2017年9月16日土曜日

20170915 『緊張感』・『勇気を奮う』創造的活動の背後にある精神を励起させるもの?

A「本日は帰宅が若干遅くなったことから、ブログ記事作成を断念しようと思いましたが、明日が休日であることからブログ記事作成の時間を割くことが出来ると考えたため、思い直し、さきほど(23:21)よりブログ記事の作成を行っております・・(苦笑)。

とはいうものの、本日に関しては、昨夜あまり睡眠をとっていないことからか記事の書き出し・主題等はなかなか思いつかず、パソコンの前にて無聊をかこっているというのが、より詳細な現状であるとも云えます・・(苦笑)。

また本日に関しては、日中書籍を読む時間がなかったことからか、そうした題材(読んだ書籍のこと)にて記事を書き進めようと考えてみても、そうした主題・発想とは容易に脳裏・感覚に現出してくれるわけでもなく、これに対しては『多少困惑している』と評しても良い状態と云えます・・(苦笑)(日頃のブログ記事作成における自転車操業的態度が露呈する)。

とはいえ、同時にこうした状態とは、これまでのブログ記事作成においても同様に存在したと思われることから、これに対しては危機感を持つべきものではなく、むしろ、そうした状態とは、ブログ記事作成をも含む創造的活動を行う上においては避けた方が良く、それよりも、さきに書いた『困惑している』状態を認めた上で、そうした状態について何かしら書き記していく方が、何といいますか、知らぬ間にその状態を脱していることが多いように思われるのです・・。

しかしまた同時に、さきの『困惑している』状態にて書き記した文章を(敢えて)ブログ記事などとして公表するかしないかとは、各個人の好みによるのでしょうが、自身としては、これまで概ね毎日記事を作成・更新しておりますので、その流れを変えずに継続するためにも、とりあえず書いたものは公表するのです・・(笑)(ここでも日頃のブログ記事作成における自転車操業的態度が露呈される)。

もとい、当初、こうした行為に対してはかなり抵抗感があり、勇気らしきものを奮って書き続け、公表していた時期がありました。

しかし、それもまた徐々に変化するようであり、今現在、緊張感を全く持たずに記事を書き、そして公表しているわけではありませんが、他方、当初に比べますと『勇気を奮って』という要素に関しては、かなり減衰しているようであり、どちらかといいますと日常的な作業、ルーチン・ワークに近いものになっているといえます・・。

そして、ここが少し面白いと思われるところなのですが、文章を書く際、あるいは公表する際の『勇気を奮って』であるとか『緊張感』といった、いわば『自身を精神的に締める』要素こそが、ブログ記事作成をも含む創造的活動の背後にある精神を活性化させる作用があるのではないかと思われるのです・・(無論、徹頭徹尾ではないと思われますが)。

また、このことはもう少し広く社会全般にて当て嵌めてみますと、なかなか面白いのではないかと思われるのですが、如何でしょうか?

とはいえ、今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」



2017年9月15日金曜日

20170914 先日の勉強会でのことと最近の読書での面白い記述について・・

二日ぶりの記事投稿であったためか、昨日投稿分記事は思いのほか多くの方々(41)に読んで頂くことが出来ました。

さて、先日出席させて頂いた勉強会での記憶に基づいて考えてみますと、やはり私の性質の基層部とは文系学問分野への親和性が強く、中でも歴史、そして地域学・民俗学といった分野に対しての興味が有意に強いのではないかと思われます・・。

そして、その淵源を考えてみますと、幼少期からの読書であったり、二十代の頃にいくつか異郷の地に住んだ経験であるものと考えます。

とはいえ、おそらく、もしも就職および転勤により(半ば)否応なく首都圏を離れるといったことがなければ、私は自身の希望によって首都圏から離れることはありませんでした。

しかしながら、現実の今の私とは、内心において必ずしも、この首都圏での生活を心地よく、快適に思っているわけでももないのです・・。

そして、そのことを先日出席させて頂いた勉強会後の懇親会において指摘を受けたことは自身にとって驚くべきことであり、それまで自身はどのような行動を(半ば)無意識ながらにとっていたのかとは、我がことながら、興味深く思われました・・(苦笑)。

とはいうものの、その一方において現在自身がここ首都圏にて動いているいくつかのことは、多少誇大妄想気味であるかもしれませんが、自身が動かなければ進展しないことであり、またおそらく、それはそれで多少なりとも意味のあることであると思われるのです・・。

