2017年7月29日土曜日

20170728 読んだ著作から想起されること【書籍からの抜粋引用あり『貴族の階段』より】

昨日700記事に到達はしましたが、習慣とはなかなか怖いもので、本日もまた習慣のように記事作成を開始しております・・(笑)。

さて、小説などを読んでいますと、時折大分古い記憶が甦ってくることがあります。

直近のそうした出来事とは、ブログ記事にも書いた、つい先日読了に至った武田泰淳著『貴族の階段』内に以下のような描写があったことに起因します。
【pp.216-217より抜粋引用】

『雪の多い、寒い冬がやって来た。
大みそかにも、朝から雪がちらついた。
中庭の浅い池には厚い氷がはって、盛り上がっていた。白い亀裂を走らせた氷板の下で、鯉たちは苦しげに見えた。
魚の空気孔をつくるため、氷塊をとりのけても、そのあとにすぐ薄氷がはりつめた。
家の者は、煤はらいで忙しい、朱塗り、黒塗りの椀を重ねて、蔵からはこび出す。
金蒔絵の漆器は、雪空のうす明かりの下では、とくに美しい。
「義人さまは、今日、おかえりになりますでしょうか」
冷えきった長廊下で、すれちがいざまに、松がそうたずねた。
「さあ、どうでしょう」
西の丸の家では、毎年大みそかには「若殿様の胴あげ」のしきたりがあった。公家華族の遺風ではなくて、母が九州小藩から持ちこんだならわしである。
大広間でもみにもんだあげく、長い廊下を歓声でどよもして、男一匹かつぎ歩く。下ばたらきから奥女中まで、一年に一回、うちの女衆が勢いをつける日であった。鉢まきも勇ましい、大山のおかみさんが、蕃声をはりあげる。木刀で、気合をかける。たすきがけの松たちが、腕まくりして力足をふむ。眦をつりあげ、咬みつきそうな口つきで、武骨になるほどよろしいとされる。

集団になると、いつもは屈従している女たちの殺気も、そうとうなもので、すさまじい楽しみになる。

兄が帰宅してくれないと、せっかくの楽しみを、すっぽかされることになるのだ。「狼藉者ですぞ、おであい下さい」
昔ながらの行灯やぼんぼり、高張提灯に火をともす。天井も柱も、壁も板の間も、異様な照明でゆらめいて、人の影は乱入した敵の黒装束のように、思いもかけぬ大きさにひろがる。定めの刻限に兄が姿を見せると、待ちかまえていた女たちは、生きかえったようによろこぶ。』

この記述を読み思い起こされたのは、大分前(20年以上)に読んだ司馬遼太郎著の江藤新平を主人公とした『歳月』という小説であり、おそらく、この著作のなかに、当時の肥前・鍋島藩での風習、ならわしを描いた箇所があり、それがさきの『貴族の階段』からの抜粋引用部と酷似していると思われるのです。

残念ながらこの著作『歳月』は現在手元になく、また本日は書店にて確かめる時間もありませんでしたので、今のところ(確たる)証拠はありませんが、それでも、まあ『当たらずとも遠からじ』ではなかろうかと思われます・・(笑)。

また、そうしますと、さきの抜粋引用部内の『九州小藩』とは、肥前・鍋島あるいは肥前周辺の何処かの藩での風習、ならわしを念頭に置き書かれているのではないかと考えられるのです。

そして、さらにまた、このことを考えてみますと、こうした風習、ならわしのさらに基層にある生活文化とは、あるいは肥前を含む九州北西部のみならず、南九州および南西諸島においても存在し、その一つの顕現の仕方が以前ブログ記事にて抜粋引用した往時の戦の先頭に立つ巫女ではなかろうか?とも考えさせられます・・。

加えて『肥前国風土記』内の値嘉島の記述にて、その住人(白水郎)【漁労民の一つ】容姿が南九州の隼人に似ていることが報告されておりますので、このことも何らかの関連性を示しているのではないかとも思われます・・。

最後にこ、うした生活文化、風習、しきたりもしくはその痕跡らしきものは、東日本、首都圏では見受けることが出来ず、また現在の表層的には類似したように見える現象からはどうもエピゴーネンといったコトバを否応なく想起させられます・・(苦笑)。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被害を被った地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。

















