2017年2月18日土曜日

20170217 口語→文語の変換装置とは・・

昨日の投稿記事において「文章を作成する際においては少しおかしくなっていた方が良いかもしれない・・」といった意味のとを記しましたが、これはある程度事実ではないかと思われます・・。

少なくとも文章を書いている間においては、多少異なった精神の相、あるいは対外的な応対時とは異なった状態でいる方が良いのではないかと思われます・・。

また、同じ言語を操るといった意味において、能弁、よく話す状態の方が文章が浮かぶかというと、それらはそう簡単には結節するものではなく、むしろあまり普段話さないでいる状態の方が文章は、よく浮かんで来るのではないかとも思われるのです・・。

何れにせよ、話し言葉と書き言葉あるいは口語と文語とは、少なくとも自身の場合においては簡単には結節する性質のものではなく、その結節に至るまでには、何かしらの変換装置らしきものを経ないと上手く行かないのではないかと思われます・・。

そして「では、その変換装置とは何か?」と問われた場合「おそらくそれは、習慣により醸成される文体ではないだろうか?」と返答します。

また極言すれば、これまで作成してきた一連のブログ記事とは、その継続においてはさまざまな要因が関与しておりますが、その当初よりの大きな「目的」とは「自らの文体の獲得」にあったということが出来ます。

このことは以前よりブログ記事にて度々取りあげてきましたが、これ(文体の獲得)が為されることにより、おそらく口語にて表現した事柄を文語に変換し整理して書くことを可能にするのではないかと思われるのです・・。

そして、その初期的な段階においては即物的な文章作成法ともいえる口語による対話形式が有効であったのではないかと現在においては考えます・・。

しかしながら、初期に多用した対話形式の文体とは、それをはじめた当初においては、自身の文章を書くことが出来ないことで、かなり真剣に悩んだ結果の苦肉の策であり、そこからはじめ、現在の状態までどうにか発展、継続出来たことは自身でも多少驚くことでもあるのですが・・(笑)。

また、この現在に至るまでの継続こそが、さきに述べた作動する口語➡文語の変換装置となり、あるいは完全とまではいかないが、部分的な意味での「文体の獲得」であったのではないかとも思われるのです・・。

そして、今後の課題とは、その更なる洗練、発展ではありますが、それがいかなる経緯により為されるのかとは、残念ながら現在では見当もつきません・・(苦笑)。

とはいえ、当初と比較した場合、ある程度の洗練、発展は認められるとも考えますので、ともかく記事作成を継続することにより、次の段階らしきものが見えてくるのではないかと思われます・・。

また、ハナシは変わりますが、本日は日中における閲覧者がいつになく多く「これは一体どうしたものか?」と思いましたが、何であれ、読んで頂いていた皆様、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において生じた大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。

2017年2月17日金曜日

20170216 眺めた街並みから思ったこと・・文章について

本日の首都圏は日中、気温が四月並みまで上昇し、若干風は強く感じましたが、過ごし易かったと思います・・。

また、かなり久しぶりに井の頭線に乗りました・・。

乗車する電車が下北沢駅を通過の際は、その街並みを眺め、しばし感慨に耽っていました・・。

この街はかつて足しげく通い親しんだものでしたが、現在になり思い返してみますと、和歌山市のぶらくり丁、鹿児島市の天文館、騎射場、福岡市の天神、大名、西新などの方がかえって味わい深いのではないかと思われます・・。

特に天文館は週末の夜になりますと、何ともいえない面白い雰囲気になるのです・・。

また、これは夏になると、さらに、さまざまな熱気により一層拍車が掛かるのではないかと思われます・・(笑)。

現在思い返してみますと、夏の夜の天文館とはどうも一種、夢の中ような感じを受けるのです・・(笑)。

また、鹿児島在住時の週末はよく天文館に出向いておりましたが、在住期間の後半(2012~2013)とは、以前もブログ記事に書いた通り少々おかしくなっていました・・(苦笑)。

いや、しかし一方、この当時とは、それまでの人生において最も文章が滑らかに涌出していた時期であったのではないかと思われますので、もしかすると、人間とは、案外、多少おかしくなっている方が文章などはよく書けるのかもしれません・・(笑)。

