本日の首都圏は日中より風が強く、その体感温度は実際の気温よりも低かったのではないかと思います・・。
さて、町中を歩いておりますと、その中で洋服の流行などが大体理解できることがあります。
このことは以前投稿した記事においても書きましたが、果たしてそれら流行とは一体どのようなメカニズムで生じているのでしょうか・・?
さらにまた、人によると、それら流行の具体的な内容にも周期らしきものがあるとのことですが、これについてもそのメカニズムが気になるところです・・(笑)。
そして、こうしたことを書いておりますと、不図、イギリスの経済学者で太陽黒点数の増減と景気循環の関連性を述べた方がいたことを思い起こします・・。
たしかに太陽の黒点数の増減により地球全体の気候に変化が生じ、それにより農作物の収穫高もまた変化し、さらにそれが景気循環に影響をもたらす大きな要因にはなるとは考えられます・・。
とはいえ、それは各々の『現象だけ』を時系列的に並べ観察してみても各々を結び付ける関係性を認識することは難しいものと考えます・・。
その意味では我々の日常において認識出来る現象とは雑多すぎるのかもしれません・・(笑)。
そうしたことから一つの説とは『物語として述べられる』ことにより、はじめて理解、認識することが出来、また、そうして得られた複数の物語(説)の間から、さらに異なった次元の関係性もまた理解、認識することが出来る可能性も生じてくるといえます・・。
それ故、現象の精確な認識と同時に、何かしら関係性があると思われる複数の現象を心に留めておき、それらを機に応じ(つながりのある)物語として形成する作業もまた理系、文系を問わず日常的に行っていた方が良いのかもしれません・・(我田引水)。
また、そう考えてみますと、欧米の文学作品あるいは時折論文などにおいても冒頭に聖書の一句、格言などが書かれていることが思い出されます・・。
またこれは欧州騎士の紋章に記されている文句も同様であるのかもしれません・・。
ともかく、おそらく、これらもまたさきに述べた事柄に関連するのではないかと思われるのです・・。
つまり、こうしたコトバとは著作『内容』全体を極度に集約したものであったり、同様にそれを明確に特徴付けるためのものであったりするのですが、何れにしましても、それは『物語全体を包括し抽出、表出された言語の連なり』という意味において、さきに述べた『何かしら関係性があると思われる複数の現象を心に留めておき、それらを機に応じ物語として形成』の一種であるといえます。
一方、我々日本人の場合、こうした伝統文化を全く見出せないというわけでもなく、おそらくそれと類似したものとして短歌、俳句などが挙げられるのではないかと思います・・。
ただ、欧米と我々との間で大きく異なっていることは、その思弁性、理屈っぽさではないかと思われます・・(笑)。
そして、こうしたことはさまざまな場面における彼我双方の軋轢、衝突そして対立の原因ともなっているのではないでしょうか?
しかしながら、これらはあくまでも双方培ってきた文化の相違であるともいえますので、それこそ理屈よって相手を捻じ伏せたり、あるいは感情的に怒り散らすのも、その過程においてはあるいは必要であるのかもしれませんが、一本調子であり続けると、あまり良いものではないのかもしれません・・(苦笑)。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。
2017年2月7日火曜日
2017年2月6日月曜日
20170206 「八つ墓村」を立ち読みして思ったこと・・土着の風習、民俗
A「本日の首都圏は日中気温も上がり、あまり寒さを感じることがありませんでしたが、陽がかげるにつれ風が強くなり気温も一気に下がった感がありました・・。
明日はまた気温が下がり例年並みになるとのことですので体調管理に気を付け書き続けていこうと思います・・(笑)。
さて、先週末、神保町某書店の特価品コーナーに偶然立ち寄ったところ、かねてより読んでみたかった書籍が見つかり何だか得をした気分になり、これを購入しました・・(笑)。
今後徐徐に読み進めて行こうと思います。
また、それと同じ折に偶然立ち読みしたのが横溝正史著の「八つ墓村」であり、これは少々読み入ってしまいました・・。
横溝正史の金田一耕助シリーズは、これまでに一冊も読了したことがありませんが、その映画作品に関してはこれまでDVDにて、それなりの作品数を観ております。
また、これは金田一耕助シリーズの著作、映画双方にて共通すると思われることですが作中の『地域土着の風習、民俗』が物語の進行に大きな意味を持ちます。
さて、どうしたわけか、さきに述べたとおり、私は幼い頃より金田一耕助シリーズの映画を好んで観ておりました。
あるいはこれもまた私が大学院修士課程にて地域学(民俗を扱うことが多い)を専攻した遠因の一つであるのかもしれません・・(笑)。
いや、より精確に書くならば、元来そうした民俗一般を好む傾向があり、それに加え風習、民俗といったものの存在を強く感じ取ることができる地域、場所の中で在住する経験を通じ、より、その興味への拍車が掛かり専攻するに至ったものと考えられる・・といったところではないかと思われます・・(笑)。
しかしながら、実際地域に在住し、その中で徐徐に民俗に興味を持ちはじめるまでの具体的な経験およびその経緯といったものは、あまり理屈、順序立てて話す、書くことは少なくとも今現在では難しいように思われるのです・・。
また、それは忘却によるものではなく、むしろ逆であり、今現在、こうしたことを書いているだけで和歌山、南紀の季節の空気、さまざまな景色が脳裏に浮かんでくるのです・・(笑)。
これは未だ地域の自然風土から惹起される感情が大きい(大き過ぎる)ということになるのでしょうか・・?