2017年7月28日金曜日

20170727 自覚がないまま辿り着いた700記事 土器・青銅・鉄器を結ぶもの『炎』

一般的な世界史の区分において石器時代(打製・磨製)・青銅器時代に次いで鉄器時代となるわけですが、当初人類が用いたとされる金属である青銅の使用とは、紀元前3500年頃メソポタミア(両河地方)にはじまり、その後紀元前1500年頃にヒッタイト(現在のトルコあたり)にて鉄器の使用が普及し、それが経時的に世界各地に分散・伝播していきました。

さて、我が国とは、そうした伝播経路の辺縁に位置していたことから、双方金属の伝播・普及とは、発祥の地に比べるとかなり遅く、おそらく紀元前後あたりに双方同時に朝鮮半島を経由して齎されたとされています(さまざまな意見がありますが)。

また、伝来当初より我が国における双方金属の使用法とは、その用途によって異なり、祭祀などに用いる祭器(銅鐸・銅矛・銅戈・銅剣・銅鏡)である場合、青銅が多く用いられ、武器・農具などの実用的な道具に関しては鉄が多く用いられました。

とはいえ、当時の金属、特に鉄とは、かなり貴重なものであり、当初それらは魏志倭人伝にも記されている通り朝鮮半島南部にて求められ、国内において各種道具に加工されていました。

それ故、初期の古墳(4世紀頃)においては、材料としての段階である鉄板状(鉄鋌)のものが、被葬者の権威、財を示す副葬品として北部九州~畿内の古墳においてに多く出土しています。

その後、6世紀頃になると、国内においても製鉄技術が半島経由にて渡来・確立され、その道具としての使用は以前に比べ、さらに一般的なものとなっていきました。

この鉄を農具として使用することにより、これまでよりも深く、広く土を耕すことが可能となり、また武器として用いた場合、よりその殺傷能力は向上し、それを装備したクニは更なる版図の拡大を為し得たものと考えられます。

以上のことから、初期の畿内ヤマト王権が日本各地(主に西日本)における支配権の確立を企てた一つの大きな目的とは、半島から齎される材料としての鉄ルートの確保であったとも考えられています。

そのため一昨日投稿分の記事にて書いた『畿内ヤマト王権の大動脈としての瀬戸内海』とは、ある程度妥当なものと評することが出来るのです・・。

とはいえ、この時期に各地域が培った製鉄・鉄加工技術とは、その後の時代に継承され、古来より刀剣等の鉄器にて名高い西日本地域の多くとは、おそらく、その歴史的背景にこうした事情が存在しているのではないかと考えられます。

さらに、各種鉄器の加工においては高温の炎・火力が必要であり、我が国の場合、多くの場合、それは木炭を用いていた。

そうした場合、温暖湿潤にて木炭作成のための森林伐採後の再生力が高い自然環境を具備した地域の方が好適地であると云え、おそらく出雲・吉備(島根・岡山)などは、それら条件を備えた地域であったと云い得ます。

さらに、この高温の炎・火力を得る技術とは、各種金属以前の原初的なセラミックスである土器(アース・セラミックス)の作成においても、極めて重要なものであり、あるいはこうした土器の時代より続く、技術の蓄積があったからこそ、後の青銅そして製鉄・鉄器加工の段階においても、それら技術体系の受容および更なる進化発展を成し遂げることが出来たのではないかと思われます・・。

・・さて、ここまで書いており、今回の記事投稿によって総投稿記事数が700に到達することを思い出しました・・。

あまり実感のようなものはありませんが、今後ももうしばらく記事作成を継続しようと思います。

今回も、そしてこれまで読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

そして昨年より現在までに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被害を被った地域の生活諸インフラの復旧およびその後の早期の復興を祈念しています。』






2017年7月26日水曜日

20170726 戦車を題材にした映画が少ない理由・少女が戦うアニメが制作される理由について・・。

A「先日、以前(ほぼ2年前)に作成、投稿し『20150727 戦車について・・』を記事内容にて取り上げた米国映画『Fury』の動画と共に再投稿してみたところ、かなり閲覧者数が伸びました・・。