それ故、もうしばらく経て事態が収束、落ち着きましたら、あらためてこのことを考えてみようと思います・・。

・・そういえば、先日来より読んでいる著作は上巻の三分の二程度まで至りました。

まだ先は長いですが、ここ最近は文体に慣れてきたのか、割合スムーズに読み進み、さらに面白いことに、つい先日読んでいた箇所とは、昨日・本日作成分ブログ記事の主題とも何やら関連すると思しき主題であり、先を読み進めることが楽しみです・・(笑)。

そして、その関連すると思われる箇所を以下に抜粋引用してみます。

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳
「サピエンス全史」上巻 pp.149-150より抜粋引用
ISBN-10: 430922671X
ISBN-13: 978-4309226712
『ロマン主義は、人間としての自分の潜在能力を最大限発揮するには、できるかぎり多くの異なる経験をしなくてはならない、と私たちに命じる。自らの束縛を解いて多種多様な感情を味わい、さまざまな人間関係を試し、慣れ親しんだものとは異なるものを食べ、違う様式の音楽を鑑賞できるようにならなくてはならないのだ。これらすべてを一挙に行うには、決まりきった日常生活から脱出して、お馴染みの状況を後にし、遠方の土地を旅するのが一番で、そうした土地では、他の人々の文化や匂い、味、規範を「経験」することができる。「新しい経験によって目を開かれ、人生が変わった」というロマン主義の神話を私たちは何度となく耳にする。
消費主義は、幸せになるためにはできるかぎり多くの製品やサービスを消費しなくてはならない、と私たちに命じる。何かが欠けている、あるいはしっくりかないと感じたら、おそらく私たちは製品(自動車、新しい服、自然食品)あるいはサービス(家事、対人関係療法、ヨガのクラス)を買ったり受けたりする必要がある。どのテレビのコマーシャルも、何らかの製品あるいはサービスを消費すれば人生が良くなるという、小さな神話なのだ。』

上に抜粋引用した文章だけを読んでみますとラッセル著「幸福論」内にもありそうな感じを受けますが、同時に自身としては興味深いことが書かれているのではないかと思われます。

興味を持たれた方は是非御一読をおススメします。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された地域におけるインフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念しています。」














2017年9月13日水曜日

20170913 二日ぶりのブログ・約半年ぶりの勉強会 口述と論述

A「関西方面にて勉強会が開催され、それに出席させて頂いたことから、二日間ほどブログ記事の作成・投稿を休止しました。

この休止の間、パソコンを開くことすらしませんでしたが昨日、一昨日の記事閲覧者数はそれぞれ100を越えておりました。この間読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。本日よりまた、記事作成を再開します。

さて、今回の関西・西日本訪問は、特に久しぶりということもなく、場所は異なりますが、概ね一か月ぶり程度のものでした。

それ以上に、かなり久しぶり(約半年ぶり)であったのは、冒頭に書いたように文系学問分野(主に思想・哲学関連)での勉強会に出席させて頂いたことです。

そして、ここで不思議に思うことは、普段はアタマの中のみで考え、あまり表出する機会がない考えであっても、勉強会といった発言の場を与えられることにより、どうにかそれを言明・言語化することが出来たという感覚です・・。

しかし、それをより客観的に考えてみますと、この時、自身が述べた意見とは、総じてたいしたもの・的確なものではないのかもしれませんが・・(苦笑)。

とはいえ、それでも大変面白いと思うことは、自身が意見を述べる際に挙げる具体例とは、意見を述べている最中に続々と脳裏に浮かんできたものであるということです。

そうした具体例とは、その多くが現在の自身が読んでいる、特に意識を向けている事物というわけでなく、いわば、対話の際の瞬時の想起とした生じたものであるといえます。

そして、こうした一連の勉強会での対話を通じ『ああ、自身の文系的な知識一般とは(どうにか)駆動するものであるのだな・・』と認識することが出来るのです・・(笑)。

しかし他面において、こうした自身の発言および知識の瞬時の駆動とは、この勉強会に参加されている方々が持つ、対話者の意見を引出そうとする虚心坦懐な姿勢に促されてのものでもあり、こうした姿勢とは、自身も見習いたいと考えています。

くわえて、自身があまり滞りなく意見を述べることが出来た他の要因とは、あるいは多少意外であるかもしれませんが、これまで継続的に作成しているこのブログではないかとも思われるのです・・。

約半年前、前回開催された同様の勉強会にて、自身は今回の発表ほどに的確に意見を述べることが出来なかったと記憶しています。

その意味から、その間にて『成長』したと感じられた要因とは、この約180日間に作成されたブログ記事にあったのではないかと思われたのです。

とはいえ
、そこには科学的な根拠はなく、あくまでも感覚的なハナシではありますが、勉強会にて、自身が口語にて意見を述べる際、その口述される言語が生み出される自身内部の部位・層?とは、当ブログ記事における文章を生み出すそれと全く同一ではないにしても、随分近い、あるいは重なっている部分があるのではないかと思われるのです
(このあたりはある程度科学的に解明することが出来るのではないかと思われますが、如何でしょうか・・?)。