そういえば、司馬遼太郎は「漢詩などを書く際の人間とは、英雄豪傑の心境といった、一種酔い(詩境)が回っている状態である」といったことをどこかで述べていました。

また、北杜夫はどこかで完璧に近いドイツ語の文章にて「ヒュペーリオン」を書いたヘルダーリンは三十代半ばで統合失調症を発症し塔に幽閉されたとも述べていました・・。

さらに、三島由紀夫は「文章とは、酒のようにその効果が普遍的ではないが、ある種の文章がある種の人々を酔わす性質がある、つまり文章とは元来酔う性質のものなのである」といった意味のことをどこかで述べていました。

それらのことから、程度は随分異なると思われますが、やはり当時の自身とは、如何なる経緯によるものであるか明瞭には分かりませんが、多少、上記と類似するメカニズムが精神に作用していたのではないかと思われるのです・・(苦笑)。

そしてまた、当時のことを、如上のように想起し述べますと、それに付随する景観として、天文館が浮かび上がってくるわけなのです・・(笑)。

とはいえ、であるからといって、天文館がそうした精神状態を惹起させるということではなく、あくまでも自身がそうした状態にあった時、偶然多く見た景観、街並みが天文館であったということです・・。

また、現在このようにブログ記事作成を継続している状況において、再度そのようになりたいか?と問われましたら、それは積極的に否定します・・。

ああした状態とは、他面において精神の燃焼速度が急加速している時でもあり、それが継続すると結果として何かしら反動的な効果、現象が生じるものと考えるからです・・。

それでしたら、現在のように多少呻吟しながらも、ほぼ毎日継続して書くことにより、わずかながらの漸進的な発展が為される方が余程良いと考えます・・(笑)。

しかし反面、かつての文筆家には破滅型に分類される天才肌の方々が少なからずおりましたが、現在はそうした文筆家の存在は、社会が許さなくなってきているのでしょうか・・?

そして、おそらくこうしたことにも『時代精神』は密接に関与しているのではないかと考えます。

あるいはまた、こうした題材はトーマス・マン著「トニオ・クレーゲル」の主題とも関連しているのかもしれません・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年の熊本、山陰東部、福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。」




2017年2月15日水曜日

20170215 眼の疲れおよびその改善から思ったこと・・

丁度140年前の1877年(明治10年)の本日2月15日、西郷隆盛を大将とする軍勢が東京の中央政府に向け出立しました。
そして、これが直接の契機となり、西南戦争がはじまりました。
その日は雪が降っていたとのことです・・。

さて、先日来より、どうも瞼が痙攣し、また眼の疲労感が続くため、色々と自分なりに試してみたところ、ここ最近遠くのものに焦点を当てて、ものを見るということをすっかり忘れていたことが思い出されました・・(笑)。

その後、意識して電車内などで遠くを見るように心掛けてから、この瞼の痙攣、眼の疲労感は大分改善されました・・。

そのことから、普段あまり意識しないで行っている行為の中に実は大切なことがあると改めて認識した次第です・・(苦笑)。
また、それに加え、普段目にする景色、景観とは、なかなか重要なものであるのかもしれません・・。

そして、そのように考えてみますと鹿児島在住の頃は高温に熱せられた炉の中を覗いたり、同じく高温に調整されたバーナー炎を見ることが日常的にありましたが、やはりそれらの際とは、それなりに眼に負担をかけていたものと思われます・・。

それに加え、時間のかかる試料作製、実験の際は関連する先行論文、書籍などを作業合間に読みながら行っておりましたので、当時の方が余程眼を酷使していたのではないかと思われます・・(苦笑)。

しかしそれでも、当時は現在ほど、こうした眼の疲れを意識しなかったことは、単純に現在よりも若かったことによるのか、あるいは多分にそれらを楽しんで行っていたからであるのかもしれません・・(笑)。

そして、そのように考えて敷衍してみますと、二年前より継続し作成しているこのブログとは、たしかに現在でも度々その作成を面倒と思う反面、ここに至るまで疲労により挫折せず、どうにか継続出来ていることは、本質的に文章作成が好きであるからこそ可能であったのではないかとも思われるのです・・(笑)。

とはいえ、こうした自己に対する何かしらの判断とは、自他何れからによるものであれ、慎重に為されるべきであると考えますので、断定は差し控えますが・・。

そして、これもまた断定は出来ませんが、昨今よりの観察により、少なくとも投稿直後に多く読まれる記事とは、書籍からの抜粋引用よりも自身で作成したものの方が相対的に多いようです・・。