また、この映画とは、たしかに、私がこれまでに観た映画にて最も戦車の戦いを忠実に再現しているのではないかと思われました。

そして、この映画を観ることにより、はじめて司馬遼太郎が御自身の経験に基づいて、さまざまな著作に書いた戦車で戦うことのおぞましさ、またそれを想像することによって生じてしまう憂鬱さといったものを、ほんの少しは分かるようにも思えました・・。

とはいえ、そうした事情によるものか、我が国の太平洋戦争を題材とした数々の映画の中において、戦車を題材とした映画とは、かなり少ないのではないかと思われます・・。

その理由について考えてみますと、太平洋戦争での主たる戦場とは、戦車同士が叩き合うのに適した見通しのきく平原は少なく、また、当時の我が国における戦車の位置づけとは、発祥の地、欧州での開発当初の目的であった前進する歩兵の援護を主としたままであり、さらには軍艦、飛行機を題材とした映画のように模型を以って撮影部分をあてることが困難であったことから、華々しい戦場での活躍あるいはそこから派生する悲劇を描写するには『地味』過ぎる且つ予算が掛かりすぎる題材であったのではないかと思われます。

以上のような理由から、少なくとも我々日本人は、第二次世界大戦・太平洋戦争における戦車による戦いとは、書籍・文献を通してのみで知る他はなく、そのことから、当時の戦車同士の叩き合い、戦車を用いた戦闘をあまりリアルに想像することが出来なかったのではないかと考えられます。


その意味において冒頭に書いた映画『Fury』とは、かなりその実情・実相を伝えていると思われることから、あらためて太平洋戦争時に戦車隊に属していた司馬遼太郎が戦車を題材として書いた内容の意味を(ある程度深く)理解することが出来るのではないかと思われるのです・・。

とはいえ、その一方で、昨今戦車での戦いを題材としたアニメが広く認知されているようですが、そのアニメでの戦車の戦いと、さきの『Fury』を観比べてみますと、そこからもまた日米双方の文化の違いらしきものを感じ取ることが出来るのではないかと思われます。

しかしながら、毎度不思議に思うことは、何故昨今の我が国の多くのアニメ・マンガとは、少女を主人公として武器を持って戦うといった設定を好むのでしょうか・・?

いや、それはアニメ・マンガに限らずドラマ・映画においても同様であるのかもしれません・・。

おそらく、そうした傾向とは、戦前においては現在ほど顕著ではなかったと漠然と思うのですが、それが戦後の如何なる時代精神と感応し、こうした傾向が生まれたのかとは、今後もう少し機を見て考え続けていこうと思います・・。

あるいは、仮説として、こうした傾向とは、男性側が保持する文化・伝統が大戦争により敗れ、その敗れた文化・伝統が強い側・勝った側(欧米)に不断に靡こうとする女性側の文化・伝統を必死に押し留めるための努力であるのかもしれないとも考えられますが、さて如何でしょうか・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の回復・復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。』















20170725 其の2 この時期になると思い出すこと 大隅半島東側の古墳から・・

A「本日分の記事投稿はさきの書籍からの抜粋引用にて充てようと考えておりましたが、現在700記事到達目前という事情もあり、本日もまた何かしら自分で書いてみようと思い立ちつい先ほど新たに記事作成を始めた次第です・・(笑)。

さて、この夏は未だどこかへ遠出するということもなく、蒸し暑い都会の雑踏を性懲りもなく動き回っている次第ですが、こうした状態が常態となりますと、私の場合、南方的とも云える横溢な植生の自然環境への憧れが強くなり、また同時に、かつてのそうした記憶がほぼ自動的に想起され易くなるようです・・(笑)。

さて、何年か前の鹿児島在住時のこの時期、大隅半島東側に古墳が多いということを書籍にて知り、一人原付にてフェリーに乗り大隅半島に渡り、志布志・大崎・東串良・肝付周辺の古墳巡りをしたことがあります。

面白いことに鹿児島県では薩摩半島側には、あまり主だった古墳は見受けられず、それに対し大隅半島側では、国内でも名高い宮崎・日向の西都原古墳群あるいは畿内王権の大動脈とも云える瀬戸内海の延長線とも云える地域ということもあり、その東海岸沿いには大型の前方後円墳をも含む古墳群といったものが散見されるのです。