もしかすると、
こうしたことは案外と重要なことであるのかもしれません・・。

そして、そうした理由から、少なくとも今しばらくはブログ記事の作成を継続しようと考えています・・。

ともあれ、
今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を受けた地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」

2017年9月11日月曜日

20170910 ある種の虚構を共有し信じることにより出来ること・・その逆とは・・

昨日分の投稿記事にて扱った著作に『我々人類が大勢で他者と協力し、共通の目的のために働くことが出来るようになった要因とは、言語を介して、ある種の虚構を互いに信じ、共有することが出来るようになったからである。』といった意味のことが書かれ、また、その具現化・対象化されたものが弥生時代の青銅製祭器・古墳時代の古墳などであると自説として書きましたが、こうした構造自体については、現代においても変化はしておらず、法人・株式会社などといった組織、さらにはそれらが扱う貨幣もまた、そうした構造に依拠していると同じ著作内にて述べられています・・。

こうしたことを日常生活にて考える機会とは多くはありませんので、時折はこうしたことに思いを巡らす機会を得るという意味においても、ある種の読書とは自身にとって、それなりに意味があるものと考えます。

また、同様にこうした記述を読んでおりますと、思い起こされるのは、近年多く亡くなられ、現在はほぼ見受けることの出来なくなった戦争経験を有する研究者・著述家が、それぞれの著作にて書いている大戦末期の戦線・規律が崩壊した戦地における状況です。

こうした状況とは、冒頭に書いた設定としての(信じ得る)虚構が全て剥ぎ取られ、むき出しの生への欲望のみによって支配された空間であり、また、そうした状況・空間の様子とは、戦地から生還された方々の多くが周囲に語ろうとしなかったのではないかと思われます。

何故ならば、こうした状況とは、さまざまな仕組み・虚構を当然のこととして現代社会に生きている我々からすると、きわめて野蛮・残酷なものであり、口外することを躊躇される内容を含むものであったからであると考えます・・。

それ故にか、我が国のみの傾向であるのかどうか分かりませんが、こうした状況の詳細とは、多くの場合文章によって著されていることが多いように思われます。

また、こうした心に刻まれるような、ある種の痛ましい状況の記憶とは、画像・映像化されることにより、多くの人々に認知されることは多くなるのでしょうが、その反面、ある種の陳腐化・紋切り型的な認識に堕してしまうといった傾向があるようにも思われます。

それ故、こうした記憶が辿ってしまうことを避けるべきであるのが、こうした、いわば『安易な認識』ではないかと思われるのです・・。

『安易な認識』とは、痛ましい記憶がもたらす衝撃を幾分かは和らげはするのでしょうが、それと同時に『何故、当時、我々の先祖たちは、こうした状況に入って行かなければならなかったか』を(真剣に)考えなくなってしまうのではないかと思うのです。

ともあれ、その根源的な原因については未だよく分かりませんが、我々日本人が持つ文化には普遍的に、こうしたある種の抽象化の傾向があり、それはおそらくなくなるものではなく、間断なく常に、我々自身の持つ記憶を最適なものに変換しようと願いながらも、それらの実施の段において意味・意図が不明瞭なものとなり、それを以ってはじめて社会が受け入れ・悦ぶといったような、どうもよく分からないところがあるのではないかと思うのです・・(苦笑)。

そして、それは冒頭に書いた信じ得る・共有し得る虚構に対する国内さまざまな社会・集団による認識のズレを示しているのではないかと考えますが、これもまた、かなり奥が深い問題であるように思われます(マンガ文化とは、こうしたことをあまり感じさせないが故に人気があるのかもしれません・・)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域におけるインフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念しています。」






2017年9月10日日曜日

20170909 おそらくあまり簡単なことではないと思うのですが・・(歴史を立体的なものとして見る)

A「先日来より読み進めている著作はその後、新たに頁が進み、自身としては面白い内容のくだりとなってきました。

この著作によると、我々人類が大勢で他者と協力し、共通の目的のために働くことが出来るようになった要因とは、言語を介して、ある種の虚構を互いに信じ、共有することが出来るようになったからであると述べられています。

また、その虚構とは単なるモノガタリのようなものであってもダメであり、ある社会集団の中で共有され、信じることが出来るような内容を持っていないと、その効果は発揮されないということです(これを異なった視野から述べると、一時は社会において信じられていた虚構・モノガタリが、何らかの原因によって信じられなくなり、共有されなくなると、その社会とは崩壊に向かうということかもしれない)・・。