これは記事作成者からすれば嬉しいことであり、またそれがこれまでの継続を可能にした主たる外的な要因であるのですが、よく分からないことは「それらの記事が一体どのように読まれているのか?」ということです・・。

とはいえ、このことは特に現在突き詰めて考える、詮索する必要性もありませんので、あまり考えることはありません・・。
しかしながら、一方で時折発見する直近に投稿した記事に対する反応としてか関連、対応する内容の既投稿記事が示されることがあるのです。

こうした反応が可能な方とは一体どのような人間であるのか?あるいはどの程度の知的作業によりそれら反応が為されているのか?とは、記事作成者側からすれば、自然、なかなか興味深く思うところなのです・・(笑)。

ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

最近は岩波文庫版のジュール・ヴェルヌ著「海底二万里」上巻を読んでおります・・。

また、読んで頂いている皆様も時折は眼を十分に休ませましょう・・(笑)。

自身の場合、未だ慣れないためかスマホの画面は眼が特に疲れます・・。

昨年2016年に熊本、山陰東部および福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」








2017年2月14日火曜日

20170214 読んで頂いていた記事から・・主に書籍からの抜粋

丁度140年前本日の鹿児島の街とは大変なことになっていたのではないかと思われます・・。
明日2月15日とは西郷隆盛率いる軍勢が東京に向けて発った日です。
その日はこの地域のこの時期にしては珍しく雪が降っていたとのことです・・。
その当時の鹿児島には一体どのような『気風、精神風土』といったものがあったのでしょうか?
ここまで書いて不図、ある著作の一節を思い出しましたのでそれを下に示します。
そしてその内容に『地域の歴史を貫く何か』とは幾分含まれているのでしょうか・・?」

