2016年3月15日火曜日

20160315 対話形式から独白形式に変更した理由について・・

どのような心境、考えの変化により、これまでの対話形式から独白形式に変えたのかは実際よくわかりません。

ただ、伝えたい内容をより直接的に発信するという意味では、現在の独白形式の方が優れているように思います。

このことを異言すると、コトバ、文章の機能を「情報伝達のための手段」であると考えてみると、独白形式の方が対話形式よりも優れているということになります。

では何故、これまで私は対話形式を用いてブログ記事を作成し続けたのでしょうか?

それは、以前の対話形式のブログ記事においても記されていましたが、先ず、対話形式を用いることにより「著者の考え=文章の内容」とならないことにより、生じるかもしれない批判、非難そして炎上をかわすことが出来ると考えたためです。

次に、独白形式の優れている点の逆となりますが、間接的(他者による対話)に読んでくださる方々に対して発信することにより、その受けとられ方が若干柔らかになるのではないかと考えたためです。

これらの私の考える対話形式の優れた点とは、全般的に発信する内容、情報を柔らかく、なめらかになるということではないかと思います。

加えて、書かれている内容、情報の推敲の過程を独白形式の文体よりも詳細に表現することができるという点も挙げられると思います。

さらにまた下世話な話になりますが、対話形式を用いることにより文字数をカサ増し、増量することが独白形式の文体に比べ容易であるということもまた挙げられると思います。

とはいえ、これらはあくまでも記事を書いた私の意見であり、読んでくださっている方々の意見ではありませんので、断定、断言することはできません。

また単純に、読んでいて、どちらの形式の方が(まだ)面白く読めるかというのもまた、私一人で判断できることはありませんので、今後適当な判断材料を見つけ、考えてみたいです。

一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。


2016年3月14日月曜日

20160314

原因はわかりませんが、先月十日頃から、ペンで文字を書いたり、PCで文字を入力する際、つまり現在もそうなのですが、この時に利き手側、つまり私の場合、左腋下から左肩甲骨下部あたり一帯が少し痺れるような感じがするようになりました。

特に痛みなどはなく、また筆記、入力作業に支障はありませんので、そのままにしております。

とはいえ、その原因を自分なりに考えてみますと、この症状?が出はじめた二月十日とは、ブログの閲覧者数が急増した時期ですので、この間には何か関係、関連があるのかもしれません。

そして、それに関係、関連があるとすれば、それは一体どのようなものであるのかとは、多少気になるところです・・。

しかし残念ながら、現在の私には、それを検証する術、知識がありません・・。

さて、話は変りまして、ここ数回の投稿記事とは、これまでの対話形式を用いないで書いてきましたが、私としては、これはなかなか新鮮で面白いです。

私のブログを読んでくださっている方々の中で、これまでの対話形式に慣れ親しんでくださった方々もいらっしゃるかもしれません。

期間は分かりませんが、今後また思い出したかのように対話形式を用いる、戻ることになるかと思いますので、今しばらくは現在の文体におつき合いいただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

また、それに加えて、これまでの対話形式を一端止め、現在の独白的?な文体を用いることにより伝えたい内容を、読んでくださっている方々に対し、直接的、ダイレクトに発信することが出来ることを今更ながら気がつき、もしくは再認識しました(笑)。

こうしたことを考えてみますと、小説、物語、散文、論文などにおける対話部分、著者の独白部分の全体に対する割合などにより、その作風、受ける感じ、分かり易さなども大分異なってくるのではないかと思いましたが如何でしょうか?
とはいえ、対話形式の論文といったものは、これまでに見聞きしたことがありませんので、こうしたことは、文体の定義(ここでは独白の表現の仕方、著者の立ち位置、スタンス)にも関与する性質であるのかもしれません。




2016年3月13日日曜日

20160313 温泉について・・

何故か私はこれまでに温泉のある場所に住むことが多かったです。

とはいえ、日本列島とは、火山と温泉が多い地域であるので、あまり深い意味はなさそうです。

私がはじめて入った温泉とは、おそらく祖父母の家があった伊豆のものであると思います。

この伊豆を含めた伊豆半島一帯とは、関東および他の隣接する地域と、属するプレート(地球表面を覆う岩盤)が異なり、また温泉も湧出することから、何となく、植生、風土も異なり一種独特の感じを受けます。

また、これと類似した感じを受けたのは南紀白浜であり、伊豆に比べて、さらに南方的要素を濃厚にしたような植生、風土でした。

南紀白浜に隣接する田辺市等を含めたこの地域一帯とは、本州にありながらも大変南国的な気候風土であり、さらに西日本、関西の文化圏にも連なっているという意味において、大変興味深い地域ではないかと思います。