歴史を述べる際のこうしたくだりとは、自身にとって興味深いものであり、かつて自身が研究のテーマとした『地域における雨乞い祭祀』においては、その各々祭祀の背景に何らかのこうしたモノガタリが存在し、(地域にて)共有されていた(る)と云い得ます。

もちろん、各々モノガタリが共有され得る地域規模、ひいてはそれらモノガタリを背景として為される祭祀はさまざまですが、こうしたモノガタリを文献書籍・現地でのヒアリングを通じ調べていきますと、今度はさまざまな昔話・説話といったものに至り『日本霊異記』・『今昔物語』などを読むことになります・・。

なかでも『日本霊異記』に収録されている説話とは、古いもので古墳時代(5世紀頃)とされておりますので、地域におけるモノガタリの基層・起源を考える上において参考になり、そして示唆に富む著作であると云えます。

また、こうしたことを書いておりますと、自然と考えさせられるのは、古代における祭政一致の起源もまた、冒頭に書いた『言語を介して、ある種の虚構(モノガタリ)を互いに信じることが出来るようになったから』ではないだろうかということです。

そしておそらくそうした虚構(モノガタリ)が具現化・象徴化されたものが、弥生時代の銅矛・銅剣・銅戈・銅鐸などの青銅製祭器であり、また古墳時代のさまざまな古墳であるともいえます・・。

現在の視座から眺めてみますと、これらのものが、ある社会集団において極めて重要なものであったことは(その費やされたであろう労力を考えると)理解出来るのですが、しかし、それが当然とされていた具体的な社会の有り様、雰囲気を想像、具現化することが困難であると思われるのです。
(我々日本人とは、良くも悪くも、この部分をかなり安易に考えている、あるいはこうした可視化が困難な『時代精神』といったものを対自的存在と為し得ない何らかの傾向があるように思われます。)

丁度、ミサイル発射にて国内が沸き返っている某国の内情およびその系譜を実感として理解出来ないように・・。

しかし、どのような規模においても『歴史を知る』こととは、遺跡・出土物の観察、文献書籍の読解などを通して(客観的な)知見を蓄える『のみ』では、おそらく到底達し難く、如何なるものであれ、対象との同一化が為されることによって、はじめて到達することが出来るのではないかと思われますのです・・。

そして、そのような複眼的な視野の獲得・確立(知見の蓄積による客観的な視野・同一化によって得られる意識的ともいえる即自的な視野)によって『その歴史を立体的なもの』として見る・扱うことが出来るようになるのではないかと思うのですが、それは果たして無駄なことなのでしょうか・・?

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」







2017年9月9日土曜日

20170908 書籍を読み進めていくと、また事態は変わってくるのかもしれない・・?

A「本日も若干帰宅が遅くなり23:00を過ぎてからのブログ記事作成となります。

さて、昨日分の投稿記事にも出た現在読み進めている著作も上巻の半分以上に至りました。そこで述べられている内容とはこれまでと同様に歴史の流れ、あるいはその分析・抽象化であったりします。

そして、本日読み進めていた部分から思い起こされた既読の著作とは、和辻哲郎著「風土 人間学的考察」フリードリッヒ・エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」あるいは梅棹忠夫著「文明の生態史観」などです。

ここで面白いと思われることは、これらの著作とは、たしかに現在読み進めている著作内容・主題と通底するものがありながら、ここに至るまで思い出すことがなかったということです(最前に読了した著作ともまた相通じるものがあるのですが)・・。

あるいは、ここにおいて(何故か)それらの著作が脳裏に浮かびあがってきたとも云えます。

何れにせよ、それは著作内にて述べられている内容・主題の流れに対する(自身の精神からの)反応というよりも、感覚的ではありますが、それは(読者たる)自身がこの著作に没入・コミットしていく度合いにより現出し、より多様性・深みのある想起が可能になったからではないかと考えます・・。

そして、それがある程度妥当な考えであるとすれば、昨今のブログ記事において述べてきた『読書という受動的な活動を行っている際は、文章の作成といった能動的活動は鈍化する』という考えは、その活動初期における観察においては妥当なものであるのかもしれませんが、ある程度継続することにより、徐々にその内容・文体に慣れ、そして読んでいる自身の方からもスムーズな反応が為されるようになり、そして想念・思考といったものが展開していくのではないかと思われるのです・・。