金関丈夫著 岩波書店刊 「発掘から推理する」pp.13-17

「中国の文献んで辺境の民族のことを記載するものに、しばしば「男逸女労」、すなわち女が労働す、男は遊んで暮らすように書いたものがある。台湾の高砂族や、琉球島民に関するものにも、その例が多い。
高砂族は最近まで、あるいは今なお、男は原則として労働はしない。ただ三年に一度、焼畑をするときに、山刀で山の木を伐る。これがほとんど唯一の労働である。
しかし、彼らは三年に一度の労働以外に、何もしないのではない。狩猟をする。それから、今は止まったが、敵対部族と戦争をする。そして、少なくとも一生に一度は、儀礼用の首狩りをする。
これが男の仕事だ。
狩りも戦争もないときは、のらくらと煙草をふかして遊んでいる。
ときどき子守りをおおせつかる。
その生活は江戸時代のさむらいそっくりだ。
といって、主君もちの養われ者ではない。
貧乏ではあっても、手内職をやるような落ちぶれ者でもない。さむらいの中でも、最も純粋なものだといえよう。
だから、日本の巡査どもが、道路を造るといってはひっぱり出す。宿舎を建てるからといって材木を担がせる。元来がさむらいの仕事ではない。強制と多少の賃金のほしさから、やるにはやるが、いさぎよしとしているわけではない。その賃金をごまかされたり、強制が過酷だったときに、山刀をふるって、役人どもの首をちょん切る。これが昭和五年(1930)の霧社事件の発端である。
大和朝廷が隼人を屈服させると、この徴用がやってくる。人に仕えることさえ知らなかったさむらいどもの耐え得るところではない。ある日、血の気の多いやつが、役人の首をちょん切る。
それがやがて大きな反乱にふくれあがる。これを繰りかえしたのが、大隅、薩摩の隼人の歴史だ、反乱以外に彼らの歴史はない。霧社の山人に霧社事件以外の歴史がないのと同様である。
昭和三十三年(1958)の夏、薩摩揖宿郡山川港付近の、成川の遺跡を発掘した。厚い火山灰砂層の下に、たくさんの隼人どもが眠っている。その文化は弥生期の終末から古墳期のはじめのものだから、ほぼ三世紀の初頭のものだ。
これを隼人と呼ぶには問題があろう。しかし欺かないのはその体質だ。頭は短頭で、身長は低い。頭形示数も推定身長も、現在の山川港付近の住民のものと、ぴったりと一致する。
脛骨のひどく扁平なことだけが、今の連中とちがっている。
これは彼らが脚の筋肉を今の連中よりもよく使用した、その生活の差からきたちがいだ。
三世紀から今日まで、薩南の住民に入れ替わりがなかったとすれば、その中間にいた隼人の、彼は近い祖先だということになる。
おもしろいのは、成川遺跡人の副葬品である。
男にも女にも、明らかに服飾具といわれるものはなに一つない。
男の墓には、ほとんど残らず鉄製の武器がある。
これだけ徹底的に服飾品がなく、またこれだけ旺盛な武器のでた遺跡は他にない。
その一角に立って見渡すと、古書にいう「男児辺野に死をいたす、馬革しかばねを包んで還葬さるべきのみ」といった気分が、この墓地にはみなぎっている。
彼らが尚武の民であったことは一目瞭然だ。その剛健の風は、婦女子にも及んでいた。真に薩摩隼人の名にふさわしい。
その当時彼らが、自らをハヤトと呼んでいたかどうかはわからない。
ハヤトはおそらくは他称で、自らはツォーあるいはこれに近い音で呼んだであろう。ツォーは熊襲(クマソ)のソウで、インドネシア一帯では「人」あるいは「我ら」をさす。
すなわち自族を意味する自称である。
「肥前国風土記」は、値賀島の白水郎(あま)は隼人に似て、その容貌や言語は、普通人と違っているといい、「大隅国風土記」にのこる隼人の語彙は、多くの学者によって、南方語に結びつけられている。
これだけで直ちに、隼人が南方渡来民だというのではないが、彼らが南方語を使用していた疑いは濃厚である。
その疑いの一つを挙げると、薩摩や大隅の地名で、ここには頭にイの音をいただくものが多い。藺牟田、伊佐、伊佐敷、市来、入佐、入来、伊集院、納薩、伊作、指(揖)宿、伊敷、伊座敷などがそれである。
これらは日本語としては、意味のとれないものである。
一方例は少ないが、他の地方では見られない知覧、知林のごとく尻が撥音で終わるものがある、これも意味はわからない。
ところで、頭にイをのせ、尻でラン、ロンをひびかす地名は、琉球をへて、台湾の東海岸から、フィリピン、さらに南方には非常に多い。
地域内にも連絡があり、台湾以南では、それがインドネシア語の地名であるわけだから、これから推理される結果は、いわずとも知れている。
「国造本紀」には仁徳朝に、薩摩にヲサすなわち通訳官のいたことが記録されているし、「続日本紀」には養老六年(722)に、大隅薩摩の隼人の乱の平定に功のあった通訳官に、勲位を授けたらしいことが見えている。
この記録の解釈が正しければ、八世紀なってもまだ隼人との折衝に、通訳を要したことになる。
ともあれ、いまわれわれの身体の中には、なんとなく南方戦士の族を愛しあこがれる血が流れている。
爛熟した文明の頽廃から救うのに、この血が有効でないとはいえないだろう。」




2017年2月13日月曜日

20170213 総閲覧者数20万到達・・【歯科理工学・文系それぞれの師匠について】

本首都圏は日中は気温がそこそこ上昇しましたが、陽がかげるにつれ、また寒くなってきました・・。

そして、そのような中、週初めの月曜日から多少飛ばし過ぎの感がありますが地下鉄四駅程度分は徒歩にて移動しました・・(苦笑)。

首都圏、特に都心部にて複数の目的地に出向く際、地下鉄を用いると逆に遠回りになることも往々にしてあるため、これは妥当な選択であったのではないかと考えます・・。

とはいえ、やはり一方において飛ばし過ぎの感もまたありますが・・(苦笑)。

さて、投稿記事数ですが、今回の投稿を以て一区切りともいえる540記事に到達します。

そして今現在、特に大きな変化といったものはありませんが閲覧して頂いている方々の数は、以前記事に書いたとおり、ここ最近上昇しており、おそらく本日の記事投稿により200000人に到達するのではないかと思われます・・。

