2016年1月13日水曜日

加藤周一著「言葉と戦車を見すえて」筑摩書房刊pp.33-38より抜粋20160106

アンドレ・ヂッドの美しい序文と共に、トマス・マンの高貴な反ナチス宣伝の訳者は、私にその一本を賜り、扉に録して、怖るべき年々の想出にと仏蘭西語で書かれた。その意味は後記に見る如く、それが戦争の間訳者枕頭の書であったからである。
私も又、そのテキストを拝借し、一晩のうちに読み終ったが、感銘措く能はず、興奮の余りその夜は眠れない程であった。
今、私が戦争の間に読んだ本の中で、先ず第一に、最も鮮やかに想出すのは、若干の羅典文学を除けば、この本に他ならない。
羅典文学は、戦争謳歌の光景を眺め、文学を読む不快の情に堪えず、四年の間、一度も映画館、劇場等凡そ人の集まる所に足を入れず、一冊の雑誌も読まなかった私が、身に囚虜を喩え、かのボエティウスが故事にならって、哲学の慰めを求めた逃避の場所である。
然るに、マンの小冊子は、私を惨たる現実の中に連れもどし、悲惨と愚劣、残忍と滑稽との支配する現実そのものの中で、如何にして人間が偉大であり得るか、又あり得たかを、痛切に示してくれた。
怖るべき年々の想出に、私にとっても、之程適しい本はない。既に私は、この「怖るべき」と云ふ言葉の意味を知ってゐる。
しかし、誰でも理解するであらうか。総ての人々に、戦争と軍国主義とは、怖るべきものであらうか。
国政を壟断し、軍記物語の表現を借りれば、久しからずべき奢りを極めた軍人にとって、戦争は怖るべきものではなかった。そのような軍人を買収し、資本の拡張を国威の宣揚と偽装し、大小の利益を収めたすべての戦時利得者にとって、戦争は怖るべきものではなかった。
凡ゆる戦争責任者にとって、怖るべきものは、戦争ではなく、敗戦であり、敗戦ではなく、軍国主義的専政の崩壊であり、戦争責任の追及であり、労働組合の活動であり、要するに民主主義革命である。彼等にとって、怖るべき年々という云うことは、意味をなさない。
知識階級にとっては、如何。専修大学を卒業して田舎へ帰り、村の翼賛壮年団長となってゐた地主の息子、東京帝国大学法学部を卒業して高文を通り、目出度く役人となって結婚し、軍国主義だらうととにかく出世するために、頭を刈上げ、ゲートルを巻き、それで安心しながらもっともらしい口はきいたが、実は何も解ってゐなかった成上がり官僚、科学尊重の空念仏に多年の不遇は酬ひられたかのやうな錯覚を抱き、有頂天となって世にも愚かな日本の科学の何国にもひけをとらぬ所以などを口走ってゐた小学生のやうな科学者、そして殊に、総動員法にも宣戦布告にも拍手した代議士、又大勝利のデマを軍人が製造すると忽ち二つに割れた軍艦の見て来たやうな嘘を書きあげた絵かきや、シンガポール陥落だの配給のさつまいもだのと云う破廉恥な詩を無数に吐き出した詩人、勤皇だの慟哭だのと絶叫して社会のアタヴィスムを煽動した帝国主義イデオローグの群、―彼等は、一体戦争を怖るべきものと考へたであらうか。
知識階級も又、戦争を怖るべきものとして、理解せず、怖るべきものとして体験しなかった。
今日議会では、尾崎行雄野坂参三が発言し、講壇では大内兵衛矢内原忠雄が語り、ヂャーナリズムには、河上肇の獄中記や、トマス・マンの宣言がある。
しかし怖るべき「体験」を有しない知識階級が、彼等の説く怖るべき「理由」を理解するはずがない。
自由主義者は、以前には軍国主義の流行があり、今は民主主義の流行がある、私はどちらにも与しない等と云ってゐる。
芸術家と称する連中は、今は政治的季節である。私は政治に興味がないと広言してゐる。
そして、之こそは最も重大な事実であるが、知識階級の最も若い層、学生の大部分は、一方で闇屋に転落しつつあると共に、―之は彼等の罪ではない、一方経済的に余裕のある連中は、マンドリンかベース・ボールに凝つてゐる。
戦争は要するに危険なスポーツであつた、ジャバは気候のよい所であつた。
愛国的興奮を感じながら女を買うのは結構なことであつたと皆が云つていえう。
知識階級の矜持は、既にない。あれば、誰が憎悪と反感とに気が狂わないで、あの馬鹿げた、チンドン屋のやうに金具の光った、文化と理性との敵、軍国主義の制服を身に纏って、にっこり笑った写真など撮れたであらうか。
いくらか、迷惑も感じたらうし、勿論生命の危険も感じたことであらうが、そんなことが、怖るべき年々の、怖るべきと云ふ意味では、断じてない。