また、おそらく熊野信仰などもそういった土壌により育まれていったのではないかと考えさせられます。

加えて、南紀においては万葉集に登場する歴史的人物の逸話も数多くあり、これは万葉の時代より南紀白浜温泉(牟婁湯)が人々に認知、愛好されていたことをしめします。

とはいえ、こうした逸話とは何も南紀白浜温泉のみに限らず、有馬温泉、別府温泉、道後温泉などにおいても同様に見出すことができます。

おそらく古代の人々は、こうした温泉に何かしら蘇生あるいは不老長寿の効能を認めたのではないかと思います。

そして、そうした生死観に連なる考えとは、その土地の葬送文化つまり古墳文化などに対しても何かしらの影響を与えているのではないかと思われます。

また、こうした温泉と古墳の関連で私が想起するのは砂蒸温泉で有名な鹿児島県指宿市にある弥次ヶ湯古墳であり、これは薩摩半島において、その存在が大変珍しい古墳であり、造営された時代は6世紀代とされていますが、その様式、背景文化等についての詳細はあまり知られていません。

「一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。」

2016年3月12日土曜日

20160312 紀伊、和歌山の古墳について・・

昨日のブログにて述べた和歌山県和歌山市の岩橋千塚古墳群ですが、ここでの古墳造営期間は主に4世紀末~6世紀代を通じてであり、7世紀以降からは既存墳墓への追葬などは行われたようですが、新たな墳墓の造営は急速に行われなくなりました。

こうした古墳時代末期(7世紀~)における葬送文化の変化とは、6世紀半ばの朝鮮半島百済からの仏教伝来により大和国、畿内を中心に徐々に葬送観念そして文化に変化が生じたことによるものと考えられています。

一般的に古墳時代とは3世紀中葉から7世紀初頭までと区分されています。

また、それと同時にこの時代区分とは、地方、地域によって独特の傾向あるいは偏差(地域性)が見られます。

こうした傾向、偏差(地域性)を岩橋千塚古墳群にあてはめて考えてみますと、造営された墳墓の多くが、古墳時代中期以降~後期(5世紀後半~6世紀代)の期間に集中しているということが挙げられます。

また、それに加えて、造営された墳墓の主な造営様式が古墳時代後期を特徴付ける横穴式石室であることも挙げられます。

さらに加えて、ここでの横穴式石室の造営様式とは、朝鮮半島を経由して九州北部に定着した横穴式石室の墳墓が関西、近畿に東漸、定着した最初期に属するということもまた挙げられます。

しかし、それ以前においても古墳群自体は存在しており、奈良県橿原市の新沢千塚古墳群は4世紀~7世紀にかけて古墳造営が為され、その期間は岩橋千塚に若干先行しており、またその主流な墳墓造営様式は竪穴式石室となっています。

ともあれ、横穴式石室が主流である岩橋千塚古墳群とは、現在の我々から見て観察に適したものであるのではないかと思います。

また、この全古墳に対する横穴式石室の割合の高さとは、和歌山県、紀伊国全域の古墳全般についても同様の傾向が認められます。

しかしながら、こうした傾向とは、ある程度の古墳数を有する地域、都道府県内においても概ね共通するものであり、むしろ初期~中期の古墳が多い場所とは、何かしら特別な歴史的意味合いを持っているのではないかと考えさせられます。



2016年3月11日金曜日

20160311 都市に流れる川について

先日より求職活動にて、いくつかの地方都市(県庁所在地)に行ってきましたが、どの都市にも概ねその市街地に川が流れておりました。
現在の県庁所在地をはじめとする地方都市とは、古来より都市として栄えてきた場所が多いと思います。
そして、それらは、水運および水稲耕作を行う際において重要な水利、可耕平地が比較的得やすいという環境に因り、そのようになったものと考えられます。
しかし、こういったことは何も日本に限らず、世界の古くからの都市においても同様にいえるのではないかと思います。
ヘロドトスのコトバで「エジプトはナイルの賜物」というのがありますが、これをかりそめに和歌山県和歌山市に応用してみますと「岩橋千塚は紀ノ川の賜物」ということが出来るのではないかと思います(笑)。
また、鹿児島市においても市街地に幕末歴史モノに多く登場する甲突川が流れています。
私がはじめて、この「甲突川」という名前を知ったのは、おそらく西郷隆盛のマンガ、あるいは司馬遼太郎の小説からであったと思いますが、この「こうつきがわ」という音は、当時の私のとって、何かしらユニークなものとして認識されていました。
そしてこの「こうつきがわ」の由来を私なりに考えてみますと、もしかしたら国府津来川ではないだろうかと考えてみました・・。
昔の薩摩の国府とは別の場所にあったのですが、それと同時に現在の鹿児島市域内には、古代よりの集落の跡、古社などが多く見られることから、古来より甲突川河口流域とは、薩摩国における中心的な集落(都市)の一つであったことは確かです・・。
加えて、後代における中央朝廷の対隼人政策、具体的なものとして周辺諸国からの薩摩国への移住政策、あるいはさらに後代の平安末期、鎌倉時代における島津氏をはじめとする関東武士の入植などによる影響(文化の流入)があったのではないかとも考えさせられます・・。