他の人気があるブログに比べた場合、その数とは大したものではないのかもしれませんが、ともかくブログ開設後1年8ヶ月程度にて、ようやくここまで到達しました(笑)。

これもひとえに読んで頂んでくださっている方々皆様のお蔭です。
どうもありがとうございます。

さて、以前投稿した歯科理工学のテキスト冒頭の文章を題材として記事を作成しましたが、これまで師事した師匠とは、そうした一見関連のなさそうな事物間の関連性を場面に応じ述べられる傾向がありました・・。

また、それは日常的な会話においても然りであり、歯科理工学の師匠とは、登山の最中、さまざまな植物を見て「これは食べることが出来る、これは出来ない」さらにはその調理法についても解説をされることもありました・・。

後になり北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」内にてこれと類似した描写を見つけた時は、いささか驚きました・・(笑)。

また、それまで都会を離れ暮らした経験はありましたが、こうした植物の知識を得ることはなかったため、それを熱心に聞き、丁度この時期(2月半ば)の登山の折であったと記憶しておりますが、多くの「ふきのとう」を見つけ、帰宅後それで佃煮を作ったことが思い出されました・・(笑)。

この時作った佃煮とは、それまで自作した料理の中で、最も野趣に富み、且つ美味であったものと記憶しております・・。

「ふきのとう」には植物の「芽吹きの力」のようなものが詰まっているのかもしれません・・。

そして、そうした経験を通じ野菜類を好きになったのではないかとも思えます・・(笑)。

また別の文系学問分野での師匠は、さきの師匠とはまた異なり、主として都会的な文化全般について独特の(良い)センスを持たれており、記憶にあり現在即座に思い起こすことは高田馬場界隈の昔ながらの映画館にて日活の超大河映画のリバイバル連続上映を観た後、これまた古めかしい近隣の喫茶店にて観た映画についてのさまざまな視点から説明を試みられていたことです・・。

この時は丁度今しがた観てきた映画の時代背景の中に我々がいるのではないかと錯覚を生じさせるといった、よく分からない感覚がありました・・(笑)。

とはいえ、そうした記憶、感覚があったことから後になり大西巨人著「神聖喜劇」、野上彌生子著「迷路」といった長編および同時代について扱った数々の著作を楽しみながら読むことが出来たのではないかとも思えます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において生じた大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。



















20170212 今後の希望について・・

本日は休日ということもあり、ブログ記事の更新は止めておこう・・と考えておりましたが、閲覧者数が思いのほか増加していたことから、記事作成をはじめた次第です・・(苦笑)。

また、その原因、理由は分かりませんが記事閲覧者数が顕著に増加しております。

興味を持って読んで頂いている皆様、それらの中に一つでも「面白い!」「有益であった!」「考えさせられた!」という記事があれば、それは作成者にとって『幸い』です。

今後も少なくとも600記事程度までは更新する予定ですので、どうぞよろしくお願いします(笑)。

さて、昨年秋より現在に至るまで大学職種求人への応募は行っておらず、また公募サイトも閲覧しておりません・・。

これには幾つか理由がありますが、その主たるものとは「とりあえず1年以上は現在就いている職にてある程度は頑張らなければ・・」と考えるからです・・。

たとえ胃粘膜の炎症程度が生じたとしても・・(苦笑)。

また、現在の職には不満もありますが、同時にそれなりにやりがい、意義もあり、そして今後大学職種に就いた場合において何かしら役に立つ部分も少なからずあると思われるのです・・。

時折、周囲の方々から「今から大学の教授になることはまずあり得ないから、現在の仕事を継続した方が良いのでは・・?」といった助言を頂くことがありますが、たしかに私は今後大学の教授になることはもとより望んでおらず、また、それに向いているとも考えておりません・・(笑)。

私もさまざまな学問分野での本当に優秀、スゴイ人々を見てきたという実感はありますので・・(苦笑)。

しかし一方、さまざまな学問の面白さを関連させながら伝える導入部での教養系学問あるいは研究支援専門職については、職務に就いた後、更なる努力が必要ではありましょうが、どうにか務めることができるのではないかと考えます・・。

また、それが幾つかの学問分野を横断してきた私の「強み」ではないかとも思われるのです・・。

そして、それに加え、先程述べたとおり、現在の職務での経験もまた何かしら補強・強化する要素となるのではないかと考えるのです・・。

当然といえば当然ですが、私は優秀、頭脳明晰でもなく、時には改良・改変を試みながらも基本的には愚直に何かを継続することにより、いくつかの分野において幾ばくかの知識を積重ねてきたと自覚しております。

