2019年6月14日金曜日

20190614「翔ぶが如く」第8巻を読んでいて思ったこと」から思い出したこと【眼差しについて】

去る6月10日投稿分の「「翔ぶが如く」第8巻を読んでいて思ったこと」において19世紀後半の日本人の顔貌や眼差しについて触れましたが、その後数日経て、不図思い起こされたのは、2015年夏に亡くなった親戚の葬式でのことである。

この親戚は、長年にわたり、いくつかの大学にて人文社会科学系分野教員を勤めてきたことから、大学および学会などでの知人が多かったようであり、その弔辞は比較的名の通った長老格の大学研究者の方が読まれていた。

そして、この弔辞の中で、亡くなった親戚の眼差しについて述べたところがあった。葬式時であったことから、それに感心出来る余裕は少なかったものの、これを聞いた時、私も以前に同様の感想を持った記憶があったことから「やはり、この親戚の眼差しには特徴的な何かがあったのかもしれない・・。」と少し考えさせられた。
四代前のご先祖のひとり

また、顔貌からの個人識別においては、眼差しを含む両目周辺の部位が重要であることは、経験的にも理解出来ることから、古来より我々人間は、この部位に何か特別な意味のようなものを認めていたのではないかと思われる。

さらに、こうしたことを書いていて思い起こされるのは、以前にも当ブログにて扱ったことがあるが、両目が模様として表現されている福田式銅鐸(邪視文銅鐸)であり、その模様はチベット仏教寺院に描かれているブッダアイズあるいは、古代中国、殷・周の時代における青銅器、玉器に表されている饕餮文にも類似しているが、何れにせよ、これらが作られた地域そして時代の人々が、共通して眼差しを含む両目周辺の部位に、何らかの神秘的な意味・力があると信じていたということは理解出来るのではないかと思われる。

そして、さきに述べた弔辞の中での親戚の眼差しについての言及と、銅鐸に表された邪視文、チベット仏教寺院のブッダアイズそして古代中国の饕餮文との間に通底するものが実際にあるのかと考えてみると、それは科学的な立証は困難であるものの、同時に、我々の感受性のどちらかと云えば原初的な領域に、それを受容し、知覚する「何か」があるのではないかと思われたのですが、さて如何でしょうか?

そういえば、今回の記事投稿により総投稿記事数が1190に到達します。そして、残り10記事にて1200記事へ到達することになります。今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。お蔭さまで、ここまで書くことが出来ました。

数年前から現在に至るまでに列島各地・特に西日本・九州にて発生した、さまざまな自然災害によって被害を蒙った地域の速やかな復旧そして復興を祈念しています。






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