さて、実際にそうした古墳・古墳群に行ってみますと、それらは特に整備されているといった様子ではなく、概ねごく自然のままで、あるいは墳丘に社が設けられていることもあり、見方によれば、それらのうちのいくつかは、未だ地域にて祀られている存在であるとも見て取れました。

とはいえ、こうした古墳のあり方とは、ここのみにおいて特徴的であるというわけでもなく、少なくとも、これまでに私が見た和歌山、福岡など西日本の古墳においても類似・同様と評しても良いものが複数見受けることが出来ました。

そして、そうした中においても、これら大隅半島東海岸近くの古墳・古墳群を特徴付ける要素とは、大型の古墳が草生した丘状となり、また付近に多く点在するとされる南九州東側特有の墓制にて造営された地下式横穴墓とは、地上に古墳の存在を知らせる要素がほぼ皆無であることから、事前の情報あるいは現地での標識・案内板がなければ、そこが古墳・古墳群であることすら判別が困難であったということです。

当時の私は、こうした状況に対し、いささか不満をおぼえたのではありますが、現在、冒頭に書いたような状況にある私としては『あるいはこれもまたこれで良いのではないだろうか?』とも考えるようになりました・・。

それを言い換えますと『そこに古墳の存在を知らせる要素がなくとも、実際そこに古墳があるのであれば、何かしら考えることが出来るのではないだろうか?そして、そちらの方がより想像力を働かせることが出来、そこからまた更なる考えを生むことが出来るのではないだろうか?』といった感じになります。

そして、こうしたことから貴重な史跡・遺跡の取り扱いとは、遺跡・地域毎に無作為の無意識に基づくものではあれ、さまざまな方法・様式があっても良いのではないかと考えに至るのですが、さて如何でしょうか・・?


ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域の生活諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』