そのように考えてみますと、これは九州、鹿児島においても同様であり、特に鹿児島においては夏の茹だるような暑さの日の印象は強烈であり「次のコンビニまで水分補給を我慢しよう・・」と自分に言い聞かせ、それが目前に迫ると「よし、また次のコンビニまで・・」といった感じで天文館から宇宿まで散歩?をしていました・・(笑)。
そして、その際、汗にまみれた顔を手で拭うと、決まって汗に細かい火山灰の粒子が混ざり皮膚がシャリシャリとするのです・・(笑)。
鹿児島市内は風向きの影響で春~夏に降灰が多いのです・・。
さて、民俗について、かつてどこかで読んだのですが三島由紀夫が一時期民俗学に興味を示しましたが、それを深く知るにつれ、どうも薄気味悪くなり、次第に民俗学から遠のいていったと記しておりました。
これはおそらく、三島由紀夫が実際にどこかの地域に一般人として、ある程度の期間在住した経験がなく、ほぼ一貫して東京に生まれ育ち、そして生活していたからではないかと私には思われるのです・・。
苦い経験と良い経験の双方が混淆された記憶を持つ自身の出身地以外での地域の記憶を持つことは少なくとも悪いことではないと考えます・・。
そして、民俗学への評価の良し悪しとは、その後の問題ではないかと思われるのです・・。
今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
昨年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。」
明日はまた気温が下がり例年並みになるとのことですので体調管理に気を付け書き続けていこうと思います・・(笑)。
さて、先週末、神保町某書店の特価品コーナーに偶然立ち寄ったところ、かねてより読んでみたかった書籍が見つかり何だか得をした気分になり、これを購入しました・・(笑)。
今後徐徐に読み進めて行こうと思います。
また、それと同じ折に偶然立ち読みしたのが横溝正史著の「八つ墓村」であり、これは少々読み入ってしまいました・・。
横溝正史の金田一耕助シリーズは、これまでに一冊も読了したことがありませんが、その映画作品に関してはこれまでDVDにて、それなりの作品数を観ております。
また、これは金田一耕助シリーズの著作、映画双方にて共通すると思われることですが作中の『地域土着の風習、民俗』が物語の進行に大きな意味を持ちます。
さて、どうしたわけか、さきに述べたとおり、私は幼い頃より金田一耕助シリーズの映画を好んで観ておりました。
あるいはこれもまた私が大学院修士課程にて地域学(民俗を扱うことが多い)を専攻した遠因の一つであるのかもしれません・・(笑)。
いや、より精確に書くならば、元来そうした民俗一般を好む傾向があり、それに加え風習、民俗といったものの存在を強く感じ取ることができる地域、場所の中で在住する経験を通じ、より、その興味への拍車が掛かり専攻するに至ったものと考えられる・・といったところではないかと思われます・・(笑)。
しかしながら、実際地域に在住し、その中で徐徐に民俗に興味を持ちはじめるまでの具体的な経験およびその経緯といったものは、あまり理屈、順序立てて話す、書くことは少なくとも今現在では難しいように思われるのです・・。
また、それは忘却によるものではなく、むしろ逆であり、今現在、こうしたことを書いているだけで和歌山、南紀の季節の空気、さまざまな景色が脳裏に浮かんでくるのです・・(笑)。
これは未だ地域の自然風土から惹起される感情が大きい(大き過ぎる)ということになるのでしょうか・・?
そのように考えてみますと、これは九州、鹿児島においても同様であり、特に鹿児島においては夏の茹だるような暑さの日の印象は強烈であり「次のコンビニまで水分補給を我慢しよう・・」と自分に言い聞かせ、それが目前に迫ると「よし、また次のコンビニまで・・」といった感じで天文館から宇宿まで散歩?をしていました・・(笑)。
そして、その際、汗にまみれた顔を手で拭うと、決まって汗に細かい火山灰の粒子が混ざり皮膚がシャリシャリとするのです・・(笑)。
鹿児島市内は風向きの影響で春~夏に降灰が多いのです・・。
さて、民俗について、かつてどこかで読んだのですが三島由紀夫が一時期民俗学に興味を示しましたが、それを深く知るにつれ、どうも薄気味悪くなり、次第に民俗学から遠のいていったと記しておりました。
これはおそらく、三島由紀夫が実際にどこかの地域に一般人として、ある程度の期間在住した経験がなく、ほぼ一貫して東京に生まれ育ち、そして生活していたからではないかと私には思われるのです・・。
苦い経験と良い経験の双方が混淆された記憶を持つ自身の出身地以外での地域の記憶を持つことは少なくとも悪いことではないと考えます・・。
そして、民俗学への評価の良し悪しとは、その後の問題ではないかと思われるのです・・。
今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
昨年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。」
20170205 誰が読んで頂いているか分かりませんが・・
昨日投稿した記事は投稿翌日にしては多くの閲覧者を得ることが出来ました。
読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
また、同時にその後の反応として読まれている記事をいくつか見ますと「ご名答!」といった反応が適当ではないかと思われます・・(笑)。
その一方、自身の作成した記事がこの程度まで深く、真剣?に読まれていることに対して、あらためて身の引き締まる思いがします・・。
また、こうした反応を認めることが出来なければ、ブログ記事の作成とは、現在まで継続することができませんでした。
それ故、今後も時折は面白いと思われる記事を書けるように心掛けます・・(笑)。
とはいえ、ある程度までブログ記事を書いておりますと、自身でも記事として書く内容の傾向が限られていることに否応なく気が付かされるのです・・(苦笑)。
これは自身でも「どうにかならないものであろうか?」と時折思うのですが、同時に、具体的にどのような変化、試行を試みれば効果的であるか分からないため、今回もまたいつもの調子にて、とりあえず記事作成を行っている次第ともいえます・・(苦笑)。
あるいは、こうしたことも記事作成を継続していくうちに「ハッと!」妙案がひらめくことがあるのでしょうか・・(笑)?