参考となるコトバとして国府津(こうづ)

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2016年3月10日木曜日

20160310 これはツライです・・。

本日、公募等の選考結果が合計4件届きました。
それらの結果は全て不採用でした。

結果的には1件に採用されれば良いのですが、不採用を4件、同日に知るのはやはり辛いものです・・。

また、その内の1件は遠くまで面接に行ったものでした。
面接に行った結果、不採用となりますと、何か自分のより多くの部分を否定されたような感じを否応なく受けます・・。

ここまで、こうしたことが続くのであるならば、もしかしたら、私の人生とは、どこか間違っている(いた)のかもしれません・・。

とはいえ、来年度(4月)になるまでは、もう少し求職活動を継続してみようと思います・・。

このブログの更新も以前ほど頻繁にはならないと思います。
お読み頂いている方々には、大変申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。



2016年3月8日火曜日

加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.253-257より抜粋 20160308

「源氏物語」以後の平安朝物語の今日伝わらず、標題だけが知られているものは、およそ60ほどある(「源氏物語」以前およそ30.寺本直彦「散佚物語」、久松潜一編「日本文学史中古」至文堂、改訂版、1964、による)。今日読むことができるのは、その一割前後にすぎない。しかも先に挙げた主な作品のなかで、成立の年代の確かなものは、一つもない。年代について専門家の意見がおよそ一致しているのは、「狭衣物語」、「浜松中納言物語」、「夜の寝覚」が11世紀後半、「とりかへばや物語」と「堤中納言物語」の短編の大部分が12世紀(殊にその後半から13世紀初へかけての時期)に作られたらしいということだけである(「堤中納言物語」のなかの一篇が、小式部という伝記不明の女房によって、1055年に作られたとされるのは、唯一の例外だが、その一篇は重要な作品ではない)。
作者については、「狭衣物語」を受領の娘で六条院禖子内親王の宣旨女房(?~1092)の作とし、「浜松中納言物語」を菅原孝標の娘(「更科日記」の作者)の作とする説が有力である。「夜の寝覚」、「堤中納言物語」の大部分、「とりかへばや物語」については、全くわからない。たしかにこのような事情は、「源氏物語」以後の小説の変遷を正確に記述することを困難にする。しかし「源氏物語」(11世紀初)と、11世紀後半の一群と、おそらく12世紀後半とされる諸作を比較すると、そこには一定の発展の方向が認められる。第一、「源氏物語」の模倣。11世紀後半の現存の物語は、宮廷を中心とする貴族社会の恋愛小説であるという一般的な意味においてばかりではなく、「源氏物語」の特定の状況(人物間の関係と話の構造)を模倣しているという意味でも、伝統的である。完本を残さない「夜の寝覚」にさえ、その傾向ははっきりと窺えるが、「狭衣物語」の場合には、登場人物をそれぞれ「源氏物語」の藤壺・源氏・夕顔・葵・紫などにあてはめて考えることができる。
「浜松中納言物語」の場合にも、そのすじ書きは薫大将と宇治大君との関係に似る。
また主人公と唐の皇后との関係も、源氏と藤壺との姦通事件を思わせる。
このような「源氏物語」の直接の影響は、「堤中納言物語」や「とりかへばや物語」にはみられない。院政末期の貴族社会の背景が、「源氏物語」の時代、すなわち藤原氏権力の最盛期を遠ざかるに到ったからであろう。院政は権力の中心の二元化であり、その末期は宮廷外の力(大寺院、武士、地方豪族)が貴族権力を脅かしはじめた時期である。平安朝貴族文化の様式(魔術的および世俗的儀式、制度化された文芸・美術・閉鎖された社会の生活様式)は、12世紀末まで根本的には変わらなかったが、文化の求心的傾向(「栄華物語」と「大鏡」の道長中心主義に典型的である)は次第に失われ、現世即宮廷即浄土の楽天主義は、末法観の悲観主義に代られるようになったのである。