2017年7月25日火曜日

20170725 角川書店刊 会田雄次著 『日本人の忘れもの』1974 初版 pp.69-74より抜粋引用

角川書店刊 会田雄次著 『日本人の忘れもの』1974 初版
pp.69-74より抜粋引用
ASIN: B000J9OAC6
『もう一つ、古い日本のことを述べる。
たとえば、日本の失ったものという場合だが、最初は深刻な例と、それからあとはごく卑近な例をあげよう。私は今度の戦争に行ったとき、第一線の擲弾筒兵という一兵卒だったが、マラリアにかかって、ビルマのラングーンの病院へ後送された。百万坪もあるラングーン大学を接収して開設されたビルマの最根幹の大兵站病院である。そこへ連日前線からなだれを打ったように、インパール作戦その他での重傷病患者が送られてくる。無謀きわまる作戦強行で日本軍は崩壊状態に陥っていたのである。みんな幽鬼のような姿だ。
軍医さんも、看護婦さんも、衛生兵も、全然手がまわらない。そこで私たちのような軽患者ーといっても重症なのだがー使役にかり出された。私が当たったのは収容病棟の使役であった。前線からどんどんはいってくる傷病兵をいったんそこへ入れて、それから軍医さんが診断し、あるいは看護婦さんがより分けて傷病別並びに部隊別に本来の病室へ入れる。
そういう臨時の収容所である。そこの食事を運んだり、大小便の始末をしてやったり、包帯を取りかえてやったり、どんどん死んでいくものだから、死んでいく人のお墓ー穴を掘ったり、そういうことをするわけである。大学の大講堂が収容病棟に当てられていたが、そこには大理石とチーク材の床があった。天井にはシャンデリアがある。それはつかないで細々とした防空用の電灯がついている。屋根があり窓があり、床があり、三人ほど一緒に寝かせたが、とにかくベッドがある。そこへはいってきた兵隊はー私もそうだったがそんなところ、何年も見たことがないわけである。床がある、ベッドがある、屋根がある、壁がある、おまけに電灯までついているというようなところにはいった兵隊は、安心のあまり全部腰を抜かしてしまう。しかも、そこに日赤の看護婦さんがいたのだ。彼女らが、そのときは神さまみたいに見えた。婦長さんは四十五・六の人だったが、これはみごとな婦長さんだった。日常では、もう声が出なくなっている。私らに命令するときは、かすれはて判別できないような声しか出ないのだが、患者を迎え慰めるときは声が出るのである。はいってくる兵隊は、ちょうど私たちがいたときは、インパールで負けた関東の弓部隊など現役兵の兵団の兵たちが、顔じゅうぐしゃぐしゃになったといった重傷で入って来る。水虫患者というのが入院してきたので水虫で重症患者とは一体どんなのかと思ったら、直径一〇センチもある穴が二十幾つあいていて、そこへうじ虫がいっぱいたまっているという、そんなのがはいってくる。彼らは気もすさびはてているが、そういう患者の一人一人に「兵隊さん、ご苦労さんでした。もうここまで来たんだから、安心してゆっくり養生して早くよくなってちょうだいね。すぐよくなりますよ。皆元気を出して」ということを言って回られた。そんな天国で、現役兵の年齢からすればちょうど母のような女性からそういう声をかけられるものだから、みんな、涙をぼろぼろこぼす。兵隊は皆子供のように声をあげて泣いた。安堵のあまりその翌日死んでしまう兵士も多い。お母さんのもとへ帰ってやれやれ安心というようなその童心に帰った死顔の目を閉じてやりながら私は無性に悲しかった。その婦長さんは、私らが退院してしばらくたって原隊へもどって来た「追及者」から聞いた話によると、そうやって声をかけているうちにふっと声がとぎれて、へなへなとすわられたと思ったら、それでもう最後だったそうだ。まさに立往生である。平均二時間ぐらいしか寝られないで、一五〇日ぐらい頑張ったとか。そんなことをしておられたから、精も根も尽き果てたのだろうと思う。この婦長さんに接したとき、どんなに荒れすさんだ重症の兵隊も、涙を流した。担架に天幕やドンゴロスをかけたりして運んでいる重症患者でも、もぞもぞとその天幕の下が動く。全員、手がしぜんに前に行き、合わさっているのである。「婦長さんに後光がさして見えた」とあとで皆そう言った。日本の昔の女性というのは、家庭だったら、ともかく全身全霊をあげて、よいにしろ悪いにしろ、封建的道徳であるにしろ、夫のため、子のために生きたのである。母というものはそういうものかもしれぬ。フランスでも昔ではそうだったのであろう。フランスのある若死にした詩人が「お母さん」という題で「私のお母さん、私の幼いときに死んでしまったけれども、そのお母さんのまぼろしが私の前に浮かぶ。
それは全部白いかっぽう着をつけて木履をはいて、働いている姿だ。料理を作っている、ミシンを踏んでいる、掃除をしている、そういうお母さんだけれども、それは皆私たちにおいしい食事を、私たちに暖かい着物を、私たちに清潔な部屋をと働いている。自分のもの縫っていたことない。
寝てるお母さん見たことない。
まぼろしのその白いエプロンのお母さん。
その姿は円光につつまれている」と、こういう詩を書いていたのを私は記憶にある。
かつてそういうものだったのだろう。
兵隊たちが見たのもそういうものだった。
私も入院時この婦長さんの姿にはっきり認めた。
何か光につつまれている感じで、四十二度という熱にうなされながら手を合わせ涙がとどまらなかったのである。
私たちの中隊はあとから補充を合わせ三百数十人いた。
その中で生還できたのはニ十数人でしかなかった、ほとんどが栄養失調による病飢死である。
死期が近づくと皆手を合わせて、何かつぶやいている。
「またなんだかぶつぶつ言ってるぜ、もう駄目なんだ」。
私たちはそう言い合ったものだ。多くの兵士は農家出身だ。
満州事変以来何度も応召してきている。
昔の農家だとか小さな商店など、男手がなくなったらどんなみじめなものか、いやというほど思い知らされた。
勝っているときでもそうなのだ。しかも今度は負けらしい。
おれはもう死にそうだ。あとに残った子供はどうしていくだろうかという想いにとらわれたとき、兵隊は家族と一緒に写した写真を出して、「お母さん、頼みます」「女房、頼む、子供だけは頼む」と願うのだ。
はじめ、何をしているんだろうと何気なしに問い合わせた私に「貴様のような坊ちゃん学生兵隊におれたちの気持ちがわかるか」と激しい語調で友人が教えてくれたことである。
そのとき皆の両手は思わず前に合わされている。頼むと拝んでいるのだ。私たち兵隊は不信心な、いわゆる「悪いやつ」ばかりだったかも知れぬ。夫として平生の生活には母や妻にむくいることきわめて少なかったに違いない。
そういう夫たちの心の奥にやはり拝む心があった。
母の姿、妻の姿に後光がさして見えたのである。それは献身への全くしぜんな感応というべきものでなくてなんであろう。今の日本の妻も、日本の母親も、完全に後光を失っている。現在の夫の、子供の誰が妻に対して、母親に対して手を合わせるのだろうか。母は子供にとってもよき遊び相手だろう。姉さんにはなれるかもしれない。妻は夫の遊び相手、ときには相談相手になれるだろう。しかし、絶対に夫の手がしぜんに合わさるような存在ではない。今の日本はアメリカナイズされたのでろうが、今の三十代のお母さんが手にとって、子供から「お母さん」と言って、しぜんに手を合わせられるということはないだろう。封建制度の否定のもとに、日本の女性は、男の心の中、夫の心の中、子供の心の中にある後光を、もう永遠に失った。これがあるかぎり人間は、最後の破滅の前にそこへすがりつけるのである。
ゲーテのいう「永遠の女性的なるもの」もそれである。しかし、アメリカにはそれがない。「ええい、LSDを飲もうか」ということになったり、妻の殺し方というのがあって、女房に毎日ガラスの粉をちょっとずつやったら、十五年たったら死ぬというような、そんな本が出るわけである。
私たち兵隊は、冗談まじりにではあるが、万一帰還できたら、もうどんなことがあっても女房には炊事、洗たく、掃除、一切させない。
床の間に上げて、毎日拝んで暮らす、おふくろともなればもちろんのことさ、などというようなことを言っていた。
もちろん実際上そんなことは続かなかったけれど、しかし冗談にしろ床の間に上げて拝んで暮らすのだとは、当時の女性にはその円光があったために出た言葉であろう。
いまやそれを失った戦後の女性は権利としてのいろいろなものを得たが、放棄したこの後光を考えるとき、ほんとうにそれが幸福といえようか。』