ともあれ、何れにせよ記事作成を継続することが大前提であると思いますので、今後もあまり過大な期待を抱かず、とりあえず600記事程度までは書いてみようと思います・・(笑)。
さて、そこまで書いて不図、竹山道雄のある文章を思い起こしましたので下に示します。
講談社刊 竹山道雄著 「昭和の精神史」pp.206-207より抜粋引用
「私は未来の自分の運命を考えることはやめよう。
あてのない問いをくりかえすことはやめよう。
結果を考えることはやめよう。
すべての今の刹那をみたしめよ。
今日を今日として迎え送り、明日のための今日とすることを断念せよ。
もちろん将来をめざして積み重ねてゆく現在ではあるけれども、その積みあげてゆくこと自体をもって結果としよう。
これまで私は社会からはとおく、いわゆる先物を買ったり便乗したりしたことはなかったが、これからも、あらゆる意味で先物を買うことはしまい。未来の自分の効果のために設計したり賭けたりすることはしまい。
「どうせ自分に何ができよう」「これこれのすることの意義が分かったらする。それまではやる気がしない」-こうした、私のこれまでの抜きがたかった性癖、それが私に行動を阻止し意力を麻痺させていたものを、できるだけ棄てるようにしよう。
このために私は過去に蒔いたものがすくなかったから、いまわが生の途のなかばに収穫するものとてもすくないが、すくないからとてとりいれずにおくことをやめよう。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年、熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。」
読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。
また、同時にその後の反応として読まれている記事をいくつか見ますと「ご名答!」といった反応が適当ではないかと思われます・・(笑)。
その一方、自身の作成した記事がこの程度まで深く、真剣?に読まれていることに対して、あらためて身の引き締まる思いがします・・。
また、こうした反応を認めることが出来なければ、ブログ記事の作成とは、現在まで継続することができませんでした。
それ故、今後も時折は面白いと思われる記事を書けるように心掛けます・・(笑)。
とはいえ、ある程度までブログ記事を書いておりますと、自身でも記事として書く内容の傾向が限られていることに否応なく気が付かされるのです・・(苦笑)。
これは自身でも「どうにかならないものであろうか?」と時折思うのですが、同時に、具体的にどのような変化、試行を試みれば効果的であるか分からないため、今回もまたいつもの調子にて、とりあえず記事作成を行っている次第ともいえます・・(苦笑)。
あるいは、こうしたことも記事作成を継続していくうちに「ハッと!」妙案がひらめくことがあるのでしょうか・・(笑)?
ともあれ、何れにせよ記事作成を継続することが大前提であると思いますので、今後もあまり過大な期待を抱かず、とりあえず600記事程度までは書いてみようと思います・・(笑)。
さて、そこまで書いて不図、竹山道雄のある文章を思い起こしましたので下に示します。
講談社刊 竹山道雄著 「昭和の精神史」pp.206-207より抜粋引用
「私は未来の自分の運命を考えることはやめよう。
あてのない問いをくりかえすことはやめよう。
結果を考えることはやめよう。
すべての今の刹那をみたしめよ。
今日を今日として迎え送り、明日のための今日とすることを断念せよ。
もちろん将来をめざして積み重ねてゆく現在ではあるけれども、その積みあげてゆくこと自体をもって結果としよう。
これまで私は社会からはとおく、いわゆる先物を買ったり便乗したりしたことはなかったが、これからも、あらゆる意味で先物を買うことはしまい。未来の自分の効果のために設計したり賭けたりすることはしまい。
「どうせ自分に何ができよう」「これこれのすることの意義が分かったらする。それまではやる気がしない」-こうした、私のこれまでの抜きがたかった性癖、それが私に行動を阻止し意力を麻痺させていたものを、できるだけ棄てるようにしよう。
このために私は過去に蒔いたものがすくなかったから、いまわが生の途のなかばに収穫するものとてもすくないが、すくないからとてとりいれずにおくことをやめよう。」
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年、熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。」
2017年2月5日日曜日
20170204 どの程度の深さからの反応であるのか・・
昨日の記事投稿によって総投稿記事数が530に到達しました。そして今後はとりあえず今月中あるいは来月初旬までに550記事への到達を目標とします・・。
それにしても、これまで作成投稿してきた記事によって少しは何かが変わってきているのでしょうか・・?
