともみられるが、下方の立波と共に近景の位置を占め、動物、人物などが、やや遠景的に取り扱われているーとも見える、ということから、このさしばの大きさの不調和があまり苦にならない。中央の空間の下半は、描かれた個々の像の位置が、相互間の調和をとり、実に的確に、ぴったりと嵌め込まれている。これに対して上方の獣形象は、右方にかたよっているが、その空間的波調によって、かえって全体の平板に陥ることが救われている。ひとり絵画とはいわず、一般芸術を通じて、この種の波調は不可欠な要素である。それと同時に、怪獣の姿体の躍動が、これで一層強められる。跳り上がった前肢をおろす次の動きが、それをおろす空間を前にのこしておくことで、実に活き活きと感取される。心憎い手際といわねばならない。