2017年7月24日月曜日

20170724 駅で見かけたポスターから思ったこと【コスプレ・カラオケ】創造とは?

首都圏にて電車の乗り降りをしておりますと、アニメのポスターがやけに多いことに気が付かされます・・。

私はアニメを鑑賞する習慣がなく、またそれらに登場するキャラクターがやけにデフォルメされていることから、それらを何らかの人格的な記号としては認識出来ますが、同時にそれらを観て魅力的であると感じることはありません・・。

もとより、元来マンガ・戯画などに登場するキャラクターとは、そういったものであったのではないかと思われます。
(それが変ってきたのは江戸時代の浮世絵あたりからでしょうか?)

しかしながら、それが、さまざまな意味での興奮を惹起させるものになり得る、そして逆に、あるいはそこからさらに進んで、生身の人間の方がアニメのキャラクターに似せよう、近づこうとする(コスプレ)ことは一体どういった心的傾向に基づくものであるのかと、不思議に思うことがあります・・。

アニメに登場するキャラクターのコスプレとは、ある特定の対象に『近づきたい』、『なりきりたい』といった願望に基づいているのでしょうが、おそらくそれ(コスプレ)は、『予め理想像が提示されている』という意味において、一般的なお洒落、衣装道楽とは『外見、見栄えに凝る』といった意味では類似していると思われるものの、本質的には異なるものであるといえます。【視覚的な即物性の背後にある思想が異なる】

ではコスプレと類似したものを求めるとすれば、それは『予め理想像が提示されている』という意味においてカラオケが挙げられるのではないかと思われます。

そして御周知のことではあると思われますが、これら(コスプレ・カラオケ)とは、我が国が発祥とされており、また現在となっては我が国が世界に誇る文化であるとされております。

私はこの意見(世界に誇る文化)に対し特に批判的な意見があるわけではありませんが、ただ、それらが『予め理想像が提示されている』という意味において、何と言いますか、我が国の特徴とされる『凝集性もしくは求心性』といったことに思い至るのです。