まさに暗中模索ではありますが、とりあえずこれも実験と同様、作成し続けませんと分かりませんので継続しようと思います・・(笑)。
さて、昨日の投稿記事に書いた『観念的』についてですが、哲学あるいは思想などを扱う文系諸学問は実験を伴う理系諸学問と比較した場合、相対的に観念的であるといえます(当然ではありますが・・)。
また、これはあくまでも私見ではありますが、特に哲学、思想などを扱う文系学問の場合、その当初から明らかにセンスの有無がかなり重要な意味を持つと考えます。
それ故、大多数の方々は、こうした学問にどこかで接したとしても特に情熱を持つに至らず、通り過ぎて行くのではないかと思われます・・。
そして、これもまた私見ではありますが、この哲学、思想などを扱う学問のセンスとは、運動神経のように『少なくともあっても損はない』といった種類のものではなく、むしろ、そのセンスがあった方が変に悩み、そして疎外されることもまた多いのではないかと思われます・・(笑)。
また、自身はそのセンスが優れているとは考えません・・。
しかし一方、そうした学問がかねてより『好き』であり、また、そうした学問およびそうした雰囲気、環境に身を置いた経験はある程度ありますので、少なくとも他者からそうしたハナシを聞いた場合、どういった反応が適切であるかは感覚的に分かるのではないかとも考えます・・。
もとより、これはセンスではなく『慣れ』に分類されるものではありますが・・(笑)。
さて、現在書店に行きますと、昨今よりの古典、教養ブームが継続しているようであり、さまざまな関連書籍が出版され、中には大変面白そうな著作も少なからずありますが、それでも、それらの大半とは『当てを狙いに行っているのではなかろうか?』と思わせるものであり、さらにはテレビにて大々的に取り上げ宣伝している著作もあり、そうした異種連携の手腕には感心しますが、おそらく書籍とは本質的に食物と同様『本人がそれを食べたい、読みたいから食べる、読む』わけであり、そうした誘導戦術らしきものとは『どうも違うのでは・・?』と考えてしまうのです・・(苦笑)。
あるいはまた、そうしたものが時代精神を形成させる何かの力(凝集力)の要素ではあるのかもしれませんが・・。
しかしながら、ここで思うことは、そうした何処からのものであれ刺激に対する反応が、一体我々のどの程度の深さから生じている、発せられているのか?ということです・・。
このことは此処首都圏において特に強く感じ、考えさせられます・・。
また、おそらくそれは欧米諸国が我が国に対して古くから感じていることではないかとも思われます・・。
そして、そうした彼等の興味、関心に基づく実験が、我が国を何かの題材として扱ったさまざまな映画、書籍等が我が国において如何なる反応を示すか?ではないかとも考えられます・・(笑)。
先日公開された遠藤周作原作の映画「沈黙」とは、それが原作に忠実であるならば、現在の我が国において『反日』と認識されても仕方のない表現、文脈が少なからず見受けられると思われます。
それは数年前に公開されたアメリカ人女優が監督した映画作品「アンブロークン」と同程度に・・。
そして、ここまで書いており不図思い出したことは、以前実験の最中に話していた大学院生との雑談で、彼の出身地を舞台とした有名な小説があり、そのことについて尋ねてみますと、その返事とは、それまでとは変わってあまり浮かない声で
「・・いや、多分あそこに住んでいる人達のほとんどが、その作品の内容なんて実は知らない、気にしていないのだと思います・・。
実際にその作品を読み、内容を知っていたとしたら、それを観光に利用しようとは考えつかないと思うのですが・・。」
これは彼(愛郷心は強い)の考えが未だ若く、現実社会への認識が浅い、甘いのか、あるいは彼の述べる感覚が正しいのかわかりませんが、少なくとも、多少はさきに述べた内容にも関連するのではないかと思われましたが如何でしょうか・・?
今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
おかげさまで530記事に到達しました。
昨年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。
それにしても、これまで作成投稿してきた記事によって少しは何かが変わってきているのでしょうか・・?
