2020年7月19日日曜日

20200718 株式会社講談社刊 谷川健一著「魔の系譜」pp.11‐14

「私は日本の歴史に触れて、しだいに一つの考えを抱くようになった。死者が生者を支配するーといった現象が、日本の歴史において、あまりにも多いように思うのだ。死者が生者を支配するーというのは、周知のようにオーギュスト・コントの有名な言葉だが、それは死者と生者の連帯を意味するのであろう。ヨーロッパでじゃ、伝統とは死者と生者の連帯というほかにない。

しかし日本では先祖とのつながりはあるにしても、普遍的な死者と生者の連帯はない。あるのは対立だ。しかも死者が生者を支配するのだ。
 いったいこういう歴史がほかのどの国にあるのか、寡聞にして私はそれを知らない。死者が生者をうごかす。生者は死者のそうした力を信じ、おそれ、それをとりなすためのあらゆる努力を傾ける。こういえば、悪霊をしずめる未開社会の心理を連想するだろうが、日本のばあいは未開社会とちがう発展の歴史をもっている。
 しかも日本ほどたやすく死者の復活を信じている国民はすくないだろう。わずかこの一世紀ばかりの、あるいは戦後20年ばかりの歴史を尺度にして私はいっているのではない。何千年もの伝統をふまえて、そういっているのである。
 普遍的な発展の法則にしたがっている日本歴史の裏側に、もう一つの奇怪至極な流れがある。それは死者の魔が支配する歴史だ。この死者の魔は、老ゲーテの信じた肯定的デーモン(地霊)とはちがって、否定的な魔である。
 それは表側の歴史にたいしては挑戦し、妨害し、畏怖させ、支配することをあえて辞さない。死者は、生者が考えるほどに忘れっぽくないということを知らせるために、ことあるごとに、自己の存在を生者に思い出させようとするかのようだ。
 この魔の伝承の歴史ーを抜きにして、私は日本の歴史は語れないと思うのだ。
 しかも、このばあい、死者は敗者であり、生者は勝者なのだ。弱者が強者を、夜が昼を支配することがあっていいものか。弱肉強食が鉄則になっているヨーロッパの社会などでは考えられないことだが、敗者が勝者を支配し、死者が生者を支配することが、わが国の歴史では、れんめんとつづいている。この奇妙な倒錯をみとめないものは、日本の歴史の底流を理解することはできない。
 死者の否定的な魔が歴史をうごかすーそれは史観と呼んでも差し支えないであろうが、私はそこまでいうつもりはない。ただ私は、日本人が忘れっぽくない民族であることを証明したいだけである。
 戦後の日本人のそれぞれが体験した労苦は生やさしいものではない。この時期に日本人は敗者としての意識をいやというほどに味わった。しかも敗者が敗者のままでとどまるかぎり、それは所詮どうにもならぬことであることも痛切に体験した。
 敗者として同情されることを日本人は嫌悪した。敗者の地位に立たされた日本人が、全力を尽くして考え抜いたことは、いかにして被害者が加害者になりうるかということであった。その証拠には残酷という言葉が、一時期を風靡したことでもわかる。
 こうした情念は、日本人が占領者アメリカにたいして、あるいは政党の被除名者がその政党にたいして抱く感情の代表的なものである。私が戦後の日本人の心情をもち出したのはほかでもない。挫折者または敗者の心情体験をとおして、死者の生者にたいする関係が、あらかじめ理解できるとおもうからだ。
 戦後の日本人が生きのびたという、それだけの理由のために勝利者づらするのを許さない死者たちがいる。彼らは、被害者から加害者への道おひらくことにおのれを賭けて、生者をゆさぶり、ひっぱたき、生者たちを眠りこませないようにしている。
 もとよりそうした死者は戦死者だけではない。政治的事件や反乱に参加して処刑された死者たちも含まれるのである。彼らの企ては挫折し、彼らは敗者としての死を強制された。勝者にたいして一言の抗弁もゆるされないときに、彼らができることといえば何か。
「夜に入り陰雨猛雨交々として来る。雷電激して閃光気味悪し、遠く近く雷鳴続く、鬼哭啾啾タリ 村兄は読経をす 余は 寺内、石本等不臣の徒に復讐す可くノロヒの祈りをなす、ノロヒなり、ノロヒなり。」
 これは二・二六事件の首謀者として死刑を宣告された磯部浅一が、処刑に先立って書いた獄中日記の一部である。一切の希望が絶たれたときに可能なことは、自分を理不尽な運命につき落とした神と生きた敵とをのろうほかにない。磯部は神々を叱咤し、罵倒し、それでなお神々がうごかないとみると
「余は祈りが日々に激しくなりつつある。余の祈りは成仏しない祈りだ。悪鬼になれるように祈っているのだ。優秀無敵なる悪鬼になるべく祈っているのだ。必ず志をつらぬいて見せる。余の所信は一分も一厘もまげないぞ。」
という境地にまで達する。生きながら死者の列にかぞえられている人間の再生するすがたがここにみられる。
「地獄堂通夜物語」によると、佐倉惣五郎(木内宗吾)は処刑のさいに眼をかっと見開いて「極楽往生に望みなし、念仏供養も頼み致さず」といいきった。このとき一天にわかにかき曇り、篠をたばねたような大雨がふりかかって、雷が鳴りわたり、処刑に立ち会った連中は、いっせいに逃げ去ったという。
成仏ーつまり死者の安らかな眠りを断乎として拒否し、悪鬼として復活をねがう瞬間に、私たちは立ち会っているのだ。二・二六事件の被告にかぎらず、怨恨と呪詛が、ついに「魔」の誕生を必然化させる過程をここにみることができる。」
株式会社講談社刊 谷川健一著「魔の系譜」
ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611

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