また、それとは別次元でのハナシであるのかもしれませんが、これもまた現在作成しているブログ記事に関連すると思われることであるため以下に記します。

昨日の朝、目が覚めた直後どうしたわけか、これまでに読んだいくつかの書籍の内容が脳裏に流れていったのですが、通常ある程度文量のある一冊の書籍の内容とは、言語にてその内容を表現しますと、少なくとも数分はかかるものでありながら、起きがけの半分寝ぼけている状態の自身では、それは何といいますか、言語でない言語によって脳裏に想起し流れ、実際の時間としてはおそらく十秒程度であったのではないかと思われます・・。

そして、そのあとに続けて「まだまだ書くことが出来る内容はたくさんあるはずだ・・」といった割合強めのコトバが自身の心中にて響きました・・。

そして、それにより少し目が覚めた私は、さきに脳裏に想起され流れた書籍内容の記憶と、あとに聞こえたコトバの関連について思いを巡らし、その結論として「コトバのとおり、まだまだ書く内容はたくさんあるはずであり、それは文体の獲得にとらわれるよりも、そうした(書くことが出来る)内容を精確に伝えていこうとする努力の方が結果的には面白い文章を作成することが出来、そして副次的に文体の獲得といったものがあるのではないか・・」と思うに至ったわけです・・。

そして、こうしたものを内的経験というのでしょうが、こうした経験とは、おそらく年齢の上昇に伴いあまり経験することが出来なくなっていくものであり、また、以前投稿のブログ記事にて書いたユング心理学での「コンステレーション」とは、こうしたものではないかとも久々に思い出しました・・。

こうしたことはこれまで文章を継続的に作成してきた余禄といったものであるのでしょうか・・(笑)?

そういえば、昨日分の記事投稿によって総投稿記事数が740に到達しました・・。

そして今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域における諸インフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」











2017年9月8日金曜日

20170907 ブログ記事を書き続けることにより分かってくること・・外界(自然風土)からの影響:文体の獲得

本日は帰宅時間が若干遅くなってしまい、つい先ほどブログのチェックを行いました。

昨日投稿分のグダグダとした内容の無い投稿記事であってもそれなり(25)に読んで頂いており多少驚かされました。

これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、先日来から新たに読み進めている通史的な著作は、さきに読了した類似系統の著作に比べ、何と云いますか全体的にさらに抽象性が高いと思われることから、まさしく考えつつ読み進めており、また、それはそれで(大変)面白いのですが、他面、やはり小説などと比べてみますと、その読み進めるスピードは顕著に遅くなるようです・・(苦笑)。

もとい、このような遅々とした読書を行っておりますと、時折、自身の根本的な読解能力が劣化したのではないかいう危惧・不安もまた生じ、そこから他の既読の著作をあらためて手に取り読んでみますと、そこでどうにか自身の読解能力は特に低下していないことが認識され、再度、安堵した心持ちにてこの遅々とした読書に戻ることが出来るわけです・・(苦笑)。

あまり自慢できることでもありませんが、これまでに私は(ある程度)さまざなな種類の書籍を読んできたのではないかと考えますが、この読む書籍の分野・種類(の好み)にはかなりの濃淡・偏差があり、たとえば詩集などに関しては、これまでに何度か挑戦したものの、積極的に面白いと感じたことはありませんでした・・。

ただ、漢詩に関しては九州在住の末期に面白そうだと感じるようになりましたが結局それは現在に至るまで芽吹き安定するということはありませんでした・・。

それでも
当時、漢詩を面白そうであると感じることが出来るようになった原因とは、現在になり考えてみますと、一連の当ブログ記事においては(相変わらずの)陳腐な考えではありますが、それは在住地域の自然風土に大きく因るのではないかと考えます・・。

そしてまた、こうしたことは実際に体験・経験をしてみないと実感として分からないのではないかと思うのです・・。

また同時に、ある程度の長さの文章を【継続的に】作成する際に発動する脳・精神の部位とは、同時におそらく外界(自然風土)からの影響をより大きく受ける部位でもあり、また、その視座にて考えてみますと、現在このように(概ね)継続的に作成しているブログ記事とは、さきに書いた外界(自然風土)から生じる文章への影響を出来るだけ最小化しようとする試みであり、さらにそれを換言しますと、如何なる環境においても出来るだけ安定して恒常的に文章作成を行うことが出来るようにする(文体の獲得)鍛錬でもあるとも云い得るのです(笑)。

しかし、これ(ブログ記事作成)を継続することによって単純に恒常的な文章作成を行うことが出来るようになるというわけでもないことがここ最近ボンヤリと分かってきたようにも思われます・・。

しかしながら
、それでも書き続けることが重要であろうことには変わりはないのですが・・(苦笑)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被害を被った地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。