まさに暗中模索ではありますが、とりあえずこれも実験と同様、作成し続けませんと分かりませんので継続しようと思います・・(笑)。
さて、昨日の投稿記事に書いた『観念的』についてですが、哲学あるいは思想などを扱う文系諸学問は実験を伴う理系諸学問と比較した場合、相対的に観念的であるといえます(当然ではありますが・・)。
また、これはあくまでも私見ではありますが、特に哲学、思想などを扱う文系学問の場合、その当初から明らかにセンスの有無がかなり重要な意味を持つと考えます。
それ故、大多数の方々は、こうした学問にどこかで接したとしても特に情熱を持つに至らず、通り過ぎて行くのではないかと思われます・・。
そして、これもまた私見ではありますが、この哲学、思想などを扱う学問のセンスとは、運動神経のように『少なくともあっても損はない』といった種類のものではなく、むしろ、そのセンスがあった方が変に悩み、そして疎外されることもまた多いのではないかと思われます・・(笑)。
また、自身はそのセンスが優れているとは考えません・・。
しかし一方、そうした学問がかねてより『好き』であり、また、そうした学問およびそうした雰囲気、環境に身を置いた経験はある程度ありますので、少なくとも他者からそうしたハナシを聞いた場合、どういった反応が適切であるかは感覚的に分かるのではないかとも考えます・・。
もとより、これはセンスではなく『慣れ』に分類されるものではありますが・・(笑)。
さて、現在書店に行きますと、昨今よりの古典、教養ブームが継続しているようであり、さまざまな関連書籍が出版され、中には大変面白そうな著作も少なからずありますが、それでも、それらの大半とは『当てを狙いに行っているのではなかろうか?』と思わせるものであり、さらにはテレビにて大々的に取り上げ宣伝している著作もあり、そうした異種連携の手腕には感心しますが、おそらく書籍とは本質的に食物と同様『本人がそれを食べたい、読みたいから食べる、読む』わけであり、そうした誘導戦術らしきものとは『どうも違うのでは・・?』と考えてしまうのです・・(苦笑)。
あるいはまた、そうしたものが時代精神を形成させる何かの力(凝集力)の要素ではあるのかもしれませんが・・。
しかしながら、ここで思うことは、そうした何処からのものであれ刺激に対する反応が、一体我々のどの程度の深さから生じている、発せられているのか?ということです・・。
このことは此処首都圏において特に強く感じ、考えさせられます・・。
また、おそらくそれは欧米諸国が我が国に対して古くから感じていることではないかとも思われます・・。
そして、そうした彼等の興味、関心に基づく実験が、我が国を何かの題材として扱ったさまざまな映画、書籍等が我が国において如何なる反応を示すか?ではないかとも考えられます・・(笑)。
先日公開された遠藤周作原作の映画「沈黙」とは、それが原作に忠実であるならば、現在の我が国において『反日』と認識されても仕方のない表現、文脈が少なからず見受けられると思われます。
それは数年前に公開されたアメリカ人女優が監督した映画作品「アンブロークン」と同程度に・・。
そして、ここまで書いており不図思い出したことは、以前実験の最中に話していた大学院生との雑談で、彼の出身地を舞台とした有名な小説があり、そのことについて尋ねてみますと、その返事とは、それまでとは変わってあまり浮かない声で
「・・いや、多分あそこに住んでいる人達のほとんどが、その作品の内容なんて実は知らない、気にしていないのだと思います・・。
実際にその作品を読み、内容を知っていたとしたら、それを観光に利用しようとは考えつかないと思うのですが・・。」
これは彼(愛郷心は強い)の考えが未だ若く、現実社会への認識が浅い、甘いのか、あるいは彼の述べる感覚が正しいのかわかりませんが、少なくとも、多少はさきに述べた内容にも関連するのではないかと思われましたが如何でしょうか・・?
今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
おかげさまで530記事に到達しました。
昨年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。
2017年2月4日土曜日
20170203 季節毎に変る読む著作の傾向について・・
本日の首都圏は若干気温も上昇し日中は比較的過ごし易かったのではないかと思います。
また、帰宅途中に書店に立ち寄りましたら、面白そうな書籍をまた幾つか見つけました・・。
私の場合、季節によって好んで読む書籍の傾向があるようで、理由は分かりませんが、寒い季節になると思想、哲学分野といった観念的事象を扱った著作を好んで読む傾向があるのではないかと思われます・・。
また、かねてより好んで読んでいた歴史系の著作とは、記述内容の抽象度により思想、哲学にも分類されるものがあります。
そして当初はそれこそ、さまざまな戦記・伝記といった、どちらかというと抽象度の低い著作を好んで読んでおり、また、この時期はかなり長く続きましたが、何時の頃か基本的には同じ歴史を扱ってはいるものの、抽象度が高い思想、哲学にも分類される著作を読むことが出来るようになり、さらにその後、どちらかというと、そちらの方を好むようになっていきました。
しかしながら、こうした思想、哲学に分類されるような著作全般とは、私見として夏の暑い盛りに読むのは困難であると思われるのです・・(苦笑)。
歴史を題材とした思想、哲学といった抽象度の高い著作一般とは書かれている内容が指し示す歴史の流れ、出来事が多岐に渡り、あるいは重層的、多義的であることが多いと云い得ます。
そのような著作とは、読解において、自身の持つ様々な歴史の流れをその都度適用して考えなければならないため、少なくとも当初においては、それなりに面倒な思考作業であるといえます。
ともあれ、それも読み進むに伴い、著者の述べたい歴史の流れのモデルが概容として理解、把握出来てきますと、徐徐に読み進むスピードが速くなっていく傾向があります。
こうした一連の流れ、過程とは、様々な機器のチューニング作業あるいは顕微鏡観察のピントを合わせる作業などとも幾分類似しているのではないかと思われますが如何でしょうか・・(笑)?