しかも、戦争を正しい意味で体験しなかった者が民主主義革命の意味を正しく理解する可能性は、寸毫もない。
本来知識階級たるべき若い世代が、真に知識人たる資格を自ら放棄し、知識人たる見かけの資格を、大学のユニフォームや、労農派も相変わらずだねと云った類の無意味な科白に求めてゐる光景程絶望的滑稽はなからう。
戦争の「怖るべき」体験に立って、民主主義革命を説く者は、今や、それが誰に理解されるかと云ふことを、反省すべき時機に達した。
知識階級の中で、それを理解する者は、少いであらう。
共通の体験を有しない以上、一応了解された論理も、空々しく響く他はないであらう。
彼等は、民主主義は結構だが、ストライキで迷惑を蒙るのは真平だと云ふ思想以外の凡ゆる思想を拒絶してゐるやうに見える。
民主主義革命のイデオローグ、真に理性のために語る一切の者は、戦争の怖るべき体験が所謂知識階級の中にはなく、従って到底理解されることのない自らの孤立を自覚しなければならない。
この状態は、戦前に似てゐる。
軍国主義はすべての階級から孤立した少数の例外的知識人を忽ち圧倒したのだ。
今日も、未だ怖るべき年々は、終らず、盲目的意志と野蛮な感情とは、未だ一掃されず、反革命のためには多くの機会がある。
憲法は改正されたが、法律は社会の現実に裏付けられなければ、空文に等しいであらう。
ワイマール憲法の運命が、此処で、再び繰返されないと、誰が保証するか。戦争の「怖るべき」ことを、真に体験した者でなければ、又その故にファッシズムの危険を知るのみならず、危険を防ぐために有効な力を持たうとする者でなければ、誰が日本の民主主義の将来を保証するか。
孤立した少数者、その力を持たない選良の善き意志は、擬似知識階級の利己心を動かさない。当代のカスサンドゥラは、怖るべき年々の体験に依って、トゥローヤの市民に聞く耳のないことを、胆に銘じた。この孤立を破り得なければ、語ることは、語ることは無駄であり、希臘人の木馬は何度でも我々の祖国に引き込まれ、我々の自由や人権や理性は再び踏みにじられるであらう。
しかし、この孤立は、破り得る、少なくとも破らうと試みなければならぬ。戦争の体験は、少数の知識人に怖るべきものであつが、日本の人民、―家を失ひ子を失ひ、親を失つた、日本の人民にも怖るべきものであつたはずだ。
だまされ、搾取され、今又インフレーションに依つて敗戦の経済的負担を負はされようとしてゐる日本の人民大衆、恋人を失つた少女、親を失つた浮浪児、子供を失つた日本の母性は、少なくとも、怖るべき年々と我々が云ふ時、その言葉の意味を、資本家、官僚、地主、その息子である大学生たちよりも、よりよく理解するであらう。
それは、怖るべき体験があつたからだ。人間の生命の失はれることを怖れないものが、如何にして精神の暴力に対する価値を理解し、トマス・マンを正当に―と云ふのは、読んだ通りをそのままに成程もつともだと感じること以外の意味ではないが、正当に読むことが出来るであらうか。
日本の人民は、やがて、トマス・マンを知らなければならぬ。マンが日本で理解されるとすれば、マンの体験を有しない擬似知識階級に依てではなく、戦争の悲惨を、素朴な形でだが、最も痛切に味はされた人民に依つてであらう。
民主主義にために、再び反革命に成功の機会を与へないために、知識人は、力を獲得しなければならず、現実的な方法を発見しなければならない。
之は、趣味の問題でも、イデオロギーの問題でもなく、怖るべき年々の体験と社会的責任の問題である。
人民のために語り、人民と共に進み、人民の中で闘ふ以外に、道はないのだ。
各自の能力に応じ、各自に適した方法を通じて怖るべき年々を再び来させないために、否、今も続いてゐる怖るべき年々を打ち切るために。
戦争は、凡ゆる青春を荒廃させた、既に無力であつた日本の知識階級は、戦争とインフレーションとに依つて、今や、消滅の危機に瀕してゐる。
それを救ふ道は、人民の中に己を投じ、人民と共に再び起ち上るより他に、あり得るであらうか。
優れた、しかし少数の知識人にとつて、任務は、ただ一つ、嘗て人類の教師ティベリアドの湖畔に叫んだ如く、来れ、我に従へと、云ふ以外にあらうか。」

言葉と戦車をみすえて
ISBN-10: 4480092382
ISBN-13: 978-4480092380
加藤周一





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