したがって「源氏物語」的世界の恒久化が、作者の唯一の関心でありえなくなった。第二、「源氏物語」にみられる現実性の失われたこと、あるいは小説の想像的な面の極端な強調。それには二面があって、空想的で異常な状況を設定する傾向が一つ、話の構造を図式化し、しばしば左右相称の単純化(抽象化)にまで到る傾向がもう一つである。「狭衣物語」では、主人公が横笛を吹くと、天の使者が降りてくる。この挿話は「うつほ物語」の琴の奇蹟に似て、「源氏物語」の日常的世界からは遠い。「夜の寝覚」にも、奇蹟ではないが、空想的で到底ありそうもない話が絡む。しかし架空の話があまりにも現実を離れて、馬鹿馬鹿しい夢物語と化したのは、「浜松中納言物語」である。その舞台は日中両国にわたる。唐の皇后は、唐の遣日使と日本の女との間に生まれた女であり、その息子(第三皇子)は、主人公(中納言)の亡くなった父の生まれ代わりである。皇后は一度死んで天に生まれ代わり、もう一度生れ代って、日本の異父妹の子供となる。生れ代りの情報は、主人公が夢のなかで知る。このように途方もない背景に対して、薫と宇治大君、源氏と藤壺に酷似した関係が語られているが、「源氏物語」の場合のように、その人物の心理の微妙な動きは描かれない。父親の生れ代りのシナ人少年に出会ったときの主人公の心理を、細かく想像することは、そもそも似た状況が現実にない以上困難であろう。心理的な陰影の描写の代りに、儒教道徳による通俗的説明(主人公の父に対する孝心)が前面に押しだされているのは、そのためである。
またたとえば、自由自在に生れ代る皇后の恋心も、藤壺の場合とはちがって、単純な月並み解釈以外のものではありえない。けだし人間は自由自在に生れ代ることができないから、恋をするのであり、恋心のあらゆる複雑さと切なさとが生じるのであろうからだ。
「源氏物語」の背景の現実性のと心理小説としての洗練との間には、あきらかに密接な関係があった。背景の現実性を捨てたときに、「源氏物語」以後の小説は、当然心理描写の妙味をも捨てざるをえなかったのである。奇抜で非現実的な状況におかれた「浜松中納言物語」の人物は、作者が恣意的に操る木偶にすぎない。そういう傾向は、話の構造の図式化にもあらわれている。図式化のもっとも典型的な例は、誤って目的の女とは別の女と契るという趣向である。たとえば「夜の寝覚」の姉妹の妹(中君)と主人公との関係。また「堤中納言物語」の娘とその祖母の尼とのとりちがえ(「花折る少将」)や二人の少将がそれぞれの恋人である姉妹をとりちがえる話(「思はぬ方にとまりする少将」)。この最後の例は、左右相称的な構造を示す。このような話のなかで、登場人物は、いずれも彼ら自身の内的な世界をもたず、作者のさす将棋の駒のような存在にすぎない。しかし「堤中納言物語」の場合には、そうすることで、しばしば滑稽な効果を生じ、「パロディー」にさえも近づくことがある。(そのことには、次に触れる)。「とりかへばや物語」の話も、図式的である。男に二人の妻あり、一方は男子を生み、他方は女子を生む。男子は女性的で、女として結婚し、女子は男性的で、男として出世する。男子と結婚の相手の男、女子と彼女が(男として)仕える春宮(女)―、男と男、女と女の二組ができて、そこに宮の宰相という一人の遊蕩児が絡んで、話が展開するのである。人物の性格は、はっきりしない。
その心理的反応は月並みであって、そこに何らの発見がない。
その代りそこには空想的な状況から生じる倒錯的な性的刺激がある(そのことには、次に触れる)。要するに平安朝貴族社会は、10世紀後半に、「うつほ物語」によって長編小説の形式を、「落窪物語」によって日常的現実主義を、「かげろふ日記」によって内省的心理主義を発見し、11世紀初に「源氏物語」によってそれを綜合し、見事な小説的世界をつくりあげた後、11世紀後半から12世紀末まで、何ら重要な発見をつけ加えることなく、頽廃していったということができる。しかし例外があり、それが「源氏物語」以後の物語の獲得した一種の滑稽味と、倒錯的な刺戟であった。
日本文学史序説〈上〉
ISBN-10: 4480084878
ISBN-13: 978-4480084873
加藤周一