そして、上記のような過程により歴史を抽象、観念的に理解できる(と考える)ようになりますと、今度はそればかりに偏り、歴史の流れを把握する基礎となる文献、遺物、遺跡といったものの把握、理解が疎かになることもまた少なからずあるようです・・(苦笑)。
そして、こうした現象を『観念的』あるいは竹山道雄が述べるところに従えば『歴史の演繹的な理解』と評されるのではないかと思われます。
また、こうした視座つまり、ある前提となる観念的な定立に基づく(演繹的な)事物の把握、理解とは、その多くが間違った結論に至るとのとですが、この意見は自身の経験にも基づき妥当であると判断されます。
それ故、ハナシをふりだしに戻して考えてみますと、現在未だ寒いといえる季節において観念的著作を読むことを好んでいるものの、今後季節が春になりますと、実際に存在する事物に対しての興味へとまた移行するのではないかと思われます・・。
また、その時こそ、冬季に読んだ観念的著作と実在する事物との間の関連性がひらめき、それを文章として著し指摘することが出来るようになるのではないかとも思われるのです・・。
そして、この考えが単に観念的なものであるかどうかは、訪れる季節およびその時の自身が教えてくれるものといえます・・(笑)。
また最後に自己弁護のために書いておきますと、記述内容の全てにおいて、全くの自己矛盾がないというのもあまり面白くないのではないでしょうか・・(笑)?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。
また、帰宅途中に書店に立ち寄りましたら、面白そうな書籍をまた幾つか見つけました・・。
私の場合、季節によって好んで読む書籍の傾向があるようで、理由は分かりませんが、寒い季節になると思想、哲学分野といった観念的事象を扱った著作を好んで読む傾向があるのではないかと思われます・・。
また、かねてより好んで読んでいた歴史系の著作とは、記述内容の抽象度により思想、哲学にも分類されるものがあります。
そして当初はそれこそ、さまざまな戦記・伝記といった、どちらかというと抽象度の低い著作を好んで読んでおり、また、この時期はかなり長く続きましたが、何時の頃か基本的には同じ歴史を扱ってはいるものの、抽象度が高い思想、哲学にも分類される著作を読むことが出来るようになり、さらにその後、どちらかというと、そちらの方を好むようになっていきました。
しかしながら、こうした思想、哲学に分類されるような著作全般とは、私見として夏の暑い盛りに読むのは困難であると思われるのです・・(苦笑)。
歴史を題材とした思想、哲学といった抽象度の高い著作一般とは書かれている内容が指し示す歴史の流れ、出来事が多岐に渡り、あるいは重層的、多義的であることが多いと云い得ます。
そのような著作とは、読解において、自身の持つ様々な歴史の流れをその都度適用して考えなければならないため、少なくとも当初においては、それなりに面倒な思考作業であるといえます。
ともあれ、それも読み進むに伴い、著者の述べたい歴史の流れのモデルが概容として理解、把握出来てきますと、徐徐に読み進むスピードが速くなっていく傾向があります。
こうした一連の流れ、過程とは、様々な機器のチューニング作業あるいは顕微鏡観察のピントを合わせる作業などとも幾分類似しているのではないかと思われますが如何でしょうか・・(笑)?
そして、上記のような過程により歴史を抽象、観念的に理解できる(と考える)ようになりますと、今度はそればかりに偏り、歴史の流れを把握する基礎となる文献、遺物、遺跡といったものの把握、理解が疎かになることもまた少なからずあるようです・・(苦笑)。
そして、こうした現象を『観念的』あるいは竹山道雄が述べるところに従えば『歴史の演繹的な理解』と評されるのではないかと思われます。
また、こうした視座つまり、ある前提となる観念的な定立に基づく(演繹的な)事物の把握、理解とは、その多くが間違った結論に至るとのとですが、この意見は自身の経験にも基づき妥当であると判断されます。
それ故、ハナシをふりだしに戻して考えてみますと、現在未だ寒いといえる季節において観念的著作を読むことを好んでいるものの、今後季節が春になりますと、実際に存在する事物に対しての興味へとまた移行するのではないかと思われます・・。
また、その時こそ、冬季に読んだ観念的著作と実在する事物との間の関連性がひらめき、それを文章として著し指摘することが出来るようになるのではないかとも思われるのです・・。
そして、この考えが単に観念的なものであるかどうかは、訪れる季節およびその時の自身が教えてくれるものといえます・・(笑)。
また最後に自己弁護のために書いておきますと、記述内容の全てにおいて、全くの自己矛盾がないというのもあまり面白くないのではないでしょうか・・(笑)?
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧およびその後の復興を祈念しております。
2017年2月3日金曜日
20170202 ひらめき、読書、読解能力の低下について・・
A「昨日は特に理由があったわけではありませんが、記事作成を休みました。
とはいえ、このところ再度ほぼ毎日記事作成を行ってきましたので、ここで一休みするのも悪いことではないと思われます・・。
本日は若干帰宅が遅くなったことから再度記事作成を止めておこうと考えましたが、二日間連続で休むのもいささか気が引ける部分もあり、今現在このように書いております・・(笑)。
昨日は記事作成を休み、またPCの起動すらしませんでしたが、それでも思った以上の記事の閲覧があり、またその閲覧されている記事も多岐に渡っておりました。
また、それらの間に特に関連性らしきものは看取することができません・・少なくとも今現在までにおいては・・(笑)。
あるいはしかし、後日それらの間に何か「アッ!」と思わせるような関連性あるいはそれらを結節する何かしらの観念が思い浮かぶことがあるのでしょうか・・(笑)?