とはいえ、無論のこと、そうであるからといって『その文化には創造性が乏しい』といった意見に単純に結節するわけでもありませんが・・。

とはいうものの、このことをもう少し考えてみますと、その『凝集性および求心性』とは(あくまでも)原理的な創造とは異なるものであり、またそこから、時折耳にする我が国の別の傾向としての『原理から離れた部分におけるさまざまな操作が巧みである』あるいは『閉じた一つの系における数学が得意である』などに対しても親和性を見出すことが出来るのではないかとも考えられます・・。
(人に対する難癖の付け方もまた、そうした傾向があるのかもしれません・・(苦笑)。)

また、もしも、それら挙げられた傾向の基層、根源において何かしら共通するものが(実際に)あるとすれば、それは古来より現代に至るまで外来文化の受容に迫られた・明け暮れた我が国特有の歴史によって培われた性質ではないかとも思われます。

そして、それがある程度妥当なものであるとすれば、おそらく『面従腹背』といったコトバにも、あるいは積極的・肯定的な意味合いを持たせることが出来るのかもしれません・・。

もちろん、あくまでもそれは自由闊達な精神の顕現ではないのでしょうが・・(苦笑)。

しかしまた、文化とは、どの国においても、概ねそういった事情を背負って成立しているものであるとは云えるのですが・・。

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被災された地域の生活諸インフラの出来るだけ早期の回復・復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』




















20170723 目標設定の仕方と教育について・・ブログ記事の作成から

A「昨日投稿分の記事もまた投稿翌日の割には多くの方々(32)に読んで頂けました。

読んで頂いたみなさま、どうもありがとうございます。

加えて、週末ということもあってか、昨日全体の閲覧者数もまた比較的多かったです(500以上)。

昨今における一日のブログ記事閲覧者数は200~400程度であり、以前に比べ、その数は大分少なくはなりましたが、自身の場合、あまり多くの方々に読まれていると、変に身構え、そして萎縮してしまうところがあると思われますので、この位の方々に読んで頂けるのが最適ではないかと考えます。

その一方で、これまでの通算では240000人近い方々がこのブログを閲覧されているということになり、これはなかなか(自身としては)驚くべき数値あるいは出来事であり、また、それらがどのように読まれているのかは分かりかねますが、ともかく、こうした状況の認識により、そう簡単には記事作成を止めることが困難にもなるのです・・(苦笑)。

それと多少関連することですが、今回の記事の作成・投稿によって総投稿記事数が695となり、次の区切りの良い目標である700記事まで残すところ5記事の投稿となります。

この先、特に問題なく700記事に到達することが出来ましたら数日間記事作成を休もうと考えています。

さて、無事に700記事まで到達した場合、目標とする1000記事までの道程の七割まで達したことになりますが、果たして、その先の300記事もまた、これまでと同様の投稿ペースにて書き続けることが出来るのでしょうか・・(笑)?

これに関しては、おそらくこの先800記事程度までは難なく到達することが可能であろうと漠然とながら思うところです。

しかし、その先のことになりますと正直なところ、あまり想像することは出来ません・・(苦笑)。

とはいえ、
以前の私もまた、こうした思いにて、これまでの記事作成を継続してきたと云えますので、おそらく800記事に到達することが出来れば、自ずとその次の想像可能な領域が見えてくるのではないかと幾分楽観視しております・・(笑)。

また、こうしたものは、さきに投稿したブログ記事に書いた実験および読書などにおいても、概ね似たような心情によって支えられており、自身としては、当初より無理に大きな目標を掲げる方が余程無茶なことではないかと思われますが、如何でしょうか・・?

また、あくまでも私見ではありますが、このような『目標設定の仕方』とは、人の教育においてもかなり重要であり、この『目標の設定』を上手く行うことが出来る人こそが普遍的な意味での優れた教育者ではないかと思われるのです・・。

これは、無論のこと、教える内容を熟知していると同時に、人間に関する実際的な世間知といったものをも備えていないと行い得ないことから、かなり難しく、あるいは自身の経験から、我が国の場合、理系・文系を問わず、時代(戦前は別として)が下るにつれ、こうした教育を施すことが出来る教員が徐々に減少しているのではないかと考えさせられます・・。


今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害などの大規模自然災害により被災された地域での生活諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』