また、その際において、さまざまな種類の読書の習慣を持っていたことは、かなり大きな意味を持っていたと考えます。

とはいえ、これはどちらかというと本能に近い習性といったものであり、またこの習性のため、何か他の大事なものを犠牲にしてきたのかもしれません・・(苦笑)。

いずれにせよ、今しばらく現在の職務を継続し、その後になり機を見て大学職種の公募サイトの閲覧そして応募を再度開始しようと考えております・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

昨2016年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震によって被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。





2017年2月12日日曜日

20170211 昨日投稿の記事からの試み・・対話形式

A「どうしたわけか昨日の閲覧者数はこれまでになく増加しました・・。

読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

それらの中で一つでも「面白い!」と感じられる記事があれば幸いです(笑)。

さて、昨日投稿記事もまた思いのほか、多くの閲覧者を得ることが出来ました。
それ故、後になり関連する動画を急きょ探し共有した次第です・・(笑)。

しかし一方、本日作成分の記事に関しては、今現在その主題が定まっておりません・・(苦笑)。

毎回とはいえませんが、多くの場合、こうした状況から書き出し、そしてある程度の文量をスジを持って書くという作業とは、これまでのブログ記事作成経験により、多少向上したのではないかとも思われます・・(笑)。

また、不思議なもので当初記事作成において多く用いてきた対話形式とは、現在となっては、どうもその様式を以て書くことが難しいのではないかと思われるのです・・。

しかし、これはおそらく単なる『思い込み』ではないかと思われますので、以下にその挑戦として対話形式にて書くことを試みます・・(笑)。

A「昨日の記事はなかなか面白く読ませてもらいましたよ
特にヴェルヌの「海底二万里」が我が国における幕末期を舞台にしているという指摘は当たり前かもしれないけれども、文章にて指摘されるとまた面白い視点が浮かび上がってきますね・・。」

B「はあ、それはどうも恐縮です・・
世界史的な通説では潜水艦を含む現代の戦争に用いられる多くの兵器が広く用いられるようになったのは20世紀初頭の第一次世界大戦であると云われていますけれども、さらにそれらの元祖といえるものは、実は1860年代のアメリカ合衆国南北戦争に多く登場していたと云われていますので、その時代、つまり幕末期でもある1860年代あたりを舞台として潜水艦の活躍?威力が示される物語が書かれたことには、それなりに歴史的な意味合いがあるのかもしれない・・と考えた次第です(笑)。」

A「なるほどねえ・・。
そのように考えてみると幕末維新の多くの戦闘に用いられた兵器の多くが南北戦争の後、処分に困った兵器であったことにも何かしら歴史的な意味合いがあるのかもしれませんね・・(笑)。
つまり当時、南北戦争の終結によって大量の余剰兵器を売りさばくための市場を欲していなければ、幕末期の幾多の戦闘も、その勝敗がどちらのものになっていたか分からないということになるのですが、しかし一方、それら兵器を用いた近代戦の戦場を若年において経験した薩長土肥あるいは幕府側将兵の多くが後年日清・日露両戦役において戦場での指揮を執ったということもまた、同時に一つの歴史的な意味があるのかもしれません・・。」

B「ええ、そうですね・・。
その意味において我が国は運が良かったのか、近代戦の初期の段階に滑り込み、それをどうにか自身のモノとすることには成功したのではないかと思います。
また、日露戦争(1904~1905)においては、そうした1860年代の諸戦争に示された近代戦の特徴、傾向といったものが、より一層明瞭化、洗練され、その様相とは欧米各国の観戦武官、記者等により国元に報告され、約10年先の第一次世界大戦(1914~1918)にて応用されることになるのです・・。
しかし司馬遼太郎曰く「日露戦争の当事者であった我が国とは、その後から、どうもおかしな方向に行き始めた。」とのことなのです・・。
さらに、その後に勃発する第一次世界大戦の戦禍を我が国は殆ど全く被らなかったことから、それらを経験した国々との間に戦争、戦闘に対する観念、思想にズレが生じ、それが紆余曲折を経て太平洋戦争(1941~1945)の開戦、そしてそこで経験するさまざまな戦禍の遠因になったとも考えることが出来るのです・・。」

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年、熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しています。」