そのように考えてみますと、かつて(自分なりに)盛んに研究に従事していた時期、そうしたことを人との対話などにおいて惹起され、あるいはまた、そうした観念の涌出とは朝の時間帯に突如として生じることが比較的多かったことが想起されます・・。
そこから比べますと、たしかに現在とは、その当時に比べ「ひらめき」に関しては大分疎遠になっていると考えられます・・(苦笑)。
加えて「ひらめき」が比較的盛んに訪れるのは日常的に書籍、文字を多く読んでいた時期であったともいえるのではないかと考えます・・。
その意味において今現在は読み進めている長編小説といったものはなく、既読著作の再読といった感じであることから、さきに述べたような感じを受けるのかもしれません・・。
そうしますと「さて、今度は何を読んでみようかな?」と考える次第ですが、これに関しても特に昨今は「徐徐に読んでみたくなる」といった感じであり、以前のようにたて続けに長編、学術書を読むといった芸当は出来なくなってきております・・(苦笑)。
また、たしかにこの点に関しては読書、読解能力の衰頽、低下を感じますが、その一方、こうした(しょうもないかもしれない)アウトプット(ブログのこと)に関しては過去に比べ盛んに出来るようにはなってきておりますので、案外これはこれで釣り合いが取れているのではないかとも思われるのです・・(笑)。
あるいは、これも単なる「言い訳」なのでしょうか・・(苦笑)?
そういえば先日久しぶりに会田雄次の著作を幾つか手に取って断片的に読んでみましたが、それらに書かれてあることの多くは現在の我が国にこそ適用することができるのではないかと思いました・・。
また、こうした過去の保守派の論客、知識人とされる方々が書いた文章、著作とは概して、現在そのように自他共に認める(そのような立場の)方々に比べ、書かれた行間から感じられる迫力、説得力が大きく異なるように思われるのです・・。
そして、こうした差異がある程度広く肯定されるものであるならば、その理由とは何であろうか?と考えてみますと、それは「経験」ではないかと思われます。
また、それは我が国の近現代前期(1868~1945)をさらに二分割(1868~1906・1907~1945)した際の前半・後半それぞれの時代精神の差異にもある程度いえるのではないかと思われますが、如何でしょうか?
「ヒトが制度を作り、その後は制度がヒトを作る」おそらく我々日本人とは、制度を以てヒトを作るということに関して、特に近代以降、あまりその手腕を発揮できていないのではないかと思われますが、これも如何でしょうか?
何れにせよ、太平洋戦争を経験された方々の著作一般とは、我々日本人が如何なる民族であるのかよく考えさせてくれます・・。
とはいえ今回もここまで読んで頂いてどうもありがとうございます。
昨2016年に発生した熊本、山陰東部そして福島周辺での大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
とはいえ、このところ再度ほぼ毎日記事作成を行ってきましたので、ここで一休みするのも悪いことではないと思われます・・。
本日は若干帰宅が遅くなったことから再度記事作成を止めておこうと考えましたが、二日間連続で休むのもいささか気が引ける部分もあり、今現在このように書いております・・(笑)。
昨日は記事作成を休み、またPCの起動すらしませんでしたが、それでも思った以上の記事の閲覧があり、またその閲覧されている記事も多岐に渡っておりました。
また、それらの間に特に関連性らしきものは看取することができません・・少なくとも今現在までにおいては・・(笑)。
あるいはしかし、後日それらの間に何か「アッ!」と思わせるような関連性あるいはそれらを結節する何かしらの観念が思い浮かぶことがあるのでしょうか・・(笑)?
そのように考えてみますと、かつて(自分なりに)盛んに研究に従事していた時期、そうしたことを人との対話などにおいて惹起され、あるいはまた、そうした観念の涌出とは朝の時間帯に突如として生じることが比較的多かったことが想起されます・・。
そこから比べますと、たしかに現在とは、その当時に比べ「ひらめき」に関しては大分疎遠になっていると考えられます・・(苦笑)。
加えて「ひらめき」が比較的盛んに訪れるのは日常的に書籍、文字を多く読んでいた時期であったともいえるのではないかと考えます・・。
その意味において今現在は読み進めている長編小説といったものはなく、既読著作の再読といった感じであることから、さきに述べたような感じを受けるのかもしれません・・。
そうしますと「さて、今度は何を読んでみようかな?」と考える次第ですが、これに関しても特に昨今は「徐徐に読んでみたくなる」といった感じであり、以前のようにたて続けに長編、学術書を読むといった芸当は出来なくなってきております・・(苦笑)。
また、たしかにこの点に関しては読書、読解能力の衰頽、低下を感じますが、その一方、こうした(しょうもないかもしれない)アウトプット(ブログのこと)に関しては過去に比べ盛んに出来るようにはなってきておりますので、案外これはこれで釣り合いが取れているのではないかとも思われるのです・・(笑)。
あるいは、これも単なる「言い訳」なのでしょうか・・(苦笑)?
そういえば先日久しぶりに会田雄次の著作を幾つか手に取って断片的に読んでみましたが、それらに書かれてあることの多くは現在の我が国にこそ適用することができるのではないかと思いました・・。
また、こうした過去の保守派の論客、知識人とされる方々が書いた文章、著作とは概して、現在そのように自他共に認める(そのような立場の)方々に比べ、書かれた行間から感じられる迫力、説得力が大きく異なるように思われるのです・・。
そして、こうした差異がある程度広く肯定されるものであるならば、その理由とは何であろうか?と考えてみますと、それは「経験」ではないかと思われます。
また、それは我が国の近現代前期(1868~1945)をさらに二分割(1868~1906・1907~1945)した際の前半・後半それぞれの時代精神の差異にもある程度いえるのではないかと思われますが、如何でしょうか?
「ヒトが制度を作り、その後は制度がヒトを作る」おそらく我々日本人とは、制度を以てヒトを作るということに関して、特に近代以降、あまりその手腕を発揮できていないのではないかと思われますが、これも如何でしょうか?
何れにせよ、太平洋戦争を経験された方々の著作一般とは、我々日本人が如何なる民族であるのかよく考えさせてくれます・・。
とはいえ今回もここまで読んで頂いてどうもありがとうございます。
昨2016年に発生した熊本、山陰東部そして福島周辺での大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」
2017年1月31日火曜日
20170131 岩波書店刊 エルヴィン・シュレーディンガー著「生命とは何か」―物理的にみた生細胞― からの抜粋
岩波書店刊 エルヴィン・シュレーディンガー著「生命とは何か」―物理的にみた生細胞― からの抜粋
pp.151ー152
「この最後の章で私が明らかにしようとおもうことは、一口でいえば、生きているものの構造について本書で学んだこと全体から、生きているものは物理学の普通の法則に帰着させることのできない或るやり方で働きを営んでいるという結論を出す準備が整ったに違いない、ということです。pp.151ー152
しかもそれは生きている生物体内の一つ一つの原子の行動を指図する何か「新しい力」とか、あるいは力以外の何ものかが存在するということを根拠としているのではなく、生きているものの構造が、物理の実験室でいままで研究されてきたどんなものとも異なっているという理由に基づきます。
大ざっぱに説明すると、たとえば蒸気機関しかよく知らない技師が電気モーターの構造をみて一通り検べ終えれば、おそらくこの技師はそれが自分のまだ知らない原理に従って働いているという結論を出す準備が整っただろうというようなものです。
彼はボイラーなどでよく知っている鋼がここではコイルに巻かれている長い長い銅線として使われており、また梃や棒や蒸気筒などでよく知っている鉄がここでは銅線のコイルの内側をみたしていることに気がつきましょう。
彼はきっと、これは同じ銅と同じ鉄であり、自然界の同じ法則に従うに違いないと考えるでしょう。
この点で彼の考えは正しいのです。
その技師は、これほど構造が違っているのだから働き方が全然異なっているだろうと考えるのでしょう。
だが電気モーターはボイラーや蒸気もなしにスイッチ一つひねればまわりだすのだから、何か幽霊によって運転されるのだろうというような疑いを起こすことはないでしょう。」
pp.154ー156
「いずれにせよ、繰り返し何度でも強調すべき点は、物理学者にとってこのような事態は先例がないので、ありえそうもないと思えるばかりでなく、実に驚愕すべきことだという点です。
一般の人が信じているところに反して、物理法則により支配されている規則正しい物事の成り行きは、原子が高度の秩序をもった配列をしていることの結果ではなく、原子の配列状態が、周期性の結晶の場合またははなはだ多数個の同種の分子からなっている液体あるいは気体の場合のいずれかの場合のように、同じ配列がはなはだ多数あることに基づいて出てくる結果に他なりません。
化学者が実験室でははなはだ複雑な分子を取り扱う場合でさえも、必ず莫大な数の同様な分子を相手にしています。
或る特定の反応がはじまってから一分後には半数の分子が反応を終えており、二分後には四分の三が反応を終えているという場合がありましょう。
だが、仮に或る特定の分子の(反応)経路を追跡することができるとしても、その分子がすでに反応を済ませたものの中にあるか、まだ反応を起こしていないものに含まれているかどちらかであるかを予言することはできません。
それはまったく偶然のことがらです。
私は単に理論的に推測してこういっているのではありません。
それは、われわれがただ一個の小さな原子団あるいはただ一個の原子の運命を観察することがどうしてもできないからというのではありません。
事実それを観測できる場合も少なくありません。
しかしその場合にはいつでも必ず完全な不規則性が見出されるのであって、それらを合わせて平均してはじめて規則性が生まれます。
その例はすでに第一章で説明しました。
液体の中に漂っている一個の小さな粒子のブラウン運動はまったく不規則です。
しかし同じような粒子が多数あれば、それぞれの粒子の不規則な運動によって全体としては規則的な拡散の現象が現れます。
ただ一個の放射性原子が崩壊するのは観察することができます。(或るものを放射しそれが蛍光膜に当たると目がチラチラした光を放ちます。)
しかし放射性原子をただ一個だけ取り出したとすると、その寿命を予言することは健康な一羽の雀の寿命をあてるよりもずっと困難です。
事実その原子の寿命については次のこと以上何もいえません。
すなわち、その放射性原子が生きている限りいつまでたっても(しかもその寿命は何千年あるかもしれないのですが)、次の一秒間の間に崩壊する確率は、確率自身の大小にはかかわらず、同種の放射性原子が多数あれば、その結果として正確に指数関数に従う崩壊の法則が出てくるのです。」
エルヴィン・シュレーディンガー
「生命とは何か」
ISBN-10: 4003394615
ISBN-13: